教師像の転換 を受容す る学校経営の展望
一 実践 記録 『 の ら犬 ,学校 をか える 』 を手 がか りと して‑
安 藤 知 子
Ⅰ . 平成版二十四の瞳 ‑ Ⅰ 小学校の実践記録‑
1 998 年 2 月,「 平成版二十四の瞳 」 とい う詣い文句 を付 した rの ら犬,学校 をかえる』
とい う本が出版 された。野良犬への対応 を通 して,のびのび と育 ってい く子 どもの姿 を 描いた教育実践記録である
。車 に蝶かれてけが を した野良犬 を Ⅰ小学校 の教 師達が獣医 につれてい く 1 996 年 3 月か ら,子犬の里親探 しや保健所 とのや りとり,犬小屋作 り,そ して飼い犬 をな くしたばか りの主婦 との交流 などので きごとにわた り,翌年 3 月 までの 1 年間を綴 る形で まとめ られている。記述の中心 は,教育課程 に位置づ けられる教育活 動以外 の範噂で学校 内で展 開されている 「日常」であ り,その 「日常」が教師 と児童 と の信頼関係 の中で展 開されていることを示す点 にこの記録の主眼がある と見 ることがで
きる。
ここで詣い文句 とされた に 十四の瞳』 は,戦後 間 もない瀬戸内の小 さな島での, 1 2 人の児童 と若い女教 師の交流 を措 く物語である。出版社が この記録 を 『 二十四の瞳』 に なぞ らえたのは,教 師 と児童の交流の物語 として描 きたかったことと, ここに登場する A教諭が,受動性や無力 さの点で F 二十四の瞳』の大石先生 に重 なって見 えることに理 由があったように思われる。『 二十四の瞳』は一般 に,戦後教育 を支えて きた 「 人間主義」
教師像の基盤 として, さらには敗戦で傷ついた人々への 「 癒 し」の物語 として解釈 され てきた ( 佐藤, 1 997)
。この解釈 に従えば, A 教諭 と子 どもたちの 1 年間の記録 は,世代 を超 え時代 を超 えて も変わらない 「 人間主義」教 師像 の再来 を期待 され,また教育病理 が噴出 し 「 崩壊 」 寸前の学校状況 に対 して,教 師 と子 どもとの理想的信頼関係の成立 を 示す ことによって,「 ( 1 ) 癒 し 」 の物語たることを期待 されているもの と理解することがで き
る
。しか し,A教諭 に見出されるのは 「 人間主義」教 師像 による 「 癒 し 」の可能性 なので あろうか。筆者 にはむ しろ,ある意味で きわめて現代的な教師の姿 と,それを取 り込 ん
あんどう ・ともこ/ 上 越教育大学
キーワード/教師像,学校経営‑ ;相互作用,意思の調整・ 統合,組織づくり
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・3で しまう学校経営 の典型的な展開例が措かれているように思 われる
。A 教諭 は, この実 践記録 に綴 られる 1 年 間が教職 2 年 目とい う 「 新米」教 師である。著者であるため に,
自らの行動 を控 え目に記録 している可能性 は考慮 しなければならないが,少 な くとも, 経緯 を忠実 に記述 している と思われる箇所か らは,ご く普通の 「 現代の若者」の姿が窺
われる。
A教諭 は,決 して熱血教 師ではない。犬 を飼 うことに対 して も,は じめか ら主体的 ・ 積極的であったわけではな く,子 どもたちの気持 ちに押 されなが ら,他方では学校で犬 を飼 うことの困難 さを実感 して繰 り返 し弱気 になっている。そのため,当然犬 を教育活 動の契機 として活用 しようとい う意識 も,事前準備 もあったわけではない。実際,けが を した犬 を獣医 につれてい こうと言いだ したのは先輩教師であ り,里親探 しの会の情報 や飼い犬 を亡 くした主婦の投書 を見つけて きたのは校長であ り,犬小屋づ くりのために 材料の調達 に動いたのは教頭である。犬が保健所 につれていかれ,学校 としての関与 を あ きらめるとい う方針が出されたときにも,校長 に直訴 をしたのは他の教師であった。
