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レジャー産業と顧客満足の課題

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Academic year: 2021

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浦安市民にとってのディズニーランド

∼都市生活とテーマパーク∼

(2004/3) 鳩貝 絵里 実践女子大学 生活文化学科 私は、生まれてから現在に至るまで浦安市の市民として生活している。そして、私が暮らす浦安市に立地する 「東京ディズニーランド」に関する卒業論文を書きたいと考えていた。 一口に東京ディズニーランドの研究といっても様々なアプローチの方法があると考えられるのだが、ディズニ ーランドの内部についての論文は、すでに多くの人々が研究しているので、私は1人の浦安市民という違った視 点から、浦安市民にとってディズニーランドとはどのような意味を持つのかということに重点を置き、夢と魔法 の王国であるディズニーランドと現実に人々が生活する浦安市とを対比させながら研究を進めたいと考えている。 また、浦安市民にとってのディズニーランドの位置付けを明確にすることにより、今後の浦安市民の生活と、 浦安市の都市計画に新たな可能性が生まれるのではないかと考える。 第1章 ディズニーランドとの出会い... 1 第2章 浦安市の歴史とディズニーランドの誕生... 5 第3章 浦安市の都市計画...10 第4章 浦安市の風景...12 第5章 都市経営とテーマパーク...20 終わりに...25

第1章 ディズニーランドとの出会い

1983 年春 浦安市民である私が、初めて「東京ディズニーラン ド」に足を踏み入れたのは、1983 年の4月のことであ った。一般オープンに先駆けて、浦安市民は2日に分 かれ、特別招待を受けたのである。アルバムを開き、 空飛ぶダンボに乗っている写真や、父に肩車されパレ ードを見ている写真を見て、懸命に当時の記憶を思い 出そうとはしたのだが、当時の私は一歳半で、やっと よちよち歩いている位であったので、記憶は蘇るはず もなかったが、家族で楽しいひと時を過ごせたという ことを母から聞いた。はしゃぎ疲れたのか、写真に写 る少し疲れ気味の私の顔が印象的だった。 私の両親は、まだ浦安市が「東葛飾郡浦安町」であ る頃からの住人だ。その両親の話では、ディズニーラ ンドが建設されると発表された当時、果たして本当に 開園までこぎつけるのか半信半疑の気持ちだったとい う。そして、たとえ開園することが出来ても、何もな い当時の浦安で巨大な遊園地が成功するのだろうかと 疑問に感じていたという。実際にディズニーランドの ゲートをくぐり、園内を巡ると、それまでの遊園地像 を覆すものであり、兄や私も喜んでいたので訪れるこ とができて良かったと思ったのだそうだ。確かに家族 で楽しいひと時を過ごすことも出来た。しかし、両親 が幼い頃から思い描いていた「夢と魔法の王国」には 遠く、シンデレラ城もパレードも、どこか陳腐なもの に見えてしまい違和感を覚えたのだという。「もし子ど もがいなかったら、場所が浦安でなかったら、ディズ ニーランドへは行かなかったかもしれない。」という母 の言葉が印象的だった。 心躍る特別な場所 浦安市民だというだけで、ディズニーランドに頻繁 に遊びに行くのだろうと言われるが、そのようなこと は決してない。浦安市民だからといって、狂ったよう に頻繁にディズニーランドに遊びに行く人々は皆無に 近い。真実なのか疑わしいが、今でこそディズニーラ

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ンド目当てで浦安市に引っ越してきてしまうという 人々もいると聞く。しかし、浦安市外の人々の方が、 妙にディズニーランドのキャラクターやアトラクショ ンに詳しかったり、年に幾度も足を運んでいることが 多い。私が小学生の頃は、年間パスポートというもの を親から買い与えられているのはクラスでも数人で、 皆から羨望の眼差しを受けていた。ディズニーランド に行く前日は、嬉しくて嬉しくて、興奮して眠れなか ったことを思い出す。 大人になった現在でも、パスポートの価格設定は、 小人3700 円・中人 4800 円・大人 5500 円と少々高め に感じられるが、幼い頃の私にとって、3300 円だった パスポートの値段は大変高額なものに感じられた。そ して、自由に使うことが出来る金額は、ごくわずかだ った幼い頃の私は、頻繁にディズニーランドに訪れる ことは出来なかった。また、子を持つ親としては、同 じ市内にあるといっても子どもだけで出かけさせるの は心配であったのであろう、幼いうちから友人同士で 行くことを禁止している家が多かったのだ。 私の兄は、小学校5年生の頃、友人とディズニーラ ンドに行くことを許可された。計画を練るため、放課 後家に兄の友人たちが集合して興奮気味に騒いでおり、 私まで嬉しい心持ちになった当時の記憶がいまでも蘇 って来る。浦安市の小学生は、大半が小学校高学年か ら友人同士のみでディズニーランドへ行くことを許可 されるのだ。 友人同士でディズニーランドに行く時は、いかに多 くの乗り物に乗るかということが重要視されており、 パレードを見るために並んだり、キャラクターとの写 真撮影もせず、休憩を入れることもなく次から次へと 人気のアトラクションを乗りこなした。ここで言う人 気のアトラクションとは、ビッグサンダーマウンテン やスペースマウンテン、スプラッシュマウンテンなど のスリルを味わうアトラクションのことである。効率 よく多くのアトラクションに乗るために小さな頭を回 転させ、園内を駆けては係員に注意され、駆けては注 意された。園内のアトラクションに並んでいる時、他 の同級生に会い、気恥ずかしい思いをしたということ も懐かしい。 やはり、私たちが子どもだった頃、東京ディズニー ランドというものは、心躍る特別な場所であった。し かし、価格の高さと親からの承諾の難しさの2点が主 な理由となり、幼い頃は、年に数回両親に連れて行っ てもらうまで我慢するしか道はなかったのだ。この結 果は浦安市外の子どもたちとそれほど差は無いと考え られる。当時の浦安の子どもにとってディズニーラン ドはパラダイスであったので、私は両親に、「ディズニ ーには行かないの?」と、ディズニーランドの花火を 自宅のバルコニーから見る度せがんだものである。 現在でも家族で遊びに行った当時の出来事は鮮明に 覚えている。今でこそ、仕事が多忙な時期に連れて行 ってくれた両親の気持ちはありがたく理解出来るが、 両親と行くディズニーランドは休憩が多い上に、乗る アトラクションも観賞するものや、ゆったり出来るも のも織り交ぜられるので、スリル満点の乗り物により 多く乗りたい私や兄は、もどかしい気持ちになりもし た。しかし、現在では家族の楽しい思い出となってお り、当時の家族写真は我が家のリビングに飾られてい る。 現在でも鮮明に思い出す出来事がある。創立記念日 に、母と兄と自転車でディズニーランドのある舞浜ま で行ったという出来事だ。ディズニーランドに到着す るまでには、団地や家々を通過し、鉄鋼団地という工 場が林立する地域を通過しなければならないのだが、 鉄鋼団地の鉄鋼通りと呼ばれるその通りは薄暗く、寂 しい雰囲気が漂い、強烈な排気ガスのきつい匂いが鼻 をつくのだ。得体の知れない魔物かなにかが棲みつい ているのではないかとさえ感じられ、その恐ろしい地 の向こう側に魔法の王国があるというのも疑わしいと さえ思えた。鉄鋼団地の湿った暗い雰囲気は、夢の世 界に行く為の試練のような気がしてならなかった。猛 烈な速さで自転車を夢中でこぎ、気が付くとディズニ ーランドに到着していた。私にとってあの道は、現実 の世界から悪夢、そして夢の世界へと冒険に出かける ような15 分の旅であった。 氾濫するミッキーマウス 先程、年間パスポートの所持率について触れたが、 私は何度か年間パスポートを手に入れたいと思い、母 に交渉したことがある。しかし、母から期待通りの答 えが帰ってくることはなかった。なぜパスポートを買 い与えなかったのかと後に聞いてみたことがあるのだ が、「確かに、ディズニーランドに子どもを連れて行く

