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龍谷大学学位請求論文2004.03.13 木田, 隆文「武田泰淳文学の生成と展開<昭和>言説空間との相関から」第三章

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O

O

三 年 度 提 出 博 士 学 位 請 求 論 文

︿ 昭和﹀ 言 説 空 間 と の 相 関 か ら

(下)

(2)

第三章

(3)

第三章 序

昭和三

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年代における小説の︿場﹀

小説/読者/メディアの相関性から

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1 一般読者への関心 前章では武田の小説作品とその形成過程を、主に昭和戦後期の時代相や先行・同時代言説から再検討した。 そこからは、同時代言説との緊密な連携のもとで生成する、武田小説の新たな一面が浮き彫りにされたといえ よう。たとえばそれは第一節のように、社会的制度とそれが生み出す同時代言説を巧みに反映する場合もあった し、また時には、第二節、三節のように、先行する言説のさまざまな引用・変形によって形成された場合もあっ た 。 だがこうした生成過程は、何も武田の小説作品に特徴的な性質であるというわけでもなかろう。なぜならこう した現象は N 間テクスト H の立場から言えば、理論上すべてのテクストに共通する現象であると理解できるから で あ る 。 しかしたとえそうであったとしても、前章の検討から改めて確認しておかねばならないことは、武田の小説作 品に見られるこれら同時代言説の転写、およびその先行文献の引用・変形には一つの指向があったことである。 第一節で扱った﹁情婦殺し﹂では、新聞言説に翻弄される同時代の人々の動向が切り取られていた。そこから は、武田の関心が同時代空間における言説媒体とその受容者に向けられていたことがうかがえよう。また第二節、 第三節で検討した﹁士魂商才﹂、﹁貴族の階段﹂からは、先行言説の引用・変形が人々が立ち上げた同時代意識 に応じてなされていたといえる。

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-204-つまりこれら武田の小説作品における同時代言説の摂取は、同時代の人々、いいかえれば一般読者との関係の もとになされていたのであり、武田の小説は、一面で彼らの期待の地平を作品化することが目指されていたとも 想 定 さ れ る の で あ る 。 しかもこの﹁情婦殺し﹂と、﹁士魂商才﹂﹁貴族の階段﹂の聞に約十年近い時間の聞きがあることは示唆的で ある。前者は同時代の人々を作品素材として描くにとどまっていたのに対し、後者は彼らの有するであろう小説 に対する期待を想定し、それを作品に還元するという方法をとっている。このことは、武田がこの十年の聞に、 同時代人という漠然とした対象を、自らの作品読者として対象化しなおしていることを示唆している。いいかえ れば、昭和一

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年代に作品に描き取るべき︿素材﹀として見いだされた同時代人が、昭和三

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年代に入って作品 の︿読者﹀として対象化しなおされ、彼等、一般読者群を照準とする一種の対読者戦略とも言うべき意識的な試 みに発展したともいえるのである。 2 読者をめぐる問題系 武田小説の形成を上記のような視点から再考した左き、武田の小説と戦後言説空間の関係性を確認する上で、 あたらな視点の導入が要請されるだろう。それは言うまでもなく、︿読者﹀をめぐる問題系である。 しかし、この︿読者﹀という問題系を設定することは、実は武田研究においては極めて困難を伴うことでもあ

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る。なぜなら武田の作品を受容する具体的読者像は、たとえば前章第二節で試みた、掲載雑誌が対象とする読者 層を武田作品の読者として読み替える方法を除き、極めて確認しにくいからである。また、読者論、あるいは読 者をめぐる社会学的な成果を武田読者と読み替えるにも、それら研究の中心が明治から戦前期を主要な対象とす ることが多く、戦後作品の読者像とは必ずしも一致しない面を有しているからである。 ただ、批評家・研究者といった形で存在する同時代読者群については、その動向を確認することは可能である。 しかし、彼らの作品に対する読みは、批評という制度の下に他者との差異を強制された特殊なものであり、その 読みの行為から武田が読者戦略の対象とした一般読者群の読書行為を想定することには無理な点が多いのであ る。つまり、仮に読者を検討対象としても、それは具体的な読者像ではなく、作品が存在した読書空間の復元に よって想定される、仮想の読者像にとどまらざるをえないのである。 だが、たとえ復元された読者像が仮構の存在であったとしても、そうした試みがまた、無意味な作業ではない ことも事実であろう。仮構の読者像を彼らを取り巻く空間の様態から確認することは、武田作品が生成し、流布 した︿場﹀、つまり武田の小説作品を取り巻くメディア環境を前景化する試みに接続するからである。 いうまでもなく小説は作者から読者に直接届けられるわけではない。そこには掲載誌をはじめとするさまざま な媒体が存在し、その媒体自体も作品以外のさまざまな言説を併載し、付帯しながら一般言説空間に流通してい くのである。つまり、自明のことではあるが、小説が読者の元に届くには、さまざまなメディアの機能が働くの で あ る 。 206

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-そしてもちろん小説だけではなく、それを生み/読む、作者/読者とも、それらメディア言説と切り離された 存在ではない。先に見たように、武田は出版メディアの動向に馴致して作品を生成したのであり、一般読者も、 自らの期待の地平をブ!ムという形で立ち上げ、メディアを通じて作者に伝えることで、作品形成の無言の圧力 として働いていたのである。要するに、作品とは作者と読者の相互干渉の領域なのであり、その干渉はメディア を通路として発生しているともいえるのである。したがって、︿読者﹀という問題系を設定することは、必然的 に︿メディア﹀の機能を引き寄せるとととなり、作品とその意味の生成過程を、同時代の交雑、交渉する言説の なかで相対的にとらえ直す試みにつながるといえるのである。 3 メディア論援用の可能性 ところで、武田研究はこれら読者論、あるいはメディア論的な立場から検討されることはほとんどなかったと い え る 。 もちろんそれは、戦後メディア研究がまだ基礎資料整備の段階にあり、文学研究の領域への応用が行いにくい 状況にあることとも関連しているだろうし、根本的には武田論の動向が戦後派知識人を中心とする世代的共感の もとに展開してきたことが影響しているだろう。だが、たとえ武田論の現在をめぐる状況が、同時代の一般言説 空間を視座として検討することを拒んでいるとはいえ、そうした視点から武田作品を分析する必要がないとは言

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い 切 れ な い だ ろ う 。 なぜなら、武田が盛んに小説を発表した昭和三

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年前後は、さまざまなメディアの成長、成熟期に当たってい た か ら で あ る 。 たとえば週刊誌は昭和三一年の﹃週刊新潮﹄の創刊をきっかけに昭和三五年までに、﹁週刊誌ブ

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ム﹂という 言葉を生むほどに発達し、一般言説空間に大量の言説を流布させるマスメディアとして発達した。閉じく映画も 昭和三二年前後には制作数がハリウッドのそれをしのぐまでに成長し、戦争によって破壊されたラジオもまた昭 和二三年に普及率八二、五%と放送開始以来最高の普及率を示し、戦前以上の放送網とコンテンツを増やした。 そしてそれらに取って代わるように出現したテレビも急速に受信契約数を伸ばしていく。 こうした飛躍的なメディアの発達によって、昭和ニ

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年代前後の一般言説空間には、かつてないほどの爆発的 な情報が流通したのである。そしてその発達と軌を一にするように、武田も小説作品を量産していく。 そのことは、武田作品の多くが爆発的に増加するメディア言説の中に組み込まれることによって、生成・流通 したことを意味するであろう。しかもそれは、小説の受容者である︿読者﹀をめぐる問題とも無縁ではない。 作品がメディア言説に組み込まれた存在であるならば、作品を読むという行為は、読者が作品を取り巻く言説 空間に参入することになるであろう。つまり、読者は小説をメディア言説の禍中で読まされるのであり、小説の ︿意味﹀は、読者の意識・無意識にかかわらず、緒言説を引き寄せることで形成されていたと思われるのである。 208