つ ま り,視点 を変えれば現代の若者気質 を確認 し,教 師像の転換 を認識すべ き課題 と して提示す ることも不可能ではない記録 なのである
。にもかかわ らず, この記録ではそ うならず,む しろA 教諭が子 どもと学校 の接点 となることで様 々なで きごとが 「 Ⅰ小学 校の教育の展 開 」 となっている
。実 は,この実践記録が興味深いのはこの点なのである。
す なわち,展 開されている活動内容や教育上の意味や教 師 と子 どもの交流 よりも,著者 であ り活動の中心 となっているA 教諭の,教 師 としての Ⅰ小学校への位置づ き方や,そ れ を支 えている校長 を中心 とす る Ⅰ小学校の学校経営 の実態 に着 目すべ き意義があるよ
うに思われる
。そ こで,以下ではまず 「 教 師像 の転換」 について, どの ような理解が必要であるのか を,近年 の教 師像 をめ ぐる研究や言説の動 向か ら整理 したい。その うえで,逆説的 に
「 教師像の転換」が問題 にならない状況 とは何かを考察 し, この観点か ら学校経営上の今 後の課題 を明 らかに しよう。
Ⅲ.「 教師像の転換」をどうとらえるか
1. 「 教師像 」 を論 じる 3 つの立脚点
「 教 師像」 は転換 したのであろうか。転換 したのであれば,それは何 か ら何への転換 で,それにはどの ような意味があるのであろうか。規範的 ・理想的な教 師像 と,現実 に 目の前 にす る教 師 との間で, この問いかけは古 くか ら多 くの人々の関心事であった。た だ,無造作 に教 師像 といって も理想的 ・規範的な像 もあれば一般的 ・典型的な像 もある。
教 師像 と類似する概念 として 「 教職観」や 「 教 師役割」,教師の 「 職業文化 」 や 「 行動様
式 」 等 々 もある
。教 師 とい う社会的役割の内実 を構成す る人々の意識や行為 について言
及す る ものは,広 く捉 えればすべ て教 師像 についての見解 を示 している といえるが,そ
の ような論稿 は膨大である。そのことを踏 まえて,「 教 師像の転換 」 に関わる何 らかの見 解 を示す諸論 を整理する と,お よそ 3 タイプに区分す ることがで きるように思 う
。( 1) タイプ 1 :教師の意識や行為の変化 に着 目するもの
まず,第 1 の タイプは,教 師の意識や行為 の変化 に着 目 して,それ を世代論や社会体 制論 ,価値論 など, よ り大 きな背景要因に基づ く教職への態度変化 として把握す る視線 を持つ ものである
。古 くは 1 9 6 0‑7 0 年代の 「デモシカ教師 」 「 サ ラリーマ ン教 師 」 等の呼 称が,特 に若い教 師の教職への期待や構 えの変化 を捉 えて,教 師像の転換 を表現す るの に使用 された例がある。油布 のプライバ タイゼ‑シ ョン研究 ( 1 9 91 , 1 9 9 2) もこの タイ プに含 まれるであろ う
。油布 は,社会変化 に伴 う価値意識の変化 をプライバ タイゼ‑シ ヨン ( 私事化) とい う視点か ら実証的 に把握 し,教職 もこの趨勢か ら無 関係 ではない こ とを明 らかに した。
「デモ シカ教 師」がそ うであった ように, この タイプの見解 はえて して若い教 師の変 化,中堅 ・ベテラン教 師 とのギ ャップに結 びつけて論 じられやすい。そのため教貞養成 や採用 についての論及 も,多 くが この タイプに属す る もの と分類 される
。例 えば, 1 9 9 7 年 7 月の教育職員養成審議会答 申では,新 たな時代 の教 師に求め られる資質 ・能力 とし て,教科 の専 門的知識の他 に も 「 得意分野 を持 つ個性豊 かな教員」 の必要性 を指摘 し, 従来のスーパーマ ン的教 師像 を否定 した。個性的な教 師の養成 ・採用志向への方向転換
