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ショーとウィックスティード--イギリス社会主義思想史のひとこま---香川大学学術情報リポジトリ

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ショーとウイツクスティード

ーイギリス社会主義思想史のひとこま一 木 村 正 身 Ⅰ.アポロ汐ア。 ⅠⅠ.ヘンリー・汐ヨークとショー。ⅠⅠⅠ.マル クスとレヨ−:./〝ざ才よc♂誌上の投稿論争。ⅠⅤ.クイックステイ−ド のマルクス批判。Ⅴ.レヨ−のクイックステイード批判。ⅤⅠ.ク イックステイ−・ドの応答と帰結。 ⅤⅠⅠ.(補論1)クイックステイ −・ドの経済思想。 ⅤⅠⅠⅠ.(補論2)クイックステイー・ドの土地社会 化思想。 I

19世紀80年代イギリスの「社会主義の復活」に最も深くコミットし,最も多

産的に.書き,最もしばしば屋内・屋外で講演・演説し,また,その時代の人と しては最も巨大な永続的影響をあたえるかたちで芸術的創作とその思想とを展 開した,という3つの特徴点を兼ね備えたことに∴ねいて共通する思想家とし て,われわれはウイリアム・モリス(William Morris,1834−1896)とi7ヨ一

汐・バ・−ナ−Iド。シ′ヨ∴−(George Bernard Shaw,1856−1950)とをあげること

ができる。モリスは,ショ−より22歳も年長であったし,それ紅,モリスがイ ギリス労働党の形成をさえ瞥見しえないで死んだのにたいして,ショーほ20世 紀の前半を完全に生き,しかもそのあいだに・,とくに劇作家として活動開始以 降,社会主義観の文脈を大きくかえたともいわれているのだから,両者を同時 代人と呼ぶことにはかなり問題もあるのは当然である。劇作家段階のレヨ− は,社会主義をけっして放棄はしないままながらも,したがって生涯の最後の 50年間をつうじ,不断になお穏当なフェビアン流の多種多様な論説を発表しつ づけながらも,現実主義者として内面的にフェビアニズムにたいして−愛憎両様 的であったとされているだけでなく,たとえばその主要な劇作において,‘‘life for・Ce,,の主張でもわかるようにこ一−チェやベルグソンの影響を受けて進化論 \、ヽJ

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香川大学経済学部 研究年報15 ユタ7β ・_ 2 − 的な「超生態学」(パmetabiology”)への志向をみせたり,ミ/ェイクスピア風に 万言的,または黙示録風紅無政府主義的でもあったりして,いずれにせよかれ の社会主義観は実質的に何転かし,とくに劇作家段階と・それ以前とでは,ない しはモリスの死去の時点の前と後とでは,コン1/ステントではなかったともい われている。1)また,そのこととも頗応して,ちょうどモリス解釈の場合と似 たかたらで,レヨ一に.おいても左右両側の解釈が対抗しつつあるようである。2) ともあれ,もし総体として「■ショ−の社会主義は,はやいころのマルクスの資 本主義告発への尊敬,フェビアンたちの穏当な諸施策への選好,社会の全面的 変質への無政府主義的渇望,の融合物であった」3)という判断が真相に・接近す るものとするなら,それは,ある意味ですでに晩年のモリスが諦観的に到達し ていた見地から意外にもあまり隔たったものではないということ紅なるかもし れない。 だが,そのような全生涯的な規模での両者の社会主義の比較を目ざしながら も,いまただらにそれについて早急な判断をおこなうことは差し控えるとし て,1880年代に両者ほ,それぞれ独立な経緯でたまたまおなじひとつの社会主 義運動の高まりにとびこみ,かつ,・それを媒介として識りあって以来,思想上 の重要な相違にもかかわらず,さらに.いっそう重要な共通地盤の相互確認のう え.に,公的紅明確な連帯を維持しながら社会主義の普及・宣伝のため紅倦むと と.ろなくおびただしく書き,いっしょにデモし集会演説しつづけたのであり,こ のような直接具体的な意味で,両者は社会主義者として同時代人であった。加 えて私的に.も,両者は親しい友人として不断紅交際・信頼し,助けあったし,も っと具体的紅は,ショーのはうが,社会主義者ぎらいのモリス夫人に.遠慮しな がらも,長年にわたっでモリスの宏一ケルムスコット・ハウスやケルムスコ ット・マナー一に足しげく出入しつづけたし,また,そこにはあわせて−,シ ョーーのおびただしい女人遍歴のなかでおそらく例外的に最も純粋にプラトニッ

1)James W,Hulse,RLIE!OhItjolljstsilL LolldoIL.A StlL4JIOf FiLIC LT7tO,1hodor Soci−alists,1970,Chap.VIII.糾Shaw:Beyond Socialism,けesp.p.193. 2)たとえば,AlickWest,GeorgeBernardShaw:A00d Man Fallen Among

Fabians,1950.とA.M.Gibbs,Shaw(Writers andCritics),1969.との対席

をみよ。

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一 3 − ショーとクイックステイ−ド クな恋愛(“Mystic Betrothal’’)の相手としてモリスの娘メイがいて,かの女 もまた社会主義に.明るかったという特殊事情も手伝っていたに.らがいない。4) ともかくも,両者が公私とも紅肝胆あい照らす間柄として一路始したことほ,明 白であろう。 反面,こ.のように狭く,おなじ「社会主義の復活」期の社会主義者という局 面に.観察を限定するとき,あらためて両者の社会主義思想の内容・方向の重要 な差異がクローズ・アップされてくる。それは,今日でほすでに.はぼ明瞭なよ うに,簡単に.いって革命的・科学的社会主義(マルクス主義)と漸進的・議会 主義的社会主義(フェビアニズム)とのちがいであった。そして,この差異と, 当時の局面における前者の挫折,後者の成功というその対照的帰結とが,イギ リス社会主義のゆくえに重大な影響をあたえたことも,周知のとおりである。 それでは,モリスとレヨ−との社会主義者として−のひとかたならず密接な連帯 と協同とのなかで,いったいこの差異は具体的にどのように.して生じ,定着し ていったのであろうか。こ.の点,モリスの側はしばらくおくとして−,とくに.シ ョーの側について−は,従来はとんど検討されないままに特殊にわれわれの検討 を待っている若干局面があるように思われるのである。 ここで念のため,2点を補っておきたい。第1に,「社会主義の復活」期にお けるマルクス主義とフェビアニズムとの対立は,もとよりけっしてとの両人の 対立に.よってだけ代表されたわけではなく,むしろ見かたによ.ってほ,モリス

のかわりにハイソドマン(H.M.Hyndman,1842−1921)を,Vヨ−のかわり

にク.=.ツプ(Sidney Webb,1859−1947)を,それぞれ置きかえるべきだとの 解釈もありえよう。しかし,リアルな意味において当時のイギリス・マルクス 主義のインスパイアリングな代表者としてはハインドマンがモリス紅代位しえ ないと考えられる理由があり,この点紅ついては E.P.トムスンや R.P. ア−ノットやレイモンド・ウィリアムズや筆者自身の論証にゆずる。5)他方,

4)Bernard Shaw,“William Morr’is asIXnewHim,”in:MayMorris,William 肋γ7・ねト知勇ざ′,耶′よJダブ,∫♂d〃J∠・ざg,Vol.ⅠⅠ,1936,pp.XXVトⅩⅩⅩi.