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-このように、武田作品に戦後メディア空間の形成と発展という時代背景を重ね合わせたとき、武田作品が、メ ディア、あるいはそれが生み出すさまざまな言説と有機的な交渉を持ちつつ形成、展開したことを想像させるの で あ る 。 実際、昭和三

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年前後の武田の著作を読みかえしてみると、思った以上にメディアに関する言及を認めること ができる。その中でも映画に関しては、﹁戦争映画の魅力﹂(昭お・ロ﹃展望﹄)から﹁ 007 の 秘 密 ﹂ ( 昭 引 ・ 3 ・

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﹃朝日新聞﹄)まで約八五本にわたるさまざまな評論、映画評を発表しており、小説も多く映画化されている。 そしてもちろん、武田のメディアに関する言及は、映画だけではなく他の媒体にも及んでいる。それも、自ら の作品発表媒体としての関心や、趣味的な言及にとどまらない面を持っていたことをうかがわせる。 たとえば評論﹁小説の怪物性﹂(昭立・ 1 ﹃ 文 芸 ﹄ ) で は 、 メ デ ィ ア 媒 体

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新聞、週刊誌などの活字媒体、ある いはラジオ・テレビなどの視聴覚媒体ーーの発達と小説の関係、さらには先述の、小説をメディアが生み出す言 説のなかで読むことになる、読者の読書行為にも武田が極めて自覚的であったことがうかがえる。 映画、ラジオ、テレビ、新聞、週刊誌等の小説に対する影響が、云々される。もちろん、これらの外界文化を生み出した現 実が、小説の母胎であるからして、小説が、それらの影響をこうむらないはずはない。しかし、小説自身も、それら外界文化 に影響を与えているのであるから、向こう側からの影響力ばかりを、過大評価するのは、やめにした方がよろしい。 たとえば、映画﹁戦争と平和﹂というものがある。トルストイの大長編を、わずか三時間半のスクリーンに映し出すのであ

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るから、無理ははじめからきまっている。しかし、映画﹁戦争と平和﹂が、見物人を喜ばせ、かっ、トルストイの原作も、こ んなものかと想像するのを止めだてする必要はどこにもない。 ここで武田は、メディアが小説に与える影響を主に二つの面から確認している。それは、メディアが伝える事 件・あるいは言説が作品化されるという創作面での影響、そして読者たちの小説に対する理解への影響である。 まず前者について確認しておくが、武田がここで、小説が外面的要素から影響を受けつつ形成されると同時に、 小説自身もまた外界に影響を与え返していると指摘している点は注目に値するだろう。なぜならこれは、先述の 読者の意味生成の問題、││小説の意味がメディア言説と往還関係を持ちつつ生成されるということーーを、武 田もまた意識化していたことを示すからである。 しかもここで、読者が抱く小説のイメージが、小説単独で発生させているわけではないことに言及している点 にも注目しておく必要があるだろう。映画﹁戦争と平和﹂を観る人々が﹁トルストイの原作も、こんなものかと 想像するのを止めだてする必要はどこにもない﹂という言葉は、読者の中に発生する小説のイメージが、映画を はじめとする周辺メディアが立ち上げる言説と混在することで発生するという状況に自覚的であったことを示し て い る 。 つまり武田にとって、 あ る 。 小説とはさまざまなメディアの中で、そのイメージが複合的に語られる存在だったので 210

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-そしてそれは当然、その複合イメージを引き寄せながら読む存在、つまり武田の読者に対する認識とも無縁で はないだろう。武田にとって、読者は決して自分の作品の共感者ではなかった。彼らはメディアが立ち上げる様 々なな言説を引き寄せながら意味を派生させる、(あるいはそうした言説がなければ意味を派生させることが出 来ない)気ままな存在だと認識されていたのである。 このように考えてみるならば、︿小説﹀は武田にとって、メディア言説の中でさまざまに︿意味﹀を変形させ られる存在だったのである。そして︿読者﹀は、作品をメディアが変形した︿意味﹀をコードとして読む存在だ と認識されていたのである。つまり、武田泰淳とは、小説を取り巻く意味生成機構にきわめて自覚的な作家だっ た の で あ る 。 4 小説と非活字メディアの連携 だが、先の引用で確認しておかなければならないことは、武田はメディア言説が意味に一種のバイアスをもた らすことに悲嘆するわけでも、メディアの与えるイメージが、作品に対して優越することに憤慨しているわけで もない。それどころか、先の引用にあった、映画を見て原作を﹁こんなものかと想像する﹂一般読者の意味生成 を﹁止めだてする必要はどこにもない﹂としているところからは、むしろ小説がメディアと複合的に意味生成を おこなうことを肯定しているともとれるのである。

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事実それを裏付けるように、実作の中にも、武田が小説と非活字メディアの連携を構想していたことをうかが わせるものを見いだすことができる。 研究史上触れられたことはなかったが、武田はラジオドラマ﹁戦争と平和﹂を書いている。これは全集未収録 であり、武田の年譜としてはもっとも詳細な古林尚編の﹁武田泰淳年譜﹂にもこうした活動が記されていない。 そこで若干長くなるが、新資料紹介的な意味も込めてここに紹介しておきたい。 ﹁戦争と平和﹂は、日本演劇協会編﹃年刊ラジオドラマ第三集﹄(昭却・ 5 宝文館)に収録 されている。なお、同書に収録された際、ドラマ本文の後に﹁作者のことば﹂と題された一文が付された。 らも全集未収録である。以下に全文引用しておく。 このラジオドラマ こ ち -212 -作者のこ

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ば ラヂオ・東京の職員諸氏が熱心にとび廻って集めた録音を、 つないだものにすぎない。プランも大体は諜のデスクで決定し ていて、僕はただナレイシヨンの文案をこしらえたのみ。苦心の録音はどれも貴重で棄てがたかった。とても個人のあたまの はたらきでは想像も吸収できぬほど、豊富で複雑な﹁現世の音響﹂を切りすてて痩せほそらせてしまったうらみがある。案外 に反響が大きかったのは、録音そのものが優秀だったからだ。僕としては、デスクのプランはなるべく大まかにしておいて、 ナマの音響そのものからプランをつかみ出すようにした方が、 マネリズムにおち入らなくてよいとおもう。ラジオ職員と作家

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の協力は、作家にとって実によい勉強になる。テェプレコードを自由に聴かしてもらうだけでも、狭い殻を破られる気持ちが して楽しいものだ。 放送の詳細であるが、同書によれば、ラジオ東京(現、目 ω ラジオ)で昭和二九年一月二八日(時間未詳)に放送 された。語り、田村秋子。音楽、黛俊郎。演奏、ネオ・ドラム・トリオ。合唱、二期会。企画・演出、ラジオ東 京 社 会 部 。 作品は、戦争未亡人英子の一人語りの形式をもっ。内容は看護婦の仕事をしながら一人娘広子を育てる英子が、 亡き夫﹁あなた﹂に向けて、戦後日本の現在を伝えるものである。しかし、このドラマはその﹁現在﹂の語り方 に非常な特徴があるといえる。たとえばそれは以下に引用する冒頭部からもうかがえる。(紙幅の都合で一続きのせ りふの中での改行は斜棋で示した。) 英子 あなたあなたあなたあなた(エコ l ) 英 子 あなたが赤紙をうけとって、わたしから離れていったころ、広子はまだ赤ん坊でしたわね。広子が生まれてからあなた は三日目に召集。入隊の朝わたし門口までやっと歩いて行って、お見送りしただけで、貧血してしまって、何もかも見え

