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教育における自由と統制 一デューイ教育思想の考察を中心として一

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教育における自由と統制

一デューイ教育思想の考察を中心として一

教育学研究室 関       勤

(1970年10月29目受理)

研 究 の 意 図

第一章 教育における自由の概念

第一節 教育における自由の本質一知性の自出

第二節 内面的自由(知性の自由)と外面的自由(行動の自出)

第二章 教育における統制の概念 第一節 教育における統制の本質

第二節 教育における正常な統制条件の形成 第三章 教育における教師の役割

第一節 教育における自由と教師の役割 第二節 教育における統制と教師の役割

研究の意図      暉

教育における自由と統制の悶題は,つねに古くて新らしい問題である。太平洋戦争後の みじかいわが国の教育史をふり返ってみても,その閲題はつねに不安と動揺のなかにあっ た。そして,安定と確信を得た時期はほとんどなかったといっても過言ではないように思

われる。

敗戦直後の動揺期は言うまでもないが,その後,しばらくの期間にわたって,教育にお ける重心は自由の側面にかたむきすぎていた。「自由」・「自発性」等の教育上の原理が 無条件の価値をもつものとして讃美され,その本質や限界や条件についての自覚と反省な しに,教育実践の指針とされてきた感がある。その結果として,責任感の欠除,社会的連 帯の意識の未発達,社会的秩序の無視等の悪徳が青少年をむしばみつつあると反省される にいたっている。

ところが,近年は教育における重心は統制の側面に移りつつあるように思われる。家庭 においては親の権威の,学校においては教師の権威の高揚の必要が強調されるようになっ ている。「おれについてこい」式の指導者による猛訓練や根性養成の猛烈教育が,ほんと

うの教育であるかのごとく喜んで迎えられ,「スパルタ教育」の再現がのぞまれたりして      (1)いる風潮がある。これらのうごきは,訓練や統制を重視するのあまり,ともすると子供の

個性や自発的活動を無視したり,極端な場合には教育上不喝欠の子どもの自由をさえ否定 するような傾向を導くことが憂慮される。

このような戦後の教育界における自由と統制の不調和な状態に対する認識が,この小論

(2)

執筆の理由となっている。しかし,本稿に関する研究のより直接的な動機は,昨(1969)

年に最盛期を迎えた学生運動,なかでも一部学生による学内施設封鎖・授業妨害等に端を 発した大学紛争の体験に求められる。

大学紛争の原因として,学生側に大きな非があるとするものは,「学生は未熟者であり,

しかも学生運動が政治運動化し,暴力学生たちは白分たちの政治的主張を暴力によって実 現しようと考えている。そして革命の手段として利用しやすいのが大学であると考えてい る。」と主張する。また,大学側に大きな責任があるとするものは,「大学紛争の出発点 は教育制度そのものの不合理にあった。処分その他における学生の権利,自主講座その他 におけるカリキュラムの改草,産学協同問題にみられるような大学の企業との結びつき,

など,多くのまじめな問題が学生たちから出され,それらがひとつもまじめに検討されな

(2)

いために,ふだんおとなしい学生たちさえもゲバ棒をとるようになった。一」と反論する。

これらの対立的立場による論争のいずれが正しいかはしばらくおくとして,大学関係者 にとっての重大な問題は,大学という研究・教育の場における学生の自由性・自主性と大 学における秩序の維持の問題をどう考えるかということであると思われる。大学において 学生の自由性を正しく尊重しながら,しかもそこに正常な社会的統制を保持してゆくには どうすればよいかという問題である。これらの点についての理念の確立と実践計画の樹立 がなければ,大学紛争は一応現象面では鎮静されたかのごとくみえても,本質的解決には ならない。この点に関する原則的示唆をえようとするのが本稿の直接的な研究動機であ

る。

勿論,教育における自由と統制の問題は,おおよそ,つぎの二つに区別して考えられよ

う。

第一 文部省や教育委員会等の教育行政上の統制と学校や教師の教育実践上の自由性・

自主性の問題

第二 学校や教帥による児壁・生徒・学生に対する管理上・指導⊥の統制と被教育者側 の白由性・自主性のlllrl題

この二つの問題は密接に関連しており,唇歯輔車の関係にあると思われる。したがって 吋能なかぎり相互関連のなかで考祭することが望ましいであろうが,本稿では第二の問題 に焦点をしぼって論述することにしたい。

        ■

ネ上のような問題意識と研究意図をもって進められようとするこの研究の対象は,教育 哲学者ジヨン・デューイの教育思想である。筆者は彼の著作に長いあいだしたしんできて おり,なによりも彼は,教育における自由とは何か,教育における統制とは何か,を原理 的に究明している。これがデューイの教育思想によって,教育における自由と統制の問題

を考えようとする理由である。

第一章 教育における自由の概念

第一節 教育における自由の本質一一知性の自由

教育においては被教育者の自由を尊重しなければならない,という命題はあまりにも有 名である。しかし,その尊重すぺき自由とは一体何であるのかと問われるとき,自由の概 念はあまりにも曖昧である。あるものは,被教育者を自由にすることは,被教育者を放任

(3)

関:教育における自由と統制      3

することだと解しているようである。他のものは,児童生徒を勝手・気ままにさせること が被教育者に自由を与えることだと解しているようである。この場合には,白出が衝動や 欲求の直接的実行と同…視されている。また,第三者は,被教育者の自由は,放任してお いて自然に育つものではなくて,育てるぺきものと意識している。しかし,その意識は漠 然としたものであって,何を,どのように育てるかについては無定見で不確定である・

