一、はじめに 一九三〇年前後、昭和初年代に 発 ト ー キ ー 声映画 の登場がもたら した文化史的衝撃の大きさはよく知られている。しかし社 会学的な評価は別として、 そのメディア史上の地殻変動と、 文学テクストの思想形成との内的連関を探る分析は、いま だ物足りなく思える。本論は、日本のトーキー発展史に歩 みを合わせるかのようにスタイルを段階的に転じてきた文 学史の一側面に注目し、いわゆるメディア論的視点とテク スト分析との接点を探る試みである。それにより、ひとつ の集合的書き手たちが二〇年代末から三〇年代前半にかけ てあからさまに作風を変動させていったことの 〈意味〉 を、 定説とは異なる視点から再認識するのが目的である。映画 産業に直接コミットしたのか否かの表向きの情報にとらわ れず、主題やスタイル、また方法論や世界認識の点におい て、昭和初年代の映画メディアの展開と照応性が認められ る複数の作家を俎上にのせていきたい。 とはいえ、まずは文学の領域に焦点を限定せずに、トー キー導入期の文化史的な情況と、その思想史上の意義を素 描する敷設作業からはじめることが不可欠だろう。だがそ のような前提を前にして、そもそも「トーキーの時代」を ジャンル横断的なパラダイムの定規にするという発想に根 本 的 な 疑 念 を 持 た れ る か も し れ な い。 同 時 代 に〈 声 〉 に 特化したメディアとしては他にラジオの発展が平行してあ り、その方がむしろ生活世界では浸透著しかった。さらに は、ほぼ同時期に、世界規模で恐慌が起こったという歴史
発声映画の文学史(序)
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矛盾的自己同一体としてのトーキー
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坂
口
周
的背景がある。文化的上部構造の動きをみるのに、経済的 下部構造の動向を探るほうがより基底的なものに触れてい る印象が生じるのを、単に古めかしい発想と切り捨てるこ とは難しい。個々のテクストにおいて観察される時代の変 化を集約して、その全体的「秩序」に関係づけようとする 分析において、所詮は上部構造的な現象に過ぎない「トー キーの時代」の到来を、経済的事項に優先させるのは違和 感がある。それは普通の感覚に違いない。 しかし明治期における「言文一致」運動という近代化の プロジェクトが、文学というフィクションの制作実践を媒 介として国民国家形成に預かった役割の大きさを認めるな ら、一九三〇年代(特にトーキーが定着した一九三五年以 降)において最大の娯楽文化産業であった映画の変革がも たらした「表現思想」史上の意味は、いくら強調しても強 調しすぎることはないだろう。結局、狭義の文学と同じく 映画も、まとまった〈内容〉を受け手に享受される時間芸 術という意味では同カテゴリーに属していたのだから、両 者の形態学的なシンクロ率の高さは疑いえないのである。 言 語 芸 術 と 視 覚 芸 術 の 関 係 及 び 差 異 に 関 し て は、 加 藤 周 一 が『 日 本 文 学 史 序 説 』( 一 九 七 五 年 ) と い う 巨 人 的 業 績 の 一 番 最 初 に、 「 日 本 文 化 の な か で 文 学 と 造 形 美 術 の 役 割は重要である」と書いている。 「日本人の感覚的世界は、 抽象的な音楽においてよりも、主として造形美術、殊に具 体的な工芸的作品に表現された」 。その理由は、 「おそらく 日本文化全体が、日常生活の現実と密接に係わり、遠く地 上を離れて形而上学的天空に舞いあがることをきらったか ら」である。現代の人文学的倫理からすれば、 このような、 無時間的ともいえる長い歴史から「日本文化」の普遍の性 格を抽出する「日本文化本質論」的手続きをそのまま受け 入れることはできない。それでもなお、近代以前の「文学 史」において、言語表現史のパースペクティヴに視覚表現 史の視線を交差させる体系的な分析方法が試みられたのは 極めて重要な事である。加えて、加藤は、文学と美術の癒 着的状況を次のようにも言い換えている。 日本の文学は、少なくともある程度まで、西洋の哲学の 役 割 を 荷 い( 思 想 の 主 要 な 表 現 手 段 )、 同 時 に、 西 洋 の 場合とはくらべものにならないほど大きな影響を美術に あたえ、また西洋中世の神学が芸術をその僕としたよう に 音 楽 さ え も 自 ら の 僕 と し て い た の で あ る。 日 本 で は、 文学史が、日本の思想と感受性の歴史を、かなりの程度 まで、代表する 。 (1 ) 野 口 武 彦 も『 江 戸 思 想 史 の 地 形 』( ぺ り か ん 社、 一 九 九 三
年 ) の 一 章 一 節 目 に お い て、 ( 中 世 の 仏 教 者 や ) 江 戸 の 儒 者 た ち に と っ て、 「 文 学 」 と は 古 来 の 教 え を 具 現 し た 文 書 典籍のなかに探求すべき「道」であり、また「道理」とも 言うべき「思想」の体系的全体であって、両者の区別の困 難 を 言 っ て い る。 「 も し ど う し て も『 思 想 』 と『 文 学 』 と いう二分法を使う必要があるのだったら、この両者はいわ ば未分化のまま近世儒者たちの『文学』という範疇のなか で 抱 合 し て い た 」( 一 五 頁 ) と い う の で あ る。 し か し な が ら、 その 「抱合」 と 「文学」 の広義性は、 近世を通じて 「道」 の 超 越 的 性 格( ホ ー リ ス テ ィ ッ ク な 体 系 性 ) が 崩 れ 始 め、 「 お よ そ あ ら ゆ る 文 学 の 根 底 に あ る 存 在 へ の 関 心 0 0 0 0 0 0 、 い わ ば 存在論的関心とでも呼ぶべきもの」 (一六頁) を呼び覚まし、 同時代性の強い、戯作文学的方面からの「人間の性情のあ らわな自己主張」が為されるにつれ、 「文学」は狭義の(し かし外延的には増大した)近代的ジャンルとして独立した 方向に進むことになる。この考えに従えば、たしかに加藤 の よ う に、 「 文 学 」 の 同 位 体 で あ る「 思 想 」 の 構 造 を 媒 介 にして、文学と視覚芸術との直接的連絡を考えるのは、近 代以降の分析においては、近代以前ほど十全に機能しない 可能性があることになる。だからといって、全く無用と考 えるのは、なお馬鹿げている。確かに近代美術がタブロー や台座の上に独立し、生活スタイルと密接することを止め た時点で、従来の連動性は解かれたのかもしれないが、近 代には近代の、それを補填する新たなジャンルが登場した からである。 加藤は二〇世紀以降の文学史の記述においても映画に言 及 す る こ と は な か っ た。 し か し 二 〇 世 紀 に お い て 仏 教 美 術、物語絵巻、狩野派、南画、琳派、浮世絵…と同レベル の、すなわち単に視覚的内容伝達の機能を持ち得ただけで なく、それぞれの享受者達の生活環境の、全体的な 美学化 0 0 0 とも言うべき事態に貢献した最大の芸術ジャンルは
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少 なくとも一九三〇年代以降の数十年間においては―