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なくなったものですわ。/あのときは我慢して、掴ひとっこぼしませんでしたけど、今考えると思い切り泣いておけばよ かったと思います。今ではもう、あなたの胸にすがって泣くこともできません。/広子も、もう十になって、元気で学校 に通っています。わたしは広子を、学校へ出してやったあと、病院へ出勤して、赤ちゃんたちの元気な泣き声にとりまか れ、自の廻るようないそがしさですむ 効 果 赤 ん 坊 の 泣 き 声 。 工場のサイレンの音。 英 子 空襲ではありません。 工場のお昼のサイレンです。安心して下さい。もう戦争が終わってから十年になるんです。広子 214 -も病気一つしたことはありません。/わたしの御世話してゐる、生れたての赤ちゃんたちは、今でも色々な物音におびや かされています。広子だって、十年前にはおそろしい物音や、イヤなひびきに耳を痛めながら、それでもようやく小学校 に入れるまでになったのです。 効 果 ジ ェ ッ ト 機 の 立 目 。 英子 Bm? い い 、 ぇ 、 これはあなたが、見たことも聴いたこともない、ジェット機という飛行機なのです。もちろん、戦闘

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機 で す わ 。 で も 、 なんに 日本のではありませんの。そうそう、あなたは赤ちゃんとおなじことで、音だけ聴いたのでは何もわ からない筈でしたわね。あなたに聴かせてあげたい音、聴かせたくない音。あなたが喜ぶ音、悲しむ音。あなたの怒る音、 舌打ちする音。/でも英子は、結婚するときあなたに御約束したようにウソはつかないことにします。 効 果 傷療軍人の声、車中やがて歌声の録音。 ﹃車内の皆様方にお願いを申し上げます。またはじまったかと、さぞかし不愉快な方もございましょうが、悪く思わない こんにち で下さい。/皆様方と共に祖国の為、身命をとして戦って参りましたが、不幸にしてカタワになった今日完全な国家保障 も与えられない現状であります。 どうか皆様方の可愛いい坊ちゃんや、また、大切なご主人に再び、 この様な苦しみを味 わわせない様、申上げるものであります。甚だ勝手な行動ではございますが、今ひとたびの:::﹄ 英 子 び ゃ く い あなたも、きっと、白衣の方々の、苦しげな訴えの声は聴きたくないでしょうね。乗客たちも、あの声を聴くたび、う つむいたり、横見をしたり、ねむった、ふりをしています。息苦しくなって来て、ジツとしていられないからです。金属 ひ か り 製の義足や義手の、冷い光。骨をこすり合わせるより、もっと気味のわるいきしみ。もしあなたが、手脚をなくして生 はずか 公衆の面前で、恥しさを忍んで、物乞いの声をはりあげな き残り、英子が死んでいたとしたら、あなたもこんな風に、 ければならないのでしょうか。そしてそんなみじめなあなたの傍に、広子は乞食の子のように、 っきそったりするのでせ

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うか。厭やよ。厭やですわ。もしもそんなあなたと広子の姿を草薬のかげから見なければならないとしたら、英子は死ん でも死にきれなかったでしょうね。誰だって、暗い戦争の想い出は忘れたいのです。傷虞軍人の方々だって、イヤな想い 出をわたしたちに押しつけようとして、わざわざ不具の身体を人混みにもまれているのではないでしょうに。消え入りた い想いをしながら、ジッと繕え忍んでいるんですわ。誰だって、自分のカで生きたいんです。英子だって広子だって、他 人のあわれみにすがって生きようとは思っていませんわ。誰だって、独立したい、議だって立派な仕事を持って、 一 人 前 に生きたいんですわ。英子もそして私達の広子も 音楽 C

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・ 。

英子 日本は平和です。平和の日の日本の少年少女は、健康に育って行きます。聴いて下さい。 一月十五日、成 今 の と こ ろ 、 人の日に因んでの感想文に当選した女子学生の言葉。 効 果 ﹁ 二 十 歳 の 願 い ﹂ 録 音 。 ﹃何か世の中の設にたつものになりたい、あたり前のことかもしれないが、これが二十歳になる私の心からの願いである -( 後 略 ) ﹄ 216

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-この官頭部の引用からわかるように、この作品は﹁現在﹂を語る手法として、同時代空間に現実に存在した生 の街頭録音や他の音声テクストをそのまま挿入する形式を取っている。 この作品が収録された﹃年刊ラジオドラマ﹄を見る限り、当時のラジオドラマは、朗読劇と同じく文字テクス トを音声化したものが中心であったといえる。したがって音響テクストは効果音として使われる音楽が中心であ り、分量的にも少なかったといえる。しかし、﹁戦争と平和﹂では、音響テクストは全体の半分近くを占め、そ の内容も、音楽だけではなく演説や街頭録音などの言語テクストが多数取り込まれているのである。つまり、せ りふ中心のラジオドラマに対して、この作品では地の語りと音響テクストが均等な価値をもって扱われているの で あ る 。 こうした作品形式は、当時のラジオドラマの中ではかなり印象的であったようである。この作品が収録されて いた﹃年刊ラジオドラマ﹄は採録基準のひとつに﹁ラジオドラマの鑑賞に熱意を有される会員より、特に印象に 残った秀作の推薦﹂を置いている。このことはこのドラマが旧来のラジオドラマ、いいかれば、語りが優先する 朗読劇に近い形式を有するドラマとは、一線を画する作品として認識されていたことを示しているであろう。そ してそれを作り手の意図の反映と読み替えれば、この作品は、旧来の作品にない新たなラジオドラマの形式を目

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指して作られていたとも思われるのである。 このドラマが有する、せりふと音響テクストが均等に存在することは、一つには戦後日本の﹁現実﹂を伝える という作品内容にリアリティを強化する機能を有したであろうし、言語を中心とする音響テクストを導入するこ とは、せりふによって状況を説明するよりも聞き手により多くの情報を伝達するという利便性もあっただろう。 しかしそれよりも、これら音響テクストは、作品の地の語りともいうべき英子のせりふと関連させられたとき、 英子の心中を代弁する働きを持つことには留意しておくべきであろう。 先の引用でいうならば﹁二十歳の願い﹂という音響テクストが、そうした機能を有している。ここで取り込ま れる﹁二十歳の願い﹂は、平和な日本で成長した女学生の言葉であり、それはまた英子の一人娘のあるべき姿と して聞き手に提示される。言い換えれば英子の内面を代弁する心中語としての機能を有するのである。しかも英 子がそれを﹁聴いて下さい﹂という形で直接聞き手に訴えかけることは、直後に流される音響テクストが、英子 の語りを意味づけるものであることを明確に聞き手に示すことになるのである。つまりこの作品は、音響テクス トと語りの融合を目指していたと恩われるのである。 先に触れたように同時代のラジオドラマは、朗読劇に近い形態を持つものが多かった。それを考え合わせるな らば、音響テクストと語りを連動させるというこの作品は、既存の朗読劇、あるいはラジオドラマの枠組みを突 破する新しい表現の試みを志向していたことを示すであろう。 そしてまたこの作品でなされた、語りにおける意図的な音響テクストの導入は、武田がラジオという音響テク 218

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-ストだけを伝えるメディアの特性と、そのメディアの中で︿読む﹀のではなく︿聴く﹀という受容行為を強いら れる聞き手の存在を念頭に置いていなければできなかったことである。そこからはまたこのテクストが、音声を 伝えるというラジオ媒体の中で有効に機能する作品を目指して編成されたことも示すであろう。 このように、ラジオドラマ﹁戦争と平和﹂には、音声メディアの特性を意識化した武田の戦略性を読み解くこ とができるのである。そしてこのことは、先述の武田が認識した読者の意味生成機構と無縁ではないであろう。 繰り返すが、後に武田は、小説とメディアが複合的に意味を形成することに積極的な態度を示すようになる。 そのことを改めて﹁戦争と平和﹂の試みに重ねたとき、この作品はテクストの意味が、作品発表媒体やメディア 言説などと有機的に関連しながら生み出されることを武田に意識させる端緒になったとも思われるのである。 5 メディアコラポレ

