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「音楽をつくって表現する」学習活動によってつきつけられるもの[II] : 音楽科の基礎・基本は子ども達相互間のやりとりの場に生成し展開する-香川大学学術情報リポジトリ

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(1)

香川大学教育実践総合研究(BuII.E面c.j7s.7b&.£)agl叩.j匈lz2wa llノz,垣),15:59−70,2007

「音

楽をつくって表現する」学習活動によって

つきつけられるもの〔H〕

一音楽科の基礎・基本は子ども達相互間のやりとりの場に生成し展開するー

瀬戸 郁子 暗楽科教育) 760-8522 高松市幸町1−1 香川犬学敦育学部

A Case Study and Some

Essentia1 Studies about “Music − Making

and Representing Learning

Activities”

〔H〕:Toward

Developing

New

Approaches

to Music in the Oassroom

of Primary School by

        StressingChildren’sCo-rdationships

Tkuko Seto j42czj砂が&jzjcαzjθzl,瓦agαwαCノ㎡1・g,りひリーフ,Sα細αj一涌∂,72z尨z,誂血zjア6θ-(9j22

要 旨 前稿(本紀要第7号,p.57∼69)では,平成元年の「学習指導要領」から導入され

た「音楽をっくって表現する」学習活動が十数年を経た現在の小学校教育現場でどのように

受け取られているのか,という問いを探って,大学院在籍中の現職の小学校音楽専科教諭に

よる自らの授業実践の事例考察と,小学校現場でよく読まれている音楽教育の雑誌の特集を

採り上げて考察した。さらに,本稿では,この学習活動が旧来の音楽敦科の指導方法や内容

に留まらず,全体構造自体に如何に根本的な地殼変動を起こすような問題を突きつけている

かについて考えながら,音楽科の基礎・基本を再構成する磁場を示したい。問題を展開させ

る事例は,同上音楽専科教諭と瀬戸が協同で行った,一節の竹を用いた6年生の授業での,

6人の男子グループが展開する出来事をめぐるものである。

キーワード 1

承前

F つくって表現する」音楽学習活勤・学力論・文脈  「つくって表現する」学習活動(以下「つくっ て」と記す)は,平成元年の「学習指導要領」 の改定から導入された。そこには生活科の新設 とあいまって,「表現科」新設の目論見が眼前 にあったという前段があったが,結果的に「表 現科」への敦科改編は見送られ,改編の意図は この学習に凝縮されて,教科内容として,音楽 科の内部に取り込まれた形となった。挑発的に 言い換えれば,続合的な敦科の組み換えの代わ りに教科そのものの存続への疑義を告発する 構造と力を内包した“鬼子”を教科内部に抱え 込むほうを行政側は選んだのである。このよう な経緯を念頭に置かないで,このような“生い 立ち”を持って生まれた事実を踏まえずに,「つ くって」を云々したり,実践したりすることは 実は“似非者”に過ぎないのである。例えば, 「何を指して‘音楽’と呼ぶのか」,「『楽しいだ けじゃいけない』という言明の『楽しい』とは 59

(2)

どんな子どもの姿なのか」,「基礎・基本とは誰 のものか」,「‘学べる力’が問われにくい構造は どこから来ているのか」,「教材研究とは何をす ることか」,「‘授貫とは‘する’ものか」,「教 師が授業を振り返るということは何をどうする ことか」等々,この鬼子が問いかけてくるのは, 旧来の音楽科の教科論,内容論,指導方法論, 授業論,学習論,子ども論,敦師論,敦育諜程 論に次々に ドミノ倒しの如く地殼変動を起こ させるような視点である。しかしそれについて はいまだに真っ正面から議論されて実践されて いるとはとても言い難い。前小論(本紀要第7 号に所収)では,子どもの学びの理解に関する, 一人の音楽専科敦論の葛藤の語りの解釈を通じ て,この学習がどのように学校現場で受け止め られているのかの一端を考察した。真剣に取り 組もうとする教師を混乱させ,戸惑わせ,上述 のような意義を踏まえず小手先だけで扱った教 師には「がちゃがちゃだ」「子どもを放ったら かし」と眉をひそめられている。  そこで本稿では,授業中の活動における状況 の変容と共に子ども達が白分達同士の関係の あり方の流れに乗って,子ども同士のあいだで 朧気ながらも予感的に共有されている,自分達 の「音楽」の原形質にあたるものが変転してい くなかで,時に順風に進むかに見えては停滞 し,だらだらと後退しそうになるや一気に乗り きったりしながら,創っては壊し,壊しては創 りながら,「一体白分達はどのように表現した いのか」という思いに喰らい付いて模索する姿 を追う。言い換えれば,子ども一人一人がそれ ぞれに納得でき,しかも全体で「どういう表現 が自分たちにとって心地好いのか」という問い かけに徹して,お互いの身体性と音とを重ね合 いながら,暗黙の身体的ルールに則りつつ,当 事者である白分たちの音楽を開いていく,その 姿を状況の文脈性を大切にしながら解釈するこ とによって,「音楽をつくって表現する」学習 活動にがっぷり四つに取り組んだ子ども達相互 間に生成する「学び」に胎動ずる醍醐昧と感動 と緊迫感,そしてその学ぶ力の持つ生命力と底 意地の強靭さとを語り返したい。実のところそ

