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中央アジア・シルクロード都市-香川大学学術情報リポジトリ

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21 中央アジア・シルクロード都市 坂 口 良 昭 〔序〕 筆者は従来,日本の都市の研究とともに,広く世界各地の都市の比較論にも 強い関心と興味をもってきた。そして,ヨ・−ロッパ,北アメリカの先進資本主 義国都市をはじめ,ソ連の先進社会主義国都市,ならびに東南アジアの発展途 上国都市などを実地に検証し,それを概観する比較都市論の小著をあらわして きた。しかし乾燥地域の都市については10数年前の北アフリカ都市を除いてい まだ見聞が少なく,その面の補充の必要性を感じていた。幸い2年前の夏,中 央アジア砂漠地方の旅行のさい,長年夢にえがいてきたシルクロー・ド諸都市の 今昔を見学する機会があったので,乾燥地都市の研究の素材としてここに・その 見聞記をまとめた次第である。したがって研究報告とはいえないが,「一般教 育研究」編集委員の方から,時には毛色のかわった紀行報告も面白かろうとい うことで掲載の依顔があり,−一つの試みとして筆をとった次第である。 〔1〕 中央アジアの自然と歴史的背景 巾≪自然≫−中央アジアの範囲は.厳密には中々画定しがたいであろうが,概説的 に言えば,ユ・・−ラシア大陸の内陸乾燥地域一・帯で,はば東はゴビ砂漠の東縁, 西はカザ■7草原の西縁,北は.シベリアタイガの甫緑,南はイラン・アフガニス タンの北墳の範囲である。砂漠の成因には中経皮高圧帯がその主因をなすもの が多く,サハラ,アラビア,メキシコ,あるいは南半球のオ、−ストラリア,カ ラハリなどの大砂漠がその典型的なものである。 中央アジアほその点,内陸性砂漠の代表である。カスピ海をはじめ,アラル 海,パル/、シ 湖,イシク湖などの巨大なものからロブノル湖や名もない小さな ものまで,多数の出口をもたない内陸湖が山麓一・帯に.分布している。これらは 周囲の高山からの融雪水による外来河川によって滴養されてきた。これらの内

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坂 口 良 昭 22 陸湖や外来河川が中央アジアの古代からの文明を支えてきたといえよう。古代 から連綿と続いた衆西貿易のルハー・ト,いわゆるシルクロ・−ドもこれらの山麓を 辿、つて自然に.できた発条もの細いル・−・トである。 この中央アジアの北半分は主にステップ(BS)気候であり,南半分が主に砂 漠(BW)気候にぞくしている。 ステップに.しても砂漠にしても内陸性の厳し い自然である。家・冬のこ摩性であり,春・秋の漸移季は殆んど存在しない。 タシケ∵/トの例でも4月の気候は冬と夏の隣り合わせであり,雪が降った翌日 が夏の灼熱の太陽となったり,また反対になったりする。冬の酷寒,夏の酷暑, その年較差は驚くべきものがある。ただし夏の450Cもの酷暑も乾燥のため耐 えがたい程のものではない。日本の暑熱とは全く異質のものである。雲一つな い砂漠の夏の空は−・種の壮快感をすら与える。 ≪南北問題≫一長い中央アジアの歴史のうえで,この北のステップと,南の砂 漠との関係ほ.宿命的な結びつきをもってきたといえる。 北のステップは古代から現代までノマディズム・遊牧民の世界である。南は