更に白由の概念は,それを外的な自由(行動の自由)ととるのか,内的な自由(知性の 自由)ととるのか,ということに関しても混乱している。両方を自由の概念として相関的 にとりあげる場合でも,いずれが本質的な自由であり,その関連のし方はどうであるか,

ということは極めて曖味である。以上のように曖昧でしかも混乱している自由の概念につ いて,これに明確な概念規定をすることの必要は切実である。

知性の自由

デューイは1938年に出版された彼の名著『経験と教育』の第五章「自由の本質」におい て,教育上問題とされる自由の本質についてつぎのごとく述ぺている。「永遠の重要性を もつ唯一の自由は,知性の自由である。いわば内在的に価値ある目的のためにはたらく観 察や判断の自由である。自由についてなされる最も普通の間違いは,自由と行動の自由と

を同一化したり,あるいは,活動の外的な,物的な面と自由とを同一化したりする間違い       (3)

することである,と私は考える。」 その論旨は簡明である。彼が経験を重んずる新教 育運動の展開のなかで強調してきたこと,経験の重視・自主(自発)活動の尊重等の理念 が,要するに教育における自由の理念が,彼の意図に反し,曲解され,教育実践がゆがめ られたことにたいする是正を求める指摘である。教育における自由の本質は知性の自由で ある。しかるに世上におこなわれる教育実践において,自山は行動の自由として受けとら れていることを批判したものである。

自由の本質を知性の自由とするデューイの所説は『経験と教育』をまってはじめてあら われたものではない。1933年の著書『思考の方法』において,彼は「自由は外部からの後 見から独立して行動し,実行する能力である。自由は他人の拘束から解放されて,独立し て精神を行使することが立派にできることを意味し,単に妨害されずに外的活動をなすこ

      (4)

ニを意味しない。」と述ぺている。自由を独立的な精神の行使とすることは,自由を知性 の自由とするのと同趣旨と解して,あやまりがないであろう。

更に自由を知性の自由とするデューイの見解は,『経験と教育』に先だつこと23年蔚に 即ち1916年に出版された彼の教育学上の主著『民主主義と教育』にほぼ完全無欠のかたち で叙述されている。即ち,第二十二章「個人と世界」の要約において,彼は「自由という ことに関して,心に銘記すぺき重要なことは,自由ということが運動(行動)に対する外 部からの無拘束を意味するよりも,むしろ,心的態度(amental attitude)を意味してい

ること,しかも,精神のこの性質は,探険,実験,応用等におけるかなりの行動の余裕が

(5)

なければ発展することができないということ,である。」と表現しており,自由を知性の 自由として把握している彼の教育思想の一貫性を証明しているのである。

知性の自由一一思考の自由

自由の本質は知性の自由であるといわれるとき,いうところの知性の自由とは何である のだろうか。前述の知性の自由について引用されたデューイの叙述のなかに,既にそれは 部分的に説明されている,が,さらに詳細にデ鼻一イの説くところに耳をかたむけてみた

(4)

い。

デューイは前述した『思考の方法』において,「純粋な自由は,要するに知性的な自由 である。純粋な自由は,訓練せられた思考の能力のなかにある。既ち,事物をひっくりか えして,表も裏もしらべる能力に,慎重に問題を考察する能力に,断定に必要な実証の量

と種類が手もとあるかどうかを判断する能力に,もし,それらが手もとにないとしたら,

かかる実証を,どこで,いかにして見つけうるかを告知しうる能力に,本当の自由があ

(6)

る。」と論じて,知性の自由が,思考の自由と同義であることを論証している。

知性の自由を思考の自由と同義とするデューイの思想は,更にさかのぼって,前述した

『民主主義と教育』のなかに,次のような叙述として表現されている。「自由は本質的に は学習における(個人的な)思考の演ずる役割を意味する。既ち,自由は知的な創意,独       (7)

ァの観察,賢明な発明,結果の先見および結果にたいする適合の巧妙さなどを意味する。」

知性の自由一思考の自由  欲求の既時的実行の延期…一自制(自己統制)

デューイは自由の本質を知性の自由,既ち,思考の自由と解しているが,その思考の自 由は自制(の自由)と必然的に結合せざるをえないもののようである。デューイによれば

自然的衝動や欲求は,どのような場合にも,人問の行動の出発点となる。しかし,衝動や 欲求の最初にあらわれたかたちにたいして,何ほどかの再構成・改造がないならば,人間 にとって知的な成長はないのである。この改造は,最初の状態における衝動の制止をふく む。外面から課せられた制止にとってかわるものは,個人自身の反省と判断による制止で ある。思考すること,考えることは,その衝動が行動の他の可能的傾向と結びつけられ,

その結果,活動の一層包括的な,また首尾一貫した計画が形成されるにいたるまで,その 衝動の直接的具現の停止である。考えることは,直接的行動の延期なのた。したがって,

考えることは,観察と記憶の結合による衝動の内的統制を結果する.この結合が反省の心 髄であり,以Lのことがらが, 自制ノということの意味である。

ここに述べられた衝動の停止・欲求の即時的実行の延期と,思考や反省の発生との関係 は,つぎのようにも論じられている。「衝動的傾向の直接・即刻の放出あるいは表現は,

思考にとって致命的である。衝動がある程度まで阻止せられ,衝動それ自身の1二に投げ返       (8)

ウれるとき,はじめて反省が自然の結果としておこる。」と。

以一Lのように,知性の自由…・思考の自由一一一欲求の即時的実行の延期一…自制,とい う論理的連鎖は,デューイによって,1日的を組みたて,そして,そのように組みたてた rl的を実行し,あるいは,なしとげる力と白由とを同一化するのは健全な本能である。か ような自由は,順次,自己統制と同一化される。なぜなら,目的の形成と,その目的を実

