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(1)

ブルージェ,フローレンス,アッシジ,ベニス,コモ湖,アムステルダム,ツ

ェルマット,マッターホルン,上高地,蔵王,浅間山……もう何枚になるだろう

か。この数年,旅をして訪れた街や山をキャンバスに描いている。大学を出てか

ら製薬会社,衛生試験所,大学と40数年間働き,大学を退任してからもう5年過

ぎました。仕事人間の男が仕事を離れると直にボケはじめ,家でごろごろしてい

ると粗大ゴミにされかねないと思い,ボケの防止策に区民会館の油絵教室に入り,

油彩画の勉強?をはじめています。小学校以来絵を描いたことがなかった私は,

油絵教室の初日に新品のパレットを裏返しにして絵具をつけ,先生から笑われて

しまいました。それでもめげずに何とか絵を描き続けています。人物は苦手で5

歳の孫の絵を描いたら「こんなの私じゃない」と軽くけなされてしまいました。

風景もはじめは「貴方の絵は塗り絵ですね」と言われたけれど最近は「なかなか

良く描けている」と褒められるようになってきました。絵は下手でもよい。絵を

描く時の楽しさがよい。研究で期待した結果がでるかどうか胸をどきどきさせな

がら測定装置のペン先を見つめていた時の満足感を今は絵を描くことで味わって

います。

現役時代は絵を描きませんでしたが鑑賞することは好きで,学会で海外に行く

と美術館に立ち寄り,本物の名画が観られるのを楽しみにしていました。初めて

ヨーロッパに行き,アムステルダムの国立博物館でルーベンスの「夜警」をみた

時は感動で息を止めて見つめたのを今も覚えています。しかし,先日オランダで

の学会に行き,

「夜警」に再会しましたが,若い時のような感動は感じられません

でした。2度目ということもあるのかも知れませんが,自分で絵を描くようにな

り,絵の全体の美しさを純粋に受け止めて感動することから絵を描く立場で絵を

観るようになったからかも知れません。絵の美しさにふれず,絵の細部の描き方

や絵の具の配色などに目が向いてしまうからでしょうか。

私は,薬学教育協議会会長として薬学教育の仕事にかかわり,私立薬科大学協

会や6者懇談会などにも出席しています。これからの薬剤師教育の議論はなかな

マッターホルンを

描きながら考えたこと

薬学教育協議会 会長 

つじ

あき

随 想

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か頭の痛い問題です。薬剤師養成問題懇談会(6者懇談会)で厚生省がまとめた

薬剤師教育モデルに対し国公立大学は4+2年制を,私立大学の多くは6年制を

考えています。薬剤師教育もいろいろ細部の課題に目を向けて議論すると「これ

は不可能だ」「これは経費がかかる」「これでは学生が来なくなる」など,どれも

これも解決できそうにないことばかりです。そして,それらの議論が長々と続く

ことになり,10数年,いやもっと長く議論し続けてきたことをまた繰り返すこと

になります。このような無駄な議論は避けなければと思います。薬剤師教育の問

題は細かなことに目をとられ,全体を見失うことのないようにしなければならな

いと考えています。そんな時に絵を描いていると頭がすっきりしてきます。絵は

先ず全体の構図を描き,遠景,中景,近景と順々に色をつけ,それから段々細部

に筆をすすめます。細部を描きながらも全体との調和を見ながら筆を進めます。

先月,スイスでスケッチしてきたマッターホルンを描きながら,薬剤師教育の全

体像について次のように考えました。

1)薬学・薬剤師教育は4+2年制と6年制とし,大学が選択する。

2)薬剤師国家試験受験資格は薬系大学6年修了で医療薬学実習を履修した者

とする。

3)10年計画で長期医療薬学実習の体制をつくる。

7月8日に開催される平成12年度の薬学教育協議会で提案してみようと考えて

います。直に全大学の合意は得られないでしょう。マッターホルンの絵はもう3

枚描きましたが,未だ満足できていません。何枚でも描き直すつもりです。21世

紀の薬学・薬剤師教育も全薬科大学,薬剤師会,病院薬剤師会の合意が得られる

まで繰り返し描き続ける努力をしようと考えています。

(3)

第1回でも触れたように,1858年(安政5), わが国は英米露仏蘭との間に通商条約を締結した が,それを契機としてこれら諸外国人が多数来日 した。その外国人のなかには,多くの英米の医者 がいた。 英国は古くから極東への植民地政策を進め,イ ンドを属領としビルマを保護下におさめ,安政13 (1842)年にはアヘン戦争により香港を中国(清) から割譲させた。 文久2(1862)年,英人ウイリスが英国大使館 員として来日,鳥羽伏見の戦い(1868年),東北 地方の戦いに従軍,負傷兵の治療に従事した。こ れらの医師によって,幕末期に英米の医方がわが 国にもたらされた。従って薬局方の嚆矢である陸 軍軍医寮「局方」(1871)及び海軍軍医寮の「薬 局方」(1872)は,その内容は全く英国医方であ った。 ではなぜわが国の「医制」もすんなりと英国の それを導入しなかったのか? そこに大いなる疑 問が残る。 その答は英国の「医制」に反対し,ドイツ医学 を最初に伝入した相良知安の活躍があったからで ある。 当時,政府の要人たちは,政治的配慮もあって 英国医制の導入を推し進め朝野においても英国医 制の移入は優位と考えられていたのである。 それに待ったをかけたのは相良知安であった。

1.ドイツ医制導入のいきさつ

ここで彼の略歴に触れておこう。相良知安は天保 7年(1836)に佐賀県に生まれた。藩校に学んだ のち江戸に出て,佐藤舜海(佐倉順天堂創立者) の門に入り,次いで長崎精得館(のちの長崎府医 学校)でオランダ軍医ボートインに学んだ。のち 戸塚文海に代って館長をつとめた。第1大学区医 学校学長,文部省医務局長などを歴任した人物で ある。 明治政府の近代化政策は,政治・経済・軍備な どあらゆる分野にわたって欧米を見習うことに腐 心していた。先進諸国の学芸・技術・諸制度をと り入れるため,先ずいわゆる「お雇い外国人」の 採用から始ったのである。 医療の分野でも,どの国の医制をとり入れるべ きか,政府内部で激しい議論がたたかわされた。 政府の高官たちは,前述のとおり政治的な配慮か ら,英国医学に決めようとしていた。 議論が沸騰するなか,参考意見を求められた相 良は席上,堂々と次のように自説を披露した。

シリーズ 薬剤師100年のあゆみ ②

「 対 立 と 協 調 」

―ドイツ医制導入のいきさつ―

連載第2回は,なぜドイツ医学・医制を導入したのか,その導入に情熱を傾けた相良知安 や日本薬局方の制定の恩人ともいうべきオランダ人ゲールツと薬事行政に尽力された長與専 斎などについて述べたい。

(社)東京都薬剤師会

相良知安(1836∼1906)

