奈良教育大学学術リポジトリNEAR
資本主義発達史論の展開 −特に『大塚久雄著作集
』をめぐって−
著者 小笠原 真
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 36
号 1
ページ 1‑21
発行年 1987‑11‑25
その他のタイトル Darstellung von Theorien zur
Entwicklungsgeschichte des Kapitalismus ― unter besonderer Berucksichtigung von Otsuka Hisao Gesammelte Werke ―
URL http://hdl.handle.net/10105/2062
・TLされfl ㌔ TV.噂 .?.こIti汁 蝣ri >.; i 、こ・ Ji・;.さ' IWIも02・・
Bull,Nara Umv.Bduc.,Vol.36,No.1(cult.& soc.),1987
資本主義発達史論の展開
‑特に『大塚久雄著作集』をめぐって‑
・言いI'i I蝣I (奈良教育大学社会学教室)
(昭和62年4 H28fl受二哩)
I 課題の設定
大塚久雄氏(1907一)の資本主義発達史論は,彼の捗しい研究業績が収められている『大塚 久雄著作集』 (全13巻、岩波書店、 1969‑1986年)のなかでも、まさに中心を占めるものであっ て、いうまでもなくわが国経済史学界や歴史学界を代表する成果であるo それだけに、大塚史学 のこの研究業績をめぐって、日本の社会科学および人文科学のiltti分野で、賛成と反対に分かれて 激しい論争が展開されてきたこともまた事実であるO けれども、ここではわれわれはこの論争の 跡を綿密に辿ることは差し控え、ただ大塚氏の資本主義発達史論の骨子を出来るだけil二確に把秘 することに努めてみたい。その際これ迄学界では比較的看過されてきたけれども、彼が著作を重 ねる過程でどのように彼自身の見解を修止し、発展させているかをも併せて捉えてみたい。
さて、このような課題設定のもとで、われわれはまず大塚史学の方法論的特徴を、 1966年の密 書『社会科学の方法‑ヴェーバーとマルクス‑』や67年の論文「経済史」 (いずれも『同著作集』
第9巻所収)等によって探ってみたい。次いで、大塚氏が資本主二義発達史論を基礎的な重安側面 である「経済史的過程」 ‑といっても、彼の場合第II節で考察するように「経済史的な余りに経 済史的立場」を超えたものではあるが‑として捉え、最も精力的に研究したところの1944年の著 書『近代欧洲経済史序説』 ( 『同著作集』第2巻所収) 、 47年の論文集『近代資本主義の系譜』
( 『同著作集』第3巻所収) 、さらには55年の著作『共同体の基礎理論』 ( 『同著作集』第7巻 所収)等によって、何故に、資本主義発達の起動力ないし推進力を貨幣経済あるいは商業の発達
に求める通説的な立場を否定し、商業の発達というような表面的な現象ではなく、封建制の解体 のうちに形成されてくる中産的生産者層とその両極分解の進行という事実のなかに、それを求め
る立場を積極的に採用するかを、具体的に探ってみたい。,続いて、大塚氏が資本主義発達史論を、
1948年の論文集『宗教改革と近代社会』 、同じく48年の論文集『近代化の人間的基礎』 、さらに
は64年から65年にかけての論文「マックス・ヴェーバーにおける資本主義の『精神』 」 (いずれ
も『同著作集』第8巻所収)等によって、さきの「経済史的過程」と深く絡み合う「精神史的過
程J としても把握している点を幾分解明してみたいO そして最後に、大塚氏の資本仁義発達史論
にみられる問題点・疑問点を若干指摘して結びに代えたい。
・ト\ftI'll
II 大塚史学の方法論的特徴‑特に『社会科学の方法
‑ヴェ‑バーとマルクスー』 、 「経済史」等を中心に‑
まず、大塚史学の方法論的特徴を探ることから始めよう。さて、内M芳明氏が「ヴェ‑バーとマル クスは大塚史学の方法的形成にとっては最初から最後までつきることのない思想的源泉でありつ づけた」間と指摘するように、大塚史学の方法論の根底には、明らかにK.H.MarxとM.Weberの それが横たわっているo具体的には、人塚氏が1966年に世に問うた筈書『社会科学の方法一ヴェー バーとマルクス一一』において、まずMarxの方法論の長所と餌軒とを次のように捉える。つまり、
長所は次の諸点である Marxの『資本論』 rDas Kapital)には、観念の範州内において人間の 疎外からの解放が行われている。あるいは疎外からの解放を観念的に先取りしている。また、物 と物との関係とみえるところの現象を、実は人と人との関係に絶えず翻訳していくというMarx 独自の認識方法を無視したら、 『資本論』では恐らく到る所で論理が行き詰まってしまうのでは ないか。そして、もし『資本論』のなかからそうしたMarx独自の認識力法をすべて切り捨てて
しまって、物で始まり物で終わる形に組み替えるとすれば、仮に成功したとしてもそれはその限 りで古典派経済学‑の逆戻りになるはかない。 Marxが『経済学批判一経済学ではなく‑』とい う副題を『資本論』にも付けているのは、まさしくその違いを意識してのことである。要するに、
疎外現象のなかを動き回っているだけの経済学を批判して、経済の̲‑1三体がほかならぬ人間である ことを明らかにするのがMarxの意図したところである。、そうした意味が『経済学批判』 rKritik der politischen Okommie)という副題に込められているのではないか(2)これに対Lて、短所とし, てMarxの唯物史観の公式が姐1‑.にのせられる。すなわち、 MarxがL部構造をなす文化諸領域 のそれぞれに相対的な独lz̲冊:̲をもつ運動を認めていることは、 m論確かにそうであるが、しかし、
それならば政治にしろ芸術にしろ思想にしろそうしたさまざまな文化諸領域は経済的利害状況か ら和束打函こ独立して、それぞれどのように独自な運動のitJjをするのか、また、その固有な運動 法と服ま ‑体どういうものかということになると、どうも横棒的な答えが得られない。むしろ、 l・.