間違 いなく映画なのである。 二、発声革命 およそあらゆる変革は、 目的は新たな利権の獲得であれ、 あるいは人類の幸福を希求するのであれ、一抹の希望を糧 に同時多発的に発動されるが、それが引き連れてくる不安 も甚大である。 サイレントからトーキーへの移行によって、 その産業に携わる人員構成の再編と異動がもたらした動揺 は計り知れないものがあった。また、そのような一次的な 影響関係に続いて、表現論のレベルでは、映画が芸術的に 「退行する」 というトーキー反対論者の失望があった。トーキーでは、 場 シ ー ン 面 における音声の一貫性を保つことを優先さ せるため、サイレント時代に様々な創意によって発展して きた大胆なカット割りが制限される。この制限によって作 り手の芸術的欲求が妨げられてしまう、とは一つの言い分 だが、その見通しが一部のベテラン監督、役者、弁士、楽 士たちの、失業に対する防衛反応によって形成されたとい う側面は必ずあった。そして、最後にもう一つ、映画製作 者の興行的関心と、批評活動に携わる人々の社会・政治的 イデオロギーのレベルで生じた不安が、いわゆるナショナ リズムの懸念だった。 トーキーの時代の到来が、それ以前の「サイレント」の 時代との間に生んだ明確な対比は、言うまでもなく、個々 の〈声〉の現われである。たとえそれが複製技術の産物で あ ろ う と、 弁 士 の 解 説 と 異 な っ て、 発 話 者( 物 語 の 当 事 者)と声が一体化することは、より〈生〉の、外の世界と の剥き出しの接触を観客に感じさせたはずである。文化的 流 行 の 先 端 を 自 認 し て い た 大 衆 が 話 題 に す る 映 画 の 大 半 が、外国から輸入された映画であることはサイレントの時 代 か ら 現 在 に い た る ま で 変 わ ら な い。 当 た り 前 の こ と だ が、 外 国 映 画 の 特 徴 は、 台 詞 が 外 国 語 で 発 せ ら れ る こ と で あ る。 そ の 事 実 は、 当 時、 一 部 の 識 者 た ち が 盛 ん に 指 摘していたように、世界的コミュニケーションの非共約性 を露わにする可能性があった。萩原朔太郎は、トーキー導 入 初 期 に、 「 音 サウンド・トーキー 響 映 画 」 は サ イ レ ン ト 映 画 の 美 術 的 方 向 性 をさらに発展させる見通しから歓迎するものの、いわゆる 「 全 オ ー ル ・ ト ー キ ー 発声映画 」(会話映画) は、 「舞台劇への後もどり」 によっ て確実に廃れる予測を書いていた。その理由は単純に、 「僕 等のやうな一般の民衆には、映画全巻を通じてペラペラし やべる異人の会話が、殆んど全く唐人の寝言であつて、少 しも意味を聴きとることが出来ない」ことに苛立ったから である。 要するに発声映画は、それが会話を主とする発声映画で ある限り、世界市場への普遍価値を無くしてゐる。単に 市場価値ばかりでなく、民衆娯楽としての普遍的世界性 が無いのである。この点で従来の無声映画は、美術や音 楽の類と同じく、言語の差別を越えて普遍であり[…] 。 それ故トーキーの発明は、折角世界的普遍に発達した活 動写真を、特殊な民族間に限定して、区々の島国的封鎖 をしたやうなものである 。 (2 ) 早い話が、トーキーの到来は、大正時代が推進してきた文 化消費の〈国際化〉の希望から再び排他的な〈民族化〉の 時代へ退行する懸念を引き起こしたのである。実際、二〇
年代末から技術的に先駆けてトーキーへと移行した輸入映 画は、当の言語の制約によって、短い期間にせよ、観客動 員力を失っている 。 (3 ) その時代にも現役を続けていた活弁士 達による「説明」は、映画の場面自体から発せられる(と 見なされた)音声と干渉して、ときに耳障り以外の何物で もなかった(朔太郎は「混線して二重に聴きわけが困難に な る 」 と 言 っ て い る )。 裏 を 返 せ ば、 朔 太 郎 も 属 し て い た 広義の象徴派詩人たちが、その究極において「万国語なる 沈黙の声 」 ( 4 ) の表象を目指していた一時代前の精神は、奇し くもサイレント映画がもたらした超言語的なコミュニケー ションの可能性によってメディア論的に担保されていたの である。他文化の風俗・習慣を直接に享受することを可能 に し、 近 代 的〈 国 インターナ シ ヨナリズム 際 主 義 〉 の 理 想 を 先 駆 け た の は、 無 声 映画の視覚性( 無意識)であった。 興行的に文化が国境線を越えられなくなること、それは 単にグローバルな映画産業に経済的な打撃となる可能性が あ っ た だ け で な く、 言 語 と 身 体 の 統 一 的 国 民 化 の 問 題 が
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そのことは言文一致運動期に決定的な階梯を登ったわ け だ が―
再 燃 す る 可 能 性 を 孕 ん で い た と い う こ と で あ る。早世の天才として名を馳せた山中貞雄が、機運が熟す のを待ってトーキーの撮影に乗り出したのが、一九三五年 後半。その前夜の一九三四年に、山中はトーキーの制作に 対 し て 二 の 足 を 踏 む 理 由 と し て、 「 僕 は 江 戸 っ 子 で な い で すから、トーキーを撮ったら又ボロクソにやっつけられる の だ ろ う 」 (5 ) と、 「 訛 り 」 の 有 無 を 判 断 で き な い 不 安 を 語 っ て い る。 「 話 し 言 葉 」 が、 単 一 的・ 国 民 的 身 体 を 形 成 す る 抜き差しならぬ基盤であるのは言うまでもない。それに加 えて動画は他の芸術と異なって、投影されたイメージに対 し て 観 客 の 想 像 的 同 一 化 を う な が す 傾 向 が あ る た め、 「 主 体形成」の精神分析的な比喩としてもしばしば用いられる 媒体である。映画の総動員数を考えれば、全国民的教育の 課程に組み込まれた言文一致のプロジェクトには比べられ ないとはいえ、当時の中産階級的大衆は現在よりも遙かに 頻繁に映画を観る習慣があった。作家や批評家等、文化人 を自認する連中においては言わずもがなである。彼らが表 明 す る 不 安 は 決 し て 無 根 拠 な も の で は な か っ た の で あ る。 それでも、無論、そこにはトーキーがもたらすはずの希望 を語る声も含まれていた。 トーキーによって縮減されるだろう可能性の幅を、既に 述 べ た よ う に 表 現 方 法 や 言 語 の〈 限 定 〉 な い し は〈 制 限 〉 と表すなら、 反対に増大するだろう可能性に対しては、 〈統 一〉ないし〈一致〉の言葉が適当である。それは発話とい う音声と身体的次元、もしくは、物音などの音響と場面と を一元的に〈統一〉する志向のことである。これらの、表向き二つの相反する評価が作り出した不安定な境域を、ポ ジティヴに捉えるのか、 ネガティヴに捉えるのか。 トーキー へ移り変わりゆく歴史の節目を時代の内側から考察した資 料に飯島正『トオキイ以後』 (一九三三年三月)があるが、 なかに次のような証言が残されている。 かつて、トオキイの初期、横光利一氏は、いろいろな外 国語のトオキイがそのまま解説なしに上映されてゆくに つれて、 やがて、 国際的な一つの言語が生じはしまいか、 といふ考へを僕に話したことがあった 。 (6 ) 一九三三年三月刊行の書物に「かつて」と書かれているの だから、横光の実際の発言は、その数年は遡ると推測され る。また、トーキー時代到来を予測する記事は大正末から 出 始 め る の で 正 確 に は 限 定 で き な い も の の、 外 国 産 ト ー キーが本格的に上陸を開始した一九二九年以前にそのよう な問題意識を話題にしたとも考えにくい。 加えて、 スクリー ンに直接日本語を焼き付けた 字 サブタイトル 幕 (スーパー・インポーズ 方式)が初めて使用されるのが、朔太郎のエッセイの一年 後、 一 九 三 一 年 二 月 日 本 公 開 の『 モ ロ ッ コ 』 (7 ) に お い て で あ る。それを機に「一種の字幕ブーム」が起こったので 、 (8 ) 横 光の些かユートピアンな見通し(エスペラント語のような 人工的共通言語というよりはクレオール的国際言語の自律 的な発生)はそれ以前の産物と考えるのが妥当だろう。そ の 頃 の 横 光 の 念 頭 に「 満 州 国 」( 一 九 三 二 年 成 立 ) の「 五 族協和」に託された大陸性の多言語空間のイメージは無い はずである。だが横光には「上海」という想像力を飛翔さ せるに足る分割統治区域の体験があった。いずれ別稿で論 じるが、横光にとって「上海」とは、外国語がそれぞれの 独自性の「制約」のなかで自律的(勝手気まま)に使用さ れ続ければ、いつしか〈統一〉の「国際的」言語へと〈止 揚〉される場所、そのような可能性を秘めた「小説」的場 所の 隠 メタファー 喩 でもあった。同様に、トーキーの理想化された姿 も、差異化の運動を止揚し包摂する、新しいリアリズムの 空 間 と し て 横 光 は 捉 え て い た の で あ る。 〈 限 定 〉 を 単 な る 制約の意味とするのではなく、それを想像的に乗り越える ための 〈媒介〉 として、 すなわち弁証法的な意味での 〈総合〉 にいたるための「否定的媒介」として認識するレトリック は、確かに三〇年代に展開した思想的状況における、ひと つの新たな〈型〉であった。特に小説的現実の構築におい ては、各登場人物がそれぞれの国の言葉で語る内容を、あ たかも互いに理解できているかのように日本語で 書いて 0 0 0 し まえば良いのだから、その課題を疑似的に解決することは 不可能ではない。しかし、その形は結局のところ目で読む