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シヨンの可能性 ところで、先にも少し触れたが、﹁戦争と平和﹂が放送された閉じ年、武田は小説﹁声なき男﹂(昭却・ 8 ﹃ 別 冊 文義春秋﹄)を発表する。この作品は虚構度が高いとはいえ、ラジオ局を舞台にしており、﹁戦争と平和﹂制作時 の体験が過分に反映していると思われる。そういった意味からは、この作品が昭和二

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年代前半の実体験をもと にした掌編群と同系のものと位置づけることができるかもしれない。ただ、そうした位置づけはあくまで作者レ ベルでの位置づけである。同時代空間のなか、ラジオと小説というこつの媒体の狭間でこの作品を読んだ読者に

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と っ て 、 この小説はまた違った意味づけをもたれたのではなかったか。 作品中には次のような一文が描かれている。 課長が﹁戦争と平和﹂という課題を発表すると、 一聞は意気込んだ。夜の八時からゴールデン・アワーに三十分流す、 P 放 送局の自慢番組﹁声の十字路﹂のプランだった。スポンサーなし、制作のための時間と費用もたっぷりもらえる。第一水曜と 第三水曜、月に二回の番組、この﹁声の十字路﹂を、若い正義派の社員たちは﹁民開放送局の良心﹂と呼んで期待していた。 (中略)課題が決定してから約一週間、張切り屋の早瀬などは、文字通り不眠不休の活躍をする。(中略) 企画会議でも、強引に自説を譲らない。﹁ニツベイ産業の実弾射撃とか、外国兵行進軍靴の音とかね。ジェット機の爆音と 220 -か、白衣の不具者の金属製の脚のガチャガチャ鳴る音とか。すっかり遠慮なく盛り込みましょうよ﹂ 少数派であろうが、この作品に先立ってラジオドラマを聴いていた読者に、小説内で﹁戦争と平和﹂の作品名 が示されることは、小説とラジオドラマを表裏の関係としてとらえさせたであろう。﹁声なき男﹂はいわば先行 する﹁戦争と平和﹂の打ち明け話のような意味で読まれたとも思われるのである。事実、小説中においても、先 に引用した﹁戦争と平和﹂の中で収録されていたジェット機の音や義足の足音などのさまざまな音響を取り込む 構造を持つことが示されることからは、そうした手法が印象的であったと受け取られた﹁戦争と平和﹂を作品に 引き寄せて読む装置となったと考えられるのである。

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ただこの小説の物語軸は、過敏な聴覚を持った男、が、それがために精神をむしばまれる過程におかれており、 こうした打ち明け話的要素は武田の内に意識されていなかったといえるだろう。だがたとえそうした物語軸に沿 ってこの作品を読んだとしても、﹁戦争と平和﹂を知る読者がこうした装置を自にしたとき、作品に対して一種 の趣向を感じるのではないだろうか。そうした読者にとって、この仕掛けはいわば外部テクストとの交響によっ てテクストへの関心を深める要素として働いたといえるのである。 もちろん、読者がこうした読みの行為をおこなったことを直接的に示す資料はない。したがってこれもまた、 先に述べたような読書空間の復元によって想像される仮構の読者像にすぎないだろう。 だがたとえそうであったにせよ、武田はこの﹁戦争と平和﹂﹁声なき男﹂を書いた数年後に、読者における小 説の意味生成が、作品外部のメディア言説との交響によって生じることを、評論文の中に書き記すまで意識化す る の で あ る 。 つまり武田は、読者が小説から読みとる︿意味﹀が、小説(あるいは作者)から読者に一方向的に伝達される ものとは認識していなかったのである。武田はそれを、その両者に介在する掲載媒体、あるいはそれらの関係を 取り巻くように存在する、同時代メディアとそれが立ち上げる言説群との交渉によって生じると認識していたと 思われるのである。しかも武田は、先の評論で見たように、テクスト外の言説を作品の読みに反映させる意味生 成行為を肯定的に理解していた。 こうした武田の意味生成行為をめぐる認識は、おそらく小説執筆と無縁ではないはずであろう。仮に小説執筆

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に際し、武田がこれら読者が有する意味生成機能を強く意識していたとするならば、武田の小説作品は作品の周 圏に存在する言説との交渉によって意味を形成することが目指されていたといえようし、読者が小説内記述の参 照軸として小説外言説を引き寄せる戦略を施していたともいえるのである。 6 ︿ 意 味 ﹀ 生 成 の 周 圏 そのように、武田の小説を昭和三

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年代に爆発的に拡大したメディア環境を背景としてとらえなおしたとき、 武田の小説に対する考察は︿メディア﹀とその言説に拘束される︿読者﹀、そしてそれらの関係性の中から読者 が生み出す︿読み﹀を射程に収めなければならないだろう。 本章は前章に引き続き、武田の小説と戦後言説空間の関連性を確認する。しかし前章で対象とした︿言説﹀は、 たとえばブ

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ムといった形で示されるような、同時代の制度や時代相が立ち上げた幅広い集合意識であった。し かし本章で扱う言説は、作品の︿読者﹀たちが、作品あるいはそれに関連するメディアの周囲で立ち上がるもの に 限 定 し た い 。 また前章では同時代言説が武田の小説作品に与えた影響を一方的に確認しただけであったのに対し、本章は同 時代空間が小説に与えた影響だけではなく、小説が同時代空間に与え返した影響も検討対象とする。つまり、小 説と読者(の形成する同時代言説)を往還関係から確認することを主眼としたい。 222

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-そしてその関係性を確認する手がかりとして、両者の媒介となるメディアの機能に着目し、武田テクストが同 時代空間といかなる関係性を持ちながら︿意味﹀を形成したのかを確認することとしたい。 その事例として、以下の第一節では新聞メディアと小説の関係性を検討する。そこでは、武田が新聞小説の連 載に際して、媒体が読者の読みに与える影響をいかに自覚していたかを確認し、それが連載中の新聞媒体が立ち 上げる言説とどのように関連し、読者にくみ取られたのかを考察する。 つづく第二節では、戦後を特徴づけるメディアの一つである︿週刊誌﹀と武田作品の交渉性を検討する。そこ ではまず週刊誌言説が武田にもたらした影響を確認し、そのうえで、週刊誌媒体が立ち上げた同時代言説および その叙法に、読者がどのような影響をうけ、作品を読んだのかを考察する。 そして第三節では、武田作品を取り巻く複数の言説が︿意味﹀の発生に与える力学を測定する。そこではまず、 販売戦略の過程で作品に付与される言説││出版・広告・映画ーーが、テクストに二次的な意味を発生させる過 程を検討する。そしてそれが戦後の一大娯楽として成長した観光業とその周辺で立ち上げられる言説に組み込ま れることで、読者にどのような︿意味﹀をもたらしたのかを考察する。 これらの視点から武田作品を検討しなおすこと。それは単に作品の読み方を示すだけにはとどまらない意味を 持つはずである。このことは、武田の小説作品が戦後空間に存在した読者・メディア・制度などとさまざまに関 連しながら︿意味﹀を生成する有機的なテクストであったことを示すであろうし、同時に、武田泰淳を、戦後空 間に聞かれたテクストの生産者として再評価する端緒になるとも思われるからである。

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第三章 第 節

︿

の中で書く/読むこと

﹁花と花輪﹂の対読者戦略

-225

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-1 武田の新聞観││読者とメディアの交渉性 本章の目的は、武田の小説作品を、昭和三