部構造の運動は究梅において経済的なものによって制約されている、そういうことだけが‑一面的 に強調されるにとどまるのが実情ではないかと思われるO(こi'同様に大塚氏はWeberの方法論の長 所と如軒をも次のように捉える。すなわち,長所は、Weberが歴史過程の動態を理念と利害状況の 相関と緊張の関係としていわば複眼的に捉えている、点である(,つまり、腫史を動かしまたそれに 方向を与えるものは、ただ利害状況(特に経済的な利害状況)だけではない。それももとより基礎 的な・R要件をもってはいるが、しかし、それをみるだけではなお・面的であって、もう つ理念 (および内的な利害状況)の面からもみることによって、初めて歴史の動態が十全に明らかになる というわけである。別[iすれば、 Weberの場合には経済的利害状況による根本的な制約を「分認 めながらも、それだけにはとどまらないで、さらに他の文化諸領域における社会現象がそうした 経済的利害状況の制約から相対的に独存して、どういう「国有な法則性J(Eigengesetzlichkeit)を もって独自な動きを示すのか、またそれは逆に経済の動きをどのように制約することになるのか、
そういったことをWeberは正面から取りしげてそれを「社会学」的に追究し、理論化していこう とするわけである。そして、 Weberの方法のもつこのような独自な側面こそが、 Marxの場合に 比べて・層大きな射程距離をもって現われてくるo'4‑これに対して、矩所は、 Weberの「社会学」
がMarxの理論を否定したというよりは、それを相対化しつつ摂取して、その認識の視野を広め
ることに貢献したんだという議論が成り¥Lち得るが、しかしまたそのためにかえって、 Weber
ftト「!V*止'l!,ii品し1ヽKl'il
はいつまでも経済社会学の分野に足踏みして、Marxのような経済学批判には至り得ず、それ が経済的利害状況の分析において大きい弱みとなっているという議論も成り5/.ち得るという 点である。
それ放、大塚史学の方法論には当然MarxとWeberのそれにみられる短所に充分な注意を排っ た上て長所が積極的に摂取される。例えば、1967年の論文「経済史」において1二張される次の事 柄はまさにそれである。すなわち、「現実の具体的な歴史過程のなかには、経済史のほかに、政 治史、法制史、社会史、さらに芸術史、宗教史などというさまざまな文化諸領域の歴史が含まれ ていて、これらすべてが柏合してはじめて歴史過程の総体を形づくることになる。・‑・経済史を ふくめて、そうした文化諸領域の歴史の動きはそれぞれに川イfな法則性をもっており、/I二いに影 響しあいながらも、それぞれが相対的に自律性をおぴて経過するoLたがって経済史は他の文化 講龍城の歴史と密接にかかわりあい、それらを深く制約しながらも、また逆にそれらによって制 約されることになる、というわけであるoこのことは、どのような歴史観にlAとうとも、現L臭の 具体的な歴史過程を問題にするばあいには、どうしても承認するほかはないことがらだと」id)
。
否そればかりか、1938年の著書『欧洲経済史序説』(『近代欧洲経済史序説』の原本に当たる) の「序」において、彼は「経済史研究に際して瞬時も忘れてはならぬ塵要な奉納」として、「経 済史は具体的な歴史からの一一つの抽象である」ことを指摘し、「経済史」と「雁史」とを明瞭に 区別する。そして、「経済史研究に際して『経済史的な余りにも経済史的な』立場はこれを超え ねばならぬ」と述べる。つまり、このことは例えば資本主=̲義発展の必然性を跡付けていく場合に しても、単に経済史的なるもののみをもってしては決してこれを具体的に解明することを得ない のであって、因果の.連鎖を忠実に辿っていくならば、そこに必ず何らかの論理のギャップが生じ、
そしてこのギャップを法制史的、政治史的、社会史的な諸種の事実をもって埋めていかねばなら ないことを意味する。要するに、経済史は基礎的な側面であっても、それ自身孤由二しては必然的 発展が十全に解明され得るものではない(7)
III大塚氏の資本主義発達史論(D一特に『近代欧洲経済史序説』、
『近代資本主義の系譜』、『共同体の基礎理論』等を中心に‑
いよいよ本論に入っていき、大塚氏の資本1二義発達史論をわれわれは具体的に検討することに したい。そこでまず、彼の資本主義発達史論は̲̲二本の柱、つまりその一つは、優れて経済史的側 面ともいえるところの、初期資本主義における「商業資本対産業資本」の問題に関わって、産業 資本形式の社会的系譜を「商業資本I‑埴]屋制商業資本・産業資本」あるいは「商業I‑,問屋制度‑>
マニュファクチュアないし工場」と捉えるL.Brentano‑A.Held流の通説を否定し、「ll1度的生
産者層の両極分解一一,産業資本の形式」、あるいは経営形態に即して「小ブルジョア的手11̲莱‑,マ
ニュファクチュア一一ナ工二場制工業」というG蝣Unwin‑P.Mantoux的見解を採用していることであ
り、残る一つは、いわゆる精神史的側面であって、資本主義「精神」の起源に関して「近代的人
間類型論」を展開していることであるが、この節では前者の柱にtとして焦点を当てつつ、大塚
氏の資本主義発達史論を解明し、次節では後者の柱に専らスポットを当てることにしようO
さて、大塚氏の資本主義発達史論に関する研究業績は膨しい数にのぼるが、当面の課題である
彼のいわゆる「中産的生産者層の両極分解説」(8)ないし「小生産者的発展説」(9)についての注目
すべき研究業績としては、1944年に世に問うた主著『近代欧洲経済史序説』をはじめとして、47年