は,その後,教養審第 2 次答 申 ( 1 9 9 8 年 1 0 月),最終答 申 ( 1 9 9 9 年 1 2 月) に引 き継がれ, 教育課程審議会答 申 ( 1 9 9 8 年 1 2 月)での総合的な学習の時間創設等 を受 けて,い よい よ
その必要性が強調 されている。 この ような個性的で多様 な人材 を教職へ確保す る とい う 考 え方は,「 教員採用等 に関す る調査研究協力者会議」の審議のまとめ ( 1 9 9 6 年 4 月)で の,人物評価 を重視す る採用改善の系譜上 にあ り,真面 目で知識 はあるが個性や主体性 に乏 しい 「 偏差値優等生 」 か らの教 師像 の転換の必要性 を示 している もの と理解で きる。
( 2) タイプ 2 :教師に対する社会や子 どもの意識 に着 目するもの
一方,第 2 の タイプは,教 師 自身の行為の変化 に着 目す るのではな く,教 師に向けら れる評価 や期待 の内実 を解明 し,それ らを手がか りとして求め られる教 師像 を措 こうと す るアプローチである。例 えば岸 田 ( 1 98 7) ,鈎 ( 1 9 9 2‑1 9 9 3 ) ,長尾 ・伊藤他 ( 1 9 9 6 ) , 深谷編 ( 1 9 9 7) 等 々, この立場 の研 究はそれぞれ主眼 を異 に しなが らも,社会一般や学 習者である子 ども,教 師予備軍である教員養成系大学の学生 などを対象 とす る質問紙調 査 によって,様 々な人々が措いている教 師像 を明 らかに して きている。
これ らの研究 は,教 師に とっては他者か らの教 師評価 としての意味 をも
つ 。調査結果
を 「 期待 される教 師像 」 とい う形で まとめ,教 師や教 師の養成 に携 わる者,教 師 を目指
している学生 らへ フィー ドバ ックすることによって,各人の 自覚や意識変革 を期待す る
とい う論理構成 は,結局,求め られる教 師像 を提示 し,おのず と以前の教 師像の転換 を
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要求す ることになる。ただ し,この ような 「 教 師像 の転換 」 の要請 は,個 々人がアイデ ンテ ィテ ィの一部 と‑ して持 っているそれぞれの教師像の次元で理解す る必要があるだろ う
。とい うの も, これ らの研究が質問紙調査等 によって 「 実証」 した結果 としての教師 像 は,必ず しも従来の教師像 を転換するような新 しい ものではないか らである
。例 えば,鈎 ( 1 992)が児童 ・生徒の教 師イメージ調査 か ら言及 している望 まれる教師 像 は,「いつの時代 にあって も,年齢差 を超えて, 自らのよき理解者 としての教師,常 に 公平 な態度で振 る舞い,親 しみ をもって接 して くれる教 師 」 ( 1 46 頁)である。長尾 ・伊 藤他 ( 1 996)では 「 子 ども理解能力 こそ教 師像の中心 に置 くべ きもの」 ( 1 05 頁)である。
この,子 どもの理解者 としての教師像は,岸田 ( 1 98 7)や深谷 ( 1 997) をは じめ とする, 他の論稿 にも共通 している
。こうした視点 に立脚す る主張 は,ある意味では,古 くか ら ある教師への期待 を繰 り返 し確認 し,デー タを積み重ねてい くことで , 「 普遍的な教師像」
をより強固なもの とすることに貢献 していると考 えることもで きる。
( 3) タイプ 3 :教師の意識や行為の 「とらわれ」に着 目するもの
上記 2 タイプの どちらで もない見解 として,第 3 に,教 師の意識や行為の変化 しない 側面 に着 目す る ものがある
。様 々な教育問題への対処や,社会の変化 に伴 うライフス タ イルの変化 な ど,教 師が変 わって きたことは認めなが らも,その行動様式の中に変化 し ない一部分 を見出 し,背後 にある根深い教 師像 か らの 「とらわれ 」 を指摘する
