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教師像の転換 を受容す る学校経営の展望

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教師像の転換 を受容す る学校経営の展望

一 実践 記録 『 の ら犬 ,学校 をか える 』 を手 がか りと して‑

安 藤 知 子

Ⅰ . 平成版二十四の瞳 ‑ Ⅰ 小学校の実践記録‑

1 998 年 2 月,「 平成版二十四の瞳 」 とい う詣い文句 を付 した rの ら犬,学校 をかえる』

とい う本が出版 された。野良犬への対応 を通 して,のびのび と育 ってい く子 どもの姿 を 描いた教育実践記録である

車 に蝶かれてけが を した野良犬 を Ⅰ小学校 の教 師達が獣医 につれてい く 1 996 年 3 月か ら,子犬の里親探 しや保健所 とのや りとり,犬小屋作 り,そ して飼い犬 をな くしたばか りの主婦 との交流 などので きごとにわた り,翌年 3 月 までの 1 年間を綴 る形で まとめ られている。記述の中心 は,教育課程 に位置づ けられる教育活 動以外 の範噂で学校 内で展 開されている 「日常」であ り,その 「日常」が教師 と児童 と の信頼関係 の中で展 開されていることを示す点 にこの記録の主眼がある と見 ることがで

きる。

ここで詣い文句 とされた に 十四の瞳』 は,戦後 間 もない瀬戸内の小 さな島での, 1 2 人の児童 と若い女教 師の交流 を措 く物語である。出版社が この記録 を 『 二十四の瞳』 に なぞ らえたのは,教 師 と児童の交流の物語 として描 きたかったことと, ここに登場する A教諭が,受動性や無力 さの点で F 二十四の瞳』の大石先生 に重 なって見 えることに理 由があったように思われる。『 二十四の瞳』は一般 に,戦後教育 を支えて きた 「 人間主義」

教師像の基盤 として, さらには敗戦で傷ついた人々への 「 癒 し」の物語 として解釈 され てきた ( 佐藤, 1 997)

この解釈 に従えば, A 教諭 と子 どもたちの 1 年間の記録 は,世代 を超 え時代 を超 えて も変わらない 「 人間主義」教 師像 の再来 を期待 され,また教育病理 が噴出 し 「 崩壊 」 寸前の学校状況 に対 して,教 師 と子 どもとの理想的信頼関係の成立 を 示す ことによって,「 ( 1 ) 癒 し 」 の物語たることを期待 されているもの と理解することがで き

しか し,A教諭 に見出されるのは 「 人間主義」教 師像 による 「 癒 し 」の可能性 なので あろうか。筆者 にはむ しろ,ある意味で きわめて現代的な教師の姿 と,それを取 り込 ん

あんどう ・ともこ/ 上 越教育大学

キーワード/教師像,学校経営‑ ;相互作用,意思の調整・ 統合,組織づくり

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教育経営研究 第

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200

L

・3

で しまう学校経営 の典型的な展開例が措かれているように思 われる

A 教諭 は, この実 践記録 に綴 られる 1 年 間が教職 2 年 目とい う 「 新米」教 師である。著者であるため に,

自らの行動 を控 え目に記録 している可能性 は考慮 しなければならないが,少 な くとも, 経緯 を忠実 に記述 している と思われる箇所か らは,ご く普通の 「 現代の若者」の姿が窺

われる。

A教諭 は,決 して熱血教 師ではない。犬 を飼 うことに対 して も,は じめか ら主体的 ・ 積極的であったわけではな く,子 どもたちの気持 ちに押 されなが ら,他方では学校で犬 を飼 うことの困難 さを実感 して繰 り返 し弱気 になっている。そのため,当然犬 を教育活 動の契機 として活用 しようとい う意識 も,事前準備 もあったわけではない。実際,けが を した犬 を獣医 につれてい こうと言いだ したのは先輩教師であ り,里親探 しの会の情報 や飼い犬 を亡 くした主婦の投書 を見つけて きたのは校長であ り,犬小屋づ くりのために 材料の調達 に動いたのは教頭である。犬が保健所 につれていかれ,学校 としての関与 を あ きらめるとい う方針が出されたときにも,校長 に直訴 をしたのは他の教師であった。

つ ま り,視点 を変えれば現代の若者気質 を確認 し,教 師像の転換 を認識すべ き課題 と して提示す ることも不可能ではない記録 なのである

にもかかわ らず, この記録ではそ うならず,む しろA 教諭が子 どもと学校 の接点 となることで様 々なで きごとが 「 Ⅰ小学 校の教育の展 開 」 となっている

実 は,この実践記録が興味深いのはこの点なのである。

す なわち,展 開されている活動内容や教育上の意味や教 師 と子 どもの交流 よりも,著者 であ り活動の中心 となっているA 教諭の,教 師 としての Ⅰ小学校への位置づ き方や,そ れ を支 えている校長 を中心 とす る Ⅰ小学校の学校経営 の実態 に着 目すべ き意義があるよ

うに思われる

そ こで,以下ではまず 「 教 師像 の転換」 について, どの ような理解が必要であるのか を,近年 の教 師像 をめ ぐる研究や言説の動 向か ら整理 したい。その うえで,逆説的 に

