KONAN UNIVERSITY
松平忠周の所司代就任と幕府発給文書について : 信濃国上田藩松平家文書の内の所司代関連文書の紹 介を中心に
著者 東谷 智
雑誌名 甲南大學紀要.文学編
巻 154
ページ 25‑39
発行年 2008‑03‑15
URL http://doi.org/10.14990/00000920
二五松平忠周の所司代就任と幕府発給文書について はじめに
譜代大名 が 就任 する 役職 のうち ︑ 老中 に 次 ぐ 格式 を 持 つ 所 司 代
Бに 関 する 研究 は ︑ その 役割 に 比 して 十分 な 研究成果 が 蓄 積 されているとは 言 い 難 い ︒ 従来 の 所司代 の 研究 は ︑ 朝幕関 係 や 寺社支配 を 論 じる 際 や ︑ 近世初期 と 幕末維新期 における 政治史的関心 から 関説 されるのみであ り
В︑ 所司代 を 正面 から 取 り 上 げ ︑ 諸機能 ・ 諸権限 や 行政機構 を 解明 するという 基礎 的 な 研究 は 大 きく 立 ち 後 れている ︒ その 理由 は 史料 の 伝来状 況 に 規定 される 面 が 大 きい ︒ 京都 の 所司代屋敷 において 集積 されていたはずの 所司代文書 がほとんど 伝来 していな い
Г︒ ま た ︑ 所司代 に 就任 した 大名 のもとで 作成 された 文書 は 所司代 離任 にともなって 国元 に 引 き 上 げられるため ︑ 各大名家 に 分 散 して 伝来 する ︒ すなわち ︑ 所司代 の 基礎研究 のためには ︑ 各大名 の 藩政文書 のなかから 所司代関連 の 史料調査 を 行 う 作 業 が 必要 なのであ る
Д︒
こうした 研究状況 の 中 ︑ 筆者 は 越後国長岡藩 の 藩政文書 を もとに 所司代 に 関 する 基礎研究 を 行 なってきた ︒ 例 え ば ︑ 所 司代 に 就任 した 際 ︑ 老中 が 所司代 に 発給 する 二通 の 覚書 につ いて ︑ 以前筆者 は 史料紹介 を 行 ったことがあ る
Е︒
前稿 では ︑ 天保一一年 ︵ 一八四
〇︶ 一月一三日 に 所司代 に 任 じられた 越後国長岡藩主 の 牧野忠雅 へ 老中 が 発給 した 二通 の 覚 書
Ёを 紹介 し ︑ 覚書 について 以下 の 三点 を 指摘 した ︒ ①覚 書発給 の 日 が ︑ 忠雅 が 江戸城 で 将軍家慶 から 上京 の 暇 をもら い ︑ 京都 へ 出立 した 二月二一日 であること ︒ ②覚書 の 一通 は ︑ 将軍 の 意 を 受 けて 老中 が 所司代 に 出 した ︑ 所司代 の 職掌規定 の 覚 であるのに 対 し ︑ 他 の 一通 は ︑ 覚 で 規定 された 職掌 を 所 司代 が 遂行 するにあたり ︑ 心得 ておかね ば ならない 点 を 老中 松平忠周 の 所司代就任 と 幕府発給文書 について │ 信濃国上田藩松平家文書 の 内 の 所司代関連文書 の 紹介 を 中心 に │
東 谷 智
二六
が 所司代 に 示 した 覚 であること ︒ ③二通 の 覚書 とも ︑ 発給人 である 老中 の 花押 は 据 えられておらず ︑ 本紙裏 の 継 ぎ 目 に 発 給人 の 印 が 捺 されているこ と
Ж︒ また ︑ 所司代 が 京都 で 形成 す る 家臣団 について 検討 し ︑ 長岡藩 の 藩士 が 家老 ︑ 用人 ︑ 公用 人 などの 役職 に 就 いていたことや ︑ それぞれの 役職 の 格式 な どについて 明 らかにし た
З︒
本稿 では ︑ 所司代就任経験 がある 長岡藩以外 の 大名 の 藩政 文書 を 素材 とし ︑ 所司代 についての 基礎研究 を 蓄積 すること を 目的 としている ︒ 具体的 には 信濃国上田藩 の 松平家文 書
Иか ら 所司代関連文書 を 紹介 し ︑ 以下 の 三点 を 明 らかにする ︒ ① 所司代就任 から 京都 での 職務引継 ぎの 過程 ︒ ②所司代就任時 に 幕府 から 発給 された 二通 の 覚書 について ︒ ③所司代 の 在京 賄 い 領 ︒ また ︑ 合 わせて 若干 の 分析 と 課題 の 提示 を 行 いたい ︒
第一章 松平忠周の所司代就任過程 第一節 所司代就任と上京
松平忠周 が 所司代 に 就任 したのは 享保二年 ︵ 一七一七 ︶ 九 月二七日 であ る
КУ︒ 当時 ︑ 忠周 は 在江戸 であった ︒ 九月二六日 に 上 田 藩 上 屋 敷 へ 老 中 奉 書 が 到 来 し ︑﹁ 明 廿 七 日 ︑ 御 登 城 被成候様 ﹂ と 登城 が 命 じられ た
КФ︒ 翌二七日 ︑ 江戸城 では 老中 に 昇進 した 所司代水野忠之 の 跡役 として 松平忠周 が 所司代 に 任 じられた ︒ 忠周 が ︑ 京都 への 暇 を 将軍吉宗 からもらうのは 享保二年一一月一日 であ る
