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Vol.66 , No.1(2017)072辛嶋 静志「大衆部と大乗」

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Academic year: 2021

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大衆部と大乗

辛 嶋 静 志

1.

 「方等」の起源と意味

1.1. 大乗経典は「遺曰」・「方等」・「方広」と呼ばれていた 大乗経は,もともと「大乗経」とは呼ばれていなかった. 2世紀に翻訳された大乗経典は「遺曰」という呼び名が使われていて(例えば 「遺曰(←日)摩尼宝経」,ついで3世紀から7世紀初頭に訳された大乗経典は「方 等」と呼ばれ(例えば「方等般泥 経」),5世紀から11世紀に訳された経典は「方 広」(例えば「方広大荘厳経」)もしくは「大乗経」と呼ばれている(例えば「大乗瓔珞 荘厳経」). では,「遺曰」・「方等」・「方広」とはどういう意味だろう.「遺曰」とは,ガン ダーラ語 *vevullaあるいは *veullaの音写である.「方等」は梵語vaitulyaの訳であ

る.その後半tulyaは 等しい という意味である.そこで,訳者はvaitulyaを 「方等」―「方」も 等しい という意味―と訳したと考えられる.なお「方 広」は, 広大 という意味の梵語vaipulyaの訳である.「方」は「方等」のそれ を引き継いだものである. 現存する大乗経典の称号の変遷と翻訳年代の分布を表にしてみよう. 遺曰,方等,大方等 方広,大方広 大乗 2世紀 2 (遺曰) 3, 4世紀 4 5世紀 3 8 4 6世紀 6 1 9 7世紀 2 (–616年) 3 12 8世紀 13 9 9世紀 1 3 10, 11世紀 5 24

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この表から,「大乗経」という呼び方は,「遺曰」・「方等」という呼称に比べる と随分後になって現れることが分かる. この変遷は,仏典の目録からも確かめられる.梁の僧祐 『出三蔵記集』(516年 頃)は現存する最古の仏典目録であるが,その第三巻に,今は散逸したより古い道 安 『綜理衆経目録』(385年頃?)が収録されている.4世紀末のこの目録には, なんと「方広」も「大乗」も現れない.現れるのは「惟曰」(1部)・「方等」(2部)・「方 等部」(5部の経典の総称)という呼称だけである.このうち,「惟曰」とは,上で見 た「遺曰」と同じく,*vevullaあるいは *veullaの音写である.『出三蔵記集』の中で, 僧祐が書いた部分では,「遺曰」・「惟曰」(5部),「方等」・「大方等」(12部),「大方広」 (3部),「大乗」(3部)が記載されている.さらに現存する経典目録の中で二番目に古 い費長房 『歴代三宝紀』(597年頃)では,『出三蔵記集』にすでに出た経典に加え て,新しく「方等」(12部),「大方広」(2部),「大乗」(7部)が記載されている. 6世紀から段々と「大乗」という名称をもつ経典が増えるが,まだ「方等」と いう名称の方が一般的であったことが分かる. 同一の大乗経典でも,時代の推移につれて,呼称が変わっている. 例えば,『普曜経』別名『方等本起』(308年翻訳)→『方広大莊嚴経』(7世紀翻訳)

→梵本Lalitavistaro nāma mahāyāna-sūtra( ラリタ・ヴィストラという名の大乗経 ); 『遺曰摩尼宝経』(179年翻訳)は,後に『摩訶衍[mahāyāna]宝厳経』(晋代[265–420

年]翻訳);『大方等如来蔵経』(420年翻訳)→『大方広如来蔵経』(8世紀翻訳)→チベッ

ト訳 *Tathāgatagarbha-nāma-mahāyāna-sūtra ( 如来蔵という名の大乗経 .800年頃)な どである.

このように,いわゆる大乗経典の呼称は,*vevullaあるいは *veulla(その音写が

「遺曰」,「惟曰」)→vaitulya(「方等」)vaipulya(「方広」)mahāyānasūtra(「大乗経」)と 変遷している. 1.2. 「方等」の意味 では「方等」の意味は何であろうか.釈尊が説いた経典を分類した十二部経の 一つに,パーリ語でヴェーダッラ[vedalla]と呼ばれ,梵語仏典でバイトゥルヤ [vaitulya]もしくはバイプルヤ[vaipulya]と呼ばれる経典群がある. まずパーリ語vedallaの意味を見てみよう.パーリ聖典の注釈家,ブッダゴー サ (5世紀)などによれば,このヴェーダッラと呼ばれる経典群の特徴は次の様で ある: 下輩の者が質問をして,上輩の者が答える.すると答えに喜んだ下輩の者 がさらに質問をして,それに上輩の者が答える.このような形式と内容を持つい

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くつかの経典が,ヴェーダッラに分類されている.確かに,具体例としてブッダ ゴーサが挙げている《帝釈の質問》などの経典は,釈尊と弟子や帝釈の間,ある いは仏弟子と仏弟子の間で交わされた問答から成っている.

