• 検索結果がありません。

スリランカのカトリック文化をめぐって

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "スリランカのカトリック文化をめぐって"

Copied!
17
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

スリランカのカトリック文化をめぐって(アラビア 海の文化誌 / アラビア海東域の港湾都市をめぐる 文化・民族複合の実態調査編 : 第1部 スリランカ

・インドにみるポルトガル・オランダの軌跡)

著者 澁谷 利雄

雑誌名 東西南北 別冊04

04

ページ 8‑23

発行年 2002‑12‑15

URL http://id.nii.ac.jp/1073/00004411/

(2)

一二月になると︑ふとスリランカで眼にしたクリスマ

スを思い出す︒

一九九六年から九七年にかけて︑私はコロンボ大学の

客員研究者として家族とともに一年間過ごした︒五月に

なると︑三歳になったばかりの娘が幼稚園に通いだした︒

スリランカでは︑幼稚園のことをモンテッソーリと呼ぶ︒

イタリアではじまったモンテッソーリ式幼児教育が普及

しているからである︒娘が通っていたモンテッソーリは︑

コロンボ五区のわが家から徒歩一○分あまりの住宅街に

あった︒個人宅の一角に教室︵一室のみ︶があり︑女性

教師二人が三歳から五歳までの幼児一二人を指導してい

た︒大半はシンハラ人︵仏教徒︶だが︑ムスリム一人︑ 澁谷利雄

スリランカのカトリック文化をめぐって

lはじめに

スリランカ人と日本人の混血一人︑日本人一人という櫛

成であった︒経営者︵兼教師︶はシンハラ人で︑仏教徒

である︒教室には小さな仏棚があり︑毎朝︑花を供え三

帰五戒を唱えることから始めていた︒わが娘も途中の道

端でオジギソウの花を摘んで持参していた︒

シンハラ語でクリスマスのことを・ゴ罠邑●.という︒ポ

ルトガル語の・ゴ画旦●.﹁誕生﹂に由来する言葉である︒一

二月に入るや商店街の各所にクリスマス・カードや装飾

品︑花火を売る店が立ち始めた︒商人たちは︑仏教徒で

あれイスラーム教徒であれ︑クリスマス・セールを開始

する︒そしてなんと︑娘の通うモンテッソーリでもクリ

スマス・パーティーをやるというのだ︒娘といっしょに

参加した妻の話では︑サンタクロースが登場し︑プレゼ

ントをもらい︑みんなでケーキを食べたという︒宗教と しぶやとしお本学︑人間関係学部人間関係学科教授.文化人頚学︒スリランカを中心に南アジアをフィールドとする︒宗教と社会変動︑大衆文化などを研究.

− 0 0 8

(3)

結びついたナショナリズムが強いスリランカでも︑日本

と似たように非キリスト教徒がクリスマスを楽しんでい

ることに︑私は驚いた︒

今日︑スリランカにおけるキリスト教徒の割合は︑全

人口一九○○万人のうち七・六パーセントを占める︒そ

のほとんどがカトリックである︒一五○五年ポルトガル

人が来島し︑シナモン交易に携わり︑布教も行なった︒

となると︑キリスト教がもたらされて五○○年近くにも

なるのだ︒クリスマスはすでに非キリスト教徒にとって

もなじみのある祭りになっているようである︒

そういえば︑シンハラ文化のここかしこにポルトガル

F声r 4 − 一 − ■ q ■ ■ =

← ̲

衣料品店の入口で(コロンボ市内、1 6)

文化の痕跡がみられる︒

食物に関連する表現に震扁ご富﹃且○富国目乏嘩ごつ油で揚

げる﹂がある︒・・扁弓胃目○・・は日本で言う天婦羅の語源

と思われる︒フラナーンドゥやピーリス︑ペレーラなど︑

ポルトガル式の人名をもつ仏教徒もめずらしくない︒ダ

ンス音楽のバイラは︑ポルトガルと東アフリカ︑スリラ

ンカの音楽が混ざり合っている︒すでにポルトガル文化

は少なからずスリランカ化している︑というべきである︒

ここでは︑スリランカにおけるポルトガル文化の影響

について︑カトリックの動向を中心に報告したい︒

クリスマスツリー用の枝を売る人びと(デヒヮラ、1 6)

花火の露天(ヌケーゴダ、1996)

クリスマス・カード屋(ヌケーゴダ、1 6)

(4)