5)E.P.Thompson,William MorYi・S,Romantic to RevoluiionaY:y,1955;R. Page Amot,William MorYi・S,a Vi’ndication,1934;Raymond Williams,

C従〃〝7■♂α〝d∫oc∠βf.γ,プアβ∂−ユタ50,1958;木村正身「ウイリアム・モリス解釈の

新段階」,『香川大学経済論叢』第29巻第5号,1957年1月;同「クイリアム・モリス におけるユ−トピア思想の性格」,香川大学経済学部『研究年報』3,1963年。

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香川大学経済学部 研究年報15 J97∂ ・_ 4 − フェビアニズムの特色には,没芸術的・没宗教的・アカデミックでノ\イプラウ 紅入りこんだ実証面があり,その面をクェップが代表担当したことは,たしか である。けれども,社会主義運動としての発展期フェビアニズムの,すぐれて 実践的・宣伝的で,知的ミ.ドル・クラスの立場から労働者階級紅働きかけるこ とをみずから公言するとともにその理由を経済学的基礎理論によって不断に論 争的に直哉明快忙しめそうと努めるという点で旺盛に建設的な面のはうが,は るかによりプァイクルであり,まさにこ.の側面をショーが担ったものといえよ うし,またこの側面紅おいてこ・そ,ショ−とモリスとの対比も思想史的にとり わけ有意味となるであろう。6) 第2紅,「社会主義の復活」期払おける社会主義諸派もまた,けっしでマルク ス主義派とフェビアン派だけではなく,キリスト教社会主義派および無政府主 義派をも逸しえないことはいうまでもない。そして,モリスをきわめてシリア スな意味をこめて代表的無政府主義派に数えることも可能であるのと同様に, レヨ−の生涯をつうずる宗教的・芸術的な関心の重さをこの時期に・ついて−も留 意することに.よって彼を実質的に・はじめからフェビアニズムの枠をやぶったフ エビアンだと規定することもできよう。さらに厳密に・みれば,フェビアン協会 (Fabian Society)そ・のものが,ちょうど初期の社会民主連盟(SocialDemo− cratic Federation)が無政府主義者を包摂したように,その形成期では,たと えばレヨ−といっしょ紅1885年1月に協会の執行委員となり,くフェビアン・ トラクト〉算4号(W如げ 5加混成紺才力)の執筆に参加したウイルソン夫人 (Mrs.Char・lotte M.Wilson)のようなクロボトキン的無政府主義者をも,ふ くみえたのである。ア)われわれほ,そうした交錯や伸縮の幅やニュアンスを否 定しようとしているのではないどころか,逆に・そのダイナ■ミズムをじゅうぶん に吟味すべきだと考える。ただ,まさにそのために・も,研究の方法として,当 初の考察の座標軸を見当づけようとしているのにはかならない。 6)ク,=ツプとVヨ−との対比分析として,とくに,StJohnErvine,BeYnardShaw, ガ壱.5エよ:/占,Ⅳβγゑα〝♂ダγfβ邦dS,1956,pp.88−・92. 7)E.R.Pease,The HistoY二yqf’theFabianSociety,1916,pp.48−49,54;G.Ber− naId Shaw,The Fabian Soci−ei.y,ItlS Ear[y HistoYI.y(Whatit has done;and Howit has doneit),Fabian Tract No。41,1892,p.3.

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ショ−とクイックステイード ー β・− およそ.以上の瞥見からだけでもわかるとおり,モリスの社会主義とショ−の 社会主義とほ,総体的・局部的の両次元において,・それぞれ大きく対\比検討作 業の視野をわれわれにゆるしているものと思われるし,イギリス近代社会主義 史研究−・般の見地からいっても,この両巨人の社会主義思想についてそうした 両次元の対比作業を包括的に遂行することが,つよく要請されよう。しかし, 聾者自身の当面の実際的な課題としては,この作業を,モリスの社会主義思想 解明紅必要なかぎりでのみ,したがって,いきおい主として局部的次元におい て,ショーの社会主義思想およぴとくにそ・れを支え.る経済学的思考がどのよう にかかわってくるかというかたち犯しはって,実行すべく試みるはかはない。 けれども,筆者自身のこの実際的課題についてさえ,じつほ.作業はけっして 容易ではない。局部的吟味だけをするといっても,当初さしあたりなにほどか の総体的パースぺクデイブについての予見が,試行錯誤的意味で不可欠であろ

う。筆者は,この点,Vヨ−・のモ.リス回想記“William MoIris asIKnew

Him”あたりを拠り所に.出発せざるをえない。とこ.ろでショ−・自身に・ついて は,長命なの紅比例して多作・多面的でありつづけた−かれほ.,速記術も得 意だった−−というこ.とだけからでも,彪大な書簡群や講演原稿群を資料とし て活用しうる研究段階ほむしろまだこれからのようであって,その事情に規制 されてか,かれの社会思想家としての全体像は,けっしてかならずしもまだ標 準的に確立されて−はいないといえよう。とくにかれの社.会主義思想の内実につ いていえば,既刊のフェビアン協会の内外での論文。著書や,新聞。雑誌への 投稿や,1892年以降の諸劇作への精力的な序文群,そして最近その主要部分が ようやく編集刊行されたとこ.ろの社会主義関係講演原稿群(ブリティッシュ.・ ミュージアム所蔵のレヨ岬文書のうち)8)などを適切に.活用すること自体が, ひとつの精力的作業課題たらざるをえないだろう。いきおい,幾重もの意味で, ここでの問題の取り扱いほ端的に割り切り限定されざるをえないのであって, まず,問題関連の拡がりを主として1880年代イギリスの「社会主義の復活」期 にしばり,つぎに,しばらく大迂回してスポットライトをモリスからショ一に. 移して−みることとし,そうした舞台装置のなかでレヨ−が,とくに経済理論上 8)LouisCrompton(ed.),BernardShaw.:・TheRoadioEqualit.γ.:TenUnPubli.shed エgcわ〝−♂Sα〝d E5.5紗5,ヱg朗−J9Jβ,1971.

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香川大学経済学部 研究年報15 ー・6 − J975 ほたしてどのような経緯で1人の指導的フェビアン社会主義者として登場する 紅いたったかという点に集中して,吟味を試みること紅したい。また,紙幅の 都合で,本稿では,それをショーー・がフェビアン協会の中心的人物として一括勤を 開始する直前までの時期および側面に.かぎることとする。との場合,ヘンリL−・ ・iyヨージ(Henry George,1839−97),マルクスおよび P.H.クイックステ イL−・ド(Philip H.Wicksteed,1844−1927)の3人の経済理論がと.の傭に.Vヨ ー・の経済思想形成に.大きな影響をあたえたことに着日するとともに,とくに.後 段では,レヨ−とクイックステイ−・ドとの論争の背後脈絡をあきらかに.するた めにクイックステイードにも周明をあて,この,あらかじめいえば−・種の疑似 土地社会主義者ともいいうる学究自身が,どのような経済思想,とくに.土地国 有化思想を提示したかについても,あわせて考察しようとするものである。 あらかじめ見当づけることがゆるされるなら,レヨ′−がみずからの社会主義 思想,とくに.その基礎としての経済理論,を確立していった過程は,−(1)汐 ヨ」−iyの影響で社会主義に.目ざめた段階。(2)民主連盟(DemocraticFedera・ tion)の集会参加およびマルクス『資本論』第1巻との出会い把.伴って社会民 主主義者(SocialDemocIat)として自認し,対外的にはマルクスの立場に.た ちながら,内面的に.『資本論』を検討しつづけ,直観的にフェビアン協会に加 入する紅いたる段階。(3)マルクスの立場からクイックステイードと論争し, かえってクイックステイ−ドのジェグォンズ的主観価値論に事実上説得された 段階。(4)フェビアン協会の中心的人物としてフェピア・ユズの経済論を確立・指 導した段階。(5)フェビアニズムの経済論をとくに.端的に所得平等論忙しばっ た段階。−はば以上の5段階に分けられるのではないかと思われる。そして, 本稿はこのうち,(1)から(3)までの段階を取り扱う。期間的に・ほ,この時期 ほ1882年秋から1885年4月ごろまでの比較的短期間であったが,とのあいだ紅 レヨ−の社会主義,とくにその基礎となる経済論が,3段階にわたって目まぐ るしく推転したものと考えられる。 ⅠI 1876年はじめ,アイルランドをおおってつづく因習的カトリレズムの絶望的 な理性抑圧から脱出すべく,あわせてダブリンのすでに解体しつくした家庭