(9)

行する手段の構成とは,知性の作用だからである。」という簡潔なかたちによっても説明 されている。

デューイは,「奴隷とは他人の目的を実行するものである。」とのプラトンの定義にな らって,自からも「自分自身の盲目的欲求によって,とりこにされている人も,また奴隷 である。」と言っている。

自制の教育上の重要性

したがって,デューイは衝動の制止・欲求の即時的実行の延期・自己統制(思考)の問 題を,教育上のきわめて重要なことがらとして,自己統制力を被教育者のうちに創造する

ζとの必要を強調している。「教育の理想的な目的は,自己統制力の創造である。しかし

(5)

関:教育における自由と統制      5       ρ

(1⑪)

外面的統制の単なる除去は,自己一一統制の産出にたいする保証にならない。」と一述ぺる ことにおいて,彼は白己統制の力の創造をもって,教育の理想的な目的にまで高めている のである。

さらにすすんで,デューイは言う。「決定的な教育問題は,観察と判断があいだに入っ てくるまで,欲求の即時的実行を延期することを成り立たせるという問題である。………

知的活動に重点をおくかわりに,目的としての活動(activity as an end)に重点をおきす

(11)

ぎると,自由を衝動や欲求の直接的実行と同一視することになる。」と。

以上のデューイの所説は,知性によって再構成・改造せられない衝動や欲求は,偶然の 事情によって左右されやすいことにたいする不安にもとついている。また,他人の統制か ら脱れられても,直接のむら気やうつり気によって統制された行動,つまり衝動に支配さ れてその形成に知的な判断が入らない行動が,人間に利得を与えないで,むしろ損失を与 えるという認識に基礎をおいている。要するに,そのように行動する人間は,自分でどう

ともすることのできない力に指導され,支配されている人間であって,真の意味の自由を 得ていない人間である。自由な人間とは,行動における自由人であり,それは思考におけ

る自由人であることを前提とし,いわゆる知性における自由人であることを前提とする・

「彼は思考作用こそ自由への道であることを認め,さらに,この道は群衆がスローガンを

(12)

さけびながら通る道ではなく,個人が通る道でなければならないことを認めていた。」の である。したがって,自己統制の力の創造は,教育上,いかに強調されても,強調されす ぎるということはないのである。

第二節 内面的自由(知性の自由)と外面的自由(行動の自由)

これまで,デューイにおいて,教育における自由の本質は知性の自由としてとらえられ ており,それが教育上尊重されねばならぬことが明らかにされてきた・つぎに,被がその 知性の自由(内面的自由)と行動の自由(外面的自由)との関係をいかに把握していたか を考察することにする。すでに彼は,「自由と行動の自由とを同一化したり,活動の外的 な,身体的な面(の自由)と自由とを同一化したりすることは,自由についてなされる最 も普通の間違いである」,と説くことにおいて,自由が単に行動の自由や活動の身体的な 面の自由としてのみ解釈されることの誤りを指摘している・

両者は分離できない

内面的自由と外面的自由との関係についてのデューイの認識は,まず・「この外的な,

そして,身体的な活動の面を,活動の内的な面から,即ち,思想や欲求や目的における自

(13)

由から,分難することはできない。」ということに基礎をおいて成立している。このこと は,知性(思考)と行動(運動)との統…・,あるいは連続の思想として把握されるところ である。

デューイにおいては,「思考をひとつの生命的活動あるいは生きた生活の過程であると 見る故にこそ,思考は生活と経験と不離不即に結合しておるのであり,生活や経験が人間

の問題的状況における問題解決の過程,即ち探究の過程である以上,思考はまた問題解決      (14)

の過程一一探究の過程と不離不即に結合しておるもの」なのである・また,デューイにお ける鵬論の額は「思考と行動との結合の理論として撒られる・辞は現代諸科学の 論理に支えられた精神的活動と肉体的活動との連続の理論を基礎とする・」ところに存し

(6)

ている。

さらにまた,デューイの教育思想のよってたつプラグマティズムの認識の方法の理論の 根本的特徴は「環境を故意に(有目的的に)変客する活動と認識との連続(性)を主張す

      (工6)

驍ニころにある。」のであり,デューイの連続観の基盤には「生命活動における連続的性 質に関する洞察が横たわっているのであり,より具体的には,有機体と環境との連続観が

(17)

また,生命活動と探究との連続観が横たわっている」ことが確認されている。

したがって,デューイにおいては,知性(思考)と運動(行動)とが統…的に,連続的 に把握されているのであり,そこから帰結されて,内面的自由(知性の自由)と外面的自 由(行動の自由)とは連続しており,分離できないものとされるのである。

外面的な行動の自由は手段であり,目的ではない

これまでの論究によって,デューイの教育思想においては,内面的自由と外面的自由と は連続しており,分離できないものとして,把握されていることが判明した。しかし,さ らにつきすすんで考えるとき,連続していて分離できないとされる両者の立体的・構造的 関係はどのようなものとしてとらえられているのであろうか。それが重要な問題である。

これにたいしてデューイは結論的には「外面的な行動における白由の増大は,手段であっ

(18)

てEl的ではない。」と述ぺている。彼によれば,外面的な行動の自由が達成されても,教 育上の問題は解決されない。教育に関するかぎり,この附加的な自由(this added liberty)

