Title
近世琉球における寺院の諸相
Author(s)
深澤, 秋人
Citation
史料編集室紀要(25): 21-40
Issue Date
2000-03-16
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/8263
Rights
沖縄県教育委員会
史料 編 集 室 紀 要 第
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号(
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)
近 世 琉 球 に お け る 寺 院 の 諸 相
探滞 秋人'
は じめ に 近世琉球 の仏教 は、古琉球 において仏教が果た した役割 と比較 して消極 的 な評価が され て きた。そ こでは、仏教が 「衰退」
「堕落」 した とされ ることが多い ものの、根拠が明示 され るわけではな く、長いあいだにわたって停滞 した状況が続いた。 ところが、近年では そ う した状 況 に変化 が生 じ、従来の観念的な解釈 に対す る批判的検討 も開始 されている。 (1) 知名走寛氏 は、琉球社会 における僧侶 の諸活動 を明 らかにす る とともに、首里王府の仏 (2) 教 政策 の変遷 を論 じている。豊見 山和行氏 は、1
8
世紀前半 に確立 した王権儀礼 にお ける (3) (4) (5) 「三 ケ寺」、崇元寺、龍福寺の位置づ けに言及 している。小野 まき子氏お よび筆者 は薩摩 (6) にわたった遍参僧 の具体像 に迫 ってい る。 この ように近世琉球 における仏教 は、琉球国王 の王権 をめ ぐる国家 的祭紀、僧侶 の活動 とい った視点か ら見直 しが進みつつある。 一方、個 々の寺院の状況 については、『那覇市史資料篇』第2
巻 中の7
那覇の民俗、『同 通史篇』第1
巻前近代史所収 の関係項 目が1
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8
0
年代前半 までの代 表的な成果 として存在す る。 しか しなが ら、 これ までは 『球陽』や 『琉球 国由来記』 などの編纂史料 を典拠 として お り、それぞれの寺 院の具体像 について論 じた ものは必ず しも多 い とはいえないのが現状 であ る。 た とえば、若狭 町村 に位置 した護国寺の講堂では渡唐使節の 「誓詞」が挙行 され、同寺 には1
8
4
6
年か ら1
8
5
4
年 にかけてベ ッテルハ イムが滞在 していた。 また、西村 の臨海寺 は、 (7) その立地か ら渡唐船 をは じめ とす る琉球往来船の航海安全 を祈願す る場 であるとともに、 帰唐船の船改 めにおいては琉球 ・薩摩双方の役人が出張 る公安施設 としての機能 を果 た し ていた。一方、奥之 山の龍洞寺 は、那覇港 に到着 した船舶の乗船者が伝染病 に感染す るな ど した場合、患者 を隔離す る施設で もあった。 さらには、真和志 間切天久村 に位置 した聖 硯寺 は、ペ リー艦隊の地上要員の滞在施設 と して王府か ら提供 され、ペ リー艦隊の出張所 (8) と しての機 能 を果 た している。 この ように、寺院は 「本来」の役割のほか に も多様 な表情 を垣 間見せ る空間であった。1
9
8
0
年代後半以降、面 目を一新 した といって も過言ではない近世琉球史研 究の背景 とし て、基本史料があいついで刊行 された ことがあげ られ る。そ こで本稿 では、 これ らに収録 された寺院関係史料 を活用 し、近世琉球 における町方の寺院の様相 について述べ てみ るこ ★ ふかざわ あ きと (史料編集室)_21-史料編 集 室紀 要 第
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とに したい。右 にあげた寺院のほかに も、関連史料が存在す る安 国寺 ・広徳 寺 。広厳寺 ・ 東禅寺 の例 を取 りあげてみたい。 1.近 世 琉 球 の 寺 院 をめ ぐる全 体 状 況 ここでは町方 を中心 とす る寺院の全体状況 を概観 してみたい。薩摩侵攻以前の寺院の状 況が うかが える史料 として、1
7
世紀前半 に成立 した 『琉球神 道記』が存在 す る。巻4
で は、安置 されてい る本尊 によって、3
2
を数 える寺院が以下の11に分類 されている。 奉安置釈迦牟尼仏道場一円覚寺 ・天界寺 ・建善寺 ・相国寺 ・報恩寺 奉安置文殊師利菩薩道場-龍福寺 多門天王道場一天王寺 観世音菩薩道場一崇元寺 ・慈恩寺 ・五徳院 ・龍翻寺 ・潮音寺 ・大徳寺 ・東善寺 ・西来院 ・ 清泰寺 ・桂林寺 ・福寿寺 千手観音道場一梯伽寺 ・千手院 阿弥陀如来道場一西福寺 ・建忠寺 薬師瑠璃光如来道場一天龍寺 ・東光寺 ・乗寿寺 ・広徳院 大聖不動明王道場一安国寺 地蔵菩薩道場一妙厳寺 ・地福院 ・成徳院 虚空蔵菩薩道場一金福寺 弥勘菩薩道場一普門寺 このなかで、 もっとも多いのが1
1の寺数 を数 える観世音菩薩道場 であるこ とがわかる。 また、弥勤菩薩道場の普門寺の項 には 「本ハ観音ナ リ今ハ弥勘」 と記載 されてお り、かつ ては観音が安置 されていた ことが知 られ る。 同書巻5
には、神宮寺 であるつ ぎの9
寺が見 える。波上 ノ権現護 国寺 ・洋 ノ権現 臨海 寺 ・戸棄那権現神応寺 ・天久権現性元寺 ・末好権現満寿寺 ・普天間権現神宮寺 リヽ幡菩薩 神徳寺 ・伊勢大神長寿寺 ・天満天神長楽寺である。 以上、 『琉球神 道記』では41
の寺 院 を確認す ることがで きる ものの、1
8
世紀前半の 『琉 球 国由来記』、1
9
世紀後半の 『琉球藩雑記』 な どではその名 を兄いだす ことがで きない も のがあ る。近世琉球の2
7
0
年 間にお よぶ期 間で は、寺 院の数 にこそ大 きな差異 はない もの i,い の、新 たに建立 された もの、廃寺 となった ものなど変動があ ったことが わか る。 (10) 知名走寛氏 は、近世琉 球 にお ける首里王府 の仏教 政策 を5
期 に区分 してい る。第1
期 は、1
61
1年か ら向象賢が摂政 に就任す る1
6
6
6
年 までの約5
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年 間、第2
期 は、向象賢の摂政 在任期 間にあたる1
6
6
6
年か ら1
6
7
3
年、第3
期 は、1
6
7
4
年か ら察温が三司官 に就任す る1
7
2
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年 までの約5
0
年 間、第4
期 は、察温 の三司官在任期 間にあたる1
7
2
8
年か ら1
7
5
3
年、そ して 第5
期 は、1
7
5
3
年か ら1
8
7
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年の琉球処分 にいたるまでの約1
2
0
年間である。 各時期 の状況 はひとまずお くとして、 ここでは第 1期 と第3
期の特徴 について、氏 に し たが って述べ てみ たい。第 1期 で は、1
6
0
9
年 の薩摩侵攻時 に戦火 を受 けるな どして荒廃-2
2-史 料 編 集 室 紀 要 第
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し、 なかには廃寺 となった寺院 も存在 した ようである。その一方で、建立や再建、改修が 頻繁 に行 われている。 この時期 の特徴 として、首里王府が積極的 ともいえるほど寺院復興 を推進 している点が あげ られ る。
『琉球神道記』成立後 の状況 といえ よう。第3
期の特徴 は、い くつかの寺院で施設の充実 。整備が はか られたことにあ り、仏教 による王権強化 に 、=、 向けた寺院の荘厳化 である可能性がある と述べ ている。豊見山和行氏が明 らかに した よう に、国王崇拝儀礼 が確立 したのは1
8
世紀の前半である。興味深い指摘 といえ よう。 さて、1
71
3
年 に成 立 した 『琉球 国由来記』巻1
0
「諸寺 旧記」、巻1
1
「密 門諸寺縁起」
(
『琉球史料叢書』 第 1巻)か らは、1
8
世紀前半段階で存在 した臨済宗 ・真言宗の寺 院 を 知 ることがで きる。知名氏の区分 によれば、第3