北伝仏教に目を転じると,すでに上で見たように,「遺曰」・「惟曰」という *vevullaあるいは *veullaの音写が2世紀から現れ,vaitulyaの訳である「方等」が

3世紀から現れ始める.一方,vaipulyaの訳である「方広」は5世紀になって初め

て現れる.

南伝仏教の伝承と北伝仏教・漢訳仏典とを総合的に考えると,これらの語形の 起源と変遷は次のように推定される.

最初は,*vedullaというvaitulya (>vetulla>*vedulla)に対応する俗語形が使われた であろう.vaitulyaは,tulya ( 等しい.同類の )vi ( ない )の合成語であり, *vedullaは「他とは異なる.変則的な」という意味で使われたと考えられる.釈 尊と弟子や帝釈の間,あるいは仏弟子と仏弟子の間で繰り返し交わされた問答か ら成る経典は,他のジャンルの経典とは形式も内容も異なり, 変則的 である.

そこでこれら経典は,*vedullaとして一括りに呼ばれた.南伝仏教では,おそら

vidala ( 破片; 分裂 )という語との連想で,*vedullavedallaというパーリ語

に変えられた.一方,ガンダーラ語では,*vedullaは,*veullaという語形に変わ り,さらにそれから *vevullaという別の語形が造られたと考えられる.後に,お そらく紀元後3世紀頃,本来ガンダーラ語で伝承されていた大乗経典が梵語化さ れた時,本来の意味に基づいて,vaitulyaと梵語化された.さらに後,おそらく4 世紀以降,ガンダーラ語の *vevullaからvaipulyaという新しい形が造られた. *vevulla, vaitulyaというタイトルをもつ新しい経典を作った人々は,これらの表 現をネガティブな意味ではなく,「変則的」だが「比べるものがない」というポジ ティブな意味で使ったと思われる.より新しい表現vaipulyaは,「豊かさ,充満, 十全」という,よりポジティブな意味を持つ.新しい経典の作者たちは,伝統的 な経典とは異なる新しい内容と体裁をもつ経典という意味でこれらのラベルを 使ったのであろう.上に見たように,パーリ聖典中のヴェーダッラ経の特徴は, 釈尊と帝釈や弟子,あるいは仏弟子と仏弟子との間の質問と答えの繰り返しであ る.注目すべきことに,《般若経》や《法華経》もこの問答形式になっている. *vevulla (「遺曰」,「惟曰」)vaitulya(「方等」)と名付けられたテキストは,時代が 下がるとvaipulya (「方広」)と改名され,さらに大乗という言葉がポピュラーに なった時,「大乗経」と改名された.今日,梵本や蔵訳で「大乗経」とあっても,

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それは名称変更の結果に過ぎない.「大乗経」というタイトルが,漢訳で5世紀 から現れることを考えると,この呼称は北インドと西北インドで4世紀からやっ と使われるようになったと推定される. 2.

 誰が方等経典を作ったか

2.1. 『大方等大集経』と大衆部 方等経典の集成である『大方等大集経』全60巻(586年)は,には,「大乗」と いう言葉が198箇所出て,大乗が大いに讃えられている.またその中の幾つかの 個別の経典は,「大乗経」と呼ばれ,『大方等大集経』が方等兼大乗経典であるこ とが分かる. この経に含まれる『虚空目分』に,この方等経と特定の部派との関係を示す重 要な文がある. 釈尊は,後の時代に,次の六つの部派が成立することを予言する. 私が涅槃した後,ある弟子たちは,如来の十二部経を受持し,書写し,読誦し,ゆがんだ 解釈をし,ゆがめて説き聞かせる.ゆがめて解説し,法の蔵を隠す.法を覆うから,ダル マグプタ[法蔵部.グプタは「覆う」の意味もある]とよばれる. 私が涅槃した後,私の(ある)弟子たちは,如来の十二部経を受持し,読誦し,書写する. しかも,外典を読誦し,書き,説き,(過去・現在・未来の)三世(の法)と内外(の法)があ ると(いう教えを)授ける.外道を破り,議論に長けている.一切は性質としてみな戒を受 けられると説き,(また)あらゆる難問に答えることができる.だからサルヴァスティ ヴァーダ(説一切有部)とよばれる. 私が……後,私の(ある)弟子たちは,……書写し読誦する.我(プトガラ)も受者もない と説き,まるで死体のように煩悩を転じる.だからカーシャピーヤ(飲光部)とよばれる. 私が……後,私の(ある)弟子たちは,……書写する.地・水・火・風・虚空・識の相を認 めない.だからマヒーシャーサカ(化地部)とよばれる. 私が……後,私の(ある)弟子たちは,……書写する.みな我(プトガラ)があると説き, 空の相を説かないで,まるで子供のようである.だからヴァーッチープトリーヤ(犢子部) とよばれる. 私が……後,私の(ある)弟子たちは,如来の十二部経を受持し,読誦し,書写し,五部 の経書にひろく遍く目を通す.だからマハーサーンギカ(大衆部)とよばれる.(『大正蔵』 第13巻,159上) このように,大衆部の記述が最後に置かれ,しかも他の部派が否定的に描かれ るのに対して,大衆部は「五部の経書にひろく遍く目を通す」と誉められている. このことから,この方等経の作者は,大衆部に属する者であったと考えられる.

