.L 0 sθ傭ろZαηc,o傭θわZ甜論(1)
小井戸 光彦
背く」著作を執筆した廉で家宅捜索を受け,逮捕されて,Vincennesの城塞監 獄に投ぜられた。
ところで,この1749年という年はフランス中に反政府的活動が燃え上がると 共に,権力側の反動的攻勢が一際激化した年として知られる。就中,国民の間 に非常な不満を生んだのは,オーストリア継承戦争に終止符を打つべく締結さ れたアーヘン条約(1748)であった。8年間にわたる戦役も結局フランスには 何一つ利益を齎さなかったからである。また財政危機を始めとして,旧制度の 矛盾は内政上の諸問題においても深刻化しつつあったから,僧族・貴族から一 般庶民に至るまで,広く国民各層の間から,王権と時の政府に対する各種各様 の非難の声が発せられたのであった。これに対し,官憲は容赦なく弾圧を加え,
危険分子の大検挙を行ったのである。
Franco Venturiの記すところによると2),逮捕者は同年の,とりわけ夏に 集中している。しかも検挙されたのはDiderotのような新思想家ばかりではな い。売春婦,間諜,詐欺師の類いまでも大勢投獄されたという。だがこの手合 いに係わる問題は目下われわれの関心の対象外にある。とはいえ,秩序の保持 と良俗の擁護に躍起となった者たちは,この手の輩も,進歩的思想家も,糞味 噌に扱うのが常であるということだけは確認しておかなければなるまい。
またジャンセニスト,あるいは教会分離主義的な主張をした科で投獄,ない し追放の憂き目にあった聖職者もかなりの数に上るという。これは本来教会内 部の教理上の問題であるから,<哲学者》たちの思想的な危険性とは異質の問 題な筈である。しかしVenturiによれば,両者は一とくに啓蒙主義の初期に おいては一しばしば混同されていたらしい。確かにこの後程なくして持ち上 がったde Prades神父事件3)の例などを考え合わせれば,十分頷ける指摘とい
えよう。
そして次に来るのが国王やその愛妾,寵臣,時の政府の政策などに悪口を浴 びせたために迫害された名もない民衆である。この種の検挙者は甚だ多数に上 るが,彼らの抗議の渦こそがいわば啓蒙思想の土壌となって,これを生成発展 せしめたといってもよいであろう。
だが当時の人々にとって最も衝撃的だったのは,何といっても多くの作家た ちの逮捕であった。作家の投獄はこれ以前にも前例がなかった訳ではないが,
この年にはそれが集中的になされたのである。権力者批判の文書をばらまいた Sorbonneの教授や学生の中にも,逮捕された上に厳しい懲罰を加えられた者 がいたという。官憲の狙いは危険思想家を獄に閉じ込めてその書物やパンフレッ トの害毒から公衆を守り,併せてこれを見せしめとして批判分子の活動に止め を刺すことであったと思われる。
このように官憲の締め付けが一段と厳しさを増していた1749年の6月初めに,
Diderotの五臨rεs脚♂θ8、Aひθ㎎Zθsが出版されたのである。四囲の情勢に加 えて,作品の内容も際立って過激であったから,事態は彼にとって最悪であっ た。この書物は著者,出版所とも無署名で刊行されたにもかかわらず,官憲の 目を誤魔化すことはできなかった。というのも,1746年に同じく匿名で出版し たP飢s6θs pん Zos(〜ρん g麗sが同年7月7日高等法院の発禁処分を受けたのを 手始めに,やがてDiderotは教会と警察から危険人物として目を付けられるよ
うになり,その文筆活動の一切が警察に筒抜けになっていたからである。こう してL観rθ刊行がDiderot逮捕の直接的契機となったのである。
RousseauはLθsσo》θ8sめπ8の中で, Diderotが投獄されたのは,彼が Lε雄θ側rZθs.Aひ飢gJθ8において,科学アカデミー会員de R6aumurとDu一 pr6 de Saint−Maur夫人に棘のある当て擦りを言ったからだと書いている。4)
事実Diderotは」Lθ伽εの冒頭で, R6aumurの下で行われた或る先天的盲人に 対する白内障の手術後の「最初の包帯取り」の場に,この「練達のアカデミー 会員」が「とるにたりない」連中だけを立ち合わせて,「哲学者たち」を排除
したことを責めている。5)しかも「とるにたりない」者が就中Dupr6 de Saint−Maur夫人を指すことが明白で,このく女学者〉が時の権力者d Ar一 genson伯爵の愛人ときていたから,彼女とR6aumurの差し金でDiderotが逮 捕されることになったのだというのがRousseauの見方である。またDiderot の娘de Vandeu1夫人も,父親に関するその覚書の中でほぼ同じ事を記してい
小井戸:L 0 sθ側6Zαηc, co撹2配飢論(1) 45
る。6)それに実はこの事件当時,パリ市内でも同様の噂が流れていたのであ
