• 検索結果がありません。

Vol.68 , No.1(2019)082藤本 晃「釈尊はなぜ答えなかったのか――「無記」の意味――」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "Vol.68 , No.1(2019)082藤本 晃「釈尊はなぜ答えなかったのか――「無記」の意味――」"

Copied!
7
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

釈尊はなぜ答えなかったのか

―「無記」の意味―

藤 本   晃

1

.はじめに

異教徒からの十の問いに対して釈尊が答えなかった十「無記 avyqkata」は,「如 来 tathqgata」,「世界loka」,「命 j]va」に関する三種類である.

「如 来」 に 関 す る 四 つ の 問 い, す な わ ち ① 如 来 は 死 後 に 生 じ る の か hoti tathqgato param marazq,② 如 来 は 死 後 に 生 じ な い の か na hoti tathqgato param marazq,③如来は死後に生じ,かつ生じないのか hoti ca na ca hoti tathqgato param marazq,そして,④如来は死後に生じず,生じないのでもないのか neva hoti na na hoti tathqgato param marazqは,「如来の死後の生について」という一問 にまとめられよう.

「世界」についての四つの問い,すなわち⑤世界は常在かsassato loko,⑥世界 は常在ではないのかassassato loko,⑦世界は有限か antavq loko,⑧世界は無限か anantavq lokoは,「世界は常在か否か」と「世界は有限か無限か」の二種に分け られよう.

「命」に関する二つの問い,⑨命は身体と同じか ta/ j]va/ ta/ sar]ra/,⑩命は 身体と異なるか a``a/ j]va/ a``a/ sar]ra/は,「命と身体の異同」という一種類 と見てよい.

釈尊はなぜ,十の問いに対して「無記」という答えを与えたのだろうか.

2

.総論: 十の問いは問いとして成り立っていない

釈尊は,「記別しない」と答えた理由を述べるフレーズ nesq bhikkhave cintq atthasa/hitq nqdibrahmacariyikq na nibbidqya na virqgqya na nirodhqya na upasamqya na abhi``qya na sambodhqya na nibbqnqya sa/vattati. (SN 5.448など.以下,原典はすべ てPTS版)の最初に,「このような問題について考えることは atthasa/hita になら ない」と語っている.atthaは「意味・意義」をも意味するから,十の問いはた

(2)

だ「利益を伴わない」だけでなく,「意味atthaを伴わない an_attha」まで含意さ れていると思われる.「問いとして成り立っていない」ということである. しかしそれならば,異教徒たちは,自分たちの問いに「意味がない」ことに, どうして気づかなかったのだろうか.その理由もまた,釈尊が語っている.「な ぜ,十の問いが立てられるのか」と異教徒ヴァッチャゴッタに問われた釈尊は, 問者たちが,五蘊の成り立ちとその原因,さらに五蘊の滅,そして五蘊の滅に到 る方法,すなわち,苦の代わりに五蘊を軸に説明された四諦八正道の真理を「知 らないから a``qzq (SN 3.258)」そういう問いを立てるのだと答えている.悟りに達 して初めて分かるものごとの本質を,彼らは悟っていないのだから,問いが成り 立っていないにもかかわらず,それと知らずに問うているのだということである. 十の問いのどれがどういう点で問いとして成り立っていないのだろうか. 3

.各論①: 如来に関する問い

3.1. 如来を有情と見る場合(諸行無常,一切行苦,諸法無我) 如来が死後に生じるか否かについての四つの問いは, 釈では,如来を代表と する有情の輪 について問うているとされる(tathqgato iti satto.[Sp 2.201])ので,先 にこれを論じる.続いて3.2.で「他の有情は輪 を続けるとしても,如来や解脱 した阿羅漢の場合は,入滅した後はどうなるのか」という問題を考察する.

如来(有情)に関する問いに対して「無記」ではなく答えを与えている経典が, 『相応部』「無記相応」などに多く見られる.今は『相応部』「蘊相応・長老品3

ヤマカ(SN 3.109)」での答えを検討する.この経で,ヤマカという名の凡夫の比 丘が「漏尽(阿羅漢)比丘は……死後に生じない kh]zqsavo bhikkhu ... na hoti

param marazq」という悪見 pqpaka_diwwhigata を提示し,それに対してサーリプッ タ長老が,五蘊無我の意味を明らかにして悟りの知見に基づく答えを与え,ヤマ カを悟りに導く. サーリプッタ長老は,まず,五蘊の一つずつがすべて,無常であり,苦であ り,変易するものであり,そのようなものを私のもの・私・私の我などと見る samanupassatiことはできないと説き,五蘊の無常・苦・無我を明らかにする. 次に,色に始まるそのような五蘊の一つ一つのどれをも,如来と見る r[pa/ tathqgato ti samanupassatiことはできないと確認する.次いで,五蘊のどれかの中 に如来がある r[pasmi/ tathqgato と見ることもできないと確認する.それから, 五蘊の一つ一つとは別に如来がある a``atra r[pq tathqgato と見ることもできない

(3)

と確認する.そのうえ,五蘊という集合が如来である r[pq vedanq sa``q saxkhqrq vi``qza/ tathqgatoと見ることもできないと確認する.ここまでで,「五蘊のどれ 一つも,集合でも,如来ではない」ことが確認された.