即ち,手段的な自由としての外面的な行動の自由が,どのようにとりあつかわれるのか,

それがどんな日的にたいして役立つのか,それからどんな結果が出るのか,が問題なので

ある。

内面的自由(知ll生の自由)一一一一一目的 外面的自由(行動の自由)  一手段

デューイにおいては,内面的自由(知性の自由)と外面的自由(行動の自由)とは単な る並立関係を有するものではない。また,両者は,時間を異にして全く別個にあらわれる 相互孤立的なものでもない。外面的自由(行動の自由)は手段である。それでは目的は何 であるか。デューイは言う。「外面的行動の自由は,判断の自由や慎重に選択された目的

(19)

を実行にうつす自由の手段である。」

ここにデューイが言うところの「判断の自由や慎重に選択された目的を実行にうっす自 由」とは,思・考の白由にほかならない。また,それは知性の自由にほかならない。したが って,外面的行動の白由は内面的知性の自由の手段であり,内面的知性の自由が目的とさ れる自由である,ということになる。

このように,内面的知性の自由を目的とし,外面的行動の白由を手段として区別するデ ユーイは,外面的行動の自由を目的そのものとしてとりあつかうことよりも大きい誤りは ありえないと,いましめている。そのあやまりは,秩序の正常な源泉である分担的な協同 活動を破壊するような傾向をもつのである。また,外面的行動の自由を目的そのものとし てとりあつかうあやまりは,本来,積極的である自由を,行動の自由として,制限からの 解放の自由として,つまり消極的な自由へ転化させてしまうのである。自由についての認 識とそのとりあつかいにおいて,これ以上のあやまりは存在しない。

o   ●   ●   ●   o

「制限からの解放としての自由は,つまり消極的な自由は,能力の自由への手段として のみ讃美されるぺきものである.その能力とは?・目的を組みたてる能力・賢明に判断す

(7)

関:教育における自由と統制       7

る能力・欲求にもとずいて行動することから生ずるところの結果によって欲求毬評価する 能力・選ばれた目的を実行にうつす手段を選択し,そして秩序づける能力である。」(・

印は筆者)とするデューイにとって,新教育運動の実践によって,自由の真義が本末顛倒 してとらえられ,外面的行動の自由があたかも真の自由そのもののごとくとりあつかわれ 教師は放任をもって自由教育と誤解し,子どもらは放縦のままにすておかれ,むら気・う つり気の奴隷とさえなっている状態は,たえがたかったに相違ない・これが目的としての

自由と,手段としての自由とを明確に区分し,両者を正しく位置づけして,教育実践のあ やまりをただそうとするデューイの意欲をかきたてたものと考えることができる・

外面的行動の自由も重要である

以上のように述べたことが,教育において外面的行動の自由は価値がないのだ,という ように印象づけたとすれば,それは,あやまりである。デューイは手段としての外面的行 動の自由の価値を高く認めていた。彼は「きちんとならべられた机の列があり,あるきま った合図によってだけ動くことを許される生徒たちの軍隊式管理の行なわれる,典型的な 伝統的学校の教室における,固定した配置によって外面的な行動上に加えられた制限は・

(21ノ

知的および道徳的自由に大きな制限を加えた。」ということによって,外面的行動の自由 の制限を批判し,その重要性を認めている。

さらにデューイは,外面的な行動の自由の尊重のなかに潜在的に存在するものとしての 二つの利点について,次のように述ぺている。

第一点・それがなければ,教師にとって,彼のとりあつかう佃々の生徒についての知識 をうることは実際上不場能である。強制された静粛や黙従は,生徒たちに彼等の真の 性質をあらわすことをやめさせる。

第二点・増大する外面的自由の他の重要な利点は,学習過程の本質そのもののなかにあ る。年少者にたいしても「静かな反省のための短かいあいまの時間」が与えられるぺ きである。しかし,それは,一層明白な行動の時間の後に与えられる場合,また,頭 脳のみでなく,手やその他の身体の部分が用いられる活動の時間中に獲得されたもの

を,組みたてるために与えられる場合,にのみ純正な反省の期間となるのである・

デューイは外面的行動の自由の教育上の価値を十分に認めていたのであるが,ただ,そ れが目的化されてしまうことに反対したのである。外面的行動の自由が,内面的知性の自 由の手段としての位置から切りはなされて,ひとりあるきをし,それ自体が独立の価値を

もつもののように認識され,とりあつかわれることに反対したのである・

第二章 教育における統制の概念

第一節 教育における統制の本質

デューイは自出を,とくに知性の自由を教育上尊重すぺきことを強調したが,それは無 条件のものとしてではなかった。彼は『民主主義と教育』において「子どもの自由という

ことと,社会的指導がなくてもよいということとを同一視したり,あるいは単に肉体的に 子どもの運動を拘束しないことと同一視したりする傾向」の誤りを指摘し,さらに「自由 が要求される本質は,個人として集団の利益のために彼自身の独特の貢献をなさしめる,

また,社会的指導が単に個入の行為にたいする強制的命令となるのではなくて,個人自身

(8)

の心的態度の内容とならしめるようなやり方で,佃人を社会的活動に参加せしめるところ

@       (22)

の条件が必要だということにある」と述べて,子どもの自由と社会的指導との関係,さら に子どもの自由と社会的活動への参加の関係を明らかにしている。

ところで,デューイは彼の教育学の諸著作中,もっともまとまったかたちで教育におけ る統制の問題を論じた『経験と教育』第四章「社会的統制」において,普通の善良なる市 民は,事実として多くの社会的統制に服しているにもかかわらず,この統制の大部分が個 人的自由の制限をふくむものとしては考えられていないことを何人も否定しない事実だと して,日常生活の中に作用している社会的統制の実例としてあげている。