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中央アジア・シルクロード都市 23 外来河川を利用したオアシス都市国家群の世界であった。 遊牧民の世界は一言にしていえば天賦の侵略者集団である。その氏族や部族 の社会構造,生活様式そのものが絶えざる争闘のための最適の戦闘集団に造り 上げられている。その社会構造は強固な共同体的結びつきをもち,完全な運命 共同体である。部族の敗亡は部族全員の死か奴隷化を意味している。彼等は移 動式天幕に住み平時は家畜とともに,そして戦時には戦闘とともに部族全員が 迅速に移動する。老人も女・子供もー・丸となった皆兵組織であり,四六時中則 戦体制下に.ある軍事的社会組織といえよう。その上,彼等の天性.の騎馬の技術 は,すばらしい機動力を発揮し,神出鬼没,相手を圧倒する。その代表的ケ・−・ スが蒙古のチンギスハソであり,ウイグル族である。 彼等が周辺の農耕部族を襲撃略奪するのは天与の収穫に相当する。それは患 ではなく,生き抜くための当然の権利の行使にすぎない。そして彼等の襲撃の 苛酷さ,残虐さ,破壊の徹底さにほ,極乾燥地に.住む民族のぎりぎりの,生存 の限界線上のきびしさが反映されている。 −・方,南の砂漠気候ではどうか。砂漠そのものは人間の生存を許さない死の 世界である。しかしオアシス,なかでも外来河川という巨大な帯状のオアシス 地帯の発達するところでは,数多くの豊かなオ・アシス都市文明が栄え.た。これ はナイル川,チグリスユ、−・フラテス川,インダス川など古代文明の発祥地をあ げるまでもない。 中央アジアでも特に大きな外来河川を持つのがアラル海である。世界の屋.根 バミ1−ル高風 その最高蜂コミ.ユ.ニズム山ほ7,495mに.達する。この高原の万 年雪除からの融雪水は,アム川,シル川の両大河となってキジル砂漠,カラ砂 漠を横断しでアラル海に流入する。 これらの本支流の山麓寄りに古くからタ・シケント,サマルカンド,コーカン ドなどの都市文明が発達した。 さらに砂漠の巽中にはブハラ,ヒバ, ウルゲンなどの商業都市も栄え.た。 これらのオアシス都市は竜釆から次に図示するような共通のバク・−・ンがあ る。まず都市は立派な城壁で囲まれていて,その周りには小規模ながら農村が 発達している。春の雪どけの大洪水をうまく連用して地味もこえ,水分も含ん

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坂 口 良 昭 24 だ新鮮な土壌に小麦,とうもろこし,き び類,ぶどうなどの果樹を耕作してかな り豊かな収穫をあげてきた。これらの作 物は城内の都市住民に供給されるもの で,一応自給自足的経済単位/を構成して いる。城内は−・般に狭く,日干し煉瓦で できた窓の少ない箱形の民家が密集する 市街地(シャフリスタン)が展開する。 シャフリスタン︵市街︶ ラバト︵拡張部︶ 特に中世・以降イスラム教の侵入定着後は オ■アシス都市′くタ・−ソ図(坂口原即 おびただしい数のイスラム寺院が造られた。ブハラの例では360もの寺院があ ったという。そして砂漠の支配老の居城アルクは城内の広い地域を占め,二慮 の城壁で囲まれた要塞であり,今も過去の栄光の追跡を数多く止めている。残 虐にして苛酷な拷問や毒虫牢,水牢など恐怖政治の動具建てが豊富に揃ってい る。富の集中を示す立派な宮殿やその展示品 数十人の美女を常に擁していた 後宮跡などにかつてのサルタン・エ・ミ、−・ル達の生活が偲ばれる。またシルクロ ー・ド都市の名のごとく,多数の隊商や商人の群れが日中集まり散っていくわけ であるが,彼等の隊商宿や取引市場跡も残っている。また市民用のバザ・−ルも 喧騒のなかに今も活況を示している。 これら日中の騒々しい城内も,夕方7時に.なるといくつもある城門は血斉に 閉められ,翌朝5時まではどんなことがあっても開門されなかった。夜の城内 は死の町で,暗黒のなかに人々はひっそりと家にとじこもった。朝5時開門と ともに再び喧騒と活気に満ちた雑踏が挺ってくる。このように厳孟な城壁と城 門は言うまでもなく他部族,特に北方遊牧民からの襲撃から自らを守るための 自衛手段であった。 しかし,発展する都市は人口もどんどん増加するので遂に城内に収容しきれ ない。そこで城壁を外に−・部継ぎ足して新しい市街地を城外につけ足すのがラ バトと呼ばれるもので,大きなオアシス都市にはよく見られる現象である。い ずれにしてもオアシス都市はその地理的位置によっては大変な発展をみせたも のである。いわゆるシルクロ・−ド都市と呼ばれる東西隊商ル・−・トの幹線に位置