る。7)
確かに当時のフランス科学界の長老de R6aumurとd Argenson伯爵の愛人 Dupr6 de Saint−Maur夫人の力を以てすれば, Diderot如きを懲らしめに投獄 すること位いとも簡単にできたであろう。だがそうした事実を裏付けるような記 層
^は残っていないという。8)警察関係の資料にも,上層部からの圧力について は一切言及されておらず,Diderotの思想と作家活動の危険性だけが強調され ている。それに2人が侮辱を受けたL臨rθ測rZθs!1びθμgZθsの出版(6月初 め)から,これに対する報復とされるDiderot逮捕(7月24日)までに2ケ月 近い時間が流れているのも,いささか間延びしていて妙である。従って彼らか
らの告発があったにしても,それは官憲による弾圧の対象にDiderotを加えさ せる精々補足的な1つの理由に過ぎず,Diderot逮捕の直接的な主要原因はや はり五θ雄θの思想的な危険性にあったと考えられるのである。
しかもDiderotはこの作品だけの故に逮捕されたのではない。上述の通りDi一 derotはすでに2年前から密かに警察の厳重な監視下に置かれていたから,官 憲の忌詳に触れる彼の作品はすべて警察の手によってリストアップされていた のである。事実,残されている犯罪者カードにも,9)Diderotは「Lθ材rθ甜r
♂θS孟ひθ召gZθS,五θS助0礁じ顧8crθオS,PθηS4εs画ZOSOPんゆθ8,Lθ8C⑳ゆθ oμZ 朋6εdθ8漉θ8[LαPromenαde d Sceptique],五 αsθα面Z侃c, coπεθ わZ飢等の作品を執筆したため」に逮捕されたと記されている。つまりその全作 品がDiderot逮捕の理由とされているのである。この間の事情をTrublet師が de Vertillac夫人に宛てた手紙の中で表現したように, L観rθは正しく「瓶の 水を溢れさせた最後の一滴」 °)だったのである。
Dupr6 de Saint−Maur夫人の差し金かどうかは分からぬが,ともかくDide一 rot逮捕劇の幕を切って落としたのがd Argensonであることだけは事実であ る。1749年7月22日,国璽尚書兼副大法官d Argenson伯爵は警視総監Ber一
ryerに対し「五ivre de l Aひeugle [Lettre sur♂θ8・4ueugles]の著者Didrot 11)
(s o)氏をVincennesに投獄するよう命ぜよ」と指示している。 Berryerは直 ちに部下に対して「彼(Diderot)の原稿を押収し,かつその場でこの本(Lθか
オ7「θ8μr1θ8.AひθπgZθS) と, Pθη86θ8ρんごZO80Pんε(1μθ8,Ze8β夢0召κ εη(充807「εε8,
♂ AZZ6θ4θs d6θs[Lα Pronzenαde du Sceptique],Z α8θ侃わZαηc, coπオθうZεμに
関して,彼を尋問せよ」と厳命した。翌23日,Berryerの命令は警察署長Agnan
Philippe Mich6 de Rochebruneに伝えられる。その間にDiderotに関する封 印状(lettre de cachet)も用意され, Vincennes城塞司令官du Chastellet侯 爵の下に送付される。そして問題の7冒月24日木曜日午前7時半,警察署長 Rochebruneは警視Joseph d H6mery同道の上, Vieille Estrapade通りに面
した家の3階にあるDiderotの住居に赴き,警視総監Berryerの命令を忠実に 実行した。
この日のことを,Diderotの娘Vandeul夫人は後にこう伝えている。12)
…le 24 juiUet l 749, un commissaire, nomm6 Rochebrune, avec
o 、
狽窒盾撃刀@hommes de sa suite, vint a neuf heures du matin chez mon pδre, et apr6s une visite trδs−exacte de son cabinet et de ses papiers,le commis一
・ ・ 〈
唐≠撃窒?@tlra de sa poche un ordre de l arreter et de le conduire aVincen一 、
獅?刀D Mon pere sans se troubler le pria de lui donner le temps d en pr6venir sa femme;il passa chez ma m6re, elle habillait et caressait son fils.
