規 吻4に お け る止観 の 研 究(PHRAPONGSAK) 1
Nikayaに
お け る止 観 の 研 究
一止 観 と心解 脱 ・慧解 脱 を 中 心 と して 一
K.PHRAPONGSAK
1.は じ め に 「止(samatha)・ 観(vipassana)」 につ い て の通 常 の 理 解 に よ る と、 心 を一 つ の 対 象 に集 中 させ るの を 「止 」 とい い 、それ に よ って 正 しい 智慧 を起 こ し、存 在 の 真 実 の 姿 を観 る の を 「観 」 とい う。 パ ー リ仏 教 に お け る止 観 の 研 究 と い え ば 、 ほ とん ど が5世 紀 の Buddhaghosaに よ るYisuddhimaggaな ど に 依 っ て 、止 観 の 修 行 法 な ど を 検 討 した も の で あ る1。 そ れ は 、 止 観 がNikayaに お い て は 詳 細 に述 べ られ て お らず 、Yisuddhimaggaや パ ー リ註 釈 文 献 に お い て 体 系 化 され た修 行 法 だ か らで あ ろ う。 特 に 、Nikayaに は 見 ら れ な い が 、Visuddhimagga他 に は 見 られ る 「観 」の み を 修 習 す るsuddhavipassanayanilca(純 観 行 者)ま た はsukkhavipassaka(乾 観 者)2な ど の行 者 の修 行 法 で あ る。 これ は 、 「四禅 Gh5na)」 の 過 程 な しに 、 は じ め か ら 「観 」 を修 習 しな が ら、 正 しい 智 慧 を 起 こ して 阿 羅 漢 の 境 地 に 達 す る と い うも の で あ る。 しか し、 初 期 経 典 に お け る 仏 道 修 行 の 上 で は 「禅 」 と 「慧 」 との 両者 が 並 び 修 習 させ られ る べ き こ と は 、 n°atthijhana甲apa面assapa面i瓢n'atthiε ゆ 義yato, yamhijhanancapannecasavenibbanasantike.(Dhp.372) 1関 口真 大 は 、様 々 な 分野 で の止 観 の研 究 論 文 を 編 集 し 『止 観 の 研 究 』と して刊 行 した。そ の 中 に、佐 藤 密 雄[1975〕 は 「清 浄 道 飴 に於 け る 止観 」を発 表 した。CryanaRama[2001]は 、吻諏鋤'㎜8即 を 中 心 にNikayrr及 びAbhidhamma を研 究 対 象 と して 、 上 座 仏 教 の伝 統 の 中 に 伝 授 され て きた 瞑 想 体 験 の 実 践 とそ の 内容 を 体 系 的 に 整 理 した。 さ ら に 、止 観 な どの 仏 教 修 行 論 の研 究成 果 は 、Cousins[1984]、[1卯6]、 森 章 司[1979].Griffiths[19$1].Schmithausen[1981]、 金 宰 晟[1995]な どが あ る。 2
sukkhavipassaka(乾 観 者)は 「乾 い た(sukkha)観 を修 習す る者(vipassaka)」 とい う意 味 で あ る。 こ の 「乾 い た 」 とは 「四 禅 の潤 い が な い 」 もの で あ り、 っ ま り 「四禅 」 を修 習 せ ず に 「観 」 の み を 修 習 す る も の で あ る。
龍 谷 大 学 佛 教 学 研 究 室 年 報 第15号2010.9.30 2 慧 な き者 に禅 な く、禅 な き者 に慧 な し。 慧 と禅 とをそ な えた者 は 、浬 繋 の 近 くに あ る。 と 説 か れ て い る の で 、 明 ら か で あ る 。 そ の 場 合 は 、suddhavipassanayanikaま た は sukkhavipassakaと い う 行 者 の 修 行 法 を ど の よ う に 理 解 す べ き か 、 さ ら に こ れ は Visuddhimaggaな どの 註 釈 文 献 の特 徴 な のか 、それ とも 醐 吻 ロに も別 の表 現 で述 べ られ るか 、 疑 問 で あ る。 拙 論[2007]で は 、 後 代 の 文 献 や 註 釈 文 献 な ど に依 らず 、 初 期 経 典 のNikayaを 中 心 とす る 止 観 と 「八 聖 道 」 に 関 す る 用 例 を 多 面 的 に 考 察 した 。 結 論 を ま と め る と 、 以 下 の 通 りで あ る。 ① 止 観 は 、 八 聖 道 と同 様 に 「有 漏(sasava)」 と 「聖(ariya)・ 無 漏(..)」 との 段 階 に分 け られ る。 ② 止 観 の先 後 問 題 に対 して 「観 を 先 行 させ る 止 を修 習 す る」 の は 、業 の 果 報 とい う こ とや 世 間 に 等 正 覚者 が い る こ とな どを観 察 し、 あ るい は 四 聖 諦 や 五 藏 な どを 観 察 ・洞 察 す る とい え ど も、 これ は 「修 慧(bhavanamayapanna)」 に よっ て 四 聖 諦 な ど を 如 実 に 了 知 す るで は な く、 「思 慧(cintamayapanna)」 に よ っ て 四 聖 諦 な どを理 解 す る こ とで あ る か ら、 聖 ・無 漏 の 「観 」 で は な く、 有 漏 の 「観 」 だ けで あ る。 そ して 、 こ の 観 を も っ て 修 行 を 始 め 、 止 を修 習 し、 次 第 に 四 禅 に入 る の で あ る(有 漏 の 観 → 有 漏 の 止)。 ③ 「止 を先 行 させ る観 を 修 習 す る」 の は 、ま ず 「止 」 を 修 習 し、次 第 に 四禅 に 入 る。 そ して 、 深 く瞑 想 状 態 に 入 りつ つ あ る時 に 、 あ る境 地 に 達 し、 四 聖 諦 の 智 、 五 薙 ・十 二 処 な ど を 如 実 に 了 知 す る 「観 」 が 起 こ る の で あ る(有 漏 の 止 → 聖 ・無 漏 の 観)。 ④ 「止 と観 と を共 に修 習 す る」 の は 、 四聖 諦 の智 が起 こ る時 に 、聖 心 ・無 漏 心 ・聖 道 を 完備 し、 止 と観 とを 共 に 修 習 し、有 身 見 ・疑 惑 ・戒禁 取 が 完 全 に断 除 され れ ば 、 そ の者 は 八 聖 道 を一 段 階 修 習 し終 え て預 流 者 とな る。 こ の よ うに繰 り返 し修 習 し、漏 ・煩 悩 が完 全 に 断 除 され れ ば 、 阿 羅 漢 の境 地 に 達 す るの で あ る(聖 ・無 漏 の 止 観 双 運)。 ⑤ 「禅 」 の過 程 な しに、 た だ 「観 」 の み を修 習 す るsuddhavipassanaと い う修 行 法 は 、 Nikayaに お い て 出 な い。Nikayaの 立場 か ら見れ ば、 必 ず 「禅 」 に入 らね ば な らな い の で あ る。
Nikayaに お け る 止 観 の 研 究(PHRAPONGSAK) 3 た だ し、Nikayaに お け る 止 観 を 理 解 す る た め に 、 「八 聖 道 」 の み な らず 、 「心解 脱 (cetovimutti)・ 慧 解 脱(panfiavimutti)」 に 関 連 す る も の と多 面 的 に 考 察 す る の が 必 要 な の で あ る 。 ゆ え に 、 本 稿 で は そ れ に 引続 き 、 止 観 と心 解 脱 ・慧 解 脱 を 中 心 と して 考 察 す る。
皿.止 観 と心解 脱 ・慧 解 脱 との 関 連
