北前船主の一類型 : 兵庫県城崎郡香住町宮下家の 場合
その他のタイトル A Type of Merchant Carrier in the Nineteenth Century Japan
著者 津川 正幸
雑誌名 關西大學經済論集
巻 13
号 4‑6
ページ 715‑745
発行年 1963‑12‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/15419
北前船主の一類型︵津川︶
︵賀
広海
家︑
大家
家︑
浜中
家︶
︑能
登︑
を稼ぎ場とする北前船の本拠は︑
越前︵右近家︶︑加
者ー商人船主の業務経営の一類型についてである︒
本稿において述べようとするところは︑
ー兵庫県城崎郡香住町宮下家の場合ー│ー
北 前
船 主 の
一般に北前船とよばれ︑買稲みを主なる経営形態とする自己運送廻船業 いうまでもなく︑北海道から西廻り航路を利用して兵庫・大阪に往復し︑裏日本・瀬戸内あるいは北九州の諸港
北前五大船主の出身地から推して考えても明らかなように︑
越中︵馬場家︶と旧称された福井・石川・富山の各県にわかれる北陸地方であ
( 1 )
る︒したがって北前船の定義を﹁北陸の船で︑関西方面と北海道の間を往復した帆船で︑買積制度によるもの﹂と
( 2 )
する向もあり︑昨今ようやく盛んになってきた北前船の研究も︑この地方にかぎられていた︒
しかしながら︑本拠が北陸地方にあったということは︑主力がそこにあったといいうるとしても︑他地方に類似
三三七
類 型
津
J I I
正
幸
五郎家の場合について︑その概略をみようとするものである︒
﹁昔からの船主﹂のうち﹁北前船系グ 三三八
のものがなかったとはいいえない︒また運賃積ー他人運送を主なる経営形態とする菱垣・樽両廻船に対しての買積
み船を一般に北前船と呼称するとすれば︑その起原なり本拠地がどうであろうと︑裏日本全般にみうけられる同種
の経営形態を有する商船を北前船と呼称しても︑何等差支はなかろうと考えられる︒そこで本稿において︑取上げ
ようとする例は︑北陸地方の北前船に対して︑アウトサイダー的存在であったともみられる山陰地方に本拠をもつ
北前船で︑従来ほとんど取上げられることのなかった但馬の北前船について︑とくに城崎郡香住町安木浜の宮下仙
ところで︑幕末から明治期を通じての︑わが国海運業の動向は︑実にめまぐるしい様相を呈した︒沿岸航路のみ
についてみても︑就航する船舶の種類は︑旧来の大和型帆船がなお健在であり︑西欧の先進文明とともに蒸汽船が
導入され︑和船の不備をおぎなうぺく西洋型帆船が逐次建造された時期である︒また日本郵船・大阪商船の二大特
権会社の経営するいわゆる﹁社船﹂と︑その他すべての船主・海運企業を総称する﹁社外船﹂グループが形成され
つつあって︑技術的に︑あるいは経済的にわが国における近代的海運業の黎明期であった︒ということは︑他方に
おいて︑旧幕時代から活動し︑相互に相剋して発展をとげた大和型帆船によった諸廻船業が︑線香花火にも似た状
態で︑点火された時の勢いのよい花々しい輝きをみせ︑やがて軸の先の小さな火玉となって︑まさに消えんとする
( 3 )
寸前の断続的な名残りのかがやきをみせて終るような︑衰微の時期であったといえる︒
( 4 )
この期の海運業の︑とくに﹁近代化﹂の問題については︑神戸大学佐々木誠治氏の﹁日本海運業の近代化﹂と題'
する優れた論考があり︑とくに近代船主の類型化を試みられ︑社船と社外船の区別のもとに︑主要社外船主の近代