Jamais il ne put se r6soudre a 1 affliger, il lui dit qu il sortait pour quelques affaires relatives a l EアzoッcZ(翠)64ごθ, qu il ne reviendrait s合re一 ment pas d金ner, et la priait vers le soir d aller le chercher chez Le Bre一 ton,1ibraire;puis il sortit. Un mouvement involontaire la conduisit
〈
ツsa fenetre, elle le vit dans un fiacre tendant la main pour prendre une 6preuve que voulait lui donner un enfant de 1 imprimerie;un holn一 me de rescorte s avanga, repoussa le bras de mon pδre, et ordonna a ren一 fant de s 610igner. Elle leta un cri et s 6vanouit.ユ3)
Diderotのアパルトマンに警察官たちが現れた時刻をVandeu1夫人は「午前9 時」としているが,残されているRochebrune自身の報告書に「午前7時半」
とあるから,その点は彼女の記述が不正確だとしても,他は概ねこの通りであっ
たと信じてよいであろう。家宅捜索の結果,何一つ証拠があげられなかったに 14)
烽ゥかわらず,彼らは直ちにDiderotを逮捕する。彼の身柄は即刻Vin一 cennes城に移され,小塔内の独房に監禁されてしまったのである。気が動顯 して,Diderot夫人が気絶したのも無理からぬことと頷けよう。後に残された 者の困惑振りが偲ばれようというものである。
だがDiderot夫人は困惑ばかりもしていられなかった。彼女は嘆願すべく,
小井戸:五 0 8θα%配απc,co説θ6Zθα論(1) 47
Berryerの下に赴いた。するとBerryerはDiderot夫人にこう言った。
Eh bien, madame, nous tenons votre mari, il faudra bien qu il jase.
Vous pourriez lui 6pargner bien des peines et acc616rer sa libert6, si
、
魔盾浮刀@vouliez nous indiquer ou sont ses ouvrages, quel est celui dont il s 昌
盾モモ浮垂?@actuellement, o盲est le PむθoπわZαπc紛.
つまりBerryerは家宅捜索によって得られなかった情報を,あわよくばDide一 rot夫人から入手しようというのである。このBerryerの目論見に対するDide一 rot夫人の返答について,娘のVandeul夫人は次のように記している。
Ma mεre r6pondit a M. Berrier que jamais elle n avait ni rien vu,
ni rien lu des ouvrages de son mari;que, livr6e entiδrement a son m6nage,
elle ne s ざtait lamais mδ1e e des sciences dont il aimait as occuper;
qu elle ne connaissait ni pigeon blanc, ni pigeon noir, mais qu elle 6tait
〈 、
b奄?氏@convaincue que ses 6crits ne pouvaient etre que conformes a sa conduite:<il estime, ajouta−t−elle, mille fois plus l honneur que la vie,
et ses ouvrages doivent respirer les vertus qu il pratique.》
こうしてDiderot夫人の嘆願もその実を上げ得なかったが, Berryerの目論見 も徒労に終わったのである。尚2人の会見中に問題にされた《Pigeon blαnc》
が,本論の対象とする〃αsθ側う♂αηcを指すことは言うまでもない。この作 品もDiderot逮捕の一因を成している事情は如上の説明で明らかであろう。
ところでこのZ 0 8eωわZαπc, co漉66Zθ召16)という小説は,これまでDide一 rotの作品として余り顧みられていない。<Bibliothδque de la Pl6iade》
の(Eμorθ8 dθD 4θro は疎か,<Classiques Garnier>の(コ9副rθs ro肌α一 舵sgμεs dθD 4θro古中にも入っていない。又この作品に関する論評も数える 程しか存在しない。何故か。その最大の理由は,この小説の完成に当時Dide一 rotの情人であったde Puisieux夫人が係わっていたとされる問題があるから である。一体この作品はDiderotの作なのか,どの程度まで彼の作と言えるの であろうか。
この点を明らかにする為には,Vincennesの独房に監禁されたDiderotに話 を戻さねばならない。当初彼は事態をさほど深刻には考えていなかったらしい。
拘留もそう長期には亘るまいと踏んでいたようで,散歩や広い部屋の使用を認 める特別な計らいを求めたりもしている。だがそれは彼の考え違いで,Ber一 ryer側の態度は厳しかった。 BerryerはDiderotに一連の著作について口を割
らせるまで追及の手を緩めるつもりはない。Diderot夫人から詳細を引き出せ なかった彼は,7月31日,自らVincennesに赴いて直接Diderotに尋問した。
Diderotは五θεオrθs召r♂ε8 AびθμgZθ8,五ε8 Bガo召κ η,(メ scr就s, Peπ86θ8 pん Zo.