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中央アジア・シルクロ・−ド都市 25 するオアシス都市は古代,特に中世には一・段と繁栄をみせた。ブハラ,サマル カンド,コ・−・カンド,ヒバなどはその代表であろう。これらオアシス都市は平 和な通商の拠点として豊かな商業都市であるばかりでなく,東西の文明が交叉 するので高い文明の集積地でもあった。チムーーノレ帝国時代のサマルカンドなど はその典型であろう。世界の撃とうたわれ,大小の運河が走り,線の木々や花 にうずもれた町並,輝く宮殿,ウルグべクの建造した当時世界一・といわれた天 文台をはじめ世界の一・流の文人・学名がつどったという。 砂漠の国家とはこのような富と文明の集積したオアシス都市の連合体であ り,都市が点状に分散した,面的なつながりのない国家である。彼等はキャラ バンル・−トの安全確保,著摂した都務の富と施設の保持のた捌こも平和を愛好 する民族であり,北部遊牧民と本質的に異なっていた。北部遊牧民にとっては これら南の砂漠都市は絶好の略奪目標であり,戦えば必ず遊牧民の完勝が常で あった。オ・アシス都市の多くは幾度も遊牧民の襲撃で一・木−・草を残さず,文字 通りの幽鬼の崖と化したものも多い。ペンジケントの廃墟は現在,全くの「つ ちくれ」に化している。 サマルカンドもチンギスハンの襲撃濫より全くの廃墟と化し,チム・−ル以後 の現在のサマルカンドは旧市の廃墟とは別のところに.全く新しく造られた市街 である。 しかし征服者であり勝利者である遊牧民は,結果的には被征服者の文明に同 化されてしまう。中国での元王朝の韓民族文化への同化と同じく,中央アジア でもチンギスハソの後えい達は,いくつかの汗国に分裂後,完全にイスラム文 化に同化した。チンギスハソの子孫を自称するチムールの成功の原因は,遊牧 民とオ・アシス都市民との巧みな結合にあったという。遊牧民による隊商ルー・ト の治安の保持,そしてオアシス都市民による物資,財政の負担によって串の両 輪が歯車に.合ったということであろう。 ≪シルクロ・−ド都市とその運命≫一周知のようにシルクロ・一ドの名称はドイツ の地理学者,19世紀後半に主に活躍したリヒトフォ・−へンの命名によるもの であるが,彼は生涯を支那の研究に没頭,名著「支那」を残している。 文字通り中央■アジアはこ乙∴−ラシア大陸の真申に位贋し,東方中国文明と西欧

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坂 口 良 昭 26 ビザンチン文明との交流の接点としてその役割を運命づけられてきた。一・般に 天山北路,天山南路,西域南道の3ル・−−・トがよく知られているが,いずれも天 山山脈の南北の山麓とクンルソ山脈の北麓に沿う河川オアシスを連ねた道なき 道である。 どのル・】一・・・トをとるにせよ,オアシスからオ・アシスの間は全くの道なき砂漠の 道であり,さらに砂漠を終わると今度は数千メ・−・トルの高山が立ちはだかって いる。北路には天山山脈が,南路・南道にはカシェ.ガルをすぎて′くトー・ルの大 高原がひかえ,いずれも万年雪を頂く。それらの高い峠を幾重にも踏み越え.な ければ中央アジアのサマルカンド,ブハラには達しない。その間には傷病の危 険,山賊や野獣の危険,地図にもない谷から谷をたどり路に.迷う危険,それら 幾多の危険を冒して二千年に.近く連綿として絹糸のごとく細く,しかし絶え.る ことなく続いたこの交易のルートは我々を魅了せずには.おかない。シルクロトー ドとは実に優雅な名前をつけたものである。ロマンチックな響きが人々の心を つかむ。しかし現実の自然ほ余りにも苛酷なものである。文字通り地に刻まれ た人間と自然の戟いのしるしである。 記録ではすでにB.C.1世紀漢の武帝による大宛国(フエルガナ盆地)討伐 の大軍が天山南路のルートを通ってフエルガナに攻め入っている。伝説的名馬 汗血馬を求めての行動といわれるが,その頃から東西の交易ル、・・・・・・トが形成され てきたという。中国商人とともに.西のソグド商人(現在サ・マルカンドのある一・ 帯・ゼラフシャン川流域の豊沃な地方名)は,その商才と積極的な行商で当時 その名を知られていた。ソグド人はかくて古代,この鞄方に高い都市文明をう ち立てたが,古くはアレキサンダ・−・大王の侵略を受け,その後7世紀から8世 紀にかけてアラブの侵入に・よりソグド文明は消滅した。中央アジア南部は完全 にイスラム化され,サ・−・マン王朝などアラブの支配下となった。その後トルコ 系の勢力の伸長とともに.ガズナ王朝,ホラズムシャ王朝などトルコ系王朝が勢 力を振うにいたった。 13世藩己にはチンギスハンの大便暗があり,14世牒己にはチムー・ル帝国が撞鼠 16世紀にはそれが小王国に分裂という波乱万丈の変化を,これらシルクロ・−ド 都市はくり返したわけである。激しい栄枯盛衰を経ながら不死鳥のように生き

