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響灘の陶磁器ー芦屋沖海底遺跡・三里松原海岸ー

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(1)

著者 野上 建紀

雑誌名 金大考古

巻 49

ページ 5‑8

発行年 2005‑06‑11

URL http://hdl.handle.net/2297/2973

(2)

響灘の陶磁器

ー芦屋沖海底遺跡・三里松原海岸ー

1 はじめに

 響灘に面する福岡県芦屋海岸では 1978 年に大量の 古銭が漂着し、翌 1979 年には大量の肥前陶磁が漂着 している。また、隣接する岡垣海岸においても同様に 大量の陶磁器が漂着している。そして、現在において も漂着は続いており、地元岡垣町の添田征止氏によっ て収集が行われている。当海域で大量の陶磁器を含ん だ積荷が沈んだことは疑いない。

  ま た、1989 〜 1992 年 に は 北 九 州 市 の ダ イ バ ー ショップ Buddy  Rope の今林忠義氏が芦屋沖の水深 20m の海域のほぼ同じ場所(芦屋沖海底遺跡)から 100 点以上の肥前磁器を発見し、引き揚げている(1992 年 5 月 15 日付西日本新聞)。

 そこで 1998 年 2 月から 3 月にかけて芦屋沖海底 遺跡、芦屋海岸、岡垣海岸の出土遺物及び採集遺物 についての調査を行い、報告と考察を行った(野上 1998a,b)。そして、2003 年からは添田征止氏所蔵の 岡垣海岸の採集遺物を資料化するために実測作業と写 真撮影を行っている。

 さらに当海域の潜水調査について、1998 〜 1999 年度笹川科学研究助成を受けて 1999 年に計画したが、

諸般の事情により実現しなかった。そして、2003 年 度西田記念東洋陶磁史研究助成を受けて 2003 年に改 めて計画したが、海況の悪化のために中止した。そし て、2004 年度西田記念東洋陶磁史研究助成を受けて ようやく 2004 年 9 月に芦屋沖海底遺跡の潜水調査を 行うことができた(野上 2005)。

2 2004 年芦屋沖海底遺跡潜水調査

 2004 年 9 月に芦屋沖海底遺跡の潜水調査を行った。

a) 陶磁器等の遺物の有無の確認、b)海底地質、水深、

視界、潮の確認、c)調査の可否の確認を主な目的と した。

1)調査内容

 2004 年 9 月 1 〜 3 日の日程で芦屋沖海底遺跡の確 認調査を行った。調査参加者は九州・沖縄水中考古学 協会の野上建紀、横田浩、山本祐司の3名であり、北 九州市のダイバーショップ Buddy Rope の今林忠義氏、

渡辺一明氏、遠賀漁業協同組合の中西栄司氏の協力を 得て行った。今林氏はこの芦屋沖海底遺跡の発見者で もある。以下、調査日誌より抜粋する。

 9 月 2 日 9 時 52 分、芦屋港を出港する。船名は蛭 子丸(中西栄司船長)。10 時 10 分に調査海域に到着。

風やや有り、うねり有り。波高 0.5 〜 1.0m。最初の 調査ポイントに今林氏が潜水するが、位置がずれてい たため一旦浮上する。ポイントを変えて、12 時 16 分、

今林、渡辺、横田、山本、野上の5名で潜水する。水 深 22.9m、透明度 3m 程度、水温 26°である。海底 野上 建紀

Figure.1 芦屋沖上空より見た芦屋町と遠賀川

Figure.2 三里松原(芦屋海岸・岡垣海岸)

(3)

は薄暗いが、流れはほとんどない。海底には岩礁が南 北に細長く伸びており、その周囲には目の細かい砂が 堆積している。岩礁は高差数 m に及ぶところもある。

30 分程度の潜水時間で染付皿を1点確認した。昼食後、

14 時 9 分、同じポイントに潜水する。水深 23.4m、

透明度 3m 程度、水温 26°、流れなし。海底では今林、

渡辺、野上と横田、山本の二組に分かれて、目視調査 を行う。7 点の染付磁器を確認し、山本による写真撮 影の後、6 点を回収する。15 時 5 分、海域離脱、芦屋 港に帰港する。