КХ︒
江戸 を 出発 するのは 享保二年一一月一六日 で ︑ 将軍 から 拝 領 した 馬 に 乗 り ︑ 芝元札之辻 にて 駕籠 に 乗 り 替 えた ︒ その 後 ︑ 東 海 道 を 西 に 向 か い ︑ 浜 松 か ら は 本 坂 通 を 経 由 し て 一 一 月 二七日 に 近江国草津宿 に 止宿 ︑ 二七日朝六 ツ 時 に 大津陣屋大 坂屋加右衛門 へ 到着 し た
КЦ︒ 翌二八日朝六 ツ 時前 に 大津 を 出発 し ︑ 山 科 御 廟 野 か ら は 出 迎 え の 雑 色 五 人 が 先 払 い を す る な か
КЧ︑ 三条通 りを 堀川通 りまで 進 み ︑ 石橋 を 渡 り 右 に 折 れ ︑ 上 使屋敷 の 前 から 二条 の 馬場 へ 入 り ︑ 四 ツ 時前 に 所司代屋敷 に 到着 し た
КШ︒ 忠周 の 上京 が 京都市中 に 触 れられたのは ︑ 一一月 二十日 のことであり ︑ 寺社方諸礼 の 日限 を 追 って 知 らせる 旨 を 伝 える 触
КЩと ︑ 二八日頃 に 上京 するので ︑ 以前 から 所司代 を 出迎 えて 来 た 者 は 先例 の 場所 ︵ 山科御廟野 ︶ へ 罷 り 出 るよう 伝 える 触
КЪであった ︒
第二節 京詰め家臣団
所 司 代 に 任 じ ら れ て 以 降 ︑ 上 田 藩 は 京 都 へ の 赴 任 の た め
二七松平忠周の所司代就任と幕府発給文書について
様々 な 準備 に 取 りかかる ︒ その 一 つとして ︑ 京詰 めの 家臣 を 決定 する 必要 があった ︒ 上田藩 の 場合 ︑ 大 きく 分 けて ︑
A忠 周 の 京都上洛 より 先 に 江戸 から 京都 に 先乗 りする 家臣 ︑
B忠 周 の 上洛 に 随行 して 江戸 から 上洛 する 家臣 ︑
C上田 から 上洛 する 家臣 ︑ の 三 タイプに 分 かれていた ︒
表 1 は ﹁ 会 所 日 記 ﹂﹁ 歓 喜 院 ﹂ よ り 作 成 し た
Aタ イ プ の 家 臣 の 一覧 である ︒ 一
〇月一五日 から 一一月一五日 まで 七回 に 分 けて 先乗 りの 家臣 が 江戸 を 出発 している ︒ なお ︑ 石高 の 欄 は ﹁ 高列分限 帳
КЫ﹂ によって 作成 した ︒ この 分限帳 の 表紙 には ﹁ 上 田 六 ﹂ と 書 か れ て お り ︑ 表 に 石 高 の 記 載 が あ る 家 臣 は 国 元詰 めの 家臣 で ︑ 記載 がない 者 は 江戸詰 めの 家臣 である ︒ し たがって ︑ 江戸 から 先乗 りする 家臣 は 国元詰 めと 江戸詰 めの 家臣 とで 構成 されており ︑ 最初 に 京都 に 向 かった 家臣 は 国元 詰 めであったことが 指摘 でき る
КЬ︒ また ︑ 一一月八日 には 関札 ︵ 宿 札 ︶ を 持 参 し た 家 臣 が 出 発 し ︑ 忠 周 出 発 の 前 日 で あ る 一一月一五日 には 宿割 りを 担当 する 家臣 が 出発 し ︑ 忠周上洛 の 手 はずを 整 えていった ︒
表 2 は ﹁ 会 所 日 記 ﹂﹁ 歓 喜 院 ﹂ よ り 作 成 し た
Bタ イ プ の 家 臣 の 一 覧 で あ る ︒﹁ 高 列 分 限 帳 ﹂ お よ び 享 保 四 年 頃 の ﹁ 御 分 限 帳
ЛУ﹂ によって 石高 を 記載 した ︒
Aタイプ 同様 ︑ 国元詰 めと 江戸詰 めの 家臣 から 構成 されてい る
ЛФ︒ また ︑ 士分 の 内 ︑ 一五
〇石以上 は 騎馬 で ︑ それ 以下 の 士分 は 乗掛 で 入京 している ︒ ま た ︑ 儒者 や 医師 と 思 われる 人物 は 駕籠 で 入京 している ︒
C
タイプの 家臣 は ︑ 表 1 ︑ 表 2 では 名前 が 見 られないもの の ︑﹁ 会所日記 ﹂﹁ 歓喜院 ﹂ より 大津 から 京都 へ 供奉 したことが 確認 できる 家臣 である ︒ 蜂屋一郎兵衛 ︵ 二
〇〇石 ︶︑ 井上四郎 左衛門 ︵ 二五
〇石 ︶︑ 佐治八右衛門 ︵ 二
〇〇石 ︶ の 三名 である ︒ 何 れも 国元詰 めの 家臣 であることから ︑ 国元 から 江戸 を 経由 せず 大津 から 忠周 に 供奉 して 上洛 した 家臣 に 合流 したものと 判断 した ︒
以上二節 にわたり ︑ 所司代就任 から 入京 までの 過程 ︑ およ び 京詰 め 家臣団 の 構成 について 明 らかにした ︒
第二章 信濃国上田藩松平家の覚書
第一章 で 述 べたように ︑ 松平忠周 が 将軍吉宗 から 京都 への 暇 をもらったのは 享保二年一一月一日 である ︒ 同日松平忠周 は ︑ 五名 の 老中 から 二通 の 覚書 を 受 け 取 ってい る