「 日 本 語 」 で あ っ て、 新 た な 国 際 語 を 主 張 す る 欺 瞞 は 拭 い きれない。その意味では、日本語字幕による「日本版」外 国映画の急速な普及は、横光の「かつて」の理想が矮小化 されて実現した姿と言えるかもしれないのだが、 最終的に、 それは横光が希望を託す形態とは成りえなかった。その後 の横光による長編小説の方法論「純粋小説」の構築とトー キ ー の 美 学 と の 交 渉 は、 「 国 際 言 語 」 と は 別 個 の 関 心 と 理 想に収斂していくことになるが、いずれにしても、三〇年 代における彼の全般的な問題意識の所在を明らかにはして いたのである。 もちろん場合によっては、以上のようなトーキーのもた らす新たな世界観を国家的事業のレベルで捉え、文芸の世 界との相関性を考えるのは大袈裟に過ぎると言う向きも予 想される。しかし後述するマキノ正博 が ( 9 ) トーキー製作のた めに一時 (一九三四年) 身を寄せた 「映音研究所」 (一九三〇 年四月設立)の主催者太田進一は、早くから純国産フィル ム 式 ト ー キ ー の 開 発・ 発 展 を 指 導 し て い た 人 物 で あ る が、 同時に日本国粋会の幹部でもあった。映音の仕事は 「主に、 東京日日新聞社製作の「東日サウンドニュース」や日本電 報通信社製作の 「電通ニュース」 といったニュース映画や、 三映社による輸入フィルムのトーキー化、東京シネマ商会 や赤澤キネマ製作の航空映画の録音 」 )(1( などを内容としてお り、マキノが京都映音設立の中心として働くまでは、専ら ニュース映画の製作に軸足を置く業務内容だった(マキノ は自伝で 、 )(( ( 映音在籍当時、世は満州事変のさなか、現場か ら輸送されるフィルムをいち早くトーキー映画化する悪戦 苦闘ぶりを生き生きと描写している) 。マキノが「マキノ ・ ト ー キ ー 製 作 所 」( 一 九 三 五 年 一 一 月 ) を 設 立 し て 独 立 し た後も、東京の映音は海外の戦況を伝えるニュース製作業 務 を 中 心 に「 躍 進 」 を 続 け た と い う 。 )(1 ( 純 国 産 の ト ー キ ー・ システムの開発・運用は、戦時下における国家事業の一翼 を担うために急がれたのである。 文芸の領域に話を返せば、このような背景から抽象され る三〇年代の理論的状況は、ひと言で表すなら、映画史で 通称される「リアリズム」の時代の始まりである。周知の 通り、文学の世界では、平易な書き言葉への改革が目論ま れ て い た 明 治 後 半 の 国 民 国 家 青 年 期 に す で に、 「 ロ マ ン 主 義」と双璧をなす「写実主義」の大々的推進があった(坪 内 逍 遙 に 代 表 さ れ る )。 し か し 皇 国 思 想 と、 適 度 に 抑 制 さ れた近代的な文化相対主義とのせめぎ合いの中から、さら には多民族的帝国主義の思想を育みはじめる新時代の「写 実性」が、国民国家形成期のそれと完全に同じ性格に揺り 戻されたものであるはずはない。それゆえ本論は、昭和モ ダ ニ ズ ム と い う 変 化 過 程 か ら、 第 二 次 世 界 大 戦 期 を 経 て、
一九六〇年頃まで連続する思想的パラダイムを、文学の領 野にも通底するものとして、 「写実主義」とも「現実主義」 とも、 まして 「自然主義」 とも区別して、 あえて片仮名で 「リ アリズム」の時代と呼び習すことにしたい。それは「映画 的リアリズム」の省略語としての「リアリズム」の意を暗 に込めた名称である。付け加えれば、プロレタリア文学の 推進もその流れの一変種として含まれ、あくまで「リアリ ズム」の時代への移行の一現象を担っていた。後にその非 芸術性を揶揄された「社会主義的リアリズム」運動は、徒 花のように潰えて見えた後も、形を変えて戦時下の報国的 な文学の技術へと継承されていく点において、思想史の基 層を共有していたのである 。 )(1 ( 安易な定式化を寄せ付けない、 その基層こそ、ようするにトーキー的「リアリズム」の圏 域に他ならなかった。 二、矛盾的同一性としてのトーキー おそらく映画史でとりわけ多く言及されてきた、サイレ ント時代を代表する弁士は徳川夢声だろう。社会学者の北 田暁大は、述べてきた一九三〇年代のトーキー到来がもた らす 〈統一〉 の美学を、 「声」 の映像 (視覚) にたいする 「意 味論的従属」として否定的に言い表しながら、実は、夢声 は 既 に 大 正 年 代 か ら パ フ ォ ー マ ン ス の ス タ イ ル を 改 革 し、 その来るべき状況を先取りしていた事実を論じている 。 )(1 ( 古 き良き時代の遺物である「浪花節的なもの=《香具師的な るもの》 」と訣別し、 こう言ってよければ映像に同調した 「吹 き替え」のような近代的スタイルを作り上げることによっ てである。そして夢声を先駆けとして、観客のノリに合わ せて弁士が即興的演出で現前させるノスタルジックな「遊 動空間」は、観劇方法を「近代化」する新たな映画館の構 築の進行(や「前説」の廃止などのスタイルの変化)とと も に 次 第 に 萎 ん で い き、 「 映 像 と い う エ ク リ チ ュ ー ル と 聴 覚というエクリチュールの不可避的なズレ(の痕跡)の隠 蔽をその理想型とするトーキー」へと推移していったとい う。大正 ・ 昭和初期に現象した最重要項目としての、 メディ ア史的変容である。 観 客 ― 弁 士 の 現 前 的 な 交 流( 「 見 物 と 説 明 者 と の 面 接 す る 機 会 」) が 失 わ れ る こ と に よ っ て、 弁 士 に は 観 客 を 魅 惑 す る 才 能( talent ) よ り は 映 像 を 上 首 尾 に 説 明 す る 技 量( skill ) が 求 め ら れ る よ う に な り、 ま た、 観 客 の 欲 望 の対象は〈イマーココ〉に居合わせているスクリーン外 部の弁士から、スクリーン内の俳優あるいは物語へと移 行していく。 弁士の匿名化と、スクリーン―内―出来事
の 前 景 化 ― 前 説 の 廃 止 と い う 事 件 は、 「 声 」 の 空 間 と し ての活動小屋が、スクリーンの「向こう」にある物語世 界 の 再 現 前 = 表 象 を 請 け 負 う 映 画 館 へ と 変 位 す る と い う、 観客性( spectatorship )をめぐる「構造転換」を表 徴していたのである。 トーキーは、 映画草創期の香具師的 「声」 から統制的な 「声」 へと観客を従属的に固定化し、その意味論的可能性を視覚 と聴覚の一元化へと縮減させるものである