小笠唱I I'l
の論文集『近代資本主義の系譜』、さらには55年の労作『共同体の基礎理論』等が挙げられよう。
そこで、大塚氏の資本主義発達史論の前提をなす1955年の『共同体の基礎理論』(以下『基礎 理論』と略称)を検討することから始めよう。さて、『基礎理論』は100日.余りの小論ではある が、その影響と反響とが極めて大きいので、その所論の骨子を前以って明らかにしておきたい。
まず、第1章「序論」で大塚氏は「すでに過ぎ去った悠久な世界史の流れのうちには、アジア 的、古典古代的、封建的、資本主義的および社会主義的とよばれる生産様式の継起的な諸段階が 7f‑fl三したoところで、そのうち封建的生産様式の崩壊、他面からいえば、資本主義的生産様式の 発生という変革点を境界として、世界史はある意味で大きく二つに分けることができる。という のは、この変革点を境界としてそれ以前の生産諸様式は、I‑いずれも根底において『共同体』
Gemeindeとして編制され、その上に打ちたてられていたのに対して、それ以後の生産諸様式はそ うした『共同体』的構成を全く欠いているという決定的な相違を両者の問に見出すからである」uO' と記述し、資本二L義の発生と発展の過程は他面からみれば古い封建制の崩壊の過程であり、その なかに「共同体の解体」という重要な要素を含んでいることを示唆すると共に、Marxが『経済 学批判』{ZurKritikder♪・olitischenOkonomie)の「 序言」で「大雑把にいって、経済的社会構 成が進歩していく段階として、アジア的、古代的、封建的および近代市民的生産様式をあげるこ とができる」ql)と指摘する箇所の、近代市民的生産様式を資本主義的生産様式に置き換えて承認 したことになる。
次いで、第2章「共同体とその物質的基盤Jでは、彼は共同体の物質的基盤が「十二地」(Grund‑
eigentum)にある点を強調する<]2)そして、富の包括的な基盤たる上地を共同体がlFi取し、それ によって自己を現実に共同体として再生産していく場合、土地の基本的な規定性からして、共同 体内部には酌と‑1無しに「固有の∴元性」(ledualismeinh占rent)が争まれてくることになる。
つまり、固有の二元性とはIl二地の共同占取と労働要具の私的占取の二元性であり、共同体の成員 である諸個人の間で取り結ばれる生産関係に即していえば、「共同態」(Gemeinschaft)とい う原始的集卜抑1三と、その真っ只中にそれに対抗して新たに形づくられてくる生産諸力の担い手で あるところの私的諸個人相互の関係、そうした‑二元性である。あるいは共同体に固有な「内的矛 盾」(‑!主産力と生産関係の矛盾)と言い換えても差し支えないであろう。ところで、いわゆる 英雄時代以前の無階級状態に照応するような生産力の発達の末だ極めて低い段階‑原始共同態に あっては、こうした固有の二元性あるいは内部矛盾は末だ眠ったままの状態にある。恰も私的に lli取された幼稚な労働要具が共同に占取された外枠である大地の懐になお深く埠没しきっており、
それ白身として独立には殆ど用をなさないのと同様に、幼弱な自然的諸個人もまた未だ共同態的 関係のうちにいわばまったく眠り込んでいるのであって、したがってその場合共同組織はなお差 し当って完全に血縁的な原始的共同態そのままの姿で現われるのである(13)
。
続いて、第3章「共同体と土地占取の諸形態」では、大塚氏は「『共同体』の基本諸形態とし ては研究史L、アジア的‑,古典古代的‑・ゲルマソ的(封建的)の‑::三つを設定するのが現在もっと もfJJノ)な見解となっている」q4'と述べ、さきの『経済学批判tDでのMarxの継起的発展段階説で のl柚i]体に関わる三段階、否もっと正確を期せば、Marxが『資本主義的生産に先行する諸形態』
(Formen.diederkapitalischenProducktionvorhergehen)で論究し,た(15)いわゆる「アジア的」、
「古典古代的」、「ゲルマソ的」の三形態を改めて確認した上で、その三種の基本形態について
基礎的な諸特徴をf:要な史実に即しつつ理論的に追究する。その際彼はさきの固有の二元性との
関連で、(1)共同体内部にみられる土地の私的な占取関係の進展度、(2)それに照応する基本共同態
資本主義発達史論の展開
の推転および共同体の内部的編制の如何(‑特に血縁関係の弛緩度)、の二つの基礎視角を常に 正確に保持することに心掛ける(16)
。
そこで、継起的発展段階の第‑‑一段階たる「アジア的形態」の共同体では「部族」(Stamm)が 上地の共同占取の主体となっている。すなわち、部族組織が共同体の支柱を構成する基本共同態 をなしており、それ故アジア的形態の共同体は優れて部族共同体であると特徴付けることが出来 よう。そして、この共同体では富の基本形態である上地の私的所有はまだ「ヘレディウム」
(「宅地および庭畑地」HofundWund)の形で、部族的共同所有の大海のなかからわずかに 頭を拾げているにとどまり、土地の主要部分は耕地であれ牧地その他であれ、すべてなお共同所 有の深みのうちに沈んでいるのであって、ここからアジア的共同体における「所有の欠如」の相 貌が生じるのである。このことはまた、共同体の成員諸個人に対する部族的共同態規制の日三例的 な強さをも意味する(17)
。そして、この「アジア的形態」から第二段階たる「古典古代的形態」へ
の発展が生じ得る歴史的条件として,大塚氏は「古典古代における奴隷制的『都市』国家(‑ポ リス)がそもそものはじめ、欄熱期に到達したオリエソト専制諸国家のいわば辺境地方のなかか ら、その文化的(‑生産力的)遺産をゆたかに継承して出現したものである」Q8)と述べ、「辺境」