ЛХ︒ 先 ずは 全 文 を 紹介 した い
ЛЦ︒
二八
︻ 史料 1 ︼ ︵ 包紙 ︶ ﹁ 覚書 二通 ﹂
⒜
覚 上
︵第一条︶使参 内并八朔御太刀 ・ 御馬御進献之節之儀者可任 近例事 公
︵第二条︶家門跡方領知 の 公事訴訟等 ︑ 両伝 奏 よ り
︵松平忠周︶伊賀守 迄 相達 せらるゝにおゐてハ 宜有裁断事 両
︵第三条︶伝 奏江 上使振舞之節 ︑ 伊賀守相伴 に 被相越候儀 ハ 無用 に 候 ︑ 勿論堂上方 ・ 門跡方江振舞之儀 も 右同断 之事 二
︵第四条︶條御番代之時 ハ ︑ 御目付斗罷越 ︑ 伊賀守儀者御番入 替候以後可被参事 二
︵第五条︶條御蔵御金入置候所 ︑ 大御番頭并東西御門番之頭立 合 ︑ 封印可付置事 上
︵第六条︶方諸役人江戸江参上之儀 ︑ 其外何 にても 願之儀如先 規伊賀守江伺之 ︑ 伊賀守 より 言上候様可被仕事 畿
︵第七条︶内 并近江 ・ 丹波 ・ 播磨八 ケ 国之公事 ・ 訴訟 等 ︑ 町奉 行僉議之次第伊賀守可承之 ︑ 若町奉行所 にて 相決 かた き 事 ︑ 又 ハ 重 き 儀 ハ 伊賀守宅 におゐて 町奉行 ︑ 在京之 御目付 ︑ 或 ハ 伏見奉行寄合之上裁許 あるへき 事 耶
︵第八条︶蘇宗門堅為御制禁之間 ︑ 弥入念町奉行可相改事 京
︵第九条︶都伏見之町々居住之浪人等 ︑ 先例 に 任 せ 沙汰有 へき 事 女
︵第十条︶手形之儀 ︑ 堂上方并御直参之面々 ハ 伊賀守可被出之 ︑ 京都町中 ・ 山城 ・ 丹波 ・ 近江国中 より 出候分者 ︑ 町奉 行手形可出之 ︑ 伊賀守在江戸之節 ハ ︑ 堂上方并直参之 面々 ︑ 先規之通町奉行可出之候 ︑ 且亦西国筋 より 罷下 候分 ハ 伊賀守可被出之候 ︑ 伊賀守在江戸之時 ハ 跡々之 通町奉行 より 手形可出之事 火
︵第一一条︶事 出 来 之 節 ︑ 御 所 方 并 二 條 御 城 於 近 所 者 伊 賀 守 被 罷出 ︑ 其外所々江 ハ 町奉行一人相越 ︑ 伊賀守 ハ 家来并 与力 ・ 同心之者斗可被出之 ︑ 但及大火候 ハヽ ︑ 町奉行 両人共 ニ 罷出 ︑ 伊賀守 も 見合次第可被罷出事 右之條々達 上聞 ︑ 書面之通被 仰出候間 ︑ 可被得其意 候 ︑ 以上
享保二年一一月朔日 水 野
︵忠之︶和泉守
戸 田
︵忠真︶山城守
二九松平忠周の所司代就任と幕府発給文書について
久 世
︵重之︶大和守 井 上
︵正岑︶河内守 土 屋
︵政直︶相模守 松平伊賀守殿
⒝
覚 禁
︵第一条︶中并公家衆作法之儀 ︑ 前々被 仰出御法度書弥相違無之様 ニ 可相心得事 禁
︵第二条︶中 方 江 被 附 面 々 ︑ 御 所 方 御 作 法 諸 事 承 候 様 ニ 可 被 申渡事 公
︵第三条︶家衆 ・ 諸大名 と 内縁有之面々 ︑ 家作其外定式之儀 ニ 至而 も 格別 ニ 取持 たれ 候儀者有之間敷事
以上 享保二年一一月朔日 水野和泉守 戸田山城守 久世大和守 井上河内守 土屋相模守
松平伊賀守殿 前 稿 で 紹 介 し た 越 後 国 長 岡 藩 の 二 通 の 覚 書 ︵ 天 保 一 一 年 ︵ 一 八 四
〇︶ 二 月 二 一 日 付 ︶ と ほ ぼ 同 文 で あ る が ︑ 相 違 点 を 指摘 しておく ︒
一点目 は 文言 の 違 いである ︒ 覚書
⒜の 第七条傍線部 である ︒ 信濃国上田藩 の 覚書 では ﹁ 畿内并近江 ・ 丹波 ・ 播磨八 ケ 国之 公事 ・ 訴訟 ﹂ となっている 箇所 が 長岡藩 の 覚書 では ﹁ 山城 ・ 大和 ・ 近江 ・ 丹波四 ケ 国之公事 ・ 訴訟 ﹂ となっている ︒ これ は ︑ 享保七年 の 国分 けによって ︑ 裁判管轄 が 変更 されたこと に 対応 した 変化 である ︒ 国分 けによって 京都町奉行所 が 持 っ ていた 上方八 カ 国 の 公事 ・ 訴訟 の 権限 が 縮小 され ︑ 国分 け 後 は 大坂町奉行所 が 摂津 ・ 河内 ・ 和泉 ・ 播磨四 カ 国 の 公事 ・ 訴 訟 を 管轄 し ︑ 京都町奉行所 の 管轄 が 山城 ・ 大和 ・ 近江 ・ 丹波 四 ケ 国 となったため ︑ 文言 が 変化 したのであ る
ЛЧ︒
二点目 は 欠字 ︑ 平出 の 遣 われ 方 に 変化 が 見 られる ︒ 上田藩 の 覚 書
⒜第 三 条 の ﹁ 上 使 ﹂ と 文 末 の ﹁ 上 聞 ﹂︑ お よ び 覚 書
⒝第二条 の ﹁ 御所方 ﹂ はいずれも 欠字 となっているが ︑ 長岡藩 の 覚書 では 何 れも 平出 となっている ︒ 上田藩 の 覚書 よりも 長 岡藩 の 覚書 の 方 が 将軍 および 禁裏 に 対 する 敬意 をより 払 う 用 法 へと 変化 している ︒
また ︑ 発給人 である 老中 が 花押 を 据 えず ︑ 紙 の 継 ぎ 目 に 押