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中央■アジ■7・シルクロ・−ド都市 27 扱いたこれらオアシス都市の生命力はやはり,連綿と続くシルクロー・ドの交易 拠点という都市機能によるものといえよう。 ≪社会主義自治共和国へ≫一近せに/なるとブハラ汗国,コ−カンド汗国,ヒバ 汗国の3大汗国に統一・される。コ・−カンドは∴7ユ.ルガナ盆地一博を支配し,天 山北路の−・分岐路と南路の拠点として発展した。ブハラほゼラフシャン流域一・ 帯を支配し,サマルカンドもその属下に.入り,もっとも繁栄したシルクロ、−・ド 都市となった。ヒバはウルゲンとともにアム川下流,全くの砂漠のホラズムー・ 帯を支配し 現在も最も中世の面影を色漉く残している都市である。 3汗国ともイスラム教の拠点であり,汗は封建的領主として,また宗教上の 司祭として,絶対者として君臨した。 その暴虐な圧政ぶりは現在各地に.残る博物館に数多く記録が残されている。 その後19世紀中にロシヤ帝国の直轄植民地(コ・−カンド),もしくは,属領化 (ヒバ,ブ/、ラ)されていった。そして1917年のPシヤ革命以後,1922年まで に.完全に社会主義革命を達成,民族自決主義の方針のもとに多数の社会主義自 治共和国を形成,ソビェ・上達邦の山・具に加入した。中央アジアでは,ウズベク 共和国,トルクメン共和国,タジク共和国,カザフ共和国,キルギス共和国な どがある。 同一・民族を統合したとはいえ.,長年の侵略のくり返し,東西交易の流動の蓄 積の結果,この地方は稀にみる多民族,多人種の混合地帯とな、つており,トル コ系,アラブ系,イラン系,アジア系,スラブ系を主軸に.,どの共和国も数十 の種族をかかえている。 これち共和国はこの雑多な民族,人種の融合に努めるとともに,各自の民族 色の保存にも意を用いている。そしてかつてのシルクロトード都市時代の遺跡の 発掘,保存に大変な熱意を燃やし,最近次々と重要な退跡が発見されている。 サマルカソドのウルグベク天文台などもその代表である。 これらの遺跡発掘とともに,外人用ホテルなども完備して外国人旅行者へ次 々と解放されている。今度の旅行で感じたのは,どのシルクロー・ド都市へ行っ ても美しく若い女性ガイドが多数いて,英・独・仏など主要外語をあやつりさ っそうと活躍していたことである。いずれも地元大学の外国語科を卒業したば

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坂 口 良 昭 28 かりの子が多く,ソ連インツーリストの所属公務員である。話によると,外人 用ガイドはこの辺境の地では大変魅力ある職業で,先生志望を上廻って希望者 が多いという。 それに対して飛行機のスチェアーデスは大変見おとりする者が多かったのも 面白い。田舎のバスのオバさん車掌という感じで,外国語もろくろくしゃべれ なかった。それに近代的ジェット機の中に脱が飛び廻っているのも,いかに も庶民の足となっているソ連ローカル空路の雰囲気を示していて愉快であっ た。 〔2〕 シルクロード都市の現況 上述の通り,ソ連インツーリストは遺跡の発掘,保存の進展とともに,外人 用宿泊施設etc.の準備の完了したシルクロード都市を,順次外国人に門戸を開 いている。 中央アジアの諸都市も自由に外国人が訪問できるようになったのは最近のこ とである。 現在外人に開かれているシルクロー ド都市のうち,最も中世の特色を止め ているのがブハラ市である。 ㊦ プハラ市一視在人口10万人, ゼラフシャン川下流に位置し,周開は 完全な砂漠に取り巻かれている。近世 のブハラ汗国の首都として,中央アジ アのイスラム教のメッカとして,今も なお狭い城内に360ものイスラム寺院 をもつ。中世,近世を通じてシルクロ ードの中核都市として栄え,日中は砂 漠をわたる隊商の集散する騒然たる活 気にみちた都市であった。これら隊商 の燈台であり,目標物であったのが, ポイカリアンのミナレット

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中央アジア・シルクロード都市 29 ブハラのシンボルで あるポイカリアン寺 院のミナレットであ る。ミナレットは回 教寺院に付属する塔 で,Ⅳ一日5回の祈藤 が鐘の音とともにこ こから流れ,夜は油 に火をともして燈台 の役割もする。ある ア ルク 城門 ときは罪人をつきおとす死刑執行の場ともなった。数多く中央アジアに残るミ ナレットのなかでも,このブハラのポイカリアンのミナレットは最も古く最も 名高い。このミナレットの建造は1127年,高さ50mに達し,なお地下10mは 長年の洪水のため埋没しているという。そのシンメトリックな機構の美しさは 比類のないものである。 このポイカリアン寺院も含めて,社会主義政権下になっても,イスラム教が 意外と盛んなことに驚かせられた。ソ連の共産革命後しばらく宗教も禁止状態 にあったが,のちに自由化されたことは知っていたが,中央アジアに釆てこれ 程イスラム教が民衆の生活に板をおろしているとは思わなかった。これら寺院 にはメドレセと呼ぷ回教学院があって,今も僧侶を目指して学習にはげむ若者 が多い。毎年,優秀な者はアラビアのメッカへ留学が許されるという。 このプハラはポイカリアンの外にもリヤビハウズなど数多くのアンサンブル と呼ばれる大きな寺院集合体がみられ,いずれもメドレセを併置している。 城壁は立派で,高さ10.5mもあり,11の門がかつては夕方7暗から朝方5 時まで完全に閉門され,なに人も出入りを許されなかった。夜間は人の自由な 出歩きも許されなかったので静かな暗黒の町であった。そのかわり日中は隊商 隊が集散して喧騒をきわめた。それらキャラバンの利用する隊商宿(キャラバ ンサライ)の遺跡も残っており,また中世の市場建築物も4つ程良く保存され ている。いずれも旧市の中心部フルンゼ通りにあり,バザールヌイ・クポール