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年代のメディア環境、その中で形成される言説、そしてそれを作 品の参照軸とする一般読者群の読書行為から再検討することにある。しかしすでに見てきたように、武田の小説 作品と外部メディアの関係性は、なにも本章の検討対象である昭和三

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年代にはじまったことではない。 第二章第一節で検討した作品﹁情婦殺し﹂からは、民主主義の解釈格子として機能した昭和二五年前後の新聞 メディアの影響下に形成されたことが確認された。この作品で武田は、新聞言説に馴致される人々の姿を描いて いたわけだが、いま改めてこのことを思い出すならば、武田は昭和二

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年代中盤で早くも新聞メディアが持つ潜 在的な影響力をかなり意識していたことになるであろう。 だが、小説からはその関心がうかがえるものの、昭和二

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年代において、新聞に対する武田の直接的な言及は ほとんど見当たらない。その意味で、武田のメディアの機能に対する関心は散発的なものであったといえるのか も知れない。しかし、昭和三

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年代に入ると、武田の新聞に対する言及は増加する。このことは武田の新聞に対 する関心が一過性のものでなかったことを示すであろうし、新聞に限らずマスコミ自体の発達が著しくなった昭 和 三

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年代の時代状況の中で、これらが再燃したことを意味すると思われよう。 とはいえ、これらこれら昭和三

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年代になされた言及は、多く新聞社の依頼によるものであり、言及の増加だ けで武田の新聞に対する関心を測れない点には注意が必要かもしれない。だが仮にこれら発言に武田の自主性が

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無かったとしても、武田がこれらの記事の中で、常に新聞における読者の役割を語っている点には着目しておか なければならない。 たとえば評論﹁気はやさしくて力持ち﹂(昭日・ 9 ・ 7 ﹃毎日新聞﹄)では、新聞が庶民の様々な問題を解決した 実例を紹介したうえで、新聞と読者の関係を以下のように述べている。 戦後、新聞と読者の関係はガラリと変化した。家庭の日常の声が、紙面にどんどん流れ込む。新聞はもはや一方的に﹁読ま されるから読むもの﹂ではなくなった。読者がその気になりさえすれば、自分たちのカで新聞を﹁気はやさしくて力持ち﹂の 代表にすることもできる。もっともよく活用される新聞社が、最大の読者を獲得するにちがいない。 227 -﹁家庭の日常の声が流入する﹂という表現が示すように、ここでは新聞が読者の声を反映する媒体として意味 づけられていよう。同様の見解は﹁昭和に入って﹂(昭 M M ・-掲載紙未詳)でも述べられており、こちらでは戦後 の新聞の﹁民主主義の問題が、熱っぽい議論から、堅実な実践へと移行してゆくにつれ﹂、読者が新聞に対して 与える役割が増したことを述べている。 この言及からは、昭和二

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年代の新聞認識と大きな差異があることがわかるだろう。前章の﹁情婦殺し﹂から 確認できたのは、新聞から読者へ与えられる影響であった。しかしこの引用では、逆に新聞が読者からの影響に よって形成されていることを述べている。つまり昭和二

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年代で、新聞が人々の解釈格子として機能することを

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見出していた武田は、民主主義が﹁堅実な実践へと移行﹂した昭和三

0

年代に入って、新聞は常に読者との相

E

作用の中で生み出される媒体として再認識されたのである。 そして当然のことながら、そうした新聞に対する認識は、武田が新関連載小説に対して抱いた意識とも通底す るものがあろう。そのように武田の新聞小説観を仮定するならば、武田唯一の新関連載小説である﹃花と花輪﹄ { 昭 お ・ u -H i 昭 珂 ・ 6 ・認﹃朝日新聞(夕刊)﹄)には、つねに新聞読者の動向を意識した対読者戦略がうかがえる と思われるのである。 本章の主眼は、武田作品と読者の関係を検討し、同時代空間における武田作品の読みの有機性も確認すること にある。そのためには、作品と読者をつなぐメディアの力学を対象とする視点は不可欠であるだろう。そうした 意味からいえば、新聞という膨大な読者群を有するメディアに連載された本作は、武田作品と読者の問題を検討 する上では貯個の例になると思われるのである。実際、新聞に連載するということは、文芸誌などにはない不特 定多数の読者層に作品が読まれることであり、作者にとっては、新たな読み手に向けて関心を喚起しなければな らないという使命も発生するであろう。したがって新関連載小説を検討することは、メディア環境における読者 の意味生成に自覚的であった、武田の対読者戦略を浮き彫りにすると思われるのである。 2 新聞小説の読まれ方││社会学的視点から

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連載完結後に出販された単行本﹃花と花輪﹄(昭 M ・叩新潮社)には﹁あとがき﹂が付された。ここでも武田は、 新関連載に際して読者をかなり意識していたことを書き記している。 ぼくのような世間知らずが、新聞小説をひきうけるなどとは、およそ無責任な話かもしれない。社会人としては使い物にな らぬほど、体験も性格も、偏っているのに、そのぽくが何百万人もの読者を、少しでも満足させることなど、できるわけがな いのである。しかし、新聞小説を書くのが、うれしかったのは否定しょうがない。 この引用の﹁何百万人もの読者を、少しでも満足させる﹂という言葉からは、二つのことがわかる。一つは膨 大で不特定多数という新聞読者層の特徴を、武田が十分に意識していること。そしてもう一つは、実現の可否は 別としても、そうした多数の読者群に対して何らかの興味を喚起する小説を目指していたことである。しかもこ の引用文のあとには﹁読者からの質問の通信に一つ一つ答えられなかった﹂という発言もある。このことは、連 載中に投書という形で示された読者の反応を、武田が常に意識しながら作品を書き進めていたことを示している。 つまり武田は、新聞読者群が有する読書意識に常に関心を払っていたのであり、彼らを共通して﹁満足させる﹂ 方法を模索していたといえるのである。そしてそれはまた、読者群が持つ感性に作品自体を馴致させる戦略があ ったことも想定できよう。 ところで、新聞、あるいは新聞連載小説とは、読者に対していかなる機能を持つものであろうか。朝日新聞大 229

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-見出していた武田は、民主主義が﹁堅実な実践へと移行﹂した昭和三

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年代に入って、新聞は常にずもとへ

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作用の中で生み出される媒体として再認識されたのである。 そして当然のことながら、そうした新聞に対する認識は、武田が新関連載小説に対して抱いた意識とも通底す るものがあろう。そのように武田の新聞小説観を仮定するならば、武田唯一の新関連載小説である﹃花と花輪﹄ ( 昭 お ・ ロ ・ 日 1 昭 話 ・ 6 ・認﹃朝日新聞(夕刊)﹄)には、つねに新聞読者の動向を意識した対読者戦略がうかがえる と思われるのである。 本章の主眼は、武田作品と読者の関係を検討し、同時代空間における武田作品の読みの有機性も確認すること にある。そのためには、作品と読者をつなぐメディアの力学を対象とする視点は不可欠であるだろう。そうした 意味からいえば、新聞という膨大な読者群を有するメディアに連載された本作は、武田作品と読者の問題を検討 する上では好個の例になると思われるのである。実際、新聞に連載するということは、文芸誌などにはない不特 定多数の読者層に作品が読まれることであり、作者にとっては、新たな読み手に向けて関心を喚起しなければな らないという使命も発生するであろう。したがって新聞連載小説を検討することは、メディア環境における読者 の意味生成に自覚的であった、武田の対読者戦略を浮き彫りにすると思われるのである。 2 新聞小説の読まれ方││社会学的視点から