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と楽しそうだったけれど、あまり頻繁に行ってしまう と子どもの自由な想像力に限界を作らせてしまうので はないかという不安があったのよ。」と母は言った。 私の母は幼稚園教諭として、また、ダンス指導の教 師として毎日を過ごしていた。母は幼稚園教諭を志し 大学に進んだわけだが、そこで、ディック・ブルーナ ーの作品や、フランシスシリーズなど数多くの海外の 絵本の翻訳者である松岡享子さんに出会い、幼児教育 を学んだのだ。その中で印象的であったのが、ディズ ニーランドから子どもが受ける影響についてだったの だそうだ。進んで与えなくても、ディズニーというも のは氾濫していたので、自ら進んで求める必要はない と感じたのだという。ねずみが二足歩行し、メスとオ スの差はリボンと睫毛、そのねずみに飼われているの は犬、お城と言えばシンデレラ城、白雪姫や不思議の 国のアリスやピーターパンというとウォルト・ディズ ニーのオリジナルの作品ではないにも関わらず、あの ディズニーランドに存在する姿を想像してしまう……。 そのようなことを柔軟に受け止めてしまう子どもが多 いということもまた事実だった。刷り込まれたもので はなく、子どもの発想や感性を母は大切にしたかった のだ。私は、母の思いを聞き、自分が子どもを育てる 立場であったら母と同じことを考え、実行するのでは ないかと感じた。 しかし一方で、子ども側の視点から考えると、ディ ズニーランドという場所は、魅力的な夢と魔法の王国 であったのだった。ディズニーの世界の中で遊ぶ子ど もたちの目は輝いているように見える。 久し振りに小学校時代の卒業アルバムを開いてみた ら、将来の夢を書き込む欄に、「ディズニーランドで働 く人になりたい。」「ディズニーランドのダンサーにな りたい。」などと書いているクラススメートが数人いた。 この子どもたちが書いた夢は、浦安市で育った子ども だからこそ思い浮かんできたのかもしれない。人工的 に作られたテーマパークではあるが、子どもたちに夢 を与えていたことは確かである。 浦安市在住 様々な地域から人々が集まり、初対面であると、や はり、コミュニケーションの始まりは、「どこにお住ま いですか?」である。千葉県の浦安市在住だというこ とになると、多くの人々は、興奮気味にあれやこれや とディズニーランドについて質問攻めにしてくる。浦 安市民であるというだけで、ディズニーランドの知識 を当然のように求められるということは浦安市民の宿 命なのだ。そして、羨ましく思われる対象は、100% と言って良い程、ディズニーランドに対するものなの だ。 その様な中で、興味深いアンケートを行った会社が あることに注目した。マンション販売の長谷工アーベ ストが行ったアンケートで、首都圏で「住んでみたい 街」を駅名で集計したのだ。このアンケートは、首都 圏在住者にインターネット経由でアンケートし、約 1000 件の回答を得たものである。1位は自由が丘駅で、 2位以下は、吉祥寺、鎌倉、三鷹、成城学園前に続き、 新浦安駅が7位という結果だった。長谷工アーベスト は、「都心から離れた雰囲気のある住宅地の評価が高く なっている」という。家族構成別でみると、ファミリ ー層では鎌倉や三鷹、新浦安といった自然環境が良い 近郊、郊外部が上位に入ったのに対し、独身者層では 表参道や恵比寿など都心部の人気が高かった。 浦安市には、JR 京葉線・武蔵野線の舞浜駅と新浦 安駅、そして、地下鉄東西線の浦安駅が開通している。 後々明らかになっていくことになるが、浦安駅がラン キングしないということは少し納得できる点がある。 しかし、舞浜駅周辺には、東京ディズニーリゾートと いう魅力的な場所がある上、新浦安駅と同様に緑も大 変綺麗で、街並みも整備されており、公園や体育館な ど、市民が楽しむことができる施設も充実しているの にも関わらず、新浦安駅がランキングし、舞浜駅がラ ンキングしなかったのはなぜか。それは、人々が生活 に必要とするものを購入する場所が充実していないと いうこと、病院数も少ないということが、ランキング 上位に入らなかった原因と言えるだろう。舞浜ブラン ドは確かにあると思うが、毎日を過ごすには向かない のかもしれない。反対に、新浦安駅周辺には生活に必 要なもの全てが揃い、病院も充実している。新浦安に 一度住み、快適さを味わってしまうと離れられず、再 び浦安市の異なる場所に転居するということが頻繁に 行われている。

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ディズニーランドで行われた成人式 平成 14 年度の浦安市の成人式は、新成人のアイデ アを採用した浦安市からの要請を、オリエンタルラン ド会社が受け入れ、東京ディズニーランドで催された。 その年が初めての試みであった。ディズニーランド内 にあるショーベース2000 という会場で、成人式式典 を催すと言うことで、式典の後は、ディズニーランド 内で一日中遊べるのだということだった。しかし、振 袖でディズニーランド内の乗り物に乗ったとしたら、 汚れることは目に見えている。成人式という重要な節 目の式典にテーマ―パークで遊ばせるのかという声や、 荒れる成人式を防止するためにディズニーランドを利 用するのかなどと非難されもしていた。 予想していた通り、式典が始まると、ディズニーラ ンドの踊りをミッキーマウスやその仲間たちと新成人 は一緒に踊らされた。少し照れつつも、この場所にい るのなら、この時間を楽しんでしまった方が勝ちでは ないかという新成人が多く、ミッキーマウスを手本に 新成人が踊っていた。成人式を荒らす新成人が毎年テ レビで報道されるが、何の混乱もなく、大変な盛り上 がりを見せ式典は無事成功したのだ。私も参加した一 人だったが、出席率は前年度の55%から 72%へアップ し、1878 人の新成人が参加したということだ。 初の試みということもあり、式が終了しショーベー ス2000 を後にすると、数え切れないほどの報道陣が ディズニーランド内に押し寄せていた。ディズニーラ ンドに寄せる関心の高さを思い知らされた。テレビの 報道記者が私に話し掛けてきたのだ。行く手を阻まれ、 諦めてインタビューに応じたのだ。そして、咄嗟に出 た言葉がこの言葉だった。 「初の試みということでしたが今年の成人式はど うでしたか?」 「私たちも浦安市もディズニーランドも二十歳と いうことで、 とても感慨深いものを感じます。」 確かに、自分自身も二十歳、浦安市も市制二十周年で はあった。しかし、東京ディズニーランドは十九歳だ ったのだった。誤った発言をしたことに、インタビュ ーを受けた後に気が付いたが既に遅かった。子ども時 代、大好きでたまらなかったディズニーランドの存在 は、今となっては、間違えてしまうような、その程度 の存在になってしまったのかもしれないと思ったと同 時に、「感慨深い」という言葉が咄嗟に出たと言うこと は、ディズニーランドというものは、確かに今もなお、 私の中に存在していたのだということも思い知らされ た出来事だった。 初めて着た振袖は思いのほか窮屈で、気分が悪くな りそうになり、遊べる状態ではなかったので、私は友 人たちとディズニーランドで遊ぶこともなく、新成人 が髪の毛を振り乱しながら、コーヒーカップでぐるぐ る回るのを横目に見ながら、隣のイクスピアリへお茶 を飲みに移動した。 賛否両論、この成人式には様々な意見が様々な場所 で繰り広げられていた。確かに、大人になる節目の式 は、もう少し厳かな雰囲気の式の方が好ましいとも考 えられるが、自分の中のディズニーランドというもの を再確認することが出来たので、なかなか面白い試み だった。 成人式を終えた日の夕方、ニュース番組を見てみる と、冒頭で、満面の笑みを浮かべて誤った発言をして いる恥ずかしい映像は全国へと放送されたのだった。 このディズニーランドを成人式会場にする試みは、 好評だったようで、3年連続で行われているというこ とだ。成人式の実行委員だった1人は、「僕たちは生ま れたときからディズニーの街という誇りの中で生きて きた。」とステージ上で胸をはりながら言っていた。そ の言葉が耳に残った。