sopん勾麗8,L 0 sθ側うZαπc, coπ θbZe召について嫌疑をすべて否認し,五α Pro肌θπαdθ磁Sc¢ρ的麗一作に関しては筆者であることを認めるが,原稿は 焼却したと主張する。17)これでは事態が全く改善されないことは言うまでもな
い。翌8月1日Berryerは出版業者Durandを呼んで,彼からDiderotが
PθηS6θ8画Z・S・PんゆθS,Zθs砺・協ご顧8crθ孟8,L臨re 8召r♂θs AひθμgZθSの筆
者であるとの供述を得た。18)だがBerryerはあくまでDiderot本人の口から自 白を引き出すつもりである。釈放の当てもないまま,Diderotの独房での日日 が打ち過ぎて行く。過敏なまでに豊かな感受性の持ち主で,人一倍孤独を嫌う 彼の心は,「その千々に乱れる想像力のために,意気消沈から激昂へ,諦めか
ら激しい不安へと揺れ動くのであった」19)。堪り兼ねた彼は8月10日,大法官 d Aguesseauと警視総監Berryerに対し殆ど哀訴に近い手紙を書く。2°)だがそ
こにも,問題の著作についての言及は一切見られない。従って釈放の見込みも 立つ筈がない。しかしその間にもDiderotの心は,いつ果てるとも知れぬ独房 生活の中で,不安と絶望に打ちひしがれ,ついに全面的に屈服してしまう。8 月13日,彼は否認し続けることを断念し,Berryerに宛てた手紙の中で白状す
る。
、
ie vous avoue donc, cornme a mon digne protecteur, ce que les lon一 gueurs d une prison et toutes les peines imaginables ne m auraient ja一 、
高≠奄刀@fait dire a mon juge;que les Peπ86θ8,1esβひo礁et la五θ麓rθ8召r Zθ8ωθ召9♂θ8sont des intemp6rances d esprit qui me sont 6chapP6es;mais
■ , 、
lepuls a mon tour vous engager mon honneur(etj en ai)que ce seront les derni6res et que ce sont les seules.21)
小井戸:L 0 sθαμ配απc,co舵θ配θμ論(1) 49
こうしてDiderotはPθπs6θ8 pん Zosopん g召θ8,♂θs Bガo召κ η(1 scrθオ8, Lθか
εrθ訓冠θs.A肥召gZε8の筆者であることを認め,改俊し,以後この種の書物は 書かぬと誓ったのである。劾
ところがである。この8月13日付けBerryer宛て書簡の末尾には次のような 断り書きが付記されているのである。
Quanta♂ α8θα召うZαπc, co鷹θわZθμ, il n est point de moi・Il est d une dame que je pourrais nommer, puisqu elle ne s en cache pas・Si j ai que1一 que part a cet ouvrage, c est peut一δtre pour en avoir corrig61 orthographe,
contre laquelle les femmes qui ont le plus d esprit font toujours quelque faute.11 n est point imprim6, et je ne pense pas qu il le soit ja一
malS。23)
つまりZ αsθωわZαπcの著者は「ある婦人」であって自分ではなく,自分は
「その綴りを直した」に過ぎぬというのである。この「婦人」がde Puisieux 夫人を指すことには疑問の余地がない。1749年1月1日の警視d H6rneryのメ モにも,Puisieux夫人が近頃σoηsθ ZsδμηθA煽θという本を書いたが,そ の本文は全部愛人のDiderotが書いたものだと書き記されているように,別)当 時DiderotはPuisieux夫人の諸作品に協力していたし,薦)また逆に彼の側でも
彼女から多かれ少なかれ示唆を受けていたことは,すでに多くの批評家によっ 26)
て指摘されている処である。
Diderotによるこの♂ αsθαμ配απcの否認には「当惑」させられる,とAn一 27)
р窒U Billyは書いている。「否認に根拠があるとするなら,自分の愛人が著者で あることを暴いたのは,哲学者として非常に軽率だったとしか言いようがない
し,否認が偽りだとするなら,何をか言わんやである。」Billyはこう言って,
Diderotの断り書きについて判断を下すのを差し控えている。だがわれわれは 敢えて話をもっと先に進めてみることにしよう。というのも,Billyはこの作 品の危険性を過大視したために,上のような態度をとらざるをえなくなったの ではないかと思うからである。なる程,この小説がLe亡亡rθsμrZθS.Aひ飢g♂θS 等と同じ位危険な作品ならば,Billyのいう通り, Diderotの否認が真実であ るにしろ,偽りであるにしろ,事は重大であろう。そして,Diderotの言葉は 耐え難い独房生活の故に常軌を逸したものなのだから,それをあれこれ詮索し
ても始まらぬという結論に至るのも分からぬではない。しかし実の処このコ ントはLθ伽θに比べればはるかにずっと当たり障りのない作品なのである。
無論この作品にも宗教や政治に対する皮肉や当て擦りは認められる。だがそん なものなら他に幾らも先例がある。現にDiderotの断り書きにもかかわらず,
