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欲望のエネルギー論 (その8)

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欲望 のエ ネルギー論

(その 8)

石 里 小 工日 13.欲 望 の軌跡 一 一 販 路の伸長 と世界 史的編制 十 水の精 「あなたが池 に落 としたのは, この金の斧ですか ?」 木 こ り 「それです 1」 0 日序 本 論 考 は,社 会 分析 のベース に く欲望 〉を置 くところか ら出発 した (『彦根 論叢 』 第306号)。 ここにい う く欲 望 〉 とは,人 々 に さまざまな行 為を起 こさせ る,人 間の基本 的 な “エネルギー"で あ り,人 類の歴史に普通的な存在である。 そ して く貨 幣 〉 とは,こ の く欲 望 〉が集合 的 な メカニズ ム を経 て転化 した “ 欲 望 の外 部 媒 体"で あ る ,と い う解 釈 を,わ れ わ れ は採 用 した (同 307号 , p.179)。貨 幣 は,欲 望 の媒 体 と して 人 間 関係 に介 入し,そ れが貨 幣 との交換 に よつて獲 得 され る対 象 ,す なわ ち く商 品 〉を生 み 出す (同 310号,p。106)。 つ ま りこれ らの生成 関係 は,「欲 望→ 貨 幣→ 商 品」 とい う順序 で捉 え られ るわ けで あ る。欲 望 は また,く貨 幣 〉の形 を とらず ,た とえば 〈権 力〉を指 向す る 形 で発 現 す る こ と もあ る (同 310号 ,p.112)。 権 力 もまた,人 間 関係に介 入 して人 々 を服従 させ ,欲 望 を遂 げ よう とす る。 この場 合 ,欲 望 は 「欲 望→ 権 力 →服従」 という順序で発現することになる。く商品〉という形で所望するモノ ゴ トを入手 しようとするか,あ るいは く服従 〉という形で所望するモノゴトを 入手 しようとするか,そ れは欲望の発現形態の違いにす ぎないわけである。

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7 0 彦 根論叢 第 3 2 4 号 「貨幣→商品」の発現形態 に限っていえば,貨 幣が商品を生み出す メカニズム は,商 人たちによる系統的な結合関係 によって支えられている (同 312号,p. 63)。 商人が貨幣 を呈示することによ り,人 々の持つ財が商品 として開拓 され てい く (同 310号 ,p。 111)の である。 この人的結合関係 によって成立す る構 造が く商人機械 〉――具体的にいえば 〈販路 〉―― である。前々稿 と前稿 にお いては,か かる販路がいかなる構造 を持 ち,い かに形成 されるか, という点を 論 じて きた (同 313号 ;320号 )。 販路 は,い ったん拓かれると,貨 幣 とい う 形で欲望のエ ネルギーを運ぶ社会的なチ ャネル となる。 しか もこのチャネルは, 一般 に強い方向性 ・選択性 を持っている。だか ら,そ れは一方を中枢系に,他 方 を末梢系 に編制 して しまう傾 向をもともと持 っているのである (同 313号 , pp.77f。)。 そ して,販 路 のポ リマーを伸長 させる,販 路が拓かれるメカニズム として,成 長因子の “濃度勾配ルとぃ ぅァィデ イアがあることを,筆 者は前稿 で指摘 した (同 320号 ,pp.106f.)。 本稿 では,成 長因子の “濃度勾配"の 歴史的な一例 として,「金銀比価」 に ついて考えてみたい。そ して金 (貨幣)で 測 つた銀 (商品)の 価格 (あるいは その逆)を ,“形態形成素"― 一つまり 〈販路成長因子 channel growth factor〉

と考 え,そ の “濃度勾配"を 手がか りとして,販 路の形成 を考 えてみ よう, と い うことである。 この節 は,そ の意味で,こ れまで論 じてきた 「欲望論」の知見をもって世界 史 を解釈す る,ケ ーススタデ イである。欲望の一般媒体 としての貨幣に着 日し, その大域的 ・長期的な動向を見 ることによって世界史 を 「欲望論」の観点か ら 1 ) 解釈 してみ ようとい うのが本節の試みなのである。 1 ) 本 節 は, あ くまで も, こ れまで論 じて きた理論の立場か らするきわめて大 まかな 「歴史 解釈」 であ り, そ の 「提案」 である。 したが って実証研究の文献 まで詳細 に検討す ること を意図 した ものではない。「実証」 の域 に達す るため には, 別 の厖大 な研究が必要である。

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I 。 金銀比価 の発生 と安定 一一 欲望の対象 としての 一― 金銀比価の前史 まず,金 銀比価 の歴史的動向についてお さらいを してお こう。やや唐突 に思 われるか もしれないが,時 は紀元前 7世 紀以前の古代 オ リエ ン トにさかのぼる。 (a)古代 オ リエ ン トとエ ジプ ト 古代のオリエ ン トで商業活動 を行 っていた民族は多々あるが,中 で も有力だっ たのはユ ダヤ人で,彼 らは有力商人が純度 を保証するあか しとして極印を打 っ た銀塊 を“秤量貨幣"と して用い,こ れが広 く信用 を得 るに至 った。つ ま り古 代 のオ リエ ン トではいわば “銀本位"が 採用 されていたのである。 この銀塊 の 秤量貨幣 は 「シェケル」 と呼ばれ,オ リエ ン トの広域で通用 した。「シェケル」 とは もともと重量の単位 (約14g)で あ り,重 量単位が貨幣名称 として用い ら れるのは秤量貨幣 として出発 した場合 に良 く見 られる現象である (ドラクマ, リブラ,ポ ン ド,ル ーブル等)。 一方,古 代のエジプ トでは,南 方のヌビア地方に産金地を抱え,す でに古 く か ら金が富 と権力の象徴 として採用 されていた。黄金の色は太陽の色 を表わ し, 太陽神 ラーを祀 るエ ジプ ト人にとつて好適 な素材であったことは想像 に難 くな い (フアラオの黄金のマス クを想起 されたい)。ここではおそ らく金が租税 ・ 貢納等の く支払手段 〉として用 い られていた。 金や銀が “欲望の一般対象ルとなる素地は,こ の時代すでに整 っていたので ある。 * ( b ) リュ デ イア王 国 一般 に “貨幣発祥の地"と されているのは,よ く知 られているように,小 ア ジア西部の リュデ イア王国で, ヘ ロ ドトスの記録や実際 に出土する貨幣のサ ン プルな どか ら, 紀 元前 7 世 紀のギュゲス王時代 に鋳造 された, 金 ・銀の合金で エレクトラム 2 ) ある 「琥珀金」の貨幣が最初だと推定されている。ここで初めて, 人 類の歴史

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7 2 彦 根論叢 第 324号 は秤量貨 幣の段 階 を脱 し, 個 数 で取引 され る計 数貨幣が出現 したのであ る。 ところで この 「エ レク トラム」 は, しば しば 「天然 に産する金銀の合金」 と 考 えられ, リュデ イアのエ レク トラム貨 も一般 にはこの 「自然の素材」 をその まま利用 した もの と理解 されて きた。 ところが地質 ・鉱物学の常識では,エ レ ク トラムが 自然 に産す るのはいわゆる 「山金」 (初成の石英脈の中に産す る金 銀)の 場合が圧倒 的 に多 く,山 金が侵食 され川床 に堆積す る二次鉱床 である 「砂金」の場合 には一般 に銀分が溶出 して純金 に近い金 になるものなのである ( その条件下では金 よ りも銀 の方が相対的 に不安定 なため) 。ヘ ロ ドトスの記 録 によるとリュデ イアには砂金が豊富であった という。 とい うことは,リ ュデイ アのエ レク トラム貨 は,実 は純度の高い砂金 に,故 意 に銀 を混ぜて鋳造 した も のであった可能性が高い。 しか し,だ とするとなぜそんなことをしたのか。 も ちろんこれは歴史の謎であるわけだが,可 能性 としては,金 銀 を混ぜ ることに よって金銀比価が発生するのを故意 に避けたのだ,と 推測することもで きる。 けだ し貨幣の基準が金銀 に分裂するのを恐れたのであ り,だ とすればエ レク ト ラム とい う合金 は金銀ふたつの価値尺度 を一元化 しようとした折哀策 (合金本 3 ) 位主義)で あった。だが,そ こには当然,金 銀の混合比が為政者 によって恣意 的 に運用 されるとい う危険がつ きまとう。 これでは信用 を得 るのが難 しかろう ことは容易 に想像で きる。実際,金 銀の混合比 はバ ラバ ラだった。 結局,最 後の王 クロイソスの時代 に至 って, リュデ イアの貨幣は金貨 と銀貨 4 ) に分 かれ, 以 後 , さ まざまな価値 の尺度 が このふ たつ の貴金属 によって別 々 に 担 われ る こ ととな ったのであ る。 2 ) 貨 幣の起源 については, む ろん, 果 説 もある。H . ク レングル 『古代 オ リエ ン ト商人の 世界』山川出版社, p . 2 8 7 。 3 ) 金 銀の合金本位主義論 は, ず っと下 つて近代 のイギ リス, マ ーシャルの時代 にも議論 さ れている。本 山美彦 「貨幣制度論」 ( 本山美彦編 『貨 幣論 の再発見』, 三 嶺書房) , p . 1 2 7 。 4 ) ク ロイソスは史上は じめて純粋 な金銀貨 を造 った王 として知 られている。

