ISSN 1346-2156
第
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9
号
真宗における仏事
講 演 真宗本堂の空間 願心荘厳救済の意味論ー 研究発表 慧思と曇驚 その時機観の比較的考察 信心守護とし、う課題 j;導、親驚の 1:_:,可警j観について 真宗における仏事 一現場からの報告 『安楽集J
における 曇驚教学の受用と展開 行と信の展開を中心、に 不虚作住持功徳、についての考察 真宗教学学会講演会一宗祖としての親鷲聖人ー 親驚思想の本質と信蓮房 真宗としての『華厳経J
2007年 度 教 学 大 会 発 表 要A
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年
6 月
真 宗 教 学 学
山 岸 常 人 西 田 員.悶 25 桑 門 真 昭 45 花 園 実 59i
度 遅 晃 純 70 マイケル・コン 82 ウェイ・ジョン 安 藤 義 浩 109 古 田 武 彦 ・ 120 鍵 主 良 敬 139 ズ合、 Z;エ 163講演 二
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七 年 度 真宗大谷派教学大会真
宗
本
堂
の
空
間
真宗本堂の空間 ご紹介頂きました山岸でございます。よろしくお願い します。文献を通じて中世の寺院社会のことを学んでお りますとともに、近世の寺院・神社などの建物の調査も させて頂いておりまして、お集まりの方のお寺にお邪魔 して、天井を聞けて屋根裏に上がってはいずりまわって 失礼をしたことがあるかもしれませんが、どうぞお許し 頂きたいと思います。私は建物のことを研究しておりま すので、真宗の教えや、真宗の歴史については疎いわけ でして、このような場所でお話をさせて頂くというのは 大変借越なことかと思っております。教団の考え方、言 葉の使い方にも不慣れでございます。主に私の専円であ る建築史の分野で使っている言葉を使わせて頂きますの山
山 一 汗人
片江.吊
で、失礼がありましたらお許し頂きたいと思います。ま た、ご教示を頂ければと思っております。 さて、私の話は﹁真宗本堂の空間﹂ということで、教 団の皆様には先刻ご承知のことでしょうが、私なりの見 方でお話をさせて頂きます。 一、仏堂の空間と法会 寺院の建物は、言、つまでもなく、仏教の行事︵法会︶ を行うために建てられています。従って、境内を含めて 寺院の空間は、仏教の儀式、およびそれに関わる教団の 組織を踏まえてこそ理解できるのではないかと思います。 これは当然のことですが、私どものような建築史を研究2 するような分野では、建物そのものがどのような形でで きているのか、どういう技術で建てられているのか、と いうことにのみ関心が向きがちで、実際に生きた人聞が 使った寺院や仏堂の空間の持っていた意味を理解するこ とが少なかったのですが、二、三十年ほど前からそうい う視点で、寺院の建物を見ることに努めております。寺 院建築の歴史を分析する鍵として、法会はきわめて重要 な手がかりだと言えるでしょう。 これまで私は、中世の顕密仏教、いわゆる南都六宗、 天台、真言の各宗派に属する寺院を対象としてきました。 図 1 は顕密仏教の中世の仏堂の典型的な事例である奈良 の当麻寺田受茶羅堂︵本堂︶です。この図に示されている とおり、この仏堂の正面から入りますと、札堂という広 い空間があり、その奥は格子戸で仕切られてます。札堂 の奥に内陣があり、内障に本尊が安置されている。この 図には文字を入れていませんが、本尊の後ろには後戸と 呼ばれる薄暗い空間があります。この堂の側面は一間ず つの小さな部屋に仕切られておりまして、ここで参詣の 方が参龍されたり、本尊以外の仏像が安置されていたり します。これが中世の顕密仏教の仏堂の一般的な形です。 特に札堂と内陣をどのような役割の空間と理解するかが 顕密仏教の仏堂(当麻寺長茶羅堂) 図1 重要です。一般的には、札堂は参拝者がお参りする場所、 内陣は本尊が杷られて僧侶が仏事を行う場所などと説明 をされることが多いのですが、中世に限って言いますと、
真宗本堂の空間 実際は札堂も内陣も僧相が入って、そこで法会を行う。 ただし、その時の行う法会の種類が内陣と礼堂で違って いたり、僧侶の階層や役職の差によってどちらを使うか が決まっている。このようなことがわかってきたわけで す。顕密仏教の様々な法会、顕密寺院の寺内の組織が、 この中世の仏堂の構成にも反映していると考えられます。 このような見方は、真宗の本堂の理解にも同様に適用 することができると推察されます。勿論、真宗に固有の 教義や教団組織、信仰をふまえて考えなければなりませ ん。これまで真宗の本堂の内部空間の形態、その意味に 関しましては、建築史の分野では、楼井敏雄先生が大部 ︵ 1 ︶ なご著書を出されております。真宗史の分野では草野顕 之先生が大変綴密な研究をされておりまして、このお二 人の研究で大筋は解明されていて、私などがさらに先へ 進もうと思っても、容易ではないところがあります。勿 論お一一人の研究以外にも個別に様々な研究があって、私 は不勉強ですのでごく一部しか把握ができておりません が、これまでの研究を踏まえながら、私見も加えつつ真 宗の本堂の空間を見てゆきたいと思います。 3 二、真宗の本堂の空間の特質 川弘誓寺本堂の事例 真宗本堂の内部空間の特質を、弘誓寺本堂︵宝暦十四 年 H 一七六四建立︶を例に確認しておきたいと思います ︵ 図 2 ・ 図 3 ︶。滋賀県東近江市︵旧五箇荘町︶の金堂 にあります大変大きなお寺です。本堂は重要文化財に指 定されており、数年前に修理がなされました。図 3 が弘 誓寺の本堂平面図です。図の下の方が正面側になります。 向拝の階段から縁に上がって、堂内に到達します。畳 が百畳以上敷いてある大きな空間が外陣です。外陣の奥 に戸がたてられていて、その後方︵奥︶が内陣です。内 陣は外陣よりも床が一段高くなっています。これは非常 に大切な特徴かと思います。内陣の真ん中に須弥壇が設 けられ、ご本尊が安置されています。須弥壇の周りは板 敷きで、外陣が畳敷きであることとは違いがあります。 内陣の両脇の部屋が余聞です。さらに余聞の両脇は﹁御 簾の間﹂や﹁飛槍の間﹂と呼ばれております。外陣の正 面と両側面に弘誓寺の場合は幅二了五メートルほどの広 縁がめぐっています。一般の末寺では一間帽、つまり幅 一一メートルぐらい広縁が多いかと思います。更に広縁の
弘誓寺本堂外陣 図2 周りに一段低い落縁がまわっています。 外陣の中には、弘誓寺の場合は右と左に二本ずつ、計 凶本の独立柱が立っております。四本のうちの内陣寄り の柱筋には結界が設けられている︵図 2 ︶、つまり矢来 の筋があって、外陣の空間は一旦仕切られています。広 (/) I 3岨 I20, I 2曲 12副 I2弱71拙oI 2曲 l臨,I'防s I I 2渇13 I 弘誓寺本堂平面図 図3 い外陣が、矢来の筋で内陣側の一間半幅の狭い部分と矢 来より手前の広い部分に分かれているということになり ます。さらに、外陣内部の四本の独立柱を繋いで、柱の 上方に虹梁︵横方向の太い繋ぎ材、虹のようにわずかな がら反った形になっている︶が架かっております。弘誓 寺の場合ですと、外陣の独立柱をそれぞれ今一本の虹梁で 奥行方向につなぎ、矢来の柱筋の上にも三本の虹梁が架 かっています。それから矢来の内にも二本の梁が架かっ ています︵凶 3 の円弧で一不す位置︶。これらの虹梁の上
には、組物︵斗紐︶があったり、慕股という装飾の部材 が載せられていたり、虹梁にも彫刻が施されていたり、 とかなり華麗に飾られているわけです。 一方、内陣は須弥壇に阿弥陀如来が、内陣の脇仏壇に は親驚上人や蓮如上人、余聞の仏壇には六字名号・聖徳 太子・七高僧御影、前住や寺族の法名などが記られてい ます。ただし外陣のように虹梁を用いるのは須弥壇や仏 壇の正面に限られています。 以上のことは、基本的にはご本山でも、それぞれの末 寺でも、共通しておりますが︵図