期の状況 を反映 した ものである。両宗派 あわせ て4
5
の寺院が存在 した。 臨済宗 は3
4
の寺院が存在 したが、31
の寺院は 「三 ケ寺」 の末寺 として編成 されていた。 分類 してみ るとつ ぎの ようになる。 円覚寺-崇元寺 ・祥雲寺 ・桃林寺 ・照大寺 ・西来寺 ・長寿寺 ・広厳寺 ・東禅寺 ・清春寺 ・ 興禅寺 ・報恩寺 ・樹昌院 ・来光院 ・福寿院 ・紫雲軒 天王寺一龍福寺 ・建善寺 ・仙江院 ・蓮華院 ・広徳寺 ・伍徳院 ・智福院 ・桃呂院 ・玉龍庵 ・ 天慶院 天界寺一安国寺 ・慈眼院 ・大悲院 ・普門院 ・慈照庵 ・寿福庵 円党寺 には1
5
寺、天王寺 には1
0
寺、天界寺 には6
寺がそれぞれ末寺 として存在 した。宮 古 島の祥雲寺、八重 山島の桃林寺、伊江 島の照大寺 (のちに照泰寺)はそれぞれ円党寺の 末寺 となっていたこ とが わか る。 真言宗 には1
1の寺 院が存在 した。護 国寺、臨海寺、神徳寺、神応寺、万寿寺、聖硯寺、 神宮寺、観音寺、光 明寺、頂峰院、大 日寺である。 このなかには、薩摩 にお ける琉球人の \LJ1 菩提寺である光明寺 も含 まれていることが知 られる。大 日寺 は唯一首里 に存在 した真言宗 の寺 院であ った。 また、「諸寺旧記」 の 「禅窟変密 門事」 による と、神応寺 。万寿寺 ・聖 硯寺の3
寺 は、康殿1
0
年(
1
6
7
1) に臨済宗か ら真言宗 に転 じたことが知 られ る。護国寺住 持 である頼 昌法印の 申請 を王府が許可 した ものである。
『琉球神道記』 に見 えるように、 3寺 は権現社 を併置 していることが頼 昌法印 による申請の根拠であ った。 『琉球 国由来記』 が編纂 されてか ら1
6
0
年後 の1
87
3
年 に作成 された 『琉球 藩雑記』 5
(
『沖縄県史』第1
4
巻資料編4
雑纂1
) には、「社寺旧記祭典之式」が収録 されている。そ こか ら得 られた1
9
世紀後半の寺院 をめ ぐる情報 を臨済宗 ・真言宗の宗派別 に まとめた もの が表1・2
である。両宗派で4
2
の寺院が存在 した。 表 1か ら臨済宗 の寺院 は2
6
存在 した ことがわか る。 内訳 は公寺が1
0
、脇 寺 は1
6
であ っ た。 この うち、町方 に位置 した寺院は21
である。注 目すべ きは、1
6
の寺院が存在 した首里 三平等のなかで も、円覚寺 をは じめ とす る9寺が南風之平等の当歳村 に集 中 している点で あ る。 また、久米村 は3寺、泊村 には1寺 を兄いだす ことがで きる。一方、那覇四町では-2
3-史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 若狭町村 に洪済寺が存在す るのみである。境内地が
1
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0
0
坪 を超 える ものは、尚家の廟所 で ある円覚寺 ・天界寺 ・崇元寺のほかに も、久米村 の東禅寺 ・長寿寺があった。 また、脇寺 である建善寺 ・桃 昌院 ・万松院 ・紫雲軒 ・智福 院の住職は、公寺である天界寺 ・天王寺 ・ 崇元寺 ・龍福寺 ・祥雲寺の住職が兼任 していたことも知 られ る。 なかで も、智福院の住職 を祥雲寺の住職が兼任 していることに注 目 したい。 表 1.
「社 寺 旧記祭 典之式」(
『琉球藩雑 記』 5) にみ える臨済宗 の寺 院一覧 境 内地 住 職 な ど 1080坪余 住職 要宗 長老/照雲坊 主 東谷西堂/ 亭坊 主 徳温西堂/法堂住職 真定長老 400坪余 住 職 待 元 長老/ 照 堂坊 主 道元西堂 1080坪余 住職 了道 長老 1230坪余 住職 瑚 堂長老 500坪余 住 職 透雲 長老 500坪余 住 職 大貫 長老 400坪余 住職 祖道長老 100坪余 住職 丹 山長老 190坪余 住職 相川長老 400坪余 住職 朗 門長老 寺院
名 所 在 円覚寺 首里 当歳村 天王寺 首里 当歳村 天界 寺 首里金城村 崇元寺 泊村 力 龍福 寺 浦添 間切仲 間村境内 安国寺 首里寒水 川村 慈眼 院 首里立岸村 照泰寺 伊江 島 祥雲 寺 宮古 島 桃林 寺 八重 山鳥 東禅 寺 久米村 蓮華 院 首里 当歳村 慈光寺 首里 当歳村 西来 院 首里金城村 興禅 寺 首里 当歳村 広徳寺 首里 当歳村 元 中寺 首里 当蔵村 洪済寺 那覇若狭 町村 建善寺 首里 当歳村 桃 昌院 首里 汀志 良次村 方松院 首里 崎 山村 紫雲軒 首里 金城村 智福 院 西原 間切石嶺村境 内 長寿寺 久米村 伍徳 院 首里 当蔵相 盛光寺 久米村 1100坪余 隠居 紫衣 400坪余 隠居紫衣 100坪余 隠居紫衣 100坪余 隠居紫衣 600坪余 隠居 紫衣 200坪余 隠居 紫衣 300坪余 隠居 紫衣 清仁長老/ 同宿1 園山長老/ 同宿1 閑雲長老/ 同宿1 成 隠長老/ 同宿1 祖 山長老/ 同宿 1 活仁 長老/ 同宿1 玉倦 長老/ 同宿1 人/下人1人 人/下人1人 人/下人 1人 人/下人 1人 人/下人 1人 人/下人1人 人/下人1人 180坪余 紫衣 道昔長老/ 同宿1人/下人1人 800坪余 当分 天界寺住職 了道長老 400坪余 当分 天王寺住 職 元長老 400坪余 当分崇元寺住 職 瑚堂長老 190坪余 当分龍福 寺住 職 透雲長老 100坪余 当分祥雲寺住 職 相川長老 1500坪余 黄衣 洞州長老 500坪余 紫掛落 柴 山長老 300坪余 黄衣 古着長老/下人1人/黄衣僧2人/ 下人2人/黄衣僧19人 ※点線で区切 られている上部が公寺、下部が脇寺 表 2か らは、真 言宗の寺 院が16を数 えたことがわか る。公寺 ・脇寺 ともに8寺ずつであ る。 この うち町方 に位置 したのは1
0
の寺院である。久米村 の5
寺が もっとも多 く、那覇四 町では若狭 町村 に3
寺、西村 ・東村 に1
寺ずつが存在 した。「密 門諸寺縁起」 に見 えた大-24-史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 日寺 は ここで は兄 いだせず
、1
9
世紀後半 の段 階で は首里 に真言宗 の寺 院は存在 しなか った ようで あ る。境 内地が1000坪 を超 える もの は神応 寺 ・神宮寺 ・聖硯寺 ・西福 寺 であ った。 脇 寺 で あ る西福 寺 ・金剛寺 ・東龍寺の住 職 は、やは り公寺である聖硯寺 ・神宮寺 ・護国寺 の住 職が兼任 してい る。 表2.「社 寺 旧記祭典之式」(
『琉球藩雑記』 5)にみ える真言宗の寺院一覧 寺院名 所 在 境 内地 住職 な ど 護 国寺 那覇若狭 町村 400坪余 臨海寺 那覇西村 200坪余 神応 寺 真和 志間切識名村境 内 1100坪余 神宮寺 宜野 湾間切普天 間村 境内 1300坪余 遍照寺 西原 間切末吉村境 内 400坪余 神徳寺 美和 志 間切安里村境 内 300坪余 聖硯 寺 真和志 間切天久村境 内 1100坪余 観音寺 金武 間切金武村境内 500坪余 住職 覚兵法印/知事 盛演西堂 住職 石逢法印 住職 盛応座 主 住職 石祐 法 印 住職 盛海法 印 住職 盛宣座 主 住職 其啓座 主 住職 盛 山座 主 龍渡寺 那覇奥 (読) 仙寿 院 久米村 海歳院 那覇若狭町村 善興寺 久米村 護通 院 那覇若狭 町村 西福 寺 久米村 金剛寺 久米相 乗龍寺 久米村 山 900坪余 200坪余 200坪余 900坪余 500坪余 1100坪余 500坪余 300坪余 隠居紫衣 盛長座 主/ 同宿1人/下人1人 隠居紫衣 盛章座 主/ 同宿 1人/下人1人 隠居紫衣 盛重座 主/ 同宿1人/下人1人 紫袈裟 石逢法印/下人 1人 黄衣 頼源座 主 当分聖現寺住 職 真啓座主 当分神宮寺住職 石祐法印 当分護 国寺住職 覚兵法印/黄衣僧 1人/ 下人1人 ※点線で区切 られている上部が公寺、下部が脇寺 また、両宗 派 をあわせ て考 える と、 町方 における寺院の分布 は、首里 の当歳村 とな らび 8寺が存在 した久米村 に多か った ことが わか る。薙正7年 (1729)には以下の7寺が存在 (13) した ようであ る。東禅寺、東寿寺、酒泰寺、西福 寺、松林寺、東龍寺、金 剛寺 である。東 禅 寺、西福 寺、東龍寺、金 剛寺 は 『琉球藩雑記』 に も見 える。 なお、那覇四町では若狭 町 村 に集 中 してい る こととともに、泉崎村 には寺院が存在 しなか った こ とが知 られ る。 ここで、近世期 の史料 に見 える町方の寺 院の様相 をい くつか紹介 してみ たい。 まず、渡 唐役 人が渡唐 準備期 間中に行 った 「順礼