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ダ レイオスの威光 一一 金銀比価の起源 十一 リュデ イアのエ レク トラム貨 の試みは挫折 した。ほどな く東方 に勃興 したア ケメネス朝ベルシアは, 2代 目の王キュロス 2世 の時代,小 アジアに軍 を進め “ 貨幣発祥 の地" ・リュデ イア王国 を減 ぼ して (前546年)こ れ を版 図 に組み 込 んだが,こ の地ではベルシアの治下 しばらくの間旧 リュデイアの金銀貨が発 行 されていた。 ここで リュデ イア幣制の利点 を見抜 いた 3代 目の王 ダレイオス 1世 (大王)は ,ク ロイソスに倣ってグレイコス (dattc)金貨 とシグロス (siglos) 銀貨 を鋳造 させ商業 を振興す る とともに,税 制 を整備 した。標準の重量 はダレ イコス金貨が8,4g,シ グロス銀貨が5。6g,両 者の交換比は 「ldaric=20siglos」

と定められた。これを同一重量の額面価値で計算すると「

金:銀=13%:1」

となる。この時,史 上 は じめて金銀の比価 なるものが広 く公式 に定め られたの 5 ) である。 この “ダレイオス比"は ,貨 幣史 にたいへ ん有名で,そ の後の ヨーロッパ∼ オ リエ ン トにおける金銀比価 の動 向に絶大 な影響力 を持 ち,ベ ルシア域内のみ な らず,西 方のギ リシア諸邦,さ らにペルシアを減ぼ したアレクサ ン ドロス 3 世 (大王)の 治世 にかけてのギ リシア・ヘ レニズム時代 (スタテル stater金 貨 と ドラクマ draChm銀 貨)や ローマ共和国 ・帝国 (アウレウス aureus金 貨 とデナ リウス denarius銀貨)で も継承 され,オ リエ ン トか らヨーロッパ に かけて長いこと理念上の基準 としておおむね維持 された。そ して短期的にある いはローカルに攪乱要因はあった ものの│ス ペイン人が新大陸か ら大量の銀 を もた らす (価格革命)ま で,何 と2000年以上の長期 にわたつて続いたのである。 金銀比価 に,こ の ような驚 くべ き安定 (“固定相場制")の時 行があったことに ついては,歴 史的事実 としてまず踏 まえておかねばならない。く欲望 〉は,そ 5)実 際には,こ の 「ダレイオス比」は,リ ユデイア最後の王クロイソスによって導入され ていた。このローカルな基準 を公定 とし全オリエ ン トに広げたのがダレイオスだつたので ある。その意味では 「クロイソス=ダ レイオス比」 と呼ぶ方がいいか もしれない。 6)た とえば,中 世 ヨーロツパにおける非常に興味深い例が,H.ピ レンヌ他 F古代から中 世へ』 (佐々木克巳編訳),創 文社,1975年,pp.133-185.に見 られる。 7)ウ ェーバー 『一般社会経済史要論』(下巻),岩 波書店,pp.81-86。

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7 4 彦 根論叢 第 3 2 4 号 の対象 をひ とたび金銀 に定 めた とき,か くも強国 に一貫 して振舞 ったのであ る。 ギ リシア諸邦 リュデ イアで貨幣が 「発 明」 され る と, そ の影響 はほ どな く西 隣のギ リシア 諸邦 に及 び, ギ リシア人 たち も貨幣 を用 い始 め る。彼 らは最後 まで共通 の貨幣 に統合 され る こ とはなか ったが,共 通 の重量基準 (金貨 ス タテル と銀貨 ドラク 働 マ)に よる事実上共通の貨幣制度 を持 ち,高 度な貨幣経済 を発展 させた。 とり わけアテネは,そ の領域内に良質の銀山 (ラウレイオン)を 持 ち,良 質の銀貨 を発行 したことで知 られ,そ の貨幣は広 く信用 され強い影響力 を持 った。これ らギ リシア諸邦の貨幣制度 は,紀 元前 6世 紀頃∼紀元前後の地中海地域 に広 く 通用 したのみな らず, ヨーロッパ内陸部 にまで浸透 していった。 このことは, 当時 ドナウ河流域か らブリテ ン島にかけて広 く居住 していたケル ト人がギ リシ ア貨幣 を真似 た 「模造貨」 を多量 に鋳造 していたことか らも窺い知 ることがで きる。 日―マ共和国 。帝国の金銀貨 ( a ) 共和制 ローマ。 ローマ共和国の貨幣制度は, もともと先住のエ トル リア人が銅の地金 (単位 アス)を 秤量貨幣 として用いていたところにまでさかのぼることがで きる。 もっ ともこれはイタリア半島部のローカルなもので,ロ ーマ幣制が整備 され広 く通 用す るに至 るには,例 によって先進国ギ リシアの幣制 (ドラクマ銀貨)を 模倣 す る必要があった。大 きな信用 を一朝一夕に得ることはできないのが世の道理 である。すなわち,ラ テ ン人がエ トル リア人 を打倒 しイタリア半島を統一 した ( 前2 7 2 年) 直 後の紀元前2 6 9 年, 当 時地 中海世界で広 く信用 を得 ていたギ リシ ア人の 「ドラクマ」 を模 したローマで最初のオリジナル銀貨 「デナ リウス」が 鋳造 され,「アス」 は 「デナ リウス」の下位単位 と位置づけ られたのである。 8 ) 金貨スタテルと銀貨ドラクマとの間には, おおむね 「1 3 % : 1 」というクロイソス= ダ レイ オス比 が成立 してい る。

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この 「デナ リウス」 は本来 「10」を意味 し,初 期 において銅貨アスの10倍の価 値 を有 していた ことに由来す る。 この 「デナ リウス」 を地中海全域 に通用 させ ることで,ロ ーマは一大経済圏を形成 した。 * (b)ローマ帝国。 このような共和国時代 の幣制は,初 代皇帝アウグス トゥスによって改定整備 された。その標準 とされたのがアウレウス金貨 とデナ リウス銀貨 による金銀複 本位制で,こ こにも金銀の 「ダレイオス比」が反映 されている。 しか し権力者 は 「悪鋳」 による安易 な収入の誘惑 に抗 しがた く,ま たいった ん悪鋳す ると 「グレシャム則」 により旧に復 しがたいのが幣制である。悪名高 いネロ帝やカラカラ帝 らによる悪鋳 を筆頭 に,歴 代皇帝の傾向的悪鋳 によって ローマ幣制は次第に疲弊 してい く。この趨勢は五賢帝以後,軍 人皇帝 と続 くロー マの政治的 ・経済的疲弊 と軌 を一に しているが, 3世 紀のデ イオクレティアヌ ス帝の時代 になると,「銀貨」 とは名ばか り,銀 のほとんど含 まれない 「銀貨」 が発行 されるにまでになった。 * ( C ) ソリ ドウス 金 貨 に よ る金 本 位 制 。 西紀3 1 0 年頃, コ ンスタンチヌス大帝が幣制改革を断行, ロ ーマは金本位ヘ 転換 した。このとき基準通貨 とされたのは 〈ソリドウス s o l l d u s 〉という新金

貨で約4.5gの

金からなり,その下にく

セミシス〉(=ろソリドウス)と くトリ

ミシス〉(=%ソ リドウス)の各金貨が新設された。これらの新金貨は広く信

用 され―一 人々の く欲望 〉の一般対象 として定着 し―― ビザ ンツ帝国へ継承 さ れる。 ビザンツとアラブ ローマ帝国が東西 に分裂後,貨 幣史の中心 は (したがって貨幣的欲望の中心 は)東 方 に移動 した。すなわち東 ローマ と新興のイスラム勢力である。 ビザ ンチ ン帝国では,コ ンスタンチヌス大帝以来のソリ ドウス金貨が定着 し,