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「かつてオランダは繁栄しておりましたが,現 在,すでに国力は衰退して,その学問もドイツや フランスのそれを翻訳してようやく体裁を保って いるのが実情です。イギリスはどうかといえば, かの国は東洋諸国を植民地化し,つぎにわが国を 虎視眈々と狙っています。アメリカはまた新しく 誕生したばかりの国で医学は十分といえません。 その点,ドイツは年ごとに発展しつつある伝統に つちかわれた国であり,しかもわが国と国情が似 ています。ドイツの君主体制こそ,わが国が見習 うにふさわしいかと考えます。ドイツはイギリス と違って東洋への進出の野心はもっていないのが 好都合であり,新しい革袋にはあたらしい酒を盛 るように,これからのわが国には斬新な医制が必 要です。技術的にも進歩著しいドイツ医学こそ, わが国にふさわしいのです」 この彼の熱弁に政府高官も動かされるところが あったのか,明治4年(1871),政府はドイツ陸 軍軍医(正式にはプロシヤ軍)ドクトル・ミュル レルと,海軍軍医ホフマンを招いて大学東校の教 授とした。これは当時の政府としては一大革新で あった。 ミュルレルは,就任早々に学則をドイツ式に改 めるとともに,薬科の設置,薬剤師の養成を提唱 した。医学教育にドイツ医学をとり入れた以上, 医制(医療)もまたドイツのそれに見習う方向へ 進んで行ったのは当然の成り行きであった。 これより先の明治2年(1869)4月,岩倉大使 一行が欧州を視察した。これに随行した長與専斎 が6年3月に帰国すると,医薬事制度の改革と医 薬の基本法の作成の任を果すため文部省医務局長 に任じられた。 これと併行して政府は大学東校のドイツ人教師 ヘルマンに諮問していたわが国の医制に関する答 申を受けた(明治6年5月)。この「薬剤取調之 法」は,のちの「薬律」(法律10号)の原典とも 称されるべきもので,全くドイツ方式の医薬分業 を基調としていた。 この年,文部省は全国の医師や薬局を調査し, 12月には「医制」の成案を政府に上申した。 上申書の趣旨は,「すべての弊害は医師が薬を 売ることから発生している。これを是正しなけれ ば医制の意義はなくなってしまう」といっている。 長文にわたる上申書の核心をなしているのは,こ の短い文章に集約されるといっても過言ではない。 医制は明治8年(1875)5月14日,一部改正の のち公布された。 余談になるが,明治政府が雇い入れたドイツ人 医師ミュルレルとホフマンの報酬はどの位であっ たか,與味あるところである。2人の月給はそれ L. ミュルレル(L. Müller) T. E. ホフマン(T. E. Hoffmann) 長與専斎(1838∼1902)

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ぞれ洋銀600枚というから,当時の円に換算する とおよそ1,200円程度ではなかったかと思われる。 明治初期,庶民の1か月の生活費は10円ないし20 円,100円もあれば上流階級であったから,ドイ ツ人の月給は,そのころの庶民感覚とは大きな開 きがあった。それに往復の旅費,住居費は日本政 府が負担したのだから,いかに外国人お雇い教師 が優遇されていたかがわかる。 前述したように医学ではドイツ人が多く「お雇 い外国人」として採用されたが,では薬学領域で はどこの国の教師が招かれたのであろうか。実は ドイツ医学の移入が実行されたにもかかわらず, 薬学関係ではオランダ系の外国人が多かったのは 奇異に思われる。 そのひとりアントン・ヨハネス・コルネリス・ ゲールツについて,わが国薬局方とのかかわりと 合わせて見てみよう。 ゲールツ(1843∼1883)はオランダのオウデン タイクの薬業家に生まれた。成人して陸軍薬剤官 となり,のちユトレヒトの陸軍医学校の教師とな ったが,彼の才能は薬学ばかりではなく,理化学 や植物学でも大いに発揮された。 わが国の政府に招かれて来日したのは,明治2 年(1869)7月で,彼が26歳のときであった。彼 が最初に教鞭をとったのは,長崎医学校(現長崎 大学医学部)で,教えた科目は物理・化学・幾何 学などであった。 そのころの長崎医学校は学制改革が行われたば かりで,学頭は長與専斎がつとめ,オランダ人医

2.近代薬学に貢献したゲールツ

師マンス・フェルトが教頭と付属病院の医師を兼 ねて指導にあたっていた。 前述したとおり,長與専斎は明治6年(1873) に帰国すると医制取調べを命ぜられた。医制の確 立もさることながら,彼が緊急に対策を求められ たのは,悪徳外国商人による粗悪薬品の輸入防止 であった。 その実態はまさに恐ろしいものがあった。従来, 生薬ばかりを扱ってきた薬種業者は,全くといっ てよい程,洋薬に対する知識がなかった。それに つけ込んで,一部悪徳外国商人は,キニーネと称 して他のキナアルカロイドを,ヨードカリといっ ては,実はブロムカリ,炭酸カリを売りつけると いった例があとを絶たなかった。また容器の底に 寒水石(石灰岩)を入れ,その上にビスミットを つめたり,また,サフランは澱粉を混ぜて中味を 増したりして取引された。 レッテルや中味をすり代えるなどは日常茶飯事 で,これら洋薬取引は前金が慣例で,しかも,そ の場で現品を検査させないばかりか,後日,それ が不良品と判明しても,ほとんどが泣寝入りとい った状態は,悪徳商人の暴利のえじきとなってい た。 当時,洋薬の輸入港は横浜・神戸・長崎が主な るものであった。 話をゲールツと長與専斎に戻そう。明治6年 (1873),ゲールツは長崎税関の依頼により,輸入 キニーネの分析を行い,その鑑定書に添えて粗悪 な輸入洋薬の取締りと薬品試験所の必要性を進言 した。 長與専斎はゲールツの進言をとり入れ,薬品検 査機関として,東京,大阪,京都に「司薬場」を 設置させた。東京司薬場は,明治7年(1874)3 月,東京日本橋馬喰町に開設され,永松東海を場 長に,ドイツ人マルチンを監督として,薬品検査 業務を開始した。これがわが国における薬品取り 締りの発端であり,以後の薬事行政の発展に大き な影響を与えたことは言うまでもない。 ゲールツは明治8年(1875)2月に設置された 京都司薬場の監督に任用され,同じ構内にあった 「京都舎密舎」での講義も兼任した。これは前年 に公布された「医制」において,その施行が規定 された新しい薬舗開業試験(のちの薬剤師試験) A. J. C. ゲールツ(A. J. C. Geerts)

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に備えて彼にその原案を作成してもらうことにあ った。 さらに司薬場での彼の主な業務は薬品試験であ ったが,当時,薬品の基礎となる日本薬局方は存 在しなかったため,基準の異なる外国の薬局方を 用いていた。そのため当然のことながら混乱が予 想された。例えばヨード鉄舎利別は,フランスの 局 方 を 規 準 に 製 造 す る と そ の ヨ ー ド 鉄 含 量 は 0.5%であるが,イギリス薬方は5%,オランダ 薬局方2.0%となり,比率に大きな効力差があっ た。 明治8年(1875),長與衛生局長は日本薬局方 の必要を痛感,ゲールツに日本薬局方の草案作成 を命じた。ゲールツは同じオランダ人で,大阪司 薬場教師のドウルスと協力して,第1版オランダ 薬局方(1851年刊)を参考に,草案のまとめにか かった。この草案の特色は生薬名を漢字で自筆し たことや,西洋生薬と成分や薬効が類似する日本 産生薬を代用薬として解説したことなどがあげら れる。また,収載薬品は604品目にのぼり製剤総 則8項目,付表17種,索引などから構成されてい た。 明治10年(1877),このオランダ語の草案は完 成,長與専斎に提出された。しかし,前述したと おり明治政府はドイツ医学を採用したことなどか ら,最終的には彼のオランダ語の草案は世に出る ことはなかった。周知のとおり彼の死後3年あま り経た明治19年(1886)6月25日,エイクマンの 手によって「日本薬局方」の初版が公布された。 なお,京都司薬場は薬品・薬種の中心地である 大阪の司薬場に近いという立地条件から,1年あ まりで廃止となった。これに代って古い伝統をも つオランダ貿易の窓口としての長崎に,開港当時 より急激な発展を遂げた横浜に新しく司薬場を設 けた。このときゲールツは横浜司薬場の開設の任 にあたり,明治10年(1877)5月に業務を開始し た。その後,同10年から同12年にかけて日本全土 でコレラが猛威をふるったさいには,長與衛生局 長をたすけ防疫対策を実行し,伝染病予防規則の 制定の促進に努力,今日の衛生行政の基礎を築い た。 エイクマン(J. F. Eijkman) 第一版「日本薬局方」ラテン版 司薬場検査証紙 大阪舎密局