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︶、同時に個性もあ ります。その差異については同・同で言及したいと思い ま す 。 真宗本堂の空間 凶 他 宗 派 と の 比 較 このような真宗本堂の形式は他の宗派とどう違うのか、 どういう特色をもっているのか、という点を比較してお きたいと思います。 顕 密 仏 教 顕 密 仏 教 の 場 合 ︵ 図 1 ︶は、堂内が内陣と 札堂︵外陣︶に分かれている点で共通性もあります。し かし内陣と札堂の床高の差に注目すると、顕密仏教の仏 堂では床高が同じ場合が多いのです。また内陣の床が低 5 い例もしばしば見られます。これはおそらく内陣が土間 であったことの名残ではないかと説明されています。実 際、延暦寺根本中堂のように内陣が土間床の例がいくつ か現存しています。次に、札堂や内陣に虹梁を架けて柱 を繋ぐことも真宗本堂と似ておりますけれども、真宗本 勝興寺本堂外陣 図46 堂の外陣のように縦横に架けることはなく、基本的には 奥行方向にだけ架かっております。また内陣にも虹梁を 架ける場合が多いです。顕密仏教の仏堂が中世初頭に成 立した頃の建築構造を反映しているのに対し、真宗本堂 は戦国期の成立段階の住宅の形式を継承しつつ発展して きたという歴史の差異がこうした点に反映されていると 考えられます。 浄土宗次にいわゆる鎌倉新仏教と言われる諸宗派の 内の、浄土宗の場合を見たいと思います。図5は奈良県 にあります五劫院本堂︵元和十年 H 一六二四建立︶の例 を挙げてあります。それから図 6 に奈良県下の生蓮寺 ︵ 寛 政 九 年 H 一七九七建立︶という、ごく一般的な浄土 宗末寺の本堂内部の写真を挙げてあります。五劫院本堂 について見ますと、正面から堂内に入ると、まず外陣が あります。外陣は横長の広い空間です。その奥、堂の中 央部に九柱に固まれたこ間四方ほどの正方形平面の空間 があり、これが内陣です。この正方形平面の部分だけで はなく、その後方とその両脇も含めて内陣と呼んでおり ます。後ろ寄りに須弥壇があってご本尊が安置されてい ます。内陣の両脇には脇陣があります。外陣と内陣、外 陣と脇陣、内陣と脇陣、それぞれの部屋境は中敷居を入 れて仕切ってい ます。中敷居と は床から四、五 十センチぐらい の高さに入れた 敷居のことで、 その下は板壁を 填め、敷居の上 は多くは襖や障 子がたてられ、 閉鎖されることになります。もちろん必要に応じて建具 を開けて、一方の部屋から他方を見ることもできますが、 中敷居があるので行き来はできない、そのように部屋同 士の聞を緩やかに仕切っているのが中敷居です。もっと も、広い空間を確保できるように、必要に応じて中敷居 を取り外せるように設えられている場合もあります。と ころで外陣と脇陣の問の中敷居はない場合もあって、脇 陣をも外陣と呼んでおられるお寺も少なくありません。 つまり浄土宗本堂では内陣と外陣十脇陣に大きく二分さ れているということができます。そうすると、内陣はち ょうど漢字の凸という字を逆さにした形の平面形、それ 脇 陣 虹梁 五却院本堂平面図 図5
に対して凹字形の半面形の外陣十脇陣が合わさって、全 体で長方形平面の本堂ができあがっていると見ることが できます。円柱で岡まれた内陣の正側面 e 一 . 方 を 外 陣 ︵ 脇 陣も含む︶が取り開んでいるという構成は、真宗本堂と は大きく異なります。内陣の横にある脇陣は、外陣に準 ずる場であ っ て 、 宣 ︵ ウ 一 小 本堂の余間 が内陣に準 ずる位置づ けを持って いるのとも 異なってい ま す 。 真宗本堂の空間 7 生蓮寺本堂本堂内部 そして多 く の 場 合 、 堂内の柱を つないぐ虹 梁が架かる 点も真宗本 堂と共通し 図6 ます。図 6 はその虹梁が架かった状態を示しています。 内陣正面の両隅の柱︵凶 6 大印︶から、外陣正面に向か って二本の虹梁が架けられ、また内陣の正面と側面にも 虹梁がかかっています。虹梁を架けるという点では真宗 とも共通してますけれども、外陣には前後方向にしか梁 が架かってないのでやはりこの点で真宗と違いがありま す。外陣と内陣の床高が同じ場合が多く、真宗では内陣 が必ず床高が高いというのとも違いがあります。 日 蓮 宗 図
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には日蓮宗本堂を一例として京都の宝塔 寺本堂︵慶長十三年 H 一 六O
八建立︶を挙げておきまし た。堂内はやは り外陣と内陣に 分 か れ て い ま す 。 内陣の両脇に細 長い部屋があり ます。日蓮宗本 堂の特徴は、し ば し ば 外 陣 の 正・側面に建具 がなく、開放に な っ て い る 占 ⋮ で.
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内 陣 外 陣.
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宝塔寺本堂平面図 図ア8 す。外陣に対して内陣の占める面積が広いのも特徴です。 勿論、外陣の外側を建具で閉じている例もありますが、 いずれにせよ内陣と外障の聞は腰高の中敷居と蔀や格子 戸で厳格に仕切られています。床高は内陣が外陣より一 段高いのが一般的です。 以上のように比べますと、真宗の本堂の特徴が明瞭に なると思います。これらの各宗派を聞かれた祖師は、鎌 倉時代前半に活躍されているわけですが、教団の勢力が 社会の中に安定的に定着し、教団の組織も確立してくる のが室町時代以降です。そのことと並行してそれぞれの 宗派固有の本堂の形式が、十六世紀頃にほぼ形成され、 固定化したと考えられます。 同 階 層 性 と 時 代 性 話題を真宗本堂に戻します。弘誓寺の例で挙げました 形は、基本的には真宗の全ての寺院に共通しますが、上手 の地位、建てられた年代の差などによって、バリエーシ ョンが豊富である、という点も真宗の本堂の大事な特色 であろうと思います。他の宗派では建立年代の差は技術 や様式の差と関わりますが、階層差はあまり見えてこな いのですが、真宗ではこれが顕著です。 ④ 西徳寺本堂平面図 図8 別院と道場弘誓寺は別院ではありませんが、別院に 匹敵するほどの規模の大きな寺院です。これに相対する ものとして道場があります。道場形式の著名な例は西徳 寺︵滋賀県木之本町︶です︵図
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︶ o 重要文化財に 指定され、平成四年から六年に修理がなされて、正徳三 年︵一七二二︶に建てられた当初の形に復元されており ます。十八世紀前期に建てられた道場の形式をよく伝え ている本堂ということになります。 西徳寺本堂は凶 8 の平面図に示されていますように、 正面には広縁があるのですが、両側面には広縁がなく、 落縁も廻っていない、つまり広縁と落縁というこ段階構 成にはなっていません。弘誓寺とは異なっています。外陣は畳敷きの広い空間で、中に独立した柱が一間間隔で 三本ず竺一列、計六本立っています。一間間隔で柱を立 てるのは江戸時代でも古い時期の技法です。六本の内の もっとも内陣寄りの二本の筋が矢来になります。そこか ら内陣までの幅二聞の空間が矢来内です。その奥に床が 一 段 高 く な っ て 、 内 陣 ・ 余 聞 が あ り ま す 。 内 陣 の 正面は復原さ れて引き違い の障子になっ ています。内 陣の背面側の 壁に寄せて押 板形式の三つ 並び仏壇が設 けられていま す ︵ 凶 日 ︶ 。 ご 本山でも弘誓 寺でも仏壇が 内陣背面の壁 につくのでは なく、壁から 真宗本堂の空間 西徳寺本堂外陣 図9 離れて内陣の中に独立して二本の柱︵後門柱、巻柱︶が あって、その前に須弥壇が設けられています。これを出 仏壇と呼んでいます。一般の末寺でもこの形式が一般的 ですが、古い時期に立てられた本堂ゃ、道場形式の場合 には三つ並び仏壇がよく見られます。一般の末寺でも建 立当初は三つ並び仏壇であったものを、後の御遠忌など の機会に改造し て、出仏壇に改 めた建物がよく 見られます。柱 に仏壇桓の填め られていた痕跡 が残っているこ とから、その改 造が判明します。 西徳寺も改造さ れていたものを 西徳寺本堂内陣仏壇 図10 復原しておりま す 。 このような三 つ並び仏壇も道
JO 場形式の一つの特色ですが、外陣の内部が弘誓寺とはか なり異なっています。図 9 は外陣の正面から内陣の方を 向いて撮った写真です。中央部の奥に写っているのが、 内障の正面の障子です。外陣の中の三本の独立した柱 ︵ 図 9 では二本しか写っていません︶を繋ぐ虹梁がない 点が重要です。代わりに長押が柱をつないでいます。長 押とは人の頭の上辺り、鴨居のすぐ上にある横材で、板 状の材を柱の横から打ち付けたものです。皆さんのお住 まいでも、床の間のある座敷には長押が打つであること が多いはずです。西徳寺に戻ると、外陣の柱が長押で繋 がれ、その上は白漆喰塗の土壁︵小壁︶が設けられてい ます。弘誓寺本堂のように外陣の独立柱の筋に虹梁だけ が架かっているのであれば、外陣の空間が仕切られてい るという感じは薄いわけです。しかし丙徳寺本堂のよう に長押がありさらにその上に小壁があると、床から天井 までの高さの内の上方二.分の一ほどが壁で閉じられてい ますから、独立柱を境にして外陣の中が、中央と両脇の 三つの空間に医分されることになります。もちろん独立 柱の筋に建具が入っているわけではないので、一二つの部 屋に完全に分かれるわけではありませんが、ある程度仕 切られている感じがすることになります。 西徳寺本堂の外陣には虹梁も使われております︵図 9 ︶。矢来の柱筋の中央聞には天井際に虹梁が入ってい ます。矢来の柱筋の両脇の聞にも天井近くに虹梁が架け られています。内陣正面の柱と繋いで虹梁が二本ありま す。この二本の虹梁の上、天井との聞も漆喰塗の小壁と なっています。つまり西徳寺本堂では矢来の筋と内陣と の間に五本の虹梁が使われているのです。これらの虹梁 は目立つことなく、弘誓寺本堂のように、虹梁の上に組 物・墓股などの装飾がほとんどありません。全体として 住宅の室内意匠に類似しています。 このような特慣は、別院やそれに準ずる寺院と道場の 差異でもありますが、同時に本堂の建てられた年代の差 で も あ る わ け で す 。 中世と近世時代の差による本堂の形式の差異を示す 典型的な例が、真宗の本堂で最も古いと言われている照 蓮寺本堂︵岐阜県︶です。照蓮寺本堂は建築史の分野で は永正元年︵一五