。この タ イプの見解 においては 「 教 師像 の転換 」 は,現代 の教育 をめ ぐる様 々な困難 を直視 し, 克服 してい くための,切実かつ切迫 した課題 なのである
。例 えば,『( 現代社会 と教育 5)教 師』 ( 1 993)や 『 ( 岩波講座現代 の教育 6 )教 師像の
再構築』 ( 1 998)では,複数の論者 によって教師像の今 日的課題か論 じられているが, ど ち らも基本的に転換が必要であるとの立場 をとっている
。久冨 ( 1 998) は,教 師の職業 文化 として 「 献身的教師像 」 を取 り上げ,それが対生徒 関係 や権威確保 とい う難問に対 す る解決策 となって きたこと,専 門性 の高低 に関わる自己認知の葛藤 を緩和 して きたこ となど,多面的に 「その職業 に携 わる個人 と集団の生活 と意識 を支 える 」 機能 を果た し て きたことを論 じている。そ して,現代 の教 師の困難は, この ような職業文化が機能 し な くなっているに もかかわ らず,相変わ らず 「 献身的教 師像 」 への価値づけが根強 く残 っていること,それに代 わる職業文化組み替 えの決め手が見出せ ないでいることにある と指摘す る。
また,教 師の意識や行動 を拘束す る様 々な 「とらわれ 」 や 「 呪縛」 を措 きなが ら,そ の呪縛 か ら解放 されてい くことの重要性 やその方策 を模索す る研 究 も少 な くない ( 田 中 ・1 993 ,横湯 ・1 993 ,佐 々木 ・1 998 など)。佐藤 ( 1 998) も,「 人間主義」 イデオロギ ーの再検討 を含めた教 師像の解体 と再構築の作業が必要であることを , 「 教 師存在の危機 」
か らの要請 としてここ数年繰 り返 し論 じている ( 1 99 4 ,1 99 7 など)。 これ らの主張は,現
在直面 している教育問題への対応策 として 「 教 師像の転換」 を課題 とする点では, タイ
プ 1 の見解 と同趣 旨の ようにも見 える
。しか し,その課題 として求めている転換の方向 を踏 まえると, まった く異 なる地平 に立っていることが明 らかである。
2. 「 教師像の転換」論の位相
この ような 3 つのアプローチは,それぞれに立場 を異 に しなが らも,現代の 「 教 師像 の転換」 をめ ぐる問題枠組みの中に位 置づ いている。す なわち,教養審答 申 ( 1 997 , 1 9 98 ,1 999)の示す個性豊かな教師への転換や,岸田 ( 1 98 7) ,長尾 ・伊藤他 ( 1 997) ら の見解 は,教 師の子 ども理解への努力や,徹底 してつ き合お うとす る 「 人間教 師 」 的側 面の希薄化,すなわち久富の指摘 とまさに逆の 「 献身的教 師像」か らの転換 を問題 とし, それへ向けて教 師像 を ( 再)転換する必要 を論 じる ものであった。それに対 して,佐藤 ( 1 997 ,1 998)や久冨 ( 1 998) ,横湯 ( 1 993) らの見解 は,教職 に根強 く浸透 して教師や 保護者の教師像 に形 を与え続けている 「 献身性 」 「 人間性 」 か ら,教 師像 を転換 させ る必 要を論 じている。
それぞれの見解の相互関係 を図示 してみると,図 1 の ようになる。つま り教 師には, 周囲を取 り巻 く環境 として , 「 社会の変化からの影響力」と 「 普遍的教師像か らの影響力」
とが考 えられる
。そ して,それぞれの影響力 との関係 において意識や行為上の 「 変化」, あるいは理想や規範への 「 執着 」 が人々に可視的な もの となる.文部省通知や一連の答 申が 「 教師の変容 ・変質」 に着 目しているのに対 して,佐藤や久冨 らは,まず 「 教 師の 執着」を認識する,つ ま り教師の変化 しない側面 に着 目しているわけである。
