• 検索結果がありません。

︑ やがて宗祖にいたって五願開示をなし︑第十七願の我名を以て所信の法とする法体大行説を主張する

ドキュメント内 真宗研究14号全 (ページ 55-58)

素地を形成するものである︒五念門を称名一行に結帰統摂し︑浄土往生の功は所称の名号に存するとする立場は︑

がて名号は五念円具の法体大行であるとする五願開示の宗祖の立場へ展開する基盤を形成して行ったものと思考する

の で

あ る

︒ 次に法然門下としての隆寛の浄土教について考察するに︑善導教学の全面的受容であることはいうまでもないが︑

特に注意されることは︑隆寛教学の根本である他力強調の思想が論註を基盤としている点である︒論註を基盤とした 他力義で善導教学を解釈している︒この点に他の法然門下の教学と相違し︑特異な一面を示すものである︒他力廻向 をその基本的立場とする宗祖教学が︑論註を背景としているのに思いあわすれば︑両者の聞には他力という点より︑

共通した論註受容の能度を見るのである︒事実両者聞には密な交渉が存する︒宗祖は隆寛の一念多念分別事・自力他 力分別事を書写し︑門弟にすすめられているのであり︑特に一

λ

怠多念分別事に関してはその証文を解釈して一念多念

﹃往

生論

註﹄

と﹃

教行

信一

一証

四 七

﹃往

生論

註﹄

と﹃

教行

信証

四 八 文意をあらわしているのであって︑

まさに隆寛教学は法然より親驚への直流の中間的地位を占むるものといっても過 言でないであろう︒宗祖の論註観形成の背景として隆寛における論註の受容形態は注目すべきものがある︒以下隆寛 の著書に引用されている論註の受容形態を考察し︑彼の論註観を明確化しよう︒

隆寛教学の基本的立場は具三心義等の至誠心釈下の論註の依用によってあきらかである︒即ち論註真実功徳相の釈 文の﹁人天諸善若因若果皆是顛倒皆是虚偽﹂とある文を引用し︑凡夫の心念は顛倒虚偽であり︑

﹂の心念中に浄土往 生の真実心︵烹誠心︶を得ることは不可能であるとし︑

﹁以

ニ凡

宍心

一不

三為

一主

︵実

﹁以

一一

弥陀

願一

為一

一真

﹁実

帰−

一真

実願

一之

心故

約一

一所

帰之

願一

名ニ

真実

心こ

弥陀の本願を真実とするのであ

⑤ 

り︑この真実の願に帰する心なるが故に所帰の願に約して真実心と名けるのであると至誠心を解している︒しかして

とい

って

るい

︒ 凡夫の心を真実とするのではなく︑

隆寛はこの弥陀の真実願を更に論註の真実功徳相で説明している︒

薩肌

一龍

一昨

智恵

清浄

業一

起荘

仏厳

事依

一一

法性

一入

一一

清浄

相一

是法

不一

一顧

倒一

一不

一虚

偽一

名手

一真

実功

徳一

﹄断

一一

虚偽

無明

一悟

⑤ 

本有

理一

以来

所有

思相

悉順

一一

法性

一無

三不

一一

真実

一然

於得

ニ忍

位一

レ所

発弘

願寧

非コ

真実

一哉

本願

真実

其義

若レ

斯﹂

いと

い︑

﹁曇

驚法

師解

ニ往

生論

備真

実功

徳相

文二

五﹁

一従

一菩

註の真実功徳の不顛倒不虚偽により︑仏の本願が真実なることを証している︒上来の説明によればかかる仏の本願の 真実に帰せば凡夫の心も真実になるという説相であった︒

しからばかかる真実功徳である本願の真実は凡夫と如何に かかわりをもつのであろうか︒隆寛は﹁本願真実之月﹂は﹁末世潟悪之水﹂の中に如何にして来現するかと問い︑これ

往生することが出来るといい︑ また論註の浄摩尼珠の除を引用して説明している︒即ち弥陀如来の清浄宝珠名号を凡夫の濁心中に投ぜば罪を滅して

﹁所発之願己真実故所施之他力亦真実也

他力

真実

当故

一一

能帰

之心

一能

招一

一真

実之

益一

とい

って

いる

︒ いまこの文中の所施の他力真実とは名号のことである︒この他力真実が名号を意味することは︑

また

具三

心義

で論

註讃

嘆門

の不

如実

修行

を釈

して

﹁不

如実

修行

者不

一一

一称

一一

利他

真実

名号

一也

与名

義不

相応

者達

一一

利他

真実

願名

故﹂といい︑利他真実の名号︑利他真実の名願と名号と本願を利他真実といっているより明らかである︒本願真実の 月が現実の我々の心中に顕現するのは本願所成の法である名号以外には存しない︒衆生はこの名号の他力真実に帰す

⑦ 

る故に︑凡夫の能帰の心は真実となり︑滅罪往生の利益をうけるのである︒しかしてここで注意すべきは上に記した 如く他力真実を仏の所施といっている点である︒かかる表現は隆寛にも親驚と同じく名号廻施の思想があることが知 られるのである︒散善義問容を見るに︑自力修善により往生を求むることは不可能であり︑他カに乗ずることにおい てのみ可能という立場より︑弥陀が発願以来兆載永劫の間修する三業の善はすべて他力の利益︑易行道を成就せんた

@ 

更に

﹁凡

弥陀

如来

名号

相好

光明

::

:一

切荘

厳等

偏為

三元

一一

求念

者一

所ニ

成就

一﹂

とい

って

いる

︒弥

陀は

めで

ある

とい

い︑

名号を求念する者にほどこさんために成就すると主張する如きあきらかに名号廻施の思想を見るのである︒

しかしこ

れ以上の説明はないのであって︑宗祖の他カ廻向の立場とは尚へだたりを見るのである︒

かくて隆寛は住生のために真実心を発し︑善を修する事は凡夫には不可能であり︑仏の本願の真実によるべきであ るとする︒即ち弥陀の本願が真実である理由を論註の真実功徳相で説明し︑真実功徳相である本願真実の現実への顕

現を

名号

とし

この名号は仏所施のもので︑

かかる本願名号を他力真実と解する︒そしてこの他力真実に帰するに約

して凡夫能帰の心を真実とし︑

かく自力を捨て仏願真実の他力に全托する所往生は可能と︑仏の本願他力の易行道を 強調しているのである︒この点において︑隆寛浄土教は論註の真実功徳相を名号とし︑この名号法体大行を所信の法 として︑仏の本願他力によって成仏を説く宗祖の立場へと展開する素地をもつものということが出来るのである︒

さてしからば上記の如き他力強調の隆寛教学においては︑仏の本願他力による易行道を具体的に如何に理解してい

﹁往

生論

註﹂

と﹁

教行

信一

証﹄

九四

﹃往

生論

詰﹂

と﹁

教行

信一

証﹂

11. 

ドキュメント内 真宗研究14号全 (ページ 55-58)

関連したドキュメント