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連載完結後に出版された単行本﹃花と花輪﹄(昭 M ・叩新潮社)には﹁あとがき﹂が付された。ここでも武田は、 新聞連載に際して読者をかなり意識していたことを書き記している。 ぼくのような世間知らずが、新聞小説をひきうけるなどとは、およそ無責任な話かもしれない。社会人としては使い物にな らぬほど、体験も性格も、偏っているのに、そのぼくが何百万人もの読者を、少しでも満足させることなど、できるわけがな いのである。しかし、新聞小説を書くのが、うれしかったのは否定しょうがない。 この引用の﹁何百万人もの読者を、少しでも満足させる﹂という言葉からは、二つのことがわかる。一つは膨 大で不特定多数という新聞読者層の特徴を、武田が十分に意識していること。そしてもう一つは、実現の可否は 別としても、そうした多数の読者群に対して何らかの興味を喚起する小説を目指していたことである。しかもこ の引用文のあとには﹁読者からの質問の通信に一つ一つ答えられなかった﹂という発言もある。このことは、連 載中に投書という形で示された読者の反応を、武田が常に意識しながら作品を書き進めていたことを示している。 つまり武田は、新聞読者群が有する読書意識に常に関心を払っていたのであり、彼らを共通して﹁満足させる﹂ 方法を模索していたといえるのである。そしてそれはまた、読者群が持つ感性に作品自体を馴致させる戦略があ ったことも想定できよう。 ところで、新聞、あるいは新聞連載小説とは、読者に対していかなる機能を持つものであろうか。朝日新聞大 圃

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229-阪本社学芸部で新聞小説を担当した平井徳志は、﹁新聞小説の社会学的考察﹂の序文で以下のように述べている。 新聞の本質的な使命はいうまでもなくニュースの伝達である。それをどんな形で伝達するかはその新聞の性格や伝統そ してそれからくる編集方針でそれぞれ異るが、原則的には紙面のどこを見てもニュースで埋まっていることが必要である。 ( 中 略 ) このように全面ニュースで盛られている紙面に二段もの貴重なスペースをとっている新聞小説が編集の総合美とい・﹁ 白 川 、 さらにニュースの伝達という新聞の社会的使命から全く逸脱してよいかどうか。(中略)これと同様に新聞小説といえども 濃淡の差は勿論あるがこれらの制約、少くともその新聞の編集方針からくる制約から全然別天地を歩むことが許されてよ いかどうか D 大多数の読者は﹃あした来る人﹄を﹁井上靖﹂の作品と考えていると同時にまたそれを﹁朝日の小説﹂と見 て い る の で あ る 。 ﹁どこを見てもニュースで埋まっている﹂新聞は、多様な出来事や言説が一つの紙面のなかでせめぎ合う媒体で あることを示している。しかもそうした性質のもとで連載されるということは、新聞小説は他の記事と差異化さ れることなく読まれ、それがゆえに他の記事が発するさまざまな言説と関連させられているのである。引用文の 最後にあった、個別の作品を﹁朝日の小説﹂と見るという感性は、新聞小説を必ずしも︿文芸﹀としてのみ特別 視してはいないという側面を暗示しているだろう。読者における新関連載小説とは、あくまで他の記事と同列で

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あり、読みの行為としても、それら記事に挟まれるように読まれているにすぎないのである。 しかも小説と記事との関連性でいうならば、新聞小説は連載当日の記事のみと関係を持たされているわけでは ない。連載形式がある一定の日数を通じて読むことを前提としている以上、読者は連載期間に報じられた記事と の関係性を有していたことを示すであろうし、連載開始以前に読んだであろう記事との相関性も想定できるので あ る 。 平井は先の引用に引き続き、新聞小説の条件として﹁狭義のニュース性﹂が必要であることをのべている。 ﹁狭義のニュース性﹂というのは新聞に出た事件即ちその小説の連載期間中、あるいは時間的に接近したその以前に起き -231 -たビッグニュース、ポピュラーだった事件たとえば地震、風水害、火災などの天変地異。選挙、政変、国会などの国内外 の関係、さては松川事件、汚職、水爆マグロの如き。また連載中に移り変わって行く季節などをその作品におり込んでい くことは、読者を極めてその小説に親近性を感じさせる。 いうまでもなく新聞は単発的に発せられる媒体ではない α したがって新聞読者は、毎日の紙面を読むうちに、あ る一定量の情報を蓄積していくことになる。つまり新聞小説の読者は、当日の記事との関連に加え、﹁小説の連 載期間中、あるいは時間的に接近したその以前に起きた﹂情報とも対比しながら読むという、媒体が持つ情報性 に大きく感化された読者群なのである。

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3 読者の感性に馴致すること このように、連載小説を読む新聞読者たちは、同じ媒体で報じられていた事件記事を解釈コ

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ドとして作品に 引きょせるという方法をとっていたのである。そしてそうした行為を通じて読者が小説に﹁近親性﹂を抱くなら ば、新聞読者の意識にことのほか敏感であった武田が、こうした読者の感性に作品を馴致させなかったとは考え に く い だ ろ う 。 それを裏付けるように、﹁花と花輪﹂にも、新聞読者の感性に馴致するように、﹁選挙﹂という﹁時間的に接 近したその以前に起きたビッグニュース﹂が作品の外枠とされている。昭和三五年一

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月二四日の衆議院解散か ら一一月二

O

日の投票までの第二九回衆議院議員選挙がそれである。この選挙期間が作中時間とほぼ一致してお り、連載開始が投票の約一ヶ月後であったことは注意すべきであろう。当然ながら連載紙である﹃朝日新聞﹄は、 作品連載開始までに選挙戦の展開を読者に報道していた。つまり読者は新聞記事を通じて選挙戦の顛末を一通り 知り得ていたのであり、しかもその記憶がさほど薄れていないうちに連載が開始されているのである。このこと は、読者が新聞から得た︿選挙戦﹀という読書コ 1 ドを、武田が意図的に利用しようとしていたことが暗示され る の で あ る 。 しかもこの作品が時間的に接近した新聞報道を採用したのは、構成面だけではない。細部の設定や描写にも、

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読者に先行する新聞記事を想起させる記述が散見している。 たとえば花枝が新聞記者に﹁前進党の委員長 A 氏が、十七歳の少年に刺殺された事件﹂の感想を求められる場 面(連載第五九回昭 M ・ 2 ・

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も、連載直前の昭和三五年一

O

月一二日に発生し、以降﹃朝日新聞﹄紙上で断続 的に報道さん止桟沼社会党委員長刺殺事件を容易に想起させたであろう。また連載第六七回(昭 M ・ 2 ・

8

冒頭 にある﹁昭和三十五年、十月二十四日、午後九時三十一分、衆議院は解散した。﹂という詳細な時間の設定も、 ﹃朝日新聞﹄(昭お・叩・ぉ、朝刊第一面)の﹁衆議院解散総選挙来月二十日﹂の記事の書き出し﹁衆院は二十四 日午後九時三十一分解散した。﹂などと接近している。 もちろん読者は、こうした記事の文言を明確に覚えているわけではないだろう。だが、小説を掲載した﹃朝日 新聞﹄が、連載直前まで作品の骨子となる衆議院選挙に関する情報をさまざまに掲載古 5 ぺいたことは、読者があ らかじめ作品の理解の土台となる情報を媒体によって提示されていたことを示すであろうし、そうした情報と作 品を対比しながら読んだことが想像されるのである。 平井は先の引用で、読者が先行する新聞記事を作品内から読みとることで﹁近親性﹂を増していると指摘して いた。平井が朝日新聞の新聞小説の担当であることを考えれば、こうした﹁ビッグニュース﹂を作品に盛り込む ことは、新聞社側がこれを対読者戦略として必要な要素であると認識していたことを示していようし、﹁花と花 輪﹂もそうした新聞社側が提示する戦略と一致した面があるといえよう。もちろんこのことは、偶然の産物だと いうことができるかも知れない。だが作品構造を分析すると、武田はこうした新聞小説の戦略に関してかなり自 233