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7 6 彦 根論叢 第324号 その後 も長期 にわたって広 く用い られた。 この金貨 (ソリ ドウス,の ちノミス マ)は ,金 貨 の消滅 した中世の ヨー ロ ッパ において も “B e z a n t ルぁ るい は “B y z a n t " な どの名で広 く通用 し,13世 紀末 にイ タリア諸都市が金貨 を鋳造 す るに至 るまで強い信頼 を得 ていた。 またアラブ人は西紀 696年に最初のオリジナル銀貨 「デ イルハム」 を発行, 次 いで金貨 「デ イナール」 を発行 して, こ れがアラビア商人の基準通貨 となっ た。 これ らもビザ ンツ金貨 と同様,広 く信用 を得 るに至 ったが, もともとはソ リ ドウス金貨の模倣 と考 えられる。 イス ラムの貨幣は偶像厳禁の思想か ら,文 字だけが記 されているのが特徴で ある。一方,ビ ザ ンツの貨幣は,こ れ と対抗 して皇帝正面向 き肖像 に十字架 を あ しらうデザ インに代 わっていった。 西欧中世の貨幣 西欧の中世史を,よ く行 われるように,金 貨の消長 を基準 として次の ように 9 ) 前 後 2 期 に区分把 握 してお こ う。 * ( a ) 金貨 の縮小 と消滅 。 ゲ ルマ ン人 の移動 か ら始 まる西 欧の 中世 で は, ア ンリ ・ピレンヌが着 目 した ように,古 代都市 の衰退 ・商業 の衰退 とともに貨幣経済が縮小 の傾 向 を見せ , メロ ヴ イング期 か らは金 の不足傾 向が顕著 にな り, と りわけカロ リング期 か ら は長期 にわた つて金貨が消滅 し,総 じて低 品質の小額銀貨が細 々 と継続す るの みで あ った。 この傾 向の決定打 となったのはカロリング家の初代 フランク国王 ・ピピンに よる幣制改革 (755年)で ,不 足の金貨 を廃 して銀本位 を定め,こ れ以降金貨は まった く発行 されな くなる。 ピピンの改革 によって定め られた額面間の関係 は 9 ) 中 世 ヨー ロ ッパ にお け る貨 幣 史全般 の動 向 を知 るには, P h i l i p G r i e r s o n , T んθ σοウ物s ザ フレθt t θυa J ど切/ o p e S e a b y , L o n d o n , 1 9 9 1 . や, 中 世貨 幣学 の集大成 となるP h . G r i e r s o n and Wl.Blackburn, Me冴 づθυaι j写切γοpθatt σθケ%age Cambridge Univ. Press, 1986-.

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次 の通 りで , 以 後 さまざまな名称 は現 れ る ものの, ヨ ー ロ ツパ各国 において基 本 的 には この 関係 が理念 上 の計算 単位 と して近代 に至 る まで用 い られた。 1 libra l s01idus s01idus denarlus 参考 まで に, こ れ らの各名称 を各国語別 に対照表 として示せ ば次のようにな る。 と りわけイギ リスにおいては,1971年 に10進法 による幣制改正が行 われる 1 0 ) まで この関係 が用 い られ てい た。 ラ テ ン 英 pound shilling penny 独 十 仏 Pfund l liVre Schilling i SO1/Sou Pfennig i denier 伊 lira s01ldo denaro libra solldus denarlus カロ リング朝 フランク王国では,第 2代 のシヤルルマーニユまでは工が鋳造 権 を掌握 していたが,彼 の没後,権 力の分裂 とともに鋳造権が拡散し, しば し ば領主や修道院の恣意的鋳造 によるまった くのヤ ミ貨 (mOnnaie nOir;狭い 領土内でのみ通用す る もので,む しろ代用貨幣 とい うべ きもの)す ら用い られ る有 り様 となった。 この時期の西欧貨幣は流通量の減退 とともに美的にも劣悪 で,経 済的 ・文化的水準 は地 に落ちた感がある。社会の く欲望 〉が全般に減退 した時代 だったのだ, と解釈で きるか もしれない。 この時代 ,商 業 を担 つたのは何 といつて も東方のアラビア商人 とビザ ンツ帝 1 0 ) フ ラ ンスや イタリアで は, フ ラ ンス大革命時 に1 0 進法が導入 され, こ の とき “s o l i d u s " や “d e n a r i u s " の名称 が廃止 され新 たに“c e n t i m e " ( 1 / 1 0 0 の意) と い う単位が採用 され た。 これが “c e n t " や “銭" の 起源であ る。 また, こ の とき同時 に金貨の金品位 について も伝統 的 な2 4 分法 ( カラ ッ ト法) に 代 えて1 0 0 分法 ( °/ o ) が採用 され, 以 後, 金 品位9 0 % の金貨が主流 をなす に至 った。 これに対 し, イ ギ リスでは品位2 2 / 2 4 = 9 1 . 7 % ( 2 2 カ ラ ッ ト) の 伝統的金貨が継続 された。

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7 8 彦 根論叢 第 324号 国で あ り, 西 欧 はユ ダヤ人 に よる長距離交易 を除けば まった く世界 の商業史 の カヤの外 に置 かれていた とい って よい。西欧で信頼 す るに足 る取引 を行 お うと す れ ば, ビ ザ ンツ金貨 ( ソリ ドゥス) の 信用 を頼 る しか なか ったのであ る。 こ の 間, 西 洋 人 を恐 れ させ たアヴ ァール族 や ブル ガル族 , ノ ルマ ン人 な どの活動 も, ビザ ンッや ア ラビア との接触 に よる経 済的繁栄が もた ら した もので, こ れ は当時 の西欧 とオ リエ ン トとの経 済 的実力 の差 を如実 に反映 している。 * ( b ) 金貨 の復 活 。 十年軍 を契機 として東方 との接触機会 を増 した西欧諸都市では,い わゆる 「商業の復活」 (ピレンヌ)と ともに,13世 紀 を過 ぎる頃か らフィレンツェや ベネツイアを中心 にようや く金貨が復活する。フィレンッェで1252年に初鋳 さ れたフィオリーノ金貨 (フロー リン;のちグルデ ンない しギルダー とも呼ばれ る)や ベネツィアで1280年頃に初鋳 されたツェッキーノ金貨 (のちダカッ ト) が これに属 し,初 期 においては両者 とも理論上 7リ ブラ (£=リ ラ=ポ ン ド) に相当 した。高額金貨は (一般民衆でな く)プ ロの商人が用いるものであ り, その出現 は大規模商業の再来 を象徴するもの といえる。社会的 〈欲望 〉の拡大 期が到来 したのである。 これ らの金貨 もしか し,オ リジナルというより, もとはといえばイタリア諸 都市が ビザ ンツやアラビア等 との東方交易か らもた らした もので, ビザ ンチ ン 帝国経由でローマ末期か らの くソリ ドウス金貨 〉の系統 を引 くものであった。 そ して,衰 退 に向かっていたビザ ンツのソリ ドゥス金貨 は程 な くフロー リンと ダカ ッ トにとって代 わ られ,こ れ らが欧州で広 く流通するに至 る。現代の西洋 の貨幣は,す べてこの両者の子孫 といってよい。この意味で,西 洋の貨幣は, クロイソス,ダ レイオスやギ リシア ・ローマ時代 か らの伝統 を完全 に受け継 ぐ ものである。貨幣への信用,貨 幣への く欲望 〉――集合幻想―― は,か くも一 貫 して持続す る ものなのである。そ してそれは,〈欲望 〉の発現形態 を代弁す る,有 力なものなのである。 一方,ハ ンザ諸都市や南 ドイツ ・フランドル等の諸都市の勃興があって北方

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ョーロ ッパ において も大型銀貨 (グロ貨,grOs,Groschen)が 登場 し, ドイ ツ文化圏で広 く受 け入れ られたフロー リンはチロル地方の豊富な銀資源か ら大 型銀貨へ と置 き代 わって 「グルデ ン」 (もともと 「金」の意)と 呼ばれるよう になる。やがて ヨーロツパでは,地 域内決済では主 として銀,国 際決済では主 として金, とそれぞれの決済貨幣の棲分けがなされるにいたつたoこ の趨勢 を 担 ったのが,1520年 にボヘ ミア地方の ヨアヒムス タール産銀 │で 初鋳 された大型 銀貨 「ター レル」 とベネツイア起源のダカツト金貨であつた。 とりわけター レ ル銀貨 は欧州各国で広 く受け入れ られて各地で鋳造 され,ク ラウンタエキユ, ルーブル,ピ アス トル,ベ ソ, ドル,… ,等 々 と呼ばれた。 またダカツ ト金貨 も19世紀初頭 まで貿易用貨幣 として欧州各国で発行 された。 欲望の一貫性,執 拗性 貨幣は く欲望 〉の転化 した形態であ り,ヒ トが欲望 を発揮する際の一般的な 手がか りである。かかる貨幣は,い つたん欲望の対象 に置かれ貨幣 として成立 す るや,か くも一貫 して執勘 に振舞って きたOわ れわれは,本 論考が 「人類史 を通底する視座 を希求する意図」 を持つ,と 表明 した (『彦根論叢』第 306号, p.126)。欲望へ の,そ して貨幣へ の着 目は,こ の ように人類史 を通底す る視 座 を提供 して くれるのである。 1 1 ) ョ ア ヒムス タール lJoachimsthal;現名ヤー ヒモ フ, チ エコ北部) と い う地名 は 「聖 ヨ ア ヒムの谷」 を意味 し, こ こで初 めて造 られた こ とか ら, こ の銀貨 は “T h a l e r " ( 谷の も の) と 呼 ばれるようになった。“d o l l a r " とい う貨幣名 は, こ の “ T h a l e ゴ' がオランダやス ョアヒムス タールの銀鉱脈 は副成分 としてウ ベ インを経 由 して訂とつた ものである。なお, ラ ン等 の放射性元素 を多量 に含 む地質学 的に特異 な もので, キ ユリー夫人が ラジウムを単 離す る際の原料 となつた渥青 ウラ ン鉱 ( p i t c h b l e n d e ) はここか ら産 した ものであつた。