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この論理は 見取り図としては整理されたものだが、しかし三〇年代前 半、欧米に比べて技術配備に手間取っていた日本の製作者 達においては特に、トーキーにおける聴覚と視覚の関係は 「 ほ ん の 数 年 間 の 揺 ら ぎ の 時 節 を 経 た だ け で 」 安 定 し た と は少々言いにくい 。 )(1 ( とりわけ本論が俎上にのせている批評 的理解のプロセス(理論化)と思想的な派生効果は、いか にしても後追いを余儀なくされる事情によって、かえって 言説の「揺らぎ」の増幅と豊穣を持ち得た面がある。 ところで、一九三四年四月一日号『キネマ旬報』掲載の 岸松雄「小津安二郎のトーキー論 」 )(1( が、当時、既に日本映 画界のエース格と目されていた小津のトーキー論をまとめ ているが、この問題に関連して参照に値するだろう。小津 は一九三六年九月公開の『一人息子』までトーキーに手を 出すことはなかった。ただし、その主たる理由は技術の未 成熟さに帰せられるべきもので、具体的には小津組カメラ マンであった茂原英雄が開発した「茂原式トーキー」の完 成を待っていたとされ、サイレント時代へのノスタルジー とは無縁の話である。小津はトーキーが新たにもたらす可 能性として、まず全般に表現が容易になることを言い、続 けて以下のような明瞭な例を示している。 例えば、気まずい思いで話し合っている二人の姿を撮す 場合を想像してみる。そして、サイレント映画なら、一 人に十づつ、合計二十の字幕が要ると仮定する。この気 まずい対話には、 複雑な感情が含まれている。だが、 トー キーなら、この複雑な感情も極めて容易に表現し得るの だ。顔は笑いながら、針のように皮肉な言葉が口から出 る。焦々した面持になればなるほど、言葉は 益 ますます 々 丁寧に なる。そうした感情と言葉の相克に無用の描写を施す必 要がなくなる 。 )(1 ( 小 津 が ト ー キ ー の 最 大 の 効 果 と し て 的 確 に 予 想 し た の は、 まず第一に、現在ではトーキー導入史の通説となっている カット数の減少である。小津の慧眼は、そのカット数の減 少 に よ っ て 生 ま れ る 表 現 上 の 長 所 を、 「 逆 説 」 の 表 現 可 能性に代表させた点である。さらに小津は引用部の後に、 「サ イレントの場合、字幕はつねに画面の後に出て来るような 関係に立っている。ある種の感情にまで画面で盛り込んで 来て、しかる後に、字幕になるのだ」と補足している。つ まり、サイレントにおいては、事前に用意されたイメージ に対して、言葉が後からその意味を画定するという事後関 係 が 成 立 す る、 と 言 っ て い る。 そ の 場 合、 イ メ ー ジ( 表 情)は俳優に属する一方で、言葉は「映画作家の意図」に 属することになる。そもそもサイレントの字幕は撮影され たカットに直接焼き付けられず、カットの合間に挿入され る形を前提にして発展してきたのだから、両者の帰属する 次元が分離するのは避けがたい。しかしトーキーでは、ま ず 台 詞( 言 葉 ) が 先 行 し、 「 そ し て そ の 台 詞 の 進 行 に 伴 っ て、 表 情 や 動 作 が 行 わ れ 出 す 」。 そ の た め、 サ イ レ ン ト と は真逆に、 「台詞(字幕)の後の表情が大切となって来る」 わけだが、実際には、トーキーにおいては言葉もまた身体 から発せられるものとして役者に帰属する点が大きな違い と言うべきであり、イメージと言葉の前後関係というより も 〈同時性〉 こそ強調されるべきだろう。そして、 この 〈同 時性〉を条件にしてはじめて、いたずらな混乱を危惧せず に「逆説」が使用可能となるのである。ただでさえ小説の ような直接の心理の解説が難しい映画にあって、無声の表 現で「逆説」を濫用するリスクは大きかった。その代わり として、次第に洗練され、幅を利かせたのがモンタージュ の概念である。モンタージュという方法論のもとでは、イ メージは記号化され、直示と共示を織りなして言語的に構 成される。その前提にあるのは、意味の一次性(映像のボ キャブラリーである各ショット)と二次性(文意となるコ ンティニュイティ)の協同であり、時に相克である。しか しトーキーという全体的な再現性を得たことで、二次性の 水平的な連結力は格段に弱まらざるえなくなった。その分 の比重を移して、単一のまとまりあるショットやシーンに おいて 言ってることと行ってることとの内的矛盾 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 (=行為 論的、場合によっては、言語の臨界を発声によって問題化 する存在論的矛盾)の可能性が強く表れることになったの である。ただし念のため断る必要があるのは、聴覚で受容 される〈言〉と視覚で受容される〈動〉が表現として身体 に所属しているレベルも元来は異なることで、サイレント 時代に、心では悲しいが明るく見せている(泣き笑い)と か、無関心なようでいて興味を抱いている、などの心理と 表現の矛盾は(特にコメディにおいて)普通に描かれてい た。だがそれは演技力のある役者の表情や身振りの視覚的 平面のみで両義的に表現されるべきもので、 〈言〉と〈動〉 という分割可能な原理に従うものが同一の空間に再統合さ
れた際に生じるコンフリクトとは別の話である。 〈言―動〉の矛盾は、 「完全」な現実性の獲得によっては じめて生まれる。だいぶ遅れて第二次大戦後になるが、世 界的な「ヌーヴェルヴァーグ」の流行に最大の理論的影響 力 を 持 っ た と 言 わ れ る 映 画 批 評 家 の ア ン ド レ・ バ ザ ン は、 トーキーにおいて映画のなかに確保される存在論的な次元 を "ambiguïté" ( 曖 昧 さ / 多 義 性 ) と し て 称 揚 し た。 飯 島 正がまとめた文章の孫引きになるが、バザンによれば、モ ンタージュは「イメージが客観的にはもっていないが、そ れらの関係からのみ生じる意味の創造 」 )(1 ( のことであり、所 詮は「観客の意識の面にうつされたイメージの影」にすぎ な い。 ト ー キ ー の 普 及 を 追 っ て、 「 イ メ ー ジ の 影 」 で は な く「イメージのなか」のものに隅々までピントの合わせる パン・フォーカスに優れたカメラが出現するに及んで、ク ロース・アップのような非日常的イメージを喚起する撮影 スタイルは用いられなくなっていった。仮にサイレント時 代 の 記 号 論 的 ス タ イ ル に も 多 義 性 の 指 摘 が で き る と す れ ば、それはコンティニュイティに依存した文脈の数に応じ て 現 れ る カ ッ ト の う わ べ の 意 味( 投 影 ) の 変 化 に す ぎ ず、 一方のトーキー時代の「曖昧さ」が、対象それ自体が抱え る 存 在 の 両 義 性 の こ と で あ り、 「 リ ア リ ズ ム 」 と 両 立 す る のとは異なる。 バザンの発想は実存哲学が顕揚した、実存的主体が抱え ている存在の根源的不安定さの議論を背景に生まれたもの であることは間違いない 。 )(1 ( 象徴的な意味以上のものではな いが、三〇年代以降の思想に唯一無二の影響力を持ったハ イデガー『存在と無』が出版される一九二七年は、世界初 の 長 編 ト ー キ ー『 ジ ャ ズ・ シ ン ガ ー』 の 公 開 年 に あ た る 。 )11 ( それは小津の議論が要約しているように、フィルムと編集 作業に依存するモンタージュという「映画のトリック」で はなく、俳優と場所の力に依存する「現実のトリック」こ そ が 尊 重 さ れ る 時 代 へ の 移 行 を 意 味 し て い た。 「 リ ア リ ズ ム」の時代において現われる現実の「再現性」は、自然主 義の時代に反復強化された主客対称性のイデオロギー(素 朴 な 実 在 的 自 然 と 表 象 の 二 元 的 関 係 ) で は な く、 発 話 = 行為という同一の身体的次元に統一された内在的コンフリ クトなのである 。 )1( ( フ ラ ン ス 表 象 研 究 者 の 佐 藤 淳 二 は 、サ イ レ ン ト と ト ー キ ー と い う 腑 分 け は し て い な い が 、 類 似 の 現 象 と し て 、 大 文 字 の 〈 映 画 〉 が 遂 行 し た 「 二 重 の 革 命 」 を 説 明 し て い る 。 )11 ( 佐 藤 は、 第 一 の 革 命 を「 差 異 の 革 命 」 と す る 一 方 で、 「 い ま だ 十 全 に 思 考 さ れ た と は 言 い 難 」 い 第 二 の 革 命 を「 破 局