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四︶頃に建てられたということにな っておりますが、真宗史の研究者からはそんなに早くに このようなものができるはずない、江戸時代に入ってか らの建立ではないかというご意見を頂きます。このご意 見は貴重で、十分検討しないといけないのですが、少なくとも照蓮寺本堂を建築技術的な面から見た時、江戸時 代の技術では造られていない。それが十六世紀初頭まで 遡るのか、もう少し降るのかについては、検討の余地が 真宗本堂の空間 11 照蓮寺本堂内部見取り図 図11 残 さ れ て い ま す 。 図日は照蓮寺本堂の見取凶です。この照蓮寺は西徳寺 本堂と類似点が多いです。外陣の中には四本の独立した 柱が立っていますが、ここでは虹梁は一切使われており ません。外陣の独立柱を奥行方向に繋いで長押が打たれ ており、長押の上には筏欄聞がある。これは普通の住宅 と非常に近い形式で造られていることになります。しか も矢来が明確でなく、外陣の独立柱を横方向︵桁行︶に 繋ぐ長押や虹梁もありません。もちろん堂内には虹梁は 一 切 使 わ れ て い ま せ ん 。 外陣の奥は床高が一段高くなって、内陣・余聞がある ことは定型通りです。内陣の一番後壁の面に接して、三 開通しの押板形式の仏壇が設けられていることも西徳寺 本堂とほぼ共通しています。ここで重要なのは余聞の部 分です。正面から向かって内陣の右側、一般的な真宗本 堂の方位でいうと北余聞になりますが、照蓮寺は移築に よって建物の向きが変わっているので、右余聞と仮に呼 んでおきます。右余聞の部分は前後に二部屋に区分され ており、床高が内陣と同高ではなく、外陣と同じで、仏 壇も設けられていません。ご住職が日常使われるような 部屋だったのだろうと想定されます。この古い照蓮寺本
12 堂では、右と左の余聞が左右対照の平面形になっていな いという点が注目されます。西徳寺本堂も建立当初は同 様の形式であったことが判明し、復原されています。 照蓮寺本堂の長押・箆欄聞を用いた住宅に極めて親近 性のある意匠、虹梁を用いない点、左右非相称の余問、 押板形式の仏壇などの特徴は、中世末期の真宗本堂に見 られた特質であり、これが継承されて近世前半の道場な どにもこの特徴が見られることが指摘できます。 照蓮寺本堂に顕著な住宅風の意匠は、近世になると失 われてゆき、虹梁・組物を多用した一般の寺院建築と共 通 す る 音 山 匠 に 変 化 し て ゆ き ま す 。 近世の中での変容さて近世に入ってからは、真宗本 堂独自というよりは近世の建築一般の動向と同じです。 一般的に江戸時代の中でも時代が下るにつれて、彫刻を 多用して装飾が華やかになっていく傾向にあります。 同 多 様 性 既に述、べましたように、建立の年代と寺院の階層によ って、本堂の形式に多様性が出てきますけども、さらに 数ある真宗本堂を仔細に比べますと、共通した基本形を ふまえつつも、多様な個性が見られます。岡山
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は滋 賀県下と奈 良県下にあ る江戸時代 に建てられ た主な真宗 の本堂の平 面図を集成 して類型別 に並べた図 です。規模 の差、広縁 ・落縁の付 き方、外陣 内部の柱の 数、虹梁の 架け方など多様な形式があることが分かります。こうし た多様な形式の若干の実例について見ておきたいと思い ま す 。 園口は、たまたま私が兵庫県下で調査させていただい た事例の一つ、昔宜旦導寺本堂︵本願寺派十八世紀後期建 立︶の外陣です。ここでは外陣の中に独立柱がなく、柱 善導•J°一本堂外陣 図12を繋ぐ長押や虹梁、小壁、組物等が一切ないのです。上 に水平な天井が張つであるだけの長方形の大空間の外陣 があるだけです。矢来の内と外に区分することも、独立 柱とその上の虹梁等で中央と両脇に 4 二分することもして いません。同様の外陣の形式の本堂は、図幻の奈良県下 の事例の集成でも見られます。滋賀県下の事例集成︵図 印 −
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︶では類例は見られませんから、地域的な特色と も想定できます。また、上記善導寺や奈良県下の事例が 本願寺派や興正派︵明治に本願寺派から独立︶であるこ とから、本願寺派の特徴である可能性もあります。もっ とも大阪府下には大谷派の寺院に同様の例が見られます し、本願寺派で も外陣に独立柱 を立てて虹梁を 架け渡す建物も 少なくないわけ ですから、本願 寺派固有の特徴 とも言えないよ うです。地域的 な特色かとの想 真宗本堂の空間トドじ
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矢来なし 広縁 『−..,苧ア町「一応再ーマ 13ト十一一回叩
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図13 栃木専修寺御影堂平面図 定も可能ですが、兵庫・大阪・奈良にあるのですから、 特定の地域に偏在しているわけでもありません。教義の 面から説明できるのか、その本堂を建てた工匠や施主に 起同するのか、確たる解釈を下すことは、現時点ではで き ま せ ん 。 次に栃木の専修寺御影堂︵寛文六年日一六六六建立︶ の平面図を挙げました︵図日︶。真宗高田派の事例です。 この建物では外陣の正側面三方に広縁が廻っており、そ の広縁まで含めて堂内としています。そして外陣の内部 には独立柱は立ちません。内陣と余聞の境の柱筋に揃え て、外陣にも虹梁二本を前後︵梁行︶に架けており、そ の筋には床に無目敷居を入れていますから、緩やかに外 陣を三区分するようにも理解されます。しかし外陣の内 部に矢来が設けられていません。外陣の独立柱がないの で矢来を設けることができないとも言えます。ただし注 意して堂内を見ると、外陣中央部︵二本の虹梁の間︶の 奥行の内、内陣寄り約三分の一の天井だけ折上格天井が 設けられています。他は梓縁天井ですから、ちょうど矢 来内に相当する部分だけ天井が上質に作られていること になります。このことによって矢来内の存在を示唆して いるようですが、実際どのように使っておられるかにつ14 いては調査ができておりません。専修寺御影堂の余聞も 特徴があります。余聞の奥行は柱間二聞ですが︵実際の 長さは約八メートル、すなわち四間相当です︶、中央の 柱筋で床高を変えています。前側一聞は低く、後方一聞 は一段上がって内陣と同じ床高です。 高 田 派 の 御 本 山 、 津 市 一 身 田 の 専 修 寺 御 影 堂 ︵ 寛 保 一 一 一 年 H 一七四三建立︶では、外陣の矢来の筋から奥は床高 が一段高くなっております︵園出︶。余聞の内部で床高 を変えるのは栃木専修寺と同じです。以上のような高田 派の特徴は、大谷派や本願寺派で一般的な本堂の形式と は、大きく異なっています。これも教義や法会とどのよ うな関係にあるのか、興味深い点です。付け加えるなら ば大谷派の五村別院本堂︵滋賀︶は外陣の床高が矢来の 筋で変えてあります。 三、真宗本堂の空間の意味 川 蓮 如 上 人 の 時 代 中世末に成立し、若干の変容と多様化を経ながらも、 基本的な形式を守り続けてきた真宗本堂の空間の持つ意 味について考えたいと思います。 蓮如上人の時代の山科本願寺御影堂 ︵ 文 明 十 二 年 H 一 四 八
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建立てあるいはその前段階である親驚上人の御 廟所の大谷本願寺御影堂︵存知期の永享十年目一四三八 建立︶の平面形式は草野先生のご研究によって明瞭とな っています。草野先生・楼井先生の御研究の成果を引用 して図H