その後Puisieux夫人が警察に悩まされた様子もないし, BerryerもDiderotの 8月13日の自白に満足してそれ以上追及はしていないのである。この作品のも つ危険性がその程度のものだとしたら,Diderotの否認が真実にしろ偽りにし ろ,彼の罪過はBillyの考えた程重大なものではなく,はるかに軽微なものと なろう。そしてDiderotの否認がもつ道義的重みを前にして「当惑」し立ち疎 むより,むしろDiderotの断り書きが認めている♂ 0 8θ側δZαπcへの彼の関 与が本当に「綴りを直した」程度のものかどうかを探ろうとする,新たな見地 へと脱却を図ることの方が重要だということになるのではなかろうか。その観 点に立って検討を進めれば,この作品がDiderotの作なのか,どの程度まで彼 の作と言えるのかという問題も,自ずと解明されることになるであろう。
では一体Diderotの断り書きをどう読むか。先ずは彼の言葉を真実として,
そのまま受け取ってみるという立場が考えられよう。RVenturiの見解はこの 立場をとっている。「だから獄中でDiderotが♂ 0 sθ翻δZαηc,co鷹θわ♂θμを Puisieux夫人の作とみなそうとした時,彼は嘘をついていなかったのかもし れない」認}とVenturiはいう。確かにこの見地に立てば, Diderotによる Z 0 sθωうZαηcの否認をめぐる根本的問題は存在しなくなる。この小説をDide一 rotの作とした場合に起こってくる厄介な問題,すなわち彼が一方でゐθεオrθ s膨Zθsんθ㎎・Zθ8のような危険な作品を自分のものと認めておきながら,他方 で〃α8θ侃δZαπcをその作品リストに加えることを何故恐れなければならぬ のかという疑問にも悩まされずに済む。それにこのコントの執筆に全面的に責 任を負うのが愛人のPuisieux夫人で, Diderotの協力は「綴りを直した」だ けということになれば,そんな作品のことをDiderotが家人の前で話題にする 筈はないから,先に引用したように,Diderot夫人がBerryerに尋ねられた時
「私は白い鳩も黒い鳩も存じません」と答えたのも当然だったということにな
ろう。
こう見て来ると,いいこと尽くめで,これで問題は解決するかに思えるが,
実の処この一件はそれ程曙ではない・上の立場に立つとすると,J・an−L・ui・Leutratも指摘するように,では以下のような事実はどう説明すればよいかと
小井戸:L αsθαμ配απc,co漉θ配側論(1) 51
いう新たな疑問に逢着するのである。ここで考え合わせてみなければなら ぬのは次の諸点である。
(1)まずDiderotは,♂ 0 8eαμわZαηcが「ある婦人の作で,彼女はそれを隠そう としていないから,その名前を言うこともできる」と言いながら,敢えて Puisieux夫人の名はあげていないのである。
(2)次にDiderotの弟子Naigeonが1798年に(E切rθs 4θD dθroε(15 tomes)
を刊行した際,このコントがDiderotの作としてそこに加えられているので ある(tome X,pp.417−519)。
(3)だが実はNaigeonにより♂ 0 8e侃わ♂απcが初めて活字にされた時より20年 早く,この小説の最初の読者となったのはσorre卿0π4αηCθZ読6rα rθの予 約購読者たちであった。このコントの手稿は次のように5回に分けて彼らの
閲覧に供されたという。3°)
1777年10月:第314丁表〜第319丁裏
(L 0 8θω配αηcのく第1,2夜》の部分)
11月:第340丁表〜第345丁裏
(〈第3夜〉)
12月:第360丁表〜第369丁表
(<第4,5夜》)
1778年1月:第11丁表〜第14丁表
(<第6夜》)
2月:第29丁表〜第32丁表
(<第7夜》)
ところで晩年Diderotは,娘の結婚持参金を作るためにその蔵書をロシアの 女帝Catherine Hに売却した際,上記σorrθSρoπ4απcθ♂読6rα rθ所載のテ
クストを,女帝に引き渡すべき自分の作品群の中に加えているのである。
職i4)また彼の娘Vandeul夫人も次のように,このコント (いわゆるP gθoπ 配απc)を父親の作品として語っている。
C 6tait un assez joli conte dont mon p6re avait fait quelques lectures
、ases amis, et qui pouvait alors contenir quelques apPlications sur le roi, Mme de POmpadour et leS miniStreS.31)
(5)それにDiderotには他人のものを横取りするような性癖はなく,事実はむし うその逆であった。
(6)また作品自体を読めば,そこにDiderotの刻印が押されていることは疑いも
ない。
こうした諸般の事情を勘案すると,DiderotによるZ α8θωうZαηcの否認は 偽りとまでは言わぬにしても,不正確だったのではないかと考えざるをえなく
なろう。彼がこのコントの成立過程において果たした役割が「綴りを 直した」だけとはどうしても思えないからである。かくしてわれわれは,
Vivienne Mylneと共に,「物語のアウトラインはPuisieux夫人が提供したに しても,実際にL 068eαμ配αηcを書いたのはDiderotだった」鋤のではない かと主張したい。従ってDiderotの否認をめぐる謎は依然残るにしても,一先 ずこのコント執筆の全責任はPuisieux夫人によりも,むしろDiderotの方に あると見て然るべきではないかと思うのである。
(1992年10月)
注
1)同日の家宅捜索に関する警察署長de Rochebruneの報告書より:<contraires
、ala religion・δr6tat et aux bonnes mGeurs》 (Paul Bonnefon,<ヱ)認θ一
・・ゆ・ S・ηπ θ・δ臨CθππθS>,<Rθひμεd H S診。かθZ 孟む。 .αごrθ4θ」α Frαηcθ〉,1899, p.204)
2)F・V・nt・・i,」・…s8・4・D 伽孟(1713−1拓3). T・ad・it d,1・it。li,n par J.Ber㌻rand, Paris, Skira,1939, pp.177−186.
