日欧食文化の比較研究
著者 山内 昶
雑誌名 大手前女子大学論集
巻 32
ページ 085‑098
発行年 1998‑02‑20
URL http://id.nii.ac.jp/1160/00001590/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
日 欧 食 文 化 の 比 較 研 究
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山内
いささか大袈裟なタイトルをつけたが︑内容はごくささやかなものである︒これまであちこちで話をして割合好評だった講演を活字にし
テ ブル マナユておきたいだけなのだから︒今回は︑食具を中心とした食作法を通して︑日欧食文化の背後に潜むコスモロジーの差異を浮き彫りにしてお
くに留めよう︒なお︑拙著﹃︑食﹂の歴史人類学﹄(人文書院︑一九九四年)と重複する箇所があることを︑あらかじめお断りしておく︒
1テーブル・マナーの日欧文化比較
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日欧の最初の邊遁は︑いうまでもなく天文一二く一五四三)年︑種子島に一隻の中国のジャンクが漂着したときに始まる︒アントニオ・
ガルヴァンの﹃諸国新旧発見記﹄によると︑その船には三人のポルトガル人が乗っていた︒後に薩摩の禅僧︑南浦文之が慶長=(一六〇
六)年に表わした有名な﹃鉄炮記﹄には︑日本の軍事技術を一変させた鉄砲伝来の話だけではなく︑食文化についても重要な事実が記載さ
ここはいれていた︒西南蛮の質胡は﹁その飲むや杯飲して杯せず︑その食するや手食して箸せず﹂と誌されていたからである︒一五七七年に来日し
たロドリーゲスの浩潮な﹃日本教会史﹄によると︑すでにこの頃酒席でも三つ星や五つ星といった細かく厳しい盃の配置についての礼儀作
ほう法が確立していたから︑盃を用いず直接杯飲したり︑手でむしゃむしゃ食べたりする西洋人をみて種子島の人々はびっくりし︑カルチャー・
ショックをうけたにちがいない︒
日欧食文化の比較研究
日欧食文化の比較研究
当時︑西洋では手食が一般的だったことは︑別の資料でも明白である︒ルイス・フロイスといえば三四年間滞日し︑日本文化に精通し︑
多くの著作を書いて日本文化の紹介に大きな功績のあった神父だが︑その著のなかに﹃日欧文化比較﹄(一五八五年)という草稿があった︒
日欧文化の対極性を六=項目にわたって書き誌したもので︑おそらく世界で最初の日欧比較文化論といってもよい︒﹁日本人の食事と飲酒
の仕方について﹂と題された第琉章では︑﹁われらはすべてのものを手で食べる︒日本人は男女とも︑幼児のときから二本の棒で食べる﹂
と︑明記されていた︒日欧食文化の差異は︑まず箸食/手食の対立から始まったわけである︒そこで︑食べ方の文化意味論について考えて
みるとしよう︒
日本の食具
現在の世界人口は約六〇億︑一万年前の人口約五〇〇〜一〇〇〇万人と比べると異様な増加だが︑そのうち手で食べている手食民族は大の
田体四〇%︑手ではなく何か食具を使って食べている非手食民族は大体六〇%に分れる︒さらに非手食民族のうち箸を使う人々とナイフ.フ
ォーク・スプーンの三点セットを使う人々はおよそ半々で︑大体三〇%ずつに分れているらしい︒前者はむろんアジアを︑後者はヨーロッ
パを分布地域の中心としている︒
いうまでもなくしかし︑もともと人類はサルと同じように手で食べていた︒日本でも古墳時代まで手食だったことは︑中国の文献で明白
たかつきかしわである︒﹃魏志倭人伝﹄(二一二八年)では﹁飲食には高杯をもちい︑手で食べる﹂とあり︑﹃階書倭国伝﹄(六〇〇年)には﹁楓の葉をしき︑
かしわでうちのかしわでのつかさひとで手づかみで食べる﹂と記されていたのだから︒膳夫や内膳司という名称‑この︽で︾は︽人手︾の︽手︾と同意‑がここからきた
ことは周知のところだろう︒
その日本に箸が入ってきたのは推古五(六〇七)年︑第一回の遣階史として中国にわたった小野妹子が︑他の文物とともに持ち帰った︑
という伝承がある︒ただし︑これは現在の二本箸で︑それ以前には竹を折り曲げたピンセット状の箸があったらしい︒今でも大嘗祭や伊勢
神宮の神僕にはこちらのほうが添えられている︒もっとも大嘗会の始まりは天武の践詐の時(六七四年)からだから︑時代的には後になる︒
やまたのおろちとりかみが︑﹃古事記﹄の有名な八岐大蛇伝説では︑出雲の鳥髪で川に箸が流れてきたので︑スサノオが上流に人が住んでいるにちがいないと思っ
た︒そして遡っていってクシナダヒメに会った︑という周知の話がある︒この箸の形態はよく判らないけれども︑多分折り箸ではなかった