2)回収遺物

 回収した遺物はいずれも 1820 〜 1860 年代の肥前 磁器であり、1992 年に引き揚げられた遺物と同じ積

荷の製品と思われる。

 内訳は小皿1点、中皿 3 点、変形皿 1 点、灰落とし(蓋)

1 点である。小皿・中皿については佐賀県塩田町の志 田皿山の製品であろうと推測される。(なお、これらの 回収遺物については実測・写真撮影後、2004 年 12 月 12 日に芦屋町歴史民俗資料館に寄贈した。)

3)海底環境

 今回の潜水調査は台風直後に行ったため、視界はあ まりよくなかった。これは台風の波によって海中が撹 拌されただけではなく、遠賀川から大量の土砂がこの 海域に流れ込んだことによると思われる。また、海底 で潮の流れはほとんど感じられなかった。そして、海 底の底質は目の細かい砂質であった。

Figure.3 芦屋沖海底遺跡位置図

Figure.4 芦屋沖海底遺跡潜水調査風景 Figure.5 芦屋沖海底遺跡海底状況

(4)

3 当海域における陶磁器について

 当海域に面した芦屋が肥前陶磁と深い関わりがあっ たことはよく知られている。特に江戸中期以降、芦屋 などを本拠地とする筑前商人は肥前陶磁流通の大きな 担い手の一つであった。このことが芦屋海岸や岡垣海 岸に漂着する陶磁器と何らかの関わりをもつことを推 測することができる。ここで芦屋沖海底遺跡の形成過 程や陶磁器の漂着過程を考えてみたい。

 芦屋沖は海の難所として知られている。芦屋沖の風 向「セライ風」は多くの遭難事故を生んできた。また、

海図をみてみると、当海域の西側にあたる波津沖に 波津白瀬とよばれる岩礁がある。海図によれば、水深 1.2 mであり、かつては鳥居が立っていたと伝えられ る。当海域で生じた海難のいくつかはこの波津白瀬を 原因とするものではないかと推測している。例えば芦 屋沖海底遺跡は波津白瀬から東南東に位置する沈み瀬 にあり、陶磁器はその沈み瀬の西側で発見されている。

大皿の類は重なったまま岩場に挟まった状態で発見さ れており、積荷の沈没箇所がその沈み瀬の西側であま り距離的に離れていない位置である可能性が考えられ る。現段階では推測に過ぎないが、波津白瀬で座礁し、

積荷が沈没して沈み瀬にひっかかった可能性が考えら れるのである。

 一方、岡垣海岸で採集される陶磁器は多様である。

芦屋沖海底遺跡の遺物の年代が 1820 〜 1860 年代の 一時期に限られているのに対し、岡垣海岸で採集され る陶磁器の年代幅は広い。これは当海域における海難 が複数回にわたるものであることを示すものである が、全体的な傾向としては中世中国磁器を除けば、17 世紀以前の陶磁器は少なく、大半は 18 世紀以降の陶 磁器である。比較的まとまった状態で確認されるの は、18 世紀前半の有田焼やその周辺諸窯、18 世紀後 半〜 19 世紀初の波佐見焼など肥前諸窯の製品、そし て、19 世紀の肥前諸窯の製品である。特に量的には 19 世紀以降の製品が多い。そして、岡垣海岸で 27 年 間、ほとんど毎日のように採集調査を続けている添田 征止氏によれば、陸側からの強い風が吹いた時に陶磁 器がよく打ち上げられるという。そうした風と波の作 用によって海底の陶磁器が打ち上げられることは間違 いないが、注目すべきは 18 世紀前半の有田焼を含め て、海底におけるローリングによる摩耗を比較的受け ていないものが数多く含まれている点である。すなわ ち、100 〜 300 年の間、海底を移動しながら漂ってい たものではない。海底あるいは海底下で安定した状態 にあったものが、比較的近い時期に海底下より掘り出 された可能性が高い。当海域の底質は目の細かい砂地 である。沈没した船や積荷が海底下に沈み込むほどで はないが、固定させる程度の柔らかさはもっている。

Figure.6 芦屋沖海底遺跡回収遺物

Figure.7 岡垣海岸(西から)

Figure.8 岡垣海岸採集遺物(添田征止氏所蔵)

Figure.9 岡垣海岸採集遺物(添田征止氏所蔵)

(5)