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80 彦 根論叢 第 324号 (新大陸)(ヨ ーロッパ大陸・ブリテン島) (地 中海世界) ARグルデン‐ギルダー(独)

ARターレル(ちは) ARクラウン(瑛こ) ARシェケル(古代ユダヤ) 権 力としての金(古代エジプト)

\ /

E L スタテル(リュデイア王国,前7世紀∼)

かあ1駅

(オリエ ント) 図 :欲望 の軌跡 一一 貨幣形態 としての一一

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欲望のエネルギー論 81 工口金銀比価 の時間的変動 と空間的分布 金銀比価の変動 十 価 格革命一一 すでに述べたように,ヨ ーロツパでは古代以来2000年以上もの間,少 なくと

も理念的には 「

金:銀=13%:1」 という比価が強国に存続したOこ の状況

が永続す るなら,あ るいは地球上の どこで も同 じならば,欲 望の媒体 として金 を採用 しようが銀 を採用 しようが,金 と銀 とはいつで もどこで も等価 となるは ずであつたOと ころが,歴 史はその ように進 まなかつた。 金銀の比価が本格的な “変動相場制"を 迎 えたのは,新 大陸の銀が大 々的に 開発 され,大 量の銀が世界へ出回るようになつてから (16世紀前半,特 に1532 年以降)の こ とであ る。 と りわけスペ イ ンが メキシコ産銀 で大量 に鋳造 した 「メキシコ ・ドル」 は世界の銀貨 の基準 とな り,や がて欧州 はおろか極東 にま で達するに至 る。 新大陸がか くも銀 の宝庫であつたことは,所 詮 ,歴 史上の偶然 にす ぎまい。 が,こ のことがのちの世界史に重大な影響 を及ぼすことになる。銀価の下落は, それ を く欲望 〉の基準 として使用 している者 にとつては死活問題 になるか らで ある。 ここでは,ま ずその初期 において,こ の新大陸銀の流入のため,さ しも の豪商 フツガー家 も一―南 ドイツの,た とえばフライブルク銀山の銀に全面依 存 していたために一一 そのあお りを受け表退 していつたという事実だけを指摘 してお くに とどめ よう。 これは,新 大陸の銀が世界史に及ぼ した,最 初期の影 響 のひ とつ に挙 げ られる出来事である。 銀が傾 向的に安 くなる とした ら,そ してそれが外か らやつて くるとしたら,

その銀を何とかしなければならない。「

荷」をチるあ

1ま

ともあ

く,「

荷とあ

」じ

なけれ ば な らない一一 これは未分化 な く欲望 〉の典型 的な発現形態である。 こ の く欲望 〉が,西 洋 の商 人 を して世界 的行動 を起こさせ た理 由の ひ とつであ る こ とは,容 易 に想像 で きる ところであ る。

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82 彦 根論叢 第 324号 経 済史分析 にお ける リカー ド ・モデルの意義 歴 史の解釈 を続 ける前 に,こ こで少 々,理 論面 の復 習 を してお こう。 リカー ドに よる国際取 引 の く2国 2財 モデル 〉―― オ リジナル には英 ・葡 の 間での毛織物 とワイ ンの物 々交換貿易―― は,い かに も単純 な机上モデルであっ て,現 実 の複雑 な国際経 済社会 を論 ず るには実効性 が乏 しい。 さ りとて これ を 3財 , 4財 ,… , n財 へ と拡張す る試 み も,労 力 の割 に さ したる改善 を もた ら さない よ うに思 われ る。現実 の経 済 を構成す る財 は特定多数 (n)で はな く不 特 定多数 (nで す らない)だ か らであ り, しか もその組合せが時代 ご とに変化 してい くか らであ る (この欠陥 は,す で に述べ た くローザ ンヌ解釈 〉の欠陥 と 同 じもの だ)。 したが って, リ カー ド ・モ デル は現 実 の経 済分析 ツール とい う よ り, もっぱ ら国際経 済へ の入 門学生 に対 す る学習教材 と見 られて きた観 があ る。 ところが この最単純 リカー ド ・モ デルが,現 実 の経済へ の,あ るいは経済史 へ の,強 力 な分析力 を発揮す るケースがある。そのほ とん ど唯一のケース こそ, これを 「金銀比価」 に適用す る場合である。それは,歴 史的にみて金銀が 〈貨 幣 〉とい うもっ とも重要 な社会分子 を担 っていた 2財 であるか らである。 い うまで もな く,世 界史における交易一般 には無数の財が行 き交っていた し, そ ういった諸財の中には金銀以外 にも (たとえば胡淑やアヘ ンの ように)歴 史 解釈上重要な位置 を占めるもの もある。だが,に もかかわ らず ここで金銀の交 易のみ に着 目しようとい うのは,通 常の財が 「消費」 されることによっておお むね元の状態 (原状)に 復帰するのに対 し,金 銀はそれぞれの国に滞留 してい わ│ゴ「濃度 を増 し」 てい くか らである。 もちろん,金 銀 とい う少数の財 に着 目 す ることによって,分 析の見通 しを良 くするためで もある。金銀 は 〈欲求 〉の 対象でな く 〈欲望 〉の対象であることもまた,こ の立場 を有利 に して くれる。 すで に,我 々は “諸財 の n財 理論ルをめ ざす くローザ ンヌ解釈 〉か らの脱却 を 決意 し,“貨幣の 1財 理論ルヘ と目標 を定めた (『彦根論叢』,第 310号)。この 1財 理論が,国 際間の問題 として 2財 になっただけなのである。 ただ し,金 銀比価 はリカー ド・モデルでい うような労働の所産ではないので,

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EE= 「

欲望のエネルギー論 8 3 「比較優位」 とい う概念 には馴染 まない。それは,歴 史的・社会的な欲望の条 件 (局地的市場 と言 って もいい)か ら発生す る 「比価」 にす ぎない。それはい わばいわ↓ゴ 「銀へ の欲望 に対す る,金 への欲望の相対的強 さ」の ことである。 まず このことを念頭 に置 こう。 さて,金 ・銀 は,歴 史的に長い問,そ の どちらかが く本位貨〉の地位 を得 る ことによつて く貨幣 〉とな り,相 手 を地金 として く商品 〉にす る,と い う関係 にあつた。この,「商品か貨幣」力ち と い う二重性 に,植 民地主義の一― 中心― 周辺 の著 しい方向性 を持 った販路構造 を形成す る一― トリックを見出すことが で きる。 したがつて,こ れを分析するため 2国 として ヨーロツパ諸国 とAA諸 国 (とりわけ本節では帝国主義時代 の中国の “半植民地化"と いう事例 を念頭 にお く)を 取 るのが適当である。か くして,単 純な く2国 2財モデル〉が重要 な世界史的状況 を再現す る条件が整 う。 金銀比価の地理的 “濃度勾配" ここで,金 銀の比価 について,欧 米中心か ら全世界的スケールヘ と眼を転 じ てみ よう。すると,世 界 には “ダレイオス比ルゃスペ ィン人の活動 か らは もと もと縁遠かつた地域が存在 していたことが容易 に知 られる。そ して,そ れゆえ に,そ こには世界的規模で 「金銀比価」の 「濃度勾配」が形成 されることになっ たのである。 ョーロ ッパ人による 「地理上の発見」以降における ヨーロツパ とアジア諸国 との間の金銀比価の地理的分布 とその歴史的推移について,増 井経夫は次の よ うに述べ ている : 新大陸で銀山が発見され,精 錬法 も開発されて,大 量の銀貨が本国のスペイン ヘ輸入され,そ の全盛を支えた。が,そ れはまた急激な物価の騰貴をよびおこし, いわゆる価格革命 とよばれる経済変動がヨーロツパを揺がせた。これは金銀の比 という歴史的事例を念頭に置 くのは,そ れがかなりの程度 12)こ こで中国の “半植民地化" まで純粋 に 「経済主権 の侵害」 ン ドやアフリカの “植民地化" という様相を呈 しているからである。これと比べると, イ の事例は, は るかに政治的支配の色彩を帯びている。

