純正哲学講義
著者名(日)
井上 円了
雑誌名
井上円了選集
巻
7
ページ
15-104
発行年
1990-04-10
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002908/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja’ ・r二、 ㌻︹ .、〆 ﹄\ …ン / 駁 根 ,,・ , ’ 幽面三月 、 1 一.へ 〉
純正哲学講義
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S︷﹁ 、 ンジタし⋮本学年第一年級純正哲学は哲学総論より始まり、東洋哲学、西洋哲学の二段に分かちて講義ある予定にして、西洋 哲学は講師の自著﹃哲学要領﹄前編によりて講述あるはずなれば、別に筆記を要せず。故に本学年度講義録には、哲 学総論と東洋哲学の二編を掲載すべし。
哲学総論
文学士 井上 円了講述
館内員 本間 与吉筆記
純正哲学講義 総論は左の数段に分かち、 第一段 第二段 第三段 第四段 第五段 逐次講述すべし。 哲学の定義および理学との関係を論ず 哲学の分科および純正哲学の位置を論ず 哲学上の用語解釈 学派の起源および発達 哲学の応用および実益 これよりただちに第一段について講述すべし。 15第一段 哲学の定義および理学との関係を論ず
哲学すなわち原語にてフィロソフィー︵冨︷一〇ωo菩ぺ︶なる字は、もとギリシア語の愛智を義とする文字より転 化しきたれるものにして、そのはじめてこれを用いたる者はギリシアの碩学ピタゴラス氏なり。その後プラトン 氏、アリストテレス氏等のこの語に与えたる解釈あるもその義一定せず、近世に至り学者またおのおのそのみる ところに従って種々の義解を下すといえども、その諸義解を大体より分類すれば、主観より与えたるものと客観 より与えたるものとの二つに過ぎず。しかして主観より与えたるものは思想を本とし、客観より与えたるものは 万有を本とせり。今一つの分類は哲学だけについて与えたるものと、理学に関係して与えたるものとの二種あり。 今日学問といえば理、哲の両学を指すなり。故にこの二学は相混同せずして、その異点を指示せざるべからず。 いにしえの哲学に与えたる義解は理学と相混清して、その区域判明ならず。その物理学のごときは、今日なおナ チュラル・フィロソフィーと称するなり。 これより古来この学に与えたる各義解を挙げてこれを観察せんに、諸学中の学、諸術中の術︵アリストテレス 氏︶、または思想の学、原理の学、事物の道理を考究する学といい、コント氏は宇宙の現象を解釈する学といい、 スペンサー氏は理学と相区別して、理学は一部分の学にして、哲学は総体統合の学なりといえり。およそ理学は その研究する事物につきこれを一貫する原理を発見し、この原理によりて組織せらるるものなるに、哲学は各理 学において考定せしところの原理を採り、これを統合するものなり。しかれどもこれは、客観すなわち外界の方 より両学の区別を立てたるものなり。そもそも哲学は心を本とし、理学は外界の物につきて経験を本とするもの 16純正哲学講義 とす。しかるにコント氏のごとく、哲学をもって宇宙の現象を研究するものとすれば、両学の相混渚するを免れ ず。氏は純正哲学のごとく無形の上に考想することを排斥して、いちいち経験に訴えたるものにあらざれば、も って学問となすべからずとし、その経験すべからざるものの上に空想を労することは古風の哲学にして、今日に ありては不適当の研究法とせり。これ氏の卓見にして、哲学研究の方法ほとんどこれより一変せり。スペンサー 氏また氏の影響を受けて、その哲学原理中には可知的と不可知的の二つを説きながら、今日われわれが研究すべ きものは、経験の範囲内においてなし得べき可知的事物に限るとせり。ただコント氏のごとく宇宙の現象を解釈 する学なりとのみいうときは、理学との区別立たざるが故に理学をもって一部分の学となし、哲学をもって全体 の学すなわち諸学の原理を統合するところの学なりとなせり。これ前に示せる分類中の、客観上万有の辺より与 えたる義解なりとす。しかれどもかく一方に偏するときは、哲学は諸理学の供給を待ちて、しかるのちこれを統 合するものとならざるべからず。哲学はただに諸理学の供給をまちてこれを統合するのみならず、また理学その ものの基本を定むるところのものならざるべからず。これにおいてか、哲学は思想の学なり、原理原則の学なり として考えざるべからず。すなわち・王観上思想の辺よりも義解を下さざるべからず。けだし理学研究の本拠たる 経験も、もと思想に基づくものなり。故にまた理学経験の本源にさかのぼり、人智思想の真源を発見せざるべから ず。しかる上はひとり客観の一方に偏せず、また主観の研究を尽くし、両方面より定義を与えざるべからずと す。 初めに主観的内界の方より述べんに、この世はなにとなにより成り立ちておるかというに、物と心の二者より 成ると考えて可なるべし。わが見るところの森羅万象、これを総称すれば物という。しかしてこれを知るところ 17
のもの、これを心という。すなわち物をして物たらしむるものは心なり。目を開けば万有森然として外にあり、 目を閉つれば万象柄焉として内にあり、外にあるこれを外界の物質といい、内にあるこれを内界の心象という。 これを標示すれば左のごとし。
心 心性ー能観ー主観ー心界ー内界゜
物ー物質ー所観ー客観ー物界ー外界
哲学定義の二様は、一は心よりあずかると、一は物よりあずかるとによりて相分かるるなり。 前陳のごとく、宇宙これを観じ去れば物心の二つに過ぎず。故にこれを宇宙の二元という。しかるにこの物や この心や、いかにしてこの宇宙に出でたるか、第一これを時間上に考うれば物よく心を生じたるか、そもそも心 よく物を生じたるか、荘としてそのよりてきたるところを知るべからず。第二これを空間上に考うれば物、心の 上に存するか、心、物の上に存するか、目を開けば万有歴然外にありて物よくわが心を包むがごとく、眼を閉じ れば万象整然内に存してわが心よく物を包むがごとく、漠然としてそのよりておるところを知るべからず。第三 これを性質上に考うれば、 一は延長を有して、一はこれを有せず。かくのごとく相反対するところのもの、その よく融合して世界をなすはなんぞや。淵乎としてそのしかるゆえんを知るあたわず。 これにおいてか、物にあらず心にあらずして、よくこの二者を創造して互いにその位 置を保たしめ、よくこの二者を媒介して融合せしむるところの、第三者たる一体を立 てざるべからざるに至る。その体、実に霊妙不可思議なり。この不可思議の一体、こ れを名付けて神という。物心の外、更に一元を加えて三元となすこと上のごとし。 18純正哲学講義 しかるに数千年来、相弁難攻撃していまだ決定せざるところの大難問は、この三元の上にあり。純正哲学上の 問題は、全くこの三元の間に彷裡するなり。すなわち唯物一元を立つる者あり、唯心一元を立つる者あり、物心 異体を唱うる者あり、物心同体を唱うる者あり、有神を主張する者あれば無神を主張する者あり、虚無を説く者 あれば常識を談ずる者あり。 さてこの三者につきては、物心は人智のたしかにその存在を認むるものなるが故に、議論上やや帰着するとこ ろなきにあらずといえども、神に至りては無形無象にして、得てこれを認識するあたわず、ただ思想上にこれを 推測憶定するのみ。