そして、当海域には遠賀川が流れ込んでおり、細かい 砂は絶えず供給されている。沈んだ船や積荷に薄く砂 が被れば海底下に残る可能性が高くなる。

 次に安定した状態にあったものが移動し始めた理由 について考えてみる。まず、底曳き網漁や採砂工事な どが直接的な要因として考えられる。陶磁器が大量に 漂着する岡垣海岸(新松原海岸)はかつて米軍や自 衛隊の射爆撃場であった。そして、1978 年に射爆撃 場が自衛隊より返還されている。この返還時期は、芦 屋海岸で古銭や陶磁器が大量に漂着した時期と一致す る。射爆撃場の返還が直接、陶磁器の大量漂着に結び つくものではないが、射爆撃場が使用されていた期間 は、 波津白瀬を含めた当海域の大半が常時漁業営業制 限水域に指定されており、射爆撃場の返還に伴って漁 業営業が解禁されている。その結果、当海域において 新たに海底に影響を与える底曳き漁などの人為的行為 の範囲が拡大し、それによって海底あるいは海底下に 安定した状態にあった陶磁器が掘り出され、海岸に漂 着した可能性が考えられる。

 また、底曳き網漁や採砂工事といった直接的な要因 の他により深刻な理由も考えられる。全国的な現象と して自然の砂浜が消えていく傾向が見られるが、この 芦屋海岸や岡垣海岸も同様である。この 20 年間だけ でも海岸風景は大きく変わってしまった。近年、特に 波の作用による海岸の浸食が著しい。おそらく芦屋海 岸のリゾート開発や防波堤の整備、遠賀川の河口堰の 建設によって、水流が変わったせいであろう。海岸線 が波による浸食によって数 m の高さの崖を形成してい る箇所もある。海岸線に近い海底の砂も浸食されてい る。当海域は遠浅の砂地であり、陶磁器など重いもの であっても海底下に深く沈み込むものではない。その ため、海底の表面のわずかな変化によっても陶磁器な どが洗い出されるようになった可能性もある。

 いずれにせよ少なくとも 100 〜 300 年の間、海底

 1946 年 8 月   米軍による対地射爆撃場の開設

 1960 年 1 月   芦屋飛行場から分離し、芦屋対地射爆撃       場となる。

 1960 年 12 月   米軍芦屋基地返還

 1970 年 9 月   米軍撤収、10 月より自衛隊管理  1972 年 3 月 31 日 米軍より射爆撃場正式返還  1972 年 11 月 1 日 岡垣対地射爆撃場に名称変更  1978 年 6 月 7 日 射爆撃場の閉鎖、自衛隊より返還 1978 年夏〜秋  岡垣海岸で陶磁器発見(添田征止氏)

 1978 年 12 月   芦屋浜に古銭漂着(1981 年 3 月まで)

 1979 年 秋以降  波津〜芦屋〜若松脇ノ浦にかけて古銭が       漂着。

 1980 年   脇ノ浦・脇田・岩屋で陶磁器片が漂着。

あるいは海底下に安定した状態で陶磁器が残っていた 海域であったことは確かであろうと思う。漂着理由を 考えるとすでに壊滅状態にある可能性もあるが、破壊 を受けずに残されているものもあると考える。そこで 2005 年秋にサイドスキャンソナーを用いて当海域の 探査を行う計画を立てている。肥前磁器の国内流通の 具体的な復元のために沈没船あるいは沈没積荷の発見 につとめたいと考えている。

 本研究は平成 15・16 年度西田記念東洋陶磁史研究 助成を受けて行ったものである。そして、調査にあたっ て、添田征止(福岡県岡垣町在住、漂着物採集家)、今 林忠義(Buddy Rope)、渡辺一明(同)、中西栄司(遠 賀漁協)の各氏の多大なご協力を受けた。芳名を記し て謝意としたい。

[参考文献]

野上建紀 1998a「海揚がりの肥前陶磁」NEWSLETTER No.13 野上建紀 1998b「海揚がりの肥前陶磁−玄界灘沿岸を中心に−」

野上建紀 2002『近世肥前窯業生産機構論』

野上建紀 2005「2004 年芦屋沖海底遺跡確認調査概要報告」     

NEWSLETTER No.20

Figure.10 岡垣射爆撃場に伴う漁業営業制限水域 Tab.1 岡垣対地射爆撃場に関する年表

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