ま ず 、 止 観 が 心 解 脱 ・慧 解 脱 と 関 連 す る と こ ろ は 、MIV.43Mahavedalla-suttaに お い て 、 以 下 の よ う に 述 べ られ る 。 ‐Katihipan'awsoangehianuggahitasammaditthicetovimuttiphalacahoticetovimutti-phalanisamsaca,pannavimuttiphalacahotipannavimuttiphalanisamsacati.‐Pancahikho awsoangehianuggalutasammaditthicetovimuttiphalacahoticetovimuttiphalanisamsaca, pannavimuttiphalacahotipannavimuttiphalanisamsaca:Idh'awsosammaditthislanuggahita cahotisutanuggahitacahotisakacchanuggahitacahotisamathanuggahitacahoti vipassananuggahitacahoti.Imehikhoavusopancahiangehianuggahitasammaditthi cetovimuttiphalacahoticetovimuttiphatanisamsaca,pannavimuttiphalacahoti pannavimuttiphalanisamsacati.(MIV.i.294)3 〔尊 者 マ ハ ー コ ッ テ ィ カ は 、 尊 者 サ ー リ プ ッ タ に 次 の よ う に 尋 ね た 。 〕 「そ れ で は 、 友 よ 、正 見 は ど れ だ け の 支 分 に よ っ て 資 助 さ れ 、心 解 脱 果 と も 心 解 脱 果 の 功 徳 と も な り 、 慧 解 脱 果 と も 慧 解 脱 果 の 功 徳 と も な る の で し ょ う か 」 と 。 〔尊 者 サ ー リ プ ッ タ は 次 の よ う に 答 え た 。 〕 「友 よ 、 正 見 は 五 つ の 支 分 に よ っ て 資 助 さ れ 、 心 解 脱 果 と も 心 解 脱 果 の 功 徳 と も な り 、 慧 解 脱 果 と も 慧 解 脱 果 の 功 徳 と も な り ま す 。 友 よ 、 こ こ に 正 見 は 、 戒 に よ っ て 資 助 さ れ 、 ま た 聞 に よ っ て 資 助 さ れ 、 ま た 議 論 に よ っ て 資 助 さ れ 、 ま た 止 に よ っ て 資 助 さ れ 、 ま た 観 に よ っ て 資 助 さ れ ま す 。 友 よ 、 正 見 は こ れ ら の 五 つ の 支 分 に よ っ て 資 助 さ れ 、 心 解 脱 果 と も 心 解 脱 果 の 功 徳 と も な り 、 慧 解 脱 果 と も 慧 解 脱 果 の 功 徳 と も な り ま す 」 と 。 3こ れ 以 外 はAN .53P励 α魏8ゴ肋 棚99ロ25(AN.皿.20-21)に お い て 述 べ ら れ て い る 。龍 谷 大 学 佛 教 学研 究 室 年 報 第15号2010.9.30 4 す な わ ち 「戒 ・聞 ・議 論 ・止 ・観 」 に よっ て 資 助 され る 「正 見 」 は 「心 解 脱 ・慧 解 脱 」 を も た らす の で あ る 。 ま た 、AN.2.3Bala-vagga10で は 「止 」 を 修 習 す れ ば 「心 」 が 修 習 され る。 心 が修 習 され れ ば 「食 欲 」 が捨 断 され る。 一 方 、 「観 」 を 修 習 す れ ば 「慧 」 が 修 習 され る。 慧 が 修 習 され れ ば 「無 明 」 が 捨 断 され る。 これ に続 い て 、 ragupakkilitthamvabhikkhavecittamnavimuccatiavijjupakkilitthavapannenabhaviyati. Imakhobhikkhaveragaviragacetovimuttiavijjaviragapannavimuttiti.{AN.1.61) 比 丘 た ち よ 、 食 欲 に 汚 さ れ た 心 は 解 脱 し な い 。 無 明 に 汚 さ れ た 慧 は 修 習 さ れ な い 。 比 丘 た ち よ 、 こ れ ら は 食 欲 を 離 れ た 心 解 脱 と い い 、 無 明 を 離 れ た 慧 解 脱 と い う 。 と 説 か れ る 。 さ ら に 、 ル醒.6Aka≫kheyya-suttaに お い て 、 Akankheyyacebhikkhavebhikkhu:asavanamkhayaanasavamcetovimuttimpannavimuttim ditthevadhaznmesayamabhinnayasacchikatvaupasampajjavihazeyyan-d,snesv・ev'assa paripurakariajjhattamcetosamatham-anuyuttoanirakatajjhanovipassanayasamannagatobruheta sunnagaranam.(MN.1.35-36)a 比 丘 た ち よ 、 も し 比 丘 が 「諸 漏 の 滅 尽 か ら 無 漏 の 心 解 脱 ・慧 解 脱 を 現 世 に お い て 自 ら 証 智 し 、 直 証 し 、 成 就 し て 住 し た い 」 と 希 望 す る な ら ば 、 諸 々 の 戒 を 充 分 に 満 た し 、 内 に 心 の 寂 止 に 努 め 、 禅 を 軽 視 せ ず 、 観 を 具 足 し 、 諸 々 の 人 な き 処 で 〔修 行 を 〕 積 む 者 に な る 。 と述 べ られ て い る。 つ ま り 「止 ・観 」 を 修 習 す れ ば 、諸 漏 の 滅 尽 か ら無 漏 の 「心 解 脱 ・ 慧 解 脱 」 を 現 世 に お い て 自 ら証 智 し、 直 証 し、 成 就 して 住 す る の で あ る 。 した が っ て 、 止 観 と心 解 脱 ・慧 解 脱 とは 密 接 な 関 わ り も持 つ の で 、 止 観 の 修 習 を 理 解 す る た め に 、 心 解 脱 ・慧 解 脱 と比 較 しな が ら考 察 す る 必 要 が あ る。 考 察 事 項 は 、 ① r止 観 と心 解 脱 ・慧 解 脱 」 、 ② 「止 観 と倶 解 脱 者(ubhatobhagavimutta)・ 慧 解 脱 者 (pannavimutta)」 、 ③ 「止 観 と単 独 に語 られ る 心解 脱 」 に 分 け て 考 察 して い く。 4こ れ 以 外 はMN .73Mahavacchagotta-sulfa(ル 醒.1.496)、AN.10.8flkairkha-vagga71(AN.V.132-133)に お い て 述 べ ら れ て い る 。
M吻 αに お け る 止観 の 研 究(PHRAPONGSAK) 5
皿.止 観 と心解 脱 ・慧 解 脱 の用 例
ま ず 、 ① 「止 観 と 心 解 脱 ・慧 解 脱 」 か ら始 め る。Nikayaに お い て 心 解 脱 と慧 解 脱 と が 併 記 され る頻 度 は 極 め て 高 く、 そ れ は 、 asavanamkhayaanasavamcetovimuttimpannavimuttimditthevadhammesayamabhitinaya sacchikatvaupasampajjavihareyyan-ti.5 諸 漏 の 滅 尽 か ら 無 漏 の 心 解 脱 ・慧 解 脱 を 現 世 に お い て 自 ら 証 智 し 、 直 証 し 、 成 就 し て 住 す る 。 と説 く の が 定 型 句 で あ る。 こ の 点 に 関 す る限 り、 心 解 脱 ・慧 解 脱 と も に 諸 漏 の 滅 尽 と 関 わ りが あ っ て 、両 者 に は 区 別 が な い と考 え られ る 。 しか し、区 別 の な い もの な ら ば 、 何 故 二 つ の 術 語 が 見 られ る の か が 問 わ れ る。 これ に つ い て はAN.2.3Bala-vagga10の 後 半 に 『食 欲 」 が 捨 断 され る 心 は 「心 解 脱 」 とい い 、 「無 明 」 が 捨 断 され る 慧 は 「慧 解 脱 」 と い う よ うに 一 般 に 解 釈 され て い る。 こ の 解 釈 は 、 両 者 と も諸 漏 よ り離 れ る こ と で あ る が 、 心 解 脱 は貧 欲 を 、 慧 解 脱 は 無 明 を 、 とい う漏 ・煩 悩 の 内 容 に よ っ て 区 別 す る と考 え られ る6。 上 述 の 心 解 脱 ・慧 解 脱 の 定 型 句 は 三 明7・ 六神 通8の 漏 尽 智(asavakkhayanana)に お い て しば し ば述 べ られ て い る 。 しか し、 三 明 ・六 神 通 の 漏 尽 智 に お い て は 心 解 脱 ・慧 解 脱 と関 わ らず 、 別 の 内 容 が 説 か れ て い る もの も あ る 。 そ れ は 、 'Soevamsamahitecitteparisuddhepariyodateananganevigatupakkilesemudu -bhute㎞ 副ye面 圃apPa幡a脚 曲aya纐yac脚a曲atiabhininnameti.