化過程について︑詳細な資料をふまえての実証的な研究がある︒その中で︑ 闘西大學﹃繹漬論集﹄第十三巻第四・五・六合併号
北前
船主
の一
類型
︵津
川︶
の三類型である︒ 曰海商による利益を土地に投資し︑地主化したもの︒
仁
)
大阪はじめ︑主要な港湾都市に定住し︑問屋商人︑金融業者となったもの︒
H
に区分することができるであろう︒すなわち︑ 加賀の広海二三郎︵広海汽船︶の場合を考究され︑
に推転する過程を︑あますところなきまでに究明されたかの感がある︒
しかし本稿においては︑同氏の分析視角とは逆に︑近代化の過程ではなく︑近代化にとり残され︑むしろ旧態依
然とした営業を固守し︑あるいは転業し︑あるいは退廃してゆく過程の一事例をみようとするものである︒いうな
れば﹁後向き﹂の姿勢ではあるけれども︑決してわが国の明治期における経済成長を無視するものではなく︑むし
ろ一八世紀中葉の動乱期︵安政ー明治︶を経て︑紙幣乱発によって惹起されたインフレーショ
ン︑地租改正の実施と紙幣整理の時期︵明治十四年以降︶にはいって︑前期の反動としての米価の暴落︑明治二十年 改革の時代に入り︑
︵一八八七年︶頃からの︑世界的な銀価の動揺ないし下落によっておこされた日本の為替相場の動揺と物価の高騰︑
続いて日清戦後の反動恐慌︑日本の産業革命の進行︑日露戦争前後の海外市場への発展等々︑波動する社会経済に
如何に対処し︑如何に生き抜きあるいは退転していったかを見ようとするものである︒
まず、幕末•明治期を通じて、北前船主が時勢の変化にいかに対応し、企業の主なる基礎を何処においたかの観
点に立ち︑しかも何等かの命脈を保って︑存続しえた企業者ないし産業者を大雑把に分別すると︑大体三つの類型
海運業を継続し︑近代船主となったもの︒ ループ﹂の代表として︑
三三九 北前船の近代化ー北前船主が近代船主
さて前述の通り︑北前船の主力は北陸地方にあり︑
原本は神戸大学経済学部に所蔵されているもの 三四〇
日の類型に属するものは︑北前船グループの中でも比較的にもっとも初期に海商を開始した︑能登・加賀・越前
( 5 )
の船主で馬場家・広海家・右近家のような場合をその代表としてあげることが出来るであろう︒
口の類型に属するものは︑日の類型に属する︑先進的な船主に剌戟されて︑時期的には少しおくれて開業し︑地
域的には前三者の出身地に近接する能登・加賀・越前の中小船主︑例へば加賀の西村屋忠兵衛家などをあてること
( 6 )
が出来るであろう︒
国の類型に属するものは︑口の類型に属するものよりも︑さらに開業が遅れ︑地域的には︑アウトサイダー的存
在と規定した但馬地方の船主の若干などで︑諸寄の東藤田家︑香住安木浜の宮下家︑豊岡の滝田家あるいは隠岐島
( 7 )
後布施村の山口家などをその代表としてあげることが出来るであろう︒
山陰地方の北前船をそのアウトサイダー的存在とみた以上
は︑山陰地方の船舶保有状態を明らかにし︑前者と比較しなければならない︒しかしながら︑残存史料が僅少であ
るため今その詳細を知ることは出来ないので︑とりあえず一地方の客船帳によってその概略のみをみることにしよ
う︒いうところの客船帳は︑海事史料双書第四巻におさめられ︑
で︑同双書の編纂者住田正一氏の解題によると︑明治二十二︑三年頃に︑下関地方の一流問屋が︑古い元帳を整理
作成したものであろうと推定されているものである︒しかし最近の研究では︑下関ではなくて︑浜田港の一問屋と