・ 日 −M
に示しました。蓮如上人の時代に現代 までいたる真宗本堂の形式が確立されたわけです。 (2) 内 陣 「 虚 然法 無 夢善導中 代 毅鴛聖 蓮L
ドー祐禅尼蓮 山 ノ守 慧 逮 上 碍光 御影 上 人 十~危
- 人 人 禅 自 市 北の局 「本願寺作法之次第J
による山科本願寺御 影堂の内陣・余間(草野による) 上壇三間 押板二関 板 間 4 押 一 即 真宗本堂の最も重要な 部分であり、また史料的 にもある程度詳しい情報 が得られるのは内陣と余 聞 の 部 分 で す 。 御本尊及びそれに準ず る礼拝の対象を杷るかと いうことが、内陣と余聞 という空間の存在意義や その形態に大きな影響を 与えていることはいうま でもありません。図日は ま さ に そ れ を 一 不 す も の で真宗本堂の空間 南西燭 局 次 北局 ~t四間 内 障
計
二
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15 下段(外陣) 大谷本願寺御影堂推定' f而 (楼井・草野による) す。しかしそれと同時に、内陣と余聞というこ種の空間 の関係は、僧侶集団の中での階層性と対応していると考 えられます。﹁真宗故実伝来紗﹂︵明和二年 H 一 七 六 五 成 立 ︶ に は 、 一、内陣二象者、昔ハ御身近ヲ内陣ト云、今ハ問ニ 依 テ 名 ヲ 立 ツ 、 一、絵間ノ一家者、御身遠キ御親族ヲ絵開ノ一家ト イフ、開ニ依テ名ク、首時ハ飛槍ヨリ一家ニ昇 進 、 とあります。どういう階層が内陣に入るのか、どのよう な階層が余聞に座るか、ということが決められています。 杷られる対象と杷る側の僧侶の階層の差が、内障と余聞 の空間の差と対応しているわけです。 図16 階 隠 山科本願寺御影堂推定平面 (楼井による) 同 外 陣 矢 来 それでは外陣はどうでしょうか。外陣は矢来の筋で区 切られています。矢来の筋には虹梁が架かり、床には敷 居が敷いてあり、結界の柵が設けられています︵図2
︶ 。 矢来という言葉はまさにこの柵を意味することに他なり ません。矢来の内と外は建物に関わるこれらの一種の装 置で緩やかに仕切られており、内陣と外陣の境のように 図1516 巻障子や障子で閉鎖してしまうとか、床高を変えること によって両者が全く異質の空間であることを示すのとは 異 な っ て い ま す 。 この矢来の筋も僧侶集団の差によって使い分けられて おります。﹁今古独語﹂︵永禄十年成立︶の永禄四年︵一 五六二の開山三百年忌の記事には、 御影堂ノ内ニハ坊主衆・相伴ノ衆候シテ、其外ハ矢 持 ノ 外 ニ 参 集 、 とあります。矢持、すなわち矢来の内と外で着座者が異 なることを示しています。このことは現在の報恩講の様 子をうかがっても明瞭であります。 こうした平面形式の特質は、真宗本堂の形式が形成さ れてきた過程と大いに関係があるのだろうと思います。 回目は大谷本願寺御影堂の推定平面図を草野先生の御 著書から引用しました。楼井先生のご研究は若干異なっ た平面ですが、ほほ同様といっていいでしょう。図日は 楼井先生による山科本願寺御影堂の推定平面図です。山 科本願寺御影堂においては、それ以後の真宗本堂の基本 形が完全に出来上がっていますが、大谷本願寺御影堂の 場合はそこまでいっていない。﹁本願寺作法之次第﹂に 記された五間四面という規模しかないわけです。 両者の関係を考えると大谷本願寺御影堂の全体が、山 科本願寺御影堂の内陣・内陣前の区画・南座敷・南四聞 に対応していると見ることができます︵図日と図日の線 の表示︶。これは各部屋の平面の規模からも、また役割 からも言えることです。この四部屋分が一番古い時期の 御影堂の言わば中核部分になっています。内陣の北側に も四聞の部屋を付加し、外陣も拡張して、図日の真宗の 本堂の形が出来上がってきたと想定できます。実際、楼 井先生の推定する堅田御坊本福寺は、上記四部屋の北に 一間幅という狭い御簾の間と外陣が加わった形態を持っ ていて、大谷本願寺御影堂からの拡張の中間段階を示す よ う に 見 え ま す 。 このような流れを想定すると、矢来の筋が外陣の重要 な仕切りとなっていることも理解できます。矢来の部分 では床高も変わらず、建具が入っているわけでもないの ですが、矢来の外は、初源的な大谷本願寺御影堂の空間 に、後発的に付加された異質な空間と見る見方です。道 場の事例では、矢来の筋に当たる所に建具を入れている 例︵随照寺石川県︶もあります。道場の場合は一般の 民家形式との関係も考慮せねばなりませんが、上に想定 した意識が反映されているのではないでしょうか。
以上のような拡張過程をを想定すると、照蓮寺 本堂のように片側の余間だけは床高が低く、仏壇も置か れていないことともよく符合してくると思います。 江戸時代前半に建立された真宗本堂では、外陣の独立 柱の筋に建具が入る例がごく稀にあります。これも上の 想定から説明できます。外陣の内の北脇の空間は中央 部・南脇とは成立が異なるということの証です。 しかしながら、上のように室町時代後半から近世にか けての流れを想定したとしても、近世に入ってしまうと 宇 品 れ ∼ 、 出入口 ι1キ 奮 批!大 引言” と ! 人 偏 !11衆 台
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弓;;I 真宗本堂の空間 亘塗ー 余間着座 サ四銀座 17 ヲ チ エ 入 口 男 − 眠 中 座 切 手 望員長 ± 入 R 吋ヘ ヤ ラ イ 入 ロ ヤ ラ イ 高欄 此通商北 問、"'""* 平 俗 a E 叶〉、 カウラン 此通往ニヤライ丸太白蛋 物 主 祭 出 仕 遁 ヲ チ ヱ ン 此 通 東 西 宮 崎 欄 切 二 雨 戸 ヲ カ コ ウ 「法如様御下向略絵図j 矢来の結 界の意識 はどれだ け継承さ れたので し ょ う か 。 外陣の柱 筋に、各 方向に統 一 的 な 意 匠の虹梁 が入って 図17 いるのは、外陣内部の統一的な装飾の装置になってしま っているように思われます。矢来で灰切っていたという 歴史がどのように展開していくのか、ということは追究 すべき課題として残されていると思います。 同外陣の独立柱と架構 外陣の中の三つの空間の意味も考えてみる必要がある でしょう。この問題は現状の法要の実態から容易に理解 できることなのかもしれません。ここでは参詣者が鍵に なるのだろうと想定できます。たまたま見つけた史料は、 本願寺派の史料です。中世末に成立した著名な寺内町で ある奈良県今井町との中心にあります称念寺に所蔵され ている﹁法知様御下向略絵図﹂です︵図口︶。この図の 外陣の中央部の﹁ヌメジキ﹂が無目敷居︵建具を入れる ための溝が彫っていない敷居︶、つまり矢来に該当しま す。この矢来の筋から正面側に、中央は﹁平僧座﹂、正 面から向かって右側は﹁尼講中座﹂、左側は﹁男講中座﹂ と記されています。つまり外陣の三区分は、法会に参集 した僧俗の階層や性格を反映していることを示していま す。西本願寺の御門主が下向された際の特別な事例です から、すべてがこの史料で解釈し尽くせるわけではない18 本 願 寺 大 師 堂 ︷ 覧 永 十 三 年 ︶ 本 願 寺 本 堂 ︵ 宝 贋 + 年 ︶ しかし﹁九十箇条制法﹂には﹁念仏勤行ノト 男女同座スベカラズ﹂とあります。この場合は外陣 の区分と対応しているとは限りませんが、参詣者の階 層・性格の差というものが外陣の空間を規定したと想定 することは可能です。 このようなことは顕密仏教でも一般的に見られたこと で、法会出仕僧の階層や役職、参会の会衆や俗人の参拝 者などの性格の差異によって、その着座の場が堂内の内 陣・札堂・局・後戸などに割り振られていたこと、また 男女の区分などは、中世以来の法会記録や寺院の規式に で し ょ う 。 キ 、 専 修 考 御 影 堂 ︵ 三 重 ︶ ︵ 寛 文 六 年 ︶ 図18 しばしば見られたところであり、その意味では真宗教団 に固有の現象ではありませんでした。
照 光 寺 ︵ 一 元 糟 十 一 年 ︶ ︵ 台 舗 あ り ︶ 福 園 寺 ︵ 正 徳 元 年 ︶ 真宗本堂の空間 唯 念 寺 ︿ 文 政 七 年 ︶ E R 照 寺 ︵ 天 保 十 三 隼 ︶ 19 滋賀県内真宗本堂の事例(広緑・落緑付き) 図19
20 蓮 生 + 守 ︵ 元 和 元 年 ︶ 書 量 寺 ︵ 延 車 三 年 ︶ 玄
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fー 西 福 寺 ︷ 車 保 十 二 年 ︶ 円 立 寺 ︵ 宝 膚 八 年 ︶ 当 ヨ 什 ヨ ヨ ゴ ↑.