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切 断 さ れ つ つ 連 続 す る 線―
の 革 命 」 )11 ( と 呼 ん で お り、 さらに前者を「古典的なモンタージュ」と「モダンなモンタ ー ジ ュ」 に 区 別 し て、 「 モ ダ ン 」 の 方 を「 存 在 論 で あ り 現象学的と形容できる世界把握」と述べている。この「古 典的」と「モダン」の差が、本論で述べてきたサイレント とトーキーのメディア論的格差にほぼ対応している。一方 で、それら「モンタージュ」の時代に引導を渡した「破局 の革命」が続くわけだが、佐藤は、そのカテゴリーも「古 典的」なタイプとしてのヒッチコックと、その先へと進ん だゴダールの二種の映画作家に分類しており、無論、分析 の 狙 い は こ ち ら に 定 め ら れ て い る。 「 破 局 」 の 意 の 詳 細 は 省略するが、その問題提起の箇所で、ヒッチコック『疑惑 の 影 』( 一 九 四 三 年 一 月 米 国 公 開 ) 冒 頭 の 場 面 を 取 り 上 げ な が ら、 「 ユ ー モ ア 」 の 理 論 的 意 義 を 解 説 し て い る 部 分 を 参照しておきたい。 これは、いくつかの意味が可能だから、あるいは解釈に 複数性がある言表行為だからユーモアなのではない。そ れ で は 皮 肉 に な る だ け で、 ユ ー モ ア と は な ら な い か ら だ。ユーモアは現時点に成立して機能しているある平面 と 全く同時に 0 0 0 0 0 、別の平面が併存していることの表現なの である。 この引用だけでは抽象的に過ぎるが、表現における矛盾や アイロニーの仕組みとユーモアのそれとの違いの指摘は重 要である。 ただ、 本論の趣意からすれば、 「モダンなモンター ジュ」を越える次なる映画の美学「破局の革命」を強調し ようとして、 広くトーキー革命に潜んでいた存在の「皮肉」 の可能性が丸ごと「差異の革命」のカテゴリーに押し込め ら れ て し ま う の に は 少 々 不 満 が 残 る( 『 疑 惑 の 影 』 も 同 じ 「モダン」の時代の産物であることを考えれば) 。結論を先 取れば、佐藤の述べる「破局」の意に別形態で応じるフィ ルムは
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むろん程度の問題という留保も加えてだが―
かえってトーキー普及期の一九三〇年代前半からも多く採 取されるのではないだろうか。当然、一朝一夕に新旧のパ ラ ダ イ ム が 入 れ 替 わ る こ と は な い。 少 な く と も 日 本 で は、 一九三〇年前後から、声のイメージに対する「意味論的従 属」が顕著になる一九三〇年代後半まで、過渡的であるが ゆえに創造の多様なざわめきを胚胎する 「移行」 の幅があっ た。本論が検討したいのは、 中村光夫が自然主義の運動 (明 治三八、 九年) に対して 「時代精神の巨大な流れのなかにも、 やがて歴史の必然によつて刈りとられる幾多の不運な芽が 並んで萌え育つ青春期 」 )11( と評したのと同じような意味にお いて、その「幅」のなかに見え隠れする映画のスタイルの 可能性であり、同時期の文学者達に育まれた文学的思考の 可能性との関係なのである。三、オペレッタ的レトリックの周囲 一九三〇年代初頭に始まるサイレントとトーキーの間の 実 質 的 グ レ ー ゾ ー ン は 五 年 強 に 渡 っ た。 し か も 過 渡 期 は 時 間 を 下 る ほ ど 指 数 関 数 的 に 変 化 量 が 多 く な る の で、 日 本 映 画 の キ ー プ レ イ ヤ ー 達 の 目 に 見 え て 顕 著 な 転 換 期 は、 文 芸 の 世 界 で 一 般 に 転 換 期 と 呼 ば れ る マ ル ク ス 主 義 崩 壊 ( 一 九 三 三 年 ) 以 後 の 数 年 の 時 期 に ほ ぼ 対 応 し て い る。 む ろ ん、 彼 ら が 範 と し て 仰 い だ 外 国 映 画 の 佳 作 は 一 足 早 く トーキー化しており、映像である故に直に襲ってくる〈遅 れ〉の感覚と新たな方法論の模索のなかで、多様な形態に 開かれたフィルムが生まれている。 たとえば小津の盟友でもあった山中貞雄が監督した映画 は、 一九三八年に夭折したこともあって僅か三本 (全てトー キー)しか現存しないが、そのなかで最も早い時期に撮ら れ た『 丹 下 左 膳 余 話 百 万 両 の 壺 』( 日 活 製 作、 一 九 三 五 年 六月公開)には、小津の言っていた「逆説」表現をフォー マリスティックなレベルに高めた「逆手の手法」がユーモ アの表現として観察できる。その頃の山中は自作の制作に あたって優れた人気映画を躊躇なく翻案することは良く知 ら れ て い た が 、 )11 ( 『 百 万 両 の 壺 』 は プ ロ ッ ト の み な ら ず、 当 の 「逆手の手法」 もスティーヴン ・ ロバーツ監督 『歓呼の涯』 ( 原 題 Lady and Gent 、 一 九 三 二 年 公 開 ) を 深 く 参 照 し た もので、一九三二年一一月号『新映画』の映画評では、双 葉十三郎が 『歓呼の涯』 の手法を特徴づける 「逆手の話術」 を四つに分類する分析を行っている 。 )11 ( そのうちの第四番目 に 割 り 当 て ら れ た「 笑 ひ の 効 果 と し て の 逆 手 的 手 法 」 が、 山 中 の 映 画 に お い て は 特 に 強 調 さ れ て い る 要 素 と い え る。 し た が っ て 印 象 の 違 い が あ る と す れ ば、 『 歓 呼 の 涯 』 に お いては感じられないエディティングと演出の軽妙さによっ て、喜劇的様式化が徹底されている点である 。 )11 ( 例えば、矢 場で七兵衛が喧嘩を売られて騒ぎが起こり、それを収めた 左膳が七兵衛を家まで送ることになるシーン 。 )11 ( 【場面 21=矢場の混乱】のラスト お 藤「 ( …) ね、 あ ん た 済 ん ま せ ん け ど、 七 兵 衛 さ ん を お店迄送ってあげて下さいね」 左膳「 俺 わし がか」 お藤「ええ、あんた行って呉れるでしょう?」 (押し問答、省略) 左膳「イヤだ。金輪際わしは送って行かんぞ」 【場面 22=夜更けの通り】 左膳、七兵衛を送って行く。
場面転換を境にして、口とは裏腹な行動を取る左膳の、そ の シ ャ イ で 心 根 の 良 い 様 子 が リ ズ ム 良 く 表 現 さ れ て い る。 『 歓 呼 の 涯 』 で は、 こ の 手 法 が「 作 品 の 根 本 的 な 構 成 法 」 に な っ て お り、 「 あ ま り に 頻 繁 に や ら れ る の は 実 際 常 識 で 考へると愚かしいが、これ程まで徹底してしまふと、気障 さなどは無くなつて、 却つて裁断的な効果すら生んでゐる」 と評されるわけだが、回数では『歓呼の涯』のおよそ半分 とはいえ、同じ手を要所で三回繰り返す山中の作もほぼ同 様の感想を引き出す。 ところが、この一見会話の軽妙さで成り立っている「言 葉と反対の行為を以て画面を転換 」 )11( する方法を、仮にサイ レントで撮影することを想像してみた場合、基本的には実 現可能であることが知れる。引用した場面転換のところで 山中はワイプを使っているが、それはそのままに、台詞の タイトルを各カットの後に挿入していくだけで同様の効果 が 生 ま れ る は ず で あ る。 と い う の も、 こ の「 逆 手 の 手 法 」 において、 「逆説」は、 時間軸に沿った水平的な展開(シー ンとシーンの組み合わせ) によって成立しているのであり、 ひとつのシーンに垂直化したものではないからである。