」 をあげてみ たい。道光30年 (1850)に北京大筆 l‖・ 者 と して渡唐 した田里筑登 之親雲上 の公務 日記 「田里筑登之親雲上渡唐準備 日記」 同年5
月1
9
日条 には、「順礼
」 の対象 となった宗教施設の リス トが見 える。 - 参 詣 所在 之通 二而候 也 波 之 上 (御 ロ ロ ニ而御 壱 ヶ所 ) 護 国寺 (仏 殿 ) 天尊 堂 (五 ツ御 拝 ) 海蔵 院 洪 済寺 -25・史料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 臨海寺 (仏殿) 荒神堂 下之天后宮 上之天后宮 (渡唐菩薩 ・大菩薩 ・関帝王) 龍王堂 (五 ツ御拝) 察姓之堂 (御拝所弐 ヶ所) 東寿寺 (堂小) 東禅寺 内兼久 (弁才天) 長寿寺 天久寺 (御官並仏殿) 崇元寺 八幡御宮計 ※ ( )内は割書 察姓之堂 と見 えるのはいわゆる忠尽堂である。「諸寺旧記」では、清泰寺 として円覚寺 (15) の末寺 に編成 されてし',たことが知 られる。同 日条の記事では、通常時の渡唐役 人の 「揃 所」 は波之上拝殿 であったが、異国人が護国寺に逗留 していたため、洪済寺 に変更 となっ ていることがわか る
。「
順礼
」の リス トにも波之上 と護国寺が見 える ものの、右の理由か ら実際 には参詣はなされず、臨海寺拝殿か ら波之上権現 と護国寺 にむかって 「御拝」 を2 回行 ってい ることが知 られる。また、各所 における 「御拝」や 「御 門々」 を出入 りする際 には 「金鼓」が打 たれていたが、崇元寺だけは例外 となっていた。 ところが、 この時は天 尊堂 と洪済寺で も同様の措置が とられていた。理由はやは り異国人が護国寺 に逗留 してい るためであった。 異国人 と寺院については、威豊5年 (1855)にフランス商船が来航 した際 に作成 された 「仏船来着井仏人逗留付而之 日記」 (『琉球王国評定所文書』第11巻) にも関係史科が収録 されている。そこでは、聖硯寺に滞在 していた3
名のフランス人神父が護国寺のイギ リス 、1い 人宣教 師 を幾度 とな く訪問 していることがわかる。 さらには、「日本他領之船漂着之時御用帳」 (『沖縄県史料』前近代5
漂着関係記録)の 「日本他領之船漂着之時勤方之次第」 には漂着人 と寺院をめ ぐる条項が含 まれている。 -漂着人 よ り那覇 ・久米村之内宮寺参詣之願 申出候ハ ゝ、摂政 ・三司官承届、御在番所江茂那 覇役 人 を以御 間合中上、足軽壱人 ・聞役壱人 ・御国船頭壱人 ・作事壱人警護相付参詣仕 らせ 候専 一護 国寺 ・臨海寺 ・内金官此三 ヶ所江参詣仕置候 弥右例 二申渡候事 「那覇 ・久米柑之内」 と限定 されているのは、「他領 (薩摩藩以外)」の漂着人が那覇に 護送 され、 なおかつ 「陸宿」で介抱 される場合は、那覇四町お よび久米村か ら選定 される ことになっていた ことによるものである。滞在 中、漂着人が宮寺参詣 を希望 した際には、 (17) 護国寺 ・臨海寺 ・内金宮 に限って許可 されていたことがわかる。参詣 には琉球側か らは聞 役 ・作事、薩摩側 か らは足軽 ・御国船頭が同行 したようである。 このほかに も、万寿寺 (のちに遍照寺)・龍福寺 ・神宮寺 ・観音寺 ・照泰寺 などは科人 の寺人に使用 されていた。2.
首里の安国寺 ・広徳寺
それでは、近世琉球における個 々の寺院について述べてみることに したい。首里 に位置 した寺院の うち、特徴的な様相 を見せ る ものに太平山安国寺 と天龍山広徳寺がある。「諸 寺 旧記」 の妙高山天界寺の項 目による と、安 国寺 は天界寺の末寺であるこ とがわかる。-2
6-史料 編 集 室 紀 要 第
2
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号(
2
0
0
0
)
(18) 『球 陽』 巻7
尚貞王6
年 (康輿1
3.1
6
7
4
)
条(
4
6
8
)
にはつ ぎの ように見 える。 安国寺を東宮の南地に移建す。 景泰年間、尚泰久重、輔臣をして地を首里久場下の地に 卜せ しめ、此に安国寺を創建 し、以鷺 山 ・周確を延 き、読経説法 して以て国家泰平を祈るの処 と為す。故に其の寺を名づけて太平山 安国寺 と日ふ。其の壇、観音の木像を奉安す。嘉靖丁巳、其の寺己に荒廃 を致す。万暦丙申、 寺院を重修 し、亦興道を致す。嗣後、百官各々資財を指 して屡次修茸す。是の年に至 り、此の 地に移営す (中山坊大街の南に在 り)。四 もに石垣を囲み、寺院の前に新に仏殿 を構へ、即ち 不動明王像を奉ずo康鷹丙子年に至 り、尚純王、高 く御筆の蚕額を懸け、以て崇信を為す。 景泰年 間(
1
4
5
0
年∼1
4
5
6
年) に首里久場 下 の地 に創建 された安 国寺 は、嘉靖丁 巳(
1
5
5
7
午 )の段 階 では荒廃 していた ようであ る。 しか し、万暦丙 申(
1
6
1
6
年) には再興 され、1
6
7
4
年 (康興1
3
)
にいたって中山坊大街 (綾 門大道)の南 の地 に移設 され、新 たに不動殿 が 創建 され た ことが わか る。康 輿丙子 年 (康興3
5・1
6
9
6
)
には尚純王 (公 カ) によって扇額 が 懸 け られ た ことが見 える。 なお 「諸寺 旧記」 に よる と、廉興3
7
年(
1
6
9
8
)
には 「良材」 を挟 んで 「造営」 が行 われ、「丈室」 は 「宏麗」 をほこっていた こ とが知 られ る。 一方、広 徳寺 は弘治年 間(
1
4
8
8
年∼1
5
0
5
年) に浦添家 の私寺 と して創建 される。一時期 荒廃 してい た ものの、『球陽』巻6
尚質王1
3
年条(
3
4
3
)
による と、1
7
世紀前 半 に尚寧王妃 に よって再興が はか られた こ とが わか る。南風 之平等 当歳村 に位 置 し、 「首里古 地図」 で は蓮小 堀 ・興禅 寺 ・円覚寺 と接 してい る。
「諸寺 旧記」 の福 源 山天王寺 の項 目に よる と、 天王寺 の末寺 であ る ことが知 られ る。
『球陽
』巻7
尚貞王6
年条(
4
7
1) には、広徳寺 につ い て もつ ぎの ように見 える。 広徳寺の堂を創建す。 康,P.q甲寅、尚弘毅 (大里王子朝亮)、許悉有るに因 り、資銀を指 し一堂を本寺の左 に創建す。 甲成年に至 り、世子尚純公、普護群生の四字の御書遍額を賜ふ. (19) ここで は、康 興 甲寅(
1
6
7
4
年 ) に尚弘毅 が 「資銀 を指」す るこ とに よって、「本寺 の 左」 に一堂 が創建 された こ とが わか る.2
0
年後 の 甲成 年(
1
6
9
4
)
には、世子 尚純公 によっ て扇額 が下賜 されてい る。両寺 に変化 のあ った1
6
7
4
年か ら1
6
9
8
年 にい たる期 間は、知名氏 の 区分 に よる と第3期 にあたる。寺 院の施設充実 の一環 として とらえるこ とがで きよう。 (20) ところで、すで に宮城栄 昌氏が明 らか に している ように、首里 の寺 院は江戸上 りや中城 (21) 王子 の上 国 に際 して任命 された楽生 の合宿所 となっていた。
「中華歌 師」 に任命 された久 米 村 出身者 を師匠 と し、寺 院で 「中華歌」 の教 習が行 われてい たので あ る。
『久米村系家 譜』 (『那覇市史資料 篇』第1巻6家譜資料2) に見 える師匠経験者 の譜 をま とめた ものが 表3であ る。 乾 隆年 間 には、安 国寺お よび広徳寺 で5回 にわた って楽生の教習が行 われ ていたこ とが わか る。安 国寺が使用 されたのは、乾 隆1
2
年(
1
7
4
7
)
、同2
7
年(
1
7
6
2
)
、 同5
4
年(
1
7
8
9
)
の3
回で あ った。一方 、広徳寺 が使用 され たの は、乾 隆1
6
年(
1
7
5
1)、 同3
7
年(
1
7
7
2
)
の2
回であ った。両寺が 同時 に使用 され る ことの ない点が特徴 と してあげ られ る。-2