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このようにわが国の薬事行政,保健衛生の発展 に大きな貢献を果したゲールツであるが,明治16 年(1883)8月3日,急性の病のため横浜で40年 の生涯を閉じた。現在も彼は長崎出身のきわ婦人 とともに横浜の外人墓地に眠っている。 彼と協力しわが国の薬事行政の基礎を築いた長 與専斎は,自伝「松香私志」のなかで,ゲールツ に触れて,次のように述べている。 「(途中省略・大意)ゲールツ氏は勤勉な人で, わが国の理化学の創始に困難をのりこえて尽力さ れた。のちに司薬場の教師として長崎・京都・横 浜で教え,在任15年,理化学・建築学の発展はこ の人の力があってこそ実現したといえよう。彼は 鋭い洞察力と卓越した実行力で,検疫消毒の方法, 薬局方などの編纂などたずさわった。若くして逝 かれ本当に惜しい」 江戸時代も終り頃のわが国の医療は漢方と蘭方 に分かれていたものの,その区別は必ずしも明瞭 ではなかった。漢方をやっていた者がやがて蘭方 へと移ったりした例もあったからである。 明治政府はそれまでの漢方医学を廃し,次いで 発布された医制においても西洋医学を採用した。 医学が漢方から西洋へと転換していくなかで, 当然,薬学と薬業もオランダ薬学・ドイツ薬学へ と進み,和漢薬から洋薬へと移った。 当時の輸入洋薬は横浜・神戸両港が輸入窓口 で,この両港へ薬業者が集中したのは当然のなり ゆきであった。明治元年(1868)には早矢仕有的 の丸善薬店がイギリスから輸入したのをはじめ, 横浜では鳥居徳兵衛,友田嘉兵衛,小林桂助,大 川佐兵衛,北国屋又兵衛などが,初期の洋薬輸入 業者として知られる。 前にも触れたように一部不良外国貿易商のた め,わが国の業者は泣き寝入りした例もあったが, 大阪・横浜・長崎などに司薬場が設立されるにと もない,不良薬品の横行を防止し,しだいに薬品 市場も正常化して行った。 明治も中期となると,江戸時代には専ら漢薬専 門の薬種問屋であった者が,和薬の取り扱いをや め,洋薬のみにしただけではなく,経営の近代化 を促進する傍ら,日本薬局方が制定されたのち製

3.明治初期の薬局と薬剤師(薬種商)

業にも進出する業者が出現した。その典型的なも のとして塩野義三郎があげられる。 東京で最も早く調剤薬局を開いたのは銀座の資 生堂の福原有信(第3代日薬会長)で,明治5年 (1872)6月であった。彼は明治初年から薬舗 (薬局)を経営していたが,その店舗をヨーロッ パ方式の近代薬局に新しく模様替えし,「東京新 橋出雲町」において開局したとき,彼は次のよう な広告文「新聞雑誌」に載せている。 「わたしは大学東校(東京大学医学部の前身) や陸海軍病因で医学を修めて5年になるが,この たび西洋式の薬局を新たに開店した。すべての取 扱い薬品は検査(試験)済であり,計量に誤りな く,適正に調剤し,その量の多少を問わず販売す ることに専念している」 福原有信の律気な性格を漂わせる広告文であ る。福原は幕末の嘉永元年(1848),千葉県の松 岡村に生まれ,17歳で織田研斎に入学し医学を修 めたのち,医学所でさらに学業を重ね,明治5年, 前述の薬局を開いた。当時にあっては珍らしい洋 館2階建で,1階は洋風薬局,2階は回陽堂医院 と称し,松本良順ら当代一流の医師が診療に当っ た。 明治12年(1879),鎌倉海岸に東京製薬社を創 設した。のち大日本製薬会社の設立にも携わり, 長井長義社長のもとで専務を勤めた。 「東京薬剤師会」(明治20年10月設立)との関 わりは,設立に参画するとともに,初代の会頭に 任じた。会発足当初は財政的に恵まれず,機関誌 (「薬剤誌」)の発行もままならなかったが,福原 が私財を投じて継続させたエピソードはあまり知 られていない。民間薬剤師の先覚者として,大正 福原有信

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13年(1924),77歳で逝去した。 「薬剤師」という名称は,いつ誰れがつけたの であろうか。その疑問を抱かない人はいないと思 う。しかし,正確に答えられる人は意外に少な い。 「薬剤師」なる名称が初めて正式に公けにされ たのは,明治22年(1889)の「薬品営業並薬品取 扱規則」〔いわゆる〔薬律〕(「法律10号」)〕が制 定されたときである。 それまでは一般的に「薬舗主」といわれていた が,この薬律の草案づくりに携わった柴田承桂内 務省御用係が,明治21年のある日,丹羽藤吉郎 (日薬第6代会長)を訪ねてきて,「実はドイツの 薬制を参考にして,アポテーカを薬剤師と訳して みたが,いかがなものだろうか」といった。これ に対し丹羽は「自分は薬剤師よりむしろ薬師のほ うを推せんする」というと柴田は「何だか仏像を 連想させておそれおおい…」とつぶやきながら帰 った。 結局,柴田のいう薬剤師に決定したのだが…… 因みに中国・韓国では薬師である。 話は突然現代に飛ぶが昭和43年(1968)9月 (平成9年10月24日改正)日薬は前文と10条から なる「薬剤師倫理規定」を制定した。いうまでも なく薬剤師が等しく人びとの信頼にこたえ,医療 の担い手の一員として果すべき薬学の進歩発展と 公共福祉の増進等への貢献を唱いあげたものであ る。 ところが今から125年前の明治8年(1875)に,

4.薬剤師―その心得―

太田雄寧という人が,「薬舗心得草」なる著書を 出版,薬舗(この場合,薬局と薬剤師を指す)が 守るべき事項を緒言とし第1章から第6章まで詳 細に述べている。 その全容を紹介することは紙数の関係で無理な ので要点のみを記す。 雄寧はまず第1章に「薬舗」は医師の処方せん により調剤して患者に与え,また同時に医師の使 用する薬品を「精錬」する(医療分業)。当然の ことながら店頭では,一般者に「無害の薬品を売 る」ものであるとし,その行為は「調合薬舗」 (調剤薬局),「製薬化学者」「乾薬舗」でなければ ならないと説く。 さらに薬剤師は人の生命をあずかる専門家でな ければならず,「餅屋菓子屋と同じ職業」であっ てはならない。従って「職業に関する学術」を身 につけなければならず,第1番目に毒薬の取扱い が適正であるかどうか。毒も使いようによっては クスリになるのだから,その扱い方は慎重を期す のが肝要である。だから,薬剤師の最低条件の一 柴田承桂(1849∼1910) 松本良順(1832∼1907)