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-覚的だった面も読みとれる。 平井は先に引用した﹁新聞小説の社会学的考察﹂に先んじて、朝日新聞の社内文書﹃新聞小説の研究﹄をまと めている。この文書は﹁今後、社が新聞小説を選定する場合、そして作家が構想執筆する際に、いくらかでも参 考になるもの﹂として書かれたものであるが、ここには新聞小説の要素として、先の﹁狭義のニュース性﹂にあ てはまる﹁ニュース性﹂の他に、﹁社会性﹂と﹁地方性﹂が挙げられている。 ﹁社会性﹂とは、いうまでもなく実際に起こった事件を題材に取ることである。この作品がこうした記録性を 持つことは選挙戦や浅沼刺殺事件が盛り込まれていることからもわかるであろう。またここで平井は﹁新聞社は 当時取材していた素材を作家に与え、彼の作家精神をインスパイアさせ書かせ﹂ることがあると述べている。武 田は﹁あとがき﹂で、﹁ A 誌の学芸部 D さんに案内され、昨年の選挙の実態を調査﹂したことを言及していると ころからみて、作品の題材選択には、読者の動向をふまえた朝日新聞社側の要請があったのかも知れない。 また﹁地方性﹂は、作品舞台を東京以外に設定することである。﹁花と花輪﹂も舞台を群馬県に設定している 点で、その戦略に一致している。﹁地方性﹂のもたらす効果について、舞台となった土地と東京在住のその地方 出身者に対する販売戦略に関する側面と﹁作品そのものも地方性を考慮して構成されると全国的なスケールを持 つこと﹂が説明されている。だがそれよりも注目すべきは、多くの場合こうした地方に舞台を設定することが、 作家主導ではなかったことである。平井は、朝日、毎日の両紙の連載小説に地方が出てくるととが増加したこと を述べた上で、﹁作者がこの地方性の重要さを認識して書いているいうよりも、新聞社の注文によって止むなく

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書いたというふしがまだ見える﹂としている。ここから考慮すると、﹁花と花輪﹂が群馬を舞台としたのも新聞 社側の戦略に沿ったものであったということができるかも知れない。 このように﹁花と花輪﹂は、朝日新聞社側が調査した新聞小説の対読者戦略を見事なまでに兼ね備えているの である。もちろん、武田がこうした文章を参考にしたことは語っていない。だが先に引用した社内文章が﹁作家 が執筆構想する際の、参考﹂にするために書かれた面があったということからは、この社内文書の内容が何らか の形で伝えられ、武田がそれにしたがったということが想定できるのである。 このように﹁花と花輪﹂は、新聞小説読者の特性を熟知し、意識的に読者群が有する感性に接近するという戦 略的な構造を有しているのである。そしてこの作品の読者がその戦略にはまったと考えたとき、彼等は新聞記事 によってあらかじめ知っていた情報を、作中の選挙戦に反映させながら読み解いたと思われるのである。しかも すでに述べたように、新聞小説は読者たちの中では︿文芸﹀ではなく、︿記事﹀と併存するものであった。新聞 が出来事を伝えるメディアであるとするならば、新聞記事が伝えた︿現実﹀と小説の︿虚構﹀の分別は、新聞読 者たちの中には希薄であったとも思われるのである。 4 戦略としての ︿ モ デ ル ﹀ 小 説 │ │ ︿ 現 実 ) を 読 む 機 構 と し て ところで武田は、連載開始直前の﹃朝日新聞(夕刊)﹄(昭お・ロ・日 第 7 面)で、この作品を﹁このはげしい、 235

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-油断もスキもない世の中で﹃やさしい﹄若者が、はたして﹃やさ山中性格﹄のままで、立身出世できるものか、 どうか。作者もいささか、気がかりである。﹂として紹介している。この言葉をそのまま信用するならば、連載 当初は武田の中に﹁やさしい若者﹂を描く意図があったといえよう。また連載に先立って、こうした言葉が読者 に向けて発信されたということは、この言葉を作品の解釈格子とした読者群がいた可能性を示している。だがこ の作品の構造に眼を転じたとき、読者たちが﹁やさしい若者﹂、つまり、亜土に焦点化した読みは展開できなか ったとも思われるのである。 武田は連載完結後、単行本﹁あとがき﹂ 枝に関しては以下のように語っている。 で 、

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土をはじめとする作中人物について語っている。そこで大浦花 書きはじめる前に、犬養道子さんにお会いして、話をうかがったのが、ずいぶん良い参考になった。もちろん、大浦花枝の モデルは、犬養嬢ではない。犬養嬢は、立候補をすすめられでも、ことわっているし、年齢も、花枝とは、かなりちがってい る 。 第 一 、 G 県の出身者ではない。ただ、もしも彼女のような美貌の秀才が、選挙運動に身を投げ入れたらという、ヒントは、 たしかに彼女の印象からもらったものである。 ここで武田は、あえて犬養道子のモデル性を否定している。だがたとえ作者がモデルと作中人物の関係を否定 したとしても、読者が受け取った印象はまた別の問題のはずである。しかも読者向きに書かれた﹁あとがき﹂に、

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武田があえて犬養のモデル性を否定する一文をつけたこと自体が、逆に読者が犬養のイメージを重ねる読み方を していたことを知っていたということであろう。 花枝の祖父は﹁乱入した軍人に射殺されている﹂という設定が取られている。この記述からは、昭和七年五月 一五日日に海軍青年将校の指導するテロ(五・一五事件)で射殺された犬養毅を連想するであろうし、そこから 花枝のモデルに犬養毅の孫、犬養道子を想定することは容易であったと思われる。犬養道子の祖父が犬養毅であ ることは、昭和三三年のベストセラーとなった犬養の著書﹃お嬢さん放浪記﹄の紹介文をはじめ、当時彼女を紹 介する一文にはかならずといって良いぐらいに付されていた。 また作品連載直前の昭和三

0

年代前半では、犬養道子は衆目を集めた女性であった。 たとえば昭和三三年に活躍した人物を紹介する﹁今年の面々﹂では、﹁いくつかの新聞のコラムに週刊誌に、 ラジオに、対談に、座談会に、そしてハマフォーム(ヨコハマゴムのスポンジクッション)の広告頁にまで登場、﹂ ﹁NHK の﹃今朝の話題﹄のニュース解説(女性では犬養氏が最初ごをつとめると紹介されている。この言葉 が示すように、犬養はある特定の人々だけに知られた人物だったわけではない。犬養が広告やテレビという不特 定多数の階層にイメージを流布するメディアに登場していたことは、不特定多数の人物にその存在が知られてい たことを意味するであろう。つまり、同時代のほとんどの読者群は、メディアを通じて日常的に犬養のイメージ に接していたのである。そうした読者群が、作品から軍人に射殺された祖父を持つ花枝の設定を読みとったとき、 花枝に犬養道子の姿を二重写しに読みとることになったはずである。 237