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− 7 −・ ショーとクイックステイード と,土地会社出納係の仕事とに.も見切りをつけて,20歳でロンドンに出たレヨ− は.,ひとあし先に.ロンドンに来ていた母の愛人ヴアンドルーア・リー・の音楽評 論の仕事のないしょの下請けを手始めに.,ふつうの職さがしを続けるていで, 実際時文筆への志をかため,けっきょくろくに定職を得ないまま,.リL−・を追っ てロンドンで音楽塾を再開していた母の寄食者となり,母と姉の白眼視に耐え て,猛烈に.習作を書きためはじめつつあった。これは,たちまち計5点の小説 原稿に.まで結晶することに.なる(執筆,1879−83年)。9)同時にかれは,ダブリ ン時代に.身にしみこんだ孤独癖と内気とロぺたとを矯正克服することを中心 に.,刻苦してパ自己教育,,に専念し,音聾学的関心を先頑に置きながら各種の 討論集会や弁論団体に.参加したり,またそうした機会をつうじて一得た知人の家 庭にすすんで出入することによって,そしてそのためプリティツシェ.。ミユL− ジアムでエチサットの本をも読んだりすることによって,社交性と弁苗とにか えってしだいに大きな自信を得るとともに.,多くのすぐれた交友関係を樹立し はじめ,また,そうした新環境に刺激されて急速に社会問題に日ざめようとし ていた。折しもイギリスでは,とくに1879年に未曽有の不況が到来し,失業者 がロンドンにあふれ,生活必需物資が払底し,著しい貧困が拡大しつつあった

しかし,ショ−が1880年秋以降,1友人L/ツキー(JamesLecky)の案内を当

初の辛がかりとして次々に関与していった諸弁論団体は,“ZetericalSociety’’

をはじめいずれも,なるはど当時なりの進歩的分子の集団ではあったが,じっ

はいずれもその討論の題目は個人の自由の侵害事例をミ.ル『自由論』に・照らし

て告発するということをはとんど出ないていのものであった。10)

9)この5点の小説な執筆順に示せば,次のとおり。角括弧内は,執筆年。山川紺地祓.γ 〔1879〕,London1930.Tカβル㌢■α′よ■の“〟■だ丸山〔1880㍉in O〟㌢■Co′■〝βγ,1885・一・7;

London1905.Love Among theArtisis〔1881〕,inOuY−Corner1887−8;Chicago,

1900.C(Z.5カβJβγタ・〃乃,5タグ・q/とS.Sよ0〝〔1882〕,in T〃・かα.γ,1885−6;London1886.A〝

肋.ざOCgαJ∫ocブαJ∠sヂ〔1883〕,in r¢・か〃.γ,18鋸;London1887.けっきょくこれらは, 当時としては他にみとめられないまま,レヨ−・は小説書きをあきらめること紅なる。

10)こ.の点は,ハリスの説明が比較的くわしい。FI■ankHaI−Ⅰis,ββγ−乃α′d5伽㍑㌧ ノ如 UnauihoY・ised BiograbhyBaSedon FirsthandZn.fbrmation.With a Postscript

by Mr Shaw.1931,pp.90−92.なお,Shaw,Sixteen Self SkeicheS,1949,Ⅹ

におけるVヨ一自身の不正確な説明の訂正(ZeteIicalSocietyの加入は,「1879年 冬」でなくて−1880年10月28日。レツキ一に「ひっばりこまれ」たのでなくみずからす

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香川大学経済学部 研究年報15 J97∂ ー β − そのような状況のもとで,折しもアメリカから釆英講演旅行中の急進的土地 単税論者へ・ンリー。ジ′ヨ−ジが,1882年9月5日,ロンドンの非国教徒派の中 央集会所であるメモリアル・ホ−ル(ファヅンドン。ストヅL−トのフリート監 獄あと一)で行なった講演を聴いたレヨ−・は,すっかり圧倒・魅了され,汐戸−ジ の主張についてこくわしく考究するためただちに会場で,当時貧窮生活の極常あ った彼としては大枚6ペンスを払って『進歩と貧困』(P㌢〃g7♂∫∫α〝♂P〃〝♂7■秒) を買い求めたといわれる(ちなみに.,この同じ会場で,やがてレヨ−・自身が, 汐ヨ−汐が集めた以上の大聴衆を前に雄弁をふるうことに.なる)。11)「当時まだ 25歳そこそこのすこぶる革命的で矛盾した性分の若者であり,ダークインやデ インダル,シェリーやド。クィン1ン−,ミケランジェロやべ−・トーグェンのこ とで一朗こで,少年時代に一度土地問題に関するジョン。スチエ.アート・ミルの パンフレットを読んだことがあるはか紅は,まだ社会問題を経済の見地で勉強 するということは,生まれてからしたこともなかった。」12) ショーにたいする汐ヨ−・汐の影響の射程にンついて:,ア−ダインのレヨ−伝は つぎのよう紅要約している。・−−−「ジ′ヨ」−汐のレ ヨ一紅たいする掌撞は,なる はど最初はつよかったが,まもなくゆるんだ。というのは,ショー・ほ,カ−ル ・マルクスの『資本論』のフランス語訳をブリティッシュ・ミ.ユー・汐アムで読 んだあとは,経済的害意の救済策としての〔土地〕単税制への信念を放棄し, そのかわり,あらゆる形態の資本ほ国有化されなければならないという信念 を,受容したからである。かれほ.,この信念を,第2次世界大戦の終了後に政 権についた労働党政府のひどい政策について−の経験紅もめげず,生涯の終わり まで保持した。が,それに.もかかわらず,へンリ−・汐ヨ一汐ほ,レヨ−の精神

すんで加入。)K.ついてほ,Stan1ey Weintraub(edu),Shau,,An Autobiogra♪h.y 1856−1898,Selectedfrom his writings,1969,pp巾111,301;DanH.Laurence (ed.),BernaYdShau,,Collected L,etterS1874−・1897,1965,p.35仙

11)Shaw,Sixteen SelfSkeicheS,Ⅹ;Weintra11b,OP。Cit.,p.113;E工Vine,OP. ぐよf…,p.104.なお,これは.ショーーとしては生漣で他人の講演・演説の類で直接紅影

響を受けた唯一・のケhスであったといわれる。参照,S.X.Ratcliffe,“Some

Reminiscences of Shaw as a Young Socialist,”in:C.E.M.Joad(ed.),Shaw and Societ.y,An Anthology and a Symposium,1953,p.55.

12)Shaw,りTribute to the Work of Henry George,”The Sirngle Tax Review, IV,15April1905;Weintraub,0♪.cii..,p.114.

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_ 9 一 レヨ−とクイックステイ−・ド

形成において重要で決定的な役割を果たした。」18)

この要約でもわかるとおり,ジョー・ジ自身はあくまで土地単説諭どまりであ

つて,実際に社会主義ないし土地国有化を提唱したわけではなかった。もっと

も,かれは,たとえば『進歩と貧困』へのはしがき(1880年11月付)のなかで,

言葉のうえでは,いったん「土地を共有財産にする以外には,恒久的に貧困を

除き,賃金が飢餓点に下げられる傾向を阻止できるものではない」と述べるの

だが,しかしすぐそのあとで実際には「土地共有権の承認は,……土地の価値

に賦課されるものを除き,すべての租税を廃止するという,簡単で容易な方法

で達成される」14)として,社会主義から逃避してゆくのであった。ジ′ヨージの

主張は,社会進歩に伴う貧困および不況の原因が賃金基金やマルサス人口法則

に.もとづくのではなく,労働とともに富の源泉である土地が少数者に・独占され

て不労所得=地代が略取されるからであり,その解決は,とく糾日来の国では,

労働・資本への一切の課税を撤廃し,地代を単税で接収するにある,とするも

のであって,思想史・学説史的にみれば自然権思想とリカ−ドゥおよびJ・S・

ミ,ルの地代論とぺイン,スぺンス,ダグ(PatrickE.Dove)的着想とがその基

礎であり,とりわけダブの土地単税思想は,はとんどそっくりジョー・ジの主張

を先どりしていたといわれる。15)すすんでいえば,チャーチイズムの瓦解以後,

土地改革計画ほ,ミルの.土龍保有改革協会(LandTenureReformAssociation)