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84 彦 根論叢 第 324号 価 に端 的 に現 われた。江戸期 の 日本 で は金 1銀 4の 比が長 く固定 していた。 この 比 は通貨 に もその まま適用 されていた。17世紀 の イギ リスの記録 に 「銀 は西 か ら 流 れて東へ走 り,あ たか も深淳 にすい こまれるようである,ス ペ イ ンか ら銀 を受 け とる国 々は遠 くになるに従 い,ま す ます銀 は高 くな り, トル コでは ヨーロ ッパ よ り高 く,イ ラ ンでは トル コよ り高 く,中 国がいちばん高い」 とい っている。 同 じイギ リスの記録 に,1717年 に ヨーロ ッパでは金 1に 対 して銀14半ない し15 の割合 で,中 国では銀 9ま たは10,イ ン ドでは12だとい っている。 日本 で も銀価 が下落 した19世紀 の中頃 になって も金 1銀 6で あ ったが,ヨ ーロ ッパでは金 1銀 15半 に な ってい た。 イギ リス東 イ ン ド会社 の記 録 を編 集 した H.B.Morse: “

The East lndia Company Trading to China"に は1635年か ら1834年までの 会社 の貿易 を品 目,価 格,中 国取引商人 な どを記述 しているが,17世 紀 か ら18世 紀へ かけては中国か ら金 の輸 出が 目立 って多 い。銀 を もって きて金 と交換す るの が もっ とも有利 だったか らである。 …中国では金 も銀 も民間に放置 されていたので,銀 の保有量は年 ごとに多 くなっ たが,金 は極度 に減少 して しまった。後 の中国関係 の案内書 には,往 々中国人は その国民性から銀を愛好 し 〔欲望 し――引用者〕,銀 器の使用を好むとまで書か れるようになった。ヨーロッパ諸国が金本位制に定着 していったのに,中 国,イ ンド,メ キシコがいつまでも銀本位制から離脱できなかったのも,こ のような経 緯が背景にあった。 〔 増井経夫 F中国の銀と商人』pp.14r,表 記一部変更。〕 すでに述べたように,中 国において金が リカー ド的な意味で 「比較優位」だっ たのではない。単 に金の相対的比価が安かったとい うだけであ り,そ れは中国 人が西欧人以上 に銀 を歴史的に く欲望 した 〉,と い うだけの ことである。 これ は 「国民性」 とい う集合的メンタリテ イ (“好みル)の 問題であ り,本 来経済 と は関係がない。 ところが,西 欧人はこの偶然 に 「合理的に」つけこんで,こ れ を経済現象へ と転化 させたのだった。この偶然が,そ の後の世界史の展開に大 きな影響 をもた らす (禍根 を残す)こ とになる。換言すれば,欧 州人は,中 国 人が 自分たちよりも銀 を珍重するのを逆手 にとり,中 国人の欲望 を弄んだのだ。 洋の東西 を問わず,歴 史の新旧を問わず,他 人の欲望 を弄び操作 して自分の欲 望 に寄与 させ るとい うのが もっとも狡猾 な蓄財の手法である。欧州人の欲望は

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これ を合 理 的 に実 践 した の だ 。以 下 , そ の過 程 につ い て見 てい こ う。 商人の見 える手 一一販路の神経回路網 もともと,以 上 に述べた金銀比価の関係―一 モルフォゲンの濃度勾配 1-一 か ら,販 路 さえ開かれれば,そ れが発達 し固定化 して ヨーロツパか らアジアヘ 銀が,ア ジアか らヨーロツパヘ金が流入するのが リカー ド機構か らくる必然で あった。 この帰結 は, 歴 史事実 として も追認 されるところであろう。 金銀比価の勾配 と販路の仲長 この ような金銀比価の “濃度勾配ルが実在 している限 り,欧 州の商人たちは トル コよ りもイランヘ, イランよ りもイン ドヘ, イン ドよ りも中国へ, 中国よ りも日本へ, 販 路 を拡大 しようとす るだろ う。 また, た とえ欧州と中国を結ぶ 販路が中途で妨害 され, あ るいは切断 された として も, 商 人たちは早晩,そ れ を回避す る販路 を開拓 し,や がて商業回路 を再生 して しまうだろう。このよう に “一度切断されたとしても,や がて柔軟に再生 し接続 して しまう" と いう伝 達 回路 の性質 を, 神 経生物学では く可塑性 p l a s t i c i t y 〉と呼んでいる。金銀比 価 の “濃度勾配" の 中を伸長 してゆ く販路網の, こ の可塑性 は, ま さに切断 さ れて も再生す る くリゾーム〉の強靭 さを表 している。それは, きわめて しぶ と く, しか も方向性 を持 った,超 ・分子的な構造 を編制するメカニズムなのであ る。 これは,金 銀比価の大域的な “濃度勾配" の もとで,局 所的にい くら切断 して も,再 生する。欲望が く逃走= 漏 出 血ite〉する (“す りぬける" ) か らだ。

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86 彦 根論叢 第 324号 リカー ド機構のもたらした結果 だが,と もあれ リカー ド理論が意味 をもつのはここまでである。 リカー ド理 論 は,“貿易の結果双方が利益 を得 る"と 述べ ているが,単 なる消費財ではな い,金 銀の交易の場合 はそう単純でない。 とい うのは,そ れが国内で く貨幣 〉 となることによって様 々な影響 をもた らすか らである。ワインと毛織物 とい う 程度の く商品 〉交換であれば,そ の影響 は消費 されることによって解消 してい くだろう。だが,金 銀 は,消 費 されることな く互いの国内に滞留 し,こ れがの ちのちの世 に至 るまで影響 を残すのである。 なるほ ど,金 銀の リカー ド機構 は,双 方の 「商人」 には短期的に利益 をもた らす。イギ リス商人 も中国商人 も短期的には利益 を得たのだ。だが中国の国内 では,銀 の増加によってインフレを生 じ,民 の潜在的な購買力 を奪 う結果になっ たのである。 この慢性のインフレは,乾 隆帝治世の末頃 (1770年代以降)か ら 顕在化 し,中 国を悩 まし続けることになる。 田.重 金主義のゆきづまりと産業主義 概 観 金銀 を巧みに動か して富 を得 ようとする商人たちの く欲望 〉とその行動 は, それを手がか りとして社会 ・経済 を理解 しようとい う思想界の く欲望 〉を刺激 し,彼 らの行動 をまずは正当化する思想 を生み出 した。金銀 にこそ富の源泉が ある,だ か ら彼 らの行動 は正 しいのだ, と。――― これこそ,広 く 〈重金主義 〉 1 3 ) と呼ばれる一連の思想であった。 しか し,こ の ような素朴 な重金主義 は,そ の ままでは早晩ゆ きづ まる。金銀 が増大すると互いの国でインフレを起 こすため,せ っか くの努力 も水泡に帰す 1 4 )

からである。金銀の交易における, こ の 「

社会的ジレンマ」は, 素 朴な重金主

1 3 ) こ の時代―― 産業化以前十一 の ヨーロッパ における貨幣 を中心 とす る経済思想の動向を 知 るに1 ま( 英語文献 に限 られ るが) 当 時の文献 を集成 した論文集 A n t o n i n E . M u r p h y ( e d . ) , 〃ο句所a t t T んθοt t f % ω ―ガ統L ( 6 v o l s . ) R o u t l e d g e , 1 9 9 7 . が便利である。 1 4 ) 産 業化以前の ヨーロ ッパ における “カネ余 り" 状況下では, 時 として, 特 定対象への非 常 な貨幣の流 入 ( 投機 マエ ア) と その崩壊 ( バブル) と い う現象 を生 じた。1 6 4 0 年代 オラ ングのチュー リップ ・バ ブル, 1 7 2 0 年英仏の南海会社バ ブルや ミシシッピ ・バブルなど/

