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古田先生の人と業績

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Academic year: 2021

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古田先生の人と業績

北  川  隆  吉

30有3年におよぶ専任教官としての教育活動を  学部社会学科を卒業された。それは太平洋戦争の 古田先生は一まず終られた。      はじまった年の3月であった。この時期の先生に 古田先生の人生の,第三の段階の仕事は正しく  ついて・2,3のことをふれておかなくてはならな 教育であったと思う。その貴重な仕事を,茨城大  い。その一つは・昭和12年日中戦争が本格化し,

学教授定年退官によって一まず終られた先生に何  時代は軍国主義一色にそまりはじめていた。学園 よりも御苦労様でしたと申上げるとともに,多く にもその陰はしのびより,すでに社会科学研究会 の教えをうけた学生諸君,同僚,後輩の方々と同  などの学生の自主的・民主的団体はすぺて圧殺さ じく深い謝意をはじめに申し述べておきたい。   れつつあった。そのなかで先生は・社会学を専攻 これは,私の思い入れにしかすぎないかも知れ  分野としてえらばれたのであるが,それはジャー ないが,古田先生にとっては,大学の教師として  ナリストを志望していたからであった。つまり,

の最大の任務は,人間をつくることであると考え  ペンをもって立とうとした・古田先生の自立精 られていたと思われる。その意味で先生は研究も 神・時代とのかかわりを・そこによみとることが さることながら,教育すること,そのことこそが  できるように思う。次に・しかし先生はじめ少な 自らの天職とさえ考えられていたのであろうと思  くはなかったであろう自由をもとめた社会学の学 われる。ここに,いくつかのエピソードをかかげ  生に対して・世の風はそれほど甘くはなかった。

ることはできるが,それをあえてしなくとも,古  というより・むしろきびしかったといった方が・

田先生を知る人にとっては,おそらく,それが古  よいのかもしれない。そうしたなかで厳格ではあ 田先生の人間としての核心的なものであることを  るが・故戸田貞三教授・林恵海助教授,故牧野異 諒解して下さるであろう。私は,古田先生のこれ  講師などの学生おもいの先生方の薫陶をうけたこ までの生活の歩みを整理しなおすなかで,益々そ  とをふれておく必要がある。牧野先生に中国華僑 の思いをふかめ,確証をえたような気がする。   の研究を指導されたことが、卒業後の務め先きと 古田先生は大正3年2月24日,岐阜県郡上郡美  ふかくかかわっていたとは・古田先生がよく話さ 並村大字上田436(郡上八幡町の隣村)に生まれら  れることであった。そして,単なる懐旧談として れた。灰聞するところによると,旧郡上藩の高級  ではなく,戸田,林両先生について好んでふれら 士族の家庭の子であり,親族,兄弟には,先生同  れるのは・両先生のもっている教育,学生への対 様高等教育をうけ,世に貢献するところ多い方が  応に,古田先生が心ひかれておられたからであろ 輩出しているといわれる。そうした家庭の子とし  う。両先生について,何ほどかは存じあげている て育ったことが,おそらく先生のその後を規定し 私には,時に痛いほど・古田先生の心情が理解で ているのであろう。自らを律するにきびしく,ま  きることが,古田先生との雑談の中にあった。そ た学生にも節度ある行動をもとめられたのは,こ  して第三には,この頃,同窓には,福武直,日高 のためだと思われる。      六郎,清水義弘,加藤正泰などのその後研究者と

その後岐阜県立武義中学校から,旧制高知高等  しての道をすすみ,すぐれた業績をあげられた方 学校文科甲類にすすまれ,そして東京帝国大学文  々がいた。その中にあって,古田先生は,研究者

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茨城大学政経学会雑誌  第42号

のあり方,そのきびしさを,自分とは異なった道  教鞭をとられることになり,爾来学制改革によっ をいく人をして見まもっておちれたと思う。そし  て茨城大学となって,人文学部教官としての仕事 て自らは,先にものべたがジャーナリストを志し  がつづくことになる。やや,失礼にわたる表現か ておられたのである。       も知れないが,古田先生にとって,教師となるこ 古田先生に限って云うのではなく,私は戦争  とは,必らずしも本意ではなかったかも知れな は,個々の人々にあたえた衝撃を,戦後35年をす  い。あるいは,古田先生の謙虚さが,それには適

ぎても,より真剣にとりあげるぺきだと考えてい  していないと思わせていたかもしれない。ジャー る。極端にいえば,運命的な人生の転換に遭遇し  ナリストを志望した先生のおもいの根底にあった た人は,決して少なかったとは思えないからであ  弱者への配慮を,学問研究をとおして実現しよう り,いまその人々が老境に入りつつある今日,そ  とするには,荷がかっていると考えるような自戒