さらに,デューイは,子どもが休憩時間や放課後にする野球や蹴球等の競技と規則との 関係をつぎのように論じている。競技は規則をもっている。その規則は子供の行動を秩序 づける。競技は偶然的に進行するものではなく,また即興の連続によって進行するもので もない。規則がなければ競技はない。論争がおこれば,訴えべき審判官がおり,あるいは 討議なり,仲裁者による裁決が判決の手段となる。そうでなければ,競技は解散され,終

りになる。

社会的統制の本質一一全体的状況による統制

そこで,デューイはこのような状況には,かなり明白な統制的特色があるとして,これ

(23)

をつぎの三点に要約している。

第一規則は競技の一部分である。規則は競技の外にあるのではない。規則がなければ 競技もない。異なった規則があれば,異なった競技がある。合理的な順調さで競技が 進行しているかぎり,競技者は外部からの統制に服しているとは感じないで,競技を

していることを感じる。

第二 個人は,ときに判決が公正でないと感じ,そして怒ることがある。しかし,彼が 反抗するのは,規則にたいしてではなくて,へんばな,不公正な行動にたいしてであ

る。

第三 規則は,したがって,競技も,かなり標準化される。そこには,就くべき位置や なされるぺき動きについてと同様,除名に関し,組の選択に関し,承認された仕方が ある。これらの規則は,伝統や先例の是認するところである。

●   ●   ●   ●   ●

以上のような事例の特色をとおしてデューイが抽出しようとする一般的結論は「個人的 行動の統制は,全体的な状況一そのなかに彼がふくまれ,そのなかに彼が分担をもち,

そこに彼が協同的あるいは相互的役割をもっているところの全体的な状況一によって行

(24)

なわれる。」ということである。この一般的結論は,また,「自由を侵害することなく個

● ■ ・ ・ ●(25)

人にたいして社会的統制が行なわれるという一般的原理」ともデューイによって呼ばれて

いる。

これらのものが一般的原理とよばれる理由は,つぎのように補足的に説明されよう。競 争的な競技の場合でさえ,そこには,共通の経験へのある種の参加があり,役割の分担が ある。ある役割をはたしている人は,ある個入によって指揮されるとか,また,他の外部 の上位の者の意志に服従させられているとかという感じをもたない。

また,集団のすべての成員が役割をもつところの協同的活動の実例として,相互に信頼 があり,よく秩序づけられた家族生活が例えられる場合,秩序を建設するところのものは ある一人のものの意志や欲求ではなく,集団全体のなかに生きてはたらく椿神である。統

(9)

関:教育における自由と統制      g 制は社会的なものである。しかも,個人は社会の部分であって,それのぞとのものではな

い。

ここにデューイによって,社会的統制の一般的原理と呼ばれたものこそ,また同じよう に,デューイにおいて,教育における統制の本質として提えられているものである。『民 主主義と教育』第三章「指導としての教育」において,それは「根本的な統制は年少者が 参加しているその状況の性質のなかに(in the nature of situation)ある。社会的状況の

なかで,年少者は自分がどう行為するかについて,他人がどう行為しているかを参照し・

そして,自分の行為を他人の行為に適合したものとせねばならない。このことが,彼等の 行為を共通の結果へと方向づけをし,そして,その共働者に共通の理解を与えるのだ。す ぺてのものがそれぞれ異なる行為をなしつつあるときでさえ,同じことが意味されてい

る。行為の手段と目的についてのこの共通の理解こそ,社会的統制の本質である。それは 間接の,あるいは,情緒的・知性的のもので,直接の,あるいは,個入的のものではな

」響」と理解しやすい叙述で説明されている。

同じことは,また,「われわれがなそうとしていることを,そのなかで他人が行動しつ つある同じ状況へひき合わせようと,われわれが努力するから,われわれの行動は社会的

(27)

に統制されるのだ。」とも,かんたんに述べられている・

これまでに述べられたデューイの社会的統制の本質,あるいは教育における統制の本質 に,ついて,田浦武雄氏はその著作「デューイ研究」においてつぎのように述べている・

「次にデューイがコントロールという場合,内的統制(internal contro1)を重視した点も 注意されるべきである。こどもの衝動や習慣は,おとなのそれと矛盾することがあるため

に強制の対象となることがある。しかし,真の統制は,年少者が共同的に仕事をしようと する興味を指導して・共働者に共通の理解を与え,同じ目的のために働くようにさせ乞あ このように行為の手段や目的について共通の理解をもつことが,社会統制の真髄である。」

これは前述したデューイの所論を忠実にうけとり,これに内的統制という名称を付して,

その重要性を指摘したというべきであろう。

正常な社会的統制の源泉  社会的・共同的活動

以上の論究をとおして,デューイにおける社会的統制の本質,即ち,教育における統制 の本質は,ほぼ明らかにせられてきた。ところで,正常な社会的統制の源泉,統制力の権 威の所在はどこに求められるのであろうか。それは,前述されたデューイの所論中にふく

まれているというべきである。が,その点については,デューイによって直戯に,「新学 校と呼ばれるものにおいては,社会的統制の根本的源泉は,そのなかですぺての個人が貢

献の機会をもち,それにたいしてみなが責任を感ずるような社会的仕事として行なわれる       ¢9)

ニころの作業の性質そのもののなかに存在する。」といわれている。これは簡単に,完全 な意味で行なわれる社会的・共同的活動に正常な社会的統制の源泉があるのだ,と言い直 すことが許されるように思われる。

デューイが「もし,各人が他人の為しつつあることに関連して,一つの役割をもつもの として自分の行為の結果を考慮し,そして,自身みずから自己の行動の結果を考慮するな らば,そのときには,共通の精神  即ち,行動における共通の意図,がある。そこには それぞれ異なる貢献者の問に設定された一つの理解がある。そして,この共通の理解が各