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欲望のエネルギー論 8 7 義が 陥 る 自縄 自縛 で あ り, ま たその ままで は解 決 で きない困難 であ る。 では,か かる 「社会的ジレンマ」 によつて行 き場 を塞がれた く欲望 〉は,ど んな行動 に出たのか。一一一結論 をいえば,技 術革新の運鎖,す なわち く産業 化 〉とい う突破 口を見出 したのであ り,こ れを前提 として,そ こへ余剰 な資金 を投入す るとい う新 しいや り方 を開発 したのである。そ して,そ れ と時 を同じ くして現れた経済思想が,ア ダム・ス ミスに始 まる古典派の思想だった。以下, この ことについて見てみ よう。 行動 としての く重金主義 〉 銀本位 を採用 しているアジア・アフリカ諸国 (とりわけ中国)に おいては, リカー ド機構 に従 って銀地金が流入する と,こ れが国内で転 じて貨幣 として振 舞 う。 このためイ ンフレが生 じて国内物価が高騰 し (いわば遅れて来た く価格 革命 〉),銀 建て資産 は目減 りし,人 々の生活 は疲弊す る。 ところで,イ ンフレとは,そ もそ も貨幣供給者が鋳造益 を得 る岳)の 代償 と して人々が負担 を強 い られ る増税 (innation tax)にほかな らない。そ して中 国での,こ のインフレは欧州人の もた らした銀 による ものである。つ ま り銀 に よる財の大量購入は,欧 州人が中国か ら財 を奪 うと同 境)こ税 を課 し購買力 をも 奪 う, とい うの と同 じ効果 を持つ ことになるわけである。 しか しなが ら,こ こでの単純 な疑問はこうである :―一一 AA諸 国か らもた らされた金地金 もまた,欧 州内で転 じて貨幣 として振舞 うはずではないか ?こ れが欧州でインフレを起 こさなかつたのか ?一一― と。 もしそうだつたら,互 いにインフレ税 をかけ合っていることと同 じにな り,痛 み分けの結果 になるは \がこれに当たることはいうまでもない。これらは欲望の起こした くクレーズ〉である。 を勝手 に発行 していることと等価 にな り, 贋 金づ くりに等 しい効果 をもつ。

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8 8 彦 根論叢 第 3 2 4 号 ずだ。つ ま り 「囚人のジレンマ」状況における “共倒れ解ルに相当するはずだ。 理論的には,そ うなる告である。このことは,重 金主義 はそのままの形では 早晩ゆ きづ まって く閉塞状況 〉を招来することを意味 している。だが現実 には, 欧州の側 はこの ような重金主義の難局 を巧みに打開 し,そ うならないようにコ トを運んだのである。 「世界経済」の意義 まず,前 段 としてひとつの事実 を指摘 してお きたい。欧州諸国には特別 な事 情,つ ま り 「金 を安 く銀 を高 く」する方が有利 となる固有の事情があったこと である。 この時代 における欧州諸国間の国際決済手段 は,伝 統的に,銀 でな く金であ った。 これは,“ducat"とい う欧州諸国間貿易専用金貨が欧州各国で鋳造 され ていた事実 に象徴 されている。当時の欧州諸国においては 「国内では銀,国 際 間では金」 とい う使 い分 けが行 われていたのであ り, したがって商人たちは金 銀の比価 に敏感 に反応 していたのである。 ところが新大陸か らは銀が流入する。 銀価が下が ると,欧 州諸国間での国際決済では不利 になる。つ まリヨーロッパ 諸国には,新 大陸か ら流入する銀で国内の銀が ダブつ くようなら,こ の銀 を国 外 の 「どこかへ」地金商品 として持 っていかねばならぬ必然性があ り, しか も, 可能ならば欧州内国際決済 に必要な金 を安 く調達する必要があった。他国をさ しおいて,自 国内において銀が高 く金が安 くなる方が欧州諸国間決済では有利 となるわけである。銀 を高 く評価 し,金 を安 く入手で きる欧州以外の国があれ ば,是 非,そ こへ持 ってい きたい, とい う 〈欲望 〉があったわけである。 この 限 りでは,少 な くとも短期的には,金 が多少 ダブついて も構 わなかったのであ る。 ダブつ く可能性のある金は他国に押 しつければよ く,ま たその余地があっ 1 7 ) たからである。 この条件は,中 国にはなく, ヨーロッパにあった特有の事情であったが,実 1 7 ) ヨ ーロ ッパで この金 を引 き受けた国, そ れが産業革命 によって輸出を振興 させた英国で あ った。

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は この点 に, ヨー ロ ツパが く世界経済 World―economy〉 であ り中国が く世界 帝 国 Worid―empire〉 で あ つ た こ とを重視 す る ウ ォー ラステ インの指摘 の意 義 を読 み とる こ ともで きる。 金 本位 へ の転換 加 えて,こ の時代 にはい くつかの歴史 的巡 り合 わせ があ る。 まずヨー ロ ツパ 諸 国 は もともと金本位 だ ったので はな く,銀 本位 ない し金銀複本位 か ら金本位 へ と く転換 〉 した こと。 これ によつて金 を貨幣 として新規 に需要 し一一 一 欲望 し一一一 ,か つ,不 要 な銀 を大量 に発生 させ た こと。 これが第一 の要因である。 19世紀 初頭 の イギ リス (1817年金本位 制完 成),あ るい は ドイ ツ (1871年), 日本 (1897年)・ 米国 (同1900年)な どがそ うであ る。 この ような施策の結果, 金 はその流入 にもかかわ らず欧州諸国内で ダブつかなかつたのである。た とえ ば,1717年 に欧州ではほぼ Au:Ag=1:14だ つた ものが,19世 紀半ばには同 1:15,5とい う動 きであったO 欧州諸国の産業化 とその要因 また,こ れが重要なのだが,欧 州では世界 に先がけて一足早 く 〈産業化 〉を 達成 したことか ら,取 引が増大 し貨幣需要が拡大 した。 これが第二の,そ して おそ ら くもっとも重要 な要因である。貨幣需要の増大 には, もともと銀 よ りも 価値 の高い金が有利 だったことはい うまで もない。 ところでそ もそ も,欧 州で, とりわけ英国でなぜ,世 界 に先がけて産業化が 進展 したのだろうか。 人間が く欲望す る ヒ ト homo desiderans〉であ る以上,わ れわれ には普通 的 に く欲望 〉が備 わっている。そ して欲望 とは,新 奇 な行動 を生み出すエネル ギーである。それゆえいつの時代 で も,ど の土地で も,欲 望 による新 しい行動 ・新 しい行為はなされていたのであ り,そ の意味で新たな発明や発見はつねに 行 われていた。 この こ とは,た とえばルネサ ンスの 「3大 発 明」 (火薬・羅針 盤 ・印刷術)が 中国起源 だつたことを見 るだけで も明 らかだろう。中国で も,

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90 彦 根論叢 第 324号 重要な発明がなされる素地は十分 にあったのであ り,実 際,な されていたので ある。 したが って,発 明がなされ社会の実用 に供 されたことそれ自体 は産業革 命 の本質 とはいえない。 では逆 に,産 業革命 とは何 だったのか ?こ の難問を 「欲望論」の観点か ら解 釈す るな ら,次 の ようになるか もしれない。 産業革命の技術史的な意味での新 しさは,け だ し,そ れぞれの発明が “個別 単独の"発 明ではなかった″点にある。つ ま りその新 しさは,発 明が発明を呼が, 〈欲望の連鎖反応 〉が生 じたことにある。 この意味でそれは,個 人の独創の集 合 とい うよ り,ま った くの社会現象 なのである。技術革新が欲望の増大 を生ん だのではない。む しろ逆 に,欲 望の増大 と濃縮が技術革新 を生み,そ の連鎖 を 生 んだのである。 欲望 とは,述 べたように,何 か新奇なことを始めようとするプッシュカであ る (『彦根論叢』第306号,p.119)。だから,こ れが新 しい行動 を開発 してい くのはむしろ 「当然のこと」 といえる。だが産業化においては 「当然のこと」 でない現象が生 じた。それは,高 揚 した欲望が 「閉基的状況」のもとで 「連鎖 1 8 ) 反応」 を生 じたことなのである。 さてそ うだ として,こ こで本項 冒頭の問題 に戻 ることがで きる。――― その ような産業革命が,な ぜ この時期 に,中 国でな くヨーロッパで (とりわけ英国 で)起 こったのか, と。 この古 くか らの問いは,「合理的社会体制 としての資 本主義が,な ぜ,ヨ ーロッパ においてだけ成立 したのか」 を問い続けたマ ック ス ・ウェーバーの問いに近い。 この点か ら歴史 を解釈するなら,ヨ ーロッパで (とりわけ英国で)産 業化が 起 こった理 由のひとつは,高 揚 した欲望が,自 由に発現 しうる媒体 としての貨 幣 を得 なが ら,一 時的に重金主義的閉塞状況 に陥 り,そ の閉塞 を打開すべ く新 発 明を し,そ れが再度欲望 を解放 させ る, とい う 「自己増幅のサイクル」力S生 じたか らなのである。そ してそこに貨幣需要の増大が伴 っていたのである。 こ 1 8 ) 「 閉塞的状況」 における 「連鎖反応」の発生 とその意義 については 『彦根論叢』第3 0 7 号 , p . 1 5 7 を参照の こと。