のことはより一層のひずみとなってあらわれてい  が先生のなかにあったような気もする。それだけ       「

ることが多いからである。そうしたことに,社会  に,先生は,教授ぶった行為はつとにつつしまれ 調査の過程でも,私は一再ならず出あっている。  たし,ややかたくなと思われる位さけられた。そ 古田先生の大学卒業後の航路にも,私がそうした  れが,会議ぎらいといった形でも,あらわれてい ことを感じ読みとるのは,あるいは不遜なこと  たようである。けれども,そのことをもって先生 かも知れない。しかし,私にはそう見えるのであ  へのなんらかの批判の矢をむけるのは,私はやや る。      穏当ではないと思っている。そこには,先生の恥

かなり就職事情のわるくなっていた時期である  らいと,自戒と,そして学問への畏敬があって,

昭和16年に,学窓を出たばかりの先生は,華北交  それが,そうした行動をとらせたのだとみてはど 通に入社,・北京本社並びに張家口鉄路局に勤務,  うかと思っている。

農村経済調査にたずさわられるようになった。そ   それだけにといった方がいいと思うりだが,林 れは敗戦の日までつづく。       恵海先生が開いてくれた新しい航路のなかで,先 その仕事がもつ客観的な意味はともかくとし  生はよき教育者としての途を,守ろうと努力され て,じかに中国の人々に接し,新しい知見をひろ  たのである。その間の学問的業績について別掲の げていたこの時期は,たしかに先生にとっての青  とおりであり,ここに論評,解説をくわえるより,

雲の志が,いくらかはみたされた日々であったよ  そのものを一読されることをすすめたいが,正直 うである。けれども,戦争は先生のジャーナリス  にいって,先にそのお名前をかかげた同窓の方 トとしての活躍ののぞみを断ち・また敗戦によっ  にくらぺて,内容的にすぐれているとはいいがた て,脂ののりはじめた仕事をも中断させることに  い。後輩の私が,そうしたことを書くぺきではな なった。内蒙古からの引揚げは,最近発表されは  かろうが,若輩の生意気さと寛恕を得たいのだ しめた記録によって明らかになってきているが,  が,あえてこうしたことを述べるのは,そうした きわめて菅難にみちていたものであった。古田先  側面からだけ,一面的に古田先生をみることはす 生にとっても,それは,社会的にもまた家庭的個  べきでないと考えているからである。昭和30年前 人的問題としても,苦難とよぶ以上のものであっ  後の先生の身辺の御事情,健康の悪化などをのり た。私には,そこに古田先生の人生の一つの屈折  こえられた模様を知っているだけに,それに耐え をみないわけにはいかない。こうして,就学時代  てこられた先生の生活態度のきびしさとともに,

としての第一の段階を,華北交通時代の第二の段  人間にとって真に大切なものはなにをみきわめ,

階から,古田先生は第三の段階に入られることに  それを学生に伝えようとした先生の核心的主張 なる。      が,私にはそこはかとなく伝わってくるからであ

昭和22年4月茨城青年師範の専任講師として,  る。

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北 川:古田先生の人と業績

こうした点を,社会学教室の運営と実態につい  におどろき,羨望したものである。時のなせる幸 てみれば,事情はただちにあきらかである。茨城  運もあったこともあるが,これまでに教室が,成 大学人文学部における社会学教室は,昭和40年頃  長したこのことのなかに,古田先生の人柄とその には,まさにりょうりょうたるものであった。そ  主張は生きているといってよい。

の後佐藤教授(当時助教授)をむかえて以来,今   私には,すでにして社会学教室は安泰であり,

日までに,社会学教室は,隔世の感といってよい  ますますの学問的実績のつみかさねが期待でき 発展をみせた。それは,学部の周辺学科の先生方  る。そして,そのことが何よりも古田先生への感 の御努力や,佐藤守弘教授の力によるものではあ  謝の意を示すことであろう。それをスタッフの方 るが,大所高所から事態をながめて,そのうごき  々は,必らず果されることだと確信している。

を許容してこられた古田先生のあり方におうこと  古田先生について語るに,私がふさわしい人物 を特記しなくてはならない。      だとは露思わないが,多年御じっこんを得たよし 昭和54年秋,第51回日本社会学会大会季員長と  みと後輩の名において,この一文を記す機会をあ して,古田先生の胸には大きなリボンがつけられ  たえられた。妄言は平に御容赦いただきたいが,

ていた。それは,教育者としての先生の学界への  もしこれが,古田先生のお姿の一斑でもしるして 大きな貢献をしめしたものであった。古田先生の  いると教えをうけられた学生諸君や,同僚の方々 もとには,佐藤教授をはじめ,山手茂教授,帯刀  にみとめていただければ,幸いこれにすぎるもの 治助教授,松村直道助教授,川喜多喬助教授,鎌  はない。

田彰仁専任講師,そして教養部守屋孝彦教授,湯   古田先生の御長寿と,第四の段階に入られた人 田勝助教授,村中知子専任講師,教養学部大竹は  生での先生の御活躍を祈念して,この小文の筆を るみ専任講師,児島秀夫専任講師と数多くの社会  おくこととする。 (名古屋大学教授)

学者がスタッフとして居並んでいた。       一昭和55年度集中講義の為来水の折に一 学会大会に参会した他大学の人々は,その陣容

参照

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