がすでに重要な位置を占めていたと解すると共に、このような見解はWeberの鋭い洞見に示唆 されて得られたものであることを彼自身認めている。
では、こうして出現した「古典古代的形態」の共同体では、第一の形態でみられた血縁(‑那 族)関係の規制力はすでに弱化して従属的なものとなり、それに代ってMarxという「戦士共同 体」(kriegerischorganisierteGemeinde)あるいはWeberのいう「戦士ギルド」(Kriegerzunft)と いう集団形成が基本的関係として前面に現われるに至る。そして、第一の形態では私的個人は棲 めて幼弱でまだ部族的な血縁制的関係のなかにいわば埋没していたが、古典古代的形態では私的 諸個人がすでに共同態に対立して一応確立されている。しかも、このような構成上の相違には勿 論土地占取の様式における相違が対応している。すなわち、アジア的形態においては既述のよう にわずかに「へレディウム」だけが永続的な私的占取の対象となるにとどまって、残余の土地は すべて「共同マルク」として血縁集団(‑部族)の共同占取と規制のもとにおかれ、その一部が 私的に占取される場合にも私的所有に移行することはなかった。これに比べて、古典古代的形態 においては私的占取の契機は明確かつ格段に前進を遂げている。すなわち、「へレディウム」の もつ私的所有の性格が一層明確となったばかりでなく、そうした土地の私的所有はさらに強力に 拡大され、いわゆる先占権によって「公有地」(agerpublicus)の一一部をもそのうちに収めて
「私有地」としての「フソドゥス」(fundus)を形づくる。この「フソドゥス」はしばしば
「戦士持分」と呼ばれているように、戦士としての市民の私的自立の物質的基礎であり、彼およ び彼の家族の生活はこの土台の上で行われる。このような「フソドゥス」という形で土地の私的 所有が周辺に向かって強力に拡大されるということにまさしく照応して、古典古代的形態では
「共同マルク」もまたアジア的形態と著しく異なった相貌を呈するようになる。すなわち、「フ ソドゥス」を引き去った残余の「共同マルク」はいまや「公有地」という姿をとって、戦士共同 体としての「都市」の共同占取と共同管理のもとにおかれるようになる。こうして「公有地」は 共同体全体の共同需要をみたし、さらに戦士持分としての「フソドゥス」の不足を補うという仕 方で共同体存立の不可欠の土台を形づくる。このようにして古典古代的形態の共同体はまさしく 互いに対抗し合い、しかも互いに不可欠なものとして補充し合うところの二種の土地占取形態、
つまり「公有地」と「私有地」、この両者の緊張関係の上に成立しているということが出来よう(19)そ
小笠原 其
して、この古典古代的形態から第三段階の「ゲルマソ的形態」 ‑の発展が生じ得る歴史的条件と しても、やはり「辺境」が重要な位置を占める。それというのも、 「フラソク王国の中心部をな すライン河下流地方および現在の北フラソス一帯が、一方においては、豊かな農業生産を上台に
ロ‑マ社会の通産である手工業、とくに鉄工業が凝集されていった地域であり、他方においては、
旧来の『都市』および『奴隷制所額』 (ラティフソディウム)の支配力がもっとも弱い地域であっ た」C洲ところの「辺境」において、第三段階のゲルマソ的形態が出現することを彼自身記述して いるからであるO
では、こうしてH!現した「ゲルマソ的形態」の特徴はどのようなものであろうか。ゲルマン的 形態の場合基本共同態はいまや「村落」 (Nachbarschaftsgemeinschaft)となり、それ故共同 体は優れて「村落」共同体の姿をとるということである。すなわち、ゲルマソ的共同体において は土地の共同占取および成員の私的活動に対する共同態規制の主体は、もはや古い「部族」的血 縁組織や「半‑都市」的戦闘組織などではなく、土地占取者の隣人集団である村落となっている。
そして、 I‑一般にゲルマソ的家族は古典占イ巳的なそれと共に基本的にはすでに「家父長制小家族」
の姿をとっていたと考えられており、その点でアジア的な「家父長制大家族」ないしは「同族団」
と顕著な対照をなしている。しかも、ゲルマソ的家族が等しく小家族でありながら古典古代的な それと基本的に異なる様相を帯びていることも否みがたい。何よりもまず、ゲルマソ的家族にお いては「家長権」の家族に対する支配力が、ローマの「家長権」に比べて不徹底なものとなるば かりでなく、その支配の様式も異なるものとなっている。つまり、ゲルマソ的家族の場合には家 長の「保護の権力」にはすでに「保護の義務」も伴っており、それ故家族の各成員は家長権に服 しながらも家長に対してある程度まで相対的に独立した地位をもつようになっている。そして、
このような「家族」共同態の特質は、 「村落」共同体内部における成員諸個人の相対的自立とそ の私的活動の度合が、前述の他の共同体諸形態の場合に比べて一層進展していることを意味する。
ところで、ゲルマソ的共同体においては「村落」全体によって「共同に」占取された土地は、そ の内部においてさらに各共同体成員によって‑一応残るくまなくすべて「私的に」占取され所有さ れ相続されるのであって、すでにこの点において他の共同体諸形態の場合と明確に区別される。