故に神の解釈においては、古来いくたの変遷を経たり。あるいはヤソ教のごとく、有意有作 にして宇宙を創造し、あわせて賞罰をつかさどること、ほとんど人類に類するがごとき想像を有する者あり。あ るいは儒教の太極のごとく、物心の本源とする者あり。あるいは仏教の真如のごとく、物心二元の本体として、 しかも同体不離の関係を示す者あり。ヤソ教のごとき解釈を下すときは、これを天神と称し、儒の太極または仏 の真如のごとき解釈を下すときは、これを理もしくは理想と名付くるをもって適当とす。すなわち左のごとし。 しかして物につきて研究するの学は理学にして、心につきて研究するの学は哲学なり。神につきてもこれが有 無もしくは性能を研究するときはまた哲学中に入るものにして、 物 神をたしかにあるものとして、これを人事上に応用するときはこ 前図の神を改めて れを宗教という。 理想となすなり。 今、宗教と学問との区別をのぶれば、H学問は知識を本としこ れによりて宇宙の真理を究めんとす、宗教は信仰を本として安心 19
立命を図る。⇔学問は疑を本として研究を初むるも、宗教は古人先輩の説を確実にして動かすべからざるものと してその指導に従う。日学問は真理を将来に向かいて尋ね、宗教は真理を過去に定めおくなり。故に学問は﹁作 りて述べざる﹂︵作而不レ述︶を主義とすれども、宗教は﹁述べて作らざる﹂︵述而不レ作︶をもって主義とす。すな わち学問の得るところは﹁日々新たにして、また日は新た﹂︵日日新而又日新︶なりといえども、宗教は数百千年を 経るもその宗旨の大本は決して新たなることなきなり。けだし学問は理論により、宗教は実行を尊べばなり。も しそれ人々ことの実際に臨み、いちいちこれが理論を探討し、しかるのちにこれを行わんとすれば、その標準、 月に移り年に変わりて人にそのよるところを失わしめ、もってその心を定むるあたわず。これ宗教は既定の真理 によらざるべからざるゆえんなり。これを第一の区別となす。つぎに第二の区別は、この世界には人智によりて 知り得べきものと、知り得べからざるものとの二あり、一を可知的世界といい、一を不可知的世界という。学問 は人智を起点としてこの可知的世界を知り尽くさんとするものにて、宗教はこの不可知的世界を説くものなり。 これを図解すれば左のごとし。 しかして学問の目的は不可知的世界をしてことごとく可知的世界に入れ、一事の知るべからざるものなきに至 りてとどむるにあれども、実際上いまだここに至るあた この圏の中心点は人智を表し・ わず。かつ人智のついに進行してここに達し得べきもの
乙㊦
甲圏は可知的世界、乙圏は不可 なるや否やは、また一難問に属するなり。しかるに宗教 知的世界を表す。 はかえって不可知的より説ききたるものなるが故に、い ずれの宗旨も無限絶対のものをもって本体となさざるな 20純正哲学講義 し。学問は人間をもって万有中の最霊なるものとし、すなわちその智力をもってよく宇宙の真理を発見するに足 るものとすれども、宗教においては人間の一生をもって、無限の時間空間に包まるるところの最小最短にして、 最もあわれむべき瞬息の生活を営みつつあるものとみなし、この短小なる人間の智力をもって宇宙の真理を究め んとするがごときは、到底企て及ぶところにあらずと観念し、一に不可知的境より可知的境に示したるところの ものを信拠するより外なしとす。しからばいかにして吾人は不可知的境の真理を知得せしやというに、吾人が学 問上研究の結果によりてこれを知得するにあらず、天啓もしくは啓示によりてこれを知得せるなりというなり。 しからばこれをなにものが伝達せしそというに、聖人もしくは神使のこれを告げたるなりというなり。しかして その聖人はヤソ教の始祖たるイエス・キリスト、仏教の開祖たる釈迦牟尼仏のごとき、これなり。 すなわちこれらは不可知的の形を変じて人間社会に降りたりといい、または吾人より幾千倍優れたる聖人なり とするなり。さればその顕示は、吾人短小の類族はただ謹度して、これに信順するより外なきものとす。すなわ ち学問の方向は可知より不可知に進まんとし、宗教の方向は不可知より可知に及ぼさんとするものにして、その 性質相反対せるものと知るべし。ここに双方の異点を概括すれば左のごとし。
学問ー疑ー真理未定−推理ー可知より不可知に向かい
宗教 信ー真理既定 啓示 不可知より可知にきたる 仏教のごときも、真如の理は一定不変のものなりとして遵奉するが故に宗教なり。しかるに今日、何故にこれ を哲学の中に加えてインド哲学の名称を与うるやというに、仏教の起こらんとするときすでに数種の哲学ありて 相抗論せるをもって、勢い他に対してわが真理とするところを人智推理上説明せざるべからず。故にその当時よ 21りすでにすでに学問的組織を有して、宗教と哲学との両性質を兼備したる宗教となれり。すなわち今日、仏教が 宗教にして哲学の称呼を世間よりきたせるゆえんなり。 上来の学問と宗教との区別をのべおわりたるが、これより理学と哲学との区別をのべんに、理学の研究すると ころのものは有形にして、哲学の研究するところは無形なり。有形のものを研究するにはいかなる手段によるか というに、感覚によらざるべからず。無形のものを研究するにはいかなる手段を用うるかというに、思想を用い ざるべからず。感覚によるが故に実験を主とし、思想を用うるが故に論理を主とす。またこの二者の異点を概括 すれば左のごとし。
理学ー物質ー有形 感覚−実験
哲学ー心性ー無形 思想⊥調理
これによりて哲学の定義を下せば、哲学は思想の学なりといわざるべからず。これすなわちこの学に定義を与 うる、二大分類中の内界すなわち主観の方より与えたるものなり。 これより外界より与うるところの定義を述べんに、外界より与うるところのものは、理学との区別を与えなが ら哲学の定義を定むるものなり。しかしてこれを定むるの前に、学問の発達順序を述べざるべからず。理学のご ときは実験によるの学なるをもって前説を排すべき証拠十分ならざれば、容易に自説をもって前人の所説に代ゆ るあたわずといえども、哲学は無形の学なるをもって、いかようにもその説を立て得べき傾きありて、古来哲学 は諸学中最も学説の変遷著しきものとす。しかれどもこれ表面上の観察にして、裏面にかえりてこれを観察すれ ば、研究の条路、一系統を追うて発達せること物理学、化学等に寸分も異なることなし。すなわち前人の説に一 22純正哲学講義 歩一歩を加えて、もって今日の進歩を見るに至れるものなり。しかしてその異点とするところは、ただ客観上よ り宇宙の原理を研究すると、主観上より研究すると、これあるのみ。しかれどもその宇宙の原理を探究するは、 すなわち一なり。いかなる卓識の士ありといえども、古来の哲学を研究せずして、一派独創の哲理を構設するあ たわず。これ哲学は自然の発達を経きたりて条路を探り、系統を追い、更に一歩一歩を加うるにあらざれば、真 理に到達するあたわざるゆえんなり。哲学もと高尚の学なりといえども、はるかに古代にさかのぼりてその所説 をみれば、間々一笑に付すべきほどのものあるを免れず。たとえばギリシア哲学の祖すなわち西洋哲学の祖とも いうべきタレスのごときは、宇宙の本体は水なりと論定せり。これを今日の知識に比ぶれば、そのはなはだしく 幼稚なるを知るべし。