最後に,五蘊のどこにも如来はないが,「如来は存在しない」という見解も間 違いであることを,「如来は無色,無受,無想,無行,無識 ar[p] avedano asa``] asaxkhqro avi``qzo tathqgatoでもない」と確認し,ヤマカの誤 を解き終える.

「如来は死後に生じるか」どころか,如来は五蘊のどれにも実体として存在せ ず,かといって「無」なのでもなく,瞬間瞬間変化生滅し続ける現象の連続なの である.そのような存在のあり方を,阿羅漢たちはありありと実証し,無常とも 苦とも無我とも表現する.しかし,その答えを悟る可能性がなさそうな異教徒た ちには,労を省いて「答えない」と回答するしかなかったといえよう. 3.2. 如来を覚者と見る場合(諸行無常) 如来を文字どおり覚者(阿羅漢)と取っても,釈尊は「答えない」.『相応部』 「無記相応9論議堂(SN 4.398)」で,異教徒ヴァッチャゴッタが自分が気づいたこ とを述べて釈尊に問う.すなわち,六師外道の祖師たちは弟子の死後を「これこ れに転生したupapanna」などと記別している vyqkaroti.しかし釈尊は,一部の弟 子の死後を他の祖師たちと同様に「これこれに転生した」などと記別する一方, 他の弟子を「渇愛を断ち,束縛を滅し,正しく慢を滅して苦を終わらせた acchejji tazha/ vivattayi sa``ojana/ sammqmqnqbhisamayq antam akqsi dukkhassa.

(SN 4.399)」と記別し,「これこれに転生した」とは言わない.なぜか,と. 釈尊は,「執着のある者に対しては,その転生を記別するが,執着のない(解脱 した)者に対してではない」と答え,火と燃料に譬える.すなわち,「燃料(執着) がある限り火は燃え(有情は生き),風に吹かれれば(転生すれば)新たな場所でま た燃える」と,解脱しない者の転生を譬える. ヴァッチャゴッタは,さらに,死後「他の身に転生しない a``atara/ kqyam anuppanno」者はどうなるのかと重ねて問うた.しかし釈尊は,「渇愛が燃料にな るのだ」と,転生する者についての比喩を繰り返し,対話が終わった. なぜ,「解脱した者は死後に再生しない」と答えなかったのだろうか.そのよ うに答えることさえ,論理的に間違いだからであろう.「解脱した者(如来)は入 滅するまでは生じる」と語ってもよい.刹那生滅し続ける現象とはいえ,五蘊を 保つ業という燃料が続く限り,「如来は生じる」のだから.釈尊も解脱してから 四十五年間,生滅し続けた.しかし,入滅後は,その如来自身がすでに「存在し

(4)

ない」のだから,ないものを主語にして「存在しないものは生じるのか/生じな いのか」などと問うことは,問い方が間違っているに過ぎない. 4

.各論②: 世界に関する問い(一切行苦)

世界は常在sassataか否か,有限 antavq か無限かという二種類の問いのうち, 前者は,世界の時間的な存続を問う.後者は,世界の空間的範囲の果てがあるの かないのかと問う.ともに,『長部』1「梵網経」で紹介される六十二の執見 adhimuttipadaに数えられている.このような問いの何が間違いなのだろうか. まず,世界とは何かが正しく理解されなければならない.釈尊は,『相応部』 「六処相応・病品9世界(SN 4.52)」に「壊れるから世界といわれる lujjat]ti kho bhikkhu tasmq loko ti vuccati」と定義する.世界とは壊れるものである.生じたか ら,壊れるのである.

世界が生起samudayaして隠滅atthagamaする(壊れる)ありさまが,『相応部』 「六処相応・安穏者品4世界」に縁起の仕方で以下のように説かれる.