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坂 口 良 昭 30 と呼ばれ,屋根は無 数の円形すなわち大 小のドームの集合体 でまことに奇妙な形 をしている。建物の 中は十字に大通りが 交叉し,その通りに 画して,四角形,六 角形,八角形のお店 が逮らなっていて, バザール・ヌイ・クポール いろいろな商品を扱う商店であったり,いろいろな物を加工生産する細工場で あったりする。通りは薄暗く,風が抜けるので大変涼しいので,灼熱の砂漠を 渡ってきた隊商隊にとっては得がたい安息の場でもあった。これらのクポール の中には今でも工場や商店として利用されているものが多い。シルクロードの 証しともいえるこれらの建物はもはやプハラとヒバ以外に残っていないとい う。 大変貴重で,かつ印象的建物である。 市街は道も狭く,屈曲して中世風の迷路都市の様相を止め,民家も大部分が 泥壁でできた四角い箱型の粗末なもので,近代都市とはお世辞にも言えない0 それが我々旅行者に は最高に有難いこと なのである。 市街の南部に近代 的ホテルや新しい公 園など新市街を現在 建設中で,旧市街は なるべく旧態のまま 残す方針と聞く。 そのモダンなホテ タキ・サラファソ・ドーム

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中央■アジア・シルクロ・−ド都市 31

ルほ主に外人用で我々も泊ったが,さすがに.砂漠というか宿泊中に・断水とな

り,水洗便所には大変困らされた。また窓は二患窓になっていて,冷房がなく

ても日中の外気温450Cに.もかかわらず室内は.ひんやりとしている。夏でも窓

を開けたら熱風が吹き込んでくるので密閉してこおくのである。

市街地北西端に水を引いた森林公園・キ、−ロ■7公園がある。その木陰でチャ

イハナと呼ぶ露天喫茶台がある。ここで,1どびん,10カペイカでトレコ茶や

紅茶を呑むのは凛に快適であった。ともかく乾燥気候はどんなに酷熱の日でも

家の中とか木陰は結構快適なものであることがわかった。多分,泥の家は酷熱

の夏に.も,酷寒の冬にも大変過ごし易い居住様式に違いない。

ブハラ汗国の時代の汗の居城がアルクである。4haの広さをもち小高くな

っていてそれ自身の城壁をもつ城中放である。現在は大部分の遺跡は消滅し

ている。何世牒己もの間人民の増悪の的であったところで,城門から広場に通ず

る通りに.沿って今も土牢が並び,水牢や毒虫牢など暗く口を開けている。広場

では.しばしば残酷な処刑がみせしめに行なわれた。1918年2月,タシケントか

らの革命軍の講和使節団22名がこの水牢でだまし討ちになったことは有名であ

る。しかし1920年汗の封建体制はくつがえされた。

① 砂漠の緑化とエンゲルスコルフオ・・−・ズーブハラ滞在中,一月郊外の砂

漠見学に出かけた。野生化したラクダが時折遠望でき,気温450Cを越える

中を冷房もないボロバスで一・直線に進む。しかし砂漠といっても意外に潅木が

多い。聞いてみると暴風による砂漠の砂の移動が激しく,苦労して開拓したコ

ルフォ・−ズを侵食するため,その防止用に乾燥に強い「サクソウ」という潅木

を飛行機から播種したのだそうである。文字通りの砂漠の緑化ということだ

が,一応成功している。コルフォ′・−ズの話が出たので翌日ブハラから北へ40

kmの砂漠中にあるエンゲルスコルフォ・−ズを訪問してみた。このコルフォ・−

ズは1931年に入植,砂漠の耕地化に努め,現在5,500haの土地に・4,500haの

耕地をもち,3,100戸,21,000人のメンバ・−・を所属させている大コルフォ1−ズ

である。−・般に大家族が多いことがわかる。

労働力は7,000人で,このコルフォ・−ズ内に小学校20校,中学校6校あり,

400人の教師が教育に従事しているという点からも規模の大きさがわかろう。