lポルトガル支配

ポルトガル人が最初にランカー島にやって来たのは︑

一五○五年である︒八隻のポルトガル船団がモルディヴ

近海を航行中に暴風雨に遭い︑航路を外れて南部のガー

ッラ港に避難したのだ︒ヴァスコ・ダ・ガマが南インド

のカリヵットに到着して七年後のことである︒一行は沿

海を探査し︑コーッテ王国の港コロントタ︵現コロンボ︶

も訪れている︒当時のコロントタは︑ホルムズや南イン

ド︑ベンガル︑ビルマなどからやって来た商人が居住し

ており︑二つのモスクを有するコスモポリタンな港町で

あった︒

二度目にやって来るのは一二年後の一五一七年である︒

彼らのねらいはシナモン交易で︑まずはコロンボに製造

所を築いて根拠地とした︒やがて砦を築き︑アラブ商人

を駆逐してシナモン交易を独占し︑コーッテ王国の王位

継承の内紛に介入するようになる︒一六世紀初めのラン

ヵー島には︑コーッテと内陸のカンダ・ウダラタのふた

つのシンハラ仏教王国と︑北部のタミル・ヒンドゥー王

国ヤールパーナム︵ジャフナ︶が分立していた︒強引な

シナモン調達やカトリックの布教︑仏教寺院や神殿︑モ

スクの破壊に住民の反感も強く︑反乱がたびたび生じた︒

しばしばポルトガル勢︵東アフリカから導入した傭兵や

現地人との混血を含む︶はコロンボの砦に追い詰められ たが︑優勢な海軍力とゴァからの援軍を得て反撃に転じた︒

ポルトガル勢力の介入と圧力のなかで︑最後のコーッ

ッテ王ダルマパーラは︑一五五五年カトリックに改宗す

る︒一五八○年には︑死後コーッテ王国をポルトガル王

に譲渡すると遺言している︒一五九七年五月二七日にダ

ルマパーラが死亡すると︑二日後にはコーッテがポルト

ガル王国領であることが宣言された︒

ポルトガルは西部沿海地方︵旧コーッテ王国およびヤ

ールパーナム王国︶を数十年支配したに過ぎないが︑次

に続くオランダ時代︵一六五六一七九六︶に比べてよ

り大きな影響を残したといわれる︒ポルトガル人は土着

の行政機構を存続させ活用した︒徴税に当たっては︑官

吏を用いるよりも徴税権をもつ農民に依拠していた︒ポ

ルトガル人であれシンハラ人であれ︑官吏には報酬とし

て土地が与えられた︒また︑土地台帳を整備し︑国税徴

収の基礎とした︒

シナモンは西南部の森から採取された︒ポルトガルは

シナモン製造をカースト制に依存し︑サラーガマと呼ば

れる集団に任せていた︒一定のサービスの見返りに耕地

が与えられていた︒ポルトガル側からの要求は次第に高

まり︑一七世紀半ばには一二歳以上のサラーガマの者す

べてに製造が義務付けられた︒ポルトガルは早くからシ

ナモン交易の独占を策し︑一五九○年代にはコロンボが

010

(5)

唯一の輸出港とされ︑九五年にはコロンボのキャプテン

の専売とされた︒高価格を維持するためにしばしば供給

量の調整を行ない︑一六一四年には王室専売とされた︒

コーッテ王国では︑農民にとってアレカナッッが主要

な現金収入であった︒ポルトガル統治下では︑アレカ・

ヤシを栽培する全村に対し︑一定量の供出が義務付けら

れていた︒植民地政府はそれを市場価格よりも安く買い

取り︑南インドから輸入した米や布地の支払いに当てた

のである︒

ポルトガルが与えた最大の衝撃は︑ローマン・カトリ

ックの導入である︒改宗を進めるために︑彼らは容赦な

く仏教寺院やヒンドゥー神殿を破壊し︑その領地をカト

リック教会に譲渡した︒ローマン・カトリック以外の宗

教が禁じられるのは︑ダルマパーラ王︵在位一五五一

九七︶の治世である︒同時に︑報酬や称号を与えるなど

の誘引策がとられた︒劣位の者にとってローマン・カト

リックへの改宗は︑伝統社会では不可能な︑より高い地

位を獲得する手段にほかならなかった︒

ポルトガルの統治は︑仏教寺院やヒンドゥー神殿︑モ

スクといった非キリスト教の宗教施設を破壊するなど︑

暴力的で強引に進められた︒キャラニャ寺院はコーッテ

王国における仏教の中心であり︑仏教王権の正当性の証

としての仏歯が安置されていた︒しかし︑ダルマパーラ

王の改宗後︑一五七五年にポルトガル軍が攻撃し破壊し てしまう︒コロンボの砦建設には︑キャラニャ寺院の石が用いられたという︒一五九一年︑王は同寺院一帯をフランシスコ修道会に寄進してしまう︒破壊された仏舎利塔の傍らには聖アン教会が︑キャラニャ川の対岸には聖バーソロミュー鈴詮云が建立された︒

コーッテ王国の仏教寺院のほとんどが破壊され︑領地

はことごとくカトリック教会に譲渡された︒僧侶たちが

ウダラタ王国に避難した後は︑ガニンナーンセと呼ばれ

る在家の儀礼執行者によって仏教の慣習が維持された︒

キャラニャ寺院過跡への参拝は禁じられたが︑巡礼はひ

そかに続けられていた︒キャラニャに僧侶が常住し︑寺

院の機能が再開するのは︑オランダからイギリスへと支

配者が変わる一七冊児のことである︒

ポルトガルは︑宗教政策をはじめとして抑圧的な統治

を行なったのだが︑次の支配者オランダに較べてより大

きな文化的影響を残している︒カトリックへの改宗者に

は王族や貴族などの特権的な階屑もいたが︑主体は漁民

︵カラーワ︶であった︒仏教で忌避されている殺生にか

かわる仕事に携わり︑シンハラ社会で第二列に位置づけ

られているためと考えられる︒今日でも︑プッタラマや

ハラーワタ︑ミーガムワ︑モラトゥワなど︑西海岸の漁

民社会には多くのカトリック教会と信者が存在する︒

仏教復興運動の高まりにより︑仏教への再改宗がなさ

れたが︑ポルトガル式の名前を保持している者が少なく *最上位のゴイガマ︵農耕民︶が人口の約半分を占め︑次にカラーワ︵漁民︶やサラーガマ︵シナモン製造︶︑ワフンプラ︵粗糟製造︶などが位置づけられる︒