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史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 表3.『久米村系家譜』 に見える 「中華歌」の教習状況 師匠名 任命時期 ・教習期間 教場 備考 鄭亮宋 乾隆12年 5月16日∼ 安国寺 師匠には察光祖 も/ 3名体制 鄭鴻勲 乾隆12年 5月16日- 安国寺 師匠には察光祖 も/ 3名体制 察光祖 乾隆16年 8月26日∼翌年 5月 広徳寺 鄭亮宋 乾隆16年 8月12日-翌年 5月 広徳寺 鄭鴻勲 乾隆16年 8月12日∼翌年 5月 広徳寺 梁国碗 乾隆16年 9月8日∼ 広徳寺 任命は乾隆16年 8月26日 葬任徳 乾隆27年間 5月25日∼同29年 5月 安国寺 任重一任徳 鄭展猷 乾隆27年 6月3日∼同29年 5月 安国寺 任命は乾隆27年 3月28日 梁廷権 乾隆27年 3月28日∼ 安国寺 「館子首里
」
梁国疏 乾隆27年 3月28日- 安国寺 「毎日日朝至夕教授」 察任徳 乾隆37年正月∼翌年 4月 広徳寺 梁国税 乾隆37年正月23日-翌年 5月 広徳寺 「館首里」 察任邦 乾隆37年正月∼翌年4月 教場は 「兼城親方及譜久村親雲 上家」/
「中華躍祖師
」
「歌舞」 梁 淵 乾隆54年 5月∼翌年 5月 安国寺 任命は乾隆54年 4月/ 「賜館干首里」 林家樟 乾隆54年 5月 1日-翌年 5月10日 安国寺 任命は乾隆54年4月19日/ 「賜館干首里」 察任貴 乾隆60年 3月23日∼翌年 5月 大道寺 鄭邦輔 威豊4年 6月18日∼9月? 首里 「指南凡四個月」 師匠 は久 米村 か ら通 ってい たのでは な く、梁廷権 ・梁 国碗 ・梁淵 ・林 家 樺 の譜 に見 える よ うに、教 習期 間 中 は首里 に館 を賜 った ようで あ る。 師匠 の人数 につ い て は、『久米村系 家譜 』 がすべ て を網羅 してい るわ けで は ない とい う前提 はあ る もの の、 3名 ない しは4名 体 制 が とられ るこ とが多 か った よ うで あ る。4
名体制が と られ た乾 隆1
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年 と同27年 の場合 は、任 命 時期 にズ レが あ るこ とが わか る。乾 隆1
6
年 には、鄭亮釆 と鄭鴻勲 が8
月1
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日に任 命 され てい るの に対 して、察光祖 と梁 国魂 は14日後 の8月26日に任 命 され てい る。乾 隆27 年 で は、鄭展 猷 ・梁廷 権 ・梁 国威 が3月28日に任 命 され てい るの に対 して、察任徳 は閏5 月25日に任 命 され た よ うで あ る。 この時 の教 習 は足 かけ3年 にお よんでい る。 乾 隆37年 の場合 は、翌年 の 中城 王子 尚哲 の上 国 に ともな う もの で あ った。 この時 には、 並行 して 「兼城親 方及 譜久村 親 雲上家」 で も 「中華歌舞」 の教 習 が行 われ ていた。 梁 国魂 は3
回連続 で師匠 をつ とめてい る こ とが見 えるが 、家譜 の記述 で はほかの2
名 よ りもひ と 月 ほ ど長 く首里 に詰 め ていた よ うであ る。 L・_・l ほか に も、乾 隆60年(
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には、大 道寺 で教 習 が行 われてい る こ とが知 られ るが、そ の所 在 地 は不 明で あ る。 さ らに、威豊4
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は4
ケ月 にわ た る教 習 が行 われ た もの の 、 『久米村 系 家 譜』 には 「首 里 」 との み あ り、 その場所 は不 明 で あ る。安 国寺か広 徳寺 -28-史料 編 集室 紀 要 第
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の いず れ か で あ る可 能性 が あ ろ う。 この 時 は1
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代 将軍 に対 す る慶 賀 で あ り、威豊5
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月 に薩摩 まで到達 した ものの、安 政大 地震 に よる影響 で延期 され るこ とにな (23) り、翌年鹿児 島か ら帰 国 している。 安 国寺 をめ ぐって は、 このほか に も興味深 い史料 が存在 す る。
『久米村系 家譜』就学源 i_-い の項 にはつ ぎの ように見 える。 嘉慶二十四己卯二月初五 目奉 命倍鄭良弼共為平等所大屋子見習師即走館干首里毎 日農入暮帰 在安国寺請教大酒律例 (館鯨 日給大米一升五合銅銭一貫五百文)翌年九月教習仝竣 <以下略> ※ ()内は割書(
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魂学源 は嘉慶2
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月 に動学人
と して渡唐 し、同 じく勤学人 と して福 川 に滞在 していた鄭 良弼 とともに、 同2
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月 まで 『大酒律例』 を学 習 してい る。帰途、 薩摩へ漂着 し、帰 国 したのは1
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月2
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日であ った。両名 は翌年2
月5
日に平等所大屋子見習 師 に任命 され、安 国寺で 『大酒律例』 の 「講教」 を行 っていることが わか る。教習が 「全 竣」 したのは嘉慶2
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月であ った。 安 国寺 は 『大清律例』 を教習す る場 と して も使用 されていた こ とが わか る。平等所大屋 子見習 を対象 と して教習 を行 う場 が、平等所 ではな く、安 国寺であ るこ とは注 目すべ きで あ ろ う。そ もそ も平等所 は首里三平等 のなかで も北端 にあたる西之平等久場 川村 に位 置 し た。 これ に対 して、安 国寺 は1
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年 に久場 下の地か ら真和志之平等寒水 川村 の綾 門大道沿 い に移設 されてい る。おそ ら くは安 国寺が楽生の教 習の場 として使用 されていた前例 と関 係 しよう。 また、貌学源 は久米村 か ら安 国寺へ通 うので はな く、「走館 干首里」 と見 える ように、在任期 間中は首里 に宿舎 を置 いていた。 この形態 も乾隆年 間 に安 国寺で楽生 の教 習 を行 った時の もの と一致す る。 (26) 宮城 栄 昌氏 は、首里 の寺 院で楽生 の教 習 が行 われ た理 由 を閑寂 で あ る こ とに求め てい る。 しか しなが ら、 閑寂 であるだけな らば寺 院で なければな らない必然性 が あるわけでは ない。実際 に乾 隆37年の場合 は、広徳寺 とともに兼城親方 ・譜久村親雲上 の屋敷で 「中華 歌舞」 の教習が行 われてい る。つ ま り、 閑寂 である ことを もって、安 国寺 と広徳寺が集 中 して使用 され る理 由 とす るこ とはで きない と考 える。それ に も関 わ らず、特 定の寺院がそ の場 となってい る こ とに こそ注 目すべ きで あ ろ う。特 に、安 国寺が嘉慶 年 間 に 『大酒律 例』 の教習会場 となってい ることを考 える と、威豊年 間にいたる まで、特定 の寺院 を 「会 場」 と して使用 す る慣例 が存在 した可能性が あるので はないだろ うか。換 言すれば、特定 の寺 院は 「会場」 と して機 能 していたのである。その うえで、 なぜ安 国寺 と広徳寺が集 中 して使用 されたのか を検討すべ きであろ う。3.