言 い 方 を 変 え れ ば、 「 逆 手 の 手 法 」 こ そ、 実 は サ イ レ ン ト 時 代においても「逆説」を鮮やかに表現する一つの方法であ りえたわけで、それがあたかもトーキー映画の特権的技術 のように輝いて見えることの意味は何だろうか。 一つの理由は、トーキーによるリズム(カット割)の間 延びという負の現象に対し、その手法が再度改めて挿入さ れ 直 し た 形 に よ っ て、 異 化 作 用 が 生 じ て い る こ と で あ る。 例えば、上述の引用を具体的に見れば、場面 21のややくど い持続的な会話 (引用省略部含む) のやりとりのカットが、 実際に発声によって演出されるタメとしてあってこそ生き る場面 22の突然の「逆手」であって、場面 21のカット割に タイトル(書き言葉)を数回挿入して場面 22へ切り替えて も、 そ の 切 り 替 え の カ ッ ト が 際 立 つ こ と は な く、 同 様 の 効果 0 0 はおそらく生じなかったに違いない。そのことに加え て、サイレントとトーキーの各々に含まれる「逆説」の対 照性が、 その作用を増長している面も考えられる。つまり、 同じシークエンスを例に使えば、場面 21に実は潜在してい た〈言―動〉の矛盾を、場面 22を見せることによって遡及 的に顕在化する構成と見ることができ、それは、ある意味 でトーキー的「手法の露呈」ないしは「絵解き」としての 別 種 の 異 化 効 果 を 生 じ せ し め て い る こ と に な る。 し か も、 こ の と き 場 面 21に 潜 在 し て い た 矛 盾 は、 〈 言 ― 動 〉 の レ ベ ルではなく、 〈言〉 と 〈動〉 の両者が一致した 〈表現〉 と、 〈心 理〉の間において生じていたと見るならば、 その意味では、 トーキーがもたらした内的矛盾の原理を一歩先ゆく(遅れ
た?)演出だったと言えるかもしれない。それが故に、そ の特徴は山中貞男という、後の時代が引き継ぐことに失敗 した天才性に帰せられたのだろう。まとめれば、真逆の内 容のシークエンスを前後に接続する 「逆手の手法」 は、 トー キーが開放した「逆説」的認識の面白みを狙いとして、そ れ を サ イ レ ン ト 的 な エ デ ィ テ ィ ン グ 法( 〈 映 画 = 機 械 〉 的 身体の描写)によって実装した過渡の形態と言うことがで きる。 千葉伸夫は、 この山中の映画が製作された一九三五年を、 日本ではトーキーへの「移行が決定的」な形勢となりなが ら「作品の傾向として確かなものは見えて来ていなかった」 時期とし、翌三六年に「トーキーによるリアリズムがはっ きりした傾向を示す」としている。それと平行して時代劇 というジャンルもまた、 「踊ればいいのだというようにイー ジ ー に 考 え て 来 た 」 )11 ( 流 行 を 過 ぎ て、 「 段 々 庶 民 階 級 の 中 に 入って行って、 現代劇に近付けようとする過渡期」にあり、 「リアル」の美学へと時代の嗜好は急速に推移していた 。 )1( ( そのような状況を背景に、徒花のように咲いた「逆手の 手法」は、トーキーとサイレント、もしくはシーンの空間 軸(垂直性)と時間軸(水平性)の二つの系列が交差した 箇所に生じたもので、キメラ的性格が色濃い( 『歓呼の涯』 の制作時期も、ハリウッド映画が上映館の設備の問題から 未だにトーキー版と共にサイレント版を同時製作していた 過渡期である) 。ちょうど先端肥大した山中の顎のように、 生態変化の過程で残存したくどさが、双葉が「又今度もだ な と 思 ひ な が ら、 い ざ と な る と 矢 張 り 笑 は ざ る を 得 な い 」 と評した「愛嬌」をもたらすのである。その上がらぬ風采 と瀟洒な作風のギャップに重ねるのも下手な冗談かもしれ な い が、 「 逆 手 」 は、 い つ し か 山 中 映 画 の 代 名 詞 の よ う に もなった。 ところで千葉は、 山中の『百万両の壺』は、 伊丹万作『気 まぐれ冠者』 (一九三五年五月公開)と共に、 「音楽を多用 してルネ・クレール流のオペレッタを狙ったおもむきもあ る 」 )11 ( と書いているが、小気味よい編集のリズムと背景音楽 の挿入、とりわけ左膳の相手役の櫛巻お藤に、ポリドール 社専属歌手の喜代美を採用して歌声を聴かせる演出的特徴 などから考えても異論のない評である。ただし歌と踊りの 披露を主体とした、より確固な狭義のジャンルとしてのオ ペレッタシネマ(喜歌劇)の流れに『百万両の壺』が含ま れ る わ け で は な い( 一 般 に、 同 ジ ャ ン ル の 定 義 は 曖 昧 で、 時にトーキー初期のレヴュー舞台や劇を直接記録したフィ ル ム も 含 ま れ る )。 )11 ( 本 論 で は 逆 に そ の 種 類 は 除 外 し て、 モ ンタージュの妙の代わりに、歌(と踊り)のリズムを巧み にエディティングして喜劇調映画の独自性を発揮したフィ
ルム、とくにジャンルに消化されない両義的性格から映画 理 論 に た い し て 現 在 的 意 義 を 持 ち え る よ う な フ ィ ル ム を、 と り あ え ず「 オ ペ レ ッ タ 的 シ ネ マ 」 と 言 い 表 し て お き た い 。 )11 ( そして同時代の日本の映画制作者や批評家の言及の多 さからみても、その洗練された様式が大きな影響力を発揮 した輸入映画は、エルンスト ・ ルビッチ監督『ラヴ ・ パレー ド 』 )11 ( と、そしてルネ ・ クレール( 『巴里の屋根の下 』 )11( や『自 由を我等に 』 )11 ( )である。 登場人物が通常の会話における発話の語尾を伸ばしなが ら、そのまま連続的に歌に移行する演出をした前者は、映 画の枠組みのなかに舞台劇としてのオペレッタを組み込ん だものと見なすことができる。同時代の評価や参照頻度は 高いが、現在の鑑賞態度をそのまま持ち込んだ場合、その 冗長な編集リズムに些か退屈の念を覚えるのを禁じ得ない だろう。反面、フランス・トーキーの始祖とみなされ、ト リュフォーまで続く洒脱な「フランス映画」の原型を築い たクレールの軽妙な喜劇的演出は、彼がサイレント(=映 画的身体の力学)の代名詞的存在であるチャップリンを敬 愛していた事実を納得させるに違いない。 繰り返すが、発声映画において場面の音声やダイアロー グの十全性を求める限り、サイレントの枠組みで発展して きた細かなカット割りによるリズミカルな演出を妨げない のは不可能である。それを克服するには、ダイアローグを 抑えたモンタージュを会話の場面の間に随時挿入する格好 になるが、多少の歪さが出るのは免れない。クレール的オ ペレッタの方法は、その繋ぎ目を軽快な音楽のリズムの内 に 畳 み 込 む。 「 音 楽 を、 影 像 に 対 す る そ の 帰 属 か ら 引 き 離 し た 」 ク レ ー ル の 技 は、 そ も そ も「 同 時 性 」 や「 持 続 性 」 の 幻 出 が 目 指 さ れ て い な い。 「 か く し て、 音 声 と 影 像 の 要 素を、そのいづれにも附帯せしむることなく、独立に、平 行に、組み合せ、モンタアジュをした 」 )11 ( のである。寺田寅 彦も『巴里の屋根の下』を評して、発声映画と無声映画の ギャップを調停する「画面の切り替え」のリズムの巧みさ を言うのに、視覚と聴覚を共感覚的に重ねる「律動的和声 的要素 」 )11( の言葉を用い、 『自由を我等に』 を評して、 その 「面 白 さ は 勿 論 物 語 の 筋 か ら 来 る の で も な く、 [ 中 略 ] 全 篇 の 律動的な構成からくる広義の音楽的効果によるもの 」 )11 ( と述 べている。山中の洒脱と評される編集スタイルは、このク レールに備わる軽妙さの資質を多分に共有していた。山中 が 無 声 映 画 に お い て 確 立 し た、 「 彼 の 作 品 に 喧 伝 さ れ る 映 画的リズム 」 )1( ( や「力学的、律動的、抒情的」なる「様式美 の内面性 」 )11( は、 トーキー以後の評価としても持続し、 反面、 「 人 間 観 照 の 不 足 」 や「 形 式 主 義 」 と い う 負 の 印 象 が 付 き ま と い は す る が、 「 誰 し も、 あ の 画 面 の リ ズ ミ カ ル な 律 動