So"ida叩duk㎞an闘dyath5-bh近 噂pajanati,鱒ayarpdukkha-samudayo闘 五ya止 互一bh面⑳
SDN .1.156,167;DN.II.92,251;DN.皿.78,1(}2,108;MN.1.71,73・74,76-77,266;ル 醒.皿.22SN.V.423な ど 。 6 雲 井 昭 善[1982 :108・109]参 照 。 7 「三 明 」 の 漏 尽 智 は 、 心 解 脱 ・慧 解 脱 の 定 型 句 と して 謝.1.71,358,367,482;SN.V.305-306;AN.IV.141,291;捌. V.13,36,69,341な ど に お い て 説 か れ て い る 。 8 「六 神 通 」 の 漏 尽 智 は 、 心 解 脱 ・慧 解 脱 の 定 型 句 と し てMN.1.35・36;ル 醒.IIZ2;ル 四.皿.12,99;SN.II.214;AN. 1.256;AN.皿.19,426;AN.IV.422;〃 ゾ.V.200な ど に お い て 脱 か れ て い る 。
龍 谷 大 学 佛 教 学 研 究 室 年 報 第15号2010.9.30 6 pajanati,"ayamdukkha-nirodho"tiyatha-bhutampajanati,1'aya叩dukkha-nirodha-gamini patipada"tiyatha-bhutampajanati,"imeasava"tiyatha-bhutampajanati,"ayam asava-samudayo"tzyatha-bhutampajanati,"ayamasava-nirodho"tiyatha-bhutam pajanati,"ayamasava-nirodha-gaminipatipada'tiyatha-bhutampajanati.Tassaevamjanato evampassatokamasavapicittamvimuccatibhavasavapicittamvimuccatiavijjasavapicittam vimuccati,"Vimuttasmimvimuttam"itinanamhoti,"Khinajativusitambrahmacariyamkatam karaniyamnaparamitthattayati"pajanati.(DN.1.83-84)9 こ の よ う に し て 、心 が 安 定 し 、清 浄 と な り 、純 白 と な り 、汚 れ な く 、 付 随 煩 悩 を 離 れ 、 柔 軟 に な り 、 行 動 に 適 し 、 確 固 不 動 の も の に な る と 、 彼 は 諸 漏 を 滅 す る 智 に 心 を 傾 注 し て 向 け る 。 彼 は 、 「こ れ は 苦 で あ る 」 と 如 実 に 知 る 。 「こ れ は 苦 の 原 因 で あ る 」 と 如 実 に 知 る 。 「こ れ は 苦 の 滅 尽 で あ る 」 と 如 実 に 知 る 。 「こ れ は 苦 の 滅 尽 に 至 る 道 で あ る 」 と如 実 に 知 る。 「これ らは漏 で あ る」 と如 実 に 知 る。 「これ らは漏 の原 因 で あ る」 と如 実 に 知 る。 「これ らは漏 の滅 尽 で あ る」 と如 実 に知 る。 「これ らは 漏 の 滅 尽 に 至 る道 で あ る」 と如 実 に知 る。 こ の よ うに知 り、 こ の よ うに見 る彼 は 、 欲 漏 か ら も心 が 解 脱 し、 有 漏 か ら も心 が 解 脱 し、無 明 漏 か ら も心 が解 脱 す る。解 脱 した と き、解 脱 した とい う智 が 生 じた 。r生 まれ は尽 き た。梵 行 は完 成 され た。なす べ き こ と はな され た 。 もはや 〔再 び 〕 、 こ の世 に生 まれ 変 わ る こ とは ない 」 と知 る。 と説 か れ る。 こ の 説 明 は(a)苦 及 び 漏 の 四 聖 諦 を 如 実 に 知 る こ と 、(b)諸 漏 か ら 心 が 解 脱 す る こ と、(c)解 脱 した と き に 、解 脱 した とい う智 が 生 じた こ との 三 つ の 部 分 に 分 け られ る。 以 上(a)は 四 聖 諦 を 如 実 に知 る こ とが 説 か れ て い る の で 、 これ は 聖 ・無 漏 の 正 見 の 内 容 に 相 当す る の で あ る10。(b)で は諸 漏 か ら心 が 解 脱 す る と説 か れ て い る の で 、 心 9こ れ 以 外 は 、 殉餓 皿.5;MN,1.23,183・184,249,348,522;MN.Q.38-39,162,227;MN.皿.36,136;AN..1.165;AN. 皿.211;AN.皿.93,100;AN.N.178・179な ど に お い て 述 べ ら れ て い る。 10ル 併 .117Mahacatturisaka-suttaに お い て は 、 八 聖 道 の う ち の 正 定 が 中 心 の 修 行 で あ り 、 他 の 七 支 は 正 定 の 補 助 具
と さ れ る 。 ま た 、 正 見 ・正 思 惟 ・正 語 ・正 業 ・正 命 が そ れ ぞ れ 「有 漏(s独va)」 と 「聖(ariya)・ 無 漏(an臨va)」
と に 分 け られ て い る0有 漏 の 正 見 の 内 容 は 、 現 世 ・来 世 が あ り 、 業 の 果 報 、 世 間 に お い て 等 正 覚 者 が い る な ど と 主
張 す る こ とで あ る と言 わ れ る。 こ れ ら の こ と を 認 め な け れ ば 、 修 行 は 始 ま ら な い の で 、 こ の 意 味 で 有 漏 の 正 見 は 修 行
、M吻 αにお け る止 観 の研 究(PHRAPONGSAK) 7 解 脱 を 示 す と考 え られ 、 そ して(c)に お い て 解 脱 した と き に 、解 脱 した とい う智 が 生 じた の は 「解 脱 智 見(vimuttirianadassana)」 に相 当 す る で あ ろ う。 しか し、 慧 解 脱 は 何 れ の 段 階 に 含 ま れ ば よ い か 。 こ れ に つ い て は 、 次 の よ うに 検 討 して 解 決 す る。 前 述 の よ うにAN.2.3Bala-/・ ・/..の 後 半 に お い て 、無 明 が 捨 断 され 、 無 明 を離 れ る こ と は 「慧 解 脱 」 と い う こ と も説 か れ て い る の で 、 無 明 に つ い て 無 視 で き な い 。 無 明 と は 何 か に つ い て はSN.56.17オ 吻 δに お い て 以 下 の よ うに説 か れ る。 Avijj互avijjatibhantevuccati旧1Katam互nu㎞obhanteavi"義kitt互vat義caavijj義gato hotitillII Yamkhobhikkhudukkhea而anamdukkhasamudayea面5pamdukkhanirodhea面apam dukkhanirodhagaminiyapatipadayaannanamayamvuccatibhikkhuaviyaettavatacaavijjagata hotitillu(SN.V.429)11 「尊 師 よ 、 無 明 、 無 明 と 呼 ば れ ま す 。 尊 師 よ 、 実 に 無 明 と は 何 で し ょ う か 。 そ し て 、 ど れ ほ ど 無 明 に 至 っ た 者 と な る の で し ょ う か 」 と 。 「比 丘 よ 、 実 に 苦 を 知 ら な い こ と 、 苦 の 原 因 を 知 ら な い こ と 、 苦 の 滅 尽 を 知 ら な い こ と 、 苦 の 滅 尽 に 至 る 道 を 知 ら な い こ と で す 。 比 丘 よ 、 こ れ は 無 明 と 呼 ば れ 、 そ し て 、 こ れ ほ ど 無 明 に 至 っ た 者 と な る の で す 」 と 。 つ ま り、 四 聖 諦 を知 らな い こ とは 無 明 と呼 ば れ る 。 した が っ て 、 四 聖 諦 を 知 らな け れ ば 、 無 明 に 汚 され て い る 慧 は 解 脱 しな い。 これ に 反 して 、 四 聖 諦 を 知 る な ら ば 、 無 明 が 捨 断 され 、 無 明 を 離 れ て 慧 解 脱 を具 足 す る と言 え る。 そ れ 故 に 、 こ の 慧 解 脱 は(b) の 段 階 に 含 ま れ る と考 え られ る。 さ ら に 、Khuddakanikayaの 最 古 層 で あ るSuttanipata に お い て 、 詳 しい こ と は官 わ れ て い な い が 、他 の経 典 に お い て 慧根 と慧 力 とは 、 四 聖 諦 を 知 る こ と を指 す{SN.V.196,199; AN.皿.12な ど)。 ゆ え に 、 四 聖 諦 を 如 実 に 知 る こ とは 、 聖 ・無漏 の 正 見 で あ る。 11こ れ 以 外 はSN .IV.256に お い て 述 べ られ て い る。 さ らに 、SN.lll.162-1b3,170-171に お い て 、五蓮 ・五 慈 の 原 因 ・ 五 蓮 の 滅 尽 ・五 蔽 の 滅 尽 に至 る道 を 知 らな い こ とは 無 明 と呼 ばれ る 、 と述 べ られ て い る が 、 四 聖 諦 ・五瓶 ・六処 な ど を如 実 に 知 る こ とは 、 聖 ・無 漏 の 正 見 の 解 釈 を指 して い るの で 、 四 聖諦 を 如 実 に知 る こ との 相 違 点 が な い と 考 え られ る。