れは,音楽教科を構成する旧来の諸概念に対す

る自明的な通念がいかに覆され得るのかを目の

当りにすることであり,はたまたいかに建て直

し得るかの可能性を探る営みと同義なのであ

る。本稿では,音楽教科の基礎・基本とは何で

あって,その捉え方の根拠はどこにあるのか,

という問いに洽って,音楽科における「学ぶ力」

の育ちと展開について,一節の竹を待って,仲

間と一緒に試行錯誤の探究を重ねる,6年生の

子ども達の創作の現場に寄り添ってこそ見えて

くるものに解釈を与え,浮き彫りにしていく。

授業実践のいきさつとあらまし

 本事例は,前稿の公立小学校音楽専科U敦論 と協同で行った,一節の竹を用いた「音楽をつ くって表現する」学習活動での6年生の授業実 践からのものである。結果的に全5時問扱いと なった単元の第1時間目と2時間目での,6人 の男子グループの活勤状況の流れに身を寄せた 私に見えた彼らの様子をつなげて語ることにす る。  この協同授業をすることになったのは,U教 諭が大学院在籍中に私の担当する「初等音楽 科教育法」の授業で,竹から発想したアイデア による音作品をつくるというグループ活動に参 加された経験がきっかけになっている。私には ずっと以前,寒い季節に竹を用いた実践をした ことがあって,竹が充分に「鳴り」を発揮でき なかったので,子ども達の表現の工夫をいまひ とつ引き出せなかったという苦い経験があっ た。しかしこの竹の話がU敦諭との間で煮詰 まってきたのは6月下旬だった。とんとん拍子 に授業の計團は決まっていって,7月の第1週 目と2週目の4校時の音楽の時問に実施するこ とに決定した。以下に各授業時問の概要を示し ておく。 ・第1時;7月2日(11時30分から12時15分)  体育館前に体操服で集合⇒一節の竹と初めて  出会う⇒5つのグループに分かれ,好きな場  所で創作活動 ・第2時;7月4日(同時間)

(3)

前時の続きのグループ活動⇒発表 第3時;7月9日(同時間) 2つ目の作品づくり。今回は作品の題名をつ ける。 第4時;7月T1日(同時間) 題名当てゲーム 第5時;7月16日(同時問) 敦室で担任敦論も参加。前時の発表ビデオを 見て,クラスメイトにもらった題名をめぐっ て感想と意見の交換会。  このような提示のし方をすると,事前にこの ように設定しておいて,この通りに実践したか のように受け取られるかもしれない。しかしそ うではない。子ども達の活動の流れを一番に優 先して,それ如何によって臨機応変に対応でき るような柔軟さを残した計㈲の立て方をした。 そして結果的にこのような時間配分になったの だ。その授業進行のスタンスは,当初4時問扱 いに立てていたのが,敦室で行う第5時を追加 することになったといういきさつにも表れてい る。次時の進め方や段取りは,毎時間後,本時 の反省と意見交換も含めて,ふたりで相談して 決めつつ臨んだ。どの時間も12時15分には到底 終わらなかった。子ども達は45分きざみの授業 用の体内時計を持っているはずなのに体操服 に着替えて外で動きまわってする音楽の授業と いう,いつもと違う環境設定などが何かしらの 作用因になって,その時計が狂ってしまってい たのだろう。誰も「もう給食の時間や」とも言 わなかったのだから大した熱中振りだった。 とは言え,U教論も私も気を揉んでいた。「ど うしたものか」とU教諭は目まぜして寄こした。 子ども達の活勣の真っただ中へ割って入って, 「急いで!」とか「今日はここまで,時間切れ!」 などとはさらさら言えたものではなかった。そ こでふたりで話し合った結果,担任敦論に心 配をかけてしまった時間延長の内実を,子ども 達の活動の姿から知っていただきたいという意 図から,教室で担任敦論にも参加していただく 第5時を追加することにしたのである。 3 r−

バンブー・ボーイズ」の誕生

 それでは,活動の流れを語る前に,この事例

の主人公たちを紹介したい。6年生6人の男子

グループだ。まず,グループを引っ張っている

のは,M君とS君。ふたりは全くタイプの違う

仲良しであり,ライバルでもある。語彙の豊富

なM君は,言い得て妙の場面が多々見られた

し,流れを把握したアイデアを出す頭脳派の

リニダーである。でもM君は賢しらさをひけら

かす嫌味なタイプの優等生ではない。M君の出

したアイデアにメンバー達は結構いろいろと注

文をつける。それらをM君は自然に受け取って

いる。そしてまたM君の,相手を受け入れるそ

の自然さが,わいわい□々に言い合えるこのグ

ループの空気を呼μ込んでもいるのだ。一方,

S君は気分屋で行動派の奇抜なアイデアボー

イ。思いついたことはすぐ言うし,すぐやって

みて,その後またすぐなんだかんだ言う。でも

しんねりと意地の強いのとは違って,言われた

側に他意は残らない。みんなで車座になった輪

から吹きこぼれるように一番先に飛び出してい

くのはS君で,新風を吹き込んで場面転換する

のは絶妙。そしてS君の転換を次へつなげてい

くのはM君だ。G君は口数は少ないものの,場

の空気や雰囲気や言菓にならないからだのメッ

セージを感受できる。だからみんながわいわい

言っている中で,G君は自然と緩衝装置役に

なっている。それが彼には心地良さそうに私に

は見えた。それは階段での彼の座る位置と,輪

になった時の鳴らす順番からもよく分かる。そ

して私の微かな表情や身体のリアクションに

真っ先に気付いて,にやにやして返してくるの

もG君だった。

 D君も□数の少ない方で,ゴーイング・マイ

ウェイ派。駐車場の隅の樹の茂みの影から階段

の方へまず最初に走っていったのはD君だっ

た。でも自分勝手ではない。みんなの反応をよ

く見て取っている。Y君も話すよりも動くタイ

プ。S君にいろいろ注文をつけられても適当に

流してあまり気にしていない風で,言われる通

りにすることもあればしないこともある。でも

−61−

(4)