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坂 口 艮 昭 32 なお300人が各地の大学へ遊学中という。 コルフォーズ共産党委員会が最高議決機関で,13名の委員からなり,3年毎 に改選される。この委員会の統率下に,教育,生産活動すべてのコルフォーズ 活動が展開される。 生産活動では綿畑が中心で3,300ha,年産12,000t,その他ぶどう中心に果 樹,野菜,桑,じゃが芋,飼料作物が作られ,牛2,000頭を飼養する。珍しいの は養蚕で,蚕102tもの生産を昨年度あげている。綿つみはコットンピッカー で行ない,45台を常置している。トラクター50台,耕運機170台,トラック45 台,乗用車5台とすべてスケールが大きい。冬の間ほ準備期で,春になると敵 雪水で大洪水とな り,一面の泥海と化 する。これが砂漠の 農業上きわめて大切 で,夏の間アルカリ 化した畑は,この洪 水で塩分を押し流 し,かつ新鮮な土壌 供給で無肥料に近い 状態でも豊かな農耕 地となる。水がひい たらただちに播種, 夏中7∼8回アムダ リア川からの水を潅 水して9月∼11月に 収穫される。 生産物ほ大部分周 家に納入され,その 収納代金がコルフォ ーズの財源となる。 放 家 前 景 農家内部12人家族

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中央アジア・シルクP−ド都市 33 このコルフォーズの1975年度の総収入1,000万ルーブルに達した。うち半分を 将来の施設更新や発展のための基金として,残りの500万ルーブルは各メンバ ーに賃金として支払われる。機械系職員は月200ルーブル,一般メンバーほ100 ルーブルというのが標準とのことである。邦貨に直したら非常に低額になる。 各農家はこれら賃金収入のほか,自宅近くの自由菜園(全コルフォーズの面 積の15%が私有)で各種の野菜,果実,小家畜をそだて,これをプハラなどの 都市バザールへ持参,バザール内の自由市場部分で自由に販売する。新鮮なた めか市民からの評判も良く,公定市場のものより繁昌している。自由価格だか ら,売手,買手の交渉が中々面白い。 このコルフォーズはさらに拡張計画を実行しつつあり,新たに4つの部落が 建設中である。砂漠 の線化,耕地化も本 格化しつつあるとい えよう。 ⑳ サマルカンド とベンジケント… サマルカンドはシル クロード都市として 最も著名であり,か つ最も古い都市であ る。ゼラフシャン川 流域は中央アジアで も最も肥沃な地方で あり,古代ソグド地 方として知られてい た。その中心都市と して,古くマラガン ダの名で呼ばれ, B.C.4世紀にはア レギスタソのメドレセ

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坂 口 良 昭 34 レキサンダー大王の 侵略を受けている。 豊かな土地を背景に 繁栄し,またソグド 商人の名で中国にま で知られるほど積極 果敢な行商を行な い,東西交易の祖と も言える民族であ る。現在,ソグド人 シャ岬ヒージンダ参詣客連 の遺物は中国やモンゴルから,あるいは,東,酉トルキスタンやインドからも 発見されていて,その国際的活躍が証明されている。マラガンダもその商業拠 点として発達を続けた。天山北路,南路,西域南這いずれを通っても一旦サマ ルカンドに集結するようになっていて,その点シルクロードの要の位置を占め ていた。しばしば外敵の侵略の目標となり,7世紀のアラブの侵攻,そして13 世紀のチンギスハンの大侵略と2度にわたって徹底的に破壊された。それぞれ の破壊のまえのサマルカンドは光り輝くばかりのオアシス都市であったとい う。大小の運河網が走り,鉛管を使った上水道網ができ,木々は禄に,花咲く 都市で,世界各国の商品が満ちていたという。その豊かな町がアラブやチンギ スハソの破壊によって一木一草なにも止めず幽鬼の町と化したわけである。そ れは現在のアフラシャプの丘に位置し,現在発掘が続けられているが,壁画な どからかつての見事な都市生活が回想されるのである。 現在のサマルカンドはこのアフラシヤプ丘から谷−・つへだてた現在地に新た に建設されたもので,不死鳥のごとく匙り,14世紀中葉,チムールの接頭とと もにチムール帝国の首都として再び繁栄をとりもどした。チムールの孫にあた るウルグベタは特に学殖豊かで,自ら巨大な天文台を築き,正確無比な星座図 をつくったりした。現在その天文台の基礎部分が発掘されているが,その規模 の立派さがしのばれる。かくてウルグべク時代ほサマルカンドは世界の文人・ 学者の集まるところとなった。