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つは,薬物の鑑定法を知っておくことにある。 次に空ビンの取り扱いである。薬品を入れたビ ンは,たとえ空ビンであっても,他の薬品を絶対 に入れてはならない。「有効の薬も無効となり, 無効の薬もかえって毒物となる」(配合禁忌)も 警告している。 第2章では薬剤師が学ぶべき必須科目をあげて いる(省略)。 第3章では度量衡に触れ,テンビンやハカリは 常に2種類のものを用意し,器具はいつも正確で なければならないと説く。 第4章は「薬局の用量」と称し,各国の用量を 述べている。「日本薬品方」の制定以前であった から,当然のことといえよう。 第5章は「薬品の貯蔵方法」について述べ,薬 品の性質を熟知したうえで,適切な管理方法を説 き,特に光線に対する注意を促している。 第6章は特に「毒物とその形状用量」とし,医 師の指示なくては絶対に販売してはならない「砒 石」など,特に31種をあげている。 最後に法的な規制がなくても,販売にあたって は十分に注意するものも例を挙げて説いている。 今日の倫理規定とは赴きを異にするかも知れな いが,薬剤師が本来守らなければならない最低の 義務を唱っているからには,当時にあっては倫理 の一端を示したものといえよう。 この太田雄寧(1851∼1881)は,西洋の調剤学 を初めてわが国にもたらした人物である。彼は最 初医師を志して,明治元年(1864),14歳で松本 良順の塾に入り,のち西洋医学所に転じた。明治 維新のとき,幕府軍に従って医師として従軍,の ちに捕らえられ一時幽閉されたこともある。 明治3年(1870)に良順の病院に入り,軍医と なったが,同5年,薬品製造を学ぶために渡米, フィラデルフィアの製薬学校に入り,さらにニュ ーヨークの大学で薬学を習得した。 帰国後,愛媛県立医学校校長兼病院長となった が,同8年上京し著述と翻訳業に専念した。「薬 舗心得草」「薬物鑑法」のほか著書は多数にのぼ る。同14年,31歳の若さで病歿した。もし存命で あれば,医薬分業の急先峰として活躍したであろ うことは想像に難くない。 明治7年(1874)の「医制」を一番最初に施行 したのは京都府であった。医師には必ずメタルを 持たせ,薬舗主(薬剤師)には試験を受けさせた。 従ってわが国の薬舗免許の第1号から第15号ま で,すべて京都府に集中,さらに第50号までのな かで34名が京都府というありさまであった。 薬事制度の普及に熱心だった京都府は,明治10 年(1877),上京(京都府庁前)と下京(小田原 町)に,それぞれ「模範薬局」なるものを設立し た。その店舗設計には,当時,薬事検査や薬剤師 教育などの中心機関であった「京都舎密局」の専 門家があたった。 運用経費は京都府勧課への天皇からの賜金によ って支弁された。この「模範薬局」には明治天皇 も立ち寄られたという。明治17年に廃止となった が,わが国の薬事制度の発展に大きな刺激となっ たことは言うまでもない。 「模範薬局」の開設は,現代人の知恵だけではな く,すでに明治時代にもあったという話である。 参考文献 東京都薬剤師会五十年史,東京都薬剤師会 白い激流(明治の医官・相良知安の生涯)・篠田 達明 薬学ゆかりの外国人(4)ゲールツ,松本皆代子 薬と日本人 山崎幹夫 日本薬剤師会史,日本薬剤師会 日本ベーリンガーインゲルハイム㈱/イエインフ ォーマー 宗田一著「日本の医療文化史」より

5.明治の「模範薬局」

太田雄寧の著述目録の一部と「薬舗心得草」表紙

(10)

はじめに 米国の医療保障制度は日本を含めた他の先進諸 国とは異なった仕組みを有しているが,近年の米 国の医療保障制度改革によるダイナミックな動き は世界中から注目されている。なぜダイナミック な変革が行い得るのか。それは,米国の医療市場 が自由を基本としているため,個人や企業のニーズ や市場の状況に応じて医療機関のシステムや提供す るサービスを大きく変貌させているからである1) わが国の医療においても,少子高齢化の進展に より医療保険財政が年々急迫していることは米国 と同様であり,医療提供体制の抜本的改革が求め られている。この中で,近年,飛躍的に拡大した 処方せん調剤市場に対しては,その内容や費用の 面から批判的な声が出始めており2),医薬分業が 年々増大する調剤医療費に見合うだけ患者のメリ ットを増大させているかが問われ始めている2,3) また一方で,急速な市場の拡大は薬局間の競争の 激化に対する不安と危惧を薬局経営者に与えてい る。 そこで本稿は,わが国の保険薬局が「かかりつ け薬局」としての機能を果たすための方向性を知 る手がかりとして,厳しい医療保険制度改革にも まれながらも医療における重要な位置づけを有す る米国におけるコミュニティ薬局の経営環境およ び患者サイドからの薬局評価要因の動向について 報告する。 米国民が加入する医療保険は民間医療保険が中 心であり,公的な医療保障は主として貧困者に対 し州と連邦政府で運営されているメディケイドと 65歳以上の高齢者に対するメディケアに限られて いる。医療についても自由が原則であるため,医 療保険の加入についても個人の自己責任にゆだね られており,そのため人口の2割近く(約3,600 万人)もの無保険者が存在している1)。このよう な多数の無保険者の存在,世界最高水準の医療費, HMO,PPOといったマネージドケア注)の普及な どが他の先進諸国と異なる米国の医療制度の特徴 である。 処方せん調剤に対する薬局の調剤報酬は,民間 保険会社や連邦政府からの償還額と患者の自己負 担額で構成される。民間保険会社の場合,薬局に 対して償還上限額(調剤コストを含む)を設定し ている。設定金額の算定根拠や金額は保険会社ご とに異なり,薬局側は契約した保険会社の各々の 設定に応じた調剤報酬を受け取る1)。処方せん調 剤においても価格競争が激しい米国では,理論的 には薬局が自ら見合った報酬を自由に設定するこ とができるが,実際には各民間保険会社が定めた 承認上限額よりも安い価格で調剤が行われている 場合が多い。また,公的保険であるメディケイド においては,図1に掲げるように薬局への償還額 として調剤料と薬剤費(医薬品仕入値にに相当す る金額)が定められており,その金額は州ごとに

1.米国の医療保障制度

米国におけるコミュニティ薬局の

経営環境と評価要因の動向

東京都/日本大学薬学部

かめ

美和子

み わ こ

学術大会から ②

注)マネジドケアは医療サービスの利用管理を行う経営技術のことであり,その技術を使って医療サービスの利用管理を行う事業体がマ ネジドケア組織である。マネジドケア組織にはHMO,PPO,IPA,URO,PHO,PBMといった組織体が含まれる(西田在賢,米国 マネジドケア考第三稿―マネジドケアの用語法整理―,社会保険旬報 No.1986,20∼24,1998より)。

(11)

? ? 調剤料$ 2∼4 アラスカ ハワイ 4∼5 5∼ 不明 ? ? WAC +18% +18%WAC WAC +12% WAC +9.2% のみ WAC +7% WAC +10% のみ WAC +5% のみ

AWP(Average Wholesale Price        =平均卸売価格 WAC(Wholesale Acquisition Cost

       =卸獲得原価(メーカー仕切価格) ∼−10% アラスカ ハワイ  −10%  −10%∼ 不明 AMP ? いらない G:1 B:2 G:0.5 B:2 G:0.5 B:2 G:0.5 B:1 1 1 2 2 1 1 1 1 1 1 2 0.5 1 1 1∼2 2 1∼2 1∼2 2 0.5∼2 0.5∼1 0.5∼3 0.5 ∼3 0.5 ∼3 0.5 ∼3 0.5 ∼2 0.5∼3 ? ? アラスカ ハワイ 数字はドル G:ジェネリック B:ブランド 2 (1)州別調剤料(単位:ドル)幅があるものは平均値 (2)州別医薬品原価償還額(単位%) (3)州別患者自己負担金(単位ドル) 図1 アメリカ合衆国のメディケイドにおける調剤報酬(1991) (The National Pharmaceutical Council servey:ドラッグトピック

(12)

― 15 ― 都薬雑誌 Vol. 22 No. 8(2000) 異なる。患者の自己負担額が課されている場合は, 一般にジェネリック薬を使用した場合に負担が少 なくなるように設定されている。 医療に対するニーズは時代や環境によって変化 する。医療においても競争が耐えない米国では, 医療サービスの評価を医療提供者側の視点からだ けでなく患者サイドからの評価が重視されてお り,多くの調査や研究が行われている4)。米国に おける薬局の評価要因の動向を知るために過去数 十年間に報告された多くの研究文献を収集して調 査した結果からは,以下のことが示された5) 1977年にGagnon6)は,1959年∼1977年までの 薬局の愛顧動機を薬局のタイプ別に報告した。独 立薬局とチェーン薬局,および専門薬局について, 薬局選択の第一の動機はいずれも“立地の利便性” であり,これ以外の動機として,独立薬局と専門 薬局は“気に入った薬剤師がいること”,チェー ン薬局では“価格が安いこと”がそれぞれ重要と された。そして,利用する薬局のタイプと利用者 の属性が愛顧要因と強い結びつきがあることを指 摘した。また,1990年にSmithら7)は,薬局の愛 顧要因が経年的に変化してきたことに着眼し, 1959年以降最も重要視されてきた“立地の利便性” が1980年以降その重要度が減少し,逆に“価格” と“薬剤師の能力”の2つの要因が増加したこと を報告した。この傾向はその後の1994年のMeade の報告8)によってより明確に示された。図2に示 すように,“立地の利便性”は1979年から1988年 までは約半数の回答者が最も重要な要因としてい