0 〃 −

(6)

l仏教復興運動の台頭

ポルトガルの統治が六○年間であったのに対し︑オラ

ンダは一四○年間支配した︒プロテスタントのカルヴァ

ン派の布教活動があったとはいえ︑他の宗教に対しては

おおむね寛容であった︒都市部では仏教やヒンドゥー教 ない︒私の友人︑知人のなかにも︑ペレーラ︑ピーリス︑フラナーンドゥ︑フォンセーヵ︑ダャス︑シルワを名のる者がいる︒人名については︑ポルトガルの統治を経験していない高地でもボディ・シンニョー︵シニョール︶というような借用がみられる︒人名のみならず多くのポルトガル語起源の語句が︑シンハラ語に定着している︒今日の日常会話でよく用いられる語句を挙げると︑食物ではバーン︵パン︶︑サラーダ︵サラダ︶︑ウィナーキリ︵酢︶がある︒衣装に関連するものでは︑カミサャ︵シャシ︶︑カリサマ︵ズボン︶︑サパットゥ︵靴︶︑レーンスワ︵ハンカチ︶などがある︒宗教用語では︑パースク︵イースター︶︑クルセ︵十字架︶︑ジェースス︵イエス︶︑ナッタル︵クリスマス︶など︒この他︑ソルダードゥ︵兵隊︶︑ノーナ︵女房︑奥さん︶︑カッピター︵キャプテン︶もよく用いられる︒低地︵西部沿海地方︶の女性のブラウスなど衣服にも︑ポルトガル支配の痕跡はしっかりとみられる︒かつてウダラタ王の衣装は︑ポルトガル人宣教師の礼服を模したものであったという︒ が禁じられていたが︑農村部までは統制されなかった︒統治に当たったのはオランダ東インド会社で︑ポルトガルに倣って土着の官僚機構を活用した︒オランダ支配の所産は︑ローマ・オランダ法の導入や運河の建設︑現地語による学校教育︑傭兵としてのマレー人の導入があげられる︒

ポルトガルにしるオランダにしろ︑スリランカに対す

る主な関心は︑シナモン交易の独占であった︒流通過程

の支配とそれを保障するための軍事拠点の確保こそが課

題であった︒したがって︑土着社会の構造には大きな変

化は生じなかったといえる︒しかしイギリスの場合は︑

大々的なコーヒー・プランテーションの開発に乗り出し︑

生産から流通までを支配することになる︒

実は試行的なプランテーションは︑オランダ時代後期

に開かれていた11人うでもコロンボ市内にシナモン・ガ

ーデンという地名が残っているlが︑新しい経営方式

を本格的に展開しようとしていた矢先に︑イギリスに取

って代わられたのである︒イギリスが一八一五年に滅ぼ

したゥダラタ王国の山地は︑まもなくコーヒー栽培の適

地とわかり︑一躍注目を浴びることになる︒

コーヒー・プランテーションの経営に乗り出したのは︑

イギリス東インド会社の社員や植民地政府の官吏︑軍人

であった︒植民地政府は︑所有権が不分明な森林や荒蕪

地を国有地とし︑安価で払い下げた︒労働力としては︑

0ノ2

(7)

南インドのタミル人が導入された︒道路や鉄道が建設さ

れ︑流通網が整備されていく︒高地と西部沿海地方を結

ぶ商業活動も盛んになり︑コロンボには各種サービス業

が発達する︒こうして︑コーヒー・プランテーションを

機軸とした植民地経済体制が確立される︒

スリランカでは︑仏教王国が存在した内陸部を高地

︵ウダ・ラタ︶︑早くからヨーロッパ人の支配下にあった

西部沿海地方を低地︵パハタ・ラタ︶という︒低地のシ

ンハラ人︑タミル人︑ムスリムの商業資本家たちも︑新

しいビジネスの流れに敏感に反応した︒資本規模はイギ

リス人に比べて小さかったが︑コーヒーやシナモン︑コ

コャシのプランテーションを手がけるようになる︒成功

した商業資本家たちはコロンボに居を構え︑子弟をキリ

スト教学校に送り英語教育を受けさせた︒官吏や教師︑

医師︑弁護士の職につく者も増え︑一九世紀半ば頃には

新興のエリート層を形成するようになる︒

長年にわたるヨーロッパ人による支配とキリスト教の

布教により︑被支配者の側の宗教11仏教︑ヒンドゥー

教︑イスラーム教11は弱体化していた︒仏教にあって

は︑一八世紀に仏教王国としてのウダラタ王国でさえ︑

正式な僧が存在しないというほどに衰退していた︒ビル

マから二度支援を受けたにもかかわらず︑一八世紀半ば

には受戒式︵僧が四人必要︶が執行できない状態に陥っ

てしまう︒沙弥︵見習い僧︶のウェリウィタ・サラナン カラはキールティ・スリー・ラージャシンハ王︵在位一七四七八二︶に進言し︑一七五○年にタイへ使節が送られた︒一七五三年︑タイから一三人の僧を迎え︑教団再建を行なった︒この宗派はシャム派と呼ばれ︑最大宗派として今日に至っている︒王国時代に建立された寺院は王から土地を寄進されているので︑王立大寺院︵ラジャ・マハ・ウィハーラャ︶と称している︒支配者がオランダからイギリスに交代した際には︑サラナンヵラの弟子とされるブッダラッキタがキャラニャ寺院の再興に着手している︒

仏教復興にはもう一つの流れがある︒高地で王権の庇

誕の下で教団が再建されているのに対し︑低地では︑植

民地体制のなかで実力をたくわえつつあった商業資本家

たちの手によってなされていく︒また︑シャム派僧侶は

最上位の集団ゴイガマ︵農耕民︶に限られていたが︑低

地ではむしろ第二列に位置づけられていたカラーワ︵漁

民︶︑サラーガマ︵シナモン製造︶︑ドゥラーワ︵ヤシ酒

製造︶の参与が大きい︒サラーガマ出身のアンバガハピ

ティエ・ニャーナウィマラは︑ビルマのアマラプラで具

足戒を受け︑一八○三年にアマラプラ派を起こした︒さ

らに︑アンバガハワッテ・サラナンカラは︑ビルマのマ

ンダレーで具足戒を受け︑一八六四年により厳格なラー

マンニャ派を起こす︒

一八○六年︑コロンボ最初の仏教寺院が︑市北部の.