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第2章 浦安市の歴史とディズニーランドの誕生

東京ディズニーランドはなぜ作られたのか 現在では浦安市といえば、東京ディズニーランドを 思い浮かべる人々がほとんどといってよいだろう。浦 安市にあるディズニーランドは世界一の集客率を誇り、 世界的に有名な一大テーマパークとなっている。 では、東京ディズニーランドはなぜ千葉県浦安市に 建設されたのだろうか。その謎を解くには、東京ディ ズニーランドの事情、浦安市の事情、そして、浦安市 で暮らしていた漁民の事情を見て行く必要がある。 漁業の街・浦安 浦安が歴史に登場するのは、平安時代末期とも鎌倉 時代とも言われているが、残念ながら実証できる文献 はない。戦国時代末期、堀江(ほりえ)・猫実(ねこざ ね)、当代島(とうだいじま)辺りに村ができていたこ とが推測されている。 利根川が東京湾に流れ込み、広大な湿地帯を形成し ていた。その後、江戸川や利根川が運んだ土砂が大三 角州を形成し、その沖積洲に人々が住みつき漁業を営 んでいたのだ。 桃山時代、徳川家康が江戸に入府すると、浦安の三 村は行徳領として徳川家の直轄地となった。家康が行 徳領を直轄地としたのは塩田があったためである。浦 安の村々でも塩が作られていたが、早い段階で衰退し てしまったのだった。その後、当代島では大規模な潅 漑用水がひかれ、新田を開発し、農業に力が入れられ た。堀江・猫実も集落の外に新田を広げる一方、漁業 が盛んになったが、当時は治水が充分に行われていた 時代ではなかったので、度々洪水に襲われ大きな被害 があり、漁業権を巡って近隣の村との争いも少なくな かったようだ。 明治 22 年の町村制施行にともない、堀江、猫実、 当代島の三村は合併して浦安村となった。合併時の戸 数は1,040 戸、人口は 5,946 人で、漁業が中心であ ったことから初代の村長の新井甚左衛門という人が 「浦(海)が安らかにありますように」と願いをこめ て「浦安」と名づけたそうだ。 明治 42 年、浦安村は浦安町としてのスタートをき った。東京に隣接しながら三方を海と川に囲まれた陸 の孤島であったため、明治、大正、昭和も戦前まで大 きな発展はなかったのだった。 浦安村の誕生した当時から昭和 15 年の浦安橋開 通まで、浦安は「陸の孤島」と呼ばれ、交通の大変不 便な地域であった。船橋や市川には陸路の交通手段も あったが、東京の葛西とは渡し船や定期船を中心とし た水上交通に頼る生活であった。 漁業は浦安沖が中心だったが、漁法や船の改良によ り、その漁場を富津や羽田沖まで拡大していった。昭 和 25 年頃には千数百艘の漁船が船べりを連ね、その 出漁風景は壮観だったそうだ。浦安は、千葉県の漁場 のなかで一番の海苔の生産地であり、イワシやイカ、 アサリ、ハマグリなどの水揚げ高も昭和 30 年代まで は、千葉県一であった。しかし、昭和30 年頃からは、 漁獲量も減り、海苔の養殖と貝の採取が主体となって いった。ある事件が原因となり、漁獲量は年々減少の 一途を辿ったのだった。 脅かされる漁業の街 浦安の歴史は、水難との戦いであると同時に、自然 環境を破壊する者との闘いの歴史でもあった。浦安が、 東京のごみ処分場にされそうになった事件が三度もあ るのだ。 一度目は昭和4 年、東京の麹町にあった豊国肥料と いう会社が、東京から出る人糞を浦安に運んで、それ を機械乾燥させ肥料にする工場の建設計画した事件で、 二度目は昭和 14 年、東京都が富岡池と呼ばれる池に 人糞を流し込み、自然乾燥させ、それを近在の農家に 売ろうと計画した事件である。また、三度目は昭和39 年、東京都がディズニーランドの建設予定地から1 キ ロメートルも離れていない場所に、ごみの埋め立て場 を建設しようと計画した事件であった。まちを挙げて の反対運動による浦安の町民の大変なパワーに圧倒さ れ、東京は全ての計画を断念したのだった。 更に、この漁業の町として繁栄していた浦安を揺る がす大事件が起こったのだった。この二つの大事件は、 その後の浦安を決定したと言ってもよいだろう。一つ は、キティ台風の襲来であり、もう一つは本州製紙江 戸川工場の汚水放流事件である。 キティ台風は、昭和24 年 8 月に襲来し、浦安町に 壊滅的な被害を浦安に与えた。堤防は崩れ、濁流は田

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畑を押し潰し、猛烈な速さで家々を襲った。その結果、 家屋の全壊・半壊・流失は390 戸にも及んだ。そして、 水害後も赤痢の発生など防疫面でも大変な被害が出た のだ。 本州製紙江戸川工場の事件は、昭和 33 年旧江戸川 の水が本州製紙江戸川工場から出た排水で黒く濁り、 浦安沿岸から葛西沖にかけての海水が変色し、大量の 魚介類が死滅した事件である。驚愕した漁民は、会社 や関係官庁に排水中止や取締りを申し入れたが、被害 は拡大するばかりであった。漁民代表800 人は、国会 と都庁に陳情した帰り工場に赴いたが、会社側が面会 を断わり、監督官庁の中止勧告も無視して操業を続行 したため、漁民は遂に工場内に乱入し、工場側が要請 した機動隊と衝突、重軽傷者、逮捕者を出す大乱闘事 件に発展したのである。この事件をきっかけに、政府 は「公共水域の水質の保全に関する法律」と「工場排 水等の規制に関する法律」を制定・公布しており、戦 後の利益ばかりを追求する行政に対しての警鐘となっ た事件でもあるのだ。また、日本で初めての環境保護 法はこうして成立したのだ。当時、浦安には漁業協同 組合と数多くの漁業同業者組合が組織されていたが、 組合員たちは、漁業の将来に不安を持つようになって いったのだった。 本州製紙江戸川工場の排水事件以降、工場排水や生 活排水によって漁場が汚染されたため、漁場は、京葉 工業地帯土地造成のためとして埋め立てられた。漁場 である東京湾は急激に汚染されて行き、水産物の水揚 げは年々減少していった。不安を覚えたのは漁師だけ ではなかった。なぜならば、町民の多くは、何らかの 形で漁業に関係して生計を立てていたからである。漁 が思うように出来なくなるということは、町全体が失 業状態になる恐れがあったのだ。漁業継続の努力も報 われず、浦安の漁業は衰退して行く道を辿ることにな るのだった。この二つの事件が、水害の無い街づくり と、漁業権を放棄し埋立事業に向かう大きな転機とな ったのであった。 埋め立て事業 そのような中、昭和 34 年頃、日本プラスチック社 から浦安町に対し、海面の一部を埋め立て、東洋一の 遊園地を作りたいという申し出があったのだ。そこで 町では、議会、漁業協同組合の間で海面埋め立てにつ いて協議を進め、昭和 34 年、千葉県に対し、大規模 遊園地建設を主体とした埋立事業の促進を要望した。 埋立事業における土地利用については、浦安地区が国 の首都圏整備により工業用地としての利用を規制され ていたため、「住宅地の造成」、「大規模遊園地の誘致」、 「鉄鋼流通基地の形成」の3 点を基本方針とし、千葉 県事業として埋立事業が実施されることになったのだ。 昭和 35 年、浦安町議会は、街を大きく変える重要 な決定を下した。その決定とは、一部漁業権を放棄し 大三角(おおさんかく)を埋め立て、そこに大人も楽し める遊園地を作るという決定だった。それは、船橋市 の埋め立て地で成功していた、船橋にあった健康ラン ドを模倣してレジャーランドを作ろう、というのが始 まりだった。海の汚染によって浦安は「漁業の町」か ら大きな変化を遂げようとしていたのだ。 昭和37 年に漁業権の一部放棄が決定され、昭和 40 年から第1 期海面埋立土地造成事業が始まり、昭和 50 年に完了した。昭和 40 年代に入って海の汚染はます ます進行し、漁師の間には、漁業を続けて行くのは困 難なのではないかという悲観的な見方が拡大していた。 そして、昭和 46 年、漁民は漁業権の全面放棄を決意 したのだ。昭和47 年から第 2 期海面埋立土地造成事 業が始まり、昭和 55 年に埋め立てが完了した。これ により、行政面積はかつての4.43 平方キロメートルか ら4 倍近い 16.98 平方キロメートルに拡大した。浦安 市の面積のほとんどを占める埋立地は、昭和 40 年か ら昭和55 年にかけて埋め立てられたものである。 埋め立て事業は千葉県企業庁によって行われた。当 時、企業庁は資金繰りが困難だったため、埋め立て工 事を民間の開発会社に発注し、支払いは現金ではなく、 埋め立てた土地の一部を与えるという手法をとったの である。また、早く資金を入手する為に民間の開発業 者や都市基盤整備公団の全身である日本住宅公団にも 土地の権利を売却したのだ。 このように、現物で工事代金を支払う方法は千葉方 式とも呼ばれ、新市街地に京成電鉄や三井不動産、公 団の住宅が多く存在するのは、こうした事情によるも のだ。また、海を埋め立てるにあたっての漁業補償に ついても希望に応じて埋め立て後の住宅用地を漁民に 補償したのだった。 埋め立て事業が完了するまで、数々の事件が起きた。