を頂点とするいくつかのブルジョア・リベラルな社会改良団体のポピュラーな

具体的処方箋とさえなりつつあった。ジ′ヨージの第1回来英の1882年には,博

物学者ウオ.レス(A.R.Wal1ace)が,あらかじめi7ヨ−ジの影響を受けな

がらも百尺竿頭一渉をすすめて,土地の国有化とその個人保有とを主張する著

書を刊行するまでになっていた。ウオーレスにくらべれば,ジョ−ジ自身はあ

くまでアメリカ風にリベラルな共和主義者どまりであったから,その主張にお

いては,表面上のラディカルさにもかかわらず労働と資本との対立はむしろ抹

殺され,土地の私有自体が事実上承認される反面,社会主義ほ個人の自然権た

13)Ervine,OP.cit.,p小105. 14)ヘソリ−・ジョ−ジ,長洲−ニ訳『進歩と貧困』(上)(世界古典文庫),1950年,11 −12ぺ・一汐。

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J975 香川大学経済学部 研究年報15 −・∫♂−− る自由軋反するものとして承認が保留された。これが,ただちにマルクスから 「資本家の最後の逃げ場」(“theCapitalists,1ast ditch’’)と評され,16)またノ、 インドマンらマルクス主義者の批判の対象となったのも,17)当然であった。 それでは,なぜジョージが1882年に来英するまでに・『進歩と貧困』がイギリ スで10万部も売れたり,「80年代のこの国の社会主義指導者の5分の4までが汐 ヨ−汐派を通過していった」18)りするはど,かれとそ・の主著とが進歩的関心を 集めえたのであろうか。ジ′ヨ、「ジ′の雄弁や人柄をぺつとして−,この点ピー・ズは, フェビアン協会史の見地か ら,第1に,ジョ−・汐の処方箋はありきたりであっ てもそ・の問題提起そのものは,他の従来の各種土地改良提案と異なって体制批 判的・抜本的であったこ.と,第2に・,税制改革という処方箋が議会主義的・伝 統的な,「過激でない」政治的方法だけで実行可能な点で,きわめて実際的だ と思われたこと,をあげ,「まさに.ヘンリ−・ジョ−ジからこそ,初期のフェビ アンたらは,あたらしい福音を在来の政治的方法と結びつけることをまなんだ ものと考えてよいと思われる」19)としている。 そこで,ショ−もまた,ここではまだ無名の知的大衆の1人として,・一腰的 意味での影響を受けたこ.とが容易に想像されると同時に,とくにレヨ一自身が 独自にふかく感銘した側面もあったであろうことが推定されるのである0「かれ は,私を,不毛な不可知論的論争から経済学へと方向転換させた」20)と,最晩 年のレヨ・−ほ回顧している。 こ.のショ−の経済学への方向転換の具体的様相を吟味するのが本稿の中心課 題なのであるが,ジョ」一汐がこの方向転換の契機となった状況について,もうす 16)ハインドマンの証言に.よる。H.M.Hyndman,7加点♂C〃7■d q/■α乃A‘ねβ〝わ‘㌢■〃7‘ざ エ∠ノお,1911,p.2飢;ダ紺朗〝・R卯戒如5C♂プ2Cβ∫,1912,p.532. 17)汐ヨ−ジとハイソドマンは,はじめは盟友の間柄であったが,後者が「社会民主主 義」(マルクス主義)を橡傍するに.つれて見解の不一・致をはっきりさせ,とくに1889 年のセント・汐エ−ムズ・ホ−ル(ロンドン)での「単税対社会民主主義」に関する 討論会で両者は決裂する。Cf.C.Tsuzuki(ed.byH.Pelling),H.M・Hyndm α乃dβγ・まわsゐ∫oc友一αJj.sク刀,1961,p.46. 18)BeeI,¢♪.c∠≠“,p.245. 19)Pease,OP.,Cilr,pP.19−21,eSp.21い 20)Shaw,Sixteen Se!f.SkeicheS,Ⅹ;Weintr’aub,OP.cit.,p.113・

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−JJ− ショーとクイックステイード こしショー・自身の説明を拾うと,たとえばショ−ほ,1889年末の1講演原稿21 に.おいて,1848年革命からフェビアニズム登場までの国際社会主義思想史を概 説したさい,とくにイギリスではマルクス主義が,ドイツ哲学と未翻訳の『資 本論』というなじみに.くい装いで,バックスやハインドマンの細いル−・トを通 じてなかなか容易に導入されえなかった状況下で,『進歩と貧困』が代替的に・果 たした重要な役割を強調して,「さいわい,もう1冊の書物〔『進歩と貧困』〕が 入ってきて,私有財産に立脚した競争的産業は大衆を堕落させ,怠惰で有害な 資産階級の利益のために大衆からの労苦の果実を盗奪するものであるという事 実に.たいして読者に大きく目をひらかせた。……同書は,ひろく普及するあい だに.,あちこちの人々を革命的行動へとたたき起こした。」22)と述べている。ま たショ−は,1928年に.出版した女性知識人のための社会主義啓蒙蓄−−これ は,じつはたんに女性インチ・り層のためばかりとかきらない,きわめて本格的な 現代社会主義論の大著であるが−のなかでも,アメリカの土地私有化の進行 がもたらした害悪に.ついての切実な見聞を踏まえた『進歩と貧困』が,多くの 人々を土地国有化思想へ改宗させたことを強調するとともに.,「ジ′ヨー汐が,国 家が金地代を公庫に.接収したあと,それをどうすべきかについては考察をはぷ いたことは.,かれをして社会主義の入口で立ちどまらせること軋なったが,しか し,かれが指導して一社会主義に.までゆきついた若者のたいがいは,(私のように・) 通りこしてフェビアン協会その他の社会主義団体に㌧入ってしまった。『進歩と 貧阻』は,リカードクの理論のままであって,実際,その抽象的側面ではド・ クィン1ンーーの『政治経済学の論理』のくりかえしである。ただ,ド・クィン1/ −が,1世紀まえの忠実なイギリス・トーク−・派らしく,資本制的な不平等な所 得分配と,それの結果としての富裕な上流と貧困なプロレタリアとへの社会の 分断とを,最も自然で望ましい調整だとして受容したのにたいして,ジョージ は,同様に忠実なアメリカの共和主義者らしく,これに.反発したのだった。」23) 21)1889年12月20日に.,フェビアン協会主催の講演シリーズ最終回として,“TlleNew Politics,,と超してVヨ−が行なった講演の肉筆原稿。Crompton,OP.ciiu,pp.55 −88に所収。 22)∫∂∠d巾,p.飢 23) Sbaw,7カβ∫〝≠βJJ古g¢邦fl穐∽α〝,・ざG衰dβねぶocよαJオ・ざ椚,Cα♪去才αJオざ∽,ふ押壷戯・S∽ andFascis7n,(orig.1928),PelicanBks.ed.,rep.1965,pい504;Cf.p.238.

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香川大学経済学部 研究年報15 ブタ75 ーヱ2− と説明している。 したがって,要するにショー・自身もまたジョージから土地国有化をまなぶこ とで,ジョ−・ジを「通りこし」たわけであるが,同時紅.ショノーが,不労所得− 般としての拡大された地代範疇に関しておそらく誰よりもふかくジョージから まなんだことも,見当づけられるのであり,これが,やがてフェビアン社.金主 義の代表的経済理論家となるショーの発1の武器となるであろう。ともあれ, こうして−レヨ−ほ.,思想上の−・大転機を体験し,これまでのかれ自身の不毛な 懐疑的合理主義どまりの世界からに.わかに脱出して−,経済学および社会主義の 問題と本格的紅取り組みはじめる。 他方,上記の小説原稿5点のうち最後(1893年7月−11月初)に書かれたA邦 UnsocialSocirali−stは,前例どおりこのたびも1出版社(KeganPaul,Trench& Co.)紅拒否されるという芋版を1883年末把さっさと経て−から,叫 っいに.パッ

クス(ErnestBelfortBax)とジョインズ(James LeighJoynes)とがr科

学的社会主義」を標模して創刊(1884年1月)した月刊誌ro−かα.γ(新シリ」− ズ)の創刊年3月号から12月号まで討10回にわたって連載されることになった のであるが(かれの小説の最初の公表),この/J\説は,父がマンチェスターで行 商から一代でたたきあげた富裕な資本家,母が名門の,青年主人公シドニー・ トレフェーンスが,革命的社会主義紅めざめ,富と,雷に.よって獲たうつくし い相愛の妻とを棄でて,あたらしい生酒を目ざすという筋であって,主人公の 行動が奇矯で自己中心的なうえ,容易に冒ざめぬ労働者を見放してミドル。ク ラスだけを相手とする点が,この作品を社会主義のために.もアンポピュ.ラ−な らしめただろうとはいえ,この主人公の口をつうじて,一・方でほ,,すでに・ショ ーに.独自な社会主義的恋愛・結婚観や芸術観が述べられるとともに,他方,應 地囲い込みの営利と災厄とか資森家対労働者の搾取関係をめぐる説明や,第1 インターーナショナルをふくむ労働運動への言及などを盛りこんだ,相当に掘り さげた資本主義批判や社会主義必然観が告白されてし、る点,内容に.即して点検 してみてもすでに.ジョ」−ジを明白にこえ,『資本論』の大きな影響がみられると いってよい。25〉そしてショ一自身が,この小説の出版を拒否したマクミラン社 24)vヨ−の同社宛の憲倍,1883年12月18日付を参照。Laurence,OP.cit.,p.78. 25)とく紅この小説の算1部第5・10章,第2部第2・5・6章を参照。なお,単行版 (Swan Sonnenschein&Co.社,1887年2月刊)でほ,部区分を廃し,茸のナンバ