「 教師像の転換」が問題 にならない状況 とは何かを考察 し, この観点か ら学校経営上の今 後の課題 を明 らかに しよう。

Ⅲ.「 教師像の転換」をどうとらえるか

1. 「 教師像 」 を論 じる 3 つの立脚点

「 教 師像」 は転換 したのであろうか。転換 したのであれば,それは何 か ら何への転換 で,それにはどの ような意味があるのであろうか。規範的 ・理想的な教 師像 と,現実 に 目の前 にす る教 師 との間で, この問いかけは古 くか ら多 くの人々の関心事であった。た だ,無造作 に教 師像 といって も理想的 ・規範的な像 もあれば一般的 ・典型的な像 もある。

教 師像 と類似する概念 として 「 教職観」や 「 教 師役割」,教師の 「 職業文化 」 や 「 行動様

式 」 等 々 もある

教 師 とい う社会的役割の内実 を構成す る人々の意識や行為 について言

及す る ものは,広 く捉 えればすべ て教 師像 についての見解 を示 している といえるが,そ

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の ような論稿 は膨大である。そのことを踏 まえて,「 教 師像の転換 」 に関わる何 らかの見 解 を示す諸論 を整理する と,お よそ 3 タイプに区分す ることがで きるように思 う

( 1) タイプ 1 :教師の意識や行為の変化 に着 目するもの

まず,第 1 の タイプは,教 師の意識や行為 の変化 に着 目 して,それ を世代論や社会体 制論 ,価値論 など, よ り大 きな背景要因に基づ く教職への態度変化 として把握す る視線 を持つ ものである

古 くは 1 9 6 0‑7 0 年代の 「デモシカ教師 」 サ ラリーマ ン教 師 」 等の呼 称が,特 に若い教 師の教職への期待や構 えの変化 を捉 えて,教 師像の転換 を表現す るの に使用 された例がある。油布 のプライバ タイゼ‑シ ョン研究 ( 1 9 91 , 1 9 9 2) もこの タイ プに含 まれるであろ う

油布 は,社会変化 に伴 う価値意識の変化 をプライバ タイゼ‑シ ヨン ( 私事化) とい う視点か ら実証的 に把握 し,教職 もこの趨勢か ら無 関係 ではない こ とを明 らかに した。

「デモ シカ教 師」がそ うであった ように, この タイプの見解 はえて して若い教 師の変 化,中堅 ・ベテラン教 師 とのギ ャップに結 びつけて論 じられやすい。そのため教貞養成 や採用 についての論及 も,多 くが この タイプに属す る もの と分類 される

例 えば, 1 9 9 7 年 7 月の教育職員養成審議会答 申では,新 たな時代 の教 師に求め られる資質 ・能力 とし て,教科 の専 門的知識の他 に も 「 得意分野 を持 つ個性豊 かな教員」 の必要性 を指摘 し, 従来のスーパーマ ン的教 師像 を否定 した。個性的な教 師の養成 ・採用志向への方向転換

は,その後,教養審第 2 次答 申 ( 1 9 9 8 年 1 0 月),最終答 申 ( 1 9 9 9 年 1 2 月) に引 き継がれ, 教育課程審議会答 申 ( 1 9 9 8 年 1 2 月)での総合的な学習の時間創設等 を受 けて,い よい よ

その必要性が強調 されている。 この ような個性的で多様 な人材 を教職へ確保す る とい う 考 え方は,「 教員採用等 に関す る調査研究協力者会議」の審議のまとめ ( 1 9 9 6 年 4 月)で の,人物評価 を重視す る採用改善の系譜上 にあ り,真面 目で知識 はあるが個性や主体性 に乏 しい 「 偏差値優等生 」 か らの教 師像 の転換の必要性 を示 している もの と理解で きる。

( 2) タイプ 2 :教師に対する社会や子 どもの意識 に着 目するもの

一方,第 2 の タイプは,教 師 自身の行為の変化 に着 目す るのではな く,教 師に向けら れる評価 や期待 の内実 を解明 し,それ らを手がか りとして求め られる教 師像 を措 こうと す るアプローチである。例 えば岸 田 ( 1 98 7) ,鈎 ( 1 9 9 2‑1 9 9 3 ) ,長尾 ・伊藤他 ( 1 9 9 6 ) , 深谷編 ( 1 9 9 7) 等 々, この立場 の研 究はそれぞれ主眼 を異 に しなが らも,社会一般や学 習者である子 ども,教 師予備軍である教員養成系大学の学生 などを対象 とす る質問紙調 査 によって,様 々な人々が措いている教 師像 を明 らかに して きている。

これ らの研究 は,教 師に とっては他者か らの教 師評価 としての意味 をも

つ 。

調査結果

を 「 期待 される教 師像 」 とい う形で まとめ,教 師や教 師の養成 に携 わる者,教 師 を目指

している学生 らへ フィー ドバ ックすることによって,各人の 自覚や意識変革 を期待す る

とい う論理構成 は,結局,求め られる教 師像 を提示 し,おのず と以前の教 師像の転換 を

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教育経営研究 第7 号 200 L・3

要求す ることになる。ただ し,この ような 「 教 師像 の転換 」 の要請 は,個 々人がアイデ ンテ ィテ ィの一部 と‑ して持 っているそれぞれの教師像の次元で理解す る必要があるだろ う

とい うの も, これ らの研究が質問紙調査等 によって 「 実証」 した結果 としての教師 像 は,必ず しも従来の教師像 を転換するような新 しい ものではないか らである