( 8 )
みる向もあり︑いずれにしても日本海沿岸の一港湾都市でものされた帳簿であることには違いなさそうである︒さ
濶西大學﹃網済論集﹄第十三巻第四・五・六合併号
7 19
第
1
表 但 馬 国 在 籍 良 一 覧地 名
1
文政慶 応1
明ま治で1 0
年2 0
年まで3 0
年まで居 組
1 6 1 2 1 5
柴 山
3
一日市村
1 3 2
訓 谷
1
安 木
1 2
諸. 寄 11
3 2 5
釜 屋 村
1
竹 ノ 浜
6
73 0 6
須 井 村
2
瀬 戸
,
豊 岡
3 2 5 2
計
I 5 0 I 2 a I 6 6 I 1 5
海事史料双書第4巻 諸国御客帳による
てこの客船帳によると︑記載された船舶が︑必ずしも買積をおこなう北前船ばかりではなく︑運賃積を主たる経営形
態とする船舶も混入し記載してはいなかったかを明らかになしえないきらいがあるが︑石見津和領小浜浦について
は︑安政七年︵万延元年ー一八六
0 )
万延二年の間に五艘︑明治になって四艘の船名がのせられ︑出雲国については︑キヅキ・大芦浦・板津浦廻•松江・竹矢村・古浦·加賀浦・十六ノ嶋・うどう浦・鷺浦の十ヵ所で、文政九年から
慶応三年の間に一五艘︑明治期に一七艘︑伯習国については︑上道村・境湊のニヵ所で明治期に四艘︑因幡国では
大塚浦・赤崎浦・橋津浦・酒津浦•青谷浦・加路浦・田後
村・淀江浦・泊里浦・田尻浦・八橋・由良津•浜村・江
年(‑八六七︶の間に二十八艘︑明治期に四一艘︑丹後国に
ついては︑間人浦・由良・タ日浜詰村・岩滝・神崎村の五
ヵ所で︑天保七年から安政六年︵一八五九︶の間に一五艘︑
籍の船舶で同客船帳に記録されたものは︑第一表に示す通
り︑居組・柴山・一日市村・訓谷・諸寄・釜屋村・竹ノ浜
・須井村・瀬戸・豊岡の現美方・城崎両郡にまたがる一︱
ヵ所で︑文政八年(‑八二五︶から慶応三年に至る間に五〇 出入があったことをしめしている︒
三四 一
とこ
ろで
︑
但馬国在 明治二十二年に六艘の船名が記録され︑それだけの船舶の 原・大谷の一五ヵ所より︑文化二年(‑八0五︶から慶応
----~---ニ-
----~-- ‑ ‑
れ ︑
風待
ち︑
さらに嘉永二年︵一八四九︶久美浜 なかでも竹野村分については︑
更に
︑ 三
四二
艘︑明治一
0
年までに二八艘︑同二0
年までに六六艘︑記載の最終期日である明治二十四年三月二十二日までに一五艘︑計一五九艘の船名があげられている︒これを先の山陰諸国の在籍船舶数に比較すると︑出雲三二艘︑伯者四
因幡・丹後と石見の一部の五ヵ国在籍船合計を上廻る状態である︒勿論︑諸国廻船のうちには︑この客船帳作成者
である一問屋に着船せず︑同所他問屋あるいは最寄りの他港に入港︑着船したものもあるであろう︒そうだとする
と︑各国在籍の諸廻船もここにあらわれた数を上廻るであろうが︑その条件は︑但馬在籍船舶についても同様の条
件があったといえるわけで︑同じ条件で比較してよかろう︒そうした意味における比較で︑なお同客船帳記載の諸
国船名数において︑隠岐国ニ︱五艘︑越前国一八一艘︑加賀国二八一二艘︑能登国一五
0
艘︑越中国二八六艘︑越後国二五九艘には匹敵しえないまでも︑数の上では能登一国の在籍船名数を少し上廻る船舶数が当該港湾に入出港
し︑したがって日本海を北に︑西南に往来していた程の船舶をもっていた地方であるということができる︒
'
︵
9) この間の事情を、いま一度地元但馬の竹野・諸寄•浜坂等に残存する史料によってみると。文政年間の「諸廻船往