三〇
印 す る 様 式 の 文 書 に つ い て ︑ 他 の 役 職 の 事 例 を 紹 介 し た い
ЛШ︒ 寛永一八年 ︵ 一六四一 ︶ 三月二九日付 で 長崎警備 に 関 わって 筑前国福岡藩 の 黒田忠之 に 対 して 出 された 七 カ 条 の 覚書 を 記 し た 記 録 に は ︑﹁ 此 覚 書 ︑ 伊 豆 守 様 ・ 豊 後 守 様 ・ 対 馬 守 様 御 連名御判 ハ 無之 ︑ 竪紙継目 ニ 御三人之御印形在 ﹂ との 注記 が なされ ︑ 所司代 の 覚書 と 同 じ 様式 の 覚書 が 老中松平信綱 ︑ 阿 部忠秋 ︑ 阿部重次 によって 出 されている ︒ この 覚書 が 発給 さ れた 経緯 について 述 べておきたい ︒ 寛永一八年 ︑ 黒田忠之 は 長崎守護 を 二月八日付 の 老中奉書 で 命 じられた ︒ この 奉書 は 二月一九日 に 福岡 に 到着 し ︑ 二月二六日 に 福岡藩 は 江戸 へ 使 者 を 遣 わし ︑ 質問 をまとめた ﹁ 覚書 ﹂ を 持参 したのである ︒﹁ 御 老中松平伊豆守様 ︑ 阿部豊後守様 ︑ 阿部対馬守様 え 以御覚書 御窺被成候処 ︑ 各御披見之 ︑ 右覚書之箇条別紙 ニ 一々被記之 ︑ 加奥書御使者 ニ 被相渡之 ﹂ との 注記 があるように ︑ 三人 の 老 中 は ︑ 福岡藩 が 持参 した 質問状 ︵﹁ 覚書 ﹂︶ を 別 の 紙 に 転記 し ︑ 奥書 に 加 え ︑ 花押 を 据 えず 継目 に 捺印 したものを 回答書 とし て 福岡藩 の 使者 に 渡 したのであ る
ЛЩ︒
長崎警衛 の 事例 から 類推 すると ︑ 所司代 の 二通 の 覚書 も 職 務内容 の 質問 に 対 する 回答書 という 性格 を 帯 びたものだった 可能性 が 指摘 できる ︒ この 点 についてはさらなる 事例収集 が 必要 であろう ︒
第三章 所司代の在京賄い領について
上方 での 役職 に 就 いた 場合 ︑ 在京賄 い 領 が 与 えられること がある ︒ 在京賄 い 領 とは ︑ 上方 での 必要経費 を 賄 うために 畿 内 ・ 近国 に 与 えられる 所領 であり ︑ 在上方 の 大名 は 在京賄 い 領 からの 年貢収入 を 必要経費 に 宛 てると 共 に ︑ 必要 な 武家奉 公人 を 在京賄 い 領 から 徴発 す る
ЛЪ︒ 国元 からの 送金 や 現夫 の 移 動 の 必要 がなく ︑ 経費削減 が 可能 となり ︑ 在京賄 い 領 のメリ ットは 大 きかったと 言 えよう ︒
松平忠周 の 場合 ︑﹁︵ 享保二年 ︶ 十二月二十四日所領 のうち ︑ 一万石 を 近江国浅井 ・ 伊香両郡 のうちにて 加 へたまは る
ЛЫ﹂ と 近江国 で 在京賄 い 領 を 与 えられた ︒ 所領 は 幕領 の 中 から 与 え られ ︑ 浅井郡 の 一一 カ 村 を 代官内山七兵衛 から ︑ 浅井郡 の 二 カ 村 を 代官上林又兵衛 から ︑ 伊香郡 の 一五 カ 村 を 代官石原清 左衛門 から 引 き 継 い だ
ЛЬ︒ 三名 の 代官 が 松平忠周 の 家臣勝俣新 五左衛門 ︑ 広瀬金五郎 ︑ 岩崎忠右衛門 に 宛 てた 引 き 継 ぎ 帳面 が 三冊作成 された ︒ それぞれの 帳面 には ︑ 引 き 渡 される 在京 賄 い 領 の 村々 の 村名 ︑ 石高 ︑ 諸引高 ︑ 年貢高等 が 記載 されて いる ︒ 相給 の 村 の 一部 を 引 き 渡 された 場合 ︑ 他 の 領主 の 名前
三一松平忠周の所司代就任と幕府発給文書について
も 記入 されている ︒ 三冊共 に 代官 の 捺印 があり ︑ 原本 である ︒ 表 3 は 松 平 忠 周 に 与 え ら れ た 在 京 賄 い 領 の 村 々 の 一 覧 で あ る ︒
さて ︑ この 所領 の 引 き 渡 しに 際 し ︑ 代官上林又兵衛 が 松平 忠周 の 家臣 に 宛 てた 文書 を 紹介 しよ う
МУ︒
︻ 史料 2 ︼
近江国浅井郡之内 高百六拾五石五斗九升九合 速水村 高百五拾弐石四斗六合 月 ヶ 瀬村之内 高合三百拾八石五合 右者 松
①平伊賀守在所京都江程遠不勝手 ニ 付 ︑ 取
②来候信州 上田領之内 ︑ 川中島壱万石今度江州 ニ 而御引替被下候 ニ 付 ︑ 為代地右之所高壱万石之内 ︑ 従去酉年物成被下之候 間 ︑ 郷村可被相渡候 ︑ 御老中御証文者御勘定所 ニ 差置如 此候 ︑ 以上
享保三年戌四月 鈴木弥惣右衛門 印 吉
上方江被遣候田佐 兵衛 木村四郎兵衛 印
小
就御用無加印出加 兵衛 正木藤右衛門 印
稲葉与一右衛門 印 奥野忠兵衛 印 上林又兵衛殿 ――― ――― ――― ― ︵ 紙継 ︑ 裏 に 上林又兵衛 の 割印 あり ︶ ――― ――― ――― ― 右御勘定所御証文之通 ︑ 郷村去酉十二月御引渡申候得共 ︑ 御証文請書只今相渡 ︑ 去暮御渡被成候仮御証文与 ︑ 今度 引替被下候故 ︑ 如斯御座候 ︑ 以上