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利権漁りに熱心な県会議員や、怪しげな不動産会社が 関わる贈収賄事件が相次ぎ、浦安の海は「利権の海」 と非難されたこともあるが、埋め立て工事によって新 たな土地が生み出され、人口も急激に増加し、街には 活気が少しずつ戻っていた。埋立地に建設された住宅 地が流入者の良い受け皿になったということも見逃せ ない点である。 それぞれの思惑とディズニーランド事業

埋め立て事業は着実に進行していたが、街づ

くりの中心に置いていたディズニーランド誘

致計画は全く進まずにいた。オリエンタルラン

ド社の親会社である三井不動産は、一千億円以

上を使用して巨大な遊園地を計画しても、失敗

に終わると考えていたのだ。そのため、子会社

であるオリエンタルランド社は計画を進めら

れずにいた。

一方で、ウォルト・ディズニー社には、ディズニー ランドを誘致したいという話が世界中から 20 以上き ていたのだ。そこには日本でディズニー映画を配給し ていた東宝を窓口とする三菱地所が含まれていた。オ リエンタルランド社を、様々な国の会社が持ってくる 話の一つとしてしか受け止めてはいなかったのだ。ウ ォルト・ディズニー社にしてみれば、海外にディズニ ーランドを作るということは途方もないことだった。 アメリカ国内でさえ、ウォルト・ディズニーの構想通 りにディズニーランドを作るということは難事業だっ た。その上、文化の異なる国民がディズニーランド事 業をどのように受け止めるかわからない。それだけで はなく、ディズニー社の資金と労力に問題があった。 ウォルトの後継者としてディズニーワールド内に建設 を予定していた「エプコット」(未来型実験都市)に大 きな力を注ぎたいと思っていたディズニー社にとって、 海外にディズニーランドを作るということは、集中力 をそいでしまうことに繋がるのだ。しかし、映画やテ レビ部門の収益が上がらなかったこと、入場料の値上 げをしなかったということから、エプコットの建設を 進められるほどの資金が調達できていなかったため、 エプコット建設の妨げにならないのならば、海外の企 業からの誘致を受け入れようというよう、ディズニー 社の考え方が変化してきたのだった。つまり、資金や 労力は提供せず、リスクも負わず、一定のロイヤリテ ィーは貰うといものだった。 オリエンタルランド社と三井不動産との確執や、ウ ォルト・ディズニー社のエプコット建設の優先など、 数々の困難を乗り越え、また、三井不動産の反対を土 壇場でオリエンタル会社が押し切り、ウォルト・ディ ズニー社との契約にようやくこぎ着けた。そして、デ ィズニーランド誘致が本決まりになったのは、昭和49 年に入ってからのことだった。 ディズニーランドを日本に進出させるにあたって、 富士山の見える御殿場も候補地の一つとなっていたが、 御殿場への誘致を手がけようとしていた三菱地所が、 ディズニー社が出した契約事項に難色を示したのだ。 また、ディズニーランドが富士山の魅力に負けてしま うということと、都心からの遠さもディズニー社側か らしてみればネックになっていた。そして、何より、 ディズニー社の会長や社長が、実際浦安の埋立地に降 り立ち、都心からの近さや、周囲に何もない埋立地で あったことなどに大変感激したことにより、舞浜をデ ィズニーランド建設地に決定するという決断が下され たのだ。 先に述べた、漁場の水質汚染などの関係から、既に 漁業権放棄が進んでいたため、漁民たちは、街自体が 失業してしまうのを防ぎたいという事情があった。ウ ォルト・ディズニー社とオリエンタルランド社の事情 としては、レジャーランドを作るには広大な土地が必 要であり、その上、大消費地である東京付近であると いうことと、交通の便がよいということが条件であり、 その点、浦安市は、東京からも大変近く、高速道路や 鉄道など交通の便もよかったのだ。更に、埋立てによ り、広い何も開発していない地域を確保することがで きたのだ。一方、浦安市にとっても埋立地に新たな街 を作る上で中心となる施設が必要であった。そして、 漁民に対して、テーマパークを誘致するという条件で 埋立地にしたという経緯もあり、是が非でも成功させ なければならなかったのだ。そこで、世界的に知名度 が高いディズニーランドは、完璧ともいえる対象だっ たのだ。 このように、ウォルト・ディズニー社とオリエンタ ルランド会社、浦安市、漁民の三者の事情がうまく重 なりあったことで、東京ディズニーランド建設が可能 になったのだ。