来改帳﹂によれば︑同九年(‑八二六︶に諸寄港に入港した船舶八
0
艘︑同十年︱1 0
艘︑同十一年五九艘が数えら
あるいは飲料水の補給のために寄港する諸国廻船の往来のあったことを知らせ︑
﹁諸廻船往来改帳﹂には︑但馬地方在籍の廻船名が散見され︑城崎郡津井山村・瀬戸村・小嶋村・美含郡竹野村・
あ げ あ ま る ペ
安木村・柴山村・上計村・沖浦村・境村・余部村等の村名が記載され︑
︵一八三一年︶に一五艘の船名がのせられており︑さらに他の史料によると︑同村において船手形をうけた者が︑文
化十三年︵一八一六︶三四名︑同十四年七名︑文政六年︵一八ニ︱︱‑)には八
0
名 ︑
天保年間の
天保二年 艘︑因幡六九艘︑丹後ニ︱艘および小浜浦四艘を合計して︑一三九艘であって︑但馬一国の船舶数が出雲・伯者 賜西大學『糎済論集』第十三巻第四•五·六合併号
北前
船主
の一
類型
︵津
川︶
更に瀬戸内にかけて活躍した姿がしのばれる︒﹂
乗船
頭で
︑ 五人乗りの船をもって回漕業を営んでいた事が見られ︑翌三年︵明治︶には仙五郎が沖船頭となって︑
と ︑ 廻船業に進出する素地は充分にあったわけである︒ 代官所改めによる同村の廻船艘数は︑五十石ないし四百石積廻船五二艘と調査されているこれを先にあげた第一C
表にあわせて考えるならば︑文政八年から慶応三年に至る間の同村在籍船の当該港湾に入港した船数は六艘であ
るcしかるに嘉永二年の船改めでは五二艘︑積石数の大小によって航海範囲もおのずから広狭があったにしても︑
相当数の廻船が日本海を往来したであろうことが推察される︒このことは︑竹野浦のみについてだけではなく︑但
馬沿岸の諸村の殆んどが︑海に生業の基礎を求め︑漁業に︑あるいは廻船業にそれを求めなければならないような
事情にあったところから︑竹野浦と同様の行き方があったであろうことが考えられるわけである︒
右のように︑但馬沿岸の諸海村においては︑諸国廻船の往来寄港もあり︑それぞれの居村の村落事情からして︑
さて︑宮下仙五郎家について︑先に引用した中井寿孝氏の﹁日本海の回漕業について﹂の一節を再度引用する
﹁宮下家は北但に於ける山林地主として最も代表的なものだが︑先般の調査で知り得た事は︑宮下仙五郎が直
開通時までが全盛期で︑
ら下
関︑
大阪の桜屋重太郎手船に乗り組んでいた事が伺われる︒保存されている古文書より見ると︑明治二十年以降山陰線
一時は第一号明宝丸•第二号明宝丸・明生丸・真徳丸の五艘の廻船を持ち、遠く北海道か
︵昭
和三
十六
年以
前に
おこ
なっ
た調
査に
よる
︒︶
と同
家の
買
積船業者としての発端と営業状態︑さらに廻船業から大山林地主への転向の一端を述べている︒
三四三
第
2
表 宮下 仙
五 郎 略 歴
年 代 事 項
天保元年
( 1 8 3 0 )
7年 文久
2
年( 1 8 6 2 )
8年
慶応元年
( 1 8 6 5 )
2年
3年
明治元年
( 1 8 6 8 )
5年
7年
1 1
年( 1 8 7 8 ) 1 2
年1 6
年1 8
年20
年( 1 8 8 7 ) 2 1
年以年
28
年2 9
年30
年( 1 8 9 7 ) 3 3
年( 1 9 0 0 )
潤 年40
年( 1 9 0 7 )
4 3
年年
生る、生後3日訓谷大倉彦兵衛家へ養子
実家に帰生。
3 0 0
石船を購入、生家没落の為間もなく売却生家の老朽船を修理、これを境港にて良船とかえる。
北海にて暴風にあい破船、