享保三年戌五月 上林又兵衛 ︵ 印 ︶ 松平伊賀守殿御内 篠原又右衛門殿 勝俣新五左衛門殿 岩崎忠右衛門殿 継目 より 前 は ︑ 勘定方組頭七名 が 代官上林又兵衛 へ 郷村引 き 渡 しを 命 じた 文書 が 引用 されており ︑ 継目 より 後 で ︑ 享保 二年 の 暮 れに 渡 した ﹁ 仮証文 ﹂ とこの 度 の 文書 とを 引 き 替 え るよう 指示 している ︒
注目 すべきは 傍線① で 近江 で 所領 を 与 える 理由 が ︑ 松平忠
三二
周 の 在所 から 京都 までが 遠 く ︑ 藩財政 にとって 良 くないこと だとされており ︑ 明確 に 在京賄 い 領 として 与 えられる 所領 だ と 勘定方 の 役人 が 認識 している 点 である ︒ もう 1 点 は ︑ 傍線 ② に 近江 の 所領 を 信州川中島一万石 の 所領 と 引 き 替 えると 述 べ て い る 点 で あ る
МФ︒ 先 に 引 用 し た ﹃ 寛 政 重 修 諸 家 譜 ﹄ に は 一万石 を ﹁ 加 えたまわる ﹂ となっており ︑ 一万石 の 加増 だと 記 しているがこれは 誤 りである ︒
享保九年一二月一五日 に 忠周 は 老中 に 昇進 するが ︑ 在京賄 い 領 はそのまま 上田藩 の 所領 のままであった ︒ 近江 の 所領 が 信州川中島 の 所領 と 再 び 交換 されるのは 松平忠周 の 次 の 藩主 忠愛 の 時 であっ た
МХ︒﹃ 寛政重修諸家譜 ﹄ には ﹁︵ 享保 ︶ 十四年 十 月 八 日 近 江 国 の 所 領 を 転 じ て 信 濃 国 更 科 郡 の う ち に 移 さ る ﹂ と あ る ︒ 実 際 に 近 江 の 所 領 が 引 き 渡 さ れ た の は ︑ 享 保 一五年五月 であった ︒ 浅井郡 の 六
〇一四石九斗九升 は 代官多 羅尾治左衛門 に ︑ 伊香郡一四 カ 村 は 代官辻甚太郎引 き 渡 され た ︒ 多 羅 尾 が 郷 村 を 受 け 取 っ た 旨 を 記 し た ﹁ 覚 ﹂︵ 享 保 一 五 年 五 月 付 ︶ を ︑ 辻 も 郷 村 受 け 取 り の 書 付 ︵ 享 保 一 五 年 五 月 一 九 日 付 ﹁ 近 江 国 伊 香 郡 郷 村 高 帳 ﹂︶ を 忠 愛 の 家 臣 井 上 四 郎 左右衛門 ︑ 野田喜兵衛 ︑ 岡本十右衛門宛 に 出 し た
МЦ︒
本章 では ︑ 上田藩 の 在京賄 い 領 に 関 わる 史料 を 紹介 し ︑ 忠 周 の 所司代就任 にともなって 在京賄 い 領 を 与 えられたことを 指摘 した ︒ ただし ︑ 多 くの 所司代就任者 は 大坂城代 から 所司 代 へ 昇進 するが ︑ 忠周 は 大坂城代 を 経験 していない 点 に 留意 する 必要 がある ︒ 例 え ば ︑ 宝暦二年 ︵ 一七五二 ︶ 四月七日 に 大坂城代 に 就任 した 上野国高崎藩 の 藩主松平輝高 は 同年四月 に 蒲原郡四一 カ 村 が 上知 となり ︑ 摂津国有馬郡五 カ 村 ︑ 豊嶋 郡六 カ 村 ︑ 川辺郡四 カ 村 ︑ 河内国茨田郡一三 カ 村 ︑ 播磨国宍 粟 郡 一 八 カ 村 ︑ 加 西 郡 二 六 カ 村 を 替 え 地 と し て 与 え ら れ る
МЧ︒ 輝 高 は 宝 暦 六 年 五 月 七 日 に 所 司 代 と な り ︑ 宝 暦 八 年 一
〇月 一八日 には 老中 となる ︒ 宝暦一
〇年三月六日 に 老中在職中 の まま 死去 する ︒ 大坂城代役知領 はそのまま 京都所司代 の 在京 賄 い 領 に 引 き 継 がれる 点 に 注目 したい ︒ つまり ︑ 所司代 の 在 京賄 い 領 は 大坂城代 の 役知領 とセットで 考 える 必要 があるこ とを 指摘 しておきたい ︒
また ︑ 輝高 の 老中就任後 も 引 き 続 き 在京賄 い 領 は 高崎藩領 のままである ︒ 役職就任 を 契機 として 成立 する 役知領 は ︑ 役 職 から 離 れると 同時 に 上知 になるのではない ︒ この 点 は ︑ 役 知領 や 在京賄 い 領 が 与 えられることの 意味 を 考 える 素材 とな りうると 考 えてい る
МШ︒
三三松平忠周の所司代就任と幕府発給文書について おわりに
信濃国上田藩 の 松平家文書 から 所司代関連 の 史料 を 何点 か 紹介 し ︑ 第一章 では 所司代就任 から 上洛 までの 経緯 や ︑ 京詰 め 家臣団 について 明 らかにした ︒ 第二章 では ︑ 老中 から 渡 さ れる 二通 の 覚書 について 検討 を 加 え ︑ 上方 の 支配機構 の 変遷 にともなって 覚書 の 文言 が 変化 することを 明 らかにし ︑ 文書 様式 についても 言及 した ︒ 第三章 では 在京賄 い 領 に 関 わる 史 料 を 紹介 し ︑ 事実確定 を 行 った ︒