これをもってこれをみれば、古代の哲学は研究するに及ぼざるがごとしと考うる者あるべ けれども、これ大いなる誤りにして、一応は必ず古代の哲学を研究し、もって思想発達の順序を探討せざるべか らず。それ学問の発達は樹木の一種子より発達すると同じく、その始めはもとより簡単幼稚なるものなり。しか れども発達せる樹木につき、その幹の堅実なるゆえん、その枝の交錯するゆえん、その葉の繁茂せるゆえんと、 なお将来いかに発達すべきかを知らんと欲せば、その種子の状態、性質につき十分なる研究を尽くさざるべから ざるがごとく、今日発達せる哲学を知り、かつ一段の見識を開かんと欲せば、また古代幼稚なる哲学につき、そ の性質、状態を討究せざるべからず。すなわち古代において哲学の起こりし理由、および当時の哲学思想のいか にありしかを知悉せざるべからず。しかるのち中古に下り近世に及び、その変遷発達の次第を研究すべし。これ においてか、これを統合しこれを批判し、更に新智見を加え、一歩をその上に進むることを得べし。突如として カントの哲学ここに起こりたるにあらず、前にヒュームありて、後にカントを起こせり。忽然としてヘーゲルの 23
哲学ここに起こりたるにあらず、カントこれを前に唱え、へーゲルこれを後に成せり。俄然としてスペンサーの 進化哲学起これるにあらず、ダーウィンのこれを当時にひらくあればなり。しかりしこうして、哲学の進歩は決 してここにとどまれりというべからず、すなわち真理の研究は決してここに尽きたりというべからず。今に及び て哲学上更に一大進歩を致さんと欲せば、一方においては西洋哲学に洞達し、また一方においては東洋哲学に精 通し、両般の材料を結合し、もって大哲学を組織せざるべからず、あに西洋哲学を講究するのみをもって安んず べき秋ならんや。これ余がかねて東洋哲学に通ぜざるべからずというゆえんなり。 さて往古は哲学といえばすべての学問に当てはめたるものにして、種々の学を混合せり。ギリシアの四大学派 と称する、すなわちソクラテス学派、プラトン学派、ストア学派、エピクロス学派のごとき、その学科を分類す れば論理、物理、倫理の三科に分かる。しかしてこれを概して哲学と称せり。近世に及びて哲学の区域分明とな り、その組織大いに整頓するに至れりといえども、みな源をこの混然たるギリシア哲学に発せざるなし。しかし てその整頓に至れるゆえんを考うるに、中世以後ようやく学問を宗教より独立せしめ、近世に至り理学を哲学よ り分離せしめたるによるなり。 そもそも古代の哲学はなにをもってかくのごとく諸学を混合せしやというに、まず哲学はいかなる問題を解釈 せんがために起これるものなるかを考えざるべからず。すなわち哲学はこの目前を遮る宇宙万有はいかなるもの ぞという問題を解釈せんとして起これるものにて、前に述ぶるがごとく、ギリシア哲学の祖タレスはこれ水の変 化なりと説きたりし。爾来これを解釈するに、あるいは客観上より物理的の考察を下し、あるいは主観上より論 理的の解釈を下し、ついにソクラテス以後に及びては倫理の重要を感じて、これが研究を主要とするに至れるを 24
純正哲学講義 もって当時の哲学組織を分解すれば、この三科の混合をみるなり。しかるに世を経るに従って社会の事物ようや く繁雑となり、その思考せざるべからざる事情はすこぶるその種類を増加せり。この繁雑複合せる万般のことを いちいち研究せんには、限りある人智のよく及ぶところにあらずして、各部のこといちいちこれを精密に考究せ んとすれば、勢い類を分かち科を設け、哲学外別に個々専門分業の道を開かざるべからざるに至れり。これにお いて後世、各部類分業の学起こる。すなわち今日のいわゆる理学なるもの、これなり。すでに吾人の考究すべき 事物をば、これを分けて各専門の科学に譲るに至りたれば、哲学のごときはただ古人がかつて従事せし学問の骸 骨にして、むなしく古代学問の名称を史上にとどむるに過ぎざる不必要のもののごとく考うべけれども、各部専 門科の起こるに従って、いよいよ哲学の必要を感ずるなり。なんとなれば、各部事物の理法はいよいよ明白に知 らるるといえども、これ各部個々の理法にして、そのよく一般事物に共通するところの真理なるや。換言すれば 宇宙万有に通ずる真理なるや否や、また宇宙万有全体の真理はいかにということにおいては、荘乎として知ると ころあらざるなり。もしその全体の真理を知らんと欲せば、必ずや百科の諸学を総合する学ありて、万有の規則 を総合統一せざるべからず。すなわち諸理学において考定せしところの諸理法を総合して、宇宙万有一統の真理 を帰納し、更にその真理を事物の上に演繹せざるべからず。しからざれば学問全体の統一を保つあたわずして、 支離分裂の憂を免るるあたわざるなり。今、一比喩をもってこれを説明せんに、ここに一の未開なる国ありとせ よ。当時社会の事情至って簡単なるをもって、国土の中央なる一部落の酋長が一体を統轄しいたりしが、国よう やく開け、人民ようやく増加し、社会の組織ようやく複雑になるに従って、勢い各地方に地方庁を設けて一部分 の整理をなさざるべからず。しかれども政権をことごとく地方に分与して更に中央政庁を設けずんば、決して一 25
甲 波 呂 伊 ルーヲーワーカーヨ ヘートーチーリーヌ イーローハーニーホ 国の団体を結成することあたわざるべし。かつただ各部そのなすところに 任せて、更にその上に立ちてこれを統轄するものなきときは、各部の政令 相背反せざるを保し難し。故に地方に県庁、郡役所のごときもの分立する ときは、必ず中央政府ありて各地方の事情、政令を総合して一国政治の方 針を定め、もって各部分をして一組織の発達を遂げしめざるべからず。哲 学の必要なるこれと同じく、初め簡単なる酋長政府の起こるは古代哲学の 起こるにたとうべく、中ごろ各地方庁の起こるは各理学の起こるにたとう べく、ときに地方を統轄する中央政府の必要を感ずるは哲学の必要を感ず るにたとうべきなり。 真理研究の法、これを英国風をもっていうときは実験を本とし、各部門 事物の規則を比較抽象しきたりて各科の理学を組織し、各理学の理法を更 に抽象概括しきたりて哲学を組織す。しかして哲学は、その目的とすると ころ宇宙全体の真理を発見するにありて、その問題とするところは古代タ レス氏が初めて研究に従事するところのものとすこしも異なることなきな り。今、理学と哲学との関係を示せば、なお上のごとし。 イロハニホ等は一個一個の事物を表し、伊呂波は一個一個の事物より抽 象して得たる規則を表す、これ理学の本分なり。しかして甲は各科の規則 26
純正哲学講義 を更に概括しきたりて得るところの宇宙の大理法を表す、これ哲学の本分なり。 これによりてこれをみるに、今日もし理学の研究を廃せば、哲学は古代の有様に立ち帰らざるべからず。なん となれば、哲学がよりてもって研究する材料を供給する道絶ゆればなり。これに反してもしまた哲学の研究を廃 せば、理学は成立することあたわず。なんとなれば、理学のよりてもって実験する原理原則を考定する根本滅す ればなり。かつ哲学なくして理学一方により宇宙の真理を探究するは、なお舟の霧海中に進行するがごとく、舟 の行くはすなわち行くべしといえども、その果たして目的とするところに向かいて進航するや否やを知るべから ざるなり。故にこの二学は互いに相待つものなりと知らざるべからず。しかして理学の研究するところは主とし て各部分の理法を考定するにありて、哲学の研究するところは主として全体の理法を論定するにあるなり。これ においてか、スペンサー氏のごときは、 理学は部分の学すなわち部分を統合する学 哲学は全体の学または統合の学すなわち全体を統合する学 なりと定義を下せり。これ外界より理学に対して与うるところの定義なりとす。