若狭町村 の広厳寺
(27) こ こでは、若狭 町村 に位置 した万年 山広厳 寺 につ いて見 てみ たい。 『南 島風土記』 に よ _29_史料 編 集 室 紀 要 第
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る と、護 国寺 の東南 隅、天尊廟 に隣接 し、薙正8年 (1730)の 「親見世 日記」 の なかに、 「広厳寺前小 堀」 と見 えることが触 れ られてい る。の ちの天尊小堀 であ る。 また、同書 に 掲載 された 「楊 氏仲 地通事系譜」 の墓 地の竿 図 には、 「海南之寺」 の道 向かい に広厳寺 が 見 え る。
「諸 寺 旧記」 の天徳 山円党 寺 の項 目には、 円党寺 の末寺 と見 え る。万暦 年 間の 「兵乱」 に よって廃朽 した ものの、天啓4
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に改修 され、崇禎1
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には 祥岩長老 の隠居 寺 となってい る。 しか しなが ら、 「琉 球資料 」巻7
2と して収 録 され た 「親見 世 日記 乾 隆三十 三子 年」 (『那覇市 史資料 篇』 第1
巻1
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琉球資料 上) に よる と、意外 に も薩摩側役 人 との関係 が深 い寺院であ った ようである。名越左 源太 「琉球在番 井冠船奉行系 図外 こ も段 々書留有之」 (「常不止 集」 島津家文書) では、 9
名 の在番奉行 が病死 (死去) してい る こ とが見 える ものの、埋 葬 地 な どの詳細 は明 らかで ない。 同 日記 か らは薩摩側 の役 人が死去 した際 の 「御葬送」 の様子 を知 るこ とがで きる。乾隆33年 (1768) 7月 に与力の池 田治左衛 門、 同 年1
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月には古奉行 の与力であった有馬武右衛 門があいついで死亡 してい る。 いずれ も先例 の通 りに広厳 寺 に埋葬 されている。 それでは、 7
月26日条 に見 える池 田治左衛 門の 「御 葬送」 の様子 を中心 に見 てみ るこ と に したい。 7月16・17日条 に よる と、池 田治左衛 門は7月2日か ら 「病気」 のため那覇医 者の治療 を受 けていた ものの、病状 が快 方 に向かわないため、16日か らは3名の御 医者 に よる治療体 制 に切 り替 わ っていた ことが知 られ る。 一時 は快復 の兆 しが見 えた ものの、 7 月2
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日酉時分 か ら病状 が急変 していた. なお、 この間の経過 は那覇か ら首里 に対 して逐 一 報告が なされてい た。 -池田治左衛 門事此程之病気養生不和叶只今致死去候、右二付而者先規之通筋 々江御 申出頼存 候、此 旨私 より申出候 、以上 七月廿六日
親見世 萩原喜兵衛 まず、 7月26日付 けで萩原喜兵衛 か ら親見世へ上 の文書が送付 された。池 田治左衛 門が 「只今」死亡 したため、「先鋭之通」 に 「筋 々」へ連絡 して欲 しい との内容 で あ った。 同 日条 に見 える文書 か ら、池 田治左衛 門は寅年 (1734)生 まれであったこ とが知 られ る。享 年 は数 えで3
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才で あ った。 一別紙之通萩原喜兵衛殿 よ り御 申出有之候間取添差上 申候、以上 七月廿六 日 阿嘉親雲上 上運天親雲上 御鎖之側御方 これ を受 け、里 主 ・御物城 であ る阿嘉親雲上 ・上達天親雲上 の両名 は、萩原喜兵衛が作 成 した さきの 「別紙」 を添 えて御 鎖之側御 方へ連絡 してい る。同時 に那覇 四町、 さらには 久米村 に対 して も通達 が行 われた ようである。 -30-史料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) -御与 力池 田治左 衛 門殿只今被成御死去今 日御葬送有之候 間、士之筑登之座敷以上彼御 宿参上 御見舞 帳二書記御送被成候様 、四町江触差通候事 附久米村方江 も此段 致間合候也 通達 は池 田治左衛 門が死去 したため本 日 「御葬送」が行 われることとともに、士族の筑 登 之座敷以上 の者 は 「彼御宿」へ参上 し、「御見舞帳」 に記帳す るように とい う内容で あった。 薩摩側 か らは、萩原喜兵衛の第一報 に続いて、御 附衆 と思われる神戸五郎右衛 門 ・椛山 武左衛門か らつ ぎの ような申請がなされた。 覚 池 田治左 衛 門相果候 二付左之通 申出候 -広厳 寺 内江葬 申度御座候 一三 ケ寺 之内 よ り引導御頼 申度御座候 -血脈調 方之儀 も御頼 申度御座候 -今晩成 刻入棺為仕度候 、右 同断出家一人被為越被下候様頼存候 一葬方之儀諸 品出来次 第今晩中葬 申度御 座候 右諸事先格之通 葬方仕度御座候、此段御 申出頼存候 、以上 七 月廿六 日 神戸五郎右衛 門 椛 山武左衛 門 里主 御物城 両名の要請 は
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項 目にわたっている。 まず、薩摩側 は遺体 を広厳寺 に埋葬することを希 望 していることがわかる。つ ぎに、「三 ケ寺」か ら引導僧 を派遣すること、「血脈調方」 に 加 えて、入棺 に際 して も出家1
人の派遣 を希望 している。入棺は成刻に予定 されていたこ とが知 られ る。葬送 に ともなう 「諸品」 も、整 い次第今晩中に埋葬 したい とい うもので あった。 これ らはいずれ も 「先格」 を踏 まえての ものであるが、薩摩側が 申請 しているこ とに注 目 したい。 これ とは別 に、広厳寺 における埋葬地に関する要請 もなされている。 -広厳寺 内葬地之儀ハ、三島勘右衛 門葬所井御見合在之候梯広厳寺江被仰達置可給候、以上 七 月甘六 日 神戸五郎右衛 門 椛 山武左衛 門 里主 御物城 この要請 も神戸五郎右衛門 ・椛 山武左衛門か ら里主 ・御物城 に送 られた ものである。池 (28) 田治左衛 門の埋葬地 は、三島勘右衛門の 「葬所」 などを勘案 して検討するよう広厳寺へ通 達 してほ しい とい うものであった。 なお、今 回の 「御葬送」 をめ ぐって東村 。西村 か ら選抜 されたス タッフが結成 された。 後 に見 える 「葬送方」であろう。 覚 印 主取東村 嫡子 我都筑登之親雲 上 同村嫡子 儀 間筑登之 同村 嫡子 喜 瀬筑登之 西村嫡子 我那覇 し 同村次男 平安 山 し 右御与力池 田治左 衛 門殿御死去被成候 二付 、葬礼 主取井筆者被仰付可被下候 、以上 七月廿六 日 阿嘉親雲上 上道天親雲上-31-史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) この文書 は里主 ・御物城が作成 し、推挙 した
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名の葬礼主取 ・筆者への任命 を評定所 に 申請 した ものであろう。葬礼主取は東村か ら、 4名の筆者 は東村 ・西村か ら2名ずつ選抜 されている。
「覚」の下 には 「印」 と見 え、 申請通 りに許可 された もの と思 われる。 この 文書 の後 に 「右之通有之候間四町触差通候事」 と見 えることか ら、「葬送方」の結成 は那 覇四町に も通達 されたのであろうか。続いて神戸五郎右衛門 ・椛山武左衛 門の申請 に対す る返答が見 える。 -池 田治左 衛 門殿御死去御 葬送方之儀 二付 、御 附衆御 方 よ り御 申出之書付取添 間合之趣 三司官 江相達 、天界寺江引導被 申付血脈之儀 も調方 申渡候 、且又葬所之儀 も御 申出之通広厳寺境 内 葬送被成候様可被 中上候、以上 七 月廿六 日 里 主 御物 城 迫而御 附衆御 申出之書付致返進候 伊江親雲上 この文書 は、 日帳主取 と思 われる伊江親雲上 か ら里主 ・御物城 に通達 された ものであ る。 さきの御 附衆が作成 した書付 は、里主 ・御物城か ら首里へ送付 され、三司官 に達 した ようである。引導や血脈の件 については天界寺か ら僧侶が派遣 され、埋葬地 も希望通 り広 厳寺境 内 となったことを薩摩側 に伝 えるようにとある。