例 えば,鈎 ( 1 992)が児童 ・生徒の教 師イメージ調査 か ら言及 している望 まれる教師 像 は,「いつの時代 にあって も,年齢差 を超えて, 自らのよき理解者 としての教師,常 に 公平 な態度で振 る舞い,親 しみ をもって接 して くれる教 師 」 ( 1 46 頁)である。長尾 ・伊 藤他 ( 1 996)では 「 子 ども理解能力 こそ教 師像の中心 に置 くべ きもの」 ( 1 05 頁)である。

この,子 どもの理解者 としての教師像は,岸田 ( 1 98 7)や深谷 ( 1 997) をは じめ とする, 他の論稿 にも共通 している

こうした視点 に立脚す る主張 は,ある意味では,古 くか ら ある教師への期待 を繰 り返 し確認 し,デー タを積み重ねてい くことで , 普遍的な教師像」

をより強固なもの とすることに貢献 していると考 えることもで きる。

( 3) タイプ 3 :教師の意識や行為の 「とらわれ」に着 目するもの

上記 2 タイプの どちらで もない見解 として,第 3 に,教 師の意識や行為の変化 しない 側面 に着 目す る ものがある

様 々な教育問題への対処や,社会の変化 に伴 うライフス タ イルの変化 な ど,教 師が変 わって きたことは認めなが らも,その行動様式の中に変化 し ない一部分 を見出 し,背後 にある根深い教 師像 か らの 「とらわれ 」 を指摘する

この タ イプの見解 においては 「 教 師像 の転換 」 は,現代 の教育 をめ ぐる様 々な困難 を直視 し, 克服 してい くための,切実かつ切迫 した課題 なのである

例 えば,『( 現代社会 と教育 5)教 師』 ( 1 993)や 『 ( 岩波講座現代 の教育 6 )教 師像の

再構築』 ( 1 998)では,複数の論者 によって教師像の今 日的課題か論 じられているが, ど ち らも基本的に転換が必要であるとの立場 をとっている

久冨 ( 1 998) は,教 師の職業 文化 として 「 献身的教師像 」 を取 り上げ,それが対生徒 関係 や権威確保 とい う難問に対 す る解決策 となって きたこと,専 門性 の高低 に関わる自己認知の葛藤 を緩和 して きたこ となど,多面的に 「その職業 に携 わる個人 と集団の生活 と意識 を支 える 」 機能 を果た し て きたことを論 じている。そ して,現代 の教 師の困難は, この ような職業文化が機能 し な くなっているに もかかわ らず,相変わ らず 「 献身的教 師像 」 への価値づけが根強 く残 っていること,それに代 わる職業文化組み替 えの決め手が見出せ ないでいることにある と指摘す る。

また,教 師の意識や行動 を拘束す る様 々な 「とらわれ 」 や 「 呪縛」 を措 きなが ら,そ の呪縛 か ら解放 されてい くことの重要性 やその方策 を模索す る研 究 も少 な くない ( 田 中 ・1 993 ,横湯 ・1 993 ,佐 々木 ・1 998 など)。佐藤 ( 1 998) も,「 人間主義」 イデオロギ ーの再検討 を含めた教 師像の解体 と再構築の作業が必要であることを , 教 師存在の危機

か らの要請 としてここ数年繰 り返 し論 じている ( 1 99 4 ,1 99 7 など)。 これ らの主張は,現

在直面 している教育問題への対応策 として 「 教 師像の転換」 を課題 とする点では, タイ

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プ 1 の見解 と同趣 旨の ようにも見 える

しか し,その課題 として求めている転換の方向 を踏 まえると, まった く異 なる地平 に立っていることが明 らかである。

2. 「 教師像の転換」論の位相

この ような 3 つのアプローチは,それぞれに立場 を異 に しなが らも,現代の 「 教 師像 の転換」 をめ ぐる問題枠組みの中に位 置づ いている。す なわち,教養審答 申 ( 1 997 , 1 9 98 ,1 999)の示す個性豊かな教師への転換や,岸田 ( 1 98 7) ,長尾 ・伊藤他 ( 1 997) ら の見解 は,教 師の子 ども理解への努力や,徹底 してつ き合お うとす る 「 人間教 師 」 的側 面の希薄化,すなわち久富の指摘 とまさに逆の 「 献身的教 師像」か らの転換 を問題 とし, それへ向けて教 師像 を ( 再)転換する必要 を論 じる ものであった。それに対 して,佐藤 ( 1 997 ,1 998)や久冨 ( 1 998) ,横湯 ( 1 993) らの見解 は,教職 に根強 く浸透 して教師や 保護者の教師像 に形 を与え続けている 「 献身性 」 人間性 」 か ら,教 師像 を転換 させ る必 要を論 じている。

それぞれの見解の相互関係 を図示 してみると,図 1 の ようになる。つま り教 師には, 周囲を取 り巻 く環境 として , 社会の変化からの影響力」と 「 普遍的教師像か らの影響力」

とが考 えられる

そ して,それぞれの影響力 との関係 において意識や行為上の 「 変化」, あるいは理想や規範への 「 執着 」 が人々に可視的な もの となる.文部省通知や一連の答 申が 「 教師の変容 ・変質」 に着 目しているのに対 して,佐藤や久冨 らは,まず 「 教 師の 執着」を認識する,つ ま り教師の変化 しない側面 に着 目しているわけである。