2.患者の薬局評価要因の動向

たが,1993年には28%に減少し,薬の価格,医療 保険プラン,薬局薬剤師の信頼性や能力を重要と する回答者が増加した。このように,“薬剤師の 能力”と“価格”に対する重要度は1980年頃から 高まり,この傾向は現在も続いている。

1997年のThe Retail Drug Institute at the Arnold & Marie Schwartz College of Pharmacy and Health Sciencesの研究結果8)によると,薬局に求める重 要な要素として最もよく出てきた理由には次のよ うなものがある。

1.Pharmacist accessibility 2.Location

3.The presence of a trusted Pharmacist 4.Reasonable prices

5.The professionalism of personnel other than the pharmacist

この研究の結論としては,患者にとって重要な 要 因 は 薬 剤 師 そ の も の で あ り , P h a r m a c i s t accessibility,つまり,最も重要な評価基準は顧 客の相談に十分応じられる時間と能力を持つ薬剤 師がいるかどうかであるとしている。また,回答 者の割合で比較すると“価格”に関連する要素の 重要性は“薬剤師”に関する要素と比較して低い が,処方せんを安く提供することは実際には顧客 獲得に大きく影響している。 “薬剤師の能力”と“価格”の2つの要因が独 立薬局および専門薬局の利用者とチェーン薬局の 利用者のそれぞれの愛顧動機であることは,1980

3.薬局評価要因と医療保障制度改革との

関わり

0% 1979年 1983年 1985年 1988年 1993年 20% 40% 60% 80% 100% 自宅や職場から近い場所にあるため 薬剤の価格のため 信頼できる薬局であるため 従業員の応対がよいため 医療保険プランによるため 薬剤師や従業員による(薬の説明含む) その他 ; ;; ;; ;;; ;; 45 51 48 49 28 22 4 7 15 20 4 17 3 2 11 7 11 19 1 0 32 19 6 9 15 23 4 8 20 図2 薬局愛顧理由の年次推移(Meade,1994)

(13)

年以前に報告されたが,これらの重要度が近年高 まった理由には,米国の医療費抑制策を背景とし て価格競争を活発化させている薬局と,それに対 抗してより専門性を重視する薬局との競合関係が 関与していると考えられる。 しかしながら,すべての患者が自分の希望どお りの薬局を探して利用しているわけではなく,実 際に利用する薬局の選択理由は,家から近い,専 門知識がある,価格が安いの順であり10),自宅周 辺の薬局の中から自分の期待にあった薬局を選ん で利用する患者が一般的である。そして,中には, 患者が契約する保険会社によって支払い側が指定 する薬局に変更せざるを得ない場合もあり(図 3),患者が薬局に望む機能と実際の選択とが異 なるケースも存在する。 マネージドケアでは,治療効果を下げずにいか に医療費を抑えるかが追求されるため,1調剤あ たりの利益率は抑制される傾向がある。そのため, 薬局やドラッグストア業界も大規模かつ全国チェ ーンが有利となり,チェーン同士の合併やマネー ジドケア会社との統合化が進んでいる11∼12)。また, 小さい独立薬局は収益率が低下し,大規模ドラッ グストアに買収されか廃業へと追い込まれている。 米国の独立薬局の厳しい経営状況に関しては日 本でも話題にあがることが多い。著者は1998年9 月にカリフォルニア州の独立薬局の経営状況につ いての聞き取り調査を実施した11)。聞き取り調査 の結果は表1および表2に掲げる。調査に応じた 薬局の多くで経営の効率化を図る工夫が行われて いたが,経営の成功要因(キーサクセスファクタ

4.独立薬局の経営状況

ー)は,集客力のある立地だけでなく,特殊なサ ービスとそれを提供する従業員に対する教育であ り,それらに必要なのは明確な経営理念であると 思われた。

なお,NCPA(National Community Pharmacists Association)のレポート13)によると,全米におけ る平均的な独立薬局の経営状況は表3および表4 のとおりである。同レポートでは,独立薬局に対 する消費者の高い評価と医療費抑制への高い貢献 度を実証した多くの研究成果を総括して,“医療 保障制度における独立コミュニティ薬局業務の価 値”をアピールしている。 米国の薬局評価要因の動向および独立薬局の経 営状況を知ることは重要であるが,「かかりつけ 要因」という観点で米国と日本を比較すると,次 の二つの大きな違いがある。 第一点は,処方せん調剤の価格を薬局がコント ロールできることであり,価格競争が可能である こと。第二点は,再調剤や電話処方が可能である ことである。表3に掲げたように,米国の独立薬 局では薬の配達が顧客サービスの一つとして確立 されており,年齢層の高い消費者がチェーン薬局 よりも独立薬局を好む理由のひとつであろうと思 われる。日本にはない制度として,処方せんが複 数回使用できる再調剤(リフィル処方)では,医 療機関で受診しなくても患者が電話でオーダーす れば薬局で薬剤を手に入れることができるので, 医療機関周辺の薬局に処方せんが極端に集中する ことはない。また,医師から薬局への電話処方も 認められている。つまり,配達サービスを利用す ることによって,患者は薬局へ一度も足を運ぶこ となく,しかもメールオーダーよりも早く薬剤を 手に入れることができるのである。 また,このほか,多くの無保険者がセルフメデ ィケーションの窓口として薬局を利用することも 米国の特徴であろう。 日本と米国のかかりつけ要因を比較するとき, このような制度上の相違が背景として存在するこ とに注意しなければならない。

5.日本と米国におけるかかりつけ要因の

相違

0% 20% 40% 60% 80% ; ; ; ; ;; 1988年 1993年 30 19 10 20 19 7 3 18 14 9 6 3 引越、転勤、転職のため 薬剤の価格のため 薬局の閉店、経営者変更のため 自宅や職場から近くないため 医療保険のため サービスによる ; ; 図3 薬局を変更する理由(Meade,1994)

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表1 独立薬局の経営環境に関する聞き取り調査結果(カリフォルニア州) 調査 薬局 立地環境 営業 年数 主な取扱商品 (売上比率) 営業日 営業時間 従業員 調剤用医薬品 在庫銘柄数 来客数 (調剤数) 備 考 A薬局 商業地 30年 食品,雑貨,カー ド,調剤,OTC 月∼金 7:30∼18:00 薬剤師1名 他 数名 1,000品目 ( 医 薬 品 以 外 5,000品目) 8,000∼9,000 人 / 週 ( 7 5 調剤/日) 独立薬局の協同組 合で仕入れ B薬局 商業地 オフィスビル 1階 46年 化粧品,小物,雑貨, 調剤,OTC(調剤: OTCは3:2) 月∼金 7:30∼17:30 薬剤師2名(交替) 他 3名 1,500∼2,000 品目 (70調剤/日) 患者データのコン ピュータ管理 C薬局 商業地 35年 調剤,OTC,カード 雑貨,くじ・チケ ット類 月∼金 7:30∼17:30 薬剤師1名 他 3名 1、500品目 400人/日 D薬局 商住地 31年 OTC,雑貨,菓子類, 調 剤 ,工 芸 品( 調 剤:OTCは3:7) 月∼土 9:00∼18:30 日 10:00∼16:00 薬剤師2名 他 3名 1,000品目 以上 200人/日 以 前 は 売 上 比 率 が,調剤6:OTC 4であった。現経 営者で閉店予定。 E薬局 商住地 47年 調剤,食品,雑貨, OTC 月∼金 9:00∼18:00 土 9:00∼16:00 薬剤師1名 他 4∼5名 ( 1 5 0 調 剤 / 日) 近くに専門性を高 めた新店舗を開設 予定。 F薬局 商業地 メディカルビ ル内 ― 調剤,OTC,検査 キット (調剤の割合大) 月∼金 薬剤師2名 テクニシャン1名 (多忙時) 2,000品目 以上 ― ビル内に,歯科医 師150人,医師35 ∼40人のオフィス がある。 G薬局 商業∼住宅地 メディカルビ ル1階 7年半 調剤,OTC,雑貨, 医療用具(調剤: OTCは7:3) 月∼金 9:00∼18:00 土 9:00∼14:00 薬剤師1名 テクニシャン1名 事務1名 1,300品目 ( 1 0 0 調 剤 / 日) ビル内に医師のオ フ ィ ス が 約 3 5 あ る。 H薬局 商業∼住宅地 メディカルビ ル1階 82年 調剤,医療用具(介 護用品),OTC,食 品,その他 (上記の順に,63%, 19%,13%,3%, 2%) 月∼金 9:30∼18:30 土 9:00∼13:00 薬局:薬剤師 1∼2名, 事務2名, 配達1名 介護用品: 配達1名, 資格保有者1名 他2名 1,200品目 (医薬品以外 10,000SKU) 1,000人/日 ( 2 0 0 調 剤 / 日) ワンストップショッピ ング,トータルサービ スを提供。教育制度, 倫理規定あり。20年前 は調剤主体,10年前か ら介護用品,2年前よ りナチュラルファー マシーに力を入れる。 注:A∼G薬局は1店舗のみの独立薬局,H薬局は小規模チェーンの1店舗 表2 薬の配達サービスに関する聞き取り調査結果(サンフランシスコ市) 調査薬局 配達する人 配達料金 料金の負担者 備 考 I薬局 薬局専属の配達員 薬の購買量による 患者負担 市内は一般的に$3 保険でカバーされない J薬局 外部のメッセンジャー 市内$2∼3.5 患者負担 市内のみ サービスを利用 保険でカバーされない K薬局 薬局専属の配達員 薬の価格が$10までは雇用者負担 雇用者負担と患者負担 市内のみ 払いで配達料$3 L薬局 薬局専属の配達員 HMO加入者$5,$10以上薬を HMO,患者負担 1日3回配達 購入した場合は無料 M薬局 薬局専属の配達員 市内の特定地域$2他は$3∼5 患者負担 N薬局 薬局専属の配達員 市内$3.5 患者負担 市外UPSにかかった料金 保険でカバーされない O薬局 薬局専属の配達員及び郵便 市内$3.75 患者負担 市外は郵便で$5 保険でカバーされない