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こで は , 欲 望 の高 揚 と解 放 の サ イ クル の発 生 , そ して そ れ が 組 み合 う こ とが 重 要 で あ る 。 中国における産業化の不在 とその要因 そ うだ とすればまた,中 国でそれが起 こらなかつたのはなぜか,と い う点が 再度問われなければならない。 この難間には確 たる解答 を与 えるべ くもないが, ひ とつ には,中 国では欲望が専制君主への指向性 を持 っていたか らといえる。 つ ま り欲望が主 として く権力 〉を指向 していたか らであ り,そ のため欲望の高 揚 と発 出の運鎖が生 じなかつたか らである。 ド ウルーズ=ガ タリは,こ れに関 連 し 「欲望論」の立場 か ら資本主義の起源 について次の ようにい う : 現代の歴史家たちは,く何故 ヨーロツパであって,何 故中国ではないのか〉とい う問いを提起することを知つている。…ブロデルはこう問うている。何故,中 国 や日本の船ではないのか。あるいは,回 教徒の船でさえないのか。…・欠けている のは技術ではない。むしろ,欲 望が専制君主 《国家》の網の中に捉えられ,全 く 専制君主機械の中で備給されつづけているからではないのか。 (『アンチ ・オイデイプス』河出書房新社, p.270) 欲望が 自由に発現 し新 しい発明 を生み,そ れが 自由に実用 に供 され,貨 幣 を通 じて評価選択 を受け,再 び新 しい欲望 を開拓する。それは,専 制君主機械の枠 の中では生 じえなかつた, とい うことである。 産業主義の意味 以上 を要約すれば,こ うなるだろう。新大陸で銀が得 られることを知 った西 洋人の欲望 は,と もか くまず,そ れを得 ようとした。 しか し銀の流入はインフ レ (価格革命)を もた らし,イ ンフレは富の 目減 りをもた らす。そこで西洋人 の欲望 は次 に,こ の銀 を,空 間的な意味での 「外部へ」,つ ま り 「国外 の どこ かへ」持 ってい き,代 わ りに金 を (あるいは物資 を)得 る,と い う形で処理 し ようとした。 これが素朴 な形での重金主義 (ない し重商主義)で あったわけだ

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9 2 彦 根論叢 第 324号 が, そ の結果はといえば, ふ たたび, 銀 の処理 とは裏腹に今度は金のダブつき を生 じてしまう。 しかもこの金にはもうや りどころがない。ここで欲望は少々 凝つた手を編み出す。つまリダブついた金を, 時 間的な意味での 「外部へ」, すなわち 「未来のどこかへ」持っていこうとしたのである。これは時空を入れ 換えた重金主義にほかならない。そ してそれが可能になるための前提条件が く産業化 〉であ り不断の技術革新であった。アダム ・ス ミスはこのような社会 情勢の申し子 として現れ, 富 の源泉 としての産業の力を説いたのだ, と 理解で 1 9 ) きる。 しか しまた これ以後,「先進諸国」 は,つ ねに技術革新 を続 け経済成長 を追 求せねば社会がたちゆかな くなる “自転車操業" の状態 に置かれることになっ たのである。 こう考 えて くると,欲 望の とった 「現実の行動」 として見 る限 り,重 金主義 が古典派 によって取 って代 わ られたのではない。む しろ重金主義の論理はその まま経済行動のベースに貫徹 してお り,こ の く重金主義 〉の上 に く産業主義 〉 が乗 り,そ れ らが全体 として古典派の思想 を形成 しているのである。同様の意 味 で,〈商業資本 〉が く産業資本 〉によって取 って代 わ られたのではない。産 業資本 は商業資本の亜種 なのである。 実際,行 動 としての重金主義 はまった く健在であった。 ヨーロッパの対 中国 関係 に限ってみれば,そ の現れのひとつが19世紀初頭のイギ リスにおける 〈銀 高 〉を契機 とす るアヘ ン貿易 であ り,別 の現 れのひ とつが19世紀末 における 〈銀安 〉を契機 とする列強の進出である。少々強い表現 をすれば,欧 州人の欲 望 は銀高 になればなったで中国を襲 って銀 を奪い,銀 安 になればなったでこれ また中国を襲 って銀 を押 しつけ,代 わ りに金やモノを奪 った,と い うことにな る。以下,こ の 2つ の重金主義の事例 について見てみ よう。 1 9 ) 欲 望 は貨幣 とい う有力 な媒体 を得 ると, こ れを手がか りとしてプ ッシュカ を発揮 しよう とする。 これが く商品化 〉の作用であるが, 貨 幣が貨幣 を商品化す る場合の出現形態の典 型 として, 地 金商品, 他 国貨幣の商品化, 未 来の貨幣の商品化, とい う3 つ の形態がある こ とを筆者 はすで に指摘 した ( 『彦根論叢』 第3 1 0 号, p . 1 0 6 ) 。欲望 はまさしくこの 3 者 を, こ の順序で実践 したのである。

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1650 1700 1750 1800 1850 19001930 図 :ロン ドンの銀価 (指数,1930=100) 出所 :佐藤次高 ・岸本美緒編 『市場の地域史』,山 川出版社,1999年,p.397による。 アヘ ン貿 易 の 重 金 主 義 17世紀半 ば過 ぎ,英 国人はアフリカ中西部のギエア湾岸 (Gulf of Guinea) に到達 し,い わゆる 「黄金海岸」 (現在のガーナ)を 領有 して大量の金 を本 国 に もた らした。 この金 をベース に発行 されたのが くギニー Guinea〉 金貨で ある (1663年初鋳)。ギニー貨 にはシンボル として象の姿が刻印 されたが,こ れはアフリカ産金の証であつた。 本来 この 「ギニー」 は,銀 貨20シリングに相当す る 1ポ ン ド金貨 として導入 された ものだった (20シリング=1ポ ン ド)が ,現 実 には金地金相場 に従 って 20∼22シ リングの間を変動 した。 これは,当 時の英国が実質上の銀本位であっ たこと (銀三貨幣,金 =商 品)を 示 している。1717年,時 の造幣局長アイザ ッ ク ・ニュー トンはこれを21シリングに固定することを決定 し,こ れによって金 ︵銀 価 指 数 ︶

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94 彦 根論叢 第 324号 銀 の法 定比価 は1 5 . 2 1 と なった (法的 には1931年9月 まで継続 )。 ところが こ れ は,短 期 的 には金 の過大評価 となった。実際1726年,フ ラ ンスで は逆 に銀 を

高く評価する比価1 4 スを定めている。この結果, 英 国において金は相対的に

「悪貨」 とな り,金 貨が流通 し銀貨は流通から外れて退蔵 される傾向が表れた。 その証拠 に1752∼1816年の間,英 国では本来主力であるべ き大型銀貨 「クラウ ン」 (5シ リング=%ポ ン ド)力ざまった く発行 されていない。発行 しても退蔵 されるため,発 行で きなかったのである。この社会情勢か ら,英 国の金本位ヘ の転換が促進 され,ま たこの間の銀の流出傾向が続いたのである (たとえばイ ギ リスの銀 をフランスヘ もってい くと銀145/8で金 1が 手 に入 り,こ れをイギ リスヘ もって帰 ると同 じ金 1が 銀15。21相当 となる。銀 は一度の往復で15。21■ 14.625=1.04倍になる理屈である)。 欧州諸国では,長 期的にみれば,新 大陸の銀 によ り銀安の傾向にあることに 変わ りはなかったが,こ の時期の英国は例外的に銀不足,銀 高の状況 に陥った のである。合衆国の独立で新大陸への足がか りを失 ったことも,こ れに拍車 を かけた。 一方で,英 国人の中国茶に対する欲望は変わることがな く,銀 本位であった

中国への銀の支払は苦しくなった。ならば銀を 「

何とか」しなければならない。

ここで英国商人 (ジャーデ イン ・マセス ン商会 をその筆頭 とす る)の 〈欲望 〉が銀 を求 めて始 め た こ と,中 国か ら銀 を引 き上 げ ようと して行 った こ と,そ れが かのおぞ ま しき 「アヘ ン貿易」 だったのであ る。銀へ の欲望 は手段 を選 ばなか ったの だ。それ は もちろん,お そ ら く,せ ざるをえない ことで はな か った し, しない方が良か った こ とであ ろ う。 しか し,英 国の欲望 は,こ れ も お そ ら くた また ま,そ れ を行 って しまった。そ してそれが当時の銀高 の趨勢 に マ ッチ したため に,雪 グルマ式 に増大 したのである。 租借地 の重金 主義 1 9 世紀前半 の アヘ ン貿易 は この ように,当 時の英 国 にお ける銀不足 ・銀高 と 密接 に結 びつ いてい るが ,19世 紀後半 の中国へ の諸 国の干渉 は逆 に非常 な銀安

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欲望のエ ネルギー論 と運関 している。 さきにも少 しく述べ たが,銀 本位 ない し金・銀複本位か ら金本位へ転換 した 国では,不 要 な銀が大量発生 した。すでに19世紀初頭,早 々 と金本位への転換 を実施 したイギ リスは別 として, ドイツ (1871年),日 本 (1897年)。 米 国 (1900年)な どが これ に相 当す る。 これ らの国が銀 を放 出 した結果,欧 州での 金銀比価 は,金 安 どころか逆 に銀の暴落 とい う結果 を招いた。 とりわけ19世紀 の第 4四 半世紀 における暴落はす さまじく,こ の間の銀比価 はそれまでの約半 分 にまで下落 している。 この時代 の金銀比価の趣勢 を以下 に示す。 銀価下落 の趨勢 年 次 ロ ン ド ン 本 銀塊相場

( 夫

す玄

ス当り

)

金銀比価 金銀比価

相 付 ペ

継郎

ン グ .