第二段 哲学の分科および純正哲学の位置を論ず
前段において哲学の定義を講述し終わりたれば、これより一歩を進め、哲学中に種々の学科の起こるはいかな る理由あるによるかを講明すべし。この問題は、さきに哲学は思想の学なりという定義によりて説き明かすもの とす。およそ学問には必ず研究の相手とするところのものありて、一学科中の諸分科もまたこれより起こるもの 27とす。すなわち哲学の相手とするところのものは心なり、また神なり。しかしてこの二者は共に無形なり。故に 哲学は無形の学なり。しかして心は形なしといえども、象なしということを得ず。すなわち時々刻々、吾人が心 面に浮かびきたるところの念想は、心自らが明らかにこれを知るなり。故に心は無形にして有象なるものなり。 しかるに神に至りてはただこれを思うのみにして、なんらの象あることなし。あるいは有神論はこの山川草木、 禽獣虫魚、みなこれ神の現象なりと説けども、これ物の象にして神の象にあらず、もしくは神の間接の象たりと するも、決して神の直接の象にあらず。すなわち神は無形にして無象なるものなり。この無象につきて研究する は純正哲学にして、有象につきて研究するは心理学なり。純正哲学は神の本体すなわち神体につきて研究するも のにして、普通に唱うるところの神にあらず。普通の神は吾人のごとき形相を有するものと思いおるが故に、と もすれば神の出現せるにあいたりとか、神の宣告を受けたりとか、種々奇怪の談あるなり。けだし神の思想も次 第に変遷しきたりて、初めは神は真に形質ありと思い、つぎには現象のみありと思い、つぎには全く無象なりと 考うるに至れり。これカント、へーゲル等の卓越なる大哲学者の説なり。故にこの無象の神は、かの普通の神に 区別して、理体もしくは理想と称するなり。 更に考うるに、神の体のみひとり無象なるものにあらず、心の体も物の体もまた無象なり。故に心理学は心体 の学にあらずして心象の学、理学は物体の学にあらずして物象の学なりとす。すなわち心理学は喜怒苦楽の情感 や、思量弁別の智力や、決心断行の意志につきて研究するもの、理学は吾人の五官を刺激する有形物象につきて 研究するものとす。これをもって心物共にその体のなんたるを研究するにおいては、純正哲学の範囲内において せざるべからず。これに至りて諸君は、一大疑問のその脳中に起こりたるならん。そは物質は物の本体にあらず 28
純正哲学講義 して現象なりということ、これなり。吾人が見聞知覚するところの物質の外に本体ありということは、容易に解 すべからざることにして、むしろかかる道理あるべからずと思うならん。これ余が一応その弁明をなさざるべか らざるゆえんなり。今諸君この机を見れば明らかにその存在を認むるなれども、机の外に別に机の本体について はなにものをも認めざるべし。それしかり。しかりといえども、試みに思え、諸君がこの机を机として認むるは なにによるか。すなわち諸君の触官はこれに触れて抵抗、寒温を覚え、視官はこれをみて光沢、形色を覚え、こ れをたたけば聴官に音声を覚え、これを嗅げば嗅官に香気を感じ、これをなむれぼ味官に甘苦を感じ、もってそ の存在を認むるなるべし。もしこの五官なくんば、なにによりてその存在を認むるを得んや。換言すれば、この 五感にて感得するものを次第に除却せば、ついに机なきに至らん。すなわち机の机たるは、この五感すなわち感 覚の所成ということを得べし。物には本来形象を具有するにあらず、物が心に触るるか心が物に触るるか、いず れにしても物と心と相触るるその間に生ずるところの形象にして、この形象は物心いずれの本具真相にもあらず。 ただこれを主観の方においていうときは心象にして、客観の方においていうときは物象なり。これをもってこれ をみるときは、通常吾人がいわゆる物なるものは、これ物の本体にあらずして現象なることを知るべし。しかし てその現象は、その根源なきに偶然に生ずるものにあらずして、必ずこれを生ずるその本体なかるべからず。こ れ物象の外にこれが本体ありというゆえんなり。論者あるいはいわん、吾人が感覚するところのそのまま、これ 物なりとしても不可なかるべしと。しかれども試みに思え、同一種の人類にしてその人異なるときは、感覚また 同じきを得ず。その人同じきもその身体の事情、少時と老時と相異なり、また身体中の部位異なるときは、その 感ずるところまた異なり、すなわち唇頭指先に感ずるところと、手背足蹟に感ずるところと異なるのたぐい、こ 29
れなり。また身体中の部位同じきも、その部位の事情異なるに従い、その体熱、疲労等の事情を異にするときは、 平時に異なるの感を生ず。これをもってこれをみるときは、だれの感ずるところはこれ外物の真情にして、また いずれの時、いずれの部に感ずるところはこれ外物の真情なるやは、得て知るべからざるなり。また空間の遠近、 時間の長短等の感想も、生物の種類に従い、また人類中にても、高等に発達せるものと発達のなお低きものとに 従い、また一個人につきても年齢の老少、経験の多寡、職業の性質等に従いて相異なるなり。たとえば一里の道 程を行くに、少時においてははなはだ長き感をなすも、壮時においては格別の長途と思わず、老人の一カ月と小 児の一週とは、ほとんど同様に感知するものなり。これをもってこれをみれば、いかなる生物の感知するところ はこれ真なるか、なにほどの年齢のときに感ずるところはこれ真なるか、得て知るべからざるなり。ただ吾人人 類はその神経の組織ほとんど相同じきをもって、相類する感をなして相怪しむことも少なしといえども、その神 経組織の吾人よりも進化せざるところの魚介昆虫に至りては、もとより吾人と同一の感あるべからざる理由なり。 また吾人人類にても今より数十倍の進化発達を遂ぐるに至らば、その感ずるところ今日よりも数等完全を得るに 至るべきは、理のまさにしかるところなり。故に吾人の世界を解すると、鳥類の世界を解するとは、はなはだ相 異ならざるべからず。もし他の遊星界に人類の棲息するありとせんか、彼らの解するところと吾人の解するとこ ろと、果たして相同じきや否やを知るべからず。釈迦仏のこの世界をみると、吾人のこの世界をみるとは、苦楽 清汚の差なきを保すべからず。故に曰く、吾人が日常見聞知覚するところの物は、これ物の真情すなわち物の実 体にあらずして、その現象なるを悟らざるべからず。いずくんぞ感覚するそのままが、これ物の真情なりという ことを得んや。吾人の感覚思想はなお不完全にして、いまだ物の真情を洞見するあたわざるなり。すでに物象の 30