龍 谷 大 学 佛 教 学研 究 室 年 報 第15号2010.9.30 8 Yecadukkhampajanantiathodukkhassasambhavam, yatthacasabbasfldukkha叩asesamupan1莇hati, tancamaggampajanantidukkhupasamagaminam, cetovimuttisampannaathopannavimuttiya bhabbatoantakiriyaya,natojatijarupaga-ti.(Sn.726-727)i2 苦 を 知 り 、 ま た 苦 の 原 因 〔を 知 り 〕 、 苦 の す べ て を 残 り な く 滅 す る と こ ろ 〔を 知 り 〕 、 苦 の 止 滅 に 至 る 道 を 知 る 者 た ち は 心 解 脱 を 具 足 し 、 ま た 慧 解 脱 〔を 具 足 し 〕 、 〔苦 の 〕 終 滅 を 行 う こ と が 出 来 る も の と な り 、 生 老 に 至 ら な い も の と な る 。 と説 か れ る。 っ ま り、 四 聖 諦 を知 る者 は 、 心 解 脱 の み な らず 、 慧 解 脱 も具 足 す る の で あ る。 以 上 の よ うに(a)は 四 聖 諦 を如 実 に知 る こ とが 説 か れ る の で 、 これ は 聖 ・無 漏 の 正 見 の 内 容 に相 当す る の で あ る。(b)で は 諸 漏 か ら心 が 解 脱 す る と説 か れ る の で 、 これ は 心 解 脱 を 示 す と考 え られ 、 さ ら に慧 解 脱 も この 解 脱 の 段 階 に 含 ま れ て 、 心 解 脱 ・慧 解 脱 を具 足 す る 「解 脱 」 と な る。 そ して(c)に お い て 、 解 脱 した と き に 、 解 脱 した と い う智 が 生 じ る 「解 脱 智 見 」 と な る。 と こ ろ でMN.43Mahavedalla-suttaで は 、 「戒 ・聞 ・議 論 ・止 ・観 に よ っ て 資 助 され る正 見 は 心 解 脱 ・慧 解 脱 を もた らす 」 と説 か れ る。 正 見 は 、 有 漏 と聖 ・無 漏 との 段 階 に 分 け られ る の で 、 戒 ・聞 ・議 論 ・止 ・観 も有 漏 と聖 ・無 漏 と の段 階 が あ る と考 え ら れ る が 、 上 述 の 過 程 で は 、 苦 及 び 漏 の 四 聖 諦 を 如 実 に知 る聖 ・無 漏 の 正 見 に よ り諸 漏 か ら心 解 脱 ・慧 解 脱 を 具 足 し解 脱 す る の で 、こ の 場 合 、心 解 脱 ・慧 解 脱 を 齎 す 正 見 は 、 聖 ・無 漏 の 正 見 の み 考 え られ る。 そ れ 故 に 、 戒 ・聞 ・議 論 ・止 ・観 は 、 聖 ・無 漏 の 段 階 とな る 。 さ らに 、 こ の 止 観 は 聖 ・無 漏 の 段 階 とな る の で 、 止 と観 と を共 に 修 習 し、 定 と慧 と が 相 互 に 影 響 し合 っ て 増 大 しな が ら煩 悩 が 徐 々 に断 除 され 、 漏 ・煩 悩 が 完 全 に 断 除 さ れ れ ば 、 解 脱 が 得 られ る 。 こ の解 脱 は 、 相 互 に 影 響 し合 う定 と慧 と に よ っ て 得 られ 、 加 え てAN.2.3Bala-vagga10に お い て 「止 」 を 修 習 す れ ば 、最 後 に 「心 解 脱 」 が 得 られ 12 こ れ 以 外 はI t.103に お い て述 べ られ てい る。
NikByaに お け る 止 観 の 研 究(PHRAPONGSAK) 9 る 。 一 方 「観 」 を 修 習 す れ ば 、 最 後 に 「慧 解 脱 」 を得 られ る こ と を 説 い て い る の で 、 「心 解 脱 」 と 「慧 解 脱 」 と に 相 当す る の は合 理 的 で あ ろ う。
IV.止 観 と倶 解 脱者 ・慧 解 脱 者 の用 例
次 に 、② 「止 観 と倶 解 脱 者 ・慧 解 脱 者 」 を 検 討 し、止 観 との 関 連 を 考 察 す る。Nikaya に お い て 倶 解 脱 者 と慧 解 脱 者 と を併 記 す る の は 、七 種 の 聖 者 に 分 け られ る 「七 人 」13の 中 に 出 て く る。 そ れ は 、ル耐.701鯨 δ旨か細 鳩oに お い て この 七 人 の 内容 を 、 以 下 の よ うに 語 っ て い る。 Satt'imebhikkhavepuggalasantosamvijjamanalokasmim,katamesatta ubhatobhagavimuttopannavimuttokayasakkhiditthippattosaddhavimuttodhammanusari saddhanusari.(ル 醒.1.477)14 比 丘 た ち よ 、 世 界 に は 次 の 七 人 の 存 在 が 知 ら れ る 。 七 〔人 〕 と は 何 で あ る か 。 両 分 解 脱 者(倶 解 脱 者)、 慧 解 脱 者 、 身 証 者 、 見 到 者(見 至 者)、 信 解 脱 者 、 随 法 行 者 、 随 信 行 者 で あ る 。 と述 べ られ る。 倶 解 脱 者 と慧 解 脱 者 は 、 第 一 と第 二 に 挙 げ られ て い る。 これ に続 い て 、 倶 解 脱 者 と慧 解 脱 者 と の 定 義 が説 か れ て い る。 そ れ は以 下 の よ うに な る。 Katamocabhikkhavepuggaloubhatob版gavimutto:Idhabhikkhaveekaccopuggaloyete santavimokhaatiklcammaropearuppatokayenaphassitvaviharati,pa而ayac'assadisv互asav議 P曲 互h・n{L_. 13「 聖 者(囲 yapugga励 」 は 、Nikayaに お い て 二 っ の 種 類 に 説 か れ て い る 。 す な わ ち 、 ① 「四 双 八 輩 」 あ る い は 「四 向 四 果 」 と 、 ② 「七 人 」 と で あ るO前 者 は 「十 結(samyojana)」 の 捨 断 に よ っ て 区 別 さ れ る が 、 後 者 は 「五 根(indriya)」 に よ っ て 区 別 さ れ る 。 14こ れ 以 外 は 、DN.皿.105,254;ル 醒.1.439・440;SN.1.191;訓.1.74;AN.皿.8485;4MJV.10,77-78な ど に お い て 述 べ ら れ て い る 。龍 谷 大学 佛 教 学 研 究 室 年 報 第15号2010.9.30 10 Katamocabhikkhavepuggalopannavimutto:Idhabhikkhaveekaccopuggaloyetosanta vimokhaatikkammaropearuppatonakayenaphassitvaviharati,pannayac'assadisvaasava parikkhinahonti.(ルOV.1.477) 比 丘 た ち よ 、 両 分 解 脱 者(倶 解 脱 者)と は 何 で あ る か 。 比 丘 た ち よ 、 こ の 世 に お い て あ る 者 は 、 諸 々 の 色 を 超 え て 、 諸 々 の 無 色 な る 寂 静 解 脱 を 身 を も っ て 触 れ て 住 す る 。 し か も 、 慧 を も っ て 見 て 、 彼 の 諸 漏 を 滅 尽 し た の で あ る 。 ・・… ・ 比 丘 た ち よ 、 慧 解 脱 者 と は 何 で あ る か 。 比 丘 た ち よ 、 こ の 世 に お い て あ る 者 は 、 諸 々 の 色 を 超 え て 、 諸 々 の 無 色 な る 寂 静 解 脱 を 身 を も っ て 触 れ ず に 住 す る が 、 慧 を も っ て 見 て 、 彼 の 諸 漏 を 滅 尽 し た も の で あ る 。 倶 解 脱 者 と慧 解 脱 者 と は 、 諸 漏 を 滅 尽 した の で 、 阿 羅 漢 と な る が 、 こ の 両 者 の 相 違 点 は 「寂 静 解 脱(santavimokha)」 を 体 験 す る か 、 しな い か と され る。 倶 解 脱 者 は 「諸 々 の 色 を超 え て 諸 々 の 無 色 な る寂 静 解 脱 」を 体 験 した 者 で あ る。一 方 、慧 解 脱 者 は 「諸 々 の 色 を 超 え て諸 々 の 無 色 な る寂 静 解 脱 」 を体 験 しな い 者 で あ る 。 つ ま り、倶 解 脱 者 は 「無 色 定 」 に 至 っ た者 で あ る が く 慧 解 脱 者 は 「四禅(色)」 の 段 階 に と ど ま っ て 「無 色 定 」 に 至 ら な い 者 で あ る と見 られ る。 ま た 、 これ 以 外 の 倶 解 脱 者 と慧 解 脱 との相 違 点 はDN.15Mahirnidana-suttantaに お い て 以 下 の よ うに 述 べ られ る。 YatokhoAnandabhikkhuimasancasattannamvinnanatthitinamimesancadvinnam... ayatananamsamudayancaatthangamancaass義da五ca蚕dinava爵canissarapa丘cayathabhutam viditvaanupadavimuttohoti,ayamvuccatiAnandabhikkhupanne-vimutto... YatokhoAnandabhikkhuimeatthavimokheanulomampisamapajjati,patilomampi samapajjati,anuloma-paμ10mampisam蕊pa∬a",ya賦h'icchakamyadicchakamyavadicchakam samapajjatipiwtthatipi,asavanancakhayaanasavamcetovimuttimpanne-vimuttimditthe vadhammesayamabhinnasacchikatvaupasampajjaviharati,ayamwccatiAnandabhikkhu ubhato-bhaga-vimutto,imayacaAnandaubhato-bhaga-vimuttiyaannaubhato-bhaga-vimutti utmritaravapanitataravan'atthiti.(DN.皿.70・71) ア ー ナ ン ダ よ 、 比 丘 は こ れ ら の 七 つ の 識 の 住 処(七 識 住)と 、 こ れ ら の 二 つ の 処(二 処)と の 、 原 因 と 消 滅 と 楽 味 と 危 難 と 出 離 と を 如 実 に 知 り 、 執 着 な く 、 解 脱 し て い る の で あ る 。 ア ー ナ ン ダ よ 、 そ れ 故 に 、 こ の 比 丘 は 慧 解 脱 者 と 言 わ れ る 。 … …