(15)

表3 独立薬局の経営状況(1) 1薬局当たり平均値 1997年 1996年 売上高と構成比 調剤 1,307,204ドル 79.3% 1,143,322ドル 79.3% その他 341,848ドル 20.7% 299,261ドル 20.7% 計 1,649,052ドル 100.0% 1,442,583ドル 100.0% 売上高原価(率) 1,226,808ドル 74.4% 1,062,626ドル 73.7% 売上高総利益(率) 422,244ドル 25.6% 379,957ドル 26.3% 費用 店主報酬 78,782ドル 4.8% 69,184ドル 4.8% 従業員給料 137,446ドル 8.3% 126,991ドル 8.8% 賃借料 27,498ドル 1.7% 25,192ドル 1.7% 調剤容器 12,160ドル 0.7% 11,286ドル 0.8% 設備費 6,639ドル 0.4% 5,769ドル 0.4% 配達コスト 2,576ドル 0.2% 3,250ドル 0.2% コンピュータ 4,085ドル 0.2% 4,906ドル 0.3% 広告 11,884ドル 0.7% 12,381ドル 0.9% 手数料 ― ― 1,560ドル 0.1% その他 90,199ドル 5.5% 75,894ドル 5.3% 計 371,269ドル 22.5% 336,413ドル 23.3% 純利益(税引き前) 50,975ドル 3.1% 43,544ドル 3.0% 店主報酬分 78,782ドル 4.8% 69,184ドル 4.8% 税引前総収入 129,757ドル 7.9% 112,728ドル 7.8% 出典:1998 NPCA-SEARLE DIGEST 出典:1998 NPCA-SEARLE DIGEST 表4 独立薬局の経営状況(2) 1薬局当たり平均値 1997年 1996年 在庫高と売上に占める割合 調剤 109,320ドル 6.6% 108,839ドル 7.5% その他 70,544ドル 4.3% 52,061ドル 3.6% 計 179,864ドル 10.9% 16,900ドル 11.1% 回転率 6.8回 6.6回 売場面積と1sq. ft.当たり売上 調剤 694sq. ft. 1884ドル 664sq. ft. 1722ドル その他 2,422sq. ft. 141ドル 2,434sq. ft. 123ドル 計 3,116sq. ft. 529ドル 3,098sq. ft. 465ドル 処方の内訳 新規 22,031 51.5% 20,547 51.1% 再調剤 20,780 48.5% 19,641 48.9% 計 42,811 100.0% 40,188 100.0% 処方せん単価 30.53ドル 28.45ドル 営業時間数と日数(1週間中) 時間数 58時間 59時間 日数 6日 6日 売上高と調剤数(1時間当たり) 調剤 433.42ドル 372.66ドル その他 113.34ドル 97.54ドル 調剤数 14.1 13.1 保険別処方構成比 メディケイド 20.0% 22.0% 民間保険会社 47.0% 42.0%

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流れに甘んじることなく薬局業務の質を向上させ るべきであり,調剤報酬の引上げは医療の質を向 上させた成果として求めるべきであることを認識 しなければならない。 米国で行われる薬局評価要因に関する調査や研 究は,単に顧客の実態や市場開拓のために行われ たものばかりでなく,患者が求める薬局の機能を 分析することで,薬局のあるべき姿や薬剤師業務 の重要性をアピールしている。このような前向き な姿勢と努力によって米国の薬剤師は社会から高 い信頼13)を得ているのではないだろうか。 参考文献 1)薬剤使用状況等に関する調査研究(欧米における調剤 報酬体系と薬局の経営状況に関する研究)報告書,医 療経済研究機構,2000.3 2)薬事ハンドブック2000,じほう,2000 3)川渕孝一,日本の医薬分業は本当に患者のためになっ ているのか?,社会保険旬報,No.2028,15∼19,1999 4)亀井美和子,中村健,患者意識からみた薬局の経営理念 の変遷1970∼1990年代,日本薬剤師会雑誌,Vol.50(9), 1657∼1671,1998 5)亀井美和子,越智静江,中村健,患者の薬局選択要因と 最近の動向,日本薬剤師会雑誌,Vol.50(10),1859∼ 1863,1998

6)Gagnon, JP., Factors Affecting Pharmacy Patronage Motives-A literature Review, J Amer Pharm Associ, Vol.NS17(9), 556∼559, 566, 1977

7)Smith, HA., Coons SJ., Relationship Among Patronage Faxtors, Satisfaction, and Type of Pharmacy, J Pharm Market Manag, Vol.4(3), 61∼81, 1990

8)Meade, V., Patients Satisfied with Pharmacy Services, Survey Shows, Amer Pharm, Vol.NS34(7), 1994

9)Chain Drug Review, Dec.15, 1997 10)Drug Store News, 1995

11)薬剤使用状況等に関する調査研究(米国における患者 ニーズの動向と保険薬局の今後のあり方に関する研 究),医療経済研究機構,1999.3 12)Mullen, W.,アメリカのコミュニティ薬局,日本薬剤師 会雑誌,Vol.49(1),57∼65,1997 13)1998 NCPA-SEARLE DIGEST,NCPA,1998 14)薬剤使用状況等に関する調査研究,医療経済研究機構, 1997.3

15)Wendy Leebov, Gail Scott, Service Quality Improvement (医療の質とサービス革命),日本医療企画,1997 16)Larson, LN., MacKeigan LD., Further Validation of an