ふと見ると,S君のそばにいるというのがY君 だ。O君はグループの「ベット」とS君が言っ た。ほとんどしゃべらないO君だけれど,にこ にこして参加している。何しろO君が居るだけ で,ほんわかとしたムードになる。特に低学年 では,仲間が遊んでいる場所の周りを旋回する 子が居るものだ。長縄遊びなどのように歌を 伴っていて,しかも競争する要素があれば必ず と言ってよいほどそういう子が居る。本人はう れしくてうれしくて仕方がない。旋回行動’は, その空問を他と区別して切り取り,ここは自分 達だけの特別な世界だと線引しているのだ。切 り取られて特別な空問となった場所で繰り広げ られる遊びは,自分達が主人公だという興奮と 一体感をより昂揚させ,眩示に似た感覚を持っ た空気をそこに生じさせることになる。O君は そんな子どもと同じような役回りをしている向 きがあると思った。第2時の階段作品の創作活 動では,締めの合図役という大役がO君に回っ てきてしまい,みんなから微に入り細に入り注 文が来る。O君はそれが実に嬉しそう。みんな もそんなO君の様子が好もしくて仕方ない。O 君を囲んで,終わり方について,ああだこうだ と工夫してやりとりするのが愉しくてしようが ないのだ。「みんなのO君」という気持ちを確 かめ合っているようだ。この白熱の試行錯誤の 様子については後述するが,0君のキャラク ターが,披ら独特の息の長い試行錯誤の真剣な 快哉を生み出したと言ってもよいだろう。  当時,『ウォーター・ボーイズ』という映画 が流行っていた。それに因んで,私はこの6人 を「バンブー・ボーイズ」と名付けた。そして 私のかけがえのない宝物がまた一つ増えた。授 業実践事例の解釈についてはどれにおいてもそ うだが,このような,彼らについてのキャラク ター等々は,この授業における様々な粂件や出 来事が表地になり裏地になりして複雑に関係し 合って,織り成された一回きりのそれぞれの場 において,そこでの状況性を一緒に生きた一人

でもある私の身体を通して,そのように見え

つながって捉えられた事どもについての言明で あることを明記しておかねばならない。勿論授 業そのものと授業についての言明とは別物であ るのは言うまでもないが,授業とは語られるこ とによって初めて立ち現れて来る,生きられた 場であることには違いないのである。 j(7月2日俤4校時  ぎらぎらと太陽が照りつけて,湿気が肌に粘 り付くような烈暑の真っ昼間だった。体操服に 着替えて,体育館前のピロティーに集合した子 ども達は,「体操服で何するん?」と□々に言っ た。一節の竹は自分専用の楽器。体育館前の広 場や中庭で奸きな場所を選んで創作活動開始。 グループ分けは子ども達に任せた。子ども達は 竹を持って,それぞれ思い思いに散って行っ た。  6人は集合した場所から一番遠い,車道から 下がって,土がこんもりと盛り上がった,樹 の影に一目散に走って行って陣取った。「誰 が親になるん?」,すぐS君が音頭をとって, 「いっ,せえーのっ!」で一斉に指差して,2 回目に全員一致でM君に決まった。早速他のグ ループと同じように,車座になった。S君のア イデアで,M君から一人一打ちずつで回す。数 回回ったが,気乗りしない。M君が「むずツ」 と言い捨てたかと思うと,S君が酸欠状態から 逃げ出すように樹の影の塀の方へ輪を飛び出 して行った。するとY君も後を追った。そして O君もS君とは反対の,樹の階段よりの方へ移 動した。座っているのはM君,D君,G君。崩 れた輪の形になった。それで数回やってみた が,乗らない。S君がみんなの気持ちを代弁し て,M君に指摘した。「M君がはやくなってい きよん」,すると他の子もうまくいかない不満 をS君につられてM君に文句を言い出した。「M 君がみんなを無視してずっと同じリズムやの に はやくなりよん」と言うS君には,M君が オスティナート役でそれに乗せて,みんなが 打っていくという形が頭にあったのだ。でもそ うはならなかった。とうとうM君が投げ出して しまって,0君の隣へ走って行った。ここで中 心軸が外れ,翰は破れた。するとすぐ,D君が 階段の方まで走っていったので,完全にばらば

(5)

らになってしまい,竹で塀や地面やドラム缶

を心なく叩く不機嫌な音が益々気を滅入らせ

た(写真1)。どの子も,これじゃあいけない

のに,という表情で土がこんもりした樹の影に

誰からともなく集まってきた。不平ばかりが出

る。リーダーの押し付け合いになって,S君も

M君も塀の方へ戻ってしまった。このばつが悪

い状況で臨時のリーダーになってしまったのが

Y君。「ちゃんとやれよ」と檄を飛ばすが空気

は変わらなかった。D君とS君は階段の方へ伸

びて行ったままだ。もう誰もが好き勝手に竹を

打ちつけている。やがて,M君が気を取り直し

て,リーダーに復帰すると他の子たちも安堵し

て,協カモードに変わった。

│胆尾皿│ヂレ     圓

諾朧m傍‐‐‐冒l宍い‥       劃逮 乙ぷμ。≒吋f剽 恥│!991    ’ヽs4  、.、・ j ・,・・,-・か 図−-       ‥‥‥‥   ‥-影コ,……監誦賎・・tごaUII 。,ヽ 揉 ,’l、 靉│ 自…… s° ,・ 言言言言言言幽皇函皿 鸚願胆ラ愚昌昌皿漣賜‐ 贈趨騒扇逼諭幽籤謐 ・ | 皿肖44蔽一蔚腫謳圖顧 臨 i 臆 圖 鰯 朧 │