純正哲学講義 外に物体あるを悟らば、心象の外に心体あるゆえんを悟り得べし。すなわち純正哲学において考究するところは、 神体および物心両体の三無象、これなり。 以上、神、物、心の三体はもと無象なるが故に、これが研究の法は少しも実験によることを得ずして、純粋に 思想すなわち論理によりて推究せざるべからず。故にこの三体につきて研究するところの学、これを純正哲学と いう。しかるにかの心理学のごときは、もと有象のものを研究するが故に、実験に訴うることを得べし。すなわ ち吾人が心頭に現出する諸種の心象を彙類して、感情、智力、意志の三部に分かつがごとき、これなり。故にこ れを実験哲学という。つぎに学問には、理論を・王とすると応用を主とするとあり。理学にもただ物象の原理を探 究するところの物理学および純正化学と、これが原理を実際に応用する方法を講義する器械学、製造学等の応用 理学との別あり。実験哲学においても、単に心の現象およびこれが規則を探究する心理学と、その心理の研究に 得たる原則を応用する倫理、論理、審美、および教育の諸学との別あり。すなわち倫理は意志の応用を論じ、論 理は智力の応用を論じ、審美は情感の応用を説き、教育はまたこれら諸学の理法を人間発達の上に応用するもの なり。右、心理、論理、倫理、審美、教育等は一個人の上につきて研究するものなれども、この外に衆人結合の 上につき研究するところのものこれあり、社会学これなり。社会とは一団の衆人が協力、分業の組織をなせるも のをいい、この社会が一段進歩して政治上の組織機関を有するに至れば、これ国家なり。社会学はかく衆人結合 の現象につきて研究するものなるが故に、また実験哲学中に入るるべきものなり。しかしていまだその応用を論 ずるものにあらざるが故に、理論部に属するものなり。しかるにここに一疑問あり、そは社会はすでに吾人の視 聴に触るる実形を有するものにて、なおこれを一個の有機物とみなすべきものなり。すなわちこれを有形学たる 31
理学の部門に属せしむる方適当なるがごとしという、これなり。しかれども有機物の四肢百体のごときは、その 各部分みな有形の筋肉をもって相連接しおれども、社会はただ人と人との関係によりて連接するものにして、そ の関係は各人の意識上の約束等にして、無形の連絡なり。かつその現象のごときも無形の精神より発するものな れば、これを研究する学はもとより哲学に属さざるべからず。しかしてその応用科は政治、法律、経済等の諸科 なれども、これまた各理論のみを研究する部分と、応用のみを研究する部分あり。すなわち政治学にありては政 理学と、法律学にありては法理学のごとき、これなり。 すでに実験哲学に理論、応用の二部門ある以上は、これを推して純正哲学にもこの二部門ありと考うるなり。 理論の部門において研究するところのものは、物、心、理の三体なることは、さきに弁明するがごとし。しから ば応用の部門にはいかなるものあるかというに、すなわち物心理三体につき研究して得たる原理を、直接に応用 するものならざるべからず。しからばその原理をば那の辺に応用するかというに、これを人心の上に応用しきた りて宇宙万有の真理を了悟せしめ、心を安んじ命を立てしむる、これなり。およそ一理論あれば、必ず一応用な かるべからず。純正理学の応用には器械学、製造学、あるいは農工の諸学ありて、厚生利民の実用を遂げ、実験 哲学の応用の部には倫理、審美、論理、教育、政治、法律、経済等の諸学ありて、人間の品位を高め、智力の程 度を進め、社会の安寧を保つなり。しかして純正哲学の理論は、これを人心の上に応用して脱苦得道せしむるも のとす。換言すれば、吾人の霊魂をして静平安楽ならしむるものとす。しからばすなわち応用中の最も高尚なる 位置を占むるものにあらずや。この高尚なる一大応用、これをなんとなすか。曰く、宗教これなり。論者あるい は難じていわん、泰西の国その哲学あるはギリシアに始まり、ソクラテス、プラトン、アリストテレス三氏のこ 32
純正哲学講義 ときは、その説やや高尚玄微に達すといえども、いまだこれを応用して世にそのソクラテス宗、プラトン宗、ア リストテレス宗なるものあるを聞かず。ことに近世に及びては哲理の思想勃然として換発し、イギリスにおいて はベーコン、ヒューム、スペンサーの諸氏あり、フランスにおいてはデカルト、コントの諸氏あり、ドイツにお いてはライプニッツ、カント、へーゲル、ハルトマンの諸氏あり。その説、幽微玄妙いよいよ出でていよいよ精 なりといえども、いまだ諸氏の宗教あるを聞かざるなり。しかして宗教は別にヤソ教のあるありて、哲学と宗教 との区域もっとも判明なり。哲学諸家にはいまだその応用の宗教あらずして、キリストの教えはこれ哲学の上に 構成せるものにあらず。すなわち宗教はもとより宗教にして、その宗教たるべきゆえんの性質をもって構成し、 哲学はもとより哲学にして、哲学たるべきゆえんの性質をもって組織せり。二者の性質、二にして一ならず、な んぞ哲学の応用はこれ宗教なりということを得んやと。それしかり。しかりといえども、これ西洋の一方を見て いまだ東洋の一方を見ず、目を一隅の上に注ぎていまだ世界の上に注がざるものなり。そもそも泰西人のもって 宗教となすところのものは、天啓もしくは啓示によりて立つるところの教えを指す。しかるに哲学はもっぱら思 想上に宇宙の真理を研究するをもって職分となす故に、哲学者はその神子の宣告と説き、神使の予言と談ずるを もって妄誕不経となし、次第に攻撃破砕してほとんどその根拠を失わしめんとす。これをもって西洋哲学はむし ろ宗教の構成を破壊するの傾きあるも、その原理をもって宗教を生み出すところの母たること、あたわざるもの のごとし。宗教もまた哲学を忌避し、はなはだしきはこれを損斥するの勢いありて、いまだ自家所依の原理を哲 学中より求むるがごとき親密の関係は、すこしもこれあらざるなり。故に西洋今日の宗教は、決して哲学研究の 成果すなわち哲学の応用ならざるは明らかなり。しかるに眼を一転して東洋の仏教を観察するときは、明らかに 33
哲学を応用せるものなることを知るなり。仏教の起こるや、始め釈迦仏が一九出家して入山学道し、一二年の久 しき苦行難行を忍び、深思淵考、一旦裕然として大悟するところあり。宇宙の真理洞然として了得し、これを衆 生に説法せるもの、これを仏教となす。すなわち仏教はこれ釈迦仏、哲理研究の成果を人心上に応用せるものに あらずして、なんぞや。しかして前にのべたる物、心、理の三体の原理は、歴然として一仏教中に応用せらるる を見るなり。請う、いささかこれを弁ぜん。それ仏教の哲理を解くや有、空、中の三段に分かる。その有宗には 倶舎のごとき小乗教あり、その空宗には法相のごとき権大乗教あり、その中宗には天台、華厳等の実大乗教あり。 倶舎の説くところは法体恒有と立て、すなわち宇宙万有の本体をもって実在となすものにして、わがいわゆる物 体なり。法相の説くところは阿頼耶縁起と立て、宇宙万象本来空なれども、ただ心識の一源より開発するところ となすものにして、﹁森羅万象はただ識の変ずるところなり。﹂︵森羅万象唯識所変︶となす。その阿頼耶識はわがい わゆる心体なり。天台の説くところは万法即真如、真如即万法と立て、非有非空の中道を開示す。その真如はわ がいわゆる理体なり。これをもってこれをみれば、一仏教中、物心理三体の原理を具有して欠くるところなし。 これを応用して倶舎、法相、天台等の諸宗を生ずるなり。かくのごとく哲学と宗教との関係至って親密近接にし て、宗教は純正哲学の応用なりというを得べし。これ泰西の諸学諸教において、いまだかつて見ざるところな り。 論じてここに至れば、更に一難を起こす者あらん。曰く、東洋学教の関係はすでにこれを了せり、しかるに西 洋学教の関係これと相齪酷するものなんぞや。もしその関係の親密なること、ひとり東洋諸国に行われて西洋諸 国に行われざれば、いまだ世界普通の道理としてこれを信認するあたわざるなりと。余はこの惑いを解かんため 34