(30)

人の行為を統制するのだ。」と言ったり,「各人が他人の為しつつあることに気付いてお

(10)

り,そして,他入の行動に興味を有し,そして,それによって他入の行為と関連するもの として彼が自分みずから為しつつあることに関心をもつ,ということを考えてみよ。その とき各訟の行動は知性的なものである。しかも,社会的に知性的であり,指導された行動 である。」と述ぺたりしたことは,共通の理解が各人の行動を統制するということや,他 人の行為の意味と自分じしんの行為の意味との関連に注目することが各人の行動を統制す

るという趣旨を明らかにしたものである。

それは明らかに社会的統制の本質を,教育における統制の本質を,某体的に解明したも のであるが,それは同時に,また,正常な社会的統制の源泉が,社会的・共同的活動にあ ることをも解明している。正常な統制力の権威の所在が,社会的・共同的活動にあること を解明している。この場合の,祉会的・共同的活動とは何かと問われるならば,それは,

既に述べられたところに答えられているのたが,ぷたたび,それは「行為の目的と手段に ついて共通の理解ある分担的な社会的活動である。」と答えざるをえない。

デューイによれは・遺憾ながら,「伝統的学校は,共同の活動における参加によって,

一一・

盾ノ結びついた集団あるいは社会ではなかった。その結果「正常な,正当な統制1の条       (32)

件を欠如していた。」 秩序は,行なわれる分担作業のなかにあるのではなく,教師の管 理のなかにあったのである。

第二節 教育における正常な統制条件の形成       

デューイにおける祉会的統制の本質,および正常な社会的統制の源泉を明らかにしてき たわれわれは・学校等の教育の行なわれる場を,いかにして正常な統制の行なわれるとこ うたらしめるかの問題にすすまねばならない。答えは教育の場として「すぺての個人が頁 献の機会をもち,それにたいしてみなが責任を感ずるような祉会的仕事として行なわれる ところの作業」が遂行される易たらしめるところにある。それは結局,学校をして社会ら しい社会,民主的社会たらしめることにほかならないと考えられる。

教育の場の社会化

ここで,われわれは,デューイが社会をいかに概念していたか,あらためて問わねばな らない・デューイは『民主主義と教育』第一章「生活の必要としての教育一」において「人 々は彼等が共通にもつところのもののおかげで一つの社会のなかに生きる。そしてコミュ

●   ●

ニケィションは彼等がものを共通に所有するようになるための方法である。彼等が社会を 形成するために共通にもたねばならぬものは,目的,信仰,憧憬,知識,即ち,共通の理 解,社会学者の言うところの同心である。一 個人個人がすぺての共通の目的のためには たらいているからと言って,社会集団を構成するとは言えない。機械の部分品は最高度の 協同をし,共通の結果のためにはたらいても社会を形成しない。しかし,個人個人が,す ぺて共通の目的を認識しており,そして彼等がその目的を考慮して彼等のそれぞれの活動 を鯨けるように・その目的にすぺてが関心をもつならば・そのとき・彼等は社会を形成 する」と述べ,社会とは何か,社会の形成とは何かを明らかにしている。

デューイによれは,社会とは,集団内の人々が共通の目的を認識し,その目的を考慮し       1

ト・各自がそれぞれの活動を統制する場合に形成されるものである。教育の場をして,礼 会らしい社会にするとは,教育の場をして,人々が共通の〕的を認識し,その日的を考慮

して各自がそれぞれの活動を統制する場,たらしめることである。

(11)

関:教育における自由と統制      11

教育の場の民主的社会化

また,デューイは,同じ『民主主義と教育』の第七章「教育における民主的構想」にお いて,社会生活の価値を測定するための二つの尺度,二つの標準を抽出している・

第一 構成員に意識的に分有されている関心が,いかに多数であり,多様であるか       (34)

第二 他の社会との相互作用がどれほど完全であり,また自由であるか

第一の標準は・社会集団内の人々の間の,コミュニケイションの程度の問題であり,共 通に所有されている関心の濃度と広狭の問題であろう。第二の標準は一社会集団と他の社 会集団との問のコミュニケイションの程度の問題であり,共通に所有されている関心の濃 度と広狭の問題であろう。

デューイはこのように二つの標準を示したあとで,社会の価値を測定するための,この 二つの標準における要素は,民主主義を指示しているのだとして,次のように述べてい

る。

「第一の要素は,分有された共通の関心が多数多様であるということのみならず,社会 的統制をするための要素として,相互的関心の承認ということに大きく信頼していること を意味している。第二の要素は,社会諸集団間のより自由なる相互作用を意味するのみな らず,社会的習慣における変化一一多様なる交際によって生み出された新らしい状況に適

合することによる社会集団の連続的な適応…一をも意味するのである・しかも・これら二       (35)

つの特徴は,正確に,民主的に構成された社会を特徴づけるものである。」

これら二つの標準に照らして,教育の場を改革する場合,民主的社会としての教育の場

(学校)が成立することが期待される。そこでは,何よりも,被教育者相互,教育者と被 教育者相互,教育者相互の間に,分有された共通の関心が多種多様で,とりわけ,行為の

目的と手段についての共通の理解があり,相互的関心の承認ということが社会的統制をす るための要素として大きく信頼され,しかも外部の社会にたいしても開かれている,こと が要請される。これが教育の場の民主的社会化であり,教育における正常な統制が行なわ れるための根本的条件であるといわなければならない。