回頌       ml

題││

朧 皿・‐‐皿 皿 皿       (写真1)  その後,民家の塀をなぞるようにして,体育 館の方へ移勤した。創作は振り出しに戻った。 披らの中では,他のグループがそうだから,車 座になって作るのが「正しい」と価値付けてい る。でも自分達はそれが辛い。でもそうしよ う,そうするべきだ,と輪になって試みては, やっぱり逃げ出してしまう。この繰り返しだ。 責任を感じ続けているM君の一段と険しい顔つ きが痛々しかった。とうとう,もうこれが年貢 の納め時だと暗黙のうちに察し合ったに違いな い。この時問の初め,そこから出発した,体育 館の出入り□付近で車座になった。あいかわら ず一人1打ずつで回してみた。ところが,もう 飽き飽きした,という素振りでの打ち方にヒン トを得て,ゆっくり打ち降ろす身振りを楽しみ 始めた(写真2)。すると速度を変えて回して く X4 IV という風に事態が流れて,その形をみん 63 なが気に入った。       (写真2) でも,そこで終了時間が来てしまった。合図が あって,授業開始時に集合した,体育館のピロ ティーヘ戻るとき,M君がため息をついたのを 私は聞いた。他の子たちもそぼそぽと肩を落と して,体育館の中へ戻って行った。  車座になった時には,身体的な動きが制約さ れるし,お互いの視線からも逃げられないか ら,竹を鳴らすという打ちっぷりに変わる。一 方,広がっている時には,竹で鳴らすという風 になる。竹で鳴らす時には打ちつけた対象物か らどんな音が出るのかを試してみるのに関心が 向くが,車座の時には,竹をどう鴫らすかをめ ぐって,音色やリズムや速度に関心が集まる。 そのどちらも彼らには,もう一つしっくり感じ られなかったのだ。6人はこの第1時全部を 使って,それらを含むいきさつを招き出し,確 かに体験した。果たして,このように体験され たいきさつが,この後の彼らの活動にどのよう な意昧の種を撒くことになるのだろうか。

4.7月4日:発見された

︲I −

「階段」

 前時,他のグループとは違って,輪になった

り,崩したり破ったりと,まるでアメーバの轜

勤運動のようにして体育館前の広場を一周した

6人。車道が提のようになった下に生えた樹の

影から出発して,D君が一番に走って行った階

段,それに続く車道や民家との境塀,そして最

後に車座になった体育館の玄関横(写真2)に

至るまで,彼らはたっぷりと試行錯誤の音の旅

(6)

をした。

 彼らはたらたらと樹の方へ寄って行ったが,

前時からそこを狙っていた女子のグループがす

でに占頒していた。披女達は上で鳴る竹の音に

興昧を示していたのだ。そこで6人は押し出さ

れて階段の方へ行った。でも前時にD君とS君

が階段へ広がろうとしたことがあったから,そ

れはそれで落胆するような気配ではなかった。

しばらくして次に私が彼らの所へ行った時,彼

らは階段に一人ずつ座って,竹をその段に打ち

つけて,トントントンとやっていた。

M      護 詣鏃爽゛腫趨回万……  置│ 冊        昌as泉訟ン尚繭゛ 湊IWIヲ│ § IEI聡  §謳縫謡白 舞証'll ' ̄゜涯ま既詫  、・  1佃9 i'゛膳縦課、 湊R言回 雪 lii'│ ,, 9回ニa , ゛告し 諒願強1回 謁 回゛膜………胆言朧言贈       (写真3)  丁度階段は6段あったし,一段一段の面積が 広く,エプロンのようなデザインになってい る。何度かやってみた後,一つに集まって一人 一人打ってみて,音高(と彼らが捉えているら しい)を確かめて比べ,座り直した。その作業 を何度か繰り返した後,階段の上の方からO君 −M君−G君−D君−Y君−S君という並び方 に一応落ち着いた。彼らは上から下へつながっ た作品を作ろうとした。それはO君から始まっ て,何拍かずれて一人ずつ加わっていき,S君 まで行ったらまたO君から一人ずつ抜けていっ てS君で静かに終わるというやり方だった(写 真3)。  何拍かずれて,一人がいくつ打つかは決める でもなく決まったという感じだった。S君の打 ち方はM君が言うように「やさしく」て丁寧で, S君は最後の1音に全身を集中させているのが 見て取れた。どの子もまるで「さあどうぞ」と 言って,受け渡しているかのようなからだつき をする。そしてS君の様子を息を殺して見守る みんなの姿が,作品全体に緊張感がありつつ も,しっとりとしたまとまり感を与えている趣 調を感じて,私は思わず「ええ感じええ感じ!」 を連発してしまった。(この頃までには,私が 側に居るのを自然に思ってくれるようになって いたし,どうも私は「教師」ではなく,「一緒 に居る人」ぐらいにしか認知されていないナと 感じるようになっていた。)何度か繰り返すう ちに彼らは飽き足らなくなっていった。やって みたらすくへ誰からともなく何か言い出す披ら なのに何も出てこない。出てくるのは「(先 の子が)見えにくい」とかの言い掛かりのよう な不平だけ。どの子も不満足と行き詰まりを持 ち合いっこして,グルーミーな空気が沈殿し た。「どうしたらいい?」,みんなのからだが私 にヒントをせがんでいた。  私も居づらくなっていた。その時だ,一人の おじさんがトレーニング姿で犬を連れて車道か ら階段をこちらへ降りて来た。おじさんも犬も 固太りで元気。上段の方に居た子は先に気付い たが,S君はびっくりして飛び退いた。おじさ んも犬もこちらに気を止めるでもなく横切っ て,民家の塀の方へ去って行った。思わぬ珍客 のおかげでそれまでの空気に穴が開いた。私は 片手を動かして,「こう行って,また帰って来 るのはどお?」と言ってしまった。階段の機能 性に気づかされたのだ。咄嵯に思いつくがはや いか,もう言ってしまっていたに言わない方 が良かったカモ,と全部思ってしまうかしまわ ないうちにG君のからだが微かに私に向かって 開いたのを感じた。するとすくへM君がそれを 引き取って,戻り方のアイデアを出した。みん な,一斉に波立った。そのM君の説明が終わら ないうちに「全部言わんでもわかる!」と言 わんばかりに S君がもう得意満面になって戻 る合図の打ち方を,「M君,こうするん?に こうするんリ」と言って,ひときわ大きな身 振りで演示して見せた。ここまでの流れは,も うまるで万華鏡をくるくると回転させるように 転じて,しかもその回転の速さたるや,こちら のスピード計とはめもりが一桁違うという程 だった。