大阪にて
7 0 0
石船を新造、同年1 2
月1 6
日境港にて、.諸寄勢戸屋平左衛門持船
5 0 0
石積船を3 4 6
円で購入。分家し初代仙五郎を名乗る。
生家の為
1 8 6 0
円で船を購入、田畑6
反歩と共に生家の財産とする。・
大阪にて明栄丸
4 0 0
石新造明神丸
8 0 0
石新造(6
年5
月改船石624
石5
人乗)明宝丸
7 0 0
石新造。大乗寺持田
30
町7
反余を1 5 2 4
円余で購入。正月大阪立売堀秋岡源兵衛に持船潤6石積(明生丸)を売
却し、大阪難波小林弥助から
5 7 5
石積(鑑札石)新造船を2 8 3 0
円で購入5
月秋田能代大原慶次郎から2 5 0
石積日本形1 7
反帆船を7 6 0
円で購入
明生丸
6 5 9
右大阪にて進水秋田県能代で建物
(4
月5
尺:7
間3
尺)1
軒を4 2 0
円で購入明神丸修理
4
月1 1
日城崎郡小島にて、明神丸482
石進水船頭梁津山勘兵衛
5
月1 0
日大阪難波小林弥助建造明生丸6 5 9
石進水( 1 8
年の分と重複)
1
月神戸綱盛源兵衛に明生丸売却3月
1 9
日小島津山勘兵衛建造明宝丸448石進水4
月2 5
日明宝丸進水( 2 4
年の分と重複)3月家督を長男仙太郎に譲る
(巨万を蓄え、田を購い、林を植え、芳々興業を行なう)
7月仙太郎銀行創立委員長として美含銀行創立し、取頭と
なる
3月
1 5
日明生丸894石を小島にて新造8
月1 0
日秋田県象潟港にて暴風に逢い明生丸( 8 9 4
石)跛船‑10月
1 4
日初代仙五郎死去明神丸
6 3 9
石解散届諸船解散
庸西大學﹃輝漬論集﹄第十三巻第四・五・六合併号三四四
( 1 0 )
ところで︑家下家所蔵の文書によると同家は初代仙五郎の代になって初めて廻船業を開始したのではなく︑仙五
る︒まず初代仙五郎が直乗船頭
1 1船主となり︑手船を新造して営業を拡大してゆく過程をしる為に︑船を中心とす
( 1 1 )
る初代仙五郎一代の略歴を第三表に表示しよう︒
これによると︑七オから三十三オに至るまで家業に従い︑帆船に乗船して資金を貯え︑文久二年(‑八六二︶に三
百石積帆船を購入している︒ところが時運は彼に恵まず︑折角に購入した帆船も︑生家の没落に逢って︑止むなく
これを売却し︑ようやく残された生家の老朽船を修理して商船営業を継続した︒その後事業も進み︑その年に︑な
お良船を購入するの望みやみがたく︑伯習国境港にしかるべく船を見出し︑
した
︒
かくしてようやく軌道に乗ったかにみえた商船営業も︑慶応元年︵一八六五︶の秋下りに暴風に逢い︑
傷めてしまった︒しかしながらこの時には︑既に相当の利益をあげていたらしく︑同年十二月十六日に︑再び境港
で︑但馬国二方郡諸寄勢戸屋平左衛門の持船五百石積帆船を購入し︑他方において︑大阪で七百石積帆船の建造に
とこ
ろで
︑
北前
船主
の一
類型
︵津
川︶
一航海の利濶を投じて老朽船と換え船
かかっている︒以後明治七年にいたるまでに︑同元年に明栄丸四百石積帆船︑同五年に明神丸八百石積︑同七年に
明宝丸七百石積を建造しており︑明治初年には五艘の帆船を所有していたことになる︒
これらの帆船のうち︑明治五年に建造された八百石積の明神丸は︑明治六年五月廿八日の改めによる
と︑六百二十四石積とあり︑さらに明治十一年四月二十日には︑
御鑑札御改正願 郎の実家も既に旧幕時代より同業を営んでいたらしく︑
但 馬 国 美 含 郡 安 木 村