また,他者の視線 を立脚点 とす るタイプ 2 との関係 についてみる と, タイプ 1では

「 教師の変容 」 か ら反省的に規範的期待 を再認識 し,理想的な教師像 を描 き直す点で,他 ( 2 )

者か らの期待 と親和的であるといえる。特 に,「 子 ども理解 」 子 どもへの愛 情 」 専門的

知識や熱意」 といった価値規範 を軸 として,(期待一反省 )の関係で結びつ き,結果的に

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教育経営研究 第7 号

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は伝統的な規範的教師像の維持 ・再生産 を促 している傾向が認め られる。一方, タイプ 3 はこの ような教師 と他者の く期待一反省 )関係 をも含めて 「 教師の変わらぬ ( 変われ ぬ)側面」 と認識する。教師自身の・く反省 )や,他者の (期待 )は, タイプ 3 の立場か らみれば,教師の意識や行為 を結局伝統的な教職規範 による教師像へ と呪縛するものな のである

そ こで, タイプ 2とタイプ 3は く期待一拘束 )関係 として位置づいていると いえる。

この ように図示 してみると,課題 とされる 「 転換」の内容や方向 も, タイプ 1 とタイ プ 2では親和的であるが, タイプ 3はそれ らと異 なる方向性 を志向するもの となる

タ イプ 3 は, タイプ 1とタイプ 2 が ともに描 き出そ うとする子 ども中心の 「 人間教師像」

や 「 献身的教師像」の解体 を指 して 「 教師像の転換」 と述べているのである。

Ⅲ . 学校経常問題としての 「 教師像の転換」

1. 教師の意識や行為の現実 (リア リティ)

以上の ように 3つの位相 を位置づけると, タイプ 1 と2とが普遍的 ・規範的な 「 人間 教師像」への再転換 を志向するのに対 して, タイプ 3 がそれに対抗する形で旧来の 「 人 間教師像」か らの転換 をこそ目指す という主張の対立図式が認め られる

しか し, この ような 「 教 師像の転換」 をめ ぐる主張の対立構造の中には,現実の教 師のあ りようが, そ もそ も変容 している部分 と変わらぬ部分 とを併せ持 っている, とい う現実感覚が抜 け 落 ちてはいないだろうか。それぞれの主張は,その主張の範囲で正当なものではある。

しか し,あ くまで も 「 転換論」の論理構成 として正当であるに過 ぎないように思われる。

現実感覚に即 していえば,「 教師像の転換 」 は,静的で観察可能な事実 を説明するような ものではな く,場面ごとに動的に実践 されるもの として理解する必要がある。

例 えば,石飛 ( 1 995)は校則の運用 について,本来的に校則が持つ 「 唆昧 さ」 に着 目 し,その 「 唆昧 さ」 に対する原理的解決 と実践的解決 との循環過程 をエスノメソ ドロジ ー的モデルとして説明 している ( 1 53‑ 1 56 頁) 。そこでの主眼は,「 唆昧 さ」が教師 と生徒 によって積極的に運用 されている ものであ り,それによって学校組織の存続が支 えられ ているとい う仕組みの解明である。彼 によれば 「 常態 」 としての校則運用は,「 校則違反」

であるか否 かの境界線 ( 暗黙の ライ ン) を教 師 と生徒が相互 に探 り合 い,作 り上 げる

「 暖昧 さ ■●●●●● 」 の実践的解決過程 として成立 している

この過程 は, 「 唆昧さ』の原理的解決

を F 一義性の追究』 とい うならば,実践的解決 とは,『 多義性の認知的排除』 と呼びうる

ものである 」 ( 1 54 頁) とされている。石飛のモデルは,こうした 「 常態 」 か ら相互の解

釈 に亀裂が生 じた場合の問題解決方略の原理的解決,すなわちスケープゴーデ イングへ

の切 り替 えまで展開されるが, ここではさしあたって 「 常態」 として説明された, ●●●●● 「 『 暗

黙の ライン』 は,教師/生徒 いずれの独断で もないまさに相互主観的存在 として同定 さ

れねばならない」 ( 1 5 4 頁) とい う点に着 目したい。個 々の学校 において実際の教師の意

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識や行為 か ら 「 教 師像 の転換」 を問題 とす る場合 には, これ と同様 のエス ノメソ ドロジ ー的なモデルを想定することが必要になろう。

す なわち,教 師像が転換 したのか否か,転換す る必要があるのか否か といった問題の 認識 は,教 師の ライフス タイルや価値観 の変化 した部分 と変 わ らない部分 との間で,状 況 に応 じた態度が選択 され,それが意味づ け られる中か ら生 じる と見 ることがで きる。

実際の行為 は,相変わ らず教 師 を捉 えている献 身的な 「 人間教 師像」 とともに,変 わ り つつあるライフス タイルや新 しい価値観が取 り込 まれ,ある程度柔軟 な運用の幅 を確保

されている相互作用の過程で,問題視 されない許容範囲が模索 され,そのつ ど当事者間 で実践的 に境界線が引かれる とい う解釈過程 によって成立 していると考 え られるのであ る。

したが って,個 々の学校 で実際 にある教 師 について 「 教 師像 の転換 」 が意識 される状 況がある とすれば,それは相互作用の過程 で,当該教 師は状況 に応 じて選択 しているつ もりである態度が,他者か らは許容範囲を超 えて問題視 されていることを意味 している。