3)当時の進歩的聖職者の一人としてEπcッc♂op6読θにも執筆していたabb6 de Pradesにより1751年Sorbonneに提出された神学論文が,キリスト教を冒 漬する危険な新哲学の傾向を示したものとして断罪された事件で,彼は亡 命を余儀なくされた。Diderotは.4poZo8 θ4θハ4.♂ αわ664θPrα4θs(175 2)を書いている。
4)<…五・伽・s・・Z・s孟…8♂・8q・i・ ・・ait・i・n de r6P。ざh,n,ib1,
que quelques traitS persOnnels, dOnt Mme Dupr6 de St−Maur et M. de R6aumur furent choqu6s, et pour lesquels il fut mis au Donjon de Vincennes》
(R・・sseau, L・sσ・嘘s8め・・,6d. d・J. V・i・i・・,<Classiques G。,nier》,
小井戸:L 0 8θαμ配απc,co漉e配θμ論(1) 53
1964,P.411)
5)<Je me doutais bien, madame, que l aveugle−n6e,的ui M. de R6aumur vient de faire abattre la cataracte, ne vous apPrendrait pa6 ce que vous vouliez savoir;mais je n avais garde de deviner que ce ne serait ni sa faute, ni la vδtre. J ai sollicit6 son bienfaiteur par rnoi−m♂me, par
圏
唐?刀@meilleurs amis, par les compliments que je lui ai faits;nous n en
9 、
≠魔盾獅刀@rlen obtenu, et le premier apPareil se levera sans vous. Des
、
垂?窒唐盾獅獅?刀@de la premiere distinction ont eu Fhonneur de partager son refus avec les philosophes;en un mot, il n a voulu laisser tomber le voile que devant quelques yeux sans cons6quence. Si vous♂tes curieuse de savoir pourquoi cet habile acad6micien fait si secr6しememt des exp6ri一 ences qui ne peuvent avoir, selon vous, un trop grand nombre de
tざmoinsざclair6s, je vous r6pondrai que les observations d un homme 「 r
・ 「」 ・
≠浮唐唐戟@celebre ont molns besoin de spectateurs, quand elles se font, que d auditeurs, quand elles sont faites.〉 、
(Diderot,(:E副rθs pんごJosqρんごσμθs,6d. de P. Verniδre,<Classiques Gar一 nier》,1961, pp.81−82)
6)<M.de R6aumur avait chez lui un aveugle−n6;1 on fit巨cet homrn el op6ration de la cataracte. Le premier appareil devaitるtre lev6 devantde sgens de 1 art et quelques litt6rateurs;mon pδre y avait 6t6 envoy6;
curieux d examiner les premiers effets de la lumiδre sur un 6treδqui elle (∫tait inconnue, il espざrait une expざrience aussi intざressante que neuve. On leva rapPareil; mais les discours de l aveugle firent par一
〈
?≠奄狽?高?獅煤@connai tre qu il avait d6jδvu.1.es spectateurs 6taient m6con一 tents;rhumeur des uns produisit・1 indiscr6tion des autres: quelqu un avOUa que la premiδre exp6rienCe s 6tait faite devant Mme Dupr6 de Saint−Maur. Mon pδre sortit en disant que M. de R6aumur avait mieux aim6 avoir pour t6moins deux beaux yeux sans consdquence que des gens dignes de le juger.
Ce propos d6plut巨Mme Dupr6 de Saint−Maur;elle trOUva la phraSe injurieuse Pour ses yeux et Pour ses connaissances anatorniques;elle avait une grande pr6tention de science. Elle paraissait aimableδM.
4 Argenson;elle l irrita>
(Madame de Vandeul,<M乙η②σ rθs poμr sθroかaZ ん sオo re 4θZαo θ θ孟 〔1θs oμz/rα9θ8 (∫ε D (!θro孟》, (万μかrθs coηzpZδ孟θs 4θ D dlθro孟,(≦d. par
J.Ass6zat, tome premier, Garnier,1875, pp. XL n−XL IH)
7)Venturi, op. c琵., p.380, n.20.
8) 1わ dl., p. 187.