しかも、ゲルマソ的形態の共同体では他の諸形態の場合のように、各成員家族(‑家族経済)の 必要と能力という実質に応じて‑上地を私的に要求しまた与えられるというのではなく、そうした 実質の如何に‑一応関係なく、 「形式的」に一定単位の上地つまり「フーフェ」 (Hufe)が成員 である各村民(‑家長)に割り当てられるという形をとっている。要するに、ゲルマソ的共同体 においては基本的法則ともいうべき平等原理はもはや古い「実質的平等」(materielle Gleichheit) ではなく「形式的平等」 (formale Gleichheit)という新しい姿に推転しているということが出来 よう。しかも、そのことを可能ならしめた基礎がゲルマソ的形態に独自な耕地形態である「耕区 制」 (Gewannsystem)にあるということも容易に丁解しうるであろうgl)そして、第三段階の ゲルマソ的形態(それ故また共同体)の崩壊について大塚氏は次のように述べる。すなわち、ゲ ルマン的共同体には局地内において一応自由にその製品を‑一般の人々に販売するような千丁業者 たちが初発から包含されていたO そうした手1二業者たちはむろんまだ真の小ブルジョアという性 質のものではなかった。といって、互いに結合して独自な団体を形づくることもなく、ゲルマソ 的形態の共同体に独白な一種の広義での「デーミウルギーー」 (‑村抱え)を作り出していたとい
うことが出来よう。ところで、このような「共同体内分業」の歴史的な独自な存在形態には、勿
論ゲルマソ的共同体に固有な構造的特質が対応していたといわねばならない。ということは、共
資本主義発達史論の展開
同体成員(‑村民)たちの私的独立性と私的活動)コの一一一層の進展という事実にほかならぬ。そし て、かつてローマにおいては手工業労働は奴隷にふさわしい、共同体成員にとってはむしろ有害 なものとされていたO ところが、ゲルマソ的中牡においてはこれとまさしく正反対に個々の手工 業者たちが次第に私的独立性を獲得して、中世都市とそのギルド制度という独自の名営あるかつ 歴史上最高度の社会的分業を内包するところの共同体を形づくるようになっているのである。さ らに進んでは村落共同体の基盤の上に、その内部から真の小ブルジョア的(したがってブルジョ ア的)商品‑貨幣経済を展開することによって、遂に共同体一般を終局的に揚棄する(資本の原 始的蓄積過程! )に至るであろう♂2)
では具体的には、大塚氏は封建制から資本主義‑の移行過程をどのように把握するであろうか。
まず、彼は1964年に書いた論文「近代企業家の発生とその系譜一経済史学と経営史学の接合点‑」
において、次のような注目すべきことを主張する。すなわち、およそ資本]二義と呼ばれる近代経 済社会の発展過程において産業企業家層を形成するに至った人々は、農村地域の小商品生産者層 からも出てきたし、商人層からも出てきたし、さらに上地所有者(地主)層からも出てきたので あって、彼らの社会的出自は極めて多種多様であったというふうに、問題をただいわゆる歴史に 付き物の事実の多様性のなかに解消してしまって能事終われりとすることが、社会科学の立場か らみてはたして十分であり、また正しいといえるかどうかということだったのである23‑と。そ れに対して、彼は初めから単なる事実の羅列に終わることを避け、さらに進んでまず事実を発見 し整理するための作業仮説として、 H.Pirenneに倣って「近代産業企業家の社会的系譜」とい う問いをあえて設けることを主張する,,しかも、その設問の意味はこうである。新歴史派経済学 者やマルクス経済学者の一部は商人‑ナ近代産業企業家という社会的系譜を理論的に想定するが、
その一見自然に思われる想定とは反対に、資本主義が順調に自生的に成長したはずのいわゆる先 進国において、いやまさしくそうした国々で、小商品生産者特に農村地域における小ブルジョア 的生産者たちのうちから近代産業企業家が生まれ出たことが、むしろ特徴的に多かったというの はどういうわけか。そしてまた、資本*.義が外側からの促迫で成長させられたはずの後進国にお いて、かつその後進性が強ければ強いほど、前期的商人や地主(貴族)たちの産業企業家‑の転 成がかえって特徴的な事実として現われてくるというのはどういうわけか。総じて、資本主義の
自生的な成長の場合には小商品生産者特に農村地域における小ブルジョア的生産者たちからの産 業企業家の生誕が特徴的に多く、資本主義の成長が他律的に推進される場合には連に商人や地主 の産業企業家‑の転成が特徴的に多いという事実を、比較経済史学の立場からどのようにして合 理的に理解しうるかというのが、彼の根本的な設問であったといってよいC4)もっとも、大塚氏 の研究業績をつぶさに検討してみる時、設問の前段つまり資本主義が自生的に成長した先進国特
にイギリスを中心にいわゆる「小生産者的発展説」が主として展開されてはいるけれども。
そこで次に、大塚氏が1947年に世に問うた論文集『近代資本主義の系譜』 ‑とわれわれの眼を 向けることにしよう。さて、この論文集のなかの1935年に書いた第1論文「いわゆる前期的資本 なる範暗について」25)において、彼は「前期的資本すなわち商業資本および高利貸資本は、資本家 的生産様式したがって資本主義社会の成立以前にすでに存在したのであるが、さらにまた、それは 資本主義社会の確立以前においてのみft在した」<2S)と述べ、商業資本および高利貸資本を「前期 的資本」と命名する。そして、この「前期的資本」と「産業資本」とを範暗的に峻別しながらも、
なお産業資本したがって近代資本主義の歴史的形成に際して、前期的資本がそれ自体として何ら
か主体的意味をもつというふうに考えており、 「初期資本」という概念構成はその表現であると
小甘us