O l 3 − −

(8)

タヘーナ地区に建立される︒アマラプラ派のディーパー

ドゥツタ・ラーマャ寺と︑シャム派のパラマーナンダ寺

である︒コロンボは植民地スリランカの政治・経済の中

心であり︑ヨーロッパ人の手によって発達した英語とキ

リスト教の町であった︒シンハラ人︑タミル人の傭兵や

官吏︑カトリック教徒︑コーッテ王国の元王族や貴族が

住み着いていた︒二寺の建立は︑すでに檀家を形成して

寺を支えられる程度に︑シンハラ人仏教徒が居住してい

たことを示している︒

イギリスはウダラタ王国の内紛に乗じて侵攻し︑一八

一五年に王国を滅ぼし︑全島支配を確立する︒王権滅亡

後も一八一七年の大反乱を始めとして︑貴族や農民によ

る抵抗が生じている︒こうした反乱は一八四八年まで続

くが︑いずれも王位僧称者を立てている点で共通してい

子︵︾◎

ウダラタ王権崩壊後は全土の首都コロンボの重専径が

高まり︑前述の二寺院は仏教復興運動のセンターとなっ

ていった︒主要な担い手は︑西南部のマータラやガーッ

ラ出身の商業資本家層で︑ゴイガマと並んでカラーワや

サラーガマ︑ドゥラーワも加わっていた︒一九桁紀半ば

になると︑イギリス支配に対する抵抗の舞台は︑コロン

ボを中心とした低地に移る︒前述二寺に続いてコロンボ

では︑ミリンダ・ラーマヤ︵一八三三︶︑ジャヤセーカ

ラ・ラーマヤ︑ティラカラトゥナ・ラーマヤ︵一八五五︶︑ ガンガー・ラーマヤ︵一八五五︶︑ワジラ・ラーマヤ︑アバャ・ラーマャ︵一九○○︶が建立されていく︒これに並行して︑僧侶の教育のためにピリウェナと呼ばれる僧院学校が開設される︒まず一八四五年に︑コロンボ郊外のラトゥマラーナにパラマーダンマ・チェティャ・ピリウェナが設立された︒一八七三年にはコロンボのマーリガヵンダにウィッディョーダャ・ピリウェナ︑七五年にはコロンボ郊外のペリャゴダにウィッディャーランカーラ・ピリウェナと続く︒

仏教徒のためのさまざまな団体が組織され︑冊子やパ

ンフレットなど印刷物も活用され始めた︒仏教復興の機

運を飛躍的に高めた出来事として︑仏教とキリスト教の

間の論争がある︒一八六四年から七三年にかけて︑五回

の公開論争が行なわれた︒なかでも︑七三年に西海岸の

パーナドゥラで二日間にわたって行なわれた論争では︑

一万にのぼる会衆が参集した︒仏教側を代表したのは︑

モホッティワッテ・グナーナンダで︑キリスト教側は︑

ウェズレー派の主教デーウィッド・ダ・シルワが臨んだ︒

論争はシンハラ語で行なわれ︑グナーナンダが優位に立

ったために︑仏教側は熱狂した︒仏教徒側はこれをキリ

スト教に対する仏教の勝利として︑出版物により内外に

宣伝していく︒

国外でパーナドゥラ論争に関心をもち積極的に反応し

たのは︑神智論者であった︒神智協会︵弓胃om8言︒巴

− 0 脚

(9)

gg①gは︑アメリカ人弁護士ヘンリー・オルコット

︵初代会長︶と︑霊媒として知られていたロシア人へレ

ナ・ブラヴァッキーを中心にして︑一八七五年にニュー

ヨークに設立された︒彼らは︑キリスト教に基づく近代

西欧文明に批判的な人びとで︑無神論者や自由主義者︑

フェビアン派社会主義者が加わっていた︒東洋の神秘や

精神に惹かれ︑仏教やヒンドゥー教に関心を寄せていた︒

まもなく︑オルコットはグナーナンダと手紙のやり取り

をし︑両者は急速に接近していく︒

神智協会は︑一八八○年に本部を南インドのマドラス

郊外に移す︒同年︑オルコットとブラヴァッキーはスリ

ランカを訪問した︒南部のガーッラに着くや二人は三帰

五戒を誓い︑初めてのヨーロッパ人仏教徒として熱烈な

歓迎を受ける︒コロンボではまもなく︑仏教徒のための

学校建設と仏教教育を推進すべく︑仏教神智協会を設立

した︒これは出家と在家の双方から成る組織で︑三宗派

とも加わっていた︒こうして︑仏教復興をめざすシンハ

ラ人商業資本家と︑神秘主義を好む欧米の知識人との共

闘が始まる︒

仏教復興運動は︑仏教を強化しながらシンハラ人とし

ての誇りを取り戻し︑イギリスの植民地支配とキリスト

教に対する抵抗であった︒しかしながら︑シンハラ人商

業資本家にとって︑最も身近な競争相手で利害がぶつか

り合うのは︑土着の商業資本であった︒とりわけ︑植民 地社会で政治的にも経済的にも優位に置かれていたシンハラ人カトリック教徒は憎悪の的であった︒一八八三年にコロンボのコタヘーナ地区で起こった仏教徒とカトリックの間の暴動は︑そうした気運のなかで生じている︒パーナドゥラ論争の論客として知られたグナーナンダは︑コタヘーナのディーパードゥツタ・ラーマャに住んでいた︒彼はイースター祭に対抗して一週間のピンカマ︵功徳を積む行為︶を催した︒カトリック教会の前を仏教徒の行列が通りかかった際に双方が衝突し︑暴動が生じたのである︒

