南アジア研究 第28号 028学会近況・杉本 大三「日本語テーマ別セッションIV 現代インドの消費変動と社会システム」
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(2) 学会近況 日本語テーマ別セッション IV 現代インドの消費変動と社会システム. 階層間格差を伴っていることである。この点については特に、次の3 点 を指摘できる。第1に、食品の摂取量は社会階層間で大きく異なる。第 2に、総食事回数に占める外食回数の割合は、所得水準の上昇とともに 高くなる傾向にある。第 3に、 近年では所得水準の低い階層の人々も、 富 裕な階層の人々とそれほど変わらない量の米や小麦を消費するように なっているが、購入する米の価格差を考慮すると貧困な階層の消費する 米の品質は、富裕な階層のそれよりもかなり劣っていると推察される。 食料消費が変化していく背景としては通常、 所得水準の上昇が重視さ れるが、それが近年のインドで大きな役割を演じているかどうかは不明 確である。実質タームでみた食費の増加は微々たるものでしかないから である。本研究の結果が示唆するのは、自家消費向け食料生産の縮小、 それを引き起こす就業構造等の変化、 穀物や食用油の低廉化とそれを可 能にした「緑の革命」や「黄の革命」 、さらには食用油の輸入自由化、都 市部のエリート層が次々と提示する新しい消費のスタイルなどが食事 の変化を促すとともに、その過程で様々な格差が発生しているというこ とである。 第 2 報告の杉本星子「タミルナードゥのサリー消費動向と手織布生産 地」では、タミルナードゥの伝統的なシルク・サリー生産地であるカー ンチープラム、クンバコーナム、セーラム、アルニのサリー生産地の変 化を、雑誌や新聞の広告分析に基づいたサリー消費の動向と政府のテキ スタイル政策の変化という観点から考察した。 タミルナードゥにおけるサリーの販売は、かつて商人が商品をもって 村々をまわる行商の形で主に特定の顧客を対象としておこなわれてい た。これに対して、雑誌広告は消費者一般を対象とする新たな販売戦略 であった。 『クムダム』のサリー広告数の推移をみると1960 年代前半と 1980 年代前半に2 つのピークがあり、その後急激に減少している。広告 を多く出している広告主には二種類ある。一つは最初のピークの担い手 で、60 年代から長期にわたって広告を出し続けている老舗店、もう一つ は 80 年代のピークの担い手で、この時期に化繊サリー(レーヨン)によ って成長した企業である。化繊サリーの増加によって、ファッションサ リーという新たなオシャレ着のカテゴリーができた。80 年代後半、サリ ー広告は急激に減少する。それはファッションに重きをおく女性誌の発 刊に加えて、テレビという新たな広告媒体が重視されるようになってき. 243.
(3) 南アジア研究第28号( 2016年). たためと考えられる。 90 年代から2000 年代の新聞や女性誌のファッショ ンページや広告からわかるのは、特定産地のサリーがブランド化される 一方で、ブレンド・サリーや、デザイナーズ・サリーが新たに紹介され るようになったことである。 サリーの消費動向とともに手織生産地に大きな変化を与えたのは、政. 府 の 政 策 で あ っ た。the Handloom (Reservation and Articles for. Production)Act, 1985などに代表される独立後のテキスタイル政策は、. 農業につぐ労働者人口を擁する手織産業の保護と織工の生活向上を主. たる目的としていたが、 近年では the Geographical Indication Act(2004. 年)に基づいた地域認証による地域ブランド化などが目指されるように. なっている。 現在、1960 年代に結婚式サリーの定番としてブランドを確立していた カーンチープラムのシルク・サリーの生産は、安価なコーバイ・サリー の流行による需要の低迷、金糸価格高騰などによって、非常に厳しい状 況にある。カーンチープラム・シルク・サリーは、2005 年に地域認証を 獲得したが、基準が厳しく、生産者にはメリットがなかった。また、か つて上質なサリーの生産地として名高かったクンバコーナムは、ブラン ド化に失敗して、生産が衰退し、今ではカーンチープラム・サリーの下 請け生産を行なうまでになっている。手織産業からパワールーム産業へ の転換が顕著だったセーラムとアルニでは、シルク・サリーの生産は一 時かなり衰退し、ファンシーサリーの生産が増加した。しかし、近年、ア ルニではパワールーム生産者が手織産業に参入し、カーンチープラム風 の絹綿混紡のダルマヴァラム・サリーや安価なコーバイ・サリーを生産 するようになった。2008 年には、アルニ・シルク・サリーとセーラムの ヴェンパットゥと呼ばれる白地に金糸を織りこんだ絹製品が、地域認証 を認められた。 以上のような変化は、サリーの種類の多様化、とくに外出着としての サリーの多様化と、ブランド消費および擬似ブランド消費の進展を反映 していると考えられる。こうした現象は、まさにインドの経済発展にと もなう都市中間層の拡大によるものと理解できよう。 第 3 報告の井上貴子「タミル語雑誌広告からみる消費変動の分析」で. は、発行部数の多いタミル語雑誌『アーナンダ・ヴィガダン』 (A 誌、1926. 年創刊)と『クムダム』 (K 誌、1947 年創刊)の2 誌に、創刊から2010 年. 244.