つま り,「 教 師像の転換 」 とは,教 師 と教 師の行為相手 との相互作用の中で,両者の了解 範囲に折 り合い をつけ られない とい う,「 相互行為の失敗」 に対 してつけ られる説明であ

ると理解で きる。

2. 「 教師像の転換」の意識化

以上の ように教師の行為の成立 を理解するならば,「 教 師像の転換」が問題 になる仕組 みやそれへ の対処 の可能性 は,特 に学校経営の問題 として視野 に入れ られ,検討 されて い くことが必要 になるだろう

とい うのは,「 教 師像の転換 」 が意識 される レベルは個人 間での意識 の レベルか ら学校単位 ,地域単位,社会 一 ・国家単位等多様 であるが,特 に学 校内で 「 教 師像 の転換」が意識 される場合 には,行為者の主観 に依存す る相互作用 とし てばか りではな く,組織的な価値統合の問題 として扱 われる余地が大 きいか らである

基本的 に 「 教 師像 の転換」 は,教 師の意識や行動の基盤 となる価値規範,教育 に関す る理念や思想 に関わる領域 を問題 とす る

これ らの価値規範が許容 されるか否かの 「 暗 黙の ライン 」 を相互 に設定で きない場合や,複数の価値 の間に揺 れ動 きが認識 されてい る場合 に問題 になるわけである。 したがって,学校 レベルで 「 教 師像の転換」が意識 さ れている状態 は , 1 つの組織体 内部での価値 のゆ らぎを表明す る もので もある。具体的 には,往 々に して校長の方針や多数派の意見 に代表 されが ちである学校 としての 目標や 教育的価値 と,個 々の教 師の意識や行為 の間での,価値規範の相互解釈 による 「 暗黙の ライン」模索の失敗 として想起 される

その許容範囲の模索 に失敗 している 2 つの価値 観の対応 関係が世代的な視点,すなわち正一誤ではな く新一 旧によって区分 されてお り,

しか も新一 旧の間に価値的な序列がつけられず,揺れ動いているような場合である。

これは,逆 に考え れば, 日常的 な相互作用の中で価値規範の許容範囲模索 による 「暗

黙のライン」確認が うま くなされている場合 には,「 教 師像の転換」が問題 にならないこ

J J

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教育経営研究 第

7 号 200 L・3

とを示唆 している。 または,実践的に統合 されない学校単位 での価値規範の対応関係が, 例 えば正一誤の ように明確 な価値の序列 に基づいて理解 されてお り,「 続合 されない 」 と い う間蓮 は意識 されて も価値観の揺 らぎは意識 されない とい うような場合,「 教師像の転 換 」 とい う形での問題の意識化 は生 じない。そ こで,課題 は 「 暗黙のライン」模索 とい

う相互作用 をいかに実践するか, とい う点 に焦点づけられる。

Ⅰ Ⅴ.Ⅰ 小学校における 「 教師像の転換」

1 . 川 、 学校での教育活動の展開

そ こで,冒頭 に紹介 した Ⅰ小学校の事例 に戻 ってみたい。 この活動記録か らは,個 々 の教 師の意識や行為が学校全体の活動 に緩やかに統合 され,「Ⅰ小学校の教育」 として把 握 されている様子が窺われる

A 教諭 も Ⅰ小学校の構成員 としてその中に違和感 な く位 置づ けられているため,「 教師像の転換 」 は当事者間では意識化 されることがない。

犬 を飼 うとい う行為 は決 して A 教諭一人の個人行動ではな く , Ⅰ小学校が展 開する全 体的 な教育の一環 に取 り込 まれていた と見 ることがで きる

A教諭が悩 んだ ように,過 常,学校 で犬 を飼 うには数多 くの越 えるべ きハー ドルがある。 しか し , Ⅰ小学校の場合 は数多 くのハー ドルを越 えられるだけの許容力が,そ もそ も学校環境の中に用意 されて いる。それは第 1 に教 師間での犬 を許容す る雰囲気である

これは,「 本物の体験 」 や

「 主体的 に考 え,行動す ること」 を重視する校長が,児童 と犬 とのや りとりを見守 り,必 要なところで方向性 を与 えようとい う姿勢 をとっていたことと無関係 ではないであろう。

また,第 2には児童の雰囲気 であ り, さらには学校 の立地条件や保護者 ・地域 との関係 である。保護者や地域 との関係 については,実践記録か ら十分 に把握す ることは困難で あるが,それで も 「 里親探 しの会」への付 き添い,子犬出産の際の仮犬小屋の提供,犬 小屋作 りのための木材の提供等,多 くの保護者の協力 によって支 えられていたことが窺

われる。

A教諭 は児童 と秘密 を共有 した り共 に泣いた りはするが,教育活動では 「 裏方」 に徹 している。働 きかけは常 に校長か らのア ドバ イスを介 している し,積極的に犬 をめ ぐる

( 3 )

活動の方向づけに関与 しようとい う意思 は見出せ ない。しか しこの実践記録では,A教 諭 はな くてはならない存在 なのである。 A教諭であったか ら児童 と秘密 を共有すること

もで き,それ を学校の方針 に反す る行為 としてではな く,教育活動の中に取 り込 むこと が可能 になったのだ と見 ることもで きる。教 師間の意識 も,校長がA教諭 に情報 を提示