オルコットはグナーナンダの要請を受け︑一八八四年

にスリランカを訪ね︑仏教徒側を代表して事件後の処理

に当たった︒そのなかでオルコットは︑仏教徒側が要求

していたウェサック祭の公休日化を総督に認めさせてい

る︒ウェサックは︑仏陀の生誕︑成道︑浬藥を記念し祝

う祭りである︒一八八五年以降︑ウェサック祭は︑仏教

徒が共通して祝うとともに︑民族意識を鼓舞する年中行

事として仏教復興運動の重要な戦術になっていく︒

こうした仏教徒側の攻勢に対抗してカトリック側が講

じた方策の一つは︑聖人像の設置である︒キリスト教徒

の領域を明示し︑力を誇示するために︑交差点や街路脇

に︑マリアや聖トマス︑聖セバスチャン︑聖アントニー

などの像を安置したのである︒

仏教復興運動は当初︑僧侶主導であったが︑しだいに

0 I ‑

(10)

ダルマパーラの仏教思想の特徴は︑プロテスタンテイ

ズムの価値観に基づいた現世的な禁欲であり︑在家の役

割の強調であった︒仏教教団の腐敗を批判し︑僧の社会

活動への参与を呼びかけた︒在家の人びとには勤勉と節

約を奨励し︑神々や悪霊の信仰を否定し︑仏陀のみを拝

するよう説いていた︒独身を通し︑アナガーリカ・ダル

マパーラ︵放浪の護法者︶を名乗り︑有髪のまま黄衣を

まとっていた︒パーリ経典では︑︽㎡.撹昌冨署とは﹁出家

者﹂を指しているが︑彼は出家と在家の中間的な身分と 米への仏教の伝道に力を尽くした︒ 在家の役割が大きくなっていく︒半僧・半俗の指導者アナガーリヵ・ダルマパーラ︵一八六四一九三三︶が登場すると︑強力に展開されるようになる︒彼はコロンボの富裕な家具商の家に生まれた︒本名はドン・デーウィッド・ヘーワーウィターラナといい︑キリスト教学校で英語教育を受けた︒そのかたわら︑信仰熱心な母親に連れられてグナーナンダの寺に出入りしていた︒祖父が仏教神智協会の会長を務めていたので︑早くからオルコットやブラヴァッキーとも接している︒一八八四年に同協会に入会し︑八五年には文部省の職を辞して事務局長に就任し︑オルコットと共に仏教学校建設の活動に専念した︒九○年までに仏教徒が運営する学校は一四二校を数えた︒ダルマパーラはこの他︑インドおよびスリランカの仏教聖地修復︑禁酒運動︑仏教徒の国際的な連帯︑欧

l独立とカトリック社会の変容

一九三一年のドナモァ憲法の制定により︑普通選挙制

が導入されたため︑エスニシティが大きな問題になって

きた︒仏教徒側からは︑﹁真のシンハラ人は仏教徒であ

る﹂との主張が高まり︑シンハラ・カトリックはマイノ

リティとして苦境に立たされた︒在家仏教徒の組織︑全

セイロン仏教徒会議︵ど一o豊呂冒呂三里no︒四①脇︶は︑

﹁カトリックの連中は︑外来の慣習に従う︑外国の宣教

師に統制され︑ローマ法皇に忠誠を誓う︑民族性︵国民 して用いた︒

スリランカ出身の文化人類学者ガナナート・オベーセ

ーヵラは︑ダルマパーラが唱えた仏教をプロテスタント

仏教と呼んでいる︒植民地支配に対する抵抗︵プロテス

ト︶と︑プロテスタンテイズムの影響とをかけているの

だ︒スリランカにおける仏教復興は︑キリスト教との深

いかかわりのなかで進められてきたといえる︒仏教の祝

祭ウェサック祭は︑オルコットの発案で再編されるが︑

そのモデルはクリスマスであった︒クリスマス・キャロ

ルを模してウェサック・キャロルが︑クリスマス・カー

ドを真似てウェサック・カードがつくられた︒また︑キ

リスト教の日曜学校から寺院の仏法学校が︑YMCA

︵ぺo巨眉富①易○言冒冨コン路︒g昌旨弓︶からYMBA

︵く︒巨畠言①易冒&重巽ン路︒g畠︒︒︶が考案された︒

− 0 ノ 6

(11)

の影響によると思われる︒

民衆レベルでは︑神︵︒且︶と聖人の関係と役割は︑

仏陀と神々のそれと類似している︒神︵Qoeへの礼拝

と秘跡からは保誕がもたらされるのであり︑現世ではな

く来世のためである︒他方︑聖人は現世のことがらに関

与している︒病気や経済的問題などを抱える人びとは︑

聖人の助力を得ようとする︒聖人の助力を得るには供物

を捧げなければならない︒それは︑ロウソクの点火︑聖

人の名による布施︑教会への寄付などである︒

神︵︒&︶は遍在するが聖人は特定の領域を有する︒

仏教徒にとっての神々が支配領域をもつように︑各教区

には守謹聖人が祀られている︒そうした聖人は教区の所

有者であり教区民の守識者である︒聖人はそれぞれ特別 性︶を失った者たちである︒﹂と痛烈な批判を展開した︒同時に︑それまで最良の教育を誇ってきたカトリック系学校を国有化すべきである︑という議論がなされた︒教育を背景にした人脈により︑カトリック側は官吏やビジネス界に人材を送り込んできたからである︒

カトリック界においては︑一九世紀を通じて多くの司

祭はヨーロッパから派遣されていた︒司祭は神︵︒g︶

を中心とした宗教活動を唱導したが︑カトリック信徒に

とって主な関心は︑聖人をめぐる信仰や奇跡であった︒

こうした傾向は︑ポルトガル︑オランダ時代にゴァから

派遣されていたオラトリオ会士や︑仏教︑ヒンドゥー教 な役目をもっている︒聖アンは教育に︑聖アントニーはビジネスや遺失物に︑聖セバスチャンは伝染病にご利益があると考えられている︒