(4) 学会近況 日本語テーマ別セッション IV 現代インドの消費変動と社会システム. 代までに掲載された広告を統計的に分析し、雑誌広告の変化が中間層を 中心としたライフスタイルの変化とどのように結びついているかを考察 した。またその際特に、1991年の本格的な経済開放とそれに伴う情報の 自由化以前と以降との相違に注目した。 まず、1991年の本格的な経済開放以前と以降の変化をみるために、80 年代以前に特徴的な13品目(タルカムパウダー・鎮痛薬・美白クリー ム・栄養補助食品・タバコ・石鹸・洗剤・サリー・男性用下着・銀行・ チットファンド・映画・宗教占い)と90 年代以降に特徴的な10品目(ラ ジオ・テレビ・投資・金融・病院・学校・不動産関連・テレビ局・携帯 電話・IT 関連)を選び、1 号平均広告数を比較した。80 年代以前の特徴. は健康と衛生への関心の高まりであった。90 年代以降は、日用品から家 電へ、モノからサービスへと関心が変化した。ラジオに代わってテレビ が増加し、病院や学校、金融・不動産・投資といった分野が増加してい る。 次に広告数の比較的多い5 業種(衣料品、医薬・化粧品、金融・保険、 食料・飲料、日用雑貨)の国内外企業数を分析すると、全般的に雑誌広 告は国内企業を中心とし、その割合は徐々に増加している。また、衣料 品と食料・飲料は国内企業が中心、医薬・化粧品と日用雑貨では外国企 業も多いが国内企業の増加が目立つ。 最後に、広告主の想定する消費者像を把握するために、広告に登場す る人物イラストに注目し、業種、性別、業種別性別の1 号平均広告数を 分析した。全体として人物イラストが登場する割合は次第に増加し、性 別は、40 年代以前は成人男性が多いが、50 年代以降は成人女性が多く なり、子供も増加する。業種別では、医薬・化粧品、日用雑貨、衣料品 で女性が多く、食料・飲料では子供が多い。金融・保険は人物イラスト 自体が少ないが、子供が増加する。以上、消費者像は成人男性から母子 中心の核家族へと移行、特に女性は、母(家事、育児)としても女(フ ァッション、化粧品)としても重要な消費者とみなされるようになった。 このように雑誌広告は消費動向を反映して変化してきた。雑誌広告の 媒体としての最盛期は50 ~ 60 年代で、中心業種は医薬・化粧品、食 料・飲料、日用雑貨である。人気商品はタルカムパウダーや石鹸、タバ コから、洗剤や栄養補助食品へ、さらに白物家電や病院・学校へと変化 した。90 年代以降は広告媒体が多様化し、雑誌広告の役割は低下した。. 245.