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この経典が,方等経典の集成である『大方等大集経』に入っていることから,こ の特定の経典のみならず,そもそも方等経というものが大衆部に属する者が作っ た経典であると推測される. 2.2. 大衆部が大乗経典を作った 大衆部と《般若経》・《法華経》・《三昧王経》・大乗《涅槃経》・《十地経》など 大乗経典との関係は,すでに指摘されている. 《法華経》では,この経自身が「方等」「方広」と名付けられている.また《般 若経》と《法華経》は,『大智度論』で方広経典として引かれている.《三昧王経》 の漢訳は『月灯三昧経』であるが,別名『大方等大集月灯経』ともいう.この経 も方等経だということが分かる.さらに世親の『釈軌論』に大衆部の偈として引 かれるものが,《三昧王経》中の偈と一致することが松田和信氏により指摘され ている.大乗《涅槃経》の最古の訳は,法顕訳『大般泥 経』(418年)であるが, その経典のなかで,経自身が「方等経」,「方等般泥 経」「方等大般泥 経」,「摩 訶衍般泥 経」などとも呼ばれている. 以上のことから,大衆部が方等経を作り,それがいわゆる大乗経典になったと いうことが推定される. 《般若経》,《法華経》,《三昧王経》は,犢子部・正量部が主張したプドガラの 概念と,説一切有部が主張した過去・未来・現在の諸法が存在するという考えを 明確に否定している.この点も,これら大乗経典と大衆部との関係を示唆する. また,パーリ『論事』(1世紀頃成立),『異部宗輪論』(1–2世紀成立)など幾つか の文献によれば,大衆部は,多世界多仏,一音説法,化仏説法を説いたが,上座 部と説一切有部はそれらをすべて認めなかったという.『論事』に対する注釈で, ブッダゴーサ (5世紀)は,化身説法を認める者たちのことを「方等者」[Vetulyaka, Vetullaka]と貶している. また説一切有部の論書である《アビダルマディーパ》でも,「方等者」[Vaitulika] たちが厳しく批判されている: 道理にあわない空性論者[śūnyatāvādin]である 方等者は 一切が存在しない と思っている.(第5章); 方等者は,縁によって 生じたものは,自性としては存在しないと思い込んでいる.自性がないから,一 切法は無我であると思い込んでいる.(第5章.趣意); 三昧力によって自由に寿 命を延ばせる.仏は慈悲をもつから般涅槃しないと,大徳(世親のこと)は方等 者の論書を使っていうが,無視すべし.(第2章.趣意). 多世界多仏,一音説法,化仏説法は,大乗経典では通常のことである.《アビ