みなせよう。それ故、この第1論文では産業資本形成のいわば社会的系譜を次のように捉えたこ とになる。つまり、産業資本の歴史的形成には二つの道があり、一つは旧来の前期的商業資本 (その単なる転化形態としての問屋制商業資本をも含めて)の産業資本(マニュファクチュア主)
‑の範時的転化であり、他は小商品生産(商品生産を営む小市民および農民)の産業資本(マニュ ファクチュア主)‑の範暁的成長である。そして、以上の∴つの道は単なる並行現象としてでは なくすでに一応対抗的な関係として捉えられておりながら、しかも両者いずれも自己の内的必然 性に促されていわば主体的・能動的にそれぞれ産業資本‑と転化し成長していく、というふうに 少なくとも考えられている。要するに、第1論文ではBrentanoらの「解放説」(この説につい ては次節で詳述する)を支持する人々の主張する「商業資本の産業資本‑の転化をもって資本主 義の発達を説明する立場」enをも、決定的でないにしても大きな役割を果たしたものとして確か に大塚氏は認める。つまり、このことは例えば「前期的資本は、その循環の内部に『資本の生産 過程』を包含することによって、範暁的変化をとげ、近代的な本来の資本(産業資本)となるの である」28)といった表現にも端的にあらわれている。
ところが、大塚氏はその6年後の1941年に書いた第3論文「近代資本主義発達史における商業 の地位」では、早くも第1論文での見解に決定的な修正を加えるOつまり、この第3論文はそも そも「近代資本主義発達の基底は通例一意識的にせよ無意識的にせよ‑商業の発達に求められて きた。すなわち近代資本主義の発達は経済社会の商業化の進展過程に他ならないとされてきたの である。ところがわれわれはこの見解に根本的な疑惑をもつ」C狙)として書かれたものである。そ れ放、この点を敷街すれば、通説の商業資本の産業資本‑の範時的転化をもって資本主義の発達 を説明する立場は次のように解される0第1‑‑‑に、近代資本主義の展開は単に大掴みにみて商業の 発達と並行しているばかりでなく、基本的にもそれと‑一致している。たとえ時折両者が承離する 場合が見出されても、それは大きな歴史の流れにおける単に偶発的な例外に過ぎないのであって、
近代資本主義の発達は本質において商業が経済社会の隅々にまで浸潤していく過程つまり「商業 化」(Kommerzialisierung)の進展過程にはかならない。しかしながら第二に、上述のような見 解は通例さらに進んで近代資本主義発達の「主体的推進力」をも商業のうちに求める。つまり、
歴史ヒおよそ商業と呼びうる経済現象は産業資本発達のはるか以前から見出され、そしてこの商 業を地盤として利潤追求の営みが歴史L最初に現われてきたのであって、それがいわゆる「商業 資本」(Handelskapital)であるが、この商業資本が商業の発達つまり経済社会の商業化の進展と 共に産業部面(生産)‑侵入しつつ遂にこれを支配するに至った時、そこに産業資本が成立する と考える。そして、このような見解の提唱者がBrentanoやHeldなどである。ところで、こ の見解はしばしば一一層具体的な姿を与えられる。すなわち、産業部面に支配的な力を振い始めた 商業資本は次第に′ト規模な生産者たちに原料その他の生産手段を前貸し、これによって彼らを自 己に隷従させるようになる。これがいわゆる「問屋制度」(Verlagssystem)であり、こうした前 貸人の姿をとった商業資本が問屋制商業資本である。ところが、この問屋割前貸の支配がますま す進展して小生産者たちが単なる賃銀労働者の地位にまで陥れられると共に、前貸人は彼らを自 己所有の作業場に集めて協業されるようになる。こうしてマニュファクチュアないし工場制度が 成立し、問屋制商業資本は産業資本‑推転する。つまり、図式化すれば、産業資本形成の社会的 系譜は「商業資本‑問屋制商業資本‑→産業資本」として理解されるべきだとするものであるGO)
。
これに対して、大塚氏は古典型の自生的産業革命を経過したといわれるイギリスについて、産業
資本形成の社会的系譜に関し、若干の研究史的瞥見具体的にはUnwin、Mantouxなどの論文
資本主義発達史論の展開
9の検討を試みてみても、「通例の見解とは異なって、産業資本形成‑の構成的主体的な推進ノJは商 業資本(問屋制商業資本をも含めて)のうちにではなく中産的生産者層にこそ求むべきである」01) と反論する。否そればかりか、彼は「商業資本は歴史上産業資本の形成を抑止し、かえって旧来 の生産事情を維持しようとする保守的性格をしばしば強く示して来た」82)とさえ主張する。しか も、このような修正の背後にはWeberの次のような見解が働いたことを大塚氏自身認めるとこ ろである。すなわち、 Weberがあの不朽の論文「プロテスタソティズムの倫理と資本主義の精 神」 (Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus)において、資本主義の「精 神」形成の一一支柱をピュウリタこズムの倫理に求めたことは周知の通りであるが、これを経済史 的な側面から見直してみるならば問題は次のような形をとるであろう。そうしたピュウリタニズ ムはそもそもいかなる社会層のうちにその中心的地盤をもっていたのか、中産的生産者層であっ たかあるいは商人層であったか、と。 Weberによればいうまでもなくそれは前者‑被のいわゆ る「産業的中産身分」 (industrieller Mittelstand)一であったoCt})