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-しかし﹁あとがき﹂にも語られているように、犬養が第二九回衆議院総選挙に出馬をしなかったことも事実で ある。だがそのことは、読者が犬養を花枝のモデルとして認識できなかったことを意味しない。なぜならこの選 挙が生み出した言説には、犬養に関するものが散見されるからである。たとえば選挙告示中の﹃朝日新聞﹄(昭 お・叩・叩第印面)には以下のような記事が出た。 犬養道子さん姉弟岡山で不出馬表明 ︻岡山︼去る八月二十八日死去した岡山二区選出代議士犬養健氏の長女道子さん(三九)と、長男康彦氏(三こは九日、 (中略)そろって﹁今度の総選挙に立つ意志はない﹂と態度を表明した。犬養氏の死去以来、 一部で根強く行われてきた同氏 の後継者擁立の動きも、道子さん姉弟の意思表示で、ハツキリ終止符を打ったわけである。 この引用記事は、犬養道子の不出馬宣言を報じるものである。だが、こうした不出馬宣言が記事になりうると いうことは、裏を返せば彼女がこの選挙戦においてもっとも動向を注目されていた人物であったともいうことが で き る の で あ る 。 またこの記事にも、花枝と犬養道子を接近させる表現が見いだせる。花枝の父である大浦代議士が作中時間の 一

O

月初めから二ヶ月ほど前に死亡したという設定や、花枝が弟の啓三と共に﹁政界では有名な、大浦家の姉弟﹂ と評されていることなどは、この引用した記事と極めて接近していることがわかる。しかも先に述べたように、

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新聞小説において連載に先行する新聞記事が読者たちの解釈コ

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ドになりうることを考えれば、閉じ﹃朝日新聞﹄ に載ったこの記事も、また読者たちに花枝と犬養を接近させる機能を持ったといえよう。 ﹁あとがき﹂において、武田は花枝と犬養道子の近接性を否定した。だが改めて作品を読み返すと、連載初期 の段階において花枝と犬養を結びつける記述が繰り返されているのである。つまり花枝と犬養の接近は、読者の 中にリアルな人物像をイメージさせるための武田の意図的な戦略であったといえるのである。 しかもこうした花枝と犬養の近接性は、なにも作品構造だけが強化していたわけではない。初出の掲載紙面の 構造もまた、連載読者に花枝と犬養を結びつけていく仕掛けを施している点には注意を及ぼしておかねばならな い だ ろ う 。 連載の毎月初めには、 ﹁ あ ら す じ ﹂ が 付 さ れ る 。 一例として昭和三六年二月一日(連載第四五回) のものを挙げ 239 -て お く 政治家の名門、大浦家の長女花枝は、美人で若い評論家。弟の啓三は神経質の少年である。花枝は変死した父親の身代わり に、こんどの総選挙に立つように周囲からすすめられている。/小室亜土は、工科の大学生で、やさしい、感じのいい青年だ が、ハゼ釣りで知り合った花枝に近づく。その目的がわからない花枝は、亜土を油断ならない青年だと思う。(後略) この梗概は、月ごとのストーリーの進展に応じて変化していく。だが毎月共通していえるのは、最初に花枝の

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人物像がおかれ、不 6 あとに花枝と

E

土の関係の進展が説明されていくことである。前述のように、武田はこの 作品を、亜土を中 P とする﹁やさしい若者﹂の物語として説明していた。だが、﹁あらすじ﹂は、あくまで花枝 を中心に意味づけているのである。つまり、これを書いたであろう編集者側は、花枝を中心とする展開をを期待 し た の で あ り 、

5 4 4

告に対してこうした読みの仕掛けを施すことで、花枝を中心に展開する﹁選挙戦﹂の物語とし て本作を認知させようとした可能性があるといえよう。 しかもこの一あらすじ﹂は、この作品を花枝の物語として認識させると同時に、花枝の設定に犬養のイメージ を強調的付ドノる機能を有している。たとえば花枝を語る﹁父親の身代わりに、こんどの総選挙に立つように周 囲 か ら す す 斗 J れている﹂﹁政治家の名門﹂の﹁長女﹂、﹁美人﹂の﹁評論家﹂という言葉は、犬養道子に対して、 同 時 代 の 一

F

宥たちが抱いた最大公約数的なイメージであったといえる。しかも花枝が﹁評論家﹂であること は、この﹁あら J l し﹂が付けられた連載第四五回目までには書かれていない設定でもある。それを考えるならば、 ﹁あらすじ﹂をつけた編集者側もまた武田と同じく、花枝に意図的に犬養のイメージを付与し、読者の印象を誘 導しようとしてい汽ーもいえるのである。 そもそも連載小説に付される﹁あらすじ﹂は、長編を分割して読む読者が見失った作品構造を取りもどす装置 であると同時に、読者たちの読みを意図的に修整、規定していく装置になりうるとも考えられる。あらすじが持 つ基本機能を改めてこの作品の読みに還元したとき、作品に付された﹁あらすじ﹂を月ごとに眼にする新聞読者 にとって、この作品は、花枝のモデルに犬養を想定し、同時にその花枝の選挙戦に読みを焦点化していたことが

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想定されるのである。 それを裏付けるように、清岡卓行は同時代読者たちの読みに対して、﹁読者は、小説の縦糸である主人公(木 田注、亜土)のモラルへの関心よりも、その横糸である選挙運動のからくりやテロ、また恋愛関係などのおもし ろさでよんでしまう﹂と述べている。この発言が同時代読者の分析をふまえたわけではないことには留保が必要 である。しかし清岡もまた同時代読者の一人であることを考えれば、この証言からは同時代読者たちの読みが、 花枝を軸とする﹁選挙運動﹂や﹁恋愛関係﹂に焦点化される傾向があったことがわかるのである。 とのように、﹁花と花輪﹂の意味生成機構を︿新聞﹀という媒体から考えたとき、本作は新聞の持つ機能とさ まざまに連動しながら読者の読みを誘導していたのである。そしてもちろん、そうした読みは単に新聞小説の機 構が自然発生的に生んだわけではない。新聞という作品掲載媒体と、その読者の読みの機構を十分に認識した武 田の戦略が生み出したともいえるのである。 -241 -5 ︿プライバシー問題﹀との距離 だが、武田はこうした戦略性をとる一方で、先の﹁あとがき﹂が示すように、次第に犬養がモデルであること を否定していくのである。そこからは、花枝と犬養のイメージを接近させる読者の読みが、連載の進展に応じて 何らかの不都合を生んだとも想定されよう。それを想像させる一文が、連載第一三八回(昭 M ・ 5 ・ 4 ) に挿入さ

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れ て い る 。 (ただし、プライバシー問題のやかましい折から、あたかも啓三少年のごとく、神経質でノイローゼ気味の筆者は、この文章 があくまで小説であることを、お忘れないように、読者のみなさまにおねがいしなければならない) この文章が挿入された箇所は、花枝が自衛隊の﹁ソウマガ原﹂演習場に見学に行く直前である。自衛隊第一管 区隊による相馬原演習場での機動演習は昭和三六年四月二三日から五月五日まで行われた。つまりこの一文が付 δ れた時は、まさにこの機動演習が行われていた期間に当たり、﹃朝骨新聞﹄にも連日その情報は掲載されていた。 しかも﹁社会党が自衛隊激励?演説﹂(昭ぁ・ 4 ・ 8 朝刊 2 面)の記事は、花枝の演習場での演説というこの場面の 設定にも取られている。したがってこの言葉は、一見この自衛隊の演習と作品記述の一致を読者に牽制したもの とも受け取れよう。しかし、﹁プライバシー﹂という言葉の本義に立ち返ったとき、この考えには矛盾が生じよ う。なぜならこの語は一般に﹁個人の私生活や家庭内の私事﹂という個人性を強調された意味を持つため、こう した自衛隊の演習といった公共性を持つ出来事には使われないはずだからである。 この引用文が掲載された前日分(昭日・ 5 ・ 3 ) の連載には、花枝が三藤信作の﹁メカケ﹂であるとやじられた うえに、花枝がさまざまな男と肉体関係を持つかのような語りがなされている。また翌日(昭お・ 5 ・ 5 ) の 国 に も、花枝が三藤と

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土を両天秤に掛けるような描写がされ、﹁亜土の若々しい肉体が(中略)その裸身を想像する

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