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東京ディズニーランドの誕生と成功 その後、建設は急ピッチで進められ、ディズニーラ ンドのオープンに合わせるかのように昭和 56 年、浦 安町は浦安市へと衣替えをした。そして、1800 億円を 投じた巨大なプロジェクトは昭和58 年 4 月ついに完 成したのであった。 「ディズニーランドは、人々に幸福を与える場所、 おとなも子どもも、ともに生命の驚異や冒険を体験し、 楽しい思い出をつくってもらえるような場所であって ほしい……」というウォルト・ディズニーの言葉が基 本におかれている。東京ディズニーランドも、その理 念を忠実に受け継いでいる。あらゆる世代の人々が楽 しめる「ファミリー・エンターテイメント」を基本理 念に誕生した東京ディズニーランドは、それまでの、 子どものための遊園地とは全く異なった、新しいテー マパークとして出発したのだ。 東京ディズニーランドは、シンボルであるシンデレ ラ城を中心に、園内はショッピングができるワールド バザール、中心広場のセントラルプラザ、その周りの アドベンチャーランド、ウェスタンランド、ファンタ ジーランド、トモローランドの4つのアトラクション エリアで構成される。その後、クリッターカントリー やトゥーンタウンなどが加わり、パーク内が、冒険や 童話、未来など人々に親しみやすいテーマにそって現 在7 つのテーマランドでできている。それぞれテーマ が決められ、そのテーマに従い、園内の施設の種類や デザインがなされるのだ。また、映画の技術の集大成 としてスタートしたディズニーランドは園内全体を 「大空を背景にした巨大なステージ」と考えている。 従業員はキャスト=出演者、来場者はゲスト=お客様 という設定で「夢と魔法の国」を作りあげている。園 内をパークと呼ぶものの、公園ではなくステージと捉 らえているのだ。したがって、遊園地ではなく劇場の 舞台装置作りとしての造園設計がなされたのだ。 大成功の後では忘れがちになってしまうが、開園前 後の東京ディズニーランドへの世間の見方は、相当否 定的あるいは慎重なものが多かった。前例のないディ ズニーの海外展開だったことと、あのような壮大なス ケールの事業を考えれば、誰もが疑問視してしまうの も自然と言えるのかもしれない。更に、ウォルト・デ ィズニー社とオリエンタルランド社の契約は、ディズ ニー社側が有利な契約であった。共同経営はしないが、 高いライセンス料は貰うという、成功するとは思えな い状況でのスタートであった。 その後、千葉県浦安市舞浜に開園した東京ディズニ ーランドが大成功を収めたのは周知の事実である。開 園から現在に至るまで、日本のテーマパーク業界の頂 点に君臨し続けている。ディズニーランドは、施設全 体を現実から離してしまい、アメリカの娯楽文化によ って育まれた物語の世界に、観客を引き込み、魅了さ せるということで成功を収めていると考えられる。 また、東京ディズニーランドが開園した 1983 年は テーマパーク元年と呼ばれ、ディズニーランドの成功 に刺激とバブルの追い風により、日本では、多くのテ ーマパークが建設された。開園当時は話題になるが、 人気を持続させることは大変難しいもので閉鎖に追い 込まれた所も少なくない。また、総理府が行った「国 民生活に関する世論調査」では、「今後の生活の力点を どこにおくか」と言う質問に対して、それまでの一意 だった「住生活」を抜き去り、「レジャー・余暇生活」 がトップに踊り出た。この調査にも表れているが、人々 は本当の豊かさはモノだけにあるのではなく、心の充 足があって初めて達成されるものであることに気付い たのである。こういった動きがレジャーをより活発に、 多様化させる方向に拍車をかけたのであろう。かつて の日本人に強かった、遊ぶことを悪徳とし、勤勉を美 徳とする価値観は次第に弱まってきた。人々は程ほど の豊かさの中で、自己の個性に合った生き方を志向す るようになったのである。 「東京ディズニーランド」に続き、海と冒険をテー マにした「東京ディズニーシー」や、ショッピングセ ンターとシネマコンプレックスの「イクスピアリ」、オ フィシャルホテル5つ、ディズニーブランドホテルの 「ディズニーアンバサダーホテル」、「東京ディズニー シー・ホテルミラコスタ」などのホテル、そしてすべ てを結ぶモノレール「ディズニーリゾートライン」で 構成される「東京ディズニーリゾート」という滞在型 リゾートを作り出している。 テーマパーク・遊園地は景気低迷の影響を受け、集 客数が伸び悩んでいる中、東京ディズニーランドと東 京ディズニーシーを中心とした、東京ディズニーリゾ ートは、入場者数を増加させ、ますます盛り上がりを

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見せている。東京ディズニーランドの入園者数は、現 在、年間1,700 万人に達し、東京ディズニーシーと合 計して年間2500 万人もの人々が夢と魔法の世界に浸 っているのだ。 浦安市民に与えた影響 東京ディズニーランド開園によって、東京ディズニ ーランドは全国に「浦安」の名が浸透し、知名度アッ プや、イメージアップに貢献した。しかし、浦安の名 が広まったと思われた後も、 東京都舞浜市などと誤解 している人々が多くいたことも事実だ。 プラス面がある一方で、マイナス面も当然あった。 東京ディズニーランドが開園したことによる浦安市民 の不満の多くは、交通問題であった。朝と深夜の舞浜 付近の渋滞は毎日であるが、特に大渋滞に巻き込まれ るのは、祝日や日曜日、特別なイベントがある日であ る。回避策として、市内の渋滞問題を防ぐため、高速 で東京方面から来た車は迂回させられている。なぜ観 光客は素直に従うのかというと、ディズニーランドに 遠ざかるように「ディズニーランド方面」という誘導 標識があるからだ。また、現在では、東京ディズニー リゾートの急激な発展に伴い、舞浜周辺地域の交通処 理対策が大きな問題となっている。 京葉線が開通する前までは、東西線浦安駅が最寄り の駅であった。駅から離れた場所にディズニーランド 行きのバス乗り場があったため、人々は駅前のタクシ ー乗り場に長い列を作った。これにより、浦安駅の夜 のタクシー不足も問題になったのだ。このタクシー不 足に目をつけて、夜になると非合法の乗合タクシーが 出現したのだ。タクシーは、ディズニー帰り客を運ぶ のに忙しく、浦安市民が長い時間並ぶのは珍しくなか った。 京葉線が開通すると、ディズニーランドへの人の流 れは大きく変化した。地下鉄浦安駅から向かう観光客 は減り、直通バスもやがて廃止された。路線バスはあ ったのだが、もはや駅前商店街には昔の活気は見られ ない。いつのまにか非合法のタクシーも姿を消した。 浦安駅前商店街が栄えていたのも一時的なものであっ たと言える。 東京ディズニーリゾートの客はホテルを含めて舞 浜地区や新浦安地区で食事から買い物まで済ませてし まう。行っても新浦安止まりなのだ。地下鉄東西線浦 安駅からディズニーランドに行く人はほとんどいない と言ってよいだろう。浦安駅周辺には、昔ながらの釣 り舟や屋形船などがあるが、ディズニーの観光客とは 余りにも客層が異なるのだった。 舞浜などの一部の地域では、風が強い日にディズニ ーランドの花火の燃えかすが民家に流れ、住民からク レームが出たことにより、天候が悪くないにも関わら ず中止になることがある。 しかし、様々な問題を抱えつつも、多くの浦安市民 は東京ディズニーランドを受け入れている。「衰退して いた漁師町浦安の印象が、東京ディズニーランドの影 響でイメージアップに繋がり、人々の出入りも増え、 街全体に活気が出てきた。」と当時市長であった熊川好 生氏は、当時の様子をこのように述べていた。 ディズニーランドが浦安市にもたらしたのは、イメ ージアップだけでなく、土地の値段も近辺の都市より も高くなり、 住宅の人気も家賃も高くなった。しかし それによって、地域からの人口流出をくい止め、人口 流入を呼ぶことにも成功した。税収や雇用、市の知名 度アップにも貢献した。ディズニーシー開園に先立ち、 浦安市民を招待するなど地元への還元も忘れなかった。 また、夜の八時半に浦安市内の様々な場所から、美し く、煌びやかな花火を見ることが出来る。 東京ディズニーランドが開業して平成 16 年の4月 で 21 年目を迎える。巨大テーマパークは地域を大き く変え、浦安市は、多大な恩恵を受けた。しかし、デ ィズニーランドによって浦安市全体が繁栄しているわ けではないのだ。特に、舞浜駅が東京ディズニーリゾ ートの玄関口になったことにより、東西線浦安駅の商 店街は空洞化が進み、厳しい状況である。ディズニー ランドに関するあらゆる商標権・版権は、米ディズニ ーランド本社とその代理人であるオリエンタルランド 社が握っており、浦安の地元業者は、ミッキーマウス はおろか、その名称でさえも無断では使用できないと いうことが大きな痛手となっている。浦安市の地元商 店街への波及効果は一時的であったと言える。