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現 常 虹 善 梁寺 は( 草十 保七 の世 補 紀 足中 … 材 期 一司L
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勝 安 寺 ︵ 十 七 世 紀 後 期 ︶ ゴ 斗 べ ﹃ 善 通 寺 ︵ 十 七 世 紀 後 期 ︶ 光 閣 寺 ︵ 十 八 世 紀 前 期 ︶ 満 立 寺 ︵ 宝 麿 九 年 ︶ 真 善 寺 ︵ 十 八 世 紀 前 期 ︶ 来 現 寺 ︵ 十 八 世 紀 中 期 ︸ 重 図20称 4司r 福寺 井干 氏七 重世 主堅
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満 福 寺 ︵ 十 七 世 紀 前 期 ︶ 真宗本堂の空間:
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21 ・虹信 梁光 は寺 車( 保 最 十 応 四 三 年年主
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光 通 寺 ︵ 正 保 五 年 ︶ ー•' • I万 法 寺 』最 ; l1i 年 : !Iヒー−」一一
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車福寺(置文六年) 壇 上 寺 ︵ 元 棟 + 四 年 ︶ ︵ 台 輸 あ り ︶ 一 四 浄 照 寺 ︵ 十 七 世 紀 中 期 ︺ ? 此 奈良県内真宗本堂の事例(広緑・落緑{すき) 図2122 畢 憎 寺 十 七 世 川山川心叩明川 紀
しと芋守山一議
' Lょヱニー−'ー ) 噸 照 寺 ︵ 宝 贋 八 年 ︶ 浄 業 寺 ︵ 十 七 世 紀 後 期 ︶ 国書~「 普 rr重 量R 1 照 凶,事事関品叶寺 一 {一 −
E署 ・-II I JC 置 t寸 圃 撮 再古伊刊再思士一 一 八
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− 昌 一 光 寺 天 保 年 図22 ~司 教専寺 (天保十二年)四、ま と め 先学の研究に導かれつつ、多くの真宗本堂の建築史的 な調査をさせていただいてきた経験もふまえながら、真 宗本堂の空間の形成やその内包する意味を整理してみま し た 。 真宗本堂の空間 真宗本堂の空間に関して様々な視点からこれまでも研 究されているわけですが、お記りする対象、それをどう いう場に安置するのか、法会を執り行う僧侶の階層や役 職、それらの占める場に加えて、参詣する多数の僧俗や 門徒など、多様な要素を包括的に捉えておかねばなりま せん。そのような視点で具体的に検証するためには、法 会の場面は重要です。勿論、現状の法会もさることなが ら、過去の法会の実態を記録によって詳しく復原し、そ の法会の空間が御影堂や本堂の中でどのように展開して いたかを考察することによって真宗本堂の空間の意味が より明瞭になっていくと思っております。これは私自身 の課題といっても良いものです。 大谷本願寺御影堂から山科本願寺御影堂への展開の過 程を極めて乱暴に想定しましたが、仏堂の空間を具体的 にどのように仕切ったのか、その意識もまた興味深いも 23 のがあります。床高の走、矢来の結界、虹梁や長押や小 壁などは、壁や扉・襖・巻障子などとは異なった空間以一 分の装置です。明瞭な仕切りではないのですが、控えめ な空間区分の設えでありながら、重一安な空間区分の役割 を果たしています。内陣と外陣、内陣と余問、矢米の内 と外、外陣の中央と両脇、このような空間の区分が重層 的に重なって、真宗本堂の空間が出来上がっていると一一甘 えます。この真宗本堂の形を造られたのは蓮如上人の時 代です。そうした空間を創出された蓮如上人やその時代 の教団の方々の偉大な構想力には、非常にユニークなも のがあると思われます。 一方でこのような重層的な空間の区分によって仏堂を 造ったという見方は、あまりに現代的な解釈に過ぎるの ではないか、とも考えられます。冒頭でお話しをしまし た中世の顕密仏教の仏堂の内陣や札堂︵外陣︶の使われ 方についても、教科書的な解説では、札堂は俗人の参詣 の方が入り、内陣は僧侶が仏事をされると説明されます。 しかしこれは近世以後の寺社参詣の実態を前提とした解 釈であって、中世の寺院社会の構造や法会の実態、参詣 の実態をふまえるならば、そのような機能的な一対一の 対応では理解できないことが明らかとなりました。真宗
24 本堂でも前提となる教義、そしてそれに基づく法会、教 団や門徒の組織、それらの歴史的な変遷をふまえるなら ば、ここで述べたような解釈が妥当なのか、検証をして ゆかねばならないと思っています。 私自身、具体的に現在も使われている江戸時代の真宗 本堂を調べることで手一杯ですが、それを文献と突合せ、 或は民俗学的な方法を援用しながら、真宗本堂の空間の 意味についての理解を深めていくことが自らに課せられ た課題だと思います。 以上で私の話を終わらせて頂きたいと思います。 註 ︵ 1 ︶楼井敏雄﹁浄土真宗寺院の建築史的研究﹂︵法政大学 出版局平成九年︶以下の楼井説の引用は同書による。 ︵2︶草野顕之﹃戦国期本願寺教団史の研究﹂︵法蔵館平 成十六年︶以下の草野説の引用は同書による。 ︵3︶前掲襖井著書所収 図 版 出 典 図 1 ・日山岸常人﹃塔と仏堂の旅﹂ 図 2 桑原英文撮影 図 3 ・日・ロ棲井敏雄﹃浄土真宗寺院の建築史的研究﹂ 図4﹁重要文化財勝興寺本堂保存修理工事報告書﹄ 図 5 ・ 7 山岸常人作成 図 6 ﹃ 奈 良 県 の 近 世 社 寺 建 築 ﹂ 図 8 ・ 9 −
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﹁ 重 要 文 化 財 西 徳 寺 本 堂 保 存 修 理 工 事 報 告 書 ﹄ 図ロ﹃太子町の寺社建築﹂ 図日﹃国法・重要文化財大全﹄日 図 M − M 草野顕之﹃戦国期本願寺教団史の研究﹂ 図 回i
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﹃ 近 世 社 寺 建 築 の 研 究 ﹄ 第 一 号原
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は じ め に 25 ただ今ご紹介にあづかりました西田と申します。どう ぞよろしくおねがいいたします。 また、ただ今は、山岸常人先生のお話をたいへん興味 深く拝聴させていただきました。建築史学的な視点から の真宗寺院の本堂や内陣の多様性ならびに歴史的変遷な ど、私にとりましては初めての知識をいろいろ教えてい ただき、まことにありがとうございました。これから申 しあげようと思っている私の話は抽象的な話なので、山 岸先生のお話とは対極的なものになるかもしれません。 そこで、この記念講演の印象がばらばらなものにならな いかと心配しています。しかしそうはならないで、むし ろ形態的側面と理念的側面とが互いに補い合って一体と西
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なり、そこに︿真宗意味空間﹀が現成することをねがっ て お り ま す 。 さて、このたび教学学会の幹事の安冨信哉先生から ﹁荘厳﹂について話してほしいとのご依頼をうけました。 私はきわめていいかげんな人間でありまして、これほど の重要なテl