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中央アジア・シルクロード都市 35 ウルグベタは不運にも,自らの子供に殺され,チム、−ル帝国もまもなく崩壊 する運命を辿り,近世ごに.なると中央アジアはいくつもの小汗国に分裂し,サマ ルカンドもブハラ汗国の一・連合都市となって,ブハラに繁栄を奪われすっかり 荒廃した。かつてのサマルカソドの繁栄は多くの遺跡に偲ばれる。しかし遺跡 も現存するものはすべてチム・−ル帝国時代のものばかりで,その以前のものは ジンギスカンによって無と帰し,それ以後のものはとりたてる程のものがな い。それだけチム、−ル時代のサマルカンドの繁栄が印象的である。町の中央に・ あり,現在バスのタ・−・ミナリレともなっていて賑やかなレギスタン広場は3つの メドレセ(回教学院)やミナレットからな、つているアンサンブルで,すっかり 修復されたこともあって大変美しく見事である。 チムールーー・族をまつるシャ・−ヒ・−・ジンダと呼ばれる霊廟群もすはらしい遺跡 である。そこでほ,多数の地元のイスラム教徒がかつての支配者の霊に敬けん な祈りを捧げている。それをみて社会主義圏に居るのを忘れ,日本人の祖先崇 拝を連想したものである。 この退跡の背後に.ジンギスカンの破壊した古いサ・マルカンドのアフラシヤプ の丘が展開する。 その他チム・一ル自身の廟であるグル・エミール,半分廃墟になっているビビハ ヌイム寺院などさすがに中央アジアを代表する歴史的都市である。 現在,サマルカンド大学,カラクル羊研究所や近代工場もできて,再びゼラ ・アシャン盆地の文化,経済,産業の中心となっている。人口約25万人の都市で ある。 サマルカンドからゼラフシャン川に沿って砂漠を進むと,まもなく旧ペンジ ケントの追跡と,現在のペンジケントの町並がみられる。 1200年前ソグド人3,000人が住む都邑として繁栄した町並が,アラブの侵攻 のもとに全滅して,現在は全くの土くれの塊りと化している。7世僑己のアラブ の侵略により,ブハラやサマルカンドとともにこのペンジケントも破壊され, 結局全住民が殺害されたという。このアラブの侵攻によって古代からのソグド 文明は地上から姿を消し,中央アジアはイスラム文明一色に塗りかえられたわ けである。

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坂 口 良 昭 36 この古代ソグドの 貴重な追跡ペンジケ ントも,元のストリ ートや住居,王城, 城壁などの跡が発掘 されている。目もく らむような灼熱の太 陽のもとで,一木一 草ない赤銅色の土く れの廃墟にたたずむ ペソジケント廃墟 とき,アフラシヤプの古サマルカンドの追跡同様,砂漠の泥の文明のはかなさ と,砂漠での人間闘争の激しさ,寄離さを思わずにはいられなかった。 ㊤ フエルガナとコーカンドーパミール高原の北濃と天山山脈の西の支 脈キルギス山脈との間に挟まれたフエルガナ盆地は,シルダリア川の上流にあ たる。漢の武帝の頃の大宛国として知られ,汗血馬の産地として古くから有名 であった。この豊かな盆地にはいくつかの都市があるが,古代からのシルクロ ードの通過地点として,要の役割を果たしてきたのがコーカンドである。近世, 盆地一円を統轄したコーカソド汗国の首都としても栄え,1875年以後はロシヤ 帝国の直轄地となり郡役所がおかれた。 現在はフエルガナ市が盆地の中心都市となり,コーカンドは人口15万人の歴 史都市として旅行者が集まるところとなっている。汗国時代のクダヤハン宮殿 が保存されていて,城壁は立派に残っている。内城の建物はハーレムをはじめ 多くは破壊され,残ったものほ博物館として公開されている。その展示物のな かには日本からの九谷焼と思われる立派な大つばが一対あり,また西洋の大理 石像なども数多く,東西交流の姿をまざまざと見る思いがした。 フエルガナ市の方は線の多い菜しい近代都市で,近くに石油が発掘されて以 来,石油コンビナートもでき,人口も増加し約16万人となっている。立派なグ ム(国立百貨店)もでき盆地の新しい中心となっている。しかしコンビナー”ト の上空は赤茶色に染まり,抜けるような砂漠の青空に大きなシミをつくってい