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第3章

浦安市の都市計画

浦安市の街づくりの考え方 浦安市は、境川を中心とした旧市街地の再整備、浦 安市全体の都市イメージアップを目標として、埋立地 における東京ディズニーランドを中心とした新しい都 市づくりと、旧市街地における歴史性と伝統に立脚し た街づくりの2 つの柱として、均衡のとれた都市とし て活性化することを目指している。 現在、浦安市では、市民の意見を反映させた長期的 な都市計画の考え方を定めるものとして、「浦安市都市 計画マスタープラン」というものが、浦安市により作 成されている。マスタープランでは、「人が輝き躍動す るまち・浦安」を目標とし、その実現のため、都市整 備分野に関する総合的な指針として施策や事業を整理 し、「水と緑に囲まれた快適環境都市」、「利便の高い暮 らしを支える安全都市」、「多様な機能が生み出す魅力 あふれる産業都市」の3つの都市像を中心に、環境に 配慮しながら、快適で安全な魅力あふれる街づくりを 推進している。また、埋立地の都市計画が進展する一 方、住宅地は成熟化を迎えるなど、浦安は都市化の新 たな局面を迎えている。短期間に形成されたベッドタ ウンから住み続けたい土地へ、古い浦安のよさを生か しながら、そして、長期休暇が少ない日本の特徴を生 かした「アーバンリゾート=都市型リゾート」の新し い魅力を持つ都市へと時間をかけながら成熟していく ことが期待されている。 浦安市の都市構造 浦安市は、元町・中町・新町地域の住宅ゾーンと、 鉄鋼流通などの興業が集積している鉄鋼通り・港・千 鳥ゾーン、そして、レジャーランドを中心とした舞浜 のアーバンリゾートゾーンから構成されており、都市 基盤などの整備は、おおむね完了の段階に入っている。 土地利用の状況は、元町地域と中町・新町地域で大 きく異なる。元町地域は住宅・商業・工業系が混在し ており、特に、当代島・猫実・掘江の市街地では過密 化している。 一方、市域の4 分の3を占める埋め立て地である中 町・新町地域は、戸建住宅・中高層の住宅からなる住 宅地と工業地・レクリエーション用地が明確に区分さ れている。 東野地域は、利用していない土地も多くあり、湾岸 道路に面することから、流通、運輸サービスの施設立 地が進み、住宅との混在化が進んでいる。また、新町 地域の日の出・明海・高洲地区は地区計画が定められ、 土地利用が明確に方向付けられている。 浦安市の土地利用 浦安市は、地域の個性、環境との共生、地域のニー ズに対応しながら、合理的な土地利用を促進させるた め7つの地域を設定している。 ①専用住宅地ゾーン 低層住宅と中高層住宅を、街区、または、地区単 位で区分するとともに、公園や日用品店舗などの 身近な生活関連施設、豊かな緑やオープンスペー スを確保した良好な住宅地としての専用地域 ②複合住宅地ゾーン 住宅を主体としながら、商業施設や工場などと調 和した住宅地として利用する地域 ③商業・業務ゾーン 浦安市周辺、新浦安駅周辺及び、舞浜駅周辺の商 業業務施設が集積する地域 ④沿道利用型複合ゾーン 幹線道路の沿道は、隣接の土地利用に配慮しなが ら、商業・業務・サービスなどの施設による土地 利用を図る地域 ⑤工業ゾーン 鉄鋼通り・港・千鳥地区については、周辺住宅地 との調和を図りながら、流通・加工・業務の施設 立地を促進するとともに、その維持保全に努める 地域 ⑥アーバンリゾートゾーン テーマパークやホテル・複合商業施設などが集積 する舞浜駅の南側を対象とした地区は、魅力ある 地域となるよう、周辺住宅地との調和を図りなが

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ら土地利用を促進している地域 ⑦海辺交流ゾーン 日の出・明海・高洲地区の臨海部は、墓地公園や 海浜公園のほか、商業施設やレクリエーション施 設などの土地利用によって市民や来街者が親し み、賑わい、交流することができる地域 浦安市の都市整備の現状と方針 元町地域は、戦火を逃れたこともあり、数多くの史 跡が残っているが、木造住宅が密集し、緊急車両の進 入も不可能なほど、狭い道路が多く残されているなど、 都市基盤の未整備地区がある。また、当代島や北栄(き たさかえ)では、中小の工場が活力のある街の一端を 担っていたが、近年、中高層マンションへの利用転換 が進んでおり、住宅と工場の混在化とともに、中高層 住宅による日照などの環境上の影響も問題化している。 中町地域は、都市基盤は整備されており、元町地域 の過密した市街地のような問題はないが、昭和 50 年 代に中町地域に建設された中高層住宅団地においては、 建物の老朽化に伴い、維持・管理などが今後の大きな 課題となっている。 新町地域も、土地区画整理事業によって都市基盤の 整備が進んでおり、地区計画によって良好な市街地形 成が方向づけられている。 活き活きとした魅力のある街を形成するため、環境 に配慮しながら地域特性を活かし、市民が安全で快適 に生活できる市街地整備を推進し、元町地域について は、浦安の歴史を勘案しながら、防災性の強化や過密・ 混在を解消するため、地区の特性や課題に応じた手法 により整備に取り組むとともに、オープンスペースの 確保も推進する。 中町地域については用途の顕在化、敷地の細分化な どによる市街地環境の悪化を防止しながら、良好な市 街地を保全し、形成して行く。 新町地域については、複合機能の街づくりを基本に、 土地区画整理事業及び、宅地開発事業などにより、道 路・公園などの公共公益施設を整備し、良好な市街地 形成を目指している。 今後の街づくり 浦安市は、昭和 40 年代以降、急激な市街化ととも に大きく変貌した。昭和 56 年には町制から市制に移 行した。 小さな漁村から、東京のベッドタウン、更には、東 京ディズニーランドに象徴されるアーバンリゾート都 市としての性格も併せ持つようになった。第二期埋め 立て地の複合機能の街づくりが進む一方で、第一期埋 め立て地の住宅は成熟化を迎えるなど、浦安市は都市 化の新たな局面に立たされている。短期間に形成され たベッドタウンから住み続けたい街へと、古い浦安の よさを生かしながら、アーバンリゾートの新しい魅力 を持つ街へと時間をかけながら成熟して行くことが期 待されている。

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第4章 浦安市の風景

様々な性格を持ち合わせる街 東京ディズニーランドで浦安の街の全てが説明で きるかといえば、決してそうではない。漁村として栄 えていた街や、その周辺に広がる様々な建物が混在す る街、計画的に設計され住宅地が多い街、倉庫や工場 が並ぶ街、そして、東京ディズニーランドを中心にホ テルが立ち並ぶ街など、個性的な街が組み合わさって 出来ているのが浦安なのだ。様々な性格を持ち合わせ た地域が集合体となって1つの街を形成しているとい うことが言える。様々な特色を持つ個性豊かなまちが 集合しているからこそ奥深く、大変興味深いものにな っているのだと感じる。また、浦安市には、様々な問 題を抱えながらも、「現在」と「過去」がほどよく調和 しているのだ。これから、そのような浦安市の風景に ついて見て行きたいと思う。 現在の浦安市 以前は、埼玉県の浦安市や、東京都舞浜市などとい ったように間違われることがあったが、最近では、完 全に「千葉県浦安市」としてきちんと知れ渡っている。 浦安市は、東京湾の最奥部千葉県の西部に位置し、 東と南は東京湾に面しており、北は千葉県市川市と陸 続きで接し、西は旧江戸川を挟んで東京都江戸川区に 隣接している。水辺に接する割合が非常に高いので、 水害を防ぐため、堤防に守られた街でもある。市内の 堤防の長さを合計すると38.4kmにも及ぶ。もともと の土地は現在の4分の1程度であった。残りの土地は 埋め立て事業により作られた土地である。人口は 14 万人程で、高齢化が全国の中で低い都市でもある。 「緑あふれる海浜都市」がキャッチフレーズである が、その通りに、街の中は緑と水と親しめる施設が充 実している。特に、新浦安駅や舞浜駅周辺は噴水や人 工的に出来た川などが見られる。現在では、大型マン ションの玄関口や広場が噴水で飾られているというの も珍しくない光景である。 未だに、漁村であった頃の名残は浦安市内の各地で 見ることができ、浦安市の中心を境川が流れ、市内に は趣のある橋が数多く掛かっている。水辺には多くの 船が浮かび、休日ともなると、朝早くから釣りを楽し む人々を多く見かける。 浦安市といえば、東京ディズニーリゾートの所在地 として有名で、5 つの東京ディズニーリゾートのオフ ィシャルホテルがひしめき、新たなホテルの建設計画 も進んでいる。東京ディズニーリゾートは浦安を都市 型リゾート地へと塗り替えたのだ。海外からの観光客 も多数訪れ、ディズニーワールドの立地する米国フロ リダ州オーランド市と姉妹都市協定を結んでおり、国 際都市浦安が形成されている。 東京都心への通勤が便利な住宅地である一方、人口 が増加する人気の理由は、ただ単に立地の良さだけで はない。教育関連の行政サービスには定評があり、特 に市立図書館の充実度では全国でもトップクラスであ る。図書館の利用率も全国で日本一だそうだ。浦安市 内に数ある図書館の中で規模が最も大きい中央図書館 に、私も、幼い頃から父や母に連れられ、日曜日に通 ったものだが、学校の課題を調べたり、図書館の自習 室で勉強したりと、大変お世話になった。図書館へ出 かけると熱心に読書をする市民と出会える。 浦安のホテル群は、多くのテレビドラマの舞台とな り、市のイメージが又一段と上がった。CM 撮影やテ レビ撮影も行われ、市内を歩いていると撮影している 様子を見ることがしばしばある。こうした浦安市の背 景に魅力を感じ、浦安に移り住んだという住民も多く いるそうだ。 漁村の名残を残す街 浦安発祥の地である、猫実・堀江・当代島の道路は 曲がりくねり、建物の規模も小さい地域となっている。 また、歴史が大変古く、この三つの地域が基礎となっ て浦安が成立した。 このことから、もとからあった街ということで、「元町」 と呼ばれている。昔ながらの場所といった感じで、少々 ごちゃごちゃした雰囲気がするのが特徴である。 この街はかつて漁村として栄えていた地域であった。 江戸前鮨に浦安産の魚介類をネタにしていたり、浅草 海苔が浦安産の海苔を原料としていたり、深川めしの あさりが浦安産であったりと、浦安が江戸の食文化の 一端を担う重要な地域であった。 猫実と堀江の間を流れる境川周辺は、漁村であった 頃の浦安の名残がある。境川は浦安の人々にとって生