マについてお話しできるほどの学識も器量 もまったくないものであります。ところが生来のそうい う自分をつい失念して軽率にも大役をお引き受けしてし まい今になって大変困っています。しかし私も九月には 満で七十一歳になる高齢者です。最近は、親しくしてい ただいた先輩や知人も亡くなっていかれるということで、 いよいよ自分の身にもせまっているものを感じておりま す。人生のしめくくりにあたって私がいま関心をもって いますのは﹁救い︵救済︶﹂ということであります。も26 ちろん﹁真宗門徒︵真宗者︶﹂としては、﹁阿弥陀仰の国 への往生﹂ということが関心の中心であると申すべきで あ り ま し ょ う が 、 111 そして、この言葉に尽きているの ですが、しかしいまの自分がそれを言うとすれば、どう もそれは知的な位相でとらえているような感じがします。 親 鷲 聖 人 も ﹁ 苦 悩 の 群 萌 を 救 済 し ・ : ﹂ ︵ ﹃ 顕 浄 土 真 実 教 行 証 文類﹂総序︶と言われていますが、歳がいきますと昔は 枯れると申しましたがなかなかそうはいかなくて、私の 場合は﹁苦悩﹂がだんだん深まっていくようにさへ感じ ます。それは﹃悌説無量寿経﹄巻下五悪段で﹁無誰代者 ︵ 誰 も 代 わ る 者 無 し ︶ ﹂ と 一 一 一 日 わ れ て い る 宗 教 的 実 存 に 否 応なしに立たされている自分に思いあたるからでありま しょう。そうすると求めるのはやはり、宗教的にいえば ﹁救済﹂という言葉で表現されてきた領域に関心がつよ まっていくのを感じざるをえない。それが現在の私の心 の 情 況 で あ り ま す 。 そこで、そういう現在の自分にとっては﹁荘厳﹂とい う主題手巾目白はどうしても﹁救済﹂との関係という視 角で問題となってきます。以前のように、ただたんに外 的な事柄として学的に論じることができない。それで今 回は﹁荘厳﹂を内面の﹁救済﹂との関係で考えてみよう と思って、議題を﹁願心荘厳 1 1 救 済 の 意 味 論 | | ﹂ と 出 させていただきました。と申しましでも、じつはこの ﹁荘厳﹂と﹁救済﹂との概念的関係の問題は七十歳のい まにはじまったことではなくて、むしろ遠く四十年以上 前の昭和三十九年︵一九六四︶四月五月頃に私が直面し ていた課題でもあります。しかしその問題を解くことな く目先のことどもに追われていつしか四十年以上の歳月 が経ってしまいました。いわば忘れていた。おそらく安 冨先生の一声が無ければ、それは私の心の奥で眠り続け て身の終罵とともに消えていったことと思います。この たびのご縁をいただきまして、私の中ではるか記憶の彼 方に埋もれていた問題がふたたび記憶の表面に浮かんで きました。四十数年前の記憶の濃度はさすがに薄れ暖昧 さの淵にただよっていますが、しかし記憶をひたす情緒 はいまも薄れずに残っている。 これから、その情緒のところまで下りていくわけです が、その前に、この荘厳論という問題に私がその後どう かかわってきているかをかんたんに見ておきたいと思い ます。私は過去に﹁真宗荘厳論序説﹂︵平成六年ワ九九 内 ︺ ︶ 、 ﹁ 二 十 一 世 紀 に 向 か う 荘 厳 ﹂ ︵ 子 成 六 年 ︹ 一 九 九 四 ︺ ︶ 、 ﹁ 儀 式 荘 厳 の 意 義 | | と く に 理 論 的 考 察 を 中 心 と し て | | ﹂
願 心 荘 厳 ︵ 平 成 十 年 ︹ 一 九 九 八 ︺ ︶ と い う 三 つ の 荘 厳 論 を 書 き ま し た ︵ ﹁ 丙 田 真 因 著 作 集 ﹂ 第 三 巻 所 収 ︶ 0 第一の論文は真宗に おける荘厳とは何かということを教学的にたどろうとし たものです。次の第二論文は未来の荘厳のビジョンを描 いてみようと思ったものです。第三の論文は現実の真宗 寺院の御堂内で行なわれる悌事としての儀式を﹁願心荘 厳﹂﹁内陣荘厳﹂﹁儀式荘厳﹂という三つの分析概念を設 定して﹁儀式法要﹂を統合的に考えてみたものです。こ とに第三の論文では真宗の例事としての儀式の輪郭を構 造的にえがくことをめざしました。すなわち、第一の ﹁願心荘厳﹂とは阿弥陀仰の因位法蔵菩薩の四十八願の 建立とその成就でありますが、それは具体的には﹁浄土 三部経﹂の読諦という形で﹁説法﹂される。第二の﹁内 陣荘厳﹂とは||本山と一般寺院では異なる||建築、 彫刻、絵画、装飾具等々の物象を用いて荘厳されている 空間であります。中央に本尊阿弥陀如来を安置し、親驚 聖人と、その親驚聖人の︿まなこ﹀を通して現れた龍樹 菩薩・天親菩薩・曇鷲大師・道縛禅師・善導大師・源信 僧都・法然上人の七高僧の絵像が安置される︵聖徳太子 の問題もある︶。しかしそれはたんに肖像画を安置して い る の で は な く 、 ﹃ 易 行 品 ﹄ ﹁ 浄 土 論 ﹄ ︵ 以 降 ﹃ 無 量 寿 経 論 ﹂ 27 と 表 記 ︶ ﹃ 浄 土 論 註 ﹂ ︵ 以 降 ﹃ 無 量 寿 経 論 註 ﹂ と 表 記 ︶ ﹁ 安 楽 集﹄﹃観経疏﹄﹃往生要集﹄﹁選択本願念働集﹄等々の ︿教え﹀を表象している。すなわち、それらの諸影像は 直 ち に 経 論 釈 の メ タ フ ァ ー と な っ て い る 。 第 一 一 一 の ﹁ 儀 式 荘厳﹂は、その﹁内陣荘厳﹂の場で浄土三部経や七高僧 の論釈等々が現実の生きた僧侶の音声で読請されること によって生きた言葉となり、︿真宗﹀の︿意味﹀が現成 してくる。いいかえれば、そこに︿真宗意味空間﹀があ らわれてくる。しかも﹁儀式荘厳﹂は或る時刻から或る 時刻までというように限られた時間の中でとりおこなわ れるという時間性を特徴としているので、不可逆的でか つ一回的なものである。このように、これらの﹁言葉﹂ ︵願心荘厳︶と空間︵内陣荘厳︶と時間︵儀式荘厳︶の 一二者が一体となって時間の上で統合的に真宗の悌事がな される、これが﹁儀式法要﹂である。そういうように理 論化しました。これが私の真宗荘厳論であります。 そして、その後、この荘厳の問題を自分の信仰の問題 と関連づけて書いたのが私の﹁著作集﹄第三一巻の﹁まえ がき﹂であります。そこではいささか個人史的にふりか えっているのですが、いまの私はその方向で考えていま す。これらによって私自身としては﹁真宗荘厳論﹂の概
28 略はほぼ結ぴ目をむかえたものと思っていました。とこ ろが、はからずも、このようなご縁をいただき、もうい ちど﹁荘厳﹂の問題について考えることになりました。 今年度の教学大会の﹁真宗における備事﹂という統一 テ l マは、さきに熊谷宗恵総長が宗祖親驚聖人七百五十 回御遠忌の基本方針で表明されました﹁真宗の備事の回 復﹂という課題を、つけて設定されたものであるとうかが っております。したがってこのテ l マは教団の課題から 出てきている重要なテ