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ダルマディーパ》が批判する空性論者の方等者が説いている内容は,まさしく, 《般若経》,《法華経》,《三昧王経》,大乗《涅槃経》などが説く内容である. これらのことから,方等者とは大衆部に属する者たちのことであり,彼らが後 に大乗経典と呼ばれるようになった方等経を作成したことが分かる.要するに, 大乗経典は大衆部が生み出したものであり,上座部・有部は当初大乗経典を受け 入れなかったと推定される. 2.3. 大衆部と大乗の関係を示す資料 大衆部と大乗との密接な関係は,法顕が大衆部の律『摩訶僧 律』を,大乗比 丘たちが住むパータリプトラの天王精舎で書写したことからも伺える.また法顕 は,『大般泥 経』の写本をこの寺の居士からもらったということも,大乗《涅 槃経》と大衆部の関係を示している.この地における大衆部と大乗の関係は,玄 暢(5世紀)が書いた訶梨跋摩伝の「当時,パータリプトラに住む大衆部の比丘た ちはみな大乗を奉じていて,これこそ五部派の根本だと云っていた.」(『大正蔵』 第55巻,79上)という記述からも分かる. さらに,大乗経典を引く論書の著者の多くは,中観派の論師たちで,みな大衆 部に属していたと推定される.すなわち,竜樹(2–3世紀.大衆部の盛んなアーンド ラ地方で活躍し,大衆部の経典を援用している)・月称(大衆部の経典を阿含経として引用 している)・寂天(大衆部の律典を自分の律として引用している)・アティシャ(大衆部で 出家)である.一方,無着・世親を始めとする瑜伽行派の人々は,有部の出家者 でありながら,大乗経典に傾倒した者たちであろう. 上に列挙したことがらはみな,大衆部から大乗が生じたことを示している. 2.4. 有部は長く大乗を受け入れなかった 大乗は有部から生まれたという説があるが,筆者はそれはあり得ないと考え る.むしろ,説一切有部は,長く大乗を受け入れなかった.それは次の四つの事 実から明らかである. (1)驚くべきことに,『大正蔵』第26巻から第29巻,都合3644頁の毘曇部に, 「法華」ということばも,経典名としての「華厳」,「般若」も出ない.すなわち 有部の論書に大乗経典が全く引かれていないのである.正統的な有部に属する者 は基本的に方等経=大乗経に批判的であった. (2)世親に対して,《アビダルマディーパ》の著者は,「有部から落ちこぼれた 方等者[vaitulika]」(第5章)と貶している.もし,有部から大乗経典が生まれた のであったら,このような表現をするはずがない.

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(3)西域北道(=天山南路)一帯は有部が優勢であった.この地域から一万点以 上の梵語写本断簡が発見され,有部のものが大多数と考えられている.一方,大 乗経典は百点にも満たず,しかもほとんどは西域南道のホータンから運ばれてき たと推定される. (4) 西域北道の壁画のテーマは,過去仏・釈尊,未来仏としての弥勒など小乗仏 教的内容のものばかりである.大乗的テーマは,西域北道の壁画には見られない. このように有部は,長く大乗を受け入れなかったと考えられる. 有部アビダルマから大乗仏教へ転向したもう一人の有名な例は,鳩摩羅什であ る(350–409年,あるいは344–413年.世親と同時代).『出三蔵記集』(『大正蔵』第55巻, 100中–下)によれば,子供の時,カシミールとカシュガルで,有部の経典・論書・ 《増一阿含》を学んだ.クチャに帰国後,20歳になって,具足戒を受け,有部律 を学んだ.同じ頃,スールヤソーマから大乗を学んだ.羅什は,大乗を学んで, 「私が昔小乗を学んだのは,金を知らないで真鍮がすばらしいと思っていたよう なものだ」と嘆いたと言われる.このことから,羅什が,カシミールやカシュガ ルで長く有部の学問を学びながらも,大乗に接していなかったということが分か る.これは有部と大乗が相容れなかったことを端的に示している. このように有部は当初,大乗を受け入れなかったと思われるが,おそらく4世 紀頃から,有部の僧侶の中にも,無着や世親のように,徐徐に大乗の思想に傾倒 していく者が現れた. 2.5. 「大乗上座部」 大乗思想を受け入れた南方上座部の一派もあった.玄奘の『大唐西域記』(646 年)には「大乗上座部」という表現が出る.「大乗上座部」とは,大乗をスリラン カに取り入れ,両方の三蔵を説くアバヤギリ派(無畏山寺派)のことと考えられ る.この部派は3世紀初めに大乗を受け入れ,マハーヴィハーラ派から激しく非 難された.後者は彼らを「方等者たち」,その経典を「方等蔵」と貶し,異端で あると断じた. (平成29年度,基盤研究(C)(一般)課題番号17K02219の成果の一部) 〈キーワード〉 方等経,大乗の起源,大衆部,方広経 (創価大学国際仏教学高等研究所教授・文博)

参照

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鈴木 則宏 慶應義塾大学医学部内科(神経) 教授 祖父江 元 名古屋大学大学院神経内科学 教授 高橋 良輔 京都大学大学院臨床神経学 教授 辻 省次 東京大学大学院神経内科学

1991 年 10 月  桃山学院大学経営学部専任講師 1997 年  4 月  桃山学院大学経営学部助教授 2003 年  4 月  桃山学院大学経営学部教授(〜現在) 2008 年  4

いまし *1 加を累ぬる \ovalbox{\tt\small REJECT} よ,乗と号し,減を累ぬる□□ \ovalbox{\tt\small REJECT}

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