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活に欠かすことが出来ない場所であった。境川はドブ 川と化してしまったが、最近では、境川を綺麗にしよ うという活動が市民の中で活発である。未だに綺麗に なったとは言い難いが、休日には、釣りやボート遊び などをする市民の憩いの場となっている。そして、大 塚邸という藁葺き屋根の漁村住宅も浦安市によって保 存され、公開されている。また、浦安市郷土博物館は、 漁師町であった当時の街並みを見事に再現し、小さい 子どもからお年寄りまで楽しんでいる。 四年に一度開催される祭りなどで盛り上がるのもこ の地域である。堀江、猫実、当代島の神社から、100 基もの御輿や山車が担ぎ出され、大変な盛り上がりを 見せる。清龍神社や豊受神社、宝城院、花蔵院など、 数多くある神社や寺は浦安の歴史を感じることが出来 る。 東西線浦安駅前に小規模のロータリーはあるものの、 周辺の商店街は混み合った作りをしている。浦安駅周 辺では、計画的な都市開発が進められず、沿道には建 築物が建ち並び、安全ですれ違えるような道幅の確保 が難しい状況にある。昭和 63 年にJR京葉線が開通 するまでの5年間は、東西線浦安駅だけが、ディズニ ーランドへの唯一の最寄り駅だった。ディズニーラン ド行きの直通バス乗り場は500 メートルも遠くに離れ ていために、タクシーを利用する人々も多くいた。夜 はディズニーランド帰りの人々が道に溢れ、露店が並 び賑わいを見せた。現在は撤去されてしまったが、浦 安駅の改札に、ガラスケースに入ったミッキーマウス の縫いぐるみが展示してあった。 東西線浦安駅開通後は、アパートやマンションなど が建設され、鉄筋コンクリートの建物が増加し、漁村 の面影は薄れていった。しかし、浦安の産業としての 漁業は衰退したものの、この地域では、釣り舟屋があ るということや、築地魚市場に勤務する人々が多いと いうこと、鮨屋が多いということも漁村であった名残 といえよう。以前と比較して少なくなってしまったが、 海苔、焼き蛤や焼きあさり、佃煮などが有名で浦安駅 周辺に点在している。各商店では、浦安市が推進した 「一店逸品運動」で個性的な商品を作り上げ、より活 気のある場所を目指している。浦安駅前にある浦安魚 市場は個人客も利用することができ、特に年末は買い 物客で賑わう。 元町では、今まで培ってきた歴史や伝統を大切にし ながら、新しい時代に向けて住民が安心して生活がで きるようにしなければならない。特に、安心して歩け る歩道の整備が必要である。救急車や消防車が入れな いような、住宅が密集している地域の大掛かりな再開 発が必要である。再開発においても、将来どのような 建物を建て、そこでどのような生活が営まれて行くか というような、しっかりとした街の目標を地域の人々 が共有し、きめ細やかな街づくりを行って行くことが 重要である。 交通事情の変化により姿を変えた街 浦安市は交通事情の変化によって大きく姿を変 えていった街でもある。先に記した昭和 15 年の浦安 橋開通までは、東京に最も近い場所に位置しながら、 陸上交通の発達から取り残されていたため水上交通に 頼らざるを得なかったのだ。江戸時代、利根川や江戸 を結ぶ運河が開通しており、その要に位置していたの が浦安であり、隣の市川市の行徳でもあった。莫大な 利益を失うことを恐れた水運業者が鉄道建設に反対し たのだ。しかし、時代は水上交通の時代から鉄道の時 代へ、更に、自動車の時代へと移り変わり、浦安は交 通の不便な「陸の孤島」となってしまったのだった。 鉄道の開通は昭和 44 年の地下鉄東西線前線開通ま で待つこととなる。東西線開通は、浦安と都心をわず か 17 分で結ぶこととなり、東京のベッドタウンとし ての都市化が始まった瞬間だった。漁業の衰退による まちの疲弊を影で支え、生き返らせたのは、地下鉄東 西線の開通だと言って良いだろう。その後、東京湾岸 道路や JR 京葉線も開通した。当初、京葉線は、東京 湾の埋立地と、工業用地として開発するために貨物輸 送として計画された線路であった。しかし、埋立地は 工業用地から住宅地へと土地利用が変更されたのに伴 って、京葉線も貨物輸送から旅客線へと変更され、沿 線の住宅地開発が可能になったのだ。こうして、新浦 安駅と舞浜駅の2駅が開設し、陸上交通は次第に整備 され近代都市への道を歩むことになるのだ。 広く知られていない話としてこのようなものがある。 新浦安駅と舞浜駅は隣あわせの駅であるのに関わらず、 両駅とも快速電車が停車するのはなぜか。この理由は、 浦安市民に「どちらの駅に快速電車として停車させる か」ということをJR が調査した所、どちらもほぼ同