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マであって、そこには回復さる べき真宗の悌事とは何かを教学的に明確にしてほしいと いう教団のねがいがあると思います。もちろん、そのよ うな重い要請に私ごときものが応えられるとはとても思 えませんが、それはともかく、ここでは、この﹁まえが き﹂を土台として、自分がこの阿弥陀仰の因位の法蔵菩 薩の﹁願心荘厳﹂の、その﹁荘厳﹂にどのようして出会 い、どのように考え、どのようにその︿意味﹀を領解し てきたかを振り返ってみることを通して、この問題につ い て 少 し 考 え て み た い と 思 っ て い ま す 。 第 さ て 、 私 が ﹁ 荘 厳 ﹂ と い う 一 言 葉 に 学 的 に 出 会 っ た の は 、 私 の ﹁ 著 作 集 ﹄ 第 一 一 一 巻 の ﹁ ま え が き ﹂ で も 書 き ま し た が 、 昭和三十九年︵一九六四︶四月︵二十七歳︶、私が大谷 大学大学院で真宗学を学び始めたとき指導の松原祐善教 授のゼミのテキストが曇驚大師の﹁無量寿経論註﹄で、 入学早々﹁荘厳不虚作住持功徳成就﹂の研究発表を命ぜ られた時であります。その下準備のために天親菩薩の ﹁無量寿経論﹂の﹁荘厳悌土功徳成就﹂﹁荘厳例功徳成 就﹂﹁荘厳菩薩功徳成就﹂の二十九種荘厳の概略を﹃無 量寿経論註﹂の解釈を通して勉強しました。そのときは じめて学的に真宗の教学用語としての﹁荘厳﹂に向き会 いました。もちろん私は越中門徒の生まれ育ちですので、 ﹁ お し よ う ご ん ﹂ ﹁ お か ざ り ﹂ ﹁ お み が き ﹂ 等 々 は 子 ど も のころからおてつだいをしたりして生活の中で知ってい る。おっとめでの祖父の﹁くどくしようl
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ん ﹂ と い う音声にもなれていましたし︵毎朝のおっとめは正信 偶︶、﹁しようごん﹂という言葉自体は体験を経て身で知 っている。しかし、それはいわば日常の生活の中での音 声の用語でありました。ところが、いまは経論釈の原典 の中の用語としての漢字︵文字︶の﹁荘厳﹂であり、学 的な把握を要求される場での専門語でした。そんなこと で﹁荘厳﹂との学的なつきあいはそのときから始まった願 心 荘 厳 と 一 言 え る か と 思 い ま す 。 l l l 尤も学的なつきあいといい ましでも、なにもそれを学問的に研究し始めたというこ とではありません。ただそういう学的な用語として意識 し始めたというにすぎません。そして漠然といろいろと それをめぐって考えるようになったということです。そ していま、その学的出会いの発端の頃の自分の︿思い﹀ を思い起こしているわけです。 その時どのような発表をしたか。なにか当時のガリ版 で何枚か刷ってレジュメをつくって発表した記憶はある のですが、その内容については経験の底に深く沈んでい て浮かんできません。ただ、かんじんの﹁不虚作住持功 徳﹂よりも﹁荘厳﹂という専門語自体にひかれたようで す。ひかれたというよりも、ひっかかりをもったといっ たほうが事実に近いかもしれません。それは﹁荘厳﹂と いう言葉はよく知った言葉ではありましたが、あらため て阿弥陀仰の因位の法蔵菩薩の本願の文脈の中で出てく るとなにか掴みきれないものが残ったからであります。 それは、なぜ荘厳なのか、なぜ救済ではないのかという 疑問でした。荘厳という分析概念の意味の核は﹁飾る﹂ ﹁装飾﹂ということですから、それは範轄としては美学 の概念である。ところがその荘厳の指示対象は、法蔵菩 29 薩の四十八願は自分で自分の煩悩を滅却することができ なくて三悪道の苦悩に沈む衆生をたすけて阿弥陀仰の固 に往生させて其処でさとりをひらかせてやりたいという 本願でありますから、それはまさに法蔵菩薩の衆生﹁救 済﹂の過程である。だとすれば、その指示対象から見て 救済という言葉のほうが適切ではないのか。宗教的概念 である救済のほうが美学的概念である荘厳よりも的確で ある。そのように思えたからです。そんなことで阿弥陀 併の因位の法蔵菩薩の﹁願心荘厳﹂という真宗学の根幹 をどのように領解すればいいのか、一つの疑問があたま の奥隅に宿ることになりました。 ところで、このように、自分の研究課題という学的に 向き合ったのはその時が初めてであるとしても、いま申 しましたように、私は真宗門徒として子どもの頃から ﹁荘厳﹂という言葉は日常語でありましたし、また開法 上の言葉でもありましたので、むしろそれはなじみの深 い言葉であったと言ったほうが正確であるかもしれませ ん。しかもじっは学的にも本当は初めてではないとも言 えます。それは私の人生に曽我量深先生との︿縁﹀があ たえられていたということと関係しています。私の祖父 西田辰正が明治末大正初の頃からの曽我先生の信者であ
30 ったものですから、在家の私の家でも曽我先生のお座が つとめられ︵昭和二十五年秋、昭和二十七年三月︶、私 も祖父母や家庭の宗教的雰囲気の中ですっかり染まって い ま し た 。 ﹁ 宿 業 本 能 ﹂ ﹁ 廻 向 表 現 ﹂ ﹁ 生 産 道 の 宗 教 ﹂ ﹁ 往 還の対面﹂﹁十七願二十願の合せ鏡﹂等々の曽我先生の 言葉が祖父達同行達の日常の﹁ごじだん︵御示談︶﹂の 中でよく出て来ていました。この﹁荘厳象徴﹂という言 葉もその中の一つです。そういう自分の個人史から言っ てむしろなじみの深い言葉であった。先生は敗戦後よく ﹁荘厳象徴﹂ということを言われました。いわゆる、曽 我先生の﹁荘厳象徴説﹂です。昭和二十四年︵一九四 九︶五月十八日︵かぞえ七十五歳︶より連続五日間、京 都高倉会館で、丁子屋書店主藤井博識氏の主催で文化講 座が開催され、この時の先生の講題が﹁本願の象徴﹂で した。また昭和二十六年九月二十九日・三十日の二日間、 真人社主催の先生の喜寿︵かぞえ七十七歳︶の祝賀記念 講演会がもよおされ、そのときの講題が﹁象徴世界観﹂ でした。このように先生は昭和二十年代は説教でもよく ﹁象徴﹂ということを言われ、信者の聞に﹁象徴﹂とい う一百葉がはやっていました。そういう経験と記憶があり ま す 。 そこで、大学院で﹁荘厳﹂について研究することにな って、濃密な小真宗門徒であった自分のその頃のことを 思い返しながら、曽我先生の﹁本願の象徴﹄や﹃象徴世 界観﹄を再び読み返してみました。おそらくそのとき授 業の次元では学的に処理し通過して行ったのであろうと 思うのですが、しかし私はその時深い処でかつての自分 とはちがう処にいる自分に気づき樗然としました。もは や自分は昔の︿真宗意味空間﹀の中にはいない。その十 年前の十七歳の時︵高校二年︶、病気休学等を経て私の ︿世界﹀は一変したことは知っていたし、その後、十年 その一変した世界をあゅんできたことは事実でしたが、 その時、その変化をどう理解したらいいのかよくわかり ませんでした。ただ、自分が自分の基体を体感し自分自 身になったような感覚がありました。ーーその後どうな ったかはここで述べる時間はありませんが、とにかく、 先生の荘厳象徴説にもどりますと、先生は﹁象骸世界 観﹂という新語をつくられたわけですが、その象徴世界 観とは一切万物悉くを南無阿弥陀仰の象徴としていただ く こ と で あ る と 言 わ れ ま す ︵ ﹁ 象 徴 世 界 観 ﹄ 一 四 jJ 五 頁 ︶ O いいかえれば、この世の現象の一切を南無阿弥陀仰の象 徴としていただくことによって、この現象世界は阿弥陀
願 心 荘 厳 仰の本願の世界になるということであります。 ちなみに、曽我先生が現代語として領解されているこ の﹁象徴﹂という語は、もともと明治十六年︵一八八 一 一 一 ︶ 中 江 兆 民 が フ ラ ン ス の ユ l ジェンヌ・ヴエロン著 ﹃美学﹄を訳出した際に