照 吻 躍に お け る止 観 の 研 究(PHRAPONGSAK) ii ア ー ナ ン ダ よ、 比 丘 は これ らの 八 つ の解 脱 に 、順 に も入 り、逆 に も入 り、順 逆 に も入 る。 望 む と ころ で 、 望む もの を 、 望 む 間、 入 る こ と も し、 出 る こ と も し、諸 漏 の滅 尽 か ら無 漏 の 心解 脱 ・慧解 脱 を 現 世 にお い て 自 ら証智 し、 直証 し、成 就 して 住 す る。 ア ー ナ ン ダ よ、 それ 故 に 、 この 比 丘 は 両 分 解 脱者(倶 解 脱 者)と 言 われ る。 ア ー ナ ン ダ よ、 そ して 、 この 両 分 解 脱(倶 解 脱)の 他 に、 なお 高 くす ぐれ た 両 分 解 脱(倶 解 脱)は な い。 こ こ で は 、 倶 解 脱 者 に お い て 「八 解 脱 」isが得 られ 、 慧 解 脱 者 は 、 「七 識 住16と 二 処17と の原 因 ・消 滅 ・楽 味 ・危 難 ・出 離 を 如 実 に 知 り、執 着 な く、 解 脱 して い る」 もの で あ る と説 か れ て い る。 さ ら に 、SN.12.70Susimo;sに は 、 「私 は 慧 解 脱 者 で あ る」 と、世 尊 の 前 で 自 ら記 別 した 比 丘 た ち に 対 して 、 ス シ ー マ が 、 そ れ な らば あ な た た ち は 五 神 通(神 足 通 乃 至 宿 命 通)や 寂 静 解 脱 を得 て い る の か 、 と質 問 す る。 そ れ に 対 して 、 彼 らは 、 そ れ らを 得 て い な い と答 え た。 つ ま り、 こ こで 慧 解 脱 者 は 「五 神 通 」 や 「寂 静 解 脱 」 を得 な い 人 々 で あ る 。 ス シ ー マ は 、 これ らの もの を得 な い で 、 ど う して 「解 脱 」 と言 え る の か が 理 解 で きず 、そ の 点 を世 尊 に尋 ね る。それ に対 して 、世 尊 は 「法 住 智(dhammatthituiana) は 前 に して 、 浬 藥 智(nibbane..nanam)は 後 で あ る 」 と答 え た 。 以 上 を ま と め る と、 倶 解 脱 者 は 「寂 静 解 脱 ・八 解 脱 」 が 得 られ る と説 か れ て い る。 寂 静 解 脱 は 「四禅 」 を 超 え た 「無 色 定 」 に 至 る段 階 で あ る。 そ して 、 人 解 脱 の 第 四 乃 至 第 七 は 「無 色 定 」 に 相 当 し、 第 八 は 「想 受 滅 定 」 に相 当す る。 第 一 乃 至 第 三 の 内 容 15八 解 脱( atthavimokha)は 、① 有 色 な る者 が 諸 色 を 見 る 、② 内 に 色 の 想 な き 者 が 外 に 色 を 見 る 、③ 浄 な り と の勝 解 を持 つ 、④ 一 切 の 色 想 を超 え 、 暎 惑 の 想 を滅 し、種 々想 を作 意 せ ず 、虚 空 は無 辺 な り との 空 無 辺 処 に 逮 し て住 す る 、 ⑤ 空 無 辺 処 を 超 え、 臓 は無 辺 な り との 識 無 辺 処 に 逮 して 住 す る 、⑥ 一 切 の 識 無 辺 処 を超 え 、 何 もの も有 らず との 無 所 有 処 に 逮 して住 す る 、⑦ 一 切 の 無所 有 処 を超 え、 非 想 非 非 想 処 に 達 して 住 す る 、 ⑧ 一 切 の 非 想 非 非 想 処 を超 え 、想 と受 との 滅 に 達 して 住 す る と脱 か れ て い る(DN.II.70-71,111・112;DN.皿.262,288;AN.N.306)。 16七 識 住(sattavi面 帥 ゆitiyo)は 、 ① 種 々 の 身 体 の あ り、 種 々 の 想 の あ る生 け る も の(人 間 、 あ る神 々 、 あ る 悪 処 に 堕 した もの)、 ② 種 々 の 身 体 の あ り、 同 一 の 想 の あ る生 け る も の(初 禅 に よ って 生 まれ た 梵 天 の 神 々)、 ③ 同 一 の身 体 の あ り、種 々 の 想 の あ る生 け る もの(光 音 天 の 神 々)、 ④ 同 一 の 身 体 の あ り、 同 一 の 想 の あ る生 け る もの(遍 浄 天 の 神 々)、 ⑤ 空 無 辺 処 に至 る 生 け る もの 、 ⑥ 識 無 辺 処 に 至 る生 け る も の 、⑦ 無 所 有 処 に 至 る 生 け る も の で あ る と説 か れ て い る(DN.II.69;DN.皿.253;AN.N.39)。 17二 処(dve蕊yam師)は
、① 無想 有 情 処(asa簡asa甑ya重anの ② 非 想 非 非 想 処(鵬vasa面 舗sa簡ay飢ana)で あ る と説 かれ て い る(DN.∬.69)。
18SN
龍 谷 大 学 佛 教 学 研 究 室 年 報 第]5号2010.9.30 12 は よ く分 か らな い が 、 と も か く禅 定 に 関す る も の で あ る。 つ ま り、 こ の 八 解 脱 も 「四 禅 」 を 超 え た 「無 色 定 」 に 至 り、 さ ら に 「想 受 滅 定 」 に到 達 す る。 一 方 、 慧 解 脱 者 は 「寂 静 解 脱 ・五 神 通 」 が 得 られ ず 、 さ ら に 「七 識 住 ・二 処 ・法 住 智 ・浬 藥 智 」 に も関 わ る。 した が っ て 、 慧 解 脱 の 内容 を 知 る た め に は 、 法 住 智 な どが 何 で あ る か の 解 明 が 要 求 され る わ け で あ る。 しか し、 法 住 智 の解 明 は 、 法 とは 何 で あ る か とい う問 題 に 入 っ て しま うの で 、 とに か く こ こ に は 、 「寂 静 解 脱 ・五 神 通 」 を 得 な く と も慧 解 脱 が 得 られ る こ とに と ど め た い 。 つ ま り、 慧 解 脱 者 は 「四 禅 」 に と ど ま っ て 「無 色 定 」 に 至 らな い 者 で あ る と見 られ る。 倶 解 脱 者 と慧 解 脱 者 とは 諸 漏 を 滅 尽 した の で 、 阿 羅 漢 と な る が 、 倶 解 脱 者 は 「寂 静 解 脱 ・八 解 脱 」 が 得 られ 、 さ らに 、 諸 漏 の 滅 尽 か ら無 漏 の 「心 解 脱 ・慧 解 脱 」 が 得 ら れ る。 一 方 、 慧 解 脱 者 は 「人 解 脱 ・寂 静 解 脱 ・五 神 通 」 が 得 られ な い が 、 「慧 解 脱 」 は 得 られ る。 そ れ で は 、 慧 解 脱 者 は 「慧 解 脱 」 の み を得 られ る の か 、 そ れ と も慧 解 脱 の み な らず 、 「心 解 脱 」 も 得 られ る の か 。 この 疑 問 を解 く た め に 、 次 の こ と を 考 察 し よ う。 AN.4.9Macala-vagga8719に お い て 四 つ の 沙 門 が 説 か れ て い る 。 そ れ は 、 不 動 沙 門 (samanamacala)、 白 蓮 沙 門(samanapundanlca)、 紅 蓮 沙 門(samanapaduma)、 沙 門 た ち の 中 の 柔 軟 沙 門(samanesusamanasukhumala)で あ る。 不 動 沙 門 と は 有 学(sekha) を指 し、 阿 羅 漢 以 外 の 聖 者 で あ る 。 沙 門 た ち の 中 の 柔 軟 沙 門 と は 世 尊 自身 を指 す の で あ る。そ して 、白蓮 沙 門 と紅 蓮 沙 門 とは どん な者 で あ る か は 、以 下 の 文 章 を考 察 す る。 Kathancabhikkhavepuggalosamanapundarikohoti? Idhabhikkhavebhikkhuasavanarnkhayaanasavamcetovimuttimpannavimuttimditth'eva dhammesayamabh血dasacchikatvaupasampajjaviharati,nocakhoatthavimokhekayena phassitvaviharati.Evarrikhobhikkhavepuggalosamapapup岨ohoti・ Kathancabhikkhavepuggalosamanapadumohoti? Idhabhikkhavebhikkhuasavanamkhaya...upasampajjaviharati,atthacavimokhekayena
phassitvaviharati.Eva叩 ㎞oU血 曲avepuggalosamanapadumohoti.(溜V.皿.87)
比 丘 た ち よ 、 白 蓮 沙 門 は ど ん な 人 で あ る か 。
19Aハt .皿.86●88