9) <Pour avoir compose un ouvrage intitule :L碗rθs 8μr Zθ8ω飢gZθsδ 砲Sα8e 42 ce砿9協び0 θπ診cJαかノLθs助0礁・溜ごscrθオS∫Pθπ8をεs pんε♂OSO一 Pんゆθs;[… ]Lθ8・εμゆθo副 湾〃6θdθs漉θs∫L α8θαμわZαηc,
COηL孟θ 6ごθZ乙, etc. 》 .
(Bonnefon, o、ρ. c肱, P.223) 」
P0)<1a derniδre gou㌻te d eatl qui a fait r6pandre le vase> (Venturi,
op. cあ., p.177)
11)Denis Diderot, CorrθSpoπ4απcθ1,6d. G. Roth, Minuit,1955,pp.80一 81;Bonnefon, op。 cごム, p.207, pp.204−205.
12)但しDiderotの逮捕は彼女が生まれる前の出来事である。
13)Mme de Vandeu1,0p. cあ., p. XL皿.
14)その事から推して,Diderotはこういう事態を予期していたのではない かとも言われている (Arthur M. Wilson, D認θro古, New York, Oxford University Press,1972, p.103).
15)Mme de Vandeul, op. c琵., pp. XL nl−XLIV.
16)<conte bleu>については, Jean−Louis LeutratがLittr6に拠りつつ,
次のように注釈している:L expression co鷹θ6♂θμd6signe, selon Littr6,
1es<contes de f6e et autres r6cits de ce genre, ainsi dits parce qu ils 6taient d ordinaire couverts d un papier bleu;et par extension, r6cits imaginaires, raisons sans fondement, billeves6es》. En somme il n y apas loin de五ノ0 sθαμ わZαπc δ1a Bibliothδque bleue de Troyes, et ron imagine ce que devait penser Diderot de son ouvrage.
((コ9昆ひrθ8coηzpZδ θs 4θDご4θro孟,(ld. critique et annot〔≦e, pr(lsent(≦e par
J.Macary, A.Vartanian, J.−L. Leutrat avec les soins de J,Varloot,
Paris, Hermann,1978, tome皿,<1ηヶoぬαごoη>aご αsθ側わZαπc,coη一
孟θわZεμ,P.295)
小井戸:L α8θαμう♂απc,co麗θ配θμ論(1) 55
17)尋問調書の内容は以下の通りである:
Interrogatoire de 1 ordre du Roi fait par nous, Nicolas−Ren6 Berryer,
chevalier, conseiller du Roi en ses conseils, ma金trg des requates ordi一 naires de son h合tel, lieutenant g6nるral de police de la ville, pr6v♂t(l et vicomt6 de Paris, commissaire du Roi en cette partie.
胴̀u sieur Diderot, prisonnier de 1 ordre du Roi au donjon de Vin一 cennes.
Du jeudi trente−un juillet mil sept cent quarante−neuf de relev6e, dans ・ la salle du conseil du donjon de Vincennes, aprδs serment fait par le
r6pondant de dire et r6pondre v6rit6.
Interrog6 de ses noms, surnoms, age, qualit6, pays, demeure, profes一
●唐撃盾氏@et religion;
Adit se nommer Denis Diderot, natif de Langres, ag6 de trente−six ans, demeurantδParis, lorsqu il a 6t6 arr♂t6, rue Vieille』strapade,
paroisse de Saint−Etienne du Mont, de la religion catholique, apostolique
・
?煤@romalne.
Interro96 s il n a pas compos6 un ouvrage intitu16 L2古オrθsμr Zεsωθμ一 8」θSδ砲8α8θdθCθ礁q召 ひ0 傭;
Ar6pondu que non.
Interro96 par qui il a fait imprimer le dit ouvrage;
Ar6pondu qu il n a point fait imprimer le dit ouvrage.
Interrog6 s il n en a point vendu ou donn61e manuscrit a quelqu un;
Ar6pondu que non.
Interrog6 s il sait le nom de l auteur du dit ouvrage;
Arφpondu qu il n en sait rien.・
Interro96 s il n a pas eu en sa possession le dit ouvrage en manus一 crit avant qu il f合t imprim6;
Ar6pondu qu il n a pas eu ce manuscriten sa possession avant et aprδs qu il a 6t6 imprim6.
Interro96 s il n a pas donn6 0u envoy6 δdiff6rentes personnes des exemplaires du dit ouvrage;
Ar6pondu qu il n en a envoy6 ni donn6δpersonne.
Interro96 s il n a pas compos6 un ouvrage qui a paru il y a environ deux ans, intitu16:Lθs う〜ヲoz乙κ θπcんαノz孟6s;
Adit que non. 冒
Interrog6 s il n en a pas vendu ou donn61e manuscritδquelqu un pour l imprimer, ou autre usage;
Ar6pondu que non.