純正哲学講義 に、再び学教の性質を複説するのやむを得ざるに際会せり。それ学教の相差異するところの性質は、哲学は真理 を未来に期し、宗教は真理を既定となし、哲学は疑をもって起点となし、宗教は信をもって起点となす。しかれ どもこの二者必ずしも永くその位置を保つものにあらずして、研究の結果に真理を了得し、しかるのちこれを人 心に応用すれば、すなわち哲学変じて宗教となるなり。釈迦の宗教すなわちこれなり。しかるに西洋の哲学は、 甲説これに起これば乙説かれに起こり、ないし丙、丁、戊、己、競起対立して相弁難攻撃し、たとえ師説を継ぐ と称するも、その欠点を発見してこれを修補するをもって務めとす。これ西洋哲学がいまだ一定不変の真理に到 達せざるものにして、もし釈迦のごとき卓越非凡の大聖哲の出つるありて諸説を統合し、もって一大真理を発明 するときは、必ずやその原理を人心上に応用して、一大宗教を構成することあるべし。釈迦のごときも、いまだ 一学の興起せるものあらざるの場合に突然としてあらわれたるものにあらずして、釈迦の当時すでに数十種の外 道ありて、それらの学者、相弁難攻撃せりという。なんぞ西洋の今日の哲学、諸説紛々いまだ統一するところあ らざるに似たるなからんか。すなわち一大哲学者のこの間に起こりて諸説を統合するは、それちかきにあるか、 またとおきにあるか、けだし早晩これを見ることあらんことを予想し得べし。しかしてその起こるや西洋にある か、また東洋にあるか、余はその東洋に起こらんことを希望するものなり。今や西洋にありてもすでにヤソ教の 時勢に適せざるを知りて、哲学者はみな哲学上の道理に基づきて新宗教を組織せんことを務むるにあらずや。か くして他日、西洋の宗教上に大変動を生ずるに至らば、必ず哲学的宗教すなわち純正哲学の応用に属する新宗教 を見るに至るべし。しかるに東洋にありては三千年前釈迦すでにこの革命を実行したるも、今日また東西両哲学 を統合して、一大革命を全世界の宗教上に宣告するの時運に会すというべし。西洋の哲学者は、すでにこの目的 35
に向かいて準備に汲々たるを見る。わが東洋の学者も、あに徒然として傍観するのときならんや。余、更に宗教 と哲学との関係の密切なるゆえんを左に述ぶべし。 そもそも宗教には道理を本とせずして信仰を本としたるは、当時の人民その智力劣等にして、これに説くに高 尚深遠の理義をもってするも、聾のごとく唖のごとく、少しも解するところあらざるべし。キリストの当時のご ときも、人民知識の程度は神をもって有形有意と思いて、これを信受せしむるに適するのときなりしなり。故に キリストをもって神の子とあがめ、その説法をもって神の啓示なりと信ぜり。しかるに西洋諸国、一六世紀以後 理学の進歩著しく、人民の知識大いに発達し、またキリスト当時の人民にあらざるなり。そのなお今日に隆盛な るがごとき観あるは、千数百年来習慣の勢いしからしむるもの多しとす。人民すでにしかり、いわんや深大なる 思想を有する哲学者においてをや。間々社会の習慣にはばかりてこれを弁護するがごときものありといえども、 そのいわゆる神なることばはヤソ教のいわゆる天神を指すにあらずして、非物非心の理体を意味するもの多し。 その義むしろ仏教所説の真如に近し。今更に一歩を進めて哲学の変じて宗教となるゆえんをのべんに、まず個々 の哲学者に観察を下すを可とし、哲学者はもとより疑をもって起点となすといえども、ついに疑をもってやむも のにあらずして、その研究の窮極するところは、自ら厚くこれを信ずるや、もちろんなり。その懐疑派の哲学者 が万事万物の有無を疑中に没了するも、懐疑そのものの真理なりということは自ら厚くこれを信ずるものといわ ざるべからず。学問の目的は吾人の疑を解きて信に帰するにあり。故に個々の哲学者はその研究の究極に至れば、 自家の哲学は変じて自家の宗教となりてやむなり。もしその説の衆人に信ぜられて教会的外形上の組織をなすと きは、すなわち厳然たる一宗教となるものなり。フランスのコントの人間宗を創立せるがごとき、これなり。西 36
純正哲学講義 洋哲学はなんぞその応用の宗教となりしものあらずといわんや、コント宗のあるあり。往者モーゼおよびキリス トのごとき一宗教を構成せるものも、ただ厳粛なる哲学組織の上に立てたるものにあらずというまでにて、やは りその当時相応の思想により天神の実在を発見し、もってこれを人衆に説示したるものにして、また一種の哲学 思想の上に建立せるものといわざるべからず。ただこれを今日の哲学に比して精粗、完不完の差あるのみ。 更に顧みて仏教上をみるに、世間に一難を起こす者あらん。すなわち仏教は哲学なるか宗教なるか、仏教をも って哲学となすときは東洋に宗教なきなり、もし宗教となすときはこれ東洋に哲学なきなりと。余はこれに答え ていわん。仏教はもとより宗教なり、しかれどもそのよりて立つところの原理は、これ哲学よりきたれるなり。 故に仏教部内に入りてその原理原則のなんたるを研究し、あるいは自宗所依の理論と他宗所依の理論とを比較判 論するときは、これ哲学なり。二者の関係もっとも緊密なるものとす。西洋の教学二途相乖膜するに似ざるなり。 論者あるいはいわん。釈迦すでに諸派の外道を伏して一大真理を閲明すといわば、なんぞ一仏教中に有、空、中 の三宗相分かれてその理義を異にするや、釈迦の発明するところいまだ尽くさざるところあるか、そもそも後人 の釈迦の真意を解釈するに、その意見おのずから他岐に分かれたるにあるか、はなはだ惑いなきあたわず。また 仏教は哲学の原理に基づきて組織せる宗教となすときは、哲学と共に世の進歩に応じて変遷せざるを得ざるべし と。余はこの点につきては、東洋哲学を講ずるに及びて詳述するところあるべしといえども、今その要点のみを 摘示せんとす。およそ釈迦につきての見解に大体二様あり。9は種子としてこれをみると、⇔は成木としてこれ をみる、これなり。成木としてこれをみるは、万理をその表に備えつくすとなして、これを観察し講明するにあ り、種子としてこれをみるは、万理をその内部に含み蔵すとなして、これを開発し顕揚するにあり。換言すれば、 37