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ショ−とクイックステイ一−ド −ヱβ−→ への1885年初の手紙のなかで,著者がこの小説に.「マルクスの述べた近代ドイ ツ社会主義の概要を埋め草として入れ」26)たことを承認して−もいるのである。 ここで,ショーがジョ−汐のつぎにマルクスを識るにいたった具体的経緯砿 ついて,レヨ一自身の述懐を,1889年の時点からの回顧であるが,引照しでお こう。 「私もまた,チャンピオン〔HenryHyde Champion〕やハイソドマンと同様, 不首層の前歴があって,いきおい,社会というものをきわめてだめなものと思 っていた。私は,1876年にアイルランドからロンドに来て,かねのかかる工場 などを準備する必要のない職業として,文筆業をえらび,小説5点と論文ひと 山はどとを書いたが,首部でほきめつけの最低。最完全な失敗者であり,私の

小説や論文の1行として印刷になったこともなかった。ただ私は,熱心なマル

サス主義者たちの1協会で,マルサス主義の教理の論理的結末一つまり,え い児ビろしをひきおこすということ−−を主張したぺ」−パーを読んだことによ って,ひとりの社会問題思想家としてどく小範囲には知られていた。けれども, こうしたミドル・クラス流の諸理論をこ、きおろすことほ,アイルランド人とし ては朝めしまえのことで,満足はできなかった。私ほ,へ・ソリー・汐ヨ一汐の 話を聴き,ただらに,経済論の道こそたどるべき遺であると知った。私ほ.『進 歩と貧困』を読み,民主連盟の集会へ行った。そこでは,ハイソドマン氏が司 会をしており,かれが,資本に.関して私のわからない,なにか知的基礎をふま えていること,かれのシルク・ハットとひげと本当らしくみえる演説との背後 リングが 通辞イヒされたはか,とくに.エビロ∬グがわりの「付録」として†・レフユ.−レ スから著者宛の苔簡が追加されているが,この苔億における主人公の見解はほっきり 漸進的社会主義を唱え,雑誌発表原文のなかでの見解と微妙なひらきをみせている。 26)マクミラン社宛のこの苔簡(1884年1月14日付)の全文ほ,つぎのとおり。柵くAタ多 乙玩ぶ♂C∠〃/ぶ♂√∠α〃・5才をお読み頂き,感謝いたします。「な紅かもっと突発的なものを」 とのご要求には,息なのみます。莫社の閲読係ほ,本番をシリアスでないと考えられ たのでしょうか−−たぶん,退屈しないからという理由で。もしそうでしたら,その 閲覧係氏はイングランド人だったのでしょう。本番を本気でとりあげてくれた批評家 は1人だけ,口頭の場合も1人だけでしたが,どららもスコットランド人でした。い やしくも1つの小説が2つの大きな問題を取り扱う場合,そしてマルクスの述べた近 代ドイツ社会主義の概要を埋め草として使う場合,些未性を暗に非難されようとほ, むしろおどろくべきことです。〉(Laurence,OP.c払,P.111.)

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ユタ7方 香川大学経済学部 研究年報15 −ヱ・メー にはひとつの運動があること,を私はただちに.看取した。もっと説明をひきだ す最上策についての経験紅もとづき,私は,最初の機会をとらえるやたちあが って,誰かれとなく食ってかかり,■−自分は連盟を軽蔑するものである,みんな, ヘンリー・ジョL−ジの提示した.主題から話をそらせているのだ,と告発してみ た。ハインドマン氏は,満々たる自信をもって,君ほ,われわれの目的がわか るやいなや,きっと参加するようになる,と答えた。また私は,知人のロ八一 ト・バナ一成に,『資本論』を読むようすすめられた。氏は,オーストリア人 の社会民主主義者アンドレアズ・ジョイからマルクス主義を教わっていた。‖‥ …そう,私は『資本論』を読んだ。そして,読むやいなや,連盟の人々で同書 を読んだ者ほどく少数しかいないことを発見した。私は,怒れる社会主義者と なり,連盟の討論に出席し,そこで‥…ル、ろんな人々の語を聴いた。」27) ⅠⅠⅠ ところでショーは,民主連盟の週刊機関誌.ルざ才首c♂の1884年3月15日号の編 集者宛投稿欄に,捕G.B.S.Larking”という筆名で「盗人は誰か」という見出 しの書簡を書き,このなかで,かれとしては.お・そらく最初の表だった経済論を 試みている。これは,同誌の次週号(3月22日号)で,2つの応答書簡に.よって 反論されることに.なった。28)このレヨ−・の投稿書簡は,あきらかに故意に架空 のブルジョア保守主義の立場にたって−現代文明,とくにイギリス文明を弁護し, この文明を攻撃するノおぶf去■cβ誌およぴその理論的基礎たる「故マルクス博士 の剰余価値論.」紅たいして経済学的批判を試みたものであって,ショ−はすで にジョ−ジからの影響以来,決定的に社会主義的志向を樹立しつつあったこと からみて,この書簡ほ,わざと社会主義的な人々からのただしい反論なりマルク ス解釈をひきだすためのアンチデー・ゼという真意をもつものであったようであ る。このことは,「私は,当時経済学に.はまったくずぶの新米だったので,…・ じつはこの書簡をたんなる冗談と考えていたわけで,誰かもっと専門家の社会 27)CIOmptOn,0♪.c払,p.84.

28)G.B.S.Larking,“WhoIs the Thief,”Justice,March15,1884りA”U.G., “WhoIs the Thief?り/T.R。Ernest,“HowIstheThieftoBeCaught?=diito,

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−ヱ5− ショーとクイックステイ−ド 主義者が私を容易に論駁してくれるものと大いに期待していた」29)(後述参照) というショー自身の回顧によって−も,裏書きされる。ミ/ヨ−・の投稿書簡の論旨 は,つぎのとおりであった。− まず,ノ〟ぶf査−cβ諒とマルクスほ,「競争」文明としてのブルジョア文明を攻撃 するが,文明とほ,われわれが肉親ともども誇るべき遺産なのであり,「・エンジ ンでも織機でもピラミッドでもなく,それらの主人公たる人間そのもの」でほ ないのか。つぎに,マルクスは,その剰余価値論に・おいて,−・方で労働こそ− 切の富の源泉であるという経済学的公理を承認しながら,他方で,労働者が資 本家に依存しているとするが,この理論は背理もはなほだしい。設例を用いて 推理すれば,たとえば1つのテ∵−プルの価格がどのように素材用生産費と賃金 と利潤とにわかれ,競争のもとでは賃金と利潤とがどのように分配されてゆく かがわかり,顧客が資本家よりもむしろ圧倒的に・略取者とならざるをえないこ とがあきらかであって,これが剰余価値論の帰結でほ,ないのか。しかし,これ は到底常識的にもみとめがたい。競争は,本来は高貴な物品の価格をもくまな く安価ならしめることで国民的祝福をあたえているのであって,そ・れをしも盗 品の安価であり,購入は盗辱への加担を意味するとするのほ,いただけない。 そうした議論には,どこか嘘があり,これはわれわれを毒し,イギリス人の誇

りを傷つける。われわれは,断じて奴隷でも盗人でもない。一

以上の趣旨のレヨ−の書簡にたいして,同誌次号の投稿欄に・あらわれた反論 書簡は2つであって,その1つは,‘‘A.U.G.”という署名(「社会主義着では なく,マルクスの著作も読んだことほないが」とことわる人物),他は,‘‘T.