断片的 な 史料 の 紹介 に 終始 し ︑ 十分 な 立論 が 出来 なかった ︒ しかし ︑ 所司代研究 は ︑ 現状 では 史料 の 発掘 と 基礎事実 の 積 み 重 ねが 必要 な 段階 である ︒ いくつかの 藩 の 藩政史料 について 所司代関連史料 の 残存状況 を 調査 したが ︑ 非常 に 断片的 な 史 料 しか 残 されていないとの 印象 を 強 く 持 った ︒ 今後 は ︑ 所司 代 が 作成 する 文書総体 を 把握 し ︑ 各藩 の 所司代関連史料 から 明 らかになる 断片 が 文書総体 の 中 でどう 位置付 けられるのか を 検討 する 作業 が 不可欠 のものになろう ︒ その 作業 を 経 て 所 司代 の 基礎研究 を 進 める 必要 がある 点 を 指摘 しておきたい ︒
︵
1︶所司代は京都所司代と称されることもあるが︑正式な ︵ ず所司代と記されるのが原則である︒ 職名は所司代である︒江戸時代の各種史料では京都を冠さ
︵ など︒ た藤田覚﹃近世政治史と天皇﹄︵吉川弘文館︑一九九九︶ 期における朝幕関係の検討に際して所司代の役割に関説し ―議奏﹁三卿﹂﹂︵﹃文化史學﹄五七︑二〇〇一︶︑近世中後 ―﹁幕末における議奏の政治的浮上について所司代酒井と 維新期の政治史的関心から所司代を取り上げた仙波ひとみ 真昭﹃京都の寺社と豊臣政権﹄︵法蔵館︑二〇〇三︶︑幕末 2︶中近世移行期の所司代についての基礎研究である伊藤
︵ 館所蔵文書解題﹄一九八五︶︒ 管されたと考えられる文書である︒﹂︵﹃京都府立総合資料 当時に所司代をはじめとする旧幕府諸機関から京都府に移 一号書庫に収蔵されていたもので︑明治新政府が成立した げられる︒この文書群は一〇〇通からなり︑﹁京都府の旧 3︶例えば京都総合資料館所蔵の﹁旧幕府関係資料﹂が挙
︵ 来状況そのものが十分に明らかになっていない︒ あり︑自治体史などで言及されることも少なく︑史料の伝 大名の居所があった地域では余り関心を持たれない傾向に 4︶各大名が所司代として京都で行った行政などは︑その この論文を指す︒ ︵﹃長岡郷土史﹄四一号︑二〇〇四︶︒以下︑前稿と記す場合︑ 5︶拙稿﹁牧野忠雅の所司代就任と老中連署の二通の覚書﹂
三四
︵
6︶蒼紫神社文書
︵ 11︒
︵ 印があることを確認している︒ た︒その後︑蒼紫神社で原文書を拝見する機会があり︑割 とから︑越後国長岡藩の覚書にも割印があるものと推測し に︑紙の継目に発給人である老中の割印が捺されているこ 覚︵上田市立博物館編﹃松平氏史料集﹄一九八五︑五五頁︶ に所司代に就任した信濃国上田藩の松平忠周が受け取った 無については判断を保留した︒ただし︑享保二年︵一七一七︶ 閲覧し︑実際の文書は閲覧していなかったため︑割印の有 7︶前稿では長岡市立図書館文書資料室のコピーによって
︵ 二〇〇五︶を発表している︒ 都造形芸術大学歴史遺産研究センター﹃紀要﹄四号︑ 司代関連の論考として﹁所司代巡見触の基礎的研究﹂︵京 ―中心に﹂︵﹃長岡郷土史﹄四二号︑二〇〇五︶︒その他所 ―8︶拙稿﹁所司代就任期の長岡藩家臣団京詰めの藩士を
︵ 平家文書﹂一四三のように同目録の文書番号を併記する︒ されている︒以下︑﹁松平家文書﹂を典拠とする場合は︑﹁松 上田松平家文書﹄︵一九七六︶として同館から目録が刊行 9︶﹁松平家文書﹂は長野県上田市立博物館蔵で︑﹃信濃国
︵ 10 ︶﹁柳営日次記﹂享保二年九月二七日条︒
享保一三年までの記事に加え︑忠周の年忌法会など元文五 会所日記は忠周が藩主であった天和三年︵一六八三︶から 11 ︶﹁忠周公治世会所日記写﹂︵﹁松平家文書﹂一九八︒この なく︑後日まとめられた記録である︒ いう表題が付いているが︑日々書き継いでいったものでは 年︵一七四〇︶までの記事が収録されている︒﹁日記﹂と
会所日記の表紙には﹁掛山蔵﹂と記されている︒掛山家は松平家が駿河国田中に居所があった寛永年間に召し出され︑享保二年には石高二〇〇石の家であった︒当主の中には用人や留守居など︑藩の要職を勤める者もおり︑代々物頭となる家格を持った家である︒以下本書からの引用については典拠を﹁会所日記﹂と略記する︒
なお︑﹁会所日記﹂の草稿と思われる﹁歓喜院忠周公御代﹂︵﹁松平家文書﹂五八二︶という冊子もあるが︑この冊子は目録に掲載されていない︒﹁会所日記﹂よりも記述は詳細であり︑加筆修正の書き込みが見られる︒以下︑﹁歓喜院﹂と略記する︒︵
︵ 12 ︶﹁歓喜院﹂︒
︵ 13 ︶﹁会所日記﹂︒