Interrog6 s il n a pas compos6 un ouvrage qui a paru il y a plusieurs ann6eS,、intitUl6:Pθη86θS pんごZOSOPん 9ωθ8;
Ar6pondu que non.
1・terr・96,,il,。nn。全t l・。。t,u, d。 dit。uvrag,;
〈
̀r6pondu qu il ne le connait pas.
.
hnterrog6 s il n a pas compos6 un ouvrage intitu16:ゐθsc3P勿喫oμ z α〃624θ8漉θs;
Adit que oui.
, 、
hnterroge ou est le manuscrit du dit ouvrage;
Adit qu i1ゴexiste plus et qu il est br会16.
Interrog6 s il n a pas compos6 un ouvrage intitul6:Z α8θ側わ♂αηc,
co漉θわ勉;
Ar6pondu que non.
Interrog6 s il n a pas du moins travaill6 a corriger le dit ouvrage;
Ar6pQndu que non.
Lecture faite au r6pondant du pr6sent interrogatoire a dit que 1es re ponses qu il a faites contiennent v(≦rit(≦, y a persist〔≦et a
・
rlgne・
BERRYER,DIDEROT
(Bonnefon, op. c訪。, pp.208−209)
18)Diderot, Corrθqρo几dαη.cθ1, p.81;Bonnefon, oμc記., p.210.
19) <En attendant, on tenait le Philosophe au secret, et il passait de l abattement a la fureur, de la re signation a l angoisse, selon les mouvements d6sordonn6s de son imagination》
(Andr6 Billy, y θ4θD厄θroオ,6d. revue et augment6e, Flammarion,
1943,P.83)
小井戸,L Olsθαμ配απc, co舵2配飢論(1) 57
20)Diderot,σorrθ鉱)oη(メαπcθ1, pp,82−88.
21)Bonnefon,op.cご診.,p.215.
22)その後Diderotは8月21日に, Vincennes城内での行動に関しては「国王陛下の ご命令とご意志」を遵守する旨の「誓約書」に署名した後,小塔の独房から解放さ れ,城内にある城塞司令官邸内軟禁の状態に移される。かくして執筆や訪問客との 面会も許可されることになる。
ところで,彼は逮捕される1年以上前から,d Alembertと共にE几cッc♂op6頃θ の編集責任者を引き受ける契約を,出版業者Le Breton, Briasson, David,
Durandとの間に結んでいた。従って出版者連合側も, Diderotの投獄によって Eπcッcめp翻θ刊行事業が長期間停滞しそうな気配に強い危機感を抱いて,実は彼 の逮捕直後からd ArgensonとBerryerに対しDiderotの釈放を請願していたの
である。
独房から解放されたとはいえ,未だDiderot釈放の見込みが立っていなかったか ら,出版者連合の焦燥はいよいよ募り,彼らは再度d Argenson伯爵に長文の請願 書を送る。Diderot自身もBerryerに宛てて釈放請願書を提出する。こうして漸く 10月21日になって,Diderotの身柄釈放に関する勅命令状に署名が得られ,11月3
日に彼は自由の身となった。逮捕から102日目のことである。
23)Bonnefon, o、ρ. c ご,, p.216.
24)Diderot, Corrθ8poη4αηlcθ1, p.73.
25)就中,上記σoηsθ ♂sδμηθ.4肌 θとLθsCαrαc δrθsには協力した形跡が明白 だと言われる。
26)Venturi, op. c琵., pp.138−141.
27) <Ce d6saveu de L 0ど8εαz4 わ」απc laisse perplexe. Ou il est fond〔≦, et alors c 6tait de la part du philosophe une grande l〔≦9δret6, pour ne pas , △
р奄窒?@plμs, que de denoncer sa maltresse, ou ilざtait mensonger, et dans ce cas quel nom lui donner?Abstenons−nous d un jugement qui risquerait d accabler outre mesure un homme que la r6clusion sem一 ble avoir positivement affo16.》
(Billy, o、ρ.cあ., p.88)
28)<Il est donc possible que Diderot n ait pas menti quand, de sa prison,
il tentait d attribuer L αsθαμ配απc, co麗θわ伽δMme de Puisieux.〉
(Venturi, oP. c記., P.138)
29) Leutrat, oP. c髭。, P.294.
30) 1わごdl., p.297.
31)Mmg de Vandeul, op. c記., p. XL皿.
32)<… it was Diderot who actually wrote L αsθαμわ♂απc, even if Mme de Puisieux provided an outline of the tale.》
(V.Mylne and J. Osborne,<D 4θroガ8 Eαrごッ.F∫c孟 oπ Lθ8 B〃o礁 ル 4 scrε孟s侃4 L αsεα召6Z侃c>,<D 4θro孟S鶴読θs Xハ》,1971, p。157)
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