鰍 の αに お け る止 観 の研 究(PHRAPONGSAK) 13 比 丘 た ち よ、 この 世 で 比 丘 は、諸 漏 の滅 尽 か ら無 漏 の 心解 脱 ・慧 解 脱 を現 世 に お い て 自 ら証 智 し、直 証 し、成 就 して 住す るが 、八 つ の 解 脱 を身 を もっ て 触 れ ず に 住す る。 比 丘 た ち よ、 この よ うな 人 は 白蓮沙 門 で あ る。 比 丘 た ち よ、 紅 蓮 沙 門 は どん な者 人 で あ る・か。 比 丘 た ち よ、 こ の 世 で 比 丘 は 、諸 漏 の 滅 尽 か ら … … 成 就 して住 す る。 さ らに、 八 つ の解 脱 を身 を もっ て 触 れ て 住 す る。 比 丘 た ち よ、 この よ うな人 は紅 蓮 沙 門 で あ る。 こ こで 白蓮 沙 門 と紅 蓮 沙 門 との 両 者 は 、 諸 漏 の 滅 尽 か ら無 漏 の 心 解 脱 ・慧 解 脱 を 現 世 に お い て 自 ら証 智 し、 直 証 し、 成 就 して 住 す る が 、 前 者 の 白 蓮 沙 門 は 、 八 解 脱 を 体 験 しな い 者 で あ る が 、後 者 の 紅 蓮 沙 門 は 、八 解 脱 を 体 験 した 者 で あ る。前 述 の よ うに 「倶 解 脱 者 」 は 、 諸 漏 の 滅 尽 か ら無 漏 の 心 解 脱 ・慧 解 脱 を 現 世 に お い て 自 ら証 智 し、 直 証 し、 成 就 して 住 し、 さ ら に 、 八 解 脱 を体 験 した 、 っ ま り 「四 禅 」 を 超 え て 「無 色 定 」 に到 達 した 者 で あ る と説 か れ る の で 、 これ は 後 者 の 「紅 蓮 沙 門 」 に 相 当 す る。 そ して 「慧 解 脱 者 」 は 、 諸 漏 を 滅 尽 した が 、 八 解 脱 を 体 験 し な い 、 っ ま り 「四 禅 」 に と ど ま っ て 「無 色 定 」 に 至 らな い 者 で あ る。 「慧 解 脱 者 」 が 心 解 脱 ・慧 解 脱 を 得 られ る か に つ い て は 説 か れ て い な い が 、 文 脈 を考 察 して み る と 、 こ れ は 前 者 の 「白蓮 沙 門 」 に 相 当 す る こ とが 判 断 で き る で あ ろ う。 そ れ 故 に 、 「慧 解 脱 者 」 は 「慧 解 脱 」 が 得 られ る だ け で な く、 「心 解 脱 」 も得 る こ とが で き る の で あ る。 以 上 、 ま と め る と 、 「倶 解 脱 者 」 と 「慧 解 脱 者 」 との 共 通 性 は 「諸 漏 の 滅 尽 か ら無 漏 の 心 解 脱 ・慧 解 脱 を 現 世 に お い て 自 ら証 智 し、 直 証 し、 成 就 して 住 した 者 で あ る。 そ して 、 両 者 の 差 異 性 を 言 え ば 「倶 解 脱 者 」 は 八 解 脱 や 寂 静 解 脱 な ど を 体 験 した 者 で あ る が 、 「慧 解 脱 者 」 は 八 解 脱 や 寂 静 解 脱 な どを 体 験 し な い 者 で あ る。 八 解 脱 ・寂 静 解 脱 は 「四 禅 」 を超 え て 「無 色 定 」な どに 到 達 した こ と を 指 す の で 、ま ず 修 行 者 は 「四 禅 」 を 修 習 し、 さ ら に 「無 色 定 」 を 修 習 す る。 こ の よ うに して 、修 行 者 の 心 が 安 定 し、 清 浄 とな り、 純 白 とな り、 汚 れ な く、 付 随 煩 悩 を離 れ 、 柔 軟 に な り、 行 動 に 適 し、 確 固 不 動 の も の に な る と 、 諸 漏 を滅 す る 智 に 心 を傾 注 して 向 け る。 彼 は 、 四 聖 諦 を 如 実 に 知 る 。 こ の よ う に 知 り、 こ の よ うに 見 る彼 に は 、 諸 漏 の 滅 尽 か ら無 漏 の 心 解 脱 ・慧 解 脱 を 現 世 に お い て 自 ら証 智 し、 直 証 し、 成 就 して 解 脱 し た 。 解 脱 した と き に は 、 解 脱 した とい う解 脱 智 見 が 生 じた 。 こ の 修 行 者 は 「倶 解 脱 者 」 とい う。 一 方 、r慧 解 脱
龍 谷 大 学 佛 教学 研 究 室 年 報 第15号zaja.9.30 14 者 」 は 「倶 解 脱 者 」 と同 様 に 「四 禅 」 を修 習 す るが 、 「無 色 定 」 を 修 習 せ ず に 、 諸 漏 を 滅 す る 智 に 心 を傾 注 して 向 け る。 彼 は 、 四 聖 諦 を 如 実 に 知 る。 こ の よ う に 知 り、 こ の よ うに 見 る 彼 に は 、諸 漏 か ら解 脱 す る。 こ の修 行 者 は 「慧 解 脱 者 」 と い うの で あ る 。 した が っ て 、 解 脱 した 者 は 「慧 解 脱 者 」 と言 っ て も 、 た だ 「慧 」 あ る い は 「観 」 の み に よ っ て 解 脱 す る こ と で は な く、 「止 」 を修 習 しな け れ ば な らな い の で あ る。 た だ し、 こ の 「止 」 は 「無 色 定 」 の 段 階 に 到 達 す る こ と で は な く 「四 禅 」 の 段 階 だ け で あ る。止 観 の 修 行 に よ っ て 倶 解 脱 者 と慧 解 脱 者 との 解 脱 に 至 る ま で の過 程 を 図 で 示 す と、 以 下 の よ うに な る。 【倶 解 脱 者1
i
【慧 解 脱 者 】同
回
四禅を修習す る
四禅を修習する
↓ ↓ ↓回
↓無色定を修習する
↓四聖諦を如実に知る
↓ ↓回
諸漏 が滅 尽 され 、 無 漏 の 心 解 脱 ・慧 解脱 が得 られ る ↓ ↓ 解 脱 した と きに 、 解 脱 した 智(解 脱 智 見)が 生 じる ↓ ↓ 【倶 解 脱 者 】 と呼 ば れ る 【慧 解 脱 者 】 と呼 ば れ るV.止 観 と単独 に語 られ る心解脱 の用例
以 上 、① 「止 観 と心 解 脱 ・慧 解 脱 」 及 び ② 「止 観 と倶 解 脱 者 ・慧 解 脱 者 」 を考 察 し た 。 これ か らは 、 ③ 「止 観 と単 独 に語 られ る 心 解 脱 」 を 考 察 す る 。 心 解 脱 が 単 独 に 語NikTyaに お け る 止 観 の 研 究(PHRAPONGSAK)
15
ら れ る 場 合 は 、 不 動 心 解 脱(akuppacetovimutti)、 慈 心 解 脱(mettacetovimutti)、 悲
心 解 脱(karunacetovimutti)、 喜 心 解 脱(muditacetovimutti)、 捨lb解 脱(upekkhacetovimutti)、
無 量 心 解 脱(appamanacetovimutti)、 無 所 有 心 解 脱(akincannacetovimutti)、 空 性 心
解 脱(sunnatacetovimutti)、 無 相 心 解 脱(animittacetovimutti)な ど がNikayaに お い て
用 い ら れ て い る 。 こ こ で 、 種 々 な る 心 解 脱 の す べ て を 列 記 す る わ け に は い か な い が 、 概 し て 、 種 々 な る 心 解 脱 は 、 有 漏 と 聖 ・無 漏 と の 段 階 が あ る と 言 え る 。 例 え ば 、SN.41.7Godattoで 無 量 心 解 脱 、 無 所 有 心 解 脱 、空 性 心 解 脱 、無 相 心 解 脱 に つ い て 述 べ ら れ て い る。 そ れ は 、 Idhabhantebhikkhumettasahagatenacetasae㎞ 叩disampharitvaviharatilltathadutiyam m山 盃ta"ya甲lllath互catutthamltluddhamadhot温ya叩 【sabbadhisabbatthatayasabbavantam 1。㎞m・ 甑 ・曲 ・g・tenscetasavipulenamah・g9・t・naappaman・naav・ ・ena2°a脚 ゆ ・籐・ pharitvaviharatilIkarunasahagatenacetasaIlmuditasahagatenacetasauupekkhasahagatena cetasaekamdisampharitvaviharatiIltathadutiyamtathata廿yamtath互catutthamIUuddham adhotiriyamsabbadhisabbatthatayasabbavantamlokamupekkhasahagatenacetasavipulena mahaggatenaappamanenaaverenaavyapayhenapharitvaviharatilllIAya叩vuccatibhante ・pP㎝ 蜘ace憾vimu酬lll(SN.IV.296)2重 尊 者 よ 、 こ こ に 比 丘 は 、 慈 し み(慈)の あ る 心 を も っ て 、 一 方 を 満 た し て 住 す る 。 同 じ く 第 二 方 ・同 じ く 第 三 方 ・同 じ く 第 四 方 を 満 た し て 住 す る 。 こ の よ う に 、 上 ・下 ・横 ・ 一 切 処 ・一 切 方 ・一 切 の 世 界 を 慈 の あ る 、 広 ・大 ・無 量 ・無 怨 ・無 瞑 の 心 を も っ て 、 満 た し て 住 す る 。 憐 れ み(悲)の あ る 心 を も っ て 、喜 び(喜)の あ る 心 を も っ て 、 平 静(捨) の あ る 心 を も っ て 、 一 方 を 満 た し て 住 す る 。 同 じ く 第 二 方 ・同 じ く 第 三 方 ・同 じ く 第 四 方 を 満 た し て 住 す る 。 こ の よ う に 、 上 ・下 ・横 ・一 切 処 ・一 切 方 ・一 切 世 界 を 慈 の あ る 、 広 ・大 ・無 量 ・無 怨 ・無 瞑 の 心 を も っ て 、 満 た し て 住 す る 。 尊 者 よ 、 こ れ は 無 量 の 心 に よ る 解 脱 と 呼 ば れ る 。 20 averenaをaverenaに 訂 正 。 zi こ れ 以 外 は ル四 .43Mahavedalla・ 釧"4(MN.L297)に お い て 述 べ ら れ て い る 。