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じ数であったため二つの駅に快速電車を停車させるこ とに浦安市は成功したのである。 新浦安駅周辺の特徴としては、街全体にゆとりがあ り、大型ショッピングセンターやホテル、高層マンシ ョンなどが林立していて、人通りが絶えることがない。 ディズニーリゾートで楽しんだ後、新浦安のホテルに 泊まる客で金曜や土曜日は特に賑わうが、普段は、デ ィズニーを意識することなく人々は新浦安を利用して いるのだ。 浦安市は地下鉄と合わせて3つの快速停車駅を有し、 高速道路のインターチェンジも作られた。また、平成 13 年には舞浜のアーバンリゾートゾーン内を循環す るモノレールのディズニーリゾートラインが開通した。 このモノレールは、東京ディズニーリゾートに訪れる 人々が地域内の移動手段の他に、舞浜駅周辺の交通渋 滞の緩和、排気ガスの抑制などの環境問題や、周辺の 地域への配慮を目的として建設されたものである。こ のモノレールの内部は、ミッキーマウス型のつり革や、 ミッキーマウス型の窓などで、乗客の目を楽しませて いる。 埋め立てによって出来た街 埋め立てによって出来た新しい地域が、美浜・入船・ 弁天・今川、富岡などの地域である。近くにショッピ ングセンターや、商店街、小学校や公民館、公園、大 学病院もあり大変過ごし易い。ショッピングセンター や住宅など、全てのものが新しい土地の上に、白紙に 絵を描くように計画され、実際に作られたのだ。この ような街にしたいという思いがそのまま形になったと 言ってよいだろう。 この新市街地の住宅への入居は、昭和 40 年代後半 から開始された。現在では、全人口の60%を占める新 市街地に居住する人々の大半は、ここ 20 年間に浦安 に移り住んできた人々だ。私の両親は昭和 53 年に富 岡に移り住んだ。当時、家の周りは、整備途中で、あ るのはスーパーくらいであった。緑や花も苗を植えた ばかりで、マンションから下の地面を眺めると土の色 だったそうだ。強風が吹く日は、砂埃がひどく、そし て、これといった施設もなく、まさに、生まれたての 街であった。当時、両親は、浦安市がこんなにも近代 的な都市になるとは想像もつかなかったという。昭和 40 年代から居住している浦安市民は、一つの街が、一 歩一歩、少しずつ発展して行く様を、日々肌で感じな がら生活していたと言えよう。 夜になり、店も閉まった後の午後10 時頃を回ると、 新浦安駅改札を出た所には、あちらこちらにストリー トミュージシャンが現れる。彼らにとってその場所は 舞台であり、劇場なのである。固定客がついているミ ュージシャンもいて、帰宅途中の人々が足を止めてい る光景も目にする。新浦安駅の大型商業施設であるシ ョッパーズプラザでは、建物のガラスを鏡に見立て、 ダンスの練習や発表をしている若者の集団がいる。彼 らにとってもその場所は練習の場所であり、舞台でも あり劇場でもあるのだ。本来の機能の他に、第二の機 能というものが市民によって作り出されていると言え る。 大変生活するのに適した環境が整っているが、新浦 安駅前広場の放置自転車は大きな社会問題になってい る。浦安市内は埋立地であるので、平坦で歩道も広く、 自転車には最適な街である。そして、実際にも多くの 市民が自転車を利用しているのだ。しかし、残念なこ とに、広大な新浦安駅前広場が、駐輪場と化してしま っているのが大きな問題となっている。駐輪場は、駅 周辺の目立たない場所に点在しているが、どの駐輪場 もパンク寸前の状態となっている。住宅地が次々と建 設され、今もなお人口の増加を続けるので、既存の駐 輪場では到底間に合わないのだ。新浦安の駅前施設は 浦安市の人口が 17 万人になることを想定して設けら れたが、人口が 14 万人弱の現在でも広場に溢れ出し てしまっているのが現状だ。自転車を除けば大変美し い駅前広場なのだが、自転車が美観を損ねる原因とな っている。新浦安駅周辺地区は、ドラマやテレビの撮 影なども頻繁に行われたり、都市景観大賞にも選ばれ たりと、実績があるのだが、現在は自転車に占領され ており、そのような過去の実績も何か虚しい。浦安市 側も新たに駐輪場を増やしてはいるが間に合わず、未 だに自転車は溢れている状況である。そのような中、 市民と浦安市が一緒になって解決策を生み出そうとい う試みが活発に行われており、少しずつ効果が表れて いるようだ。 浦安市を代表する象徴的な道路として整備されたシ ンボルロードは、新浦安駅すぐ側の交差点から、マリ ーナイースト21 地区までの 80 メートルに及ぶ緑豊か

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な道である。レストランや大学のキャンパス、ショッ ピングセンター、公民館、住宅地などが道の両脇に現 れる。そしてその先には海が眼前に広がるのだ。四季 の変化を感じられる街路樹などが道に沿って植えられ ていて、近代的な建物の中に緑がうまく溶け込んでい る。たくさんの緑を眺めると豊かな気持ちになるが、 寒い冬に、南国の椰子の木の葉が揺れているのを見る のは未だに慣れない。また、シンボルロードに面する 高層マンション群の家々のバルコニーからは、色とり どりの花や植物が飾られていて、大変綺麗である。日 の出・明海・舞浜地区の一部と同様に、電線類の地中 化が進められていているので、大変広い道幅がより広 く、すっきりとした印象でまとまっている。そして、 電線がないことにより、空がとても近く広く見えるの だ。周囲の高層マンションや、商業施設とマッチした レンガやタイル、自然石を敷きつめた散策路を造り、 ユニークなモニュメントや照明、水路などを配してい る。所々にベンチなども設置されており、市民の休息 の場になっている。 また、シンボルロードの海側先端部には、大型の親 水公園の計画が進んでおり、野外の音楽イベントが行 われたり、バーベキューも出来る施設ができる。この 公園が、また1つ浦安市の顔が増えることになりそう だ。この公園も市民の声を参考に計画案が作成された のだが、浦安市は、街づくりに市民が積極的に参加し、 それを浦安市側も出来る限り受け入れて計画するとい うことが、現市長の松崎秀樹氏に代わってから、より 活発になっている。また、意見交換が出来る機会も多 く開催され、市民の暮らしをより快適にし、街の活性 化や人々の交流を促進する一つの手段として、インタ ーネットを駆使した「e-都市計画」という電子自治体 の構築を進めている。インターネットを介した方法を 使うと、独り言のような意見も数多く取り入れること ができ、ありとあらゆる意見を聞くことができるとい うわけだ。 シンボルロード近辺は外国人も多く住んでおり、さ ながら、どこか海外のリゾート地のようでもある。そ の理由は、シンボルロード沿いにオリエンタルランド の寮があり、ディズニーランドやディズニーシーで働 く外国人が多くいるということや、明海大学の留学生 が多くいるということによるものだと考えられる。 ディズニーランドで働く人々は、どこか違う星の生 物のようなイメージを受ける。彼らは常に幸せそうに 笑顔を振り撒き続ける人形のようで、人として同じよ うに生活を営んでいるのだろうかとも感じられる。笑 顔という仮面を被った日常を感じさせない彼らに違和 感を覚えていたのだ。しかし、オリエンタルランドの 寮近くのショッピングセンターで出会う様々な国籍の 人々は、親近感が沸いてきてしまう。友人同士や恋人 同士もいれば、家族で行動している人々もいる。すれ 違いざまに、「もしかしたら今トマトを手にしたのはシ ンデレラかしら?豆腐を買い物かごに入れたのは白雪 姫?乳母車を押しているのは不思議の国のアリスかも しれない。」などと想像してしまうのだ。シンデレラも 白雪姫も不思議の国のアリスも買い物かごを提げなが ら商品を物色しているのだと想像すると、彼らにも私 たちと同様に日常があるのだと何か可笑しい気持ちに なるのだ。 浦安市民と海外から定住している人々との関係は、 大変よい関係にある。外国の人々がいることに浦安市 民は違和感を覚えないのだ。いつもの風景にそれはな っている。外国人が多く住んでいるからといって、周 辺住民とトラブルが起きたということは聞いたことが ない。もともと外国人が多い街であった浦安は、既に 特別だという意識はなく、共存しているといった様子 が伺える 東京ディズニーリゾートのある街「舞浜」 東京ディズニーランドやディズニーシー、大型商業 施設であるイクスピアリや大型ホテル群など、観光地 としての様相を呈している。舞浜駅に隣接してオリエ ンタルランド社が所有する駅前開発用地には、平成12 年に、ディズニーアンバサダーホテルが開業し、より リゾート地区としての魅力を高めている。最近では、 舞浜の名前の由来がフロリダのディズニーワールドの 近くにあるマイアミにちなんで命名されたということ も認知されつつある。また、ディズニーアンバサダー ホテルの近辺には、浦安市の運動公園が整備されてい る。公園には、岡本太郎氏の作品が象徴として飾られ、 市民のスポーツの場、憩いの場として活用されている。 昭和 63 年のJR京葉線の開通にあわせて開設され た舞浜駅は、東京ディズニーリゾートの玄関口として、 また、周辺住民の最寄り駅として、利用されている。 同じ年に、客席数7,000 席の「東京ベイNKホール」

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