比丘たちよ,世界の生起とは何か.眼と色によって眼識が生じる.三者の結合が触であ る.触に縁って受が,受に縁って愛が生じる.

katamo ca bhikkhave lokassa samudayo. cakkhu`ca pawicca r[pe ca uppajjati cakkhuvi``qza/. tizza/ saxgati phasso. phassapaccayq vedanq. vedanqpaccayq tazhq.(SN 4.87)

世界は,認識が生じることによって生じる.認識は,触に縁って受が生じ,順 次,触→受に縁って留まることなく生じる.すなわち,世界とは有情の認識の範 囲なのである.認識できないところにも世界があるかどうかは,認識が及ばない ので,分かるはずがない.有情は眼耳鼻舌身意の六根を駆使して色声香味触法の 六境のそれぞれに触れ,感受し,想,行を経て何かを認識する.その認識できる 範囲のすべてが,有情にとっての世界である.それは,壊れるものである. 世界がどのように壊れる・隠滅するのか,先の「病品9世界」で説かれる.ま ず,眼(耳鼻舌身意)に触れることが壊れる.すると,「およそ何であれ,眼(耳 鼻舌身意)に触れることによって生じる楽・苦・不苦不楽の感受されることがみ な壊れる yam pida/ manosamphassapaccayq uppajjati vedayita/ sukha/ vq dukkha/ vq adukkha/ asukha/ vq tam pi lujjati.」(SN 4.52)のである.

世界は,有情に認識される限り存在する.認識されなければ存在しない.とい うよりも,世界があるかどうかを知る認識がない.そして,世界=認識は,壊れ るものである.どのようにか.まず,認識過程の最初,触と受が壊れる.触れな

(5)

ければ,触れて初めて生じるすべての感受,そしてそこから形成される想,行, 識も,すべて壊れる.このように壊れるものが,世界=認識である. このように有情の認識過程そのものである世界が常在か否か,有限か無限かと 問われて,どう答えればよいのだろうか.「梵網経」で釈尊は,これらの執見の 内容は相手にせず,そのような執見が生じてしまうカラクリを解説している.す なわち,触れて感受することなく何かを知ることはできないのだが,彼ら執見を 抱く異教徒たちは,「感受したものが何かと知らないまま見ないままに感受し, 渇愛に囚われて煩悶し動揺したに過ぎない ajqnata/ apassata/ vedayita/ tazhq_ gatqna/ paritasita_vipphanditam eva. (DN 1.40)」と.悟りに導く観察 vipassanq をせ ず,それがため感受したものの正体を突き止めようもないまま,ただ渇愛に囚わ れているのである. しかし,敢えて問いの論理的な間違いを探してみよう. 世界をつくっているのは「触に縁って受」に始まる有情の認識である.世界 は,認識が生じる限り,ある.触→受に始まる認識がなくなれば,世界も滅す る.どの認識かといえば,有情一人ひとりの認識である.有情一人ひとりにとっ て,各自が認識できる世界が,有情の数だけ刹那生滅し続けているのである.そ の中で,ある者は輪 し生滅し続け,世界=認識をつくり続ける.ある者は解脱 して,自分の世界を終わらせる.悟りの視点からは,世界はこのように見られる ものである.このような世界を,有情の認識から離れた実在空間と誤解して常在 か否かと実体的に問うことは適切とはいえない. 同様に,世界が有限か無限かと問うことも,問いが成り立たない.認識の範囲 が世界であるから,その範囲の外は「認識されない=存在しないna vijjati」.世 界(認識の範囲)を超えた先があると想定するならば,それもまた,「想定」とい う認識である.「無限の世界」とか「認識の外の世界」というものを想像できる が,それは,認識によって施設された,有情の認識世界の範囲内なのである. 5

.各論③: 命に関する問い(諸法無我)

釈尊は,命 j]va に関する問いにだけは「無記」より他に答えない.なぜか. 釈尊自身が「命 j]va」と語る例は,パーリ聖典中に見られず,聖典では常に j]vitaと表現され,刹那生滅する心所の一つ・生きるエネルギーとされている. 一方,問いを立てた異教徒たちは命 j]va という言葉を使うが,それが何であるの か定義しないまま主語にし,その命 j]va が身体 sar]ra と同じか異なるかと問うて

(6)

いる.命 j]va がいったい何なのか,それをまず確定しなければ,それを主語にし て問いを始めることは無意味であろう. 命のこのような問題は「我attan」の問題と通底する.我が何であるのか,仏教 ではその否定「諸法無我」によって答えが出ている.一方,我があると主張する 異教徒の間でも,未だ我の存在は確認されていない.その限り,我は未だ仮定の 概念に過ぎない.この,命と同じく実在が証明されていない我に関して,『相応 部』「無記相応10アーナンダ(SN 4.400)」で釈尊が回答している.これを参照し, 命に関する問いを「無記」とした理由を推測したい.まず,この問答を要約する: 異教徒ヴァッチャゴッタに「我は存在するのか atthattq」と問われ,釈尊は沈黙した tuzh] ahosi.次いで,「我は存在しないのか natthattq」と問われても,釈尊は沈黙した. ヴァッチャゴッタが退出した後,アーナンダ尊者は,「尊師はなぜ答えなかった na vyqkqsiのでしょうか」と問うた. 釈尊は,「我は存在する」と答えれば常在論者 sassatavqdin と同じになり,「我は存在し ない」と答えれば断滅論者 ucchedavqdin と同じになってしまうと第一の回答を与えた. さらに,「我は存在する」と答えれば,諸法無我の智慧が生起するのに適切ではなくなり, 「我は存在しない」と答えれば,「かつて存在したものが今は存在しない abhavissa ahu vq me

n[na pubbe attq」と思ってヴァッチャゴッタが混乱するだろうと,第二の回答を与えた.