第三章 教育における教師の役割

第一節 教育における自由と教師の役割、

デューイによって,永遠の重要性をもつ白由は知性の自由であり,それは思考の自由で あり,自制の能力であるとされるとき,教師の役割はいかに考えられるであろうか。内的 自由(知性の自由)が目的であって,外的自由(行動の自由)が手段であると位置づけさ れるとき,教師の役割はいかに考えられるであろうか。

答えは簡明である。デューイは「成人による指導やガイダンス(direction and guidance)

(36)

のあらゆる形態が個人的自由の侵害であるかのごとく処置」されるのは誤りであると言 う。何故なら,「ガイダンス(guidance)は外部からの賦課σmpositim)ではない。ガイ

(37)

ダンスは生活過程を,それ自身のもっとも適切な実現のために解放することである。」か らである。彼は「子どもを外部から強制することと,子どもを全く放任することについて

(38)

どちらか一方だけをとるぺきではない(つまり別の工夫がある)。−iとも述ぺている。

デューイは,いかに被教育者の自由が尊重せられたところで,その自山が知性の自由を

(12)

第一義的に意味するかぎり,「成熟者の知識や技術が未熟者の経験にたいして指導的な価      (39)

値をもたないということにはならない。」と教育上の当然の論理を明らかにしている。個 人の経験に基礎をおく教育は,旧教育以上に成熟者と未熟者との間の,より多様iな,より 密接な接触を意味する。それは一層多くの他人による指導を必要とする。問題は,これら の接触や指導が,個人的経験による学習の原理を侵害することなしに,いかにして確立さ れるかにある。

教師の役割について,デューイは「教師の任務は,その誘因(児童の欲求や衝動)が利 用されるのを見守ることにある。自由は,それによって目的が発達させられる知性的な観 察や判断の作用のなかにあるので,生徒の知性のはたらきのために教師によって与えられ

(40)

る指導は,自由の制限ではなくて,自由にたいする援助である。」と説くことによって,

その意、味とあるべき姿とを明らかにしてレ・る。

デューイは,人間の自由が根本的に知性の自由にあることを認め,しかもそれは思考の 自由と同義であるとしたうえで,その思考は幼少期より訓練する必要があるとする。「思 考は,適当の時期に不可避的に開花するところの特別の独立した自然的傾向であると考え

ることには根拠がない。感覚器官や筋肉を使用する際,観察や動作の指導と適用のために

(41)

絶えず思考が用いられるときにのみ,次のより高いタイプの思考への道が準備せられる。」

と言ったり,「子ども時代の経験内において既に能動的である思考的要素を善用すること によってのみ,青年期あるいはその後の時代におけるすぐれた反省的能力の出現の前提あ るいは保証が与えられる。一細心周到,徹底,継続等の諸特性(それはすでに考察した ように論理的ということの要素でもある特性だが)を完成する唯一の方法は,これらの特 性を子どものときから,訓練することによってであり,これらの特性の訓練を要求する諸

く42)

条件に注意を払うことによってである。」と述べたりしているのは,まさに思考の訓練の 必要を訴えたものである。

この思考の訓練の責任こそ,教師が負わねばならぬとするデューイは,思考の要素であ る知識を正しく子どもに与える責任を教師に課するのである。「教育者は,個人の知識に たいし責任を有し,また,個人を社会的組織一一そのなかでは,すべての個人が何かしら 貢献をする機会をもち,そして,すぺての個人が参加する活動が統制(力)の主要な保有 者であるような,そういう社会的組織一に役にたたしめるように選ばれるべき活動を可        (43)

¥ならしめるための教科の知識にたいして,責任を有する。」と主張するデューイは,子 どもに自由を,知性の自由を,思考の自由を与えるために,教師が子どもに正しい知識を 正しい教科の知識を与えることの責任を明確にしたのである。

第二節 教育における統制と教師の役割

われわれは,すでに,デューイにおいて,教育における統制の本質が社会的統制の本質 と同義のものとして捉えられ,それが「個入的行動の統制は,全体的な状況一そのなか に彼がふくまれ,そのなかに彼が分担をもち,そこに彼が協同的あるいは相互的役割をも

っているところの全体的な状況一によって行なわれる。」という一般的結論として示さ れていることを明らかにした。それはまた,「自由を侵害することなく個人にたいして社 会的統制が行なわれるという一般的原理」とも呼ばれることを知った。

さらにまた,われわれは,デューイにおいて,社会的統制の根本的源泉(社会的統制力

(13)

関:教育における自由と統制      13

の権威の所在)が「そのなかですぺての個人が貢献の機会をもち,それにたいしてみなが 責任を感ずるような社会的仕事として行なわれるところの作業の性質そのもののなかに存 在する。)と言わ乳ていることを明らかにした。簡単に言って,社会的統制の根本的源泉 は社会的・共同的活動のなかにあることが明らかにされた。

このとき,教育における統制のための教師の役割はいかに考えられるであろうか・

集団活動の指導者としての教師

デューイは,教師をして,被教育者と協力して学校という社会を構成するもの,そして

       ●   ●

サの集団活動を指導するものたらしめている。「教師をそうした社会集団のメンバーのぞ とに除外することは不合理である。一教師を,その属する社会の活動の方向に関して積 極的な指導的な分担をもつことから除外するという傾向は,一つの極端から,他の極端へ と走る_つの実例である(P4)」と批判するデゴイシま,すすんで「(学校という)社会集団 の最も成熟し誠員として,教師はその集団の共同社会としての生活そのもの鴨力}なら ないところの相互作用や相互交渉という行動にたいする特別の責任をもつのである・」と 教師の役割を強調するのである。