神︵Qoeへの信仰と聖人への信仰とは︑相互に補完

しあう関係でもある︒

聖人のちからは神︵︒&︶から委託されたものである︒

神︵Qoeは聖アントニーに対し︑ビジネスを監督する

ための許可を与えているのである︒徳については︑聖人

よりも神︵Qoeのほうが高いと考えられている︒仏教

徒の神々と聖人との違いとしては︑神々は人間から功徳

を得ながら解脱を目指しているが︑聖人はすでにその域

−﹄い︲k卜︑︑一︑︲I削肌凶■一IP

クリスマス・ツリーの飾りつけ (ジャーエラのデヒヤガーター教会、2001)

キリスト生誕割(ジャーエラの聖マリア教会、2㈹1)

0 1 7 − −

(12)

に達している︑とされる点である︒宣教師は仏教徒の

神々をカトリックにおける悪魔と同一視した︒しかし︑

以上のような類似性ゆえに︑民衆は宣教師の教えには従

わなかったのである︒多くの宣教師は寛容に対応し︑ほ

とんど容認していた︒

聖人をめぐる信仰心は︑巡礼に顕著に表れている︒一

九世紀には聖アンを祀るタラーウィラと︑聖母マリアを

祀るマドゥーの二カ所が人気を集めた︒信徒の期待は聖

人のちからによる奇跡であり︑聖地では多くの人びとが

懸依状態となった︒両聖地から持ち帰った砂を水に溶か

して飲むと病気が治る︑ともいわれていた︒両聖地とも

十字架にココナツ油が注がれ︑人びとはそれを持ち帰っ

て薬として使用したという︒祭りの締めくくりでは多量

のご飯が用意され︑特別なちからを帯びる食べ物として

配られた︒こうした行為は︑今日︑仏教徒やヒンドゥー

教徒の間でもよく見られるものである︒タラーウィラと

マドゥーはともに多くの非カトリックの巡礼を惹きつけ︑

奇跡のちからは改宗をうながす手立てとなった︒

一九四八年二月四日︑スリランカは独立︵英連邦内の

独立国︶を迎えるが︑︐.S・セーナーナーャ力が率いる

統一国民党政権の下ではカトリック社会に大きな変化は

生じなかった︒同政権は︑世俗的な西欧型の資本主義社

会を志向していた︒

しかしながら︑一九五六年の総選挙でS・W.R・D・︵ ンダーラナーャカが率いるスリランカ自由党が大勝すると︑事態は急変する︒バンダーラナーヤヵは︑イギリス軍事基地の返還︑バス・港湾の国有化︑シンハラ語の公用語化などの民族主義政策を掲げて︑広範なシンハラ仏教徒の支持を得た︒外交は非同盟主義を取りながら︑社会主義国との関係を重視した︒一九五六年はまた︑釈尊入滅二五○○年祭にあたっており︑全国的にさまざまな催しが繰り広げられ︑仏教を軸にした復古主義が高まった︒仏教アイデンティティに根ざしたシンハラ・ナショナリズムは︑村々にも広がっていった︒これ以降︑一九七七年まで︑シンハラ語︑仏教︑社会主義こそが主要な政治的テーマとなった︑カトリック社会は︑苦難の時代を迎えたのである︒

左翼勢力は教会を︑過分な富や特権をもっているとし

て攻撃した︒彼らにとってカトリックの存在は︑植民地

支配の不幸な遺産であり︑教会は新生国家セイロンより

もローマに忠実な集団にほかならなかった︒さらに︑教

会やカトリック信徒は︑西洋帝国主義の創造物とさえみ

なされたのである︒全セイロン仏教徒会議も︑学校問題

や宣教師による外来文化の導入に対する批判を続けた︒

反キリスト教感情の高まりのなかで︑一九五四年には複

数の教会が焼き討ちにあっている︒教会はほとんどなす

すべがなく︑左翼勢力に対しては︑ロシアなど社会主義

国における宗教弾圧を糾弾する程度であった︒

− 0 ノ 8

(13)

カトリック側は植民地時代の特権的な地位を失い︑

次々と敗北の辛酸をなめることになる︒修道女は国立病

院から排除され︑外国人宣教師の入国は厳しく制限され

た︒一九六○年一二月には︑カトリック系のすべての学

校を国家管理とする法律が施行された︒カトリックにと

ってこれは︑教育の利便を失うというよりもアイデンテ

ィティのある部分の喪失を意味した︒一九六二年にカト

リックの将校を主体とするクーデター計画が発覚するや︑

カトリックは軍や官吏︑出版界から締め出された︒

第二ヴァティカン公会議︵一九六○六五︶は︑混迷

を深めつつあったスリランカの聖職者たちに一定の指針

a

カーニヴァル会場の観覧車(ジャーエラ、2 1)

ー ■ 之

を与えた︒それは︑﹁他の宗教は異なる方法で神︵の○s

に近づこうとしている﹂としてその存在を容認したこと︑

礼拝には現地語を用い︑現地の慣習も取り入れること︑

司祭は神︵Q8︶と人間の仲介者ではなく手本となるべ

きこと︑などである︒

一九六○年代には︑スリランカのカトリック教会は︑

世俗的政治に対して中立の立場を取ることを言明した︒

また︑仏教徒が多数派であり︑カトリックの特別扱いは

許されないことも認識したのである︒さらに︑第二ヴァ

ティカン公会議をうけて︑礼拝はシンハラ語やタミル語︑

英語で行なうようになった︒信徒が子どもに名前をつけ

路傍の聖人像(ミーガムワ、2 1)