(7)

 O君から始まってS君まで行くと,0君から

順に打つのを止めていきS君まで行く。今度は

S君が次の開始点となってO君まで行く。みん

なで打つのがちょっと続くと,S君から順に抜

けていってO君で終わる。つまり音を垂ねてい

く道筋(表道と表記す)とそれを消していく道

筋(裏道と表記す)を1フレーズとして,0君

からS君までを往復することになる。これがだ

れかれとなく,一言二言言い交わす中で一気に

出来上がったのだから,言わずもがなで,すぐ

に演ってみて通じ合う,彼らの直観力と感応力

は凄い。この形式は,これから後の終わり方の

完成までの活動を通して定着していく。「O君

で終わりやで」とM君が何気なく言った。

 6人はみるみる生き返った。仝身体感覚を込

めて音を受け渡しする6人。それを何度も繰り

返して楽しむ。さらに S君のリピートの合図

が全体の流れにめりはりを付けたし,大きく振

り上げて,しなるように打ち下ろされた竹の音

は,行きとそっくり同じようには帰らないとい

う予感さえ含んでいた。そして,彼の自信たっ

ぷりの身振りは作晶づくりへのみんなの思いを

濃縮しているようにも感じられた。まるで6人

がスポットライトに照らし出されたかのように

浮かび上がって見えた。その照り返しで,私に

は,前時での車座になった時の披らの凍結した

身体が思い出された。そして同時に披らの独

白性がこの階段によって誘い出されて活かさ れ,この階段は彼らによって改めて発見され た,正にその現場を目の当たりにさせられた。

5.終止表現への飽く

 終わりたくないんだ

 声を聴く。

なき探究−「実は

一 ・

」と言う声なき

 「終わり方,どうする?」というM君の問い

かけはみんなの気持ちを代弁していた。それ

から,ちょっと大人びて,「これはかなりいけ

る□と目々に言い合いながら何度も音の受け

渡しを楽しんだ。自信がついたのだろう。渡す

時もさながら,消していく時にも,自分の最後

の一打を鳴らすとすぐからだを起こして,「次

はきみだよ」と声を掛けるかのように小首を隣 の子へ傾けるしぐさをする。その息が自然で, こちらも何度も聴きたくなってしまう。いや, 見たくなってしまうと言ってもいい。でもすぐ に「静かに終わるのもいいけど,派手に終わ りたいな」という内声を彼らはお互いに聴き取 るのか,みんなに見届けられたO君の最終打の 後,言いたくてたまらないという風で次々に 立ち上がった。「O君がドンとしたら・・」と M君が,するとS君が「みんなでドンと終わ る。ドン,ドン,ドン,ドンって」とつない だ。「いっせいに終わらしたら」,[やってみた ら]などと言い合うがはやいか,もう始まっ た。でも意思疎通がもう一つうまくいってなく て,立ち消えになった。でもすかさず「いっせ いにドンと」,「でもひとりずつおわって,ド ンって」,「だからS君から順にドンでおわっ て,0君でおわる」等々の案に Y君から異論 が出て,それらをM君がまとめようとすると, 自然にどの子も耳を傾けるからだになる。「O 君まで行ったら,S君が1つドンとして,それ で順々に・・。」それをS君が引き取って,隣 りのY君の手を持って演示してみせた。中間地 点の子たちが口々に意見を言い出した。 ドンと 入るタイミングがつかみ難いと予感したのだろ う。でも「やりよればわかるわ」,と誰が言っ たでもなく,また試演が始まった。これが彼ら の真骨頂だ。やってみてはだめ出しをして,な んだかんだ言い合って,またやってみる。その 力のたゆまぬ粘り強さは一体どこから来るのだ ろうか,とついつい思ってしまう。  中間地点の子たち,特にD君とY君はまだ充 分に飲みこめていない様子だった。始まるとす Y君が斜め一列を崩して,くるっとみんな

の方へ向き直って移動した。形はカギ型になっ

た。Y君のつかみ取ろうとする気迫のこもった

行勤の真剣な素早さによって,彼らを包む空気

に緊張感が走った。2フレーズ目の裏道はS君

から一人ずつ一打強く打って抜けていく。O君

まで来るとみんなで一斉にもっと強く打って終

止する。私は,意見交挑のようにも見えるが,

好き勝手な言い分を言っているだけのようにも

−65−

(8)