仏教の全理は釈迦の説法中に顕勢力となりて存するか、潜勢力となりて存するかにあり、畢寛釈迦をみるに、余 は表裏内外の両面よりするものなり。 これまでの宗教家の考えにては、その宗祖はすでに宇宙の真理を説き尽くしたるものにして、もはやこの上に 一歩を進むることあたわざるものとせり。これ宗祖の所説をもって成木とみなし、かつ顕勢力となりて外部に発 示せるものとみなして考うるものなり。しかるにまた別に宗祖以来の変遷発達につきて論ずるときは、宗祖の所 説をもって種子とみなし、潜勢力とみなすことを得るなり。すでに種子として考うるときは、これを培養し発達 せしむるところの任は、現今および将来の宗教家にありといわざるべからず。しかれども、もし宗祖所説の大本 と相異なるものを唱うるあらば、これ発達にあらずして変革といわざるべからず。そもそも発達なるものは、な お桃の種子を培養して桃の成木を見るがごとく、その状態は種子と成木との相異を見るといえども、桃の桃たる ゆえんは少しも異ならずして、ただ桃の状態が内に潜蔵してあるものを開発して、これを外に顕出せしむるのみ。 植物を発達せしむるには肥料を要するがごとく、宗教を発達せしむる、またこれが材料を要す。しからば今日の 材料とすべきものはいずれなるかというに、科学これなり。しかれども、もし科学の一方に偏するときは学術に 傾き、実際の用を示さざるに至る。換言すれば、宗教の性質を失うに至る。これ大いに注意せざるべからざる要 点なりとす。それ理論の要素は疑にして、実際の要素は信なり。もし信の要素を棄却して疑の要素のみを採用す るときは、社会の状体は破壊に赴きて結合の実なきに至るべし。これと同様に、宗教も理論としてその真理を講 究するには疑をもってせざるべからずといえども、これを実用して安心を定むるに至りては信を本とせざるべか らず。その真理研究の一方にありては、宗祖は真理の種子を与えたるものなれば、諸種の科学の培養によりてそ 38
純正哲学講義 の発達を期せざるべからず。また応用の一段に至りては、宗祖の言語中に真理の全分を開顕し尽くせりとみなし て、一心にこれを信ぜざるべからざる理なり。 以上は宗祖の所説をみるにつき両様あることをのべたるが、これより両様を結合したる上につきて余が考えを 述べん。それ釈迦は宇宙全体の真理を見透して広大無辺の思想を有したる者なれども、世人をしてその己の悟る ところと同様に悟らしめんには、当時世人の知識はこれを了悟し得べき程度に至らず、故にやむをえずその了悟 し得るだけの程度に応じ、その思想界の一小部分を説示せる者なり。人の思想は通常の考えにては言語および文 章の力に頼りて、ことごとくこれを伝達し得るものとなせども、その高妙なる思想は到底言語道断、言亡慮絶と いいて、言語文章によりて発表しあたわざるものあり。すなわち吾人も、﹁言うに言われぬ﹂ことのあるを自ら経 験して知るものなり。いわんや釈迦が広大の思想においてをや。その当時の言語文章をもって、ことごとくみな これを説示しあたわざるや必せり。もし向後幾千万年にして言語文章の完全に発達せしならば、始めてこれを了 悟するの位置に進むべきか、その次第に研究を積み、一歩一歩進みて釈迦の大思想に体達する、これを発達とい う。この発達はやはり釈迦所説の大思想を一部分ずつ開発するものにして、その進歩はすなわちこれに達する階 級たるのみ。従来仏教家は一段に想定して曰く、釈迦の所説は真にその発見の大真理を十分に開示せるものなれ ば、そのままこれを世間に伝え、更にその発達改良を加うるを要せずと。これ保守的の考えにして、釈迦を成木 とみなせるものなり。また釈迦の所説は古代の説にして、今日の道理に適合せざるものあれば、よろしく今日の 学理に照らして新研究をその上に加え、多少の改良発達を図らざるべからずとするものは、これ進歩的の考えに して、釈迦は真理の種子を与えたるものとなす論なり。しかるにここに結合折衷的の考えをなすときは、釈迦の 39
思想は完全円満なるものなれども、その言語文章によりて今日に伝うるものはその大思想の一部分に過ぎざれば、 我人はこれを開発してその全部分に体達せざるべからずとなすにあり。語を換えてこれをいえば、釈迦の思想は 主観上にありて完全にして、客観上にありて不完なりとなすにあり。左にその理由を説明すべし。 吾人の思想は主観上にありて最大完全なるも、これを実際に当てはめんとするには、必ずこれが制限を受けざ るを得ず。これたとえば、吾人は心内に純全の円形を想像するを得るも実際にはこれをえがくを得ず、吾人は神 通自在に宇宙を朝翔するの想像をなすことを得るも実際には地上数尺の上にだも朝翔することあたわず、吾人の 想像は空中に楼閣を築くことを得るも実際には一礎だも空中に置くことあたわず、人の思想の実際上において制 限を受くるや、かくのごときものあり。釈迦もその広大無辺の思想を実際に当てはめんとするに際し、当時の言 語文章に制限せられて、ことごとくこれを顕示するあたわざるの事情あり。しかるに不完全なる言語文章により、 わずかにその一小部分を開示したるものをもって釈迦の思想ここに尽くせりとなすは、釈迦をみること小なるも のにして、またこれによりて釈迦の思想ははなはだ不完全なるものとするは、釈迦をみること深からざるものな り。 以上陳述するところによりて、純正哲学と宗教との関係を大略了得すべしと信ず。これより純正哲学と諸学と の関係を約言すべし。純正哲学は哲学中の哲学、無形学中の無形学、統合学中の統合学にして、万学の宗帰なり。 余はさきに哲学をたとえて中央政府のごとしとなしたるが、その比較をとるときは、純正哲学は中央政府中の内 閣に該当するものというべし。しかるに世間一派の理学者は、ともすれば宇宙万象は理学上の研究をもって説明 しつくすことを得るものとなし、純正哲学をもって無用の学と考うるなり。また哲学中の実験心理学の研究を主 40
純正哲学講義 とする者もまた、心は現象の外に一も知るべからず。その心体を論ぜんと欲する純正哲学のごときは、畢寛空想 の学なりとなすなり。これ地方政府あれば、別に中央政府の必要なしとするもののごとし。しかるに地方政府の 必要あればあるほど、中央政府の必要あるがごとく、諸科の理学の必要あればあるほど、また純正哲学の必要あ るものなり。また八省あればこれを統一する内閣を要するがごとく、哲学の各科ここに備われば、これを統一す る純正哲学の一層必要を感ずるものなり。 いにしえの哲学は憶想的、独断的にして、なお圧制政府が地方の事情をもくみ取らずして政令を発するがごと くなりき。しかるに今の哲学は、諸学において供給するところの原理を帰納的に総合して論断を下すなり。なお 文明政府の、地方の事情をくみ取り、ここに全体の方針を定めて政令を発するがごとし。なにをもって諸学の原 理を総合せざるべからざるかというに、諸学において探究するところに一任すれば、到底宇宙全体の真理を発見 することあたわざるが故なり。たとえばテーブルを各面において探り、他面を顧みざるがごとし。傍面につきて これを探れば、長さは二尺ばかりにして、そこには引き出しの設なし。前面につきてこれを探れば、長さは三尺 ばかりにして、引き出しの設あり。更に後面においてこれを探れば、長さはやはり三尺ばかりなるも、別に引き 出しの設なし。もし各面一方において探り得たるところをもって机全体の形状なりと憶想せば、あるいはこの机 は長さ三尺にして引き出しなしとするものあらん、あるいは長さ二尺にして引き出しなしとするものあらん、あ るいは長さ三尺にして引き出しありとするものあらん。そのいずれが真なるを知らず。これをもって机における 真の形状を知らんと欲せば、各面において探り得たる形状を総合して、しかるのちに机全体の形状を知り得べし。 すなわち各面的研究の外に、全体的研究を要するなり。学問もまたこれと同じく、各理学は宇宙の各部を研究す 41