ろうか︑という一色八郎説がある︒二本箸だとたんなる木切れか木の枝と判別がつかなかったはずだからである︒
いんちゅうそこで中国にちょっと目を転じよう︒股の紺王が象牙の箸を使っていた話は有名だが︑これは大体前一〇〇〇年頃︒だからその頃から両
方の形の箸がすでにあったようだが︑しかし同じ股時代の青銅器に︑食器に盛った飯をはさんで二人が手づかみで食べる図の刻まれたもの
らいがあるーこれが︽饗︾という字の原形とされるから︑一般にはまだ普及していなかったのだろう︒周以後に編纂された﹃礼記﹄に︑
しょくはんちょ﹁黍を飯するに箸を以てするなかれ﹂とあり︑主食は手食︑副食は箸食が礼儀とされていたらしい︒この使い分けを経て︑箸食が下々にまで
普及したのは前漢(前二〇二年)以降のこととされる︒もっとも中国ではスプーンも併用されていて︑この習慣はコリア半島を含めて現在
までも続いている︒日本でも小野妹子が箸をもち帰ったとき︑この風習も伝来したようだが︑なぜかいつからか食膳からスプーンは姿を消
してしまった︒
二西洋の食具
一六世紀中葉︑日本人は箸を使って清潔に食べていたのに︑西洋人は手づかみで食らう南方の野蛮人︑つまり南蛮人だった︒とすれば︑
西洋人が三点セットの食具を使いだしたのは︑いつ頃からだろうか︒
まずスプーンから始めよう︒フランス語でスプーンは2≡9だが︑これは語源的にラテン語のooo三$(カタツムリ)︑ギリシア語のぎ×‑
δω(巻貝)にまで遡る︒ギリシア語で二枚貝は評oひq×Φだから︑この語系の人々は巻貝を最初はスプーンの代りに用いていたらしい︒日本語
さじかひの匙も元は︽かひ︾と読み︑貝の殻を用いたところからきているから︑発想は同じである︒いや︑貝殻をスプーンとして用いることは︑古
来から人類共通の応用法だといってよい︒
ひしゃくしゃもじ一方︑英語のωOo8はギリシア語のω9①昌(襖)を通って︑印欧基語のω9①‑(長く平たい木片)まで遡る︒これも日本の柄杓や杓文字や
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木匙のほか世界各地にみられるから︑人類共通の道具だといってよい︒スプーンにはもう一つ︑植物の硬い実の殻を使用する系統ー日本
の柄杓もひさご︑つまりひょうたんからきているがあるが︑これは語源的にみて西洋にはなかったらしい︒このようにスプーンは何を
用いるにせよ︑太古から人類に普遍的な道具だったから︑西洋の三点セットのなかでもとりたてて論じるほどの特徴はない︒ただ︑日本で
レ ドルは杓子のようにもっぱら料理用具として使われていた︒これに対し西洋では玉杓子が小型化して食卓にも進出してきた︒その理由は︑箸の
綜合的万能性と西洋食具の個別的単能性にあると思われるが︑この問題については後でのべよう︒もう一つ︑貝殻にせよ凹んだ木片にせよ︑
これは暗に女性を象徴していることを指摘しておこう︒昔︑主婦連がお杓文字をもってデモ行進していたのは︑この伝統の流れをi恐ら
くそれと知らずに汲んでいたのである︒
したがって西洋独特の食具といえば︑ナイフとフォークになるので︑まず前者からみてゆこう︒ナイフの由来ははっきりしている︒狩の
獲物を解体する短剣で︑ラテン語のo巳け興(刀)からきたフランス語のoo旨①9⊆は︑テーブル・ナイフから料理用の包丁までを含んでいる
のだから︒古代ローマからルネッサンス頃まで︑西洋の食卓にはナイフだけがおかれ︑大皿に盛った料理を皆で我勝ちに切りとって食べた︒鋤
だからしばしばテーブルの上でナイフ戦争が発生し・鎖惚刊の手袋をはめないで大皿に手を入れるのは危険だといわれたほどである︒時に6
喧嘩からナイフによる殺人事件が起ったし︑宴会が暗殺の修羅場に変ることもあった︒
余りにも危険だったので︑鋭く尖ったナイフの製造を禁止し︑現在のように先を丸くさせたのは︑ルイ一四世の宰相リシュリューだった
(一六六九年)︑といわれている︒それでも一七二九年になっても︑攻撃の意図がないことを示すために﹁ナイフは棒をもつときのように握
ってはならず︑つねに指の間に挾んでもたねばならない﹂と︑フランソワ・ド・ラ・サールは﹃キリスト教徒礼儀作法集﹄で書いているか
ら︑いぜんとして攻撃性が残っていたわけだろう︒早くから食卓でのナイフの使用を止めた中国人が︑﹁ヨーロッパ人は野蛮人である︒彼ら
うべは剣を使って食事をする﹂と酷評したのも宜なるかなといわねばならない︒
さいごにフォークだが︑これも元々は食具ではなかった︒鍋のなかの肉の塊を刺きさして引きあげたり︑燃えさかる薪に遠くから丸太を
追加したり︑丸焼きの鳥獣を突き刺すのに用いた︑肉刺し︑またぐわ︑大熊手︑あるいは現在も農業や畜産で使われている大型のフォーク
のような料理用具で︑﹃旧約・サムエル記﹄やペトロニウスの﹃サチュリコン﹄にもその用法がのっている︒