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の訳語として造語し た も の で ︵ ヴ エ ロ ン 原 著 中 江 兆 民 訳 ﹃ 維 氏 美 学 ﹄ ︹ ﹁ 明 治 文 化 全集﹄補巻ゐ︺︶、それが明治三十年代後半から上田敏を 中心に西欧の新しい文芸思潮である弓目ゲ o−
ZB 巾 を 紹 介 する際に訳語として﹁象徴主義﹂があてられ、のちに ﹁ 象 徴 ﹂ だ け で 使 用 さ れ る よ う に な っ た と 一 言 わ れ て い ま す ︵ ﹃ 現 代 日 本 文 学 大 事 典 ﹂ 明 治 書 院 ︶ 。 大 正 時 代 に な る と 丈学のみならず哲学や思想の分野でもこの象徴の語がよ くつかわれるようになり、大正時代に土田杏村﹃象徴の 哲学﹄が出版されその分野でのベストセーラーになりま した︵この本は戦後もあらたに翻刻されている︶。そん なことで﹁象徴﹂という用語は、曽我先生の青年時代に 丈学・思想・哲学の分野ではやった言葉であって、それ で先生は荘厳の概念と似た概念を現代語の中にきがして みて﹁象徴﹂にあたると言われたのでありましょう。し かしこの﹁象徴﹂も多義的であってかんたんにはいきま せん。通常は抽象的ないし精神的な内容を具体的なもの 31 に置き替えて表現することと理解されています。たとえ ば﹁歎異抄﹄に﹁露命わづかに枯草の身にか冶りて﹂と ありますが、この﹁露﹂は具体的に目に見えるものであ りますが、それはこの丈では﹁はかないもの﹂の象徴と なっています。最近は、佐々木健一氏によると﹁象徴﹂ は次のように定義されています。﹁精神的な事象︵概念、 理念、思想、アイディアなど︶の存在の日印となる感覚 的対象を広く記号という。記号は表現体であり、その記 号と結びつけられた精神的事象はその表現体の意味であ る。記号の中でも特にその記号自体が主題化し、様々な 意味を誘発するもの、言い換えればそれ自体が創造的で あるような記号が象徴である o ﹂ ︵ ﹁ 美 学 辞 典 ﹄ 東 京 大 学 出 版会︶と。とすれば、先生は佐々木氏の言われる﹁創造 的﹂な側面を直感して﹁象徴﹂と言われたのであろうと 思われます。こんにちでは﹁象償﹂は文学・思想・哲学 の基本語となっています。真宗学を一般の思想界へ開放 していくためには、このような現代語化も必要なことで ありましょう。そういう意味でこれは一つの方法であっ た と 言 え ま す 。 と こ ろ で 、 の ﹁ 象 徴 ﹂ ﹁荘厳﹂に直接の関係はないのですが、こ に関連して思い出しますのは、東京の学生の32 とき読んだ波多野精一著﹃宗教哲学﹄︵岩波全書・昭和十 年︶です。そこに﹁宗教に於いてはすべての表現は象徴 である。﹂︵四六頁︶ということが言われています。曽我 先生の言われることと非常に似ている。しかしこれは近 代啓蒙的理性においては宗教的言説は神話であって幼稚 なものであるというように否定的にとらえられていたの に対して、むしろその解釈を批判するという文脈で出て 来ている命題でありますが、いずれにしろ、ここでは、 宗教の表現は表現することのできないものを表現した象 徴的な表現であるということを言っている。ここで同じ ﹁象徴﹂と言われているので、同じことを言われている ように見えます。しかし実は曽我先生の言われる﹁象 徴﹂と波多野博士の言われる﹁象徴﹂とはまったく違う のです。ちがうというか、﹁象敵﹂の概念が違うのでは なくて、||概念が同じであっても、その﹁象徴﹂と認 識しているその認識者の認識論的台座そのものが違うの です。波多野宗教哲学では近代の理性を立場として宗教 を論じている︵ただし波多野精一博士は教会所属のクリ ス チ ャ ン ︶ o そこから宗教的言説を象徴と見ているので す。これは宗教哲学とはいえ哲学ですから学的にはそれ は当然です。そして、私自身もまた波多野博士の立場と 同じ立場にいる自分でありました。ところが曽我先生は、 宗教の世界の中から、ーーー私の言い方ですと︿真宗意味 空間﹀の中からこの世の現象を見ている。したがって、 曽我先生の立場からは﹁本願の象徴﹂という言葉が出て くるのですが、近代的理性の立場では﹁象徴の本願﹂と なる。いいかえれば、曽我先生の意味空間からは現象を 本願の象徴と見るのですが、近代的理性の意味空間から は本願を現象の象徴と見る。つまり曽我先生では本願の ほうがさきにあり、近代的理性では現象のほうがさきに あるということであります。 私はいまや近代的理性を台座としているわけですから、 曽我先生や祖父達と私では認識論的台座そのものが逆に なっている。世界がまったくちがってしまっている。逆 転している自分を発見した。しかし私はもはや子どもの 頃の自分にもどることはできない。そこには、もはや ︿阿弥陀併を信じていない自分﹀が居る、それに鰐然と しました。信じていないものが﹁弥陀の本願﹂云々と言 ってみてもどうなるものでもない。これでは真宗学はで きないと思いました。ここから私は、暗い閣の中をあゆ むような精神生活に転落していきました。どうしたら、 祖父や曽我先生達の処へもどることができるのか。 そ れ
は︿知の罪﹀をくぐり︿信の罪﹀へと転換しなければで きないことなのですが、それは今日の主題ではないので、 それにはふれません。ただ、︽罪︾をくぐると﹁荘厳﹂ はメタファーになるということだけ申しそえておきます。 第 願 心 荘 厳 さて、以上が﹁荘厳﹂に学的に出会った頃のことです が、そこから私は先ず︿荘厳史﹀という観念に到達しま した。私が史学科の学生であったときよりは、二十七歳 になってからですが、真宗学を学ぶようになってからは 祖父との対話の内容はより教学的なものになっていきま した。帰省中の対話で、或るとき祖父は法蔵菩薩の修行 はまだ終わっておらんのだと言いました。自分と一緒に 修行してくださっているのだと。曽我先生はよく説教の 場で、法蔵菩薩は従因向呆の菩薩ではなくて従果向因の 菩薩であると言われていました。それは法蔵菩薩が従因 向果でいったん阿弥陀悌となり阿弥陀悌国を完成した上 で、次に、その果位の阿弥陀仰がこんどは従果向因して 因位の法蔵菩薩にくだり、そして再度従因向果している 菩薩であるという意味です。通常はこれを果位阿弥陀悌 の還相廻向ととらえます。法蔵菩薩というと﹁備説無旦一 33 寿経﹄巻上の︿阿弥陀悌物語﹀のスジ︵ストーリイ︶に 拠りますので、法蔵菩薩は因位の位相ですからまだ果位 の阿弥陀備に成っておられないし阿弥陀悌国も成就され ていないということになる。つまり因位法蔵菩薩の次元 では果位の阿弥陀備も阿弥陀仰国も存在しない。これで はまだ阿弥陀悌国を実現するための修行︵実践実行︶中 ということになってしまう。すなわち阿弥陀悌国完成の 前の段階である。しかし経説︵釈尊の説︶ではすでに阿 弥陀悌国は完成してしかも十劫を経ていると言われてい ます。とすればもはや果位阿弥陀備は存在しても因位法 蔵菩薩は存在しない。とすればその十劫後の現在も法蔵 菩薩が修行されているというのは経説と矛盾し組離をき たしてくる。だからいま申しましたように通常は因位の 法蔵菩薩と言わないで果位の阿弥陀備の還相廻向と言う わけです。それなのに、法蔵菩薩というのはなぜか。そ こで、現に自分の上にはたらいでくださっている法蔵菩 薩は十劫前の第一次の位相の因位法蔵菩薩ではなくて、 果位阿弥陀備が従果向因して因位の法蔵菩薩となり、そ して再度従因向果されている第二次の位相の法蔵菩薩で あるということになる。曽我先生が従果向因の法蔵菩薩 と言われるのはそういう第三次の位相の法蔵菩薩のこと