氏﹃朝尾直弘著作集﹄第七巻︵岩波書店︑二〇〇四︶に再 の史的構造 近世・近代﹄思文閣出版︑一九九五︑のち同 ――き雑色小考﹂︵朝尾直弘教授退官記念会編﹃日本国家 明である︒なお︑雑色の鉄棒については朝尾直弘﹁鉄棒曳 は﹁てつぼう﹂とも読まれていたことになるが︑詳細は不 ﹁鉄炮﹂とは﹁鉄棒﹂のことであろうか︒﹁鉄棒︵かなぼう︶﹂ 14 ︶﹁歓喜院﹂︒雑色が﹁鉄炮引︑御先払﹂と注記されているが︑
三五松平忠周の所司代就任と幕府発給文書について 録︶を参照のこと︒︵
︵ 15 ︶﹁歓喜院﹂︒
︵ ―八七二︒以後︑﹃町触﹄①八七二と略記する︒ 16 ︶﹃京都町触集成﹄第一巻︵岩波書店︑一九八三︶︑触番号
︵ 17 ―︶﹃町触﹄①八七三︒
︵ 18 ―︶﹁松平家文書﹂九九二五︒
︵ 市教育委員会︑一九八六︶︒ 調査会編﹃高崎史料集 大河内家文書︵無銘書一︶﹄高崎 右筆茶屋宗古に問い合わせを行っている︵高崎市歴史民俗 信興の場合︑先乗りした家臣が︑所司代与力安井茂兵衛や︑ 四年︵一六九一︶に所司代に就任した上野国高崎藩の松平 代与力や右筆に問い合わせを行ったものと思われる︒元禄 19 ︶先乗りとして上洛した家臣は︑所司代の職務内容を所司
︵ 詰めの者が記載されていると推測される︒ 20 ―︶﹁松平家文書﹂九九二六︒足軽以下の分限帳で︑国元
︵ れていたと考えている︒ 軽以下も士分同様︑国元詰めと江戸詰めの家臣から構成さ のものであるため︑上洛時点の状況を示していないが︑足 21 ︶足軽以下の石高の典拠である﹁御分限帳﹂は享保四年
︵ 藩の場合も当てはまる︒ 22 ︶前稿で暇の日と覚書の日が同一だと指摘したが︑上田
下に捺されており︑発給人の署名順︵前から後︶に上へと 23 ︶﹁松平家文書﹂二八二︒覚書⒜の継目の印は水野が一番 ︵ 捺され︑土屋が一番上に捺印している︒
︵ 二〇〇三︶を参照のこと︒ 日本の時代史一六﹃享保改革と社会変容﹄吉川弘文館︑ については村田路人﹁幕府上方支配機構の再編﹂︵大石学編︑ 24 ︶享保の改革期における幕府上方支配機構の権限の変化
︵ ころがある︒ のである︒なお︑史料の引用に際し句読点などを改めたと や︑忠之が受け取った文書を引用し︑編年体で編纂したも 筑前国福岡藩の藩主黒田忠之が藩主在任中に発給した文書 紀要﹄第六号︑二〇〇五︶による︒﹃忠之公御代日記﹄は 掛編﹁﹃忠之公御代日記﹄︵三︶﹂︵﹃福岡市総合図書館研究 25 ︶以下の事例は︑福岡市総合図書館文学・文書課古文書
︵ 間︑万事可有相談候︑以上﹂ 元勝手次第ニ尤存候︑雖然近日井上筑後守長崎へ被相越候 である︒﹁右従其方被指越候覚書之通︑何も得其意候︑其 26 ︶七カ条の質問の後に書き加えられた奥書は以下の文面 史研究﹄三九号︑二〇〇二︶︑のち同氏﹃近世畿内・近国 ―大御番頭・大御番衆・加番を中心に﹂︵大阪教育大学﹃歴 ―卓二氏が指摘している︵同氏﹁在坂役人と大坂町人社会 ことが役知領の意味を考えるうえできわめて重要だと岩城 名にとって︑大坂周辺の役知領から武家奉公人を徴発する から役知領と呼ぶこともある︒大坂城代などに就任した大 27 ︶在京賄い領は︑役職に就任した場合に与えられること
三六
支配の構造﹄︵柏書房︑二〇〇六︶に収録︶︒また︑筆者は伊勢国津藩の藤堂氏が山城・大和に与えられていた在京賄い領について分析した論考を準備している︒︵
︵ 28 ︶﹃寛政重修諸家譜﹄第一︒
︵ ―文書﹂一四九四︶︒ 29 ︶﹁江州御領分酉年御取箇帳御代官所哀書付入﹂︵﹁松平家
︵ 30 ―︶﹁松平家文書﹂一四九六︒
︵ とあり︑加増ではなく替え地であることが確認できる︒ 被差上︑此御代地江州伊香郡・浅井郡ニて御請取被遊候﹂ 31 ︶﹁歓喜院﹂には︑﹁信州川中島壱万石之御知行御預ニ而
︵ 忠愛が遺領を継いでいる︵﹃寛政重修諸家譜﹄第一︶︒ 32 ︶忠周は享保一三年四月晦日に没し︑同年六月一五日に
︵ 何点か包まれていた︒ る︒しかし︑調査時点では近江の所領に関する他の文書も 辻の﹁近江国伊香郡郷村高帳﹂が包まれていたと考えられ 取覚弐通﹂と記した包紙があり︑本来は多羅尾の﹁覚﹂と 年戌三月︑江州御領分を御代官所江引渡候節︑御代官様請 33 ―︶﹁松平家文書﹂一四九一〇︒この文書には﹁享保十五
︵ 書館の写真帳で閲覧した︒ 高崎藩の所領の変遷は当該史料による︒なお︑群馬県立文 34 ︶﹁御領地調写全﹂︵東京大学経済学部図書館蔵︶︒以下︑
所領であり続けると言うことは︑逆に役職に対応する役知 35 ︶役職から離れた後にも役知領や在京賄い領が継続して 明らかにすることも今後の課題である︒ い領が設定されることになる︒こうした﹁条件﹂について ではなく︑所司代就任者にある条件が整った場合︑在京賄 村の領主が必ず所司代就任者だという固定の関係があるの 領や在京賄い領が固定していたわけではない︒例えばある
︻付記︼