Instrument to Measure Patient Satisfaction with Pharmacy Services, J Pharm Market Manag, Vol.8(1), 125∼139, 1994 17)近藤雅敏,米国の医療制度と薬剤師の役割について, 日本薬剤師会雑誌,Vol.49(1),50∼56,1998 日本における院外処方せんの発行枚数は,10年 前と比較して2億枚以上増加し,1998年に4億枚 の壁を超えた2)。保険薬局の約8割が処方せん調 剤を行い,調剤は売上増の主要因となっている2) しかし残念なことに,調剤報酬引上げの時代は終 わりに近づいている。また,地域によっては分業 の進展によって処方せん発行の勢いが頭打ちとな り,「処方せんは増える」という定説がもはや通用 しない状況でもある。つまりこれからは,限られた 財源で日本の薬局が質を維持しながらいかに経営を 維持していくのかが課題となってくるのである。 日本では処方せんを病院近くの薬局へ持参する ケースがよく見受けられるが,その薬局が患者自 身の理想の薬局だから利用しているわけではな い。「自宅から近い」「医療機関から近い」といっ た立地は選択要因ではあるが,患者の期待すなわ ち患者満足度を満たす要因ではない14)。面分業が 浸透した近未来において,処方せんの価格が同じ だとしたら,患者は何を基準に薬局を選択するで あろうか。問われるのは薬局の質である。価格競 争のできない日本では米国よりもさらに薬局の質 が追求されるのである。 患者は受けたサービスによって薬局の質を判断 するため13),薬局は自ら患者が何を望んでいるの かを意識し,患者の視点に合わせたサービスを提 供することが大切である。そのためには,サービ スに対する経営者の明確な理念の下で患者のニー ズを把握する努力をするとともに,サービスを提 供しうる能力を持つ薬剤師の確保と育成が必要で ある。“薬剤師の能力”とは専門的知識の豊富さ だけを意味するものではないのである16) おわりに 米国のメディケイドにおける平均調剤料は4ド ル台であり,この金額は過去10年間ほとんど変化 していない17)。これが,薬剤に関する多くの責任 を負い,医師の処方に対する介入や処方の権限を 拡大させている12,17)米国の薬局薬剤師に対するプ ロフェッショナルフィーの実態である。金額の高 低を日米で比較することは,調剤にかかる手間や 在庫負担の相違,枚数制限などのため単純にはで きない。しかし,日本の薬局は過去の分業推進の

6.日本の独立薬局が直面する課題

(17)

古美術商や古物商などで古い木製の枡や棒 はかりなどを見付けて,骨董品として購入し た時,その枡や秤が何時頃のものかを明確に 判定するには,その器物に附印されている公 印の「検定証印」を確認する事が一番適切な 判定法である。 そこで,その検定認印などの歴史的な移り 変りなどについて図示入りで説明してみよう。 明治に入ってからの度量衡取締条例公布 (明治8年,1875年)以降について以下解説する。 先 ず そ の 度 量 衡 取 締 条 例 下 , 明 治 9 年 (1876)からは,下記3種の印が使用された。

§明治初期の検定証印

なお,明治9年(1876)1年限りで,従前 の江戸幕府下の東西枡座秤座の製品には,前 述した「旧器検」の公印が附印され,その不 適格なものには,図示の「廃」字の焼印が附 され,以降使用禁止となった。 次に,明治26年から施行された(第1次) 度量衡法の下では,その初期には図示のよう な検定認印が附印された。 その度量衡法は明治30年(1897)に改正さ れ,検定認印の形状も図示の形に改められ, 同年4月以降使用された。 そして更に,明治32年(1899)からは,使 用中の度量衡器に対しての一斉検定(定期検 定と称されていた)が実施される法改正がな され,その第1回目の定期検定が開始された。 これに対応して,検定認印も改められ図示の 形状となった。なお,この時に面白い(?) 公印附印措置がとられた。それは,(第1次)

§明治時代の検定認印

東京計量士会々員 日本計量史学会々員 

すず

かず

シリーズ 計量百話

(8)

検定証印等の

移り変り

金属製の 度量衡器用 (打込印) 一升以上の 木製枡用 (焼印) 木製の棒はかり の皿,又は支点 部及び5合以下 の木製枡用 (打込印) 明 治 2 6 ∼ 2 9 年 の 検定証印 明 治 3 0 ∼ 3 1 年 の 検定証印 明 治 3 2 年 以 降 の検定証印 売れ残り器物に 附印された公印 (焼印)

(18)

度量衡法の下で,検定に合格し,使用者の手 には渡らず,製作所,修覆所又は販売所にお いて売れ残り器物となっていた器物には,図 示のような「改」印をその検定認印に添えて 附印することとしたことである。 したがって,「正」印に「改」印の附印さ れた器物は,明治26∼29年に製造されたが使 用者の手には渡らず,度量衡業者の手元に売 れ残っていた器物ということになり,「 」 印と「改」印のある器物は,明治30∼31年中 に製造されて関係業者の手元にあった売れ残 り器物ということになる。 その後は,明治43年(1910)施行の(第2 次)度量衡法からは,図示のように2種類の 検定認印(国の検定(甲種)と地方庁の検定 (乙種))が定められた。 そして未曾有の敗戦終戦,主権在民の新し い日本国憲法の下で,法定計量器を大分類で 32種も定めた計量法が,昭和27年(1952)4 月から施行されると,検定認印は従前とほぼ 同様に,同法検定規則第26条によって,計量 器の種類に応じて,2種類の形状のものが定 められたが,昭和42年(1967)の大改正以降

§昭和の検定認印

は,図示の1種類のみとなった。 以上が明治以降の法令に基づく検定認印の 移り遷りの概要であるが,これらの検定認印 とは別に,当時の法令に定められていて,度 量衡器の製作の免許を受けていた業者が,製 作して検定を受ける際に,木製方形枡や木製 桿秤(棒はかり)などには,その製作した年 次と器物番号及び府県名を打刻印字すること が定められていた時期があった。 それは,(第1次)度量衡法の施行されて いた時期,即ち明治26年(1893)∼同42年 (1909)の間で,例えば東京府下の量器又は 衡器製作免許者が,明治26年中に検定を受け た器者番号1234の器物には,「東,26一二三 四」のように打刻印字されている。 したがって,このような表記の印字されて いる器物を見つけたら,それは,東京のメー カーが明治26年に製作したものという確定が 出来るのだ。 また,(第2次)度量衡法の施行期〔明治 43年(1910)∼昭和26年(1951)〕の量器や 衡器(棒はかりなど)には,第1種取締(定 期的な集合検査)に合格した公印として,そ の年次の1の位の数字(算用数字)を○の中 に示した印が打刻されている。尤もこの刻印 は小さい形なので一般にはなかなか見付けに くいとも思われるが,例えば「⑥」の印があ れば,その器物は,大正6年,昭和6年或い は昭和16年に使用されていた器物という判断 ができるのである。 なお,明治初期の度量衡取締条例に基づい て,「度量衡種類表」が発表されており,そ の中から江戸時代後期の東西枡座が製造して いた木製方形枡の規格寸法等について,次に 一覧表を紹介する。

§木製枡桿秤はまた別の刻印が…

国の検定証印 地方庁の検定証印 検定証印 昭和27年∼同41年 昭和42年以降

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(次回は消費者行政と計量行政) 穀量枡 寸法 積(立方分) 弦鉄 巾・厚さ 弦鉄積(立方分) 差引容積 木厚 製作品 一斗 方:1尺05分 651,577余 巾 :5分5厘 3,308余 648,279余 6分 本体:桧 深:5寸9分1厘 厚:4分1厘27 口縁,弦鉄:鉄 七升 方:9寸4分7厘 456,027余 上巾5分:下巾4分 2,239余 453,787余 5分3厘 同 上 深:5寸08分5厘 厚:3分7厘8 五升 方:8寸3分4厘 326,215余 巾 :4分5厘 2,081余 324,134余 5分 同 上 深:4寸6分9厘 厚:2分9厘98 一升 方:4寸9分 65,067余 巾 :1分8厘 240余 64,827余 3分5厘 同 上 深:2寸7分1厘 厚:1分9厘8 五合 方:3寸9分5厘 32,609余 巾 :1分8厘 195余 32,413余 3分5厘 同 上 深:2寸09厘 厚:1分9厘8 二合五勺 方:3寸05厘 16,204余 無 弦 3分5厘 本体:桧 深:1寸7分4厘2 口縁:鉄 一合 方:2寸1分 6,482余 同 上 同 上 同 上 3分5厘 同 上 深:1寸4分7厘 (上下共) (上下共) (上下共) (上下共) 水量枡 寸    法 積(立方分) 木 厚 製作品 1升 方:4寸9分   深:2寸7分 64,827 4分 本体:桧 五合 方:3寸9分5厘 深:2寸07厘75 32,414余 4分 同 上 二合五勺 方:3寸05厘   深:1寸7分4厘2 16,204余 4分 同 上 一合 方:2寸1分   深:1寸4分7厘 6,482余 4分 同 上 (注)穀量の方形枡には,その口縁部に鉄帯が,また,五合量のものまでには,その口縁部の対角線に弦鉄が取り付けられていた。