デューイによれば,生徒が一つの社会的集団であるというよりは,むしろ一つの学級で あった旧教育の場合と異なり,教育が経験に基礎をおき,そして,教育的経験が社会的過 程と見られる新教育においては,「教師は外部的な支配者あるいは指導者としての立場を

(46)

うしなって,集団活動の指導者としての立場をとる。」ことになるのである・

このような集団活動に被教育者がまた重要な参加者となることは言うまでもない・例え ば「教醐的は,鮪せられる個々の児童の本性に属欝緻と要求(生得的本能膿得

ウれた習慣をふくむ)に基づいて設定されねばならない。」という根本的認識をもつデュ

_イは,「学習過程において,彼(生徒)の活動を指導するところの目的の形成に,学習

s参加することの鞍性を鰯するこ(翫は進歩的鮪の哲学にお・・て澱も羅

な要点であると考えると述べている。これは学習活動という集団活動にたいする学習者

(生徒)の積極的参加を認むぺきことを説いたものである。

教師は,教師と被教育者とが協力して参加する学習という集団活動に,指導者として参 加するものである。これが教育における統制と関連した教師のもっとも重要な役割であ

る。

(1970・10・26)

(1)これらの傾向を示すものとしては,つぎのものが代表的なものとして指摘されよう。大松博 文:おれについてこい,昭和38年。石厚慎太郎: ヌ・パルタ教育,昭和44年。

(2)佐藤忠男: 「文相坂田道太の思想」(朝日新聞・昭和45年4月7日)

(3)J.D・w・y・E・p・・i・n・e a・d Ed…ti・n・Th・M・・millan C・mp・・y・1938・P・69・

(4)J.Dewey:How We Think(1910)1933(revised ed・)P・87・

(5)J.D・w・y・D・m…cy and Ed・・ati・n・Th・Macmil1・・C・mp・ny・1916・P・357・

(6)」.Dewey:How We Think.(1910)1933(revised ed.)p.90.

(7)J.D・w・y・D・m…a・y・・d Ed・cati…Th・Macmill・・C・mp・ny,1916・P・352,

⊆8)J・D・w・γ・H・wWe T再・ik・(1910>1933く「evised ed・)P・37,

(14)

(9) J・Dewey:Experiellce alld Educatiol1. The Macmillll Company,1938. P.77.

(10)  Ibid., p.75.

      し i11)  Ibid., p.81.

(12) 日本デューイ学会編:ジョン・デューイ  その人と思想  ・1959.P,22.

(13) J.Dewey:Experience alld Education. The Macmillan Company,1938. p.69.

(14)拙稿「デューイの反省的思考の本質」茨城大学教育学部紀要 第13号,1963.

(15) 〃 「デューイにおける思考論の特質」    〃     第18号,1968.

(16) 〃 「デューイ教育思想における連続の概念」 〃    第19号,1969.

(17)同  上

(18) J・Dewey:Experience and Education. The Macm川an Company,1938. P,70,

(19)  Ibid., p,73,

(20)  Ibid,p.74,

(21)  Ibid., pp. 69−70.

(22)J.Dewey:Democracy and Education. The Macmillan Company,1916. p.352.

(23) J・Dewey:Experience alld Education, The Macmillan Company,1938。 P.56.

(24)  Ibid., P.57.

(25)  Ibid., pp.57−58.

(26) J・Dewey:Democracy and Education. The Macmillan Company,1916. P.47.

(27)  Ibid., p.39.

(28) 田浦武雄: デューイ研・究,1968.P.289.

(29)J・Dewey:Experience and E」ucation. The Macmillan Company,1938. P.61.

(30) J.Dewey:Democracy and Education. The Macmi11an Compally,1916. p,37,

(31)  Ibid., p.37.

(32) J.Dewey:Experience and Education. The Macmillan Company,1938. PP.60−61.

(33)J・Dewey:Democracy and Education. The Macmi11an Company,1916. P.5.

(34)  Ibid., p. 96.

(35)  Ibid., p.100,

(36) J・Dewey:Experiellce and Education. The Macmillan Company,1938. P.10.

(37)J・D・w・y・Th・Child・nd Th・C・rrid・1・m・(1902)P・ユ7・

(38)  Ibid., p.17.

(39)J・Dewey:Experience alld Education, The Macmillan Company,ユ983. P.8.

(40)  Ibid., p.84.

(41)J・Dewey:How We Think.(⊥910)1933(revised ed.)P.88.

(42)  Ibid., p.89.

(43)J・Dewey:Experience an〔l Educatio11. The Macmillan Company,1938, PP.61−62,

(44)  Ibid., pp,65−66.

(45)  Ibid., pp.65−66,

(46)  Ibid., P。66.

(47) J.Dewey:Democracy and Education. The Macmillan Co mpany,1916. p.126.

(48) J・Deweγ:Experience 3耳d Education・The Macmillan companγ,1938, P.77,

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(15)

.一@..一.一一一.一..一「一一一.〒....

関:教育における自由と統制       15

Abstract

Freedom and Control in Education

一AStudy centering around Dewey s Educational Thought一 Tsutomu Seki

(Faculty of Education, Ibaraki University)

According to J・Dewey s educational thought, the only行eedom that is of enduring importance is fr『edom of intelligence, and it is identified with f士eedom of thinking or power of self:contro1. The internal f士eedom(f士eedom of intelligence)is the purpose, while the outer ffeedom(ffeedom of movemenのis the means.

Moreover, the nature of controhn education ls regarded as the same as the nature

of social contro1, and it is formulated in his thought as the general principal that control

of indvidual actions is effected by the whole sitUation三n w・hich individuals are involved,

in which they share and of which they are co.operat三ve or interacting parts.

@       1

@         一

参照

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