史料調査に際してご高配を賜りました上田市立博物館に謝意を申し上げます︒
なお︑本稿は科学研究費補助金・若手研究︵スタートアップ︶﹁京都所司代の行政機構に関する基礎研究﹂︵二〇〇六〜二〇〇七年度︑課題番号一八八二〇〇四九︶の成果の一部である︒
三七松平忠周の所司代就任と幕府発給文書について
表1 京詰め家臣団(先乗りの面々)
江戸出立 家臣名 石高(石) 備考
一番立 戸祭十郎左衛門 200
10.15 山村源八 200
成瀬孫大夫 二番立 野村長兵衛
速水又右衛門 *米6石2人 足軽
天野友左衛門 150
三番立 奥村伝七
段蔵 仕立方
四番立 藤谷三之丞 石川三右衛門
五番立11.8 江守弥左衛門 200 関札 六番立 波多野六郎左衛門 100
11.11 平子庄蔵
七番立 小島八郎右衛門 100 宿割
11.15 勝俣新五左衛門 80
注1.「会所日記」「歓喜院」によって作成した。
注2.家臣の石高は享保2年7月の「高列分限帳」に基づいた。
注3.石高に*のあるものは享保4年頃の「御分限帳」に基づいた。
三八
表2 京詰め家臣団(供連れの面々) 家臣名石高家臣名石高家臣名石高家臣名石高家臣名石高 岡部九郎兵衛a600石千葉織部300石中根次郎右衛門250石外村七郎兵衛a200石横田地段之進a200石 三刀谷半蔵a200石矢嶋友右衛門a200石佐竹市右衛門a200石中根与左衛門a内藤甚七a 田淵藤左衛門150石一色東蔵a150石山村孫次郎c130石大井三郎右衛門a200石礒川儀右衛門c100石 岡本左大夫c100石村上定之進c100石松原十太左衛門c山田善左衛門c150石岡本只右衛門c80石 内田三郎左衛門c河合源六c成田小一左衛門c80石彦坂四兵衛c加舎忠兵衛c100石 村上平蔵100石岡部才右衛門外村友次郎戸倉助右衛門*5両5人多田又之進 服部小七郎*5両3人野間政右衛門*5両3人村松左中長谷川長仙b200石村上松固b200石 和田養軒b小瀧玄庵b駒田舎人7人松井安右衛門大野木恒之丞* 5両5人 高瀬山三郎土屋又之助山本権平* 5両3人岡十右衛門山本万左衛門 槙尾三之丞森田庄左衛門下村義大夫吉形又右衛門80石高坂武兵衛80石 武宮可左衛門白瀬甚左衛門15人有賀庄左衛門50石鵜沢小左衛門50石井上重兵衛 平野次郎大夫富川定七加藤舎人石川清三郎*米7石3人相林甚介*6両2人 岩崎忠右衛門荻野織右衛門*米8石2人手塚儀右衛門寺尾藤十郎鈴木藤次郎 森六兵衛桂左一郎*米8石3人岡本三可*米7石3人藤田円可*米8石2人門倉伝二郎*米7石3人 妹尾小右衛門*米10石3人高橋半大夫*米10石3人北山市郎兵衛祐可*米5石2人喜三 玄可* 3両2人久弥久斎永井孫平(目付)c130石鷲見宇大夫(目付)c80石 山田幸右衛門稲垣林右衛門* 米8石3人崎尾冨右衛門* 米8石3人平野数右衛門永儀九郎大夫 注1.家臣名は「会所日記」「歓喜院」によって作成した。 注2.家臣の石高は享保2年7月の「高列分限帳」に基づいた。 注3.石高に*のあるものは享保4年頃の「御分限帳」(「松平家文書」99-26)に基づいた。 注4.石高の欄で3人は3人扶持を意味する。 注5.名前の後にaとあるのは騎馬で入洛した者、bとあるのは駕籠で入洛した者、cとあるのは乗掛で入洛した者である。
三九松平忠周の所司代就任と幕府発給文書について
表3 近江国の在京賄い領の村々一覧
郡名 村名 石高(石)相給領主 代官
浅井郡
平塚村* 174.92 実宰院
内山七兵衛
瓜生村 495.524
田川村 685.268
山前村 420.41
三川村* 246.305 稲垣長門守・大久保佐渡守
三川村* 117.293 西郷市正
大寺村* 624.78 大久保佐渡守
曽根村* 300 小堀備中守 加村* 418.779 井伊掃部守
川毛村 1011.388
速見村 1198.709
小計 5693.376
速見村 165.599
上林又兵衛
月ヶ瀬村* 152.406
小計 318.005
伊香郡
渡岸寺村 279.561
石原清左衛門 柏原村 526.3
柏原村(井口村出作分) 396.81
井口村* 454.915 土屋相模守・本多下総守
東物部村* 53.111 井伊掃部守
西物部村* 213.05 井伊掃部守
西阿閉村* 760.899 安藤彦四郎・井伊掃部守
片山村* 10.361 井伊掃部守
西柳野村* 30.97 松平伊豆守
礒野村* 222.353 本多下総守
布施村* 198.124 井伊掃部守
高田村* 212.39 安藤彦四郎・井伊掃部守
中郷村* 378.815 井伊掃部守・本多下総守 植村土佐守・保科兵部少輔
八戸村 197.84
川並新田 46.12
小計 3981.619
合計 9993
注1.「江州御領分酉年御取箇帳御代官所哀書付入」(「松平家文書」149-4)より作成した。
注2.*印を付した村は相給村落である。