見受けられるような相談だったのに よくもこ れだけ分かり合って,演奏できるものだと感心 した。でも最終打音が揃わなかった。すぐさま 意見交換が始まった。今まで以上にかまびすし い。この場面の中心はY君。Y君の熱い□吻は 試行錯誤の次のステージの幕開けを予感させ た。それはO君を「締めの指揮者」に仕上げる ことによって,作品全体を洗練する活勤となっ た。  いろいろと披への注文の相談をしている仲問 のそばで,当のO君本人はそれが実に嬉しそう で,にこにこしながら両手を振り回して,一本 の坂になった階段の縁を行ったり来たり。第3 章で述べたような子であるO君にはこのような 状況が居心址満点なのだ。言わば自分が准主役 になっているように感じているはずだ。みんな も問わず語りに認め合っているのだろう。だか ら批准するような指図のし方はしない。そんな O君の様子が醸し出してくれる雰囲気に浸りな がら,みんなで活動するのが他の子たちは和や かで楽しいのだ。後から振り返ってみると,終 止表現の工夫を試行錯誤する,次から次へ湧き 上がって来る,彼らの探究心とマニアックな姿 勢はこのO君のキャラクターが大きな因子と なっているとの見方もできる。  終わりの一打がどうも揃わない。僕たちは バッチリ決めたいんだ。生半可な妥協はしたく ないんだ。だってこれまで真剣に話し合って工 夫して創ってきた,僕たちだけの作晶なんだか ら。そう言っているように私には,彼らの終 止表現への探究活動が見える。「鍛後までかん じょうしてから」,「4つ打って5つ目にドンっ て合わす」,「合図したらええんちゃうん」,「O 君が左手あげて,こうして J 「左手あげ たらちょっと間あけてドンと」,「それやったら よけわかりにくいし」,「いつあげるん?ずっと あげとったら J 「O君やってみて」,「M 君,まえもってO君に合図したら」,「練習して みよ」。O君は拍の流れに乗らず,いきなり左 手を挙げた。「ほら,やっぱりあかん」。案の 定,ズレた。真剣そのもの。私も「会議」の中 へいつの間にか引き込まれていた。「私,Y君 の言うたこと分かるわ。ずっと挙げとったら, いつ鳴らしたらええか分からへんもんな」と介 入してしまった。さっき,手をあげるという多 数意見に反論して,Y君が語気を強めて言っ た「それやったらよけわかりにくい」という気 づきを,一瞬みんながひと呑みしたけれど,通 じなくて,Y君は退いてしまった。その瞬間の ちょっと気落ちしたY君の表情が気にかかって いたので,今だ,と私は思ったのだ。Y君の言 いたかった意床を賛成意見として言い換えた。 すると「手あげて下げた瞬間に鳴らす」とM君 が引き取って提案した。今度は合った,と私は 思ったのに,「もうちょっとやな」。それからと いうもの,全員が納得できる終止感を求めて何 度も何度も試行錯誤を繰り返した。  O君の左手が見にくいのが原因だと,いろい ろにO君の位置を変えてみる。最上段から最下 段へ。とうとう地面にまで。それでもO君は やっぱりうれしそうに張り切っている。それを [ペイビー,かわいそう]と間髪人れず言った のはS君。偶然,丁度6段あるし,エプロンの ようなデザインで普通のよりも一段が広いし, そこに腰を落ち着けたたっぷりした時間の経過 を体験して,まるでマイ・ステージをそれぞれ が持っていて当たり前のような実感を得ている のだと,このS君の合いの手から読み取れた。 そしてO君はグループの人気者なのだ,と。竹 の打音の「音高調べ」で最上段に座ることに なったO君。その後の活動の過程から,最終締 めの「指揮者」の役が回ってきてしまった。し かしそれはO君の性格からすれば,重い仕事 だ。ケリを付ける役柄はO君には不向きなのだ が,誰もO君を降板させようとはしない。なか なか彼らがイメージする終止感にバッチリ!と 合わないらしい。何度も何度もO君とやりとり を続ける。降ろし具合や,0君の左手が腰の位 置に来たらとか,上げたままで握り拳を合図に するとか,すると今度はその握り方を云々する とか等々。「ああでもないこうでもない」とい う繰り返しを活き活きと楽しんでいる彼らを見 ていると,その真剣で滑脱な試行錯誤が限り無 く彼らを「終わり」へ近づけていく営みである

(9)

のにもかかわらず,逆説的に「実は終わりた くないんだ」と言っているように私は思えた。 そしてそう思えてくると,彼らの作品の指揮者 には○君が適役なのだとさえ見えてくるのだか ら,全員で全員の納得いく表現を求め続けよう とする彼らの学びの生命力に感服させられてし

まうのである。とうとう,「みんなで発表する

よ,集まろうU,とU敦諭が呼びに来るまで続

いた。その時の彼らの作晶の終止表現は,0君

が最下段でS君が量上段で,0君だけがみんな

と対座した三角形。O君の挙げた左手が握りこ

ぶしになったら,全員で一斉に最終の締めの一

打を打つという形式だった。「よし,もうこれ

でいこっ」とM君。彼らの真剣勝負の創作活動

が(ひとまず)終わった。

6.音楽科の基礎・基本は子ども達相互間

 のやりとりの場に生成し展開する。

 本稿の冒頭に述べたが,「音楽をつくって表 現する」学習活勣が学習指導要領に設けられた 当時の背景には,生活科の新設・導入の流れに 沿った,敦科改編の機運があった。音楽敦科を 表現科として改編する動きである。その底流的 な意図の一つは,前提的丁解事項として,西欧 近代の音楽研究を対象とした音楽学の学問知を ベースに教科内容として抽出し系統化された, 旧来の基礎・基本に対して,新学力観からの音 楽科の基礎・基本を提起し唱導するものであっ た。それは学ぶ力としての「表現を工夫する力」 の育成の強調である。音楽を白立して生きるこ とのできる力,と言い換えることができる。兎 角,より正高な演奏の技術力や音楽文化所産に ついての知識を要素的概念として設定する傾向 から,「一体自分はどのように表現したいのか」 を思い巡らせて工夫する経験を重視した方向ヘ の視点変換である。  とは言え,音楽科の学力観は,専門音楽教育 の理念をそのまま持ち込んで創始されたために 技能敦科として捉えられ,それ故に演奏技法や 楽典的な知識を基礎・基本とするにせよ,音や 音楽を感受できる力や表現力とするにせよ,学 67