( 4 ) して以降,「 犬のことはA先生」 という暗黙の役割分担がで きていたことが窺われる。

2. 川 、 学校 における A 教諭の位置づ き方

活動記録 か ら窺 われるこの ような二面性 は, A 教諭が 「 教 師像の転換」論で論点 とさ

れていた, ライフス タイルの変化や気質の変化 と,子 ども中心の 「 人間教 師像 」 との双

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方 を自然 に内に含 んだ教 師の姿 として措 かれていることか ら生 じている

この記録 の中 では, A 教諭 の受動性 や後追 い的 な態度 は 「 子 どもに対 す る支援 者 と しての態度 」 や

「 新米教 師 」 の態度 として説明 され,その ような もの として人々か らも解釈 されている。

重要なことは,校長 ばか りでな く先輩教 師たち もまるで示 し合わせ たかの ように,全員 が こう した解釈 に従 っているように見 える点である。 この ことによって A 教諭 は, 自ら アイデアを提供す る方針決定者ではない ことが許容 され,方針決定者ではないに もかか わ らず,犬 をめ ぐる活動の中心 として認識 されているのである

結果, A 教諭 は世代 的 背景 を持つ と思 われる 「 変化」の部分 をも併せ持 った まま,伝統的 ・規範的教 師像 に も 結 びつけ られた行為 を 「とろ うとしている 」 と解釈 されている。例 えば, A 教諭 自身 に

よる態度への説明づ けが行 われている場面 には,次の ような ものがある。

【 場面 1 :事故にあった犬 を獣医へ連 れてい く】

「 連絡 とれた じ

ょ 。

いつで もいけるって 」

「 それだった ら,僕が車出 します ! 」

先輩教師がす ぐに応 じる

「 犬積むんだった ら,段 ボールがいるわな」

テキパキ と段取 りが進 んでい く。

「 僕 も行かせて下 さい」

私 はなぜか, どうして もこのメンバーに入れて もらいたかった。 ( 中略)

普通の学校 なら‑見 てみぬふ りを してや りす ごすか,せめて近寄 ってなでてやる くら いの ものだろう。 とん とん拍子 に, こうい う人間的なあたたかい方法で解決 しようとす る学校 の教 師であることに,私 は胸 を張 りたい ような誇 らしい思いが していた。

この場面で A 教諭 は,テキパ キ と行動す る先輩教 師たちに遅 れて参加す る。それは, この ような事態 に対 して学校が どこまで関与するのかわか らなかったか らであ り,予想 以上の話の進展 に驚いていたか らである。 しか し, A 教諭の意識 はす ぐにこの先輩教 師 の動 きに同調 し, こう した教 師集団への コミッ トメ ン トを表明 している。 こうして, A 教諭 の驚 きや とまどいは,即座 に 「 人間的な 」 Ⅰ小学校 の価値観 に対す る肯定的評価 と

して意味づ け られているのである。

【 場面 2: 犬小屋 を作 る】

で も,普段 の仕事 に加 え,犬小屋 を作 る となる と‑。私 はてっ きり教 師の手で作 る と ばか り考えていたのだった。

「 遠藤君 な,子 どもに全部 まかせ て,や らせ てみい よ 」

校長先生か らの ア ドバ イスだった。教 師サ イ ドか らは,木材 のみ を与 えて,あ とは, なんと設計か ら製作 まで∴ ( すべて子 どもたちにまかせ ろ) とい うのである

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教育経営研究 第

7号 200

L

・3

「 手は出 した らあかん。 どうして もな,子 どもの手で無理 なときだけ,『 方法』だけを 教 えてやった らええん じゃ」

( 中略)

私 はハ ツとした。校長先生は,『 犬小屋作 り』 とい う作業の中で も 町 子 どもを育てる 』

ことを一番 に考えていたのだ。 ( 自分の仕事だ)なんて・ ・ ・ 。そんなことを考 えていた自分 が本当に恥ずか しい。

( 中略)

校長先生の話 を聞いて,私 も教師 として もうひとつ日が開いた感 じだった。

( あせ らずに, とにか く子 どもたちにまかせて, じっ くりと活動 を見守ってやろう !) ( 子 どもたちを,生かす も殺す も教 師次第だ !)

私 もまたやる気 になった。い よい よ犬小屋作 りがス ター トする

また場面 2 か らは,「 子 ども主体」 とい う価値観の提示が, この場面にも適用可能であ ることをまった く予期 していなかった A 教諭が,抵抗 な く素直 に校長 に 「 学 んでいる」

姿勢が読み とられる

この記録では,この場面以外 にもしば しば 「あえて子 どもを挑発」,

「 パ イプ役 に努め よう」等の説明が見 られるが,これ らの態度 は, こうした校長の指導観 を受 け入れ実践 に移そ うと試みていることを表明 している と理解 される。 こうして,A 教諭 は Ⅰ小学校で 「 子 ども主体の教育 を目指 して努力する好 ましい新米教 師 」 とい う位 置 を占めている

この ようなA 教諭の位置 は, Ⅰ小学校が学校教育 目標 として,あるい は校長の示す教育方針 として採用 している教職の価値規範へ対応 させ た形でのA教諭の