「御附衆御 申出之書付」 は里主 ・ 御物城 を介 して 「返進」 されたようである。広厳寺への埋葬は、薩摩側の 申請 を受け、琉 球側が許可す る とい う形式 をとっていることを確認 してお きたい。 また、つ ぎの記事か ら 具体的な埋葬地 について も広厳寺 に通達があった もの と思われる。 -池 田治左 衛 門殿御場所場所為御見分、御 附衆神戸五郎右衛 門殿 ・御物城阿養 親雲上 ・聞役照 書名筑登之 ・足軽漆 田林蔵罷越、見分仕候事 広厳寺境内における 「御場所」 を 「見分」す るため、薩摩 ・琉球双方か ら役人が派遣 さ れている。薩摩側 は御附衆の神戸五郎右衛 門 と足軽の漆 田林蔵、琉球側か らは御物城の阿 嘉親雲上 と聞役 の照書名筑登之の合わせて4名である。 なお、別の記事では、御書院奉行 である山川親方 を御悔之上使 として在番奉行所へ派遣 していることが知 られる。 - 王 子衆 ・接 司 ・三 司官衆 ・親方 部 ・御 物奉行 ・中ロ ・吟味役御招 (拍 カ)所里 主所 、引導 僧 ・御見舞 出家衆招 (拍 カ)所平 田親雲上宅江 申付 置候 、此段紙札書認竹 二相挟里主 (所脱 力)前江立 置候専 一話合之諸奉行所宿東村多嘉 良筑登之親雲上宅井 同村我部筑登之親雲上町屋江 兼而 申付 置、罷 下 り次第別 々引付候事 -葬礼 方宿 東村我都筑登之親雲上宅江 申渡候事 ここでは 「御葬送」 に際 して設置 された控所 ・所宿 の所在 を知 ることがで きる。王子 衆 ・按司 ・三司官衆 ・親方部 ・御物奉行 ・中ロ ・吟味役 など、首里か ら参加するメンバー (2()) の 「御抑所」 は里主所であった。 また、引導僧 ・御見舞出家衆の 「拍所」 は平田親雲上宅 であることがわか る。 このことは 「紙札」 に記 され、竹 に挟 まれた状態で里主所前 に立て られていた ようである。一方、「語合之諸奉行」 の 「所宿」 は東村 の多嘉 良筑登之親雲上 -32-史料 編 集 室紀 要 第25号 (2000) 宅 と同村 の我都筑登之親雲上 町屋が あてが われた ことが知 られ る。そ して、 さきに任命 さ れた 「葬礼 方」 の福 は東村 の我都筑登之親雲上宅であ った。
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月5
日に死去 した有馬武右衛 門の 「御 葬送」で も控所 ・所宿 は設置 され た。王子衆 ・ 按 司 ・親方部 ・吟味役 の 「御拍所」 は皇主所 、引導僧 ・御 見舞 出家衆 の 「抽所」 は親見世 (:5O) 後 の外 聞筑登 之親 雲上 宅 、那覇 ・久米村 諸士 の 「拍所」 は竜界 寺知念筑登 之親雲上宅 で あ った。 これ らは同様 に 「紙札」 に記 され、竹 に挟 まれた状 態で里主所前 に立て られてい た ようで あ る。 一方、 「話合之諸奉行」 の 「所宿」 には東村 の故仲村 渠筑登 之親雲上 町屋 が あてが われ た こ とが知 られ る。
「葬礼 方」 の宿 は西村 の故与座筑登宅であ った。首里 か ら参加す るメ ンバ ーで は三司官衆 ・御物奉行 ・申口が見 えない ことに気づ く。 なお、後続の記事 で は、御香 尊銭 之御使者 として御 鎖之側 であ る浜元親雲 上が派遣 され てい る。 同時 に里 主 ・御物城、大和横 目 ・同寄役、御 兵具 当、御 仮屋守、別 当か らも 「短 香 ・青銅」 の 「覚書 目録」が進上 されてい る。 -治左衛門殿広厳寺江御葬送致候二付、西 ・乗 .若狭町三ケ村江払捺 (除カ)仕候様申渡置候 事 「御 葬送」 には那覇 の民衆 も動員 された。西村 ・東村 ・若狭 町村 に対 して掃 除 を してお くように との通達 が出 され てい る。那覇四町の なかで も泉崎村 が見 えない こ とか ら、葬列 が通過 し、広厳 寺 にいた る沿道 にあたる と思 われ る三つの村 が対象 になった ようであ る。 つ ぎの記事 では 「御坂所」 におけるそれぞれの担 当 を知 るこ とがで きる。 -御同人御乗船台之儀調兼候付、御附衆御相談之上当地姦之台二仕合候辛 -同人御塚所座挿者問役 より相調候、尤敷延之儀親見世より借入を以相達候事 但座挿用之諸品持越持戻 り候人足者聞役 より油職人賃銭雇を以相達候也 -同所茶湯之儀親見世 より差出、二才 ・若筆者壱人兼而差遣置候事 池 田治左衛 門の遺体 を広厳寺 まで搬送す る 「御乗船台」 が準備 で きないため、御 附衆 と 相 談 した上で轟が用意 された。 これ は1
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月 に死去 した有馬武右衛 門の場合 も同様 であるこ とか ら慣例 になっていたのであろ う。広厳 寺境 内の 「御塚所座挿」 を担 当す るのは聞役 で あ った。 「敷廷」 は親見 世 か ら借用 した ようである。
「座拓」 に ともな う備 品の搬 出入 は油 職 人が賃 銭雇 に よって動 員 され た よ うで あ る。
「御坂 所 」 にお け る茶 湯 な どは親見 世 に よって用 意 された。担 当 と して二才 とともに若筆者 1人が派遣 された ことが知 られ る。 -御葬送之時、王子衆 ・按司衆 ・三司官衆 ・親方部 ・御物奉行 ・申口 ・吟味諸人者、石門井若 狭町十文字道二而御附衆御両人二両御挨拶在之候二付、十文字二而御帰被成候、御鎖之側浜 元親雲上 ・御物奉行吟味役国頭親雲上者引導僧勤方相済候而被罷帰候、里主 ・御物城 ・大和 横 目 ・御兵具当 ・那覇筆者者御横 目 ・御附衆御一同こ罷帰候事 この記事 か ら、 「御 葬送」 に参加 した琉球側 の役 人 は3グルー プに分 かれ ていた ことが わか る。王子衆 ・按 司衆 ・三司官衆 ・親方部 ・御物奉行 ・中ロ ・吟味諸 人は、「石 門井若 狭 町十文字道」 で御 附衆2名の挨拶 を受 けた後 は十文字 で別 れ、広厳 寺 まで 同行 しなか っ-33-史料 編 集 室紀 要 第25号 (2000) た こ とが知 られ る。御 鎖 之側 の浜元親雲上 と御物奉行 吟味役 の国頭親雲上 は実際 に広厳 寺 まで行 き、 引導僧 の 「勤 方 」 が 済 んだ時点 で辞 去 した よ うで あ る。 そ して 、里 主 ・御 物 城 ・大和横 目 ・御 兵 具 当 ・那覇筆 者 は、 「御 葬送」 が終 了す る まで御横 目 ・御 附衆 と行 動 を と もに した ことが わか る。 -下之天后宮御殿内行灯親見世 より差出候事 -葬礼万灯熔入用次第親見世 より差出候事 一道中より御場所迄相仕舞候迄之灯拒、聞役親見世より請取油職人江相渡候事 さ きに見 えた よ うに 「入棺 」予 定時刻 は成 刻 で あ った。下之天后宮御殿 や広厳 寺 にい た る沿 道 で も、 「御 葬 送」 が終 了す る まで灯姫 や行灯 が と もされ てい た こ とが 知 られ る。 こ れ らの灯姫 は、葬礼 方が必 要 とす る もの も含 めて親見 世 が用 意 し、聞役 か ら油職 人へ渡 さ れ た ようで あ る。 さ らに、以下 に列挙 す るメ ンバ ー に対 して、親見世 か ら2回ずつ 「上御 賄
」
「下賄」 が提供 され てい る。 「御 葬送」へ の参加者 、 あ るい は関係 者 、お よび動員 の対 象 とな った者 であ ろ う。総 勢1
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名 に及 んでい る。 御鎖之側主従/御物奉行 ・吟味役主従/里主 ・御物城/御評定所筆者 2人主従、同公事拝 3人 /葬礼主取1人、同筆者4人/帳当筆者2人主従、同公事拝2人/申口方筆者2人主従、同公 事拝2人/那覇筆者3人、聞役4人、親見世役4人、若筆者3人、庖丁小はん 1人、那覇佐事 6人、親見世下代2人、 日用5人/小細工奉行1人主従、同筆者 1人、同加勢6人、同細工15 人、表具師4人、同下代 1人/普請奉行1人主従、同筆者3人、那覇御材木当2人、木大工1 人、同所佐事、下代 2人/貝摺奉行 1人主従、同筆者 1人、加勢筆者 2人、絵師主取 1人、絵 師4人、同下代2人/御用物座役人2人、同下代1人/銭御蔵役人2人、下代2人 さて 、 「御 葬 送 」 か ら約 1ケ月 が経 過 した8月20日条 で は、故 人 の池 田治左 衛 門 をめ ぐって薩摩側 と琉 球側 との あい だで動 きが あ った こ とが見 え る。 覚 -池田治左衛門墓石建方之儀、死跡引請可相調間柄壱人 も無御座候、重畳之儀奉存候得 とも、 御建方被仰付被下度私 より此段 申出慎 一荒目琉備後表畳四帖、右治左衛門致病死候寝間四帖敷之下新敷御敷替御座在度奉存候、尤御 敷付之時節者御者次第 -右治左衡門罷居候仮屋死後御酒方之儀者急度被仰付度事こ奉存候、右者在番奉行与力相勤居 候池田治左衛門死跡御酒方等之儀、私前 より右之通 申出候間御 申出頼存候、以上 八月廿 日 萩原喜兵衛8