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中央アジア・シルクローード都市 37 る。こんな僻遠の地 では大気汚染も問題 にもならないのだろ うか。 このフエルガナか らコーカンドへの途 中で見事なフエルガ ナ運河をみた。全長 270kmの長大なも ので,このような還 フエルガナりミザールの客達 河網がウズベク共和国にいくつかあり,これらのおかげで盆地一帯でも綿花中 心にいろいろな幾産物に恵まれている。砂漠の緑化のための努力は目覚しいも のがある。そのわりに自動車がおくれていて,フエルガナからの貸切バスが出 発直後故障し,すく・、取りかえた革もコーカンドへの真申あたりの砂漠の中で 故障してエンコするしまつで,ソ連の近代化の肢行性を垣間みた思いであっ た。 ㊥ タシケント′−−ウズペック共和国の首都として現在中央アジアの中心都 市に成長し,人口も150万人を越えている。ソ連に南アジア,西アジア経由で 入ろ場合の南の玄関口で,その国際空港は立派である。また中央アジアコンビ ナートの中心で近代 工業都市としても注 目されている。上述 のブハラやサマルカ ンド,コーカンドな どと比べ格段に近代 都市となっている。 実は1966年春,敷 皮にわたってマグニ チュード8度級の強 緑に沈むタシケソト全景

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牧 口 良 昭 38 霹に見舞われ,町は瓦礫の山と化したのであるが,それを機会に全く新しい近 代都市造りが進められたものである。 サマルカンドとともにタシケントも,中央アジアでは最古の都市でシルクロ ード都市として栄えた。2000年もの歴史を持ち,ウズベク語で石の要塞の意味 という。しかし,地震後の近代化で古い避跡斯は少なくなっている。シル河支 流アンホル川に沿うオアシス都市で,17階建の近代的ウズベクホテルからみた 第一印象は線あふれる都市の一語である。周囲の山々が赤銅色に一木一草ない のに,タシケントの町中には一面に大木が生い繁っていて,その木陰での散策 は砂漠の夏の酷暑をやわらげてくれる。これらの木々ほ一朝一夕にして出来る ものではなく,長い伝統の生み出したもので,古くからタシケントでは木を伐 ることは罪悪であり,止むをえず伐る場合,一本伐ったら3本植林するしきた りがあった。その外,結婚したり記念すべきことがあるたびに植林をしてきた ので,このような砂漠の中の縁の町ができたものである。タシケントに限ら ず,砂漠のオアシス都市は押しなべて,どこでも緑の木を大切にし,意外と大 木が生い繁っているのに驚かされる。このような木々の樹陰にしつらえられた チャイハナという露台の喫茶店はまことに風土にふさわしい風物詩である。 前述の1966年の大地震の復興事業は今も続いていて,市中心部はすっかり面 目を一新し,赤の広J乳 ウズペック共和国ソビエト,党機関をはじめ,最新の グム(国営百貨店)やサーカス会館など各種の公共建物がモダンな姿を示して いる。郊外の住宅地 にはかつての士道り の古い住宅が地面に はりついているが, これらもどんどん近 代的アパートに改造 中である。ただその アパー トはいずれも プレハブ造りで,や や耐震性に問題があ タシケント・赤の広場

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中央アジア・シルクロード都市 39 りそうな点が気にかか、つた。 全体的にはウズベキスタンの文化を都市計画面にも生かすよう配慮されてい て,壁面の模様とか建物のデザインなどに生かされていた。 〔おわりに〕 タシケントを最後に空路・モスクワに向う。 雲−・つないキジルクム砂漠上空を通過する。砂漠の緑化といっても,それは まだごく−・部にすぎないことがわかる。見下すとただ一・面の赤茶気た不毛の荒 地が延々と展開するのみで,人間の生活のに・おいも感じられない。まもなぐア ラル海の北辺が見えてきたが,ここも人間の活動の舞台ではない。 その頃から青空に.フワッとした綿雲が一・つ二つとふえてきて,そのうち眼下 に.はステップの景観が浮きでてくる。そして,モスクワに近づくと空は.−・面の 雲に蔽われていた。余りにもあざやかな砂漠から湿潤への移行に思わずカメラ に手をかけたが,この国では空からの撮影は禁止されていたことを思い出した 次第である。 <参考文献> 間野 英ニ(1977):中央アジアの歴史 講談社 保柳 睦美(1976):シルクロ・−・ド地帯の自然の変遷 古今書院 Ⅴ.マッソソ・加藤訳(1970)‥埋れたシルクローー・ド 岩波新書 岩村 忍(1966)‥シルクロー・ド NHK 野々村一機(1966):ソグェ・ト旅行案内 中央公論社 長沢 和俊(1962):シルクロ・−ド 校倉書房 林 良一(1962):シルクロ・−・ド 莫術出版社

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