明 4 ( 1 8 7 1 ) 明 5(1872) 明 6(1873) 明 7(1874) 明 8(1875) 明 9(1876) 明 10(1877) 明 11(1878) 明 12(1879) 明 13(1880) 明 14(1881) 明 15(1882) 明 16(1883) 明 17(1884) 明 18(1885) 明 19(1886) 明20(1887) 明21(1888) 明22(1889) 明23(1890) 明24(1891) 明25(1892) 明26(1893) 明27(1894) 明28(1895) 明29(1896) 明30(1897) 1 5 . 5 7 15.63 15.92 16.17 16.59 17.88 17.22 17.94 18.40 18.05 18.16 18.19 18.64 18.57 1 9 . 4 1 20.78 2 1 , 1 3 21.99 22.10 19.76 20.92 23.72 26.47 32.56 31.60 30.59 34.20 1 5 . 5 5 15.55 15.55 15.48 15.85 16.82 16.43 17.03 17.87 17.22 17.58 17.40 17.82 17.79 18,66 20.15 20.96 21.49 21.22 19.47 20.42 22.78 25.97 60 1/2 60 5/16 59 1/4 58 5/16 56 7/8 52 3/4 54 13/16 52 9/16 51 1/4 52 1/4 51 15/16 51 13/16 50 5/8 50 3/4 48 9/16 45 3/8 44 5/8 42 7/8 42 11/16 47 3/4 45 1/16 39 3/4 35 5/8 28 15/16 29 13/16 30 13/16 27 9/16 出所 :L山本有造 『両から円へ』 ミネルヴア書房,p.120

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96 彦 根論叢 第 324号 近代 中国 にお ける貨幣制度 な らびに金銀取引研 究 の第一人者 であ った E . カ ンは,こ の銀価 下落 の原 因 を次 の ように分析 してい る : ま ず1873年か らの大 下落 の原 因は,普 仏 戦争後金本位 に転換 した ドイツが廃貨 となった銀 を爾後 6 年 間 に8 5 0 0 万オ ンス売却 した こ とにあ り, ま た1 8 9 0 年代 以降の大暴落の原 因は, 1 8 9 3 年の イ ン ド政府 に よる銀本位廃止 ・金為替本位 制 の採用 ,お よび同年 の合 衆 国 にお け る シ ャーマ ン法 ( 月間 4 5 0 万オ ンスの銀購 入 を義務 づ けていた) の 2 0 ) 廃止 にある, と。 これ らはいずれ も,そ れぞれの国内における恣意的な政策決定 といわざるを えない。 しか しこの施策が国際政治経済 に与 える影響 は甚大であった。実際, この時代が列強による中国の利権分割 ・半植民地化の時代 と一致 していること はい うまで もない。念のために列挙すれば,列 強の進出は1895年の三国干渉か ら,1898年 には膠州湾 (独),旅 順 ・大連 (露),九 竜半島 ・威海衛 (英)の 租 借,ま た翌1899年には広州湾 (仏)の 租借, と続いてゆ く。これ らを拠点 に, 中国への投資勢力圏が設定 され,中 国は事実上の分害J状態 に陥ってゆ く。 欧州諸国の欲望 はこうして暴落する銀 を一斉 に中国へ注入 し,金 あるいは物 資 を国外へ持 ち去 ろ うとしたのである。参考 までに,こ の時期の中国における 金 ・銀の輸出入収支 を次 に示す。 2 0 ) E d u a r d K a n n ( 宮 下忠雄訳) F カ ン支那通貨論―― 金及 び銀取引の研究―― 』, 東 亜 同 文書 院 ( 上海) , 1 9 3 4 年, p p . 3 8 0 f .

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表 :19世紀 末 中 国 に お け る金 銀 の 輸 出入収 支 (単位 :海関両) 年 銀 金 1,910,000 A 6,005,000 3,557,772 3,131,886 5,384,732 ▲ 9 , 7 2 1 , 2 3 1 A25,751,309 A35,916,772 A l,720,407 A l,809,564 A 4,985,219 A l,349,797 A15.445,012 1,673,000 1,626,000 1,783,228 3,693,246 7,339,614 7,459,935 12,772,862 6,877,648 8,114,569 8,511,742 7,703,843 7,639,779 A l,202,315

出所 :Eduard Kann, Tん θC物●ΥettcあθsのFCんづ物aすム%rれ υθsけ匂aけをο竹 りr cθ↓溺 a%α Sttυθγ Tγa%sacけらθtts 4カウCけれθCん'物a Shanghai, Kelly&Walsh, 1926. 宮下忠雄訳 『カン支那通貨論』東亜同文書院, 上 海, 1 9 3 4 年, p p . 4 1 卜4 1 8 , 5 2 7 - 5 3 2 にもとづ き筆者作成。 無印は出超,▲ 印は入超 をあ らわす。 ( 注) 中 国では同 じ 「1 両 」で もその重量 は港 ごとに異 な り, 海 関 ( つま り税関) においては 1 両 = 5 8 3 . 3 グレイン相当である (同上書,p.195)。また中国で は金銀の輸出入は1933年まで制限な く無税であつた。なお1887年以前の海関 の記録は発表 されていない。 貿易銀 とい う名の贋金 中国では,銀 がいかにダブついて も,銀 ( 商品) の 流入 を拒否す ることがで きない。銀本位 (貨幣)だ か らである。それで も本来,輸 出が振興すればそれ な りに債権が発生するはずだった。が,こ れが金本位国に対 し購買力 を持 たぬ 銀 によって一一一金本位 国か らみれば さして魅力のない金属塊で, しか も暴落 しつつあ り,そ の暴落の切 り札 を欧米側が握 っている銀で一――決済 された と ころに植民地主義の トリックがある。その意味では,実 に,金 本位諸国が用い たA A 諸 国向けの く貿易銀 〉とい う 〈貨幣 〉こそ,植 民地主義の象徴的存在 と いえる。

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彦根論叢 第 324号 Ⅳ.む すび 予定の紙幅 を過 ぎているので,本 節でみて きたことを簡単 にまとめてお くこ とに しよう。 まず第一 に,欲 望の一般媒体 としての貨幣は,ひ とたび成立するや,非 常に 強固に一貫 して持続する とい うこと。それ も古代か ら近代 に至 るまで,で ある。 したが ってこれに着 目することによつて,歴 史 を通底す る視座が得 られる。 こ れが 「貨幣の 1財 理論」の利点 なのである。 第二 に,欲 望の媒体 として歴史的に選ばれた金銀 は,地 理的 「比価」の差あ るいはその時間的 「変動」 とい う現象 を引 き起 こし,そ れが欲望 を刺激 して商 人たちの く販路 〉を生み,あ るいはそのつ ど商人たちの行動の変化 を生み出す, とい うこと。それはさなが ら くリゾーム〉のようにしが とく強靭 に,着 実に, 成立す る ものである。 そ して第三に,ひ とたび高揚 した欲望 は閉塞状況 に置かれたとき,新 しい行 動 の連鎖反応 を引 き起 こす とい うこと。そ して これが人間の歴史の画期 をな し ている とい っこと。 本節 は,欲 望のこの ような振舞いを,人 間の歴史の中に見出 し,そ のひとつ の解釈 として捉 えようとした ものである。この ように見て くると,当 然のこと ではあるが,植 民地は怠惰であるゆえに植民地 にな り,宗 主国は勤勉であるゆ えに宗主国 になったのではない ことが明 白になる。 もっ とも,欲 望の高揚 を 「勤勉」 と呼が な らば話 は別 なのであるが。

表 :19世紀 末 中 国 に お け る金 銀 の 輸 出入収 支 (単位 :海関両) 年 銀 金 1,910,000 A 6,005,000 3,557,772 3,131,886 5,384,732 ▲ 9 , 7 2 1 , 2 3 1 A25,751,309 A35,916,772 A l,720,407 A l,809,564 A 4,985,219 A l,349,797 A15.445,012 1,673,0001,626,0001,783,2283,693,2467,339,6147,45

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