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はじめに 小児科医にとって「発疹」は日常の診療で相談さ れる機会の多い症状である。発熱などの全身症状 を伴っている発疹はもちろん,おむつかぶれや乳 児湿疹,そして虫刺されなど皮膚症状そのものが 主訴であることも少なくない。また,たとえ皮膚 に関する訴えがなくても,皮膚を診察することに よって診断のてがかりが得られることもあり,皮 膚を丹念に診ることは小児科診療上重要である。 小児期では発疹の原因として急性の感染症がし める割合は多く,発疹のある患児への外来待合室 や薬局待合室での対応は,周囲への感染防止の上 で重要である。薬剤師さんと小児科医との連携の なかで重要な発疹は,これら感染性のある発疹の みきわめと,薬剤投与によって生ずる発疹(薬疹) ではないかと思われる。 本稿では,基礎知識としての発疹の種類,発疹 の原因あるいはそれらの発疹を主徴とする疾患, そして薬疹について述べてみる。 1)斑 皮膚面と同じ高さか,わずかに扁平に隆起して, 色調の変化がある。以下の種類がある。 ①紅斑 真皮乳頭層の血管が拡張して充血することによ る皮膚の潮紅をさす。圧迫によって退色する。他 の発疹の周囲に生じたものを紅暈という。 ②紫斑 皮膚組織内の血管から血液が溢出して,紫紅色 を呈する斑。圧迫で退色しない。 ③白斑 色素が脱失,あるいは局所性貧血による白色の斑。

1.発疹の種類

1) ④色素斑 皮膚の色素が増加したために生ずる限局性の色 調の変化をいう。 2)丘疹 皮膚面から隆起した病変で,直径が10mm以内 のものをいう。 3)結節 丘疹より大きい限局性隆起をいう。 4)水疱 皮膚の中に血清,フィブリン,細胞成分などの 水分が貯留したものをいう。水疱内容は被膜を通 して水様透明にみえる。 5)膿疱 水疱内容が膿性のものをいう。主な原因は細菌 感染によるが,無菌性の場合もある。内容は不透 明で黄白色となる。 6.痂皮 漿液,膿汁などが乾燥して凝固したもので,俗にか さぶたという。血液が乾固したものを血痂という。 7)膿痂疹 膿疱上に痂皮が付着した状態 8)じんま疹・膨疹 真皮内における限局性の浮腫で,皮膚は扁平に 隆起する。大きさは大小さまざまであり健常皮膚 との境界は明瞭である。通常強い 痒を伴う。 9)鱗屑 角層が正常より厚くなり脱落しかかっている状 態をいい,この現象を落屑という。鱗屑の細かく 小さいものを粃糠疹という。 発疹の原因には,大きく分けて感染性と非感染 性のものがある。感染性の中にはウイルス,細菌,

2.発疹の原因

症状からみた“こどもの病気”シリーズ⑤

発  疹

東京女子医科大学附属第二病院小児科1),同輸血部2)

すず

よう

1)

,和田

わ だ

恵美子

え み こ 1)

,鶴

つる

敏久

としひさ 2)

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リケッチア,マイコプラズマ,真菌によるものな どがある。また,非感染性の原因としては,アレ ルギー性,リウマチ性,中毒性,薬剤性,その他 血液疾患,代謝性疾患,悪性腫瘍などによるもの が含まれる。 紅斑を主な発疹とする疾患を表1に示す。麻疹, 風疹に代表されるウイルス性感染性疾患が多い が,細菌その他の感染症,膠原病,アレルギー疾 患なども含まれる。これら疾患の紅斑はやや膨隆 していたり網目状であったり多型性であったりと さまざまである。また丘疹や膨疹が混在している 場合もある。この中で比較的よくみられる疾患に ついて説明を加える。 1)麻疹 麻疹は麻疹ウイルスの経気道感染によっておこ る。空気感染するので待合室で数分間一緒にいた というだけでも感染の危険性が生ずる。 潜伏期間は10∼12日で,3∼4日間のカタル期 を経て発疹期となる。カタル期には発熱と共に眼 脂や鼻汁がみられ,咳嗽が強いのが特徴である。 口腔粘膜にKoplik斑がみられれば麻疹と診断でき るが,この時期には通常外からみただけでは風邪 との区別はむずかしい。発疹が出現する時期にな ると熱もさらに高くなり,咳嗽もいっそう激しく なる。発疹は耳後部,顔面,頚部から始まり,躯 幹から上下肢に拡がっていく。癒合傾向があり, 色素沈着を残す。 合併症には肺炎や脳炎があり,今日でもこれら の合併症による死亡例をみる。 2)風疹 風疹は風疹ウイルスの飛沫感染でおこる。潜伏 期間は14∼21日で,発熱と同時に淡い斑状丘疹が 出現する。頚部リンパ節の腫脹がみられ圧痛を伴 う。全体として3日前後で軽快する。通常色素沈 着は残さない。 合併症として脳炎,血小板減少性紫斑病があり, また,妊娠初期の母体が感染すると児に先天性風 疹症候群(白内障・難聴・心奇形)を生ずる可能 性がある。 3)伝染性紅斑 俗にリンゴ病という。ヒトパルボウイルスB19

3.紅斑を主徴とする疾患

の飛沫感染でおこる。潜伏期間は7∼25日で,顔 面とくに頬部に紅斑状丘疹が出現する。顔面より 少し遅れて上下肢に紅斑が出現し,レース状,網 目状となる。発疹が出ているときにはすでにウイ ルスの排泄はなく,感染力はないものといわれて いるので,出席停止の扱いとはならない。発熱な ど全身症状は少なく,37.5℃前後の軽度の発熱が 2割程度の例にみられる。 合併症はほとんどないが,慢性溶血性貧血の患 者ではaplastic crisis(貧血の一過性の増悪)がお こることがある。また,妊婦が感染すると,妊娠 期間のいずれであっても感染性貧血による胎児水 腫がおこる可能性がある。 4)突発性発疹症 主にヒトヘルペスウイルス6(HHV-6)によるが, 一部はヒトヘルペスウイルス7(HHV-7)によって おこる。感染経路は母から子への水平感染と考え られている。2歳以下,特に生後6∼7か月をピ ークとした生後1年以内の乳児に好発する。 突然の高熱で発症し,3∼4日持続して解熱し た後に発疹が出現する。発疹は躯幹から始まって 全身にひろがる斑状あるいは丘疹状紅斑である。 咳,鼻汁などはみられず,軟便,下痢を伴う例が 多い。合併症としては熱性けいれんをおこすこと があるが,その他はほとんどない。まれではある が肝障害や脳症が報告されている。通常の接触で は感染しない。 5)猩紅熱 A群β溶血性連鎖球菌の飛沫感染によっておこ る。潜伏期間は1∼7日,平均3日である。発熱 と咽頭痛で発症し,発疹は発病1∼2日目に出現 する。腋窩,頚部,下腹部や大腿上部内側に始ま り,全身に点状の紅斑が拡がる。一見すると皮膚 が潮紅して見え,よく診ると細かな紅斑が集合し ている。若干 痒感を伴う。苺舌や口角炎が認め られ,回復期になると手足の指先に膜様落屑が見 られ,躯幹には粃糠状落屑が認められる。 治療には通常ペニシリン系抗生物質が使用され るが,セフェム系も有効である。マクロライド系 に対しては一時期耐性株が増加していたが,最近 では減少している。テトラサイクリン系には耐性 が多い。通常10日間程度の投与を必要とする。 合併症としては,リウマチ熱,急性糸球体腎炎,

参照

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