また,他者の視線 を立脚点 とす るタイプ 2 との関係 についてみる と, タイプ 1では
「 教師の変容 」 か ら反省的に規範的期待 を再認識 し,理想的な教師像 を描 き直す点で,他 ( 2 )
者か らの期待 と親和的であるといえる。特 に,「 子 ども理解 」 「 子 どもへの愛 情 」 「 専門的
知識や熱意」 といった価値規範 を軸 として,(期待一反省 )の関係で結びつ き,結果的に
タ
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200L・3は伝統的な規範的教師像の維持 ・再生産 を促 している傾向が認め られる。一方, タイプ 3 はこの ような教師 と他者の く期待一反省 )関係 をも含めて 「 教師の変わらぬ ( 変われ ぬ)側面」 と認識する。教師自身の・く反省 )や,他者の (期待 )は, タイプ 3 の立場か らみれば,教師の意識や行為 を結局伝統的な教職規範 による教師像へ と呪縛するものな のである
。そ こで, タイプ 2とタイプ 3は く期待一拘束 )関係 として位置づいていると いえる。
この ように図示 してみると,課題 とされる 「 転換」の内容や方向 も, タイプ 1 とタイ プ 2では親和的であるが, タイプ 3はそれ らと異 なる方向性 を志向するもの となる
。タ イプ 3 は, タイプ 1とタイプ 2 が ともに描 き出そ うとする子 ども中心の 「 人間教師像」
や 「 献身的教師像」の解体 を指 して 「 教師像の転換」 と述べているのである。
Ⅲ . 学校経常問題としての 「 教師像の転換」
1. 教師の意識や行為の現実 (リア リティ)
以上の ように 3つの位相 を位置づけると, タイプ 1 と2とが普遍的 ・規範的な 「 人間 教師像」への再転換 を志向するのに対 して, タイプ 3 がそれに対抗する形で旧来の 「 人 間教師像」か らの転換 をこそ目指す という主張の対立図式が認め られる
。しか し, この ような 「 教 師像の転換」 をめ ぐる主張の対立構造の中には,現実の教 師のあ りようが, そ もそ も変容 している部分 と変わらぬ部分 とを併せ持 っている, とい う現実感覚が抜 け 落 ちてはいないだろうか。それぞれの主張は,その主張の範囲で正当なものではある。
しか し,あ くまで も 「 転換論」の論理構成 として正当であるに過 ぎないように思われる。
現実感覚に即 していえば,「 教師像の転換 」 は,静的で観察可能な事実 を説明するような ものではな く,場面ごとに動的に実践 されるもの として理解する必要がある。
例 えば,石飛 ( 1 995)は校則の運用 について,本来的に校則が持つ 「 唆昧 さ」 に着 目 し,その 「 唆昧 さ」 に対する原理的解決 と実践的解決 との循環過程 をエスノメソ ドロジ ー的モデルとして説明 している ( 1 53‑ 1 56 頁) 。そこでの主眼は,「 唆昧 さ」が教師 と生徒 によって積極的に運用 されている ものであ り,それによって学校組織の存続が支 えられ ているとい う仕組みの解明である。彼 によれば 「 常態 」 としての校則運用は,「 校則違反」
であるか否 かの境界線 ( 暗黙の ライ ン) を教 師 と生徒が相互 に探 り合 い,作 り上 げる
「 暖昧 さ ■●●●●● 」 の実践的解決過程 として成立 している
。この過程 は, 「 『 唆昧さ』の原理的解決
を F 一義性の追究』 とい うならば,実践的解決 とは,『 多義性の認知的排除』 と呼びうる
ものである 」 ( 1 54 頁) とされている。石飛のモデルは,こうした 「 常態 」 か ら相互の解
釈 に亀裂が生 じた場合の問題解決方略の原理的解決,すなわちスケープゴーデ イングへ