( 5 ) 態度の説明づけ作業 によって構成 され,確認 されているといえる

Ⅴ . 教師像の転換」を視点とする学校経常の展望

以上の ようなA教諭の事例 は,現代 の学校 における 「 教 師像 の転換 」 と学校経営の間 を説明する もの として ,2 つの意味で典型的であるといえる

その 1 つは, ライフス タイルや価値規範が 「 変容」 している ととか く言 われがちな若 い教 師の態度 としての典型性である

A 教諭の意識や行動 は 「 教 師像 の転換」論が主張 す るタイプ 1とタイプ 3 の どちらを説明する もので もない。 まだ主体的判断に基づ く行 動が困難 な若い教 師であって も,志向性 としての 「 人間教 師像」 は根強い拘束力 を持 っ ている。 しか し,同時 に教職規範の拘束力 は,意外 に唆味 な もので もある。実際 には, 非常 に幅広い範囲の行為が教職規範 を志向 した もの と解釈 されているわけである。

久富が指摘するように,「 献身的教 師像 」 に代 わる新たな教師像の核心 を掴み得ていな

い今 日,伝統的 な規範的教 師像の囚われか ら離れて一足飛 びに違 う教 師の姿 を追 うこと

は■ ,現実的には困難である。 とすれば,結局,両面 を内には らみなが ら 「 変容 」 と 「 普

遍」 との間 を柔軟 に往復する態度 は,一般的な教職意識のあ り方であろう。 この ような

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実践記録 は 「 深刻 な教育病理か ら縁遠い世界の夢物語 」 だ といわれるか もしれない。 し か し,深刻 な教育病理 に悩 む学校 の教 師たち も,おそ らく同様 に,学校が採用 している 教育 目標や教職規範 と自己の距離 を測 りなが ら, 自らの意識や態度 を説明ずける作業 を 行 っているはずである

この点で,A 教諭は 1つの典型であるといえるのである。

また, もう 1 つには,「 教師像の転換」が問題化 しない学校のあ りようとして も典型的 であるといえる

Ⅰ小学校では,教育活動が展開される場面での解釈過程 において, A 教諭の行為や態度が 「 新米教師の好 ましい態度 」 として意味づけ られたため,様 々な意 識や態度の敵齢が生 じうる契機 は,いずれ も暗黙裡 に同一の価値規範 を志向 している も の と理解 され, 2 つの価値観の村立 とい う形では認識 されなかった

学校 として統合 さ れた教育課程 を編成 し実施する学校経営作用の中に,A教諭 も埋め込 まれていたわけで ある

例 えば吉本 ( 1 965)は,学校経営 を 「 一つの学校組織体 ( 協働体系)の維持 と発展 を はか り,学校教育本来の目的 を効果的に達成 させ る統括作用である 」( 88 頁)と定義する。

それはつまり,個別学校単位での教育 目標達成のために,「 職員の努力 を調整 し,協働の 体系 に保つ作用である」 ( 87 頁)。学校 では,授業 を中心 とする個 々の教育活動 と学校全 体での教育活動が教育課程 によって統合 され,学校全体の教育 目標の もとに位置づ けら れている

こうした 1 つの学校での教育全体の見通 しと,個 々の教 師による指導 との関 係 を視野 に入れ,全体の活動体系 を明確 に描 くことは,学校経営の重要 な課題 である。

とりわけ個 々の学校 の 自律性が強調 され,特色ある教育課程編成がいっそ う期待 されつ つある近年の動向に照 らせ ば,外部環境 との区別 を手がか りとして,個 々の学校が組織 的な単位であることを自覚する必要は切実である

こうした学校経営作用が十分 に機能するために, これまでには個 々の学校が抱 えてい る課題の共通認識や 目標の共有,そのための協働体制づ くり, コミュニケーシ ョン機会 の確保 などが重要性 を指摘 されて きた。 これ らは,いずれ も学校全体が 目指 している方 向性 と個 々人の意思の調整 ・統合 を促進するための方法であるが,そ の関心はどち らか といえば,個 々の構成員の意識 にいかに して学校全体の意思 を浸透 させ,位置づけるか とい う点にあったのではなかろうか。 しか し, Ⅰ小学校の事例 に見 るように,「 暗黙のラ イン 」 模索のための相互作用 は,む しろ個 々の構成員の意思 をどの ように理解 し学校全 体の志向の中に位置づけるか, という関心か らの調整 ・統合への発想転換の重要性 を示 唆 しているように思われる

そこで,「 教師像の転換 」 を学校 と個 々の教師 との価値規範 をめ ぐる折 り合いの失敗 と

して とらえる観点か らは,学校経営上の課題が2 点考えられよう。すなわち 1 つは,明文

化 された教育 目標 に照 らした成果の評価のみではな く,それぞれの学校が採用 している

教育価値 ( 子 ども観,指導観,学校観 など) と,それに沿っていない ように見 える教 師

との 「 距離」の読み とりをも意図 した総合的な学校評価である。 この距離の読み とり方

次第で,個 々の教 師が教育課程の計画 ・実施上 どの位置 に必要なのか とい う判断 も異 な

7 5

(12)

教育経営研究 第 7 号 2 0 0 1・ 3

ってこよう

もう 1 つは,このような距離の読み とりと実際の行為の意味づけ作業 によ って,学校 内での役割配置や組織作 りの際に教師一人一人が生 きる学校経営 を構想する ことである。 この ような形で,個̀ 々の教師が 「 学校」 との相互交渉による 「 暗黙のライ ン」 同定 に参加で きることが,教師全員が関わる学校経営の実現 を促 し,また,故師の バーンアウ トを予防することにもつながってい くと考えられるのである。