ライト・アップされたデヒヤガーター教会 (ジャーエラ、2 1)

0 ノ ー

(14)

る際には︑聖人からとるよりも現地式の名前を用いるよ

う︑うながした︒礼服には︑仏教の喪服と同様に白い衣

服を奨励した︒教会の祭りには︑太鼓や踊りなど仏教社

会のぺラヘラ祭の要素を取り入れた︒民族服︵弓昌目巴

島陽駒︶や国旗も使用するようになった︒こうしてカトリ

ック界は︑シンハラ・アイデンティティへの包摂を志向

していくのだが︑タミル・カトリックとの亀裂は次第に

深まっていく︒

一般のカトリック信徒の間では︑教会や司祭に対する

不満︑不信が高まった︒それはとくに︑カトリック学校

出身で︑ビジネス界や官吏のネットワークに依存する人

びとに強くみられた︒信徒の側の顕著な動きは︑一九六

八年以降に急増する聖人像の設置である︒交差点や道路

わきといった公の空間に立てるのだ︒仏教徒が全スリラ

ンカの主導権を猿得しつつあるなかで︑カトリックの生

活領域を明示し︑カトリック・アイデンティティを再認

識する行為であった︒同時期︑仏教徒側も一九五六年の

仏教ナショナリズムの高まりの余韻のなかで︑交差点や

官庁の庭などに仏陀像の設置に乗り出している︒

やがて︑聖人像に集う人びとは独自の信仰集団を形成

し︑司祭の指図を受けることなく独自に儀礼を執り行な

った︒なかには︑独自に礼拝所を立てた集団もある︒教

会のミサへの参加者は減少し︑自宅や礼拝所での儀礼が

重視されるなど︑信徒の教会離れが進行した︒より私的 な信仰を通して︑信徒たちは神︵︒且︶との結びつきを求めたのである︒

﹁鐘の音で寓言冨己ご︶﹂というシンハラ語のクリス

マス・ソングの歌詞の日本語訳である︒二○○一年一二 二○○一年のクリスマスから

鐘の音で世界中が目覚める

クリスマスが近づいて微笑みに包まれる

まぶれの方に星が走る

天と地が結ばれる︑天と地が結ばれる

川を越え山を越え

村から村へと訪れる

水のしずくが降りかかる 翼のある天使が飛んでいる梢が真珠のように輝いている陽の光は白い矢じりとなる一面が銀のよう︑一面が銀のよう 星の光に山々の連なりにベツレヘムの喜びの光に花々が降り注いでいる

0

(15)

月二四日︑深夜ミサに参列するために︑コロンボ北郊ジ

ャーエラのデヒヤガーター教会を訪れた︒そのあたりは︑

早くからカトリック信徒が集住している地域である︒ち

なみに〃ジャーエラ″とは︑﹁ジャワの運河﹂の意であ

る︒オランダ時代にジャワから導入されたマレー系の人

びとが︑運河開削に携わっていたことに由来する︒今で

は︑マレー系は数家族が暮らしているに過ぎないときく︒

さて︑二三時頃に着くとすでに五○○人ほど参集して

おり︑礼拝堂の座席は着飾った老若男女がひしめいてい

た︒この時スピーカーを通して延々と流れていたのが

壺錘の音で﹂である︒

デ ヒ ヤ ガ ー タ ー 教 会 の 礼 拝 堂

I

二三時四五分︑鐘の音が響き渡り︑礼拝堂の正面入り

口から十字架を手にした少年を先頭に︑天使姿の少女た

ち︑赤ん坊の人形を抱いた女性︑牧夫姿の男性︑司祭︑

補佐司教が続いて入場する︒成果が斉唱された後︑キリ

スト生誕についての講話がなされた︒零時ちようどに︑

女性が赤ん坊の人形を補佐司教に手渡すと︑補佐司教は

それをまぶれに安置する︒聖歌︑聖餐式に続き︑補佐司

教が講話を語った︒﹁人間にとって平和が大切である︒

しかし︑今日︑ニューヨークでのテロ︑アフガニスタン

の戦争︑パレスティナの抗争︑スリランカの内戦など︑

悲惨な状況が続いている︒スリランカではなんと言って

天使、マリア、牧夫の一団(同教会にて)

まぶれに礼拝する信徒(同教会にて)

02I

(16)

スリランカではクリスマスのことをナッタルという︒

ポルトガル語起源の言葉である︒クリスマスはポルトガ

ル時代から祝されてきたのだろう︒一二月に入るや︑キ

リスト教徒の居住地のみならず︑コロンボなどの都市部

ではいっせいにクリスマス・モードとなる︒商店街では

非キリスト教徒の店もこぞってクリスマス.セールに参

画する︒クリスマス・カードや花火︑まぶれ用の人形な

ど︑クリスマス用品を商うにわか作りの店や露店も数多

く出現する︒日用品︑食癌羅稚蕊衣類︑おもちゃの店も然

りである︒ありとあらゆるビジネスが活気づく時である︒

カトリック信徒の家であれば︑クリスマス・ツリーや

まぶれを用意する︒スリランカにはモミの木はないが︑

内陸部の山地からヒバに似た針葉樹を切り出し︑トラッ

クで運んで道端で売っている︒ツリーとまぶれは︑鈴鑿云 も︑シンハラ人とタミル人の共存が肝要である︒願わくは︑両者が平和共存できますように!﹂というような内容であった︒一時近くなって︑参列者一人一人に司祭がビスケットを食べさせる︒次にまぶれのイエスに両手で軽く触れ︑礼拝する︒当地を選挙区とする国会議員も礼拝に駆けつけていた︒一○○○人を超える会衆が参集しており︑飲み物やアイスクリームの屋台も出ていた︒人びとは家に戻り︑自宅のまぶれにも赤子のイエスを安置するのだ︒ やホテル・ロビー︑レストラン︑銀行などにも置かれている︒クリスマス直前になると︑教会ではミュージカル風のキリスト生誕劇が演じられる︒テレビやラジオ︑新聞でもクリスマス特集が組まれる︒