第一の回答から,まず,何かが「ある(常在)」のか「ない(断滅)」のかと論じ ること自体に共通する間違いが分かる.何かを実体として「ある」と捉え,その うえで,それが「常在する」のか,それとも遂には「断滅する」のかと考えるの である.しかし,もし何かが生じるならば,それはみな刹那生滅する現象の連続 であり,実体を持つものではないから,「存在する」とはいえない.しかも,現 象として生じ続けるのであるから「存在しない」ともいえない.刹那生滅する現 象は,「常在」とか「断滅」の存在論では語れない.諸行無常なのである. 釈尊は続けて,より微妙な言い回しで,第二の回答を与えている.「我は存在 する」といえば,諸法無我の真理から外れて問題外である.かといって,「我が ある」と思っていた問者に,ただ「我はない」と断言してしまうと,表現が断滅 論的でもあり,そのうえ「自分は,我はあると思っていたのに,釈尊に否定され た.どうしよう」などと混乱させてしまうことにもなろう.問者の心の混乱を避 けるためにも,釈尊は「我はない」とも答えなかったのである. では,刹那生滅する現象でもなく永遠不滅の実体でもなく,無我であるにもか かわらず,異教徒たちに「ある」と思われている我とは,いったい何であろう か.実在しない,空想の産物である.しかし,空想の産物は施設されたもので,

(7)

「ない」ともいいにくい.我について考えている識は,そのつど生滅変化する現 象である.一方,識によって考えられている「我」は,存在しない空想の産物で ある.諸行無常の「行(生じるもの)」ではないが,諸法無我の「法(ものごと)」 ではある.「我」という空想のものごとは,「我ではない=無我である」 が,識が 施設したものごととしてはある.しかし,架空のものを主語にしてその性質を問 うことには意味がない.「 の角は赤いのか?青いのか?」 と問うように. 命に関する問いが成り立たないことも,我に関する問題と同じといえよう.命 とは何か.その実在をまず定義できていなければ,それを主語にしてその性質を 「身体と同じものか/異なるのか」などと問われても,問いが意味を伴わないの で,釈尊も「無記」と答えるしかなかったのであろう. 6

.おわりに――十の問いは実体論に基づく誤 ――

無常,苦,無我の真理を悟ることが解脱である.悟らない凡夫のうちは,実体 論的な誤 に陥ることもある.三種類に分けられる十の問いは,すべて無常, 苦,無我を知らないことによる誤 に基づいていたと見ることができる. 如来(有情)の死後の生を問う四つの問いには,現象が刹那生滅している諸行 無常の真理を,そして涅槃が滅であることを知らないことによる誤 があった. 世界についての四つの問いには,世界とは,有情の認識の範囲であるという理 解が欠けていた.有情は,六根と六境が触れて感受することによって世界を認識 する.触が滅すれば感受が滅し,畢竟して認識も世界も有情も滅する.それは解 脱であり,究極の楽である.視点を変えれば,この認識世界のすべて=一切行が 苦なのである. 認識を繋ぎ合わせてつくり上げた我や命などの空想の産物を含め,すべてのも のごとには実体がない(諸法無我).架空のものを主語にしてその属性を問うこと には意味がない. 以上の真理に至った解脱者には,十の問いは成り立たないことが分かる. 〈キーワード〉 無記,諸行無常,一切行苦,諸法無我 (広島大学客員教授,博士(文学))

参照

関連したドキュメント

なぜ、窓口担当者はこのような対応をしたのかというと、実は「正確な取

あれば、その逸脱に対しては N400 が惹起され、 ELAN や P600 は惹起しないと 考えられる。もし、シカの認可処理に統語的処理と意味的処理の両方が関わっ

○金本圭一朗氏

(ア) 上記(50)(ア)の意見に対し、 UNID からの意見の表明において、 Super Fine Powder は、. 一般の

 筆記試験は与えられた課題に対して、時間 内に回答 しなければなりません。時間内に答 え を出すことは働 くことと 同様です。 だから分からな い問題は後回しでもいいので

 講義後の時点において、性感染症に対する知識をもっと早く習得しておきたかったと思うか、その場

大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場

自分ではおかしいと思って も、「自分の体は汚れてい るのではないか」「ひどい ことを周りの人にしたので