月20日付 けで 萩原 喜兵衛 が作 成 した文書 で は3
項 目にわ た る要請 が な されてい る。冒 頭 で 「墓石建 方」 を許可 してほ しい 旨が述べ られてい る。墓石 の設置 には琉 球側 の許可 が 必 要 で あ った点 を確 認 してお きたい。つ ぎに、治左 衛 門が病死 した4帖 の 「寝 間」 の畳 を 新 し く 「荒 目琉備 後 表畳 四帖」 に敷 きか えたい と希望 してい る。時期 は琉球側 の 「御 考次 (:il) 第」 と してい る。 さ らには、治左 衛 門が滞在 してい た 「仮屋 」 の 「死後御 酒 方」 を行 う許 可 を求 めてい る。 萩原 喜兵衛 は これ らの件 を上 申 して ほ しい と希望 してい るので あ る。 -萩原喜兵衛殿 より別紙之通御 申出有之候間取添差上申候、尤来月十四日治左衛門殿四拾九 日_34-史 料 編 集室 紀 要 第25号 (2000) 相当 り申候間、囲石垣井石塔之儀者其内積調方被仰付度旨御座候間、何分こも被仰付早々御 返答可被仰聞候、以上 附別紙御用相済次第可被相返候 八月廿一日 御鎖之側御方 阿嘉親雲上 上達天親雲上 この文書 は、翌 日の8月21日付 けで里 主 ・御物城が作成 し、御鎖之側御 方- 「別紙」 と ともに送付 した ものであ る。萩原喜兵衛殿 が作成 した文書 には宛先が見 えない ものの、 こ こに見 える 「別紙」 に相 当す る と思 われ、盟主 ・御物城 に送 られ た ものであ ることが わか る。 ここでは、 9月14日が四十九 日にあたるので、 「囲石垣 井石塔」 を造営 す る許可 とと もに、早急 に返答 してほ しい 旨を希望 してい る。 また、附 には結論 が出 され次第 「別紙
」
を返却 してほ しい 旨 も加 え られている。 続 く8月22日条 で は、御 鎖之側 である浜元親雲上が 同 日付 けで作成 した文書が見 える。 里 主 ・御物城 に対 す る返答 であ る。 -池田治左衛門殿御場所石塔井囲石垣之儀、来月十四日四拾九 日相当候二付早々調方可申渡 由、且又寝間敷付畳四帖仕替又者御口 (死力)後清方之儀 も急度可申渡由、萩原喜兵衛殿 よ り委細御 申出二付、各添書を以被申越紙面相達三司官江申開候、都而先例之通調方被申渡筈 御座候、此段可被申上候、為返答如斯二候、以上 但活方 日柄之儀御相談 を以可被申出候、左候ハ 、寺社方江申渡候様二可致候、別紙御用 相済候二付致返進候 八月甘二日 里主 御物城 浜元親雲上 萩原喜兵衛 の要請 は、すべ て許可 され る方向 に決定 した こ とが わか る。同時 にこの案件 は御 鎖 之側 か ら三司官 に上 申 されてい た。3
件 にわた る要請 は、「御 葬送」 の時 と同様 に 三司官 の許可 を要す る ものであ ったのであ る。
「別紙」 も送付 されていた ようであ る。 ま た、但 書 に よって、 「清 方 日柄」 の決定 、実施 にいた る までの経路 を知 るこ とがで きる。 里主 ・御物城 が薩摩側 と協議 した結果 を御鎖之側 に報告 し、御鎖之側 を経 由 して寺社 方へ 通達す る とい うもので あった。 なお、「別紙」 は 「返進」 された ようである。4.
久米村 の束禅寺
最後 に久米村 の永 明山東禅 寺 について触れてお きたい。松尾 山の西南端 、 内兼久 山の北 側 に位 置 し、近 隣 には忠尽 堂が存在 した。「諸寺 旧記」 の天徳 山円党寺の項 目に よる と、 円党寺 の末寺 であ った こ とが わか る。
『南 島風土記』 で は、1
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世紀後半の在番奉行 であ る 新納忠興 (武右衛 門) に関連 す る 「新約氏家譜」 の記事 が引用 されてい る。 貞享三年乙丑二月任琉球在番奉行。同年三月十三 日那覇入津。同三年七月甘西 日、於琉球病 死、享年六十四。法名碧波虚玄居士。葬那覇東禅寺、引導円覚寺石峰和尚 新納忠興 は、貞享3
年(
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8
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)2
月に琉球在番奉行 に任命 され、同年3
月1
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日に那覇へ_35-史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 到着 した ものの
、 4
ケ月後 の7
月2
4
日には病死 した ことが わか る。埋 葬 されたのはほかで もない東禅 寺 であ り、引導僧 は円党寺 の石峰和 尚がつ とめた ことが知 られ る。琉球 で客死 した薩摩側役 人の墓所 が存在 したの は広厳 寺 だけで はなか ったのであ る。 なお、『南 島風 土記』 で は、寛文4
年(
1
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4) 7
月朔 日に病死 した在番奉行東郷権左 衛 門の墓 は、松尾 山 に存在 す る言 い伝 えが あ る と述べ てい る。時期 に よる墓所 の変化であろ うか、あるいは階 層 に よって埋 葬地が区別 されていたのであ ろ うか。 さて、 「福 地家 文書」 (『那覇市史資料篇』第1
巻9
近世那覇 関係 史料) には、琉球王 国 末期 に御物城 をつ とめた高里親雲上唯延 の公務 日記 であ る 「日記 下 高里 親雲 上 同治 十二年発酉正 月朔 日よ り成 二 月迄」が収録 されてい る。そ こには東禅 寺 に関わる史料が含 まれ てい る。同治12年 (1873) 8月3日条 にはつ ぎの ように見 える。 一乗 十 五 日御 奉 行様 ・御 役 々衆於 東禅 寺 月見御 参 会仕 度 、里 主御 同伴 御 奉行 様 直 二御 伺 仕 候 処 、弥御 出被成候段 御 返詞承知仕候付 則御礼 申上 、御役 々衆江 も各御宿参上右之段 申上 、尤 大和横 目茂 二才 と も差遣相達候事 附東禅 寺借 入方ハ兼 而二才 とも差遣候也 8月3日の段 階で、在番奉行 ・御役 々衆 に対 して来 る15日に予定 されてい る東禅 寺での 月見へ の参加が案 内 されてい ることが わか る。東禅寺 は薩摩側 の役 人 を招 いて催 され る月 見会 の 「会場」 と して使用 されていたのであ る。在番奉行 に対 して里 主 ・御 物城が直接 参 加 してほ しい 旨を伝 えた ところ、出席す る との返答 があ った ことが知 られ る。御役 々衆 に 村 して もそれぞれの 「宿」 に赴いて案 内 している。 これ らは二才 を派遣 して大和横 目へ通 達 された。東禅寺 の借 入 については、 あ らか じめ二才が派遣 されていた ようである。二才 は当 日の15日も動 員 されてい る。 8月7日条 に収録 された文書 では、月見会 当 日に用意す べ き肴 の調達方法 が知 られ る。 覚 来十一 月壱 ヶ月 兼城 間切 右 来 ル十五 日御 奉行様 ・御役 々衆於東禅 寺 月見御 参会之時、入用 之肴御 模 之夫銭 高二而者等合 不 申事御 座候 間、右通 前寄 を以手形入御免 被仰付 被 下度奉 願候 、此 旨宜様御取 成可被 下儀奉頼 候 、以 上 酉八月 御 物城 高里親雲 上 こ こで は、 当 日用 意すべ き肴が 「御模 之夫銭高」 だけで は調達 で きないため、「前寄」 に よる 「手形入」 が可能 となる よう御物城 が 申請 してい る こ とがわか る。兼城 間切 を対象 と した11月1ケ月分 の 「前寄」 に よる 「手形入」 であ った。宛先 は取納座 で あろ うか。 寛 一生白魚拾斤 -みはる魚拾斤 右 兼城 間切 -あひる四斤弐合 一ほら魚拾六斤六合 - うなき五斤 -れんこん壱斤 一つ くら四斤 右小棒 間切_36-史料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 一生いか七斤 一大ゑひ四斤 一塩吹月壱升四合 一生たこ八斤 -海生小ゑひ弐斤弐合 一 さくゐ四拾斤 -からし壱合八勺 -芥子五勺 右喜屋武間切 右来十五 日御奉行様 ・御役々衆東禅寺こおひて月見御参会二付入用御座候間、当月夫銭井来 何月夫銭之内引当を以 (前 日 ・当日)早朝寄相納候様、役知所 (小棒 ・兼城 ・書屋武)間切 江被仰付可被下候、以上 八月 御物城高里親雲上印名代 砂辺筑登之親雲上 ※ ( )内は割書 御物城 が行 った 「前寄」 に よる 「手形入」 の請願 は許可 された ようで ある。上 に見 える 品 目が