には酔った筈 」 )11 ( の、抒情的な「一個のスタイリスト 」 )11 ( とい う 方 向 で 概 ね 一 致 を み て い る。 そ し て、 「 少 く も 形 式 に 関 する限り、ルネ・クレエルにおとらず、この間の消息を深 く 洞 察 し て い る 映 画 作 家 」 )11( と い う 評 言 に 見 ら れ る よ う に、 類縁性を感じさせる監督名は、やはりクレールだった。山 中 の カ ッ ト 編 集 が 七 五 調 に 負 っ て い る と 評 さ れ た 一 方 で、 寅 彦 が、 ク レ ー ル の コ ン テ ィ ニ ュ イ テ ィ に「 一 種 の 俳 諧 」 のリズムを感得していたのはあながち偶然とは言えないだ ろう。参考までに付言すると、山中の評価を不動のものと し た と さ れ る 一 九 三 二 年 二 月 公 開 の『 抱 寝 の 長 脇 差 』 は、 現在フィルムとしては残されていないが、脚本冒頭は、勘 太郎と弥吉がお露をめぐって「負けた方が諦める」という 賭けの賽ころを振るシーンで始まっている。以上の文脈か ら推測して、クレールの『巴里の屋根の下』の最後で二人 の主人公が「女の所有」をめぐって賽子を振るシーンを参 考にした場面と考えるのが自然だろう 。 )11 ( クラシック映画ファンには常識に属することだが、日本 的オペレッタの傑作と後年に評価される映画としては、マ キノ正博の『鴛鴦歌合戦』 (日活、一九三九年一二月公開) が一番に引き合いに出される。山中が一九二七年、一八歳 の時、映画監督を志望して最初に入社したのがマキノプロ ダクションであり、デビューから批評家受けし続けた初期 数 作 に お い て、 「 芝 居 の つ け 方、 場 面 転 換 の 鮮 か さ 等 か ら 享ける感じは全然マキノイズムの濃厚なものがある 」 )11 ( と評 されていたことからも、彼のトーキーから「オペレッタを 狙 っ た お も む き 」 と い う 印 象 評 が 引 き 出 さ れ る 必 然 性 は あった。だが、マキノの『鴛鴦歌合戦』ともなると、客演 に迎えたテイチクレコードの歌手ディック・ミネのバカ殿 ぶり、含羞の笑みを湛えながら志村喬が披露したコント漫 才風の演技、市川春代や服部富子の浮薄な物言い等々、そ の奔放な娯楽性は戦前期の映画では比べる物がない程なの だが、金銭の関係よりも義理人情、という極めて庶民的な テーマを享楽的に消費せんとする態度には、ある種の危う さが漂っても見える。時は、海を挟んで慢性的戦争状態に あった。前年に国家総動員法が制定されて国力が次第に疲 弊していくなか、オペレッタ的修辞は旋律を加速させ、ク レール的洒脱さなどは通り越した〈祝祭〉として現出せざ る得ないものとなっていたのである。 四、もう一人のマキノ 山 中 貞 雄 初 の ト ー キ ー『 雁 太 郎 街 道 』( 一 九 三 四 年 一 一 月公開)にたいする評のなかに、 「千恵蔵は次第によくなっ て来た。時々、 台詞と仕草が分裂する事がある 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 が、大体に
於いては無難の方だろう 」 )11 ( [傍点引用者] という言葉がある。 サイレント時代からの時代劇・剣劇スターであった片岡千 恵蔵(右の『鴛鴦歌合戦』の主役でもある)に限定した感 想なのだから、映像と音声の同期を取るのが難しかった初 期 ト ー キ ー 装 置 の 技 術 的 な 問 題 を 言 っ て い る の で は な く、 サイレント時代用に適合した千恵蔵の演技がトーキーの枠 組みに置かれた際に、言葉と動作の分離という形で表出し て し ま う 振 る 舞 い の〈 齟 齬 〉、 そ し て、 そ れ が 徐 々 に 均 さ れていく途上にあることが報告されている。この話からわ か る の は、 「 分 裂 」 は、 映 画 の 制 作 者 や 受 容 者( 観 客 ) の 俯瞰的立場においてのみ観察されたのではなく、メディア を介した映画内世界の身体と観客の共犯=共鳴関係によっ て、 ま さ に〈 生 き ら れ る 場 〉( = 存 在 論 的 次 元 ) で 生 じ た ということである。 このような演技と真意、仮面と素面の緊張関係を、声と 行為の身体的=媒体的次元の「破局」として最も生彩に描 き出した作家を一人挙げるとしたら、それは管見の及ぶ限 りで、映画界のマキノ親子(省三と正博)に並ぶ、もう一 人の「マキノ」
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牧野信一しかいない。正博がマキノプ ロで監督業を開始する時期と、信一が反プロレタリアの広 義「 新 興 派 」( モ ダ ニ ズ ム ) 文 学 と 共 に 作 風 を 確 立 し た 時 期が偶然一致すること、そして何より「牧野」の名を理由 に、マキノ時代劇と牧野文学を並べるのは冗談の度が過ぎ ると思われるかもしれない。しかし文学者の発想などは根 本のところが冗談で成り立っているようなものである。事 実、牧野が小さな共同体成員のみを舞台に上げた時代劇風 コメディを連続して書いた時期はあったのである。 その牧野の作風は、一九三三年前後から、地元の風物の 上に陽気な古典西洋のイメージを重ね合わせる手法を後退 させ、 代わりに日本の 「土俗的イメージ」 が徐々に現れて 「か げり」の方へ次第に重苦しくなっていった 。 )11 ( そして三五年 に明瞭に以前のスタイルに対して決別を表明し、発声映画 がついにサイレントのヘゲモニーを全面的に塗り替えたと 言われる一九三六年に縊死した。単なる年表上の印象とし て、 そ の 一 ヶ 月 前 の 二 ・ 二 六 事 件 か ら、 翌 年、 山 中 も 応 召 される日中戦争開始を控えて、いや増していく不穏の萌し と閉塞状況に屈したのだ、という時代状況のなかに彼の死 を 位 置 づ け る こ と も で き る だ ろ う。 だ が、 表 現 行 為( 者 ) の動向を政治的事件や社会の即物的環境だけに還元して失 うものも小さくない。アナロジーやテマティズムで歴史が 動いているわけではない、 という可視主義の発想を打破し、 様々な不可視のレイヤーで自律運動する〈思考〉の越境的 形態を捕まえるのが、文学研究に「メディア」という物質 的次元を導入する (逆説的) 意義だと本論は認識している。しばらくは〈映画〉との接点に目を懲らすなかで、まずは 牧野文学が孕んだ「破局」的ポテンシャルを抽出し、今後 のメディア論的文学研究の糸口とする計画である。 (続) 注 1 『 加 藤 周 一 著 作 集 4 日 本 文 学 史 序 説 上 』 平 凡 社 、 一 九 七 九 年 、 七 頁 。 2 「 発 声 映 画 に 就 い て 」『 新 潮 』 一 九 三 〇 年 四 月 初 出 (『 萩 原 朔 太 郎 全 集 第 九 巻 』筑 摩 書 房 、 一 九 七 六 年 所 収 、 三 三 二 ~ 三 頁 )。 3 朔 太 郎 の 同 エ ッ セ イ の 証 言 に よ れ ば 、 弁 士 の 通 訳 付 き ト ー キ ー は 最 初 の 二 三 ヶ 月 は 物 珍 し さ か ら 十 分 な 興 行 成 績 を 上 げ た が 、「 こ の 一 月 以 来( 一 九 三 〇 年 一 月 以 来 ― 引 用 者 註 ) ト ー キ ー の 映 画 は 不 入 り を 極 め 、 興 行 的 大 不 安 に 陥 入 つ て ゐ る さ う で あ る 」( 三 三 二 頁 )。 4 野 口 米 次 郎 「 ス テ フ エ ン 、マ ラ ル メ を 論 ず 」『 太 陽 』 一 九 〇 六 年 四 月 。 こ の 論 は 無 声 映 画 の 〈 サ イ レ ン ス 〉 と は 無 関 係 で あ る が 、 同 時 期 に 愛 で ら れ た 「 沈 黙 」 の 美 学 の 射 程 を 捉 え る の に 有 効 で あ る 。 5 『 キ ネ マ 週 報 』 一 九 三 四 年 三 月 二 三 日 号 初 出 (『 山 中 貞 雄 作 品 集 〈 全 一 巻 〉』 実 業 之 日 本 社 、一 九 九 八 年 所 収 、八 八 四 頁 )。 6 『 トオキ イ 以 後 』 日 本 映 画 論 言 説 体 系 ( 第 Ⅱ 期 : 映 画 の モ ダ ニ ズ ム 期 )、 一 七 、二 〇 〇 四 年 、ゆ ま に 書 房 、一 九 一 ~ 二 頁 。 7 ジ ョ セ フ ・ フ ォ ン ・ ス タ ン バ ー グ 監 督 、 パ ラ マ ウ ン ト 映 画 製 作 、 一 九 三 〇 年 一 二 月 米 公 開 。 8 ト ー キ ー 移 行 期 に お け る 外 国 映 画 「 字 幕 」 の 混 沌 と し た 使 用 状 況 に つ い て は 、 北 田 理 恵 「 ト ー キ ー 時 代 の 弁 士