(5) 南アジア研究第28号( 2016年). 核家族化に伴い白物家電の広告が増加し、中間層の新たな価値として子 供の教育や家族の健康が浮上する。すなわち、 広告は一般に言われてい る中間層の消費生活の変化を反映しているのである。 第 4 報告の杉本良男「南インド農村における宗教の消費」では、南イ ンド、タミルナードゥ州タンジャーウール県クンバコーナム市および近 郊のティルップランビヤム村の事例をもとに、経済自由化後いっそう流 動化が進む農村社会において、とくにアイデンティティの基盤として宗 教施設が「消費」される現状を検討した。現地調査は1990 年 8 月から91 年 2 月までと、2011、12、13、14 年のそれぞれ短期の現地調査資料に基 づいている。 1984 年のインディラー・ガンディー首相の暗殺は、さまざまな意味で、 80 年代以降のインド社会の様相を一変させた。跡を襲ったラジーブ・ガ ンディーの時代は、一方で、90 年代以降の経済発展の先触れとなり、都 市だけでなく村落までも含めた社会の構造変動の契機となったが、他方 で宗教間の対立を顕在化させた時代でもあった。85 年のバーブリ・マス. ジッド開門や、大河ドラマ、 「ラーマーヤナ」 (1987 -88) 、 「マハーバーラ. タ」 (1988 -90)の大ヒットなどは、一元化されたイデオロギー的なヒン. ドゥー復興の象徴である。80 年代からのインド経済社会の構造変動につ. いてはしばしば指摘されるが、こうしたマクロ・レベルでの変貌ととも に、柳澤悠はまた、地方都市や村落レベルでの変化についても強い関心 を寄せていた。 ティルップランビヤム村はクンバコーナム市の北西約10キロのカー ヴェーリ河支流のマンニ河岸にあり、さらに北に1マイルほど行くと同 じくカーヴェーリ河の支流コッリダム河に行き着く。古名はスリー・プ ランビヤムで、ブラフマーの創造神話に登場して「洪水の先の村」とい う意味をもっている。また9 世紀に、南インド史の分水嶺といえるチョ ーラ朝とパーンディヤ、パッラヴァ両王朝との戦闘が行われた場所とし て広く知られている。また村の中央にある寺院もチョーラ朝時代に創建 されたものである。そして、この村はブラフマデーヤ村として千年以上 の歴史を持っている。. ティルップランビヤム村は、2011年国勢調査によれば 1 ,143 世帯、人. 口5 ,114 の多カースト村である。一方、20 年前の1991年国勢調査時では 1 ,004 世帯、人口 4 ,516、1961年は人口3 ,628であった。この20 年村の範. 246.
(6) 学会近況 日本語テーマ別セッション IV 現代インドの消費変動と社会システム. 囲はほとんど変わっておらず、人口規模もこの間のインド全体の増加ぶ りに比べると大きな変動はないように見える。 実際 2011年、12 年の詳細な調査を通じて、子供の世代は近隣の都市 クンバコーナム、タンジャーウール、この地域の大都市ティルチラーパ ッリ、さらには州都マドラス(チェンナイ)などに出ていることがわか った。1990 年調査時と比べると、村の外観はほとんど変わっていないが、 教育水準の向上や人の移動がドラスティックな社会変化をもたらして いた。とくに女子の教育水準が飛躍的に向上しているのが顕著に見られ た。 ティルップランビヤム村では、80 年代のヒンドゥー主義の流れのなか で、カーンチのシャンカラーチャーリヤの援助によって廃墟化していた アンマン寺院が大々的に復興し、宗教景観を一変させていたが、注目さ れるのは、2000 年代に入ってからの、何らかの意味で「外部性」を帯び た人びとによる各種寺院の復興の動きである。歴史的に村の中心におか れてきたシヴァ寺院は、マドゥライのマットの管轄となって村の人びと と距離ができ、比較的低調なのに対して、非サンスクリット的な諸神を 祀る寺院がつぎつぎと再建されている。いずれの寺院についても共通す るのは、村落から出て都市などで生活していた人びとが、アイデンティ ティの根拠を求めて村落寺院復興のために私財を投じていたというこ とであった。 以上の 4 報告に対して、政府による食料の配分制度が食料消費に及ぼ す影響や広告に現れる女性のイメージの解釈などをめぐって活発な議 論が交わされた。 (文責・杉本大三) すぎもと だいぞう ●名城大学. 247.
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