二四日の深夜ミサに続いて二五日朝のミサに参列した

後に︑各家庭では宴がもたれる︒これには︑豚肉︑ミル

ク・ライス︑バナナ︑キャウン︑アラック︑ケーキが出

される︒豚肉を食すのは︑ヨーロッパ中世に冬至祭でイ

ノシシが調理され︑後に豚で代用された慣習に由来する

のだろう︒ちなみに︑今日では︑アメリカで七面鳥︑イ

ギリスでガチョウ︑メキシコではニワトリが食されてい

る︒ミルク・ライス︑キャウン︑バナナ︑アラックは︑

仏教社会のハレの食と共通している.ミルク・ライスは︑

ココナツ・ミルクを用いて調理したご飯である︒インド

文明世界では︑ミルクは清浄と豊穣のシンボルで縁起の

よいものである︒バナナも多産のイメージにより︑豊穣

のシンボルである︒ずんぐりしたコーリクットゥという

品種が最も上等とされている︒キャウンは︑米粉にヤシ

蜜をまぶし︑ココナツ油で揚げた菓子である︒アラック

は︑ココャシのつぼみの花序から採った樹液を発酵させ︑

さらに蒸留した酒である︒

カトリックの人びとにとって︑クリスマスから新年の

一週間ほどは︑祭りの期間である︒まぶれやクリスマ

ス・ツリーはそのまま置かれているし︑家族・親族こぞ

− 0 2 2

(17)

って巡礼に出かける者も多い︒非キリスト教徒であって

も︑混住・隣接地域や都市部では祭りに巻き込まれる者

が少なくない︒カトリックの一杢庭のクリスマス・パーテ

ィーに招かれ︑共に楽しむ者も珍しくない︒カトリック

信徒が集任しているジャーエラでは︑カーニヴァル会場

が設置され︑メリー・ゴー・ラウンドや観覧車︑歌謡シ

ョー︑日用品や衣類のセール︑アイスクリームに多数の

人びとが深夜まで繰り出していた︒

仏濡審徒やヒンドゥー教徒の鐸廼牛は四月であるが︑コロ

ンボでは一二月三一日の夜からパーティーで過ごす者も

︿参考文献︾

国︒︒具○㈹︒﹃鴨ロ.弓函騨司毒応駒踵且巨琴蜀司詞晒亀ご具雪堕ミトロョ首.ご昌乏.

︒﹃mC昌写○胄三ヨ酌で忌鵠壷○.盲ヨ亘掌

国3三9.両.F︐這霞.︑言韓電畠評R具︑ミミ尋︒卜異④室呂器︾

no旨ヨワ○・

口の里ぐ拶穴・三.弓望・エェ旨冒ミミ堕副冒鼻Poxさaご己くも司關.

z璽奄ロ堅三.

凰笛目曽冨.﹂・口重巨・︐之昌ざ葛旦冒畠冒鷺具匂1冒鼻P胃官.g

o昌冒忍一ン雪竪易.noざヨワ︒

︒◎ヨワユ⑤戸・陣○蔚胃駕青恩b︐己歯蝉国堂具旦琴蜀冒草画葛画き︒馬具 多い︒新しい年が始まるや︑いたるところで爆竹などの花火が打ち鳴らされ︑その煙は濃霧のように漂っていた︒一月一日は休日ではないので︑学校も役所も店も平常通りの仕事をする︒とはいえ︑コロンボ大学文学部シンハラ学科では︑学科長がミルク・ライスを学科教員に与え︑ともに食すことが慣例となっている︒カトリックと非カトリックの間で︑時には政治的・経済的な利害が対立することがあるのは事実である︒しかし︑文化総体としては互いに混交・浸透し合いながら歩いている︑といえよう︒

烏亀漏ご畠︵洋自暮函命言堕忍畠俺寓涛P勺ユョ︑①5コご己く.刃隅い︐

勺︒雪︒①一○弓︒

澁谷利雄﹃祭りと社会変動韓スリランカの儀礼劇と民族紛争﹂

同文舘︑一九八八年

鈴木正崇﹁スリランカの宗教と社︿三春秋社︑一九九六年

望一コ里.宛.F・弓@い︑︒芝9画電旦お里気ご亀ご言目︑︒望I︑どきミミ吻ミ一言酎

堕誕言昔︑頁言言閏言︒○ミgsミ園q堕軋怜員再首.︑卸ヨウュロ鴨こ三く.

勺局協.︑色ヨヶユ且︑⑥

乏昌①易.旨息号昌いち患ゞ墓危雪昌ミミ穴堅邑員旨.き⑥旨扇:昌輿

ン協○凰筥旨貝noざヨヶ︒

0 2 ー

参照

関連したドキュメント

「欲求とはけっしてある特定のモノへの欲求で はなくて、差異への欲求(社会的な意味への 欲望)であることを認めるなら、完全な満足な どというものは存在しない

町の中心にある「田中 さん家」は、自分の家 のように、料理をした り、畑を作ったり、時 にはのんびり寝てみた

   遠くに住んでいる、家に入られることに抵抗感があるなどの 療養中の子どもへの直接支援の難しさを、 IT という手段を使えば

・分速 13km で飛ぶ飛行機について、飛んだ時間を x 分、飛んだ道のりを ykm として、道のりを求め

相談者が北海道へ行くこととなっ た。現在透析を受けており、また車

を占めており、給湯におけるエネルギー消費の抑制が家庭

間的な報告としてモノグラフを出版する。化石の分野は,ロシア・沿海州のア