【 註】

(1)このような 『 二十四の瞳』の一般的解釈 と評価 について,佐藤 ( 1 9 9 7) は異 を唱えている。大石先 生が人々に大 きな衝撃 を与 えた理由が 「 戦争の記憶の慰籍 と,再生の儀式の担い手」 としての役割 にあった と考 えれば,その教師像の本質は 「 安易 な人間主義イデオロギーの拒否 」 にあった と見 る べ きであるとい うのである ( 3 21 ‑ 3 2 7 頁)。 したがって , 『 二十四の瞳』 をどのように評価するかによ って, A 教諭へ向けられる期待 も異 なった もの となる点には注意が必要である

( 2 )もっとも,プライバ タイゼ‑シ ョンの観点か ら教師の変容 を明 らかに しつつ,その変容の利点 と欠 点 を踏 まえて変化その ものに対する評価はニュー トラルであるとする油布のように,規範的な教師 像の再提示 を意図 しない もの も皆無ではない。

( 3 )より正確 に言 えば,関与 したい とい う意思は随所 に表現 されているが,同時に関与 してよい ものか どうかわか らない, という迷い も繰 り返 し表現 されている。

( 4) 例 えば,保健所へ犬 を引 き取 りに行 った り,犬小屋作 りのボランテ ィア作業に付 き添った りする等, 学級単位の活動ではない部分で当た り前q )こととしてA教諭が担当 している し,犬 をあ きらめるこ

とになった際,先輩教師たちはA 教諭 を慰めている

( 5) このような説明づけが, A 教諭の側か らのみ行われていたわけではないことは,校長の以下のよう な文面か らも窺われる

運動場 は水浸 しだろうと暗い朝明けをついて学校 についてみる と,運動場側の二階の職貞室は 明々と電気がついていた。予期 していたとはいえ,この学校の先生方はすごい と思った

しか し,そこには一年 目の遠藤先生の気配はなかった。

職員室では教頭先生が電話 をしていた。相手はやは り遠藤先生だった。 ( 中略) 駐車場 に車のエ ンジン音が したのは,それか らさほど時間はかか らなかった。 ( 中略)

「 あっ,分か りました。あ りが とうございます。校長先生 ‑」

「え ? ・ ・ ・ なにが 『 あ りが とうございますjな, どしたんな 」

「 いや,今 さっき教頭先生か ら・ ‑とにか く学校へ来てみ‑ と言われて急いで とんで来たんですが‑

そのわけが分かったんです‑ ‑」

水 たまりので きた運動場の様子か ら , ‑を見て,百 を知った』遠藤先生の感動 シーンである。

【 引用文献】

石飛和彦 ,1 9 9 5 「 校則問題のエスノメソ ドロジー‑ 『 パーマ退学事件』 を事例 として ‑ 」 教育社会学

研究 』第 5 7 集 ,1 4 5 ‑ 1 61 頁.

遠藤岳也 ,1 9 9 8 F の ら犬,学校 をかえる』ハギジン出版.

岸田元美 ,1 9 8 7 F 教師 と子 どもの人間関係』教育開発研究所.

久冨善之 ,1 9 98 「 教師の生活 ・文化 ・意識一献身的教師像の組み替 えに寄せて ‑ 」 ど( 現代の教育 6) 教 師像の再構築』岩波書店 ,7 3 ‑ 9 2 頁.

佐々木賢 ,1 9 98 「とらわれ と呪縛 」 F( 現代の教育 6) 教師像の再構築』岩波書店 ,4 8 ‑ 7 2 頁.

佐藤 学 ,1 9 9 4 「 教師文化 の構造一教育実践研究の立場か ら ‑ 」 『日本 の教師文化』東京大学出版会,

(13)

21 ‑ 41 頁.

佐藤 学 ,1 9 97 『 教師 とい うアポ リア』世織書房.

佐藤 学 ,1 998 「 現代社会の中の教師 」 『 ( 現代の教育 6) 教師像の再構築』岩波書店 ,3 ‑ 2 4 頁.

田中恒雄 ,1 993 「 教師の不安一多忙化 と管理主義の根源 ‑」 教育科学研究会編 『( 現代社会 と教育 5) 教師』大月書店 ,51 ‑ 71 頁.

長尾秀夫 ・伊藤徹他 ,1 996 「 子 どもが望む教師に関する研究一教育学部学生 自らが体験 した教師を通 し て ‑ 」 『 愛媛大学教育学部紀要教育科学』第 42 巻第 2 号 ,97 ‑ 1 0 7 頁.

深谷昌志編 ,1 9 97 『 好かれる教師はどこが違 うか』明治図書.

鈎 治雄 ,1 9 92‑1 9 93 「 児童 ・生徒の対教師感情 に関する研究 (Ⅰ)‑ ( Ⅳ) 」 帽り 価大学教育学部論集 』 第 3 2 号 〜第 3 5 号.

油布佐和子 ,1 9 91 「 現代教師のpr

ivatization

」 『 福 岡教育大学紀要』第 40 号.

油布佐和子 ,1 99 2 「 現代教師のpr

ivatization

( 2) 」 『 福 岡教育大学紀要』第 41 号.

横湯園子 ,1 993 「 強迫パーソナ リテ ィ時代の教師」教育科学研究会編 『( 現代社会 と教育 5) 教師』大 月書店 ,8 6‑ 1 1 0 頁.

吉本二郎 ,1 96 5 『 学校経営学一現代教職課程全書』国土社.

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