龍 谷 大 学 佛 教 学研 究 室 年 報 第IS号2010.9.30 lb と説 か れ る。 「無 量 心 解 脱 は 、 慈(悲 ・喜 ・捨)の あ る 心 を も っ て 、 四 方 を満 た して 住 し、 上 ・下 ・横 ・一 切 処 ・一 切 方 ・一 切 の 世 界 を 慈(悲 ・喜 ・捨)の あ る 、 広 大 無 量 ・無 怨 ・無 瞑 の 心 を も っ て 、満 た して住 す る」 の で 、 こ れ は 、慈 心 解 脱 ・悲 心 解 脱 ・ 喜 心 解 脱 ・捨 心 解 脱 を 指 して い る の で あ る。 以 下 に 、 無 量 心 解 脱 の 説 明 に 続 い て 、 無 所 有 心 解 脱 、 空 性 心 解 脱 、 無 相 心 解 脱 に っ い て 述 べ られ る。 そ して 、 これ に続 い て Yavatakhobhanteappamanacetovimuttiyoakuppatasarncetovimuttiaggamak㎞ 互yatiII_._ Yavatakhobhanteakincannacetovimuttiyoakuppatasamcetovimuttiaggamakkhayati((... Yavatakhobhanteanimittacetovimuttiyoakuppa廊a翼1cetovimuttiaggamakkhayatiIl_... (SN.IV.297)u 尊 者 よ 、 お よ そ 無 量 の 心 解 脱 と し て あ る も の の 中 で 、 不 動 の 心 解 脱 は 最 上 で あ る と 言 わ れ る 。 … … 友 よ 、 お よ そ 無 所 有 の 心 解 脱 と し て あ る も の の 中 で 、 不 動 の 心 解 脱 は 最 上 で あ る と 言 わ れ る 。 ・… ・・ 友 よ 、 お よ そ 無 相 の 心 解 脱 と し て あ る も の の 中 で 、 不 動 の 心 解 脱 は 最 上 で あ る と 言 わ れ る 。 … … と 説 明 さ れ る の で 、こ れ は 無 量 ・無 所 有 ・無 相 の 心 解 脱 の 中 で 、不 動(akuppa)と 動(kappa) と の 心 解 脱 が あ る と 考 え られ る 。 ま た 、 不 動 心 解 脱 に っ い てMN.29Mahasaropama-sutraで は 、 こ の 梵 行 は 「不 動 心 解 脱 」 の た め で あ る 、 と 以 下 の よ う に 説 か れ て い る 。 Itikhobhikkhavena-y-idambrahmacariyamlabhasakkara-silokanisamsam,nasilasampa-danisamsam,nasamadhisampadani・salpsa叩,nananadassananisamsam.Yacakhoayam bhilckhaveakuppacetovimutti,etadattham-idambhikkhavebrahmacariyametamscrametam pariyasanan-ti.(ル 醒.1.197) 比 丘 た ち よ 、 こ の よ う に 、 こ の 梵 行 は 利 得 ・尊 敬 ・名 声 を 功 徳 と す る も の で は な い 。 戒 を そ な え る こ と を 功 徳 と す る も の で は な い 。 定 を そ な え る こ と を 功 徳 と す る も の で は な い 。 智 見 を 功 徳 と す る も の で は な い 。 比 丘 た ち よ 、 こ の 不 動 の 心 解 脱 、 比 丘 た ち よ 、 こ の 梵 行 は こ の た め で あ る 。 こ れ は 核 心 で あ る 。 こ れ は 終 結 で あ る 。 22こ れ 以 外 はMN .43Mahirvedalla-sutta(1剛.L298)に お い て 述 べ ら れ て い る 。
1W物 αに お け る止 観 の研 究(PHRAPONGSAK) 17 こ こ で 、 梵 行 の 最 高 の 目的 は 「不 動 心 解 脱 」 の た め で あ る。 これ は 核 心 で あ り、 終 結 で あ る の で 、 不 動 心 解 脱 は 聖 ・無 漏 の 心 解 脱 に相 当す る で あ ろ う。 さ ら に 、 不 動 心 解 脱 に つ い て はNikaryaに お い て 以 下 の 定 型 句 が あ る。 nanancapapamedassallamudapadiakuppamecetovimuttillayamantimaj互tilha㎞id互ni punabbhavotil1臆23 ま た 、私 に 智 と 見 と が 生 じ 、 私 の 心 解 脱 は 不 動 で あ る 。 こ れ が 〔私 の 〕 最 後 の 生 で あ り 、 再 生 は な い 。 と述 べ られ る。 これ に よ っ て 、 不 動 心 解 脱 が 聖 ・無 漏 の 心 解 脱 に 相 当 す る こ とが 明 ら か に な っ た 。 した が っ て 、 心 解 脱 が 単 独 に語 られ る場 合 、 種 々 な る心 解 脱 は 、 有 漏 と聖 ・無 漏 と の 段 階 が あ る 。 聖 ・無 漏 の 心 解 脱 に は 、 聖 ・無 漏 の 段 階 を 明 確 に 表 す た め に 、 不 動 (a㎞ppの や 不 時(asamayika)な どの 形 容 詞 を 心 解 脱 の 前 に 置 く。 例 え ば 、 不 動 心 解 脱(akuppacetovimutti)、 不 時 心 解 脱(asamayikacetovimutti)で あ る。 一 方 、 有 漏 の 心 解 脱 に は 、 聖 ・無 漏 の 心 解 脱 の 反 対 の 形 容 詞 を 心 解 脱 の 前 に置 く。 例 え ば 、 時 心 解 脱(samayikacetovunutti)で あ る。 ま た 、 無 量 心 解 脱(appamanacetovunutti)、 無 所 有 心 解 脱(akincannacetovimutti)、 空 性 心 解 脱(sunnatacetovimutti)、 無 相 心 解 脱(a㎡mi甑 cetovimutti)な どの 種 々 な る 心 解 脱 が しば しば 用 い られ て い る 。 これ らの 種 々 な る 心 解 脱 は 、 不 動 や 不 時 な ど の 形 容 詞 を 心 解 脱 の 前 に 置 か な い な らば 、 有 漏 の 段 階 で あ る と 考 え られ る。 前 述 の 併 記 す る 心 解 脱 ・慧 解 脱 の 場 合 は 、 有 漏 の 段 階 に な らず 、 聖 ・無 漏 の 段 階 で あ る。 しか し、 単 独 に 語 られ る 心 解 脱 の 場 合 は 、 有 漏 と聖 ・無 漏 との 段 階 が あ る。 さ ら に 、 こ こ で着 目 した い の は 、 不 動 心 解 脱 で あ る。 こ の 不 動 心 解 脱 は 、 た だ 心 解 脱 の み と言 っ て も 、 前 述 の よ うに 解 脱 の 段 階 は 、 相 互 に 影 響 し合 う止 と観 と を 共 に 修 習 す る 「止 観 双 運 」に よ っ て 得 られ る の で 、慧 解 脱 も こ の 段 階 に 含 まれ て い る。 以 上 の よ う に 、 心 解 脱 は 、 有 漏 と聖 ・無 漏 との 段 階 が あ る が 、 慧 解 脱 は 有 漏 の 段 階 に な らず 、 聖 ・無 漏 の 段 階 の み が あ る。 そ し て 、 心 解 脱 は 「止 」 の 修 習 に よ っ て 得 ら SN.皿29;SN.N.9;SN.V.423;AN.IV.56,305な ど 。
龍谷 大学 佛 教 学 研 究 室 年 報 第15号2010.9.30 18 れ る。 一 方 、 慧 解 脱 は 「観 」 に よ っ て 得 られ る の で 、 こ れ は 止 観 の 修 習 を 考 え て み る と、 「止 」 の 修 習 次 第 は 、 有 漏 の 段 階 か ら始 ま っ て 聖 ・無 漏 の 段 階 ま で 達 す る の で 、 心 解 脱 は 有 漏 と聖 ・無 漏 と の段 階 に あ る。 しか し 、 「観 」 の 修 習 は 、 有 漏 の 段 階 も あ る が 、 有 漏 の 観 は 、 業 の 果 報 とい うこ と と世 間 に 等 正 覚 者 が い る こ と な ど を観 察 す る 修 行 の 動 機 、 あ る い は 思 慧(cintamayapanna)に よ っ て 四 聖 諦 ・五 葱 ・六 処 な ど を 理 解 す る の み で あ る の で 、 漏 ・煩 悩 を 捨 断 して解 脱 す る こ と が で き な い 。 ゆ え に 、 有 漏 の 段 階 に は 、 慧 解 脱 が存 在 しな い わ けで あ る。 V【.ま と め 以 上 、Nikayaに お け る止 観 と心 解 脱 ・慧 解 脱 との 三 つ の 関 連 を検 討 し、 以 下 の よ う な 結 論 に 達 した 。 ① 「止 観 と心 解 脱 ・慧 解 脱 」 の場 合 は 、 有 漏 の 段 階 に な らず 、 聖 ・無 漏 の 段 階 で あ る 。 そ して 、 漏 尽 智 と心 解 脱 ・慧 解 脱 との 関 連 は 、 諸 漏 か ら心 が 解 脱 す る と説 か れ て い る。 こ れ は 心 解 脱 を 示 す と考 え られ るが 、 慧 解 脱 も こ の 解 脱 の段 階 に含 ま れ て 、 心 解 脱 ・慧 解 脱 を具 足 す る 「解 脱 」 で あ る。 こ の 解 脱 は 、 相 互 に 影 響 し合 う 「止 観 双 運 」 に よっ て 得 られ る の で 、 「心 解 脱 」 と 「慧 解 脱 」 と に 相 当 す る の は 合 理 的 で あ る。 ② 「止 観 と倶 解 脱 者 ・慧 解 脱 者 」 の 場 合 、 解 脱 した者 は 「慧 解 脱 者 」 と言 っ て も 、 た だ 「慧 」 あ る い は 「観 」 の み に よ っ て解 脱 す る こ とで は な く、 「止 」 を 修 習 しな け れ ば な らな い の で あ る。 た だ し、 こ の 「止 」 は 「無 色 定 」 の 段 階 で は な く 「四 禅 」 の 段 階 だ け で あ る。 ③ 「止 観 と心 解 脱 が 単 独 に語 られ る」 場 合 、種 々 な る 心 解 脱 は 、 有 漏 と聖 ・無 漏 と の 段 階 が あ る 。 聖 ・無 漏 の 心 解 脱 に は 、 聖 ・無 漏 の段 階 を 明確 に 表 す た め に 、 「不 動 」 や 「不 時 」 な ど の 形 容 詞 を 心 解 脱 の 前 に置 く。 例 え ば 「不 動 心 解 脱 」 、 「不 時 心 解 脱 」 で あ る。 一 方 、 有 漏 の 心 解 脱 に は 、 聖 ・無 漏 の 心 解 脱 の 反 対 の 形 容 詞 を 心 解 脱 の 前 に 置 く。 例 え ば 、 「時 心 解 脱 」 で あ る。 ま た 、 「無 量 心 解 脱 」 、 「無 所 有 心 解 脱 」 、 「空 性 心 解 脱 」 、 「無 相 心 解 脱 」 な どの 種 々 な る 心 解 脱 が しば し ば用 い られ て い る。 これ らの 種 々 な る 心 解 脱 は 、不 動 や 不 時 な どの 形 容 詞 を 心 解 脱 の 前 に 置 か な い の で あ れ ば 、 有 漏 の 段 階 が 考 え られ る。
溺 吻 σにお け る止 観 の研 究(PHRAPONGSAK) 14 ④ 心 解 脱 は 有 漏 と聖 ・無 漏 との 段 階 が あ る が 、慧 解 脱 は 有 漏 の 段 階 に な らず 、 聖 ・ 無 漏 の 段 階 の み が あ る。 これ は 、 止 観 の 修 習 次 第 を 考 え て み る と、 「止 」 の 修 習 は 、 有 漏 の 段 階 か ら始 ま っ て 聖 ・無 漏 の 段 階 ま で 達 す る の で 、 心 解 脱 は 有 漏 と聖 ・無 漏 と の 段 階 に あ る。 しか し、 「観 」 の 修 習 は 、 有 漏 の 段 階 も あ る が 、 有 漏 の 観 は 、 業 の 果 報 とい うこ と と世 間 に等 正 覚 者 が い る こ と な どを観 察 す る 修 行 の 動 機 、 あ る い は 思 慧 に よ っ て 四 聖 諦 ・五 緬 ・六 処 な ど を理 解 す る のみ で あ る の で 、 漏 ・煩 悩 を捨 断 して 解 脱 す る こ とが で き な い 。 ゆ え に 、 有 漏 の 段 階 で は 、 慧 解 脱 が 存 在 しな い わ け で あ る 。 ⑤ 註 釈 文 献 時 代 のVisuddhimaggaに 見 られ る 「四禅 」 の 過 程 な しに 、 た だ 「観 」 の み を 修 習 す るsuddhavipassanayanika(純 観 行 者)ま た はsukkhavipassaka(乾 観 者)は 、Nikaya に お い て 見 出 され な い 。 た だ し、 これ らの 修 行 者 は 「慧 解 脱 者 」 と同 様 で あ る。 つ ま り 「慧 解 脱 者 」 と言 え ど も 、 た だ 「観 」 の み に よ っ て解 脱 す る と見 られ る が 、 実 は そ うで は な い 。 「止 」 を修 習 しな けれ ば な ら ない の で あ る が 、 こ の 「止 」 は 「無 色 定 」 の 段 階 に 到 達 す る 「ノ、解 脱(at血avimokha)」 や 「寂 静解 脱(santavimokha)」 を 体 験 す る こ と で は な く、 「四禅 」 の 段 階 だ け で あ る。 それ が 、Nikuyaと 註 釈 文 献 との止 観 に つ い て の 相 違 点 で あ る と考 え られ る。
略号お よび参考文献
AN Dhp DN h 3肋9翼 面 瓶"ゴ伽 個 巨S) =1)乃4〃3脚,..(PTS) =Digharrikaya(PTS) =〃 編r`絢 ㎞(PTS) ルOV=ん 幼 あ'〃tan'吻7(PTS) SN昌Sarrryut伽'伽(PTS) Sn=Su'』 の ㌍δ属ロ(PTS) レ㌘π=レ 臓月卿 加 彪α(PTS) 金 宰晟 雲井 昭善 光地 英学 佐藤 密雄 武 邑尚邦 [1495] [2003] [1982] L1973] [1975] [1956] 「『清浄 道 論 』 に お け る剰 那 定 と近行 定 一Samathayanaとv童passan互y勘aの 接 点 一 」 『イ ン ド哲 学 仏 教 学 研 究』3,東 京:東 京 大 学文 学部 イ ン ド哲 学 仏 教 学 研 究 室,PP.3・16. 「慧 解 脱 につ い て 」『印 度 学 仏 教 学 研 究 』51-2,東京:日 本 印 度 学 仏 教 学 会,pp.$31・827. 「原 始仏 教 にお け る 解脱 」 『解 脱:仏 教 思想8』 京 都:平 楽 寺 呑 店,PP ・81-llb. 「止 と観 につ い て 」『印 度 学 仏 教 学 研 究 』21・2東京:日 本 印 度 学 仏 教 学 会 ・PP.Gl3-617. 「清浄 道 論 に於 け る 止観 」 『止 観 の 研 究 』東 京:岩 波 書 店,pp.113。138. 「原 始経 典 に現 わ れ た 止 観 の 意 味 」 『仏 教 学研 究』12・13,京 都:龍 谷 大 学 仏 教 学 会, pp.7-15.龍 谷大 学 佛 教 学研 究 室 年 報 第15号2010.9.30 20 玉城康 四郎 中村元 早 島鏡 正 平川彰 藤 田正浩 増永 鍵鳳 森 章司 [1984] [1985] [1975] [1975] [1999〕 [1994] [1935] [1979] 森 祖 道[.;.] 渡 辺 文 麿[1982] Phrapongsak,K.[2007] Cousins,LanceS.[1984] DeSilva,Lily. [1996] [1978] 「解 脱 に 関 す る 考 察 一 解 脱 へ の 仏 教 学 的 方 法 を 含 め て 一 」 『印 度 学 仏 教 学 研 究33-1, 東 京:日 本 印 度 学 仏 教 学 会,PP・39・46. 「心 解 脱 ・慧 解 脱 に 関 す る 考 察 」 『仏 教 の 歴 史 と 思 想:壬 生 台 舜 博 士 頒 寿 記 念 』 東 京:大 蔵 出 版,pp.295・37L 「原 始 仏 教 に お け る 止 観 」 『止 観 の 研 究 』 東 京:岩 波 番 店,pp .35・49. 「初 期 仏 教 に お け る 定 と 慧 」 『日本 仏 教 学 会 年 報 』41,東 京:日 本 仏 教 学 会 西 部 事 務 所,pp.21・33. 「信 解 脱 よ り心 解 脱 へ の 展 開 」 『イ ン ド仏 教 史 』 上 巻,東 京:春 秋 社,pp.345・361. 「心 解 脱 と 慧 解 脱 」『印 度 学 仏 教 学 研 究 』42-2,東 京:日 本 印 度 学 仏 教 学 会,pp.574578. 「釈 尊 に 於 け る 止 観 の 意 義 」 『佛 教 學 の 諸 問 題 』 東 京:岩 波 書 店,pp .297・313. r南 方 上 座 部 の 行 道 鈴 」 『東 洋 学 論 叢(東 洋 大 学 文 学 部 紀 要 第32集)仏 教 学 科 中 国 哲 学 文 学 科 篇W』 東 京:東 洋 大 学 文 学 部,pp.71-124. 『パ ー リ仏 教 註 釈 文 献 の 研 究 』 東 京:山 喜 房 佛 書 林. 「パ ー リ仏 教 に お け る 解 脱 思 想 」 『解 脱:仏 教 思 想8』 京 都:平 楽 寺 番 店,pp.117-147 「Nikayaに お け る 止 観 の 研 究 」 『龍 谷 大 学 大 学 院 文 学 研 究 科 紀 要 』29,京 都:飽 谷 大 学 大 学 院 文 学 研 究 科 紀 要 編 集 委 員 会fRP.80・9& "Samatha-yanaandVipassana-yana ,"BuddhiststudiesinHonourofHammalavaSaddhatissa, Nugegoda:UniversityofJayewardenepura,pp.56-68. "TheOriginsofInsightMeditation ,"TireBuddhistForumIV,ed.ByTadeuszSkorupski, NewDelhi:HeritagePublishers,pp.35-58. "Cetovimutti ,PannavimuttiandUbhatobhagavimutti,"Pal!BuddhistRevieurYo1.3,No.3, London,pp.118-145. Griffiths,P.[1981]"ConcentrationorInsight:TheproblematicofTheravadaBuddhistMeditationTheory," TheJournaloftheAmericanAcademyofReltgton49/4,pp.606-624.
GyanaRatnaThera[2001]77惚 吻 ② ρP摺`"o〃 置9ルfeditat'oninTheravadaBuddhism,Tokyo:SankiboのBusshorin
PublishingCo.,Ltd.
Schml伽sen,L[1981〕"OnSome柳 ㏄ 酋ofD醐piionsorTheoriesof`Lil鴻ra"ngInsi帥t'and`Enlightenment'
inE訂1yBuddhis叫"Siudie"z期3翻"ismusandBuddhismus,Wiesbaden:Stciner・Verlag・
Wiesbaden-Gmbh,pp.199-250.