R.Ernest,,という署名(じつは,アブェリングEdwardAvelingの筆名)で

書かれ,いずれもMI・.L狙kingの主張を論駁して.ル頭cβ託とマルクスとを 擁護している点で,基本的に同一儲旨のものであった。‘‘A・U・G・’’によれば, 文明が人間そのものだというのなら,人間解放のために・絶大な努力をしたマル クスの態度を文明への甘えだとか忘恩だとするのはナンセンスであるし,また, 本来は労働は一切の富を生むのに,封建的独占の近代的形態たる資本主義がそ の成果を略取したからこそ労働者が雇用者に依存せざるをえなくなっているの 29)後出脚注40)を参照。

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香川大学経済学部 研究年報15 ーJ6− J975 であって−,このシーソー・グー・ムのような関係をマルクスの剰余価値論が指摘し たことは大功績でこそあれ,理論の背理では,けっしてない。苦汗制商品たる デープルの設例ほ,そのとおりだが,そのゆえにこそそ・れを廃絶すべきだし, 国民的総盗奪の認識が愛国心を傷つけるかのように考えるのは筋ちがいであろ う,とされた。

また“T.R.Ernest’’ほ,つぎのように論じた。Mr.Larkingの主張は,

その轟意がどうかはぺつとして,〔逆説的意味で〕「ここしばらくのあいだに.私 のみた社会主義のための最も説得的な議論のひとつ」である。まず,マルクス 博士が,山方で労働が資本家に依存するとしながら,他方では労働は一切の富 の源泉だから結果として資本家は労働に依存しなくてはならぬと主張するの は,矛盾であるとする氏の主張は,本欄に投稿するはどの人の論旨とも思われ ない。資本家は,うたがいもなく,その利潤のはしばしまで,労働者に依存す る。しかし,資本制生産に.伴って不可避的に・行なわれる魔大な剰余労働にもと づき,かれは自分の雇うどの特定の労働者に・も依存しなくなり,ゼネ・ストに よるはか,かれの労働者への依存度がテストできなくなっているわけである。 資本家ほ,待つことができるが,飢えた労働者は,待てないからだ。つぎに, 中心論点として,労働者は個々の資本家でほなくて社会全体から略取される, と氏は主張する。労働者にとっては,結果ほ同じであっても,対応は異なるこ ととなる。さて,苦汗制の実例でも判るとおり,事実ほそのとおりだし,たし かに社会に有用な労働が過少な支払いをしか受けていない。犯人は,直接の買 い手か,社会(ないし消費者)の全体か。この点,両者が山分けしてし、るのだ と答える人が多いなか で,投稿者氏は,すすんで,競争下では,資本家は自分 の投下したエネルギ」−・・技術・危険等の正当な報酬以上はもらえぬわけだか ら,けっきょくのところ,漠然たる消費者一・般,または社会一・般が当該商品の 安価による金利益を得ることになる,とする。そうだとしよう。まさにそのゆ えにこそ,全社会の革命が必要なのである。もし個々の資本家だけがわるいの であれば,改良的諸規制も可能であろう。しかし,全社会が略取を分かちあっ ているとすれば,社会の需要供給組織そのものが欠陥をもち,全面的再建を必 要とすることは,あきらかである。−

ル5批β 誌の投稿欄における以上の応酬の経緯を全体としてみるとき,一・方

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レヨ−とクイックステイード ーJ7− において,ショ−が,すでに.ジョー汐からの影響を契機に,決定的に・社会主義 への志向を確立.しながら,また,民主連盟の討論会への参加を機に・『資本論』 を読むべきことを教わるとすぐ,プリティッレユ・ミュージアムで相当の感銘 をもってこの古典の論旨を探りながら,こ.の投稿を考えたかと思われること, したがってこの書簡を書いた時点ではレヨ−・は,すでにけっしてブルジョア文 明の保守的擁護者ではなく,その正反対の立場にたちつつあったことほ,“Aタ多 び形ぶ〃C才αJ∫∂Cよ■αゐ∫ヂ”がこの投稿の4カ月はど以前に執筆され終わり,ちょう どこの投稿と同時にT〃−βα.γ誌に連載され始めたという状況に徹しても明白 であり,すすんで推定すれば,すでに5点の小説を書きあげることによって, また多くの討論会での討論技術の修得によって,おそらく有力に身につけたと ころのドラマティックな逆説論法−−かれ自身のいわゆる「帰謬法」(reductio

adabsurdum)−の手法を,さっそく社会経済評論のはうに・も初適用した

ものとして理解できるのではあるまいか。この点の具体的証左は,レヨ−自身が 以上の応酬の直後にこの投稿書簡に関して親友マクナLルタイ(M.E.McNulty) に.書き送った書簡のなかでの説明に・よって,あたえられていると思われる。 すなわち,以上のレヨ、−の公開投稿書簡における経済論に・ついて,マクナル タイからなんらかの質疑があったらしく,それに回答したショーの長文の書簡 (1884年4月15日付)30)が残存しており,そのなかでショーは,自分の.ル誠■cβ 誌投稿文の論旨との関連で,労働力の販売および剰余価値に関する例解説明 を,営々苦心して展開しているのである。「私の手紙にほ,誤謬はない。私の真 理の説明が‘‘帰謬法”だという装いの点をべつとすれば。T.R.Ernestは,ま ったくただしい。社会は資本家と掠奪品を山わけに・しているのだ。君がズボン 1着を15シ.リングで買うとき,おそらく君ほ.苦汗業者や洋服商にくらべて,な いしは洋服商の家主にくらぺてさえ,労働者からしばりとる剰余価値のより大 きな分け前を得ること紅なる。」81)「かれ〔テープル製造労働者〕は,自分の労働 力以外のなにものをも持たず,しかもこの労働力はこれを用いて働きかける材 30)Laurence,OP“cit。pp‖8ト87.もっとも,この苔簡ととも紅保存のその封筒に・, ショ−は,のち,「McN.宛書簡。初講演の時期を記す。当時はまりこんでいた経済 学的混乱(economic muddle)を示す」と添記することになった。Cf」ibid.,p”81 31)∫∂紘,pp.81−82

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香川大学経済学部 研究年報15 11975 ーヱβ− 料がなければ,かれに.とって無用の存在である。」32)¶ このこ.とから推して, この時点ではショ−・ほ,明白に.『資本論』第1巻の価値・剰余価値理論にじゅ うぶんレリアスに依拠しながら資本主義批判の経済論を考えつつあったとみて よいであろう。 なおレヨ−・ほ.,1884年5月22日,すなわちフェビアン協会への加入が承認さ れる3カ月半はどまえに.,ベッドフォード弁論協会(BedfordDebating−Society) で,ブルック師(theRev.StopfordBrooke)の司会のもとに,社会主義に・関す る1講演を行なっており,「社会主義運動は失われた正直の回復主張たるのみ, との講演原稿」(‘−MS of Lecture That the Socialist Movementis Only the Assertion ofOur LostHonesty,,)とみずから題したそ・の肉筆原稿33)が残存し

ている。そこでは,比較生産費説に立偲した分業の成立の必然性と,・そ・れを前 提とした等鼠(等しい時間)の労働の生産物どうしの交換(等価交換)の必然 性とが設例をもって−詳述され,この状態が不当な所有。盗奪関係に・よって政乱 されることなぐフェアに維持されるとき,すなわち,人々がこの意味でみな正 直であるとき,それはとりもなおさず社会主義の到達目標そのものでもある, とされる。「社会主義とは,多くの人々が考えるように,国家による労働の組 織化でもなければ,競争の廃止でも,現存するすべての富の平等な分割でも, 人間はみな,また相手以上に.,善良だという主張でも,貧者の住居の改善でも, 差別所得税でも,またバリケ−ド市街戦でも,ない。これらのことは,社会主 義へのステップか,またほ社会主義の不可避の諸結果か,社会主義の事故か, それとも体制変化観に付随するたんなる連想,といったものでほあるかもしれ ない。しかし,社会主義の本質的原理は,………設例のとおり,人々がたがいに. 相手のため紅正直に労働し,各人ほ自分の消費するものだけを入手し,何びと も友人の損貿紅よって利得することなく,全員がひとしく最も経済的な分業紅 よって利得するということ,これである。」84)ところでこうした正直な分業は, 現代資本主義社会では失われて,その状況が宿命的な動向として全階級をおお っており,この状況にたいする「正直な憤激」さえも,精力に余裕のある少数 32)Jみ査dりp‖83 33)CrOmptOn,♂♪‖√〟.,pp.ト17,335 34)J∂∠dりp」2