んだ結果としての学力を基礎・基本として提え

る偏向が到って根強い。しかしいずれにせよ,

要素的字義的に,あるいは実体的に同定する構

えには,学習が状況や和互関係性の場で形成さ

れるという視点が抜け落ちている。ところが如

上の事例から照らして,活動を通して学ぶ力を

提えるという姿勢をとると,相互関係を切り結

んでいる,まさに子ども達が生きている,その

現場の関係性の状況次第で,基礎・基本は変容

し展開するという視点が顕揚される。実際に授

業では,状況の文脈性や相互のやりとりのいき さつから切り離して,基礎・基本を取り出すこ とはできない。なぜなら,関わり合いの無いと      ー−---ころには学びは生まれないのであって,我々は 相互関係性の網目を切り結ぶ営みの中に生きて いてこそ,学ぶことができ,変わることができ るからである。  第1時で6人は他のグループと同じ様に車座 になったが,すぐに誰かが息苦しくなって翰を 飛び出していく。車座という隊形は嫌でもお互 い同士がお互いの監視役にさせられてしまう。 お互いの視線から逃げられない。たとえ仲が良 くてもその息苦しさは避けられないものだ。輪 の内側に自分達だけの世界を区切り,さらに竹 を打つという同じ動作の連続によって,自ずと 強いられる一体感がもたらす閉塞感は否応なく 高まる。そのため,どうしても車座になると一 人一人の打ち出すリズムの工夫の程度の差が目 立ち,それがアンサンブルの楽しさと作品全体 の質やセンスを左右する鍵となるから,ますま す一人一人の工夫の優劣が顕わになるのであ る。その両方が披らには不向きだった。第1時 全部をかけて苦い思いをお互いに経験し,輪に なっては崩し,破っては結びを繰り返すうち に彼らは,一人一人のリズムの工夫よりも, 一定のリズムをリレーして,音の重なりとズレ を白分達の様式として獲得することに到ったの である。「ミニマル・ミュージック(注)」の手 法さながらである。  それを誘発したのがこの階段であった。しか し,彼らがいきなり唐突にこの階段を使ったの ではない文脈を解釈しておかねばならない。第

(10)

1時で輪がばらばらに切れてしまった時,D君 は階段で鳴らしていた。その時の階段は竹を媒 介にして音を出す対象物でしかなかった。それ はコンクリートで固められた事物であり,その 時M君やO君が叩いていた堺と変わらない。こ の階段はまだ発見されていなかったのである。 だからその後も,かれらは車座の作品の創作に 苦心し続けた。第1時の苦渋の試行錯誤で,自 分達には車座は辛い,その創作は「めんどい」 (M君の謂)という思いが残った。だから第2時 で女子のグループに本陰の土の隅をあっさりと 明け渡したと見える。彼らは実に第1時の全時 間を費やして,白分達のグループに似合った音 の様式を探り当てるヒントを学んだ,と振り返 ることができるレ さらに言い足せば,一見す ると,だらだらとして,授業に背を向けたかの ように見えるが,その振る舞いの不機嫌さの泥 底まで昧わったからこそ反って,階段が披らの 相互関係の特質にピッタリだと鑑別できる直感 をより鋭くすることができたのである。一般論 的な抽象論の言い回しはできれば避けたいが, 強いて言えば,生きられた場の連統が授業であ るのだから,そこでのある事柄の意昧は,その 事柄によって惹き起こされる事柄の総体である と言える。このようないきさつの絡みで階段に

陣取った彼らはもう自分達の様式について揺れ

ることはなかった。不意の来客とそれによる私

のヒントという一連の成り行きから,階段の機

能性を我が物として,支点の反転現象を表現形

式のマトリックスにすることができ,彼らの共

有する作品イメージの独自性を色濃くし,一層

精妙な出来栄えに熟成していったのである。

 第4章で語ったように初めはO君から始

まってS君で終わる,一方向の曲だった。その

後の来客に端を発するエピソードによって,往

復する形に変わった。鳴らすのと消していくの

とを合わせて1フレーズなのは変わらない。次

に彼らが気づいたのは,初めの作品でのS君の

終わり方と,往復形式でアンカーになったO君

のそれとのニュアンスの違いであった。前述し

たように S君のは堂に入っていて,趣きのあ

る終止感を醸し出していた。それをみんなも認

めていた。一方,5章で語ったようなキャラク ターのO君のは,「これでいいの?」と自信な くみんなに聞いているようで,聞かれた方には やるせなさが慕ってしまう。そこで彼らはどう したか。ここが彼らの関わり合いの持ち味なの だが,0君に直接指図するのではなく,いつも の様にわいわい言い合って,全員で締めの一打 を鳴らして華々しく終わるという終止形を目指 すことに昇華させたのである。そしてさらに 終止の派手さを強調するために,S君が始点の 2フレーズ目の裏道は,S君から小さく一つ 打って,順々に消していく,という手法を案出 した。実に披らの粘り強い創作力と関わり合う 力の息の長さに感服させられてしまう。それか ら先の成り行きについては第5章の通りである。  このように この階段はその現象性を,ここ まで変転してきた状況下にある彼らの相互行為 によって現前させられ,それがまた,彼らお互 いの関係性の独白性を発揮する作品の表現形式 を生成的に変容させていくことに繋がっていっ たのである。O君からS君へ,S君からO君ヘ

ー-と,始点と終点が反転しながら,重なり合って

は消え,消えては蘇生する音の反物として,階

段の現象性を目が耳が励悦する,生きた形式に

して表出することができたのだった。俯瞰的に

言ってしまうと,彼らの相互関係による関わり

合いの変転と,作品の形式の形成過程,そして 階段の現象性の現前過程とは三巴の様相を呈し て,それぞれが分かちがたく,状況の総体を成 しているのが見て取れるのである。一幅の軸物 か,はたまた一つの首尾を待つ物語のように露 われてくる。 7 まとめ