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月の夫銭 と 「来何 月(
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月 カ)」 の夫銭 に よって調達 され る こ とになった。兼城 間切 の ほか に も小禄 間切 ・喜屋 武間切が対象 とな り、それぞれ 2品 目、 5品 目、 8品 目が 割 り振 られ た ことが知 られ る。御物城用頼 である砂辺筑登之親雲上が、御物城の名代 と し て役知所 へ の通達 を依頼 し、納期 は前 日 ・当 日の早朝 に設定 されていた。 続 く8月10日条 では 「右 二付親見世宮仕 三人相雇候事」 と見 え、 同 日付 けで親見世宮仕 3人が雇 われた こ とがわか る。二才以外 に も、当 日のス タッフ と して親見世宮仕が存在 し たので あ る。 当 日の8月15日条 にはつ ぎの ように見 える。附に よって在番奉行 は病気 を理 由に欠席 し た ことが知 られ る。 -今 日御奉行様 ・御役々衆於東禅寺月見御参会二付、早朝里主御同伴御在番所参上伺御機嫌 仕、八ツ時分里主 ・大和横 目一同差越、七ツ時分御注進中上御出之醐御門内二而御礼式仕候 事 附御奉行様御当病御暇乞二付先例見合御膳弐人前吸物壱ツ弐人前御取肴七寸重壱次焼酎壱 沸差上候也 早朝 、御物城が里主 とと もに在番奉行所-赴 き、在番奉行 の ご機嫌 うかが い を してい る こ とが見 える。 8ツ時分 には里主 ・御物城 ・大和横 自 らの関係 ス タッフが東禅寺 に向か っ た ことが わか る。 7ツ時分 には在番奉行所へ用意が整 った旨の ご注進 を行 ってい る。薩磨 側 の役 人が出発 す る際 には、在番奉行所 の 「御 門内」 で 「御礼 式」 が行 われ た ことも知 ら れ る。 同 日条 で は当 日の 「御献立」 も見 え、大和横 目は 「御 菓子 」 (花 ほ うろ ・藤 む しこ う ・高麗 餅) を持 参 してい る。 この ほか に、薩摩側 か ら中間が東禅寺 に遣 わ された場合 に も焼酎 ・肴が用意 された よ うであ る。 管見 の限 りでは、 この史料 のほか に東禅寺 を 「会場」 として月見 会が催 された例 を兄 い だす こ とはで きな い。 さ らには、薩摩側 役 人 を招 いての月見 会 が恒例 の ものであ ったの か 、「会場」 と して寺 院が使 用 され る ことが多 か ったのか な どの問題 も定 かで ない。 しか しなが ら、東禅寺 は1
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世紀後半 に客死 した在 番奉行 の墓所 で もあ り、琉球 ・薩摩関係 に少 なか らぬ 関わ りを有す る施設 として機 能 していた ようである。-37-史料 編 集 室 紀 要 第
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号(
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おわ りに
首里 の安 国寺 と広徳寺、久米村 の東禅寺で は 「特徴 的」 な使用例 を兄 い だす ことがで き た。 ほか に も寺院ではない ものの、宗教施設 のなか に類例 を兄 いだす こ とは可能である。 た とえば、 「琉球 国要吉抜粋」 (『石室秘稿』 国立 国会図書館蔵) には、康黙4
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年(
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月 に兵具 当であ る儀保筑登之親雲上 が作成 したつ ぎの ような文書が収録 されている。 一兵具御蔵御作事二付、塩婚井御道具今月廿 日波之上拝殿江差越申候間、諸人出入且又彼近辺 火持参不仕候様二久米村中被仰付可被下候。以上。 康畢四拾七年成子五月日記 五月十八 日 兵具当 儀保筑登之親雲上 兵 具御 蔵 の建設 に ともない、「塩婚 井御 道具」 を保管す るための臨時施設 と して、波 之 上官拝殿 が一時利 用 され ようとしてい ることが見 える。 ここでは、兵具御蔵 が どこに建設 され ようと してい るのかは不 明であ る。 これ と関達 し、1
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年後 の康黙6
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年(
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)
の 「詮 議書」 か ら引用 され、 同様 に 「琉球 国安善抜粋」 に収録 され た文書 では以下 の ことが知 ら れ る。① 塩楯御蔵 は御仮屋 内部 に設置 されていた こと、(∋万一火災が発生す れば大惨事 に つ なが る可 能性が あ るこ と、③ それゆえ若狭 町村 と久米村 の境界 へ の移設案が薩摩側 か ら 提 示 された こ とであ る。す なわち、安全面 の問題 か ら、御仮屋敷 地内 に設置 されていた兵 具御 蔵 (塩棉御蔵)の移設案が1
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年 にいたって浮上 したのであ る。 はた して、『球 陽』巻1
1尚敬王1
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年(
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条(
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には、 「石蔵 を若狭 町松林 の地 に 移営 し、火薬 を収貯 す」 と題 す る記事 が見 える。
「鎮守館 (御 仮屋) 内」 に設置 されてい た惰楯蔵 は、康僻丙 申 (康興5
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年) に御物城 に移築 され た ものの、 「江 中」 にあ っ て湿気 が多 いため、翌丁酉(
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年) には再 び 「館 地」 に移 され る。そ して、1
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年 にい た って、「失火達焼」 を防止す るため に若狭 町松林 に移築 されたのであ る。 ここか らも、17
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年 に兵具御蔵 が造営 され た場所 は 「鎮守館 内」 であ った こ とが わか る。薩摩側 の兵具 (32) 管理 をめ ぐる一連 の動 きの なかで、波之上官拝殿 が一時使用 された こ とは興味深い。 寺 院 を含 む宗教施設 が 「本来」 の 目的以外 に使用 され るのは、 なに も近世琉球 に限 られ た こ とで はない。 この ような視座 で町方の寺 院 を検討す るこ とは、近世琉球 の仏教界 にお (:i3) いて個 々の寺 院が果 た した役割 を明 らか にす る とともに、近年、高 良倉吉氏 によって必要 性 が提 唱 されてい る都市研 究 の問題 とも一部 関連 して こよう。そ こで検討 され るべ きテー マ と して、町方の行 政機構 の具体像 、人的組織 と施設 の関係 、公 的施設 の機 能 な どが あ る ように思 う。寺院 をは じめ とす る宗教施設の 「使 われ方」 を検討 す るこ とは、町方 にお け る公 的施設 の問題 と決 して無 関係 で ない と考 える。 ともあれ、本稿 では近世琉球 の寺 院関係 史科 としては これ まで注 目されていない もの に 着 目 してみ た。寺 院 をめ ぐる史料 が 「再発見」 され る端緒 となれ ば幸甚 であ る。 しか しな が ら、史料 を紹介す る ことに とどま り、内容 の割 には冗長 な もの となって しまった。見落 と している史料 も少 なか らず存在 しよう。読者の ご海容 を乞 いたい。-38-史料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 註 (1)知名走寛① 「近世琉球 における僧侶 の活動