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−−Jβ− ショ・−とクイックステイー・ド 者のぜいたくな評価行為にすぎなくなっているが,しかし,じつはこれとなら んで,基底的には社会主義経済もまた宿命的に進行していることはマルクスた ちが証示したとおりなのであって,結論としては,何びとも,あえて無理に社 会主義者に.なる必要もない,とされる。・−−−すなわちショ−は,この講演原稿 では,マルクスの労働価値論というよりもむしろ,古典派経済学の出発点に・伝 統的に設定されてきた素朴な等価交換の貫徹の世界への回帰を道義的に試論し たように.思われる。ただ道義論は,ショーの得意な路線ではなかっただろう。

ところでしかし,他方において,ショ−がじつのところ以上のような主張脈

絡に.おいですでにマルクスのとは異なった自己自身の剰余価値範疇認識を晴々 裡に進展させつつあったものとみられることに・,注目すべきであろう0この点, 上記の講演原稿の消極的な論旨よりも,むしろさきの,みずから半ばフィクテ ィジャスに逆説のかたらで提起して構成にみごとに成功したところの.み誠一cβ 誌上の論争ドラマにおいて ,ドラマの装いのもと紅反面,じつはきわめてシリア スに,そのようなショ−独自の剰余価値概念の導出がおこなわれたというペき であろう。すなわち,社.会全体が労働者を略取しているという認識が,・それであ る。労働者とのシ−ソーダ」−ムの相手は,あるいほたんに・資本家だけではない のではあるまいか。こ.のような認識の線は,ジョ一汐(したがって,その先行 者リカードク)の地代論に.よって当初開眼され,マルクスの剰余価値論紅よっ て−・段と促進されると同時に,原始的流通視点からの大きな疑問をも生じたの ではないかと想像される。マクナルティ宛の上記の書簡の複雑な文脈にしても また,このことを示唆しているのではあるまいか。ショー・に・は,等価交換と不 等価交換との弁証法的・立体的な交替関連一匿名民“A.U.G.’’がいみじく も指摘したシ−ソ・−ゲ−ム的関連−が,よく判らなかったのではないだろう か。だとすれば,ショーーは,.み誠一c♂誌への公開書簡に・おける論旨のうち,経 済論に.ついては,じつはたんなる「冗談」ではなくて轟剣な推論を試みたわけ なのであった。ショ−ほ,『資本論』に・接しながらも,頑のなかではマルクス よりもジョージやリカ−ドゥの主張のはうがおそらく優位を保ちつづけたので はある飢、か。それは,かれが『資本論』における生産視点をもってする等価 と不等価との弁証法的な交替関連の理解の立場を,把握しそこねたことを意味 する。こ.のことが,ショ」−をして,やがて社会民主連盟を去ってフェビアンた

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香川大学経済学部 研究年報15 一−2♂− J夕7β らしめる理論的伏線をなすであろう。 さき軋みたように,「そう,私ほ『資本論』を読んだ。そして,読むやいな や,連盟の人々で同書を読んだ者ほどく少数しかいないこ.とを発見した」とシ ョ−・はいう。だが,かれがこの時点で読みえた『資本論』とは,じつはガプリ エル・ドブィル紅よる算1巻のフランス語抄訳だけであったらしい。35)そして 『資本論』仝3巻への接触はおろか,算1巻の英訳刊行(1887年)をさえ待ち ようもなく,レヨ−はフェビアニズムへと転進してゆくことに.なった。総じて 「連盟の人々」の不勉強ほ,ショーを失望させたばかりでなく,こ.の国のマル クス主義運動をその成立の途端に理論的次元で挫折させる重大な遠因となった と思われる。−・般的にいえば,ショーもこのような壁に.つき当ったのであっ た。『資本論』発1巻の知識を入手するやいなや,たしかに・ショ−はそれをそ の社会主義小説の「埋め草」にすることができた。しかし,その知識とは,じ つはけっしてこの科学的社会主義の古典の独自な経済理論に関するものではな くて,むしろ「との書物の主要な迫力・魅力となっている近代的産業主義の異 常な光景の描写」36)についでであっただろうことが,推定きれる。理論的紅ほ, ショ−は,マルクスに㈲おうとしたかぎり,はとんどもっばら最も抽象的な意 味での価値法則だけをもって,現実の価格を直接無媒介に・説明すべく,むなし く関心を集中していたようである。 なお,ここで比較的に想起されるのは,モリスの『資本論』の読みかたであ る。客観的に.おなじハンディキャップをもちながら,パックスをはじめ,社会 民主連盟の人々が比較的把.はるか紅よく『資本論』第1巻を理解し,その人々 がモリスに.手はどきしたのであったが,その結果としてのモリスの理解態度 は,ショーーのそれと好対照をなしている。モリスは,ノ、イドマン派のマルクス 主義教条テストにひっかけられたさい,率直に発1巻冒頭の価値論の部分の難 解さ紅かぶとを脱いだ。そのことがノ、インドマン派紅.よる教条違反者告発をい っそうすすめ,社会民主連盟分裂の導火線ともなった。それ紅もかかわらず, モリスはけっして『資本論』冒頭の価値論を否認したのではなかったし(グレ 35)Shaw,Si・方teen Self’Sketches,VII;WeintI・aub,Ob.cit.,pp.173−174. 36)Shaw,“KarlMarxand‘DasKapital”’,ThirdNotice,TheNationalRqfbrmer, August21,1887,p.118.

(21)

ショ−とクイックステイ−ド ー2ユー イジアの解釈の偏向紅たいするトムスンの批判を想起),37)加えて彼は,『資本 論』第1巻の「歴史的部分を,完全に、エンジョイした」38)し,おそらくこのこと によって,この経済学批判の古典の論理構造の最も基底的な点,すなわら,歴 史的なものは論理的でもあるのだということの内実を,芸術家的直観ゃも手伝 わせながら総体としてみごとに感得把握したのではないだろうか。その如実の 例証が,Aエ)㌢■♂α桝∂./\ルゐ乃βα〝であり,〃如膵メーデー∂∽∧わ紺ゐβγβであったし, またかれの多くの芸術評論に、もそうした豊かな歴史意識が脈打っていると思わ れるのである。89)ショL−の場合,それに近似した歴史意識がr¢−かα.γ誌掲載版 のAタZぴ〝ぶOC去−αJβocgα〟ぶ=こみられることは確実であるが,あらかじめ見当づ けうるなら,その後のショ−が急速にフェビアンという名の近代主義者に転じ てゆくにつれて,せっかくの当初の歴史意識も,漸進主義的政治実践のなかへ と埋没してゆくことに.なるのでほなかろうか。−だが,いまはこの点につい ての早急な判断を留保したい。 ⅠⅤ さて,以上の状況のあとでショ−がフェビアンになるのは,時間的にははん のまもなくではあった−−ショーのフェビアン協会加入承認は,1884年9月5 日,同協会の執行委員への就任は,1885年1月2日であった−けれども,論 理的手順としては,なお大きな中間項が必要であった。それは,とりわけて経 済学的な価値論上のクイックステイ−ドとの論争をつうじての限界効用理論と の出会いであった。この経緯は,時間的にほ,ショーーのフェビアン協会参加後 へ半年あまりの期間にわたっでずれこんでいるが,しかもこれこそは,いわば ショーが筋金入りのフェビアンになるため紅必要な「火の洗礼」なのであった と恩まっれる。 すなわち,マルクス『資本論』の立場をめぐるショーーの挫折と転回ほ,直接 にはクイックステイ−・ドとの論争を契機として表面化することになった。こ.こ

37)Cf一J..Bruce Glasier,mlliam MoYris andihe Ear4y Da.ys qfthe Socialist Movement,etC。,1921,pp.3ト33;EPりThompson,Obcit.,pp.354,410−412,

739,886−892.参照,拙稿「ウイリアム・モリス解釈の新段階」(既出)。

38)Morris,“HowIBecame a Socialist,”Justice,June1894‖

(22)