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外 国 映 画 の 日 本 語 字 幕 あ る い は 「 日 本 版 」 生 成 を め ぐ る 考 察 」( 『 映 画 研 究 』 第 四 号 、 二 〇 〇 九 年 ) が 詳 し い 。 9 マ キ ノ は 生 涯 に 職 業 名 を 複 数 回 変 え た こ と で リ フ ァ レ ン ス が 困 難 な の が 知 ら れ る が 、本 論 が 対 象 と す る 時 期 は 「 正 博 」 を 名 乗 っ て い た た め 、 そ の 表 記 に 統 一 す る ( た だ し 註 11の 筆 名 は 「 雅 弘 」) 。 10 紙 屋 牧 子 「「 映 音 」 に つ い て の 記 述 」『 日 本 映 画 史 探 訪 : 映 画 へ の 思 い 』( 田 中 純 一 郎 記 念 第 5 回 日 本 映 画 史 フ ェ ス テ ィ バ ル 実 行 委 員 会 、 二 〇 〇 二 年 ) 所 収 、 一 五 七 頁 。 11 『 映 画 渡 世 ・ 天 の 巻 』 ち く ま 文 庫 、 一 九 九 五 年 、 二 六 八 ~ 二 七 一 頁 。 12 紙 屋 、 前 掲 論 文 、 一 六 〇 頁 。 13 吉 本 隆 明 の 提 出 し た プ ロ レ タ リ ア 文 学 運 動 の 「 二 段 階 転 向 論 」は 、 そ の 方 法 的 ス タ ン ス の 連 続 性 (「 社 会 主 義 的 リ ア リ ズ ム 」 → 「 国 家 主 義 的 リ ア リ ズ ム 」) を 描 い た 論の ひ と つ と 言 え る 。 以 下 の 概 略 に な る―
「 前 期 は 、 い わ ば弾 圧 に よ っ て 、 運 動 史 的 な 欠 陥 を つ か れ 、 孤 立 し 、 後 退 し 、 転 向 し て い っ た 過 程 で あ り 、 後 期 は 、 か つ て プ ロ レ タ リ ア 文 学 最 盛 期 に 習 い お ぼ え た 腕 っ ぷ し と 理 論 を つ か っ て 権 力 に 迎 合 し 、 そ の 文 芸 政 策 を 合 理 化 し た 積 極 転 向 の 過 程 で あ る 。 前 期 の 転 向 は 、 小 林 多 喜 二 の 専 制 主 義 に よ る 虐 殺 に 象 徴 さ れ る よ う に 、 弾 圧 が そ の 主 要 原 因 で あ り 、 後 期 は 、 こ れ を 権 力 の 弾 圧 に き す る こ と が で き ず 、 い わ ば プ ロ レ タ リ ア 文 学 運 動 自 体 が も って い た 文 学 理 論 、 実 作 、 組 織 論 、 の 欠 陥 が 自 己 転 回 し て 再 生 産 さ れ て い っ た 過 程 で あ る 」( 「 民 主主 義 文 学 批 判
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二 段 階 転 向 論―
」『 荒 地 詩 集 1 9 5 6 』 一 九 五 六 年 四 月 一 五 日 初 出 、『 吉 本 隆 明 全 著 作 集 4 』 勁 草 書 房 、 一 九 六 九 年 所 収 )。 14 「 誘 惑 す る 声 / 映 画 ( 館 ) の 誘 惑―
戦 前 期 日 本 映 画 に お け る声 の 編 成―
」『 岩 波 講 座 近 代 日 本 の 文 化 史 6 拡 大 す る モ ダ ニ テ ィ 』( 岩 波 書 店 、 二 〇 〇 二 年 ) 所 収 。 15 例 え ば 、 マ キ ノ 正 博 が ( 旧 マ キ ノ プ ロ ダ ク シ ョ ン で ) デ ィ ス ク 式 ト ー キ ー の 『 戻 橋 』 を 一 九二九 年 に 撮 影 して か ら 、 三 四 年 初 め に 、 太 田 進 一 率 い る 映 音 で ト ー キ ー の 技 法 の 習 得 に 本 格 的 に 取 り 組 み 、 京 都 映 音 を 発 足 し て 数 多 く の フ ィ ル ム の 録 音 を 請 け 負 う よ う に な る ま で 五 年 以 上 の 歳 月 が 経 っ て い る 。 マ キ ノ は 三 五 年 秋 に マ キ ノ ト ー キ ー 製 作 所 を 設 立 し て 再 び 映 画 製 作 の 道 を 邁 進 す る ( が 、 製 作 所 自 体 は ト ー キ ー 製 作 が 大 規 模 資 本 化 す る 時 代 の 趨 勢 に 飲 ま れ て 三 七 年 春 に 解 散 )。 三 三 年 末 に 日 活 を 退 社 後 、 ト ー キ ー の 技 術 面 に 注 力 し て い た マ キ ノ の 「 空 白 」 の 三 四 年 に お け る 動 向 は 、 紙 屋 牧 子 「 マ キ ノ 正 博 の 1 9 3 4 年―
ト ー キ ー と 『 泡 立 つ 青 春 』―
」( 『 ア ー ト ・ リ サ ー チ 』 第 三 号 、 二 〇 〇 三 年 ) を 参 照 。 16 田 中 眞 澄 編 『 小 津 安 二 郎 全 発 言 ( 1 9 3 3 ~ 1 9 4 5 )』 泰 流 社 、 一 九 八 七 年 所 収 。 17 同 上 書 、 二 七 ~ 八 頁 。 18 飯 島 正 『 ヌ ー ヴ ェ ル ・ ヴ ァ ー グ の 映 画 体 系 Ⅰ 』 冬 樹 社 、 一 九 八 〇 年 、 一 四 三 頁 。 19 野 崎 歓 「 映 画 を 信 じ た 男―
ア ン ド レ ・ バ ザ ン 論 」( 『 言 語 文 化 』 一 九 九 五 年 一 二 月 ) を 参 照 。 20 ハ イ デ ガ ー の 議 論 を ア ナ ロ ジ ー と し て 借 用 す る な ら 、 映 画 は ト ー キ ー の 衝 撃 を 経 て 〈 映 画 ― 内 ― 存 在 〉 の パ ラ ダ イ ム を 形 成 し た の で あ り 、 そ の 「 本 質 的 な 諸 構 造 は 、 開 示 態 を 中 心 と し て い る 」 の で あ る 。 21 そ れ は ま た 、 内 地 と 外 地 を 分 割 し な が ら 統 一 す る 統 治 政 策 の イ デ オ ロ ギ ー の 可 能 性 や 、ロ ゴ ス と 非 言 語 ( 基 礎 経 験 ) の 矛 盾 を 架 橋 す る こ と を目 指 し た 三 木 清 の 「 人 アントロポロギー 間 学 」、 そ し て 西 田 幾 多 郎 の 「 絶 対 矛 盾 的 自 己 同 一 性 」 や 浪 漫 派 の イ ロ ニ ー ま で 、 い わ ゆ る 〈 三 〇 年 代 の 思 想 〉 と の 連 関 を 示唆 す る 思 考 の ア ー キ タ イ プ と 言 え る か も し れ な い 。 そ の 具 象 的 メ デ ィ ア が 発 ト ー キ ー 声 映 画 で あ っ た 。 22 「 世 界 の 断 面