なお、この第3論文において特に強調しておきたいことに次のことがある。すなわち、大塚氏 の所論にあっては「中産的生産者層」は、一方では資本家と労働者との両極分解を推進するI‑主体 としての「商品生産者」としての娩定性をもつと共に、他方では近代的商業の推進者としての「、商 品生産者」としての規定性をもつ点である。しかも、従来前段の部分には大いに注意が梯われて きたけれども、ここでは後段の部分に専ら注意を沸ってみたい。つまり、彼が「このばあい、
応等しく『商業』とよばれるものでありながら、ここでの『商業』はあの前期的商業の営みとし ての商業とおよそ歴史的性格を異にした近代的なもの‑もちろん初期においては前者と互いに纏 みあいつつも‑であることが注意さるべきであるD すなわち、 ・ ‑前期的商業の非合理的‑投枚 的(経済学的には不等価交換)に対して合理的‑経営的(経済学的には等価交換)な近代的商品 流通‑の志向と展望をもつ商業(価値法則の貫徹!)である。 p ・十八牡紀にいたって明白に現 われて来るあの近代的な商業および商業資本の性格は、まさにここにその淵源を見出すのである。
そして商業のこのような新しい近代的な性格を決定するものは、ここでも『商業』 (生産に対し て相対的に自立化せしめられた流通)自体ではなくして、他ならぬ中産的生産者層の商品生産者 としての規定性なのである」041と記述し、商業を前期的商業と近代的商業とに区分し、その近代 的商業の担い手こそまさに「中産的生産者層」としている点である。
続いて、資本主義発達の推進力を貨幣経済あるいは商業の発達に求める通説的な立場を完全に 否定し、 「商業の発達というような表面的な現象ではなく、封建制の解体のうちに形成されてく
る中産的生産者層一小ブルジョア的商品生産者としての職人および農氏‑とその両極分解の進行 という事実のなかに、資本主義発達の基本線とその起動力を求めようとする」05)いわゆる「中産 的生産者層の両極分解説」を積極的に支持する見解を、忠実に即しつつ具体的に開陣する1944年 の大著『近代欧洲経済史序説』 (以下『序説』と略称) ‑と検討を進めることにしよう。
さて、大塚氏は『序説』での問題意識を「初版序」で次のように語る。西欧における近代経済
社会は世界史的膨張をいかにして達成したか。その現実的基礎となるものは何であったかo それ
はいわゆる経済史の範囲内ではいかなる事実に求むべきであるか。その際17世紀後半を境として
イギリス‑興隆とオラソダニ衰退の極めて顕著な対照を形づくっている両国の対比がなかでも著
者の大きな興味の対象となる。そして、彼の見解に従えば、イギリスのオラソダに対する、さらにそ
の他の西欧諸国に対する「商業」的優越を決定し、その経済的勢力圏の世界的拡延を基礎付けた
現実的な要因は、イギリスの「国民的生産力」の急激な展開にこそ求めるべきだとされる06)こ
10
小"蝣']'・うして、その具体的な考察が特に第I編第2章で行われる。そこでは大塚氏は西欧諸国の「商業」
上の覇権の推移が各国における毛織物工業の繁栄と歩を・にしていることに着目し、 「何故に、
毛織物丁業がスペイソにおいて一見隆昌に赴きながら忙しくも衰頬し、オラソダにおいても一世 紀にわたる繁栄ののちこれまた腐朽し去り、フラソスにおいてもついに停頓状態を脱しえなかっ たのに対比して、イギリスにおいてのみ絶えず躍進を続けつつまっさきに産業革命のゴールに到 達しえたのか。その原田はいったいいかなる事態に求むべきか」07)を究明するO そして、彼はそ の決定的な原因を素材的条件としての原料、人目、技術でもなく、また経営的条件としての販路、
貧民の存在、低賃銀、貨幣の集積でもなく、さらには地理的条件や政策でもなく、 「国民経済の 雁史的・構造的特質」にこそ求める。,別諾すれば、 「生産力の歴史的・社会的な経営形態」こそ が決定的条件である。それ故、当時イギリスに繁栄してきた毛織物工業の経営形態こそまさに
「マニュファクチュア」にはかならないから、大塚氏は次のように結論付ける。つまり、近世西 欧諸岡における毛織物̲L業の繁栄が単に抽象的な̲TA.業生産力の拡充I‑・般などとしてではなく、い わゆるマニュファクチュア(初期産業資本)の発達として考察されねばならぬ。その場合、マニュ ファクチュアは世界史的な発展段階からいえば封建社会の崩壊過程のうちに姿を現わし成長を遂 げるのであって、それ故その成長は何よりもまず優れて「歴史的)に継承された経済的・法制的・
政桁的・社会的そして文化的な諸条件、さらにその背後における「精神史」的条件などの有機的 な総体のうちで行われわはならなかった。,そしてその際、西欧各国におけるそのような「歴史的 諸条件」の固有な編制の様式がそれぞれの国民経済内部におけるマニュファクチュアの、したがっ て毛織物T̲業の繁栄如何を決定的に条件付けたとみなければならない08)とo
そこで、 『序説』の第II編では、大塚氏は国民経済の歴史的・構造的特質を「初期資本‑‡二義の 構造的類型」といい換え、イギリスにおけるその初期資本̲l三義の構造的類型の把握に努めるo そ の際彼が用いた分析視角はr農村の織元J(country clothiers)と「都市の織元J(town clothiers) との対立という点である♂9)すなわち、この両種の織元の間に存在する基本的な関係、特に対抗 の関係を通じて、当時のイギリス国民経済の特殊的構造を動態的に捉えうるものとし、それは何 よりも農村の織元が青い都市」二業の繁栄を脅かしつつ発生し成長していく過程のうちに明白に看 取することが出来ると彼は考える。したがって、農村の織元こそイギリス資本主義の発展の秘密 を解く鍵となる(,そこで,第 ‑に、このような近代資本主義の規定者としての農村の織元層の出 自あるいはその社会的系譜が当然問題となってくる.これについて大塚氏は次の 二類型を認めるO すなわち、 つは都市の織元から原料(半製品)の前貸を受けその加工をド話していた小親方た ち、なかでも織布̲したちのうちいわば向L心に富む者が都市の織元による問屋制支配の杵を断ち 切って独1:J二し、さらに農村地域‑その立場を移しつつ農村の織元になっていく場合であり、残る