の切 り替 えまで展開されるが, ここではさしあたって 「 常態」 として説明された, ●●●●● 「 『 暗
黙の ライン』 は,教師/生徒 いずれの独断で もないまさに相互主観的存在 として同定 さ
れねばならない」 ( 1 5 4 頁) とい う点に着 目したい。個 々の学校 において実際の教師の意
識や行為 か ら 「 教 師像 の転換」 を問題 とす る場合 には, これ と同様 のエス ノメソ ドロジ ー的なモデルを想定することが必要になろう。
す なわち,教 師像が転換 したのか否か,転換す る必要があるのか否か といった問題の 認識 は,教 師の ライフス タイルや価値観 の変化 した部分 と変 わ らない部分 との間で,状 況 に応 じた態度が選択 され,それが意味づ け られる中か ら生 じる と見 ることがで きる。
実際の行為 は,相変わ らず教 師 を捉 えている献 身的な 「 人間教 師像」 とともに,変 わ り つつあるライフス タイルや新 しい価値観が取 り込 まれ,ある程度柔軟 な運用の幅 を確保
されている相互作用の過程で,問題視 されない許容範囲が模索 され,そのつ ど当事者間 で実践的 に境界線が引かれる とい う解釈過程 によって成立 していると考 え られるのであ る。
したが って,個 々の学校 で実際 にある教 師 について 「 教 師像 の転換 」 が意識 される状 況がある とすれば,それは相互作用の過程 で,当該教 師は状況 に応 じて選択 しているつ もりである態度が,他者か らは許容範囲を超 えて問題視 されていることを意味 している。
つま り,「 教 師像の転換 」 とは,教 師 と教 師の行為相手 との相互作用の中で,両者の了解 範囲に折 り合い をつけ られない とい う,「 相互行為の失敗」 に対 してつけ られる説明であ
ると理解で きる。
2. 「 教師像の転換」の意識化
以上の ように教師の行為の成立 を理解するならば,「 教 師像の転換」が問題 になる仕組 みやそれへ の対処 の可能性 は,特 に学校経営の問題 として視野 に入れ られ,検討 されて い くことが必要 になるだろう
。とい うのは,「 教 師像の転換 」 が意識 される レベルは個人 間での意識 の レベルか ら学校単位 ,地域単位,社会 一 ・国家単位等多様 であるが,特 に学 校内で 「 教 師像 の転換」が意識 される場合 には,行為者の主観 に依存す る相互作用 とし てばか りではな く,組織的な価値統合の問題 として扱 われる余地が大 きいか らである
。基本的 に 「 教 師像 の転換」 は,教 師の意識や行動の基盤 となる価値規範,教育 に関す る理念や思想 に関わる領域 を問題 とす る
。これ らの価値規範が許容 されるか否かの 「 暗 黙の ライン 」 を相互 に設定で きない場合や,複数の価値 の間に揺 れ動 きが認識 されてい る場合 に問題 になるわけである。 したがって,学校 レベルで 「 教 師像の転換」が意識 さ れている状態 は , 1 つの組織体 内部での価値 のゆ らぎを表明す る もので もある。具体的 には,往 々に して校長の方針や多数派の意見 に代表 されが ちである学校 としての 目標や 教育的価値 と,個 々の教 師の意識や行為 の間での,価値規範の相互解釈 による 「 暗黙の ライン」模索の失敗 として想起 される
。その許容範囲の模索 に失敗 している 2 つの価値 観の対応 関係が世代的な視点,すなわち正一誤ではな く新一 旧によって区分 されてお り,
しか も新一 旧の間に価値的な序列がつけられず,揺れ動いているような場合である。
これは,逆 に考え れば, 日常的 な相互作用の中で価値規範の許容範囲模索 による 「暗
黙のライン」確認が うま くなされている場合 には,「 教 師像の転換」が問題 にならないこ
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