るものにして、更に宇宙の全体を知らんと欲せば、純正哲学の必要欠くべからざるゆえんを知るべし。 今一つ純正哲学における必要なる点は、諸学の原理を総合したるのちに更に諸学に向かいて規則を与うる、こ れなり。一例を挙げてこれをいえば、諸学において研究の縄墨となるべきものは因果の規則なり。しかしてこの 規則は哲学中の論理学が諸学に向かいて給与するところの規則にして、またその規則の原理を論定するものは実 に純正哲学なり。 アリストテレス氏の哲学において形、質の二義を論じてより、哲学者これを述ぶる者多し。その形質というは、 たとえば樹木において、その形は本来種子中に備わるものなれども、そのこれをみたすゆえんの質は、外部より きたるとするなり。もし種子中に本来桃たり梅たりの形を備うるものにあらずとすれば、桃種より梅樹を生じ、 梅種より桃樹を生ずることもあるべきはずなるに、そのしからざるゆえんのものは、その種子中すでにその原形 を備うればなり。しかれどもその体質は外部より入りきたりて、これをみたすものたり。純正哲学においてもそ の純正哲学たるべき原形は本来存するものなれども、これが体質は理学よりきたるものたり。理学においてもそ の原形は本来固有なれども、その体質は感覚によりて得るところの諸種の経験よりきたるものとす。しかるに感 覚なるもの、もし虚偽にして信ずるに足らざるものなりとせば、理学は得て成立せざるものとす。よしやこれを 構成するも、虚偽なる体質によりて成るものは、すこしも信用するに足らざるものとなるなり。しからば感覚は 果たして正確なるものなるか否やという研究に至りては、理学自らは決してこれを定むるの力なし。なんとなれ ば、感覚の真偽を断ぜんとするも、やはり感覚によりて得てきたる実験上の知識をもってするの外なければなり。 もしこれをもってかれを検定せんとなさば、なお同種の二本の尺︵ものさし︶ありて、その一本の尺の正否を判 42
純正哲学講義 ぜんとせば、他の一本の尺をもって測るがごとく、到底なしあたわざるところなり。しからば人間の感覚の正確 なるものなるや否やは、何学においてこれをなすかというに、純正哲学においてこれをなすものなり。純正哲学 において感覚は正確なるものなりと許可するにおいて、理学は初めて十分の力をたくましうすることを得べし。 また理学の原形ともいうべき因果の法則の果たして正確なるものなるや否やも、純正哲学においてこれを定むる ところのものなり。理哲両学の相待つや、かくのごときものあり。しかるに人はその従事するところに従って重 要とするの感情強きものなるをもって、哲学者は哲学の外に理学の必要なしと思い、理学者は理学の外に哲学の 必要なしと思い、しかしてその相より相助くる、かくのごとく緊切なるところあるを知らざる者あり。故にみな 偏僻の論といわざるべからず。それ果たして不必要なるものならんか。暫時の間は世に成立することを得べきも、 永く成立することの得ざるべし。しかるに理哲両学の両々相待ち永くこの世に成立するを見ても、その果たして 必要の学なるを知るべし。 つぎに実用上の関係につきていささか弁ぜざるべからざるもの、これあり。そは諸学諸術の人身にもっとも近 接なるものの早く社会に用いらるること、これなり。すなわち医学のごときはただちに肉体の存亡に関するもの なる故に、もっとも早く世人に歓迎せられ、そのこれにより得るところの利益ももっとも多しとなす。つぎには 衣食住の供給者なり。これ生命を保護するゆえんの重要物たればなり。哲学のごときは、ともすれば世人に空疎 迂潤の学術とみなされ、遁世者のもてあそぶべきものなりと考うるもの多し。けだし哲学を研究するも、もって 寒暑をふせぐに足らず、もって飢渇をみたすに足らず、もって病苦をいやすに足らず、人生においてなんらの実 用なきもののごとくなるをもってなり。しかれども哲学をもって空疎迂潤の学となすこそ、真に空疎迂潤の考え 43
学問 理学︵有形学︶ 哲学︵無形学︶
{#
︵これを略す︶ ︵これを略す︶ 実験哲学︵有象哲学︶ 純正哲学︵無象哲学︶理論霧
論理学
審美学
倫理学
応用 教育学法律学
経済学
政治学
∴饗
44純正哲学講義 なりとなさざるべからず。これ身をもってもっともわれに近しと思うものにして、いまだ心のもっともわれに近 きを思わざるものなり。しかしてこのもっともわれに近き心を研究するの学は、すなわちこれ哲学なり。しかる に心はもと無形にして、これが研究の結果を応用するところの事実また無形にして、理学の研究を応用する事実 のごとく形体を備うるものにあらざるが故に、世人これが実際を知らざる者は、空疎迂潤なりと速断するを免れ ず。しかるに哲学の応用は、論理となりて論弁の形式を与え、審美となりて美情を喚起し、倫理となりて行為の 紀律を示し、教育となりて能力を開発し、宗教となりて安心立命の法を得せしめ、この他、法律となり、経済と なり、政治となり、社会の秩序を保ち、その富強をたすけしむ。その功効顕著にして、理学の功果と相伯仲す。 哲学、あに空疎迂潤の無用学ならんや。これにおいてか、学問の全系を示し、斯学の位置を了知せしめんと欲 す。 以上すでに純正哲学の位置を論定したれば、これに続きて古今数大家の哲学分類を挙げ、ならびに哲学上研究 すべき諸問題を示さんとす。まずギリシア古代哲学において、アリストテレスはその哲学を理論と応用の二部に 分かち、その理論部においては論理、物理の諸学を論じ、応用部においては政治、経済、倫理の諸学を論ぜり。 近世哲学において、べーコンは万有と人間と神との三者を哲学の問題とし、デカルトは物、心、神の三者を研究 の目的とし、ヴォルフはその哲学を実体哲学即物体哲学と、心理学即心体哲学と、宇宙哲学と、神理学即神体哲 学との四大部に分類せり。カントの批判哲学にては純粋道理批判、実際道理批判、断定批判の三大部に分科せり。 これけだしアリストテレス哲学の組織によるものにして、すなわち理論と実際とに分かちたるものなるが、世間 往々理論と実際と相合せざるものあるが故に、第三部断定批判を説きて、理論と実際の二者を結合せるものなり。 45
カントの学を継承してこれを大成せりと称するところのヘーゲルは、その純理哲学において画然、論理学即理想 哲学、心体学即心体哲学、物理学即物体哲学の三大部に分論せり。しかるにスペンサーはその哲学を可知的論と 不可知的論の二大部に分かち、その心体といい物体といい理体というがごとき無形無象のものは、吾人が相対知 識の圏外にあるものとして、不可知界に一括して深く論究せず、その可知界の現象をば、進化の大法に支配さる るものとして、これを論定せり。哲学原理に説くところのもの、すなわちこれなり。しかしてその進化の順序に 従い、まず生物学を著し、つぎに心理学、つぎに社会学、つぎに倫理学に及ぼせり。これをスペンサーの哲学の 五大部と称す。 このほか古今の哲学士が著すところの書は、その意見互いに異なるものありといえども、その問題とするとこ ろは、畢寛、物、心、理の三者に過ぎず。これ余が純正哲学において論究するところのものはこの三者にして、 その分類もまた、したがってこの三者に分かちたるゆえんなり。しかれどもこれ大体の分類にして、この三者を 論究せんとすれば、なお時間、空間、勢力の三者を解釈せざるべからず。すなわちこれが性質、および三者が物 に属すべきものなるか、また心に属すべきものなるか、そもそも独立自存するところのものなるかを究明せざれ ば、物、心、理の三問題においてもまた分明せざるところあるなり。このほか人間の大目的の有無、その目的の なんたるを論ずるもまた純正哲学に属す。しかして究寛するところは人間生命の大法なり。この大法を応用して 安心立命を講ずるもの、これ宗教なり。故に宗教は純正哲学の応用となすなり。 46