‑つは、以前から農村に居住する小織元(広い意味で独立の織布丁などをも含めて)がその経営 規模を拡大しつつ典型的な農村の織ノ亡‑と成りl二っていく場合である。要するに、 「 『農村の織 元』層は農村の自営農民層ならびに都市の小親方層という広大な実体的基礎のうちから、まだそ の矧」銅こしかと絡みつきつつ、また他而『都Itfの織元』の原料前貸による問屋制支配と鋭く対¥L しつつ、 『都市』 corporate townsならぬ『農村』 countryを基盤として発生してきたものな のである,I (40)なお、彼のこうした主張にあって、封建制から資本主義‑の移行過程についても、
やはり「辺境」が重要なる位置を占める点をわれわれは決して見落としてはならない。何故なら
ば、大塚氏自身が1960年に発表した『西洋経済史講座』第1巻「緒言」で、 「封建制から資本主
義‑の移行過程については、 ‑‑ヰ世末期移降、西ヨーロッパの封建社会としてはむしろ辺境地
・t{ト主義吐i'H,論‑>lj引'蝣II ill
方に属するイソグラソド、そのうちでもさらに辺境の西北の農村地帯が、封建制の生み落した生 産諸力、なかんずく中世都市ギルド内部で高度な発達をとげた手1二業を通産として承け継いで、
かえって資本主義発達の中心地域としてあらわれてくる」削)ことを指摘しているからである。そ して、このような所論とさきの『基礎理論』での所説とを繋ぎ合わせてみると、結局「ある社会 構成の辺境地域においては、在来の支配的/fi産関係は、その形成も支配ノ)もおのずから徴錨tjであ るために、新しい生産様式の成長が阻lLされたり、歪曲されたりすることは 一般に少なく、むし ろ、そうした阻止的条件としての旧来の生産関係が徹底的に廃棄されて、次の時代の社会構成が
きわめて正常的な姿でうちたてられうる可能性がきわめて大きいというのである 牡界財由 な経済発展の大きな流れのなかで見出される段階的移行の典型的な過程は、このようにして、そ の中心地城を変えつつ進展するはかはなかった」紬2)のである。第二に,第一点からも渡分明らか なように、画板型の織JLの性格とその資本の範時は明1'川こ対立するもの、と人塚氏は考えるOす なわち、都市の織元の性格は「商人プラス問屋制前岱人」であり、したがってその資本は商業資 本であり、その支配のもとに形成されたものが都市の産業構造である。これに対して、農村の織 元は「農民プラス近代職場主」 ‑ヨウマソ型産業資本として捉えられ、また典型的なマニュファ クチュア所有者であり、産業資本家自らが生産組織老となるo そして、両岸型の織元の対立の結 果はといえば、当然に農村の織元(近代的職場経営、 18世紀のイギリスのいわゆるてこ:lファク チュア)のよりノj強い伸展とそれによる都rffの織j己(問屋制度)の圧倒であり、社会的環境とし ての「産業の自由」による商業的独占の浸蝕であったo こうして農村地域に近代的職場経営が展 開すればするほど都市の古い問屋制度は崩れ、それに応じて新しい殊型の近代的商人層の取引も ますます多きを加えつつ、商業資本がようやく産業資本に従属させられようとする決定的な 一歩 が踏み出されるに至った♂3)要するに、このようにみてくると資本主義が順調に発達したイギリ スでは、商業が衰える一般的経済後退期の15世紀に産業資本の担い手となる独立自営農民が姿を 現わしてくるし、やがて農民層の分解を通じて農村にマニュファクチュアが出現するという経過 を辿る。こうして、 「資本主義の発達が自生的で順調であるはあい、その歴史的起点を形づくる ものが、つねに、旧来の商業(商業資本)の支配をつきくずしつつ自己の深部の力に拠って膳り
f二ってくる農村上業とその担い手たる中産的生産者層である」(44)ということになる。これをさき の通説の立場に倣って図式化すれば、 「中産的生産者層の両極分解I一一十産業資本の形成」 、あるい は経営形態に即して「小ブルジョア的手L業‑1マニュファクチュア・工場制̲I̲業」ということに なる。
以上が封建制から資本主義への移行過程を捉える大塚氏の所論の骨子であるが、さらにそれに 加えて次のことを付記しておく。それはすでに『甚礎理論』でゲルてソ共同体内分業(‑局地内 分業)の発達を示唆していたが、その後彼は1961年から62年にかけての論文「共同体内分業の存 在形態とその展開の諸様相」や62年の論文「共同体解体の基礎的諸条件」を発表し、そのなかで、
「共同体解体の条件をいわば何ものにも先立って『共同体内分業』の進展から導きだす」岨5)と述
べ、また「封建制の末期に近づくと『農村』地域のあちらこちらに、単なるデーミウルギーの限
界をこえて、さまざまの種顕の手コ̲二業者と日雇たちの数が増大し,それにつれて、彼らと農民の
あいだ,また彼ら相互のあいだに商品交換の関係が形づくられる。そして、それがしだいに封建
的な『共同態規制』 (したがって経済外強制)をもってしてはどうしても捉えがたいほどのもの
に成長してくる。あるいは、局地内的な分業関係の深まりを踏まえて、 『自由な』つまり小ブル
ジョア(‑,ブルジョア)的な商品経済の繭芽が形成されはじめるといってもよいであろうo いわ
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