 このように見てくると,彼らの活勤は,目的

志向的な相互行為を展開しながら,白己生成的

に連なる文脈性の現相として象ることができ

る。即ち,彼らの学びは因果関係にある状況が

織り成す文脈そのものに於いて取り沙汰される

ものであり,互いに関わり合って体験された四

囲的世界の現相として語られ得るものである。

(11)

活動を通した出来事として文脈的に捉えようと する学力観では,子ども達が相互行為を成す対 象物,即ち敦師も含めた,環境を構成する事物 との相互関係の場から切り離して,抽象化して 同定することはできない。例えば,「ミニマル・

ミュージックにチャレンジしよう」という題材

名の授業を仮想してみよう。この教師はミニマ

ル・ミュージックの手法のミニモデルをワーク

シートにして提示し,創作手順のマニュアルを

子ども達に説明する。そして「さあ,このよう

にしてつくってごらん」,と促す。子ども達は

つき合ってくれるから,この教師の意図を汲み

とって,作ってくれるだろう。そして,この教

師は,ミニマル・ミュージックの手法を正しく

使っているかどうかで,子どもの作品を切り刻

む。この教師が基礎・基本としているのは,マ

ニュアル通りに作れる力と楽典の知識である。

もうお解かりのように この教師が目的として

いるのは,自分が仕事をしたという証を得て,

得心することだ。このような,型や方法を信奉

して,子どもを引き回すことで得心し,場の関 係性を読まず,状況の文脈性を解釈しようとし ない教師の授業では,学びは生まれるはずもな いのである。  この仮想授栗と違って,まず先にミニマル・ ミュージックありき,即ち先に方法ありき,な のではなかった。これが,基礎・基本を考える 上でことごとく違ってくる。フレーズの漸次変 換システムによる創作でもなければ,音の反 復と差異を感受できる能力や,終止感の表現 形式を工夫できる力の育成が目当てでもない。 3,4,5章で語ったように,体験された四囲的 世界の相互関係性の文脈の中で開かれた次元な のである。それを,例えばたまたまミニマル・ ミュージックという音楽文化所産の視線で一側 面を切り取れば,そのようにも見えるという次 第のものなのである。  その意昧から,彼らの相互行為の対象の一つ であった「階段」について解釈しよう。昇降に よる架橋が階段の一般的な機能だが,昇っては 降り,降りては昇ってして階段で遊んだ思い出 は誰しもあるだろう。昇ると降りてみたくなる −69 し,降りると昇りたくなる。O君からS君へ, S君からO君へと,始点と終点が反転する面白 さを,彼らはリズムの交代で聴かせ,音を受け 渡しする身振りで見せてくれた。丁度一人に1 段ずつで全段だから,この階段をすっかり昇降 したことになる。音は斜め方向を強調して流れ る。こうしてこの階段とつき合っていると,ド ンと一つの落ち着き感が欲しくなった。階上に 居るのでもない階下に居るのでもないような, 居場所の宙づり感に披らは着地点を求め始め る。アーノルド・ローペル作の『ふくろうくん』 というお話は,階段に秘められた宙づり感を愛 らしくも直截に語りかけてくれている。  それに加えてこの階段は校内と校外を架橋す る役目も持っているから,今は授業中なのだけ れど,学校の内に居ないようでもあり居るよう でもあるという,不思議な昂揚感が開ける。ま だある。この階段に座ると,前の広場に,他の グループが島のように点在して活動しているの が見渡せるから,パノラマの眺望がある。この ようなこの階段の立地性を引き出して,彼らは 4,5章で述べたような関わり合いの開放感と 粘りと興奮を現前させたと言えるのである。こ れが,この階段との彼らの相互行為による現象 性である。  彼らの獲得したものが知識であれ能力であ れ,実際の文脈性に制約され,限定されたもの であることは言うまでもない。本稿で私によっ て語られた,彼らの辿った道程はもはや一回き りである以上,それらははなから一般的かつ抽 象的なものとして形成されるのではない。すっ かり階段に味を占めた彼らは,あの感動をもう 一度,とばかりに第3時では体育館内の階段 に取りかかった。階段ならどれでも同じように あのような作品を創作できると思い込んだのだ ろうか。例のように粘り強く挑んだ彼らだった が,落胆してその階段を後にしたのである。  そろそろまとめのような言い回しをしなけれ ばならない。「音楽をつくって表現する」学習 活動のねらいは,活動を通した音楽学習の提え の提唱である。即ち,子ども達が四囲的対象世 界とも仲問とも相互関係を切り結びながら,自

(12)

分達の音楽の次元を切り開いていく,その道程

での状況の文脈性を解釈することによって浮き

彫りにされる学びを授業論として提え返す,と

いう音楽科の構造を脱構築するための磁場を提

起しているのである。敢えて意図して専門学界

(あるいは業界)用語を使わないで述べよう。こ

の道をこのように通ってここまでおいで,ここ

まで来たら,この評価をあげるよ,という基礎

・基本の立て方とは対極にあるのだ。道を求め

て歩いたあとが道になった,という学びの捉え

での基礎・基本は,その道そのものの中に埋め

込まれて存在するのである。私は,この6人の

6年生に求道者の姿を垣間見てしまうのを隠し

きれない。

 (注)スティーブ・ライヒに代表される作曲技 法。この技法は,複数の奏者が同じフレーズを わずかに異なった周期で反復し,ずれが徐々に 積み重なって,漸次的に変化するテクスチュア を作り出すものである。

参照

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