香川大学経済学部 研究年報15 −22− J97∂ までの経線を,ショーは1916年に.回顧して,つぎのように述べている。− 「私は少年時代に,ミルの論文を若干,立憲政府論,アイルランド問題論, そしてもとよ.り必読の自由論など,ばらばらに読んではいたが,しかし,その どれも社会主義を示唆してほいなかった。で,私が社会的救済の科学として−の 政治経済学にはじめて注意をひかれたのほ,ヘンリーー・ジョ−・汐の雄弁とかれ の『進歩と貧困』とに.よってであった。この本は,80年代のほじめにはたいへ んに.普及して,うたがいもなく,他のどんな本よりも当時のイギリスの社会主 義復措に大きく関与した。フェビアン協会が成立する以前に,私は,民主連盟 の1会合で,土地国有化に関するジョ−ジの宣伝を主張したが,しかし逆紅, カール・マルクスを読め,といわれた。私は.,当時経済学に.はまったくずぶの 新米だったので,.カは紘㍑≡誌にマルクスの推論中の1欠点を指摘する書簡を書 き送ったとき,じつはこの書簡をたんなる冗談と考えていたわけで,誰かもっ と専門家の社会主義者が私を容易に論駁してくれるものと大いに期待してい た。そんな論駁がいっこうに来なかったあかつきでさえ,19世紀の商業主義お よび資本主義体制に関するマルクスの告発の筆力と圧倒的な文献立証とに,私 はとて−も深く感銘しつづけたため,時期をとわず出会うすべての人々に.対して 私はマルクスを擁護したのだが,つい紅,著名なダンテ注釈者で,当時は人気 のあるユニテリアン派の牧師だったフィリップ・クイックステイ−・ドが,私の 理解できないマルクス批判をして,私を立ちどまらせることとなった。これは, 1871年出版のジェグォンズの価値論の,社会主義論争紅おける最初の登場なの であった。汐エグォンズは,数学者としてエツ汐ワ−ス教授とクイックステイ −・ド民に学説を告げたのだが,この両人が当時,学界紅たいして汐エグォンズ 理論の重要性について信じこませようと努めつつあった。しかし私は,数学者 ではなかったので,かれらの論証方法に容易には近づきがたかった。私は,私 の回答を掲載するr〃−かα.γ誌の編集者がクイックステイーード氏の応答のため のスペ−スをつくるべきことを明白な条件として,クイックステイ」−ド氏に回 答することを承諾した。」40) でほ,クイックステイ−ドのマルクス批判とは,どのような内容のものであ

40)Pease,0♪”Cit.,,AppendixI:Memoranda by Bernard Shaw,A:=On the History of Fabian Economics,,’pp.259−260

(23)

ー2β− ショ−とクイックステイ−ド ったか0またシ司−は,これ紅たいしてどんな批評を試みたであろうか0以下’ その吟味に.移ろう。 クイックステイー・ド41)は,ヨ−クレヤのリー∵ズで,・ユニテリアン派牧師の子 として生まれ,ロンドンの・ユニプァシティ・カレッジを出て父と同じ1ユニテリ アン派の牧師として,ロンドンのリトル・ポー・トランド・ストリー岬卜礼拝堂つ きとなり,同市のこの派で指導的役割をはたすとともに,ラスキンの影響を受 け,はやくから興味を哲学・倫理学・社会学,そ・して経済学へと拡大し,中世 と社会主義と紅関心を向け,ア−ノルド・トインピ−とともに.大学開放運動の 最初の講師の1人としても成功し,1897年に.牧師の職を辞して以後はもっばら 講演と著作で生活した人物である。とくにかれは,経済問題に.関する興味を, 最初にへンリ−・ジョージの『進歩と貧困』を精読するこ.とによって呼び起こ されたといわれるが,多元的で学理的な思考の得意な人であったらしく,1882 年ごろにジュグォンズの『経済学の理論』をも知ると,たちまちこの国の最終 (限界)効用理論の代表的紹述老となるとともに・,それを実践的な資源配分原撃 として適用すべく努めた。そして,誤解されやすい汐エグォンズの「最終効用」 (finalutility)のかぁりにカ−ストリア学派のGrenz−Nutzenを反訳した「限 界効用」(marginalutility)の語を英語に導入した。また,社会問題について ほ,汐ヨージがたんに情緒的で実践的な土地単税論者どまりであって,土地国 有化や・それをふくむものとしての一切の社会主義紅反対したのとは異なり,

1910年刊行の主著『政治経済学の常識』やNationalLiberalClubの政治経済

サ−クルで読んだぺ−パ・−『土地の国有化』(ムのね㌧Ⅳ融鶴沼仇須協露ゎ)などに.お

いて,かれは慎重で実際的な推論展開のうらに,のちはど考察するとおり,−

面ではあくまで経済原理−かれの場合は,限界原理一紅.よる決定論を終始 主張しながら,しかし他面ではその枠をこえたところで,人間社会の共同的進 歩(communalp∫喝Ⅰ・eSS)紅伴う共同的な統制ないし資源配分への人類ないし 国民の本能(instinct)の要請が進んできたことに注目し,それを社会学的次 41)以下のクイックステイ−ドの伝記事情大要については,主として LionelRobbins (edい),7ゐβCの椚矧川:ぶ釦S♂扉■A毎払応需∴畝α玖飢別γ,α乃d∫β/♂Cヂβ♂Pα♪β7・.ざ α〝d 点経由紺ぎの7月h描の矧c γ如♂γγ,∂.γ戸々よJ∠♪〟.肝∠c々sJ♂♂♂,2voまs.1933.Vol.Ⅰ の編者序文(とく紅,ppけⅤ−・Viii)による。

(24)

香川大学経済学部 研究年報15 ヱ975 −24− 元に.おいて受けとめ,土地社会化概念を肯定的に・規定し,その意味で社会主義 に.表見的にくみしたことが注目される。ただし,あらかじめいえば,クイック ステイ−ドの主張の歴史的役割は,汐=グォンズ限界効用理論を経済学の骨格 に.浸透させ,伝統的な労働価値論の根底をつきくずすことで古典派経済学を解 体させ,近代主義的なあたらしい社会改良思想の形成。展開のための基本的経 済理論装置を普及定着させることに貢献し,そのととによって福祉国家思想に 先鞭をつけたことに・あったと考えられる。 クイックステイ1−ドは,r∂−かqγ誌(新レリ」−ズ)の1884年10月号に.掲載さ れたマルクス『資本論』第1巻への書評42)に.おいて,ジェグォンズ経済学の立 場から,極力内在的に.『資本論』第1巻の論旨の理解と吟味に努め,マルクス の「資本家」の概念ほ,Viyクイック(HenrySidgwick)やク*・−カ−(F. A.Walker)の概念とは異なるものの,それ自身としてはただしく,またその 「剰余価値」の説明・整合性の点も,首肯できるものであり,とくに・,価値論と 経験(価格の現象の世界)との表面上の矛盾も,未刊行の続巻において後はど説 明されるらしい点も,納得できる,とする。43)が,そ・れにもかかわらず,同巻 のはじめの部分における抽象的な労働価値論の基本的説明のなかに・,とりわけ 2つの重大な難点が指摘される。第1に.,マルクスの労働価値論の説明のなか に.(ドイツ語版第2版,15,16,64ぺ−ジ。フランス語版,16α,35αぺ」−ジ), 「労働は,それが有用でないかぎりは問題とされない,という重恩な叙述」が あり,これは,簡単明白のようだが,じつは先行の分析を根底からくつがえし てしまうものであって−,抽象的有用労働の概念をひそかに認めたことに・なり, したがって,たとえ諸商品体の使用価値を抜き去って.−も,抽象的有用労働が商 品に,賦与した抽象的有用性−・般,ないし「抽象的効用」(abstractutility)の概 念は抜去されずに.残るから,この点,重要な飛躍なしには抽象的人間労働を導 出できないはずであったとし,ここから転じて,むしろ抽象的効用の概念の確 立と,そこからただちに.ひきだされる「無差別卜物一・価〕の法則」および「効 42)Tb−Da.y(New Series),Vol.ⅠⅠ,No”10,October1884,pp”388−409lこ・の番 評は,Robbins,OP。Cit..,pp,.705−724に収録。なおクイックステイ・−ドは,『■資本 論』のドイツ語版第2版(1872年版)とフランス語版とを併願したことを明記してい る。 43)To・Da.y,loccit.,pp。390−391n;Robbins,OPlr Cit・,pp・707−・708n

参照

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