三四五 船を 恐らく仙五郎も幼少の頃から乗船していたものと思われ
る ︒
権 令 森 岡 昌 純 殿
と鑑札表の積石数の改正を願い出ており︑実積石数よりも小さい届けがなされていたような事情がうかがわれ
さらに︑明治七年までに五艘の手船を所有していたと述べたがこの点なお疑問の余地を残している︒持ち船を売 兵
庫 県
右 之 通 願 上 候 二 付 奥 印 仕 候 也
四 月 廿 日
明 治 十 一 年
上候間︑何卒再御検査被成下︑御改正之段奉願上候︑以上
四 百 八 十 六 石 積
明 神
丸 閥西大學二碑済論集﹄第十三巻第四・五・六合併号
戸 長
川 崎 治 兵 衛
@
船 宿 綱 盛 弥 兵 衛
⑲ 兵 庫 東 出 町
右
仙 五 郎 R
右之船御鑑札︑先般豊岡県におゐいて願受︑御鑑札表四百八十六石積二御座候処︑船形より石数多分積被入候に︑
北海道七湊之内ニテ荷物積入候節︑右御鑑札表より余は積入二難出来故︑甚夕難渋仕候二付︑元豊岡県御鑑札奉返
乗 組 九 人
宮 下 仙 五 郎
直 乗
四六
北前船主の一類型︵津川︶ 借用申金子手形之事︐ 却した史料︑あるいは破船の記録がない為に詳細が判明しないが︑明治十年三月の証文の中に︑
一 金 百 五 拾 圃 也
︑︑
︑︑
︑
︑︑
︑︑
︑︑
︑
右之金子正二請取借用仕候処実正也︑然ル上は壱ヶ月金高三圏づA相加へ︑我等手船明神丸・明宝丸・明生丸右三
艘之内︑何れ二ても登次第元利共無滞急度返却可仕候︑若船玉登リ無之候節ハ︑我等手元ヨリ無遅滞返済可致候︑
為後借用証依而如件
綱 盛 弥 兵 衛 殿
我等手船明神丸・明宝丸・明生丸右三艘とあり︑おそらくその他の古船と積石の小さい帆船は売却し︑仙五郎にと
って当時最適の経営規模と考えられたであろう三艘の所有状態であったことが推察出きる︒
屋などで購入した中荷代金は︑その時に即時払いをしないで︑
れる︒例へば︑慶応三年には︑ また右の証文でみられるように︑はじめのうちは船仕建てをする時に︑右証文の場合は船宿であるが︑その他問
一航海終って決算し︑支払った場合が厘々見うけら
一金弐拾両但八月半より利足付
右之通中荷代金之内借用申処実正二御座候︑尤返済之儀は︑為立御登之節︑元利共無相違御勘定可申候︑為其借用 明治十年三月五日
借 用 記
三四七
宮 下 仙 五 郎
‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ . ‑ ̲ ̲ : ̲ ̲ ̲ --~---‑ ̲ ̲ -~·-·__—-
, j ̲ ̲ ' '両を借用し︑同四年正月には︑ 利足之儀勘弁此表相済申候 宮 下 仙 五 郎 殿
と中荷代金の内弐拾両を借用し︑裏書き文面の干支に相違なければ︑明治六年に支払をすませたことになる︒
また︑船仕建てにあたり中荷代金を船宿・問屋などで借勘定にして航海をはじめただけではなく︑新年度の初航
海の為に︑船囲い場所に向かって郷関を出立するにあたり︑居村・近隣村の親類・縁者より融通をうけて︑資金集
めを行なった形跡がある︒すなわち︑明治元年十一月から正月にかけて︑二回にわたり祖父宮下庄助から合計金千
﹁無拠急場入用の為﹂の理由で金五十五両を滝本貫一郎より︑金三十両を所有して
いた上田七畝一五歩を質入れして訓谷村甚助から借用し︑明治五年には祖父庄助から金札五十五両︑滝本貫一郎か
旦シ
ヽ ー
表書之金子弐拾両也
︵明
治六
年︶
酉 四 月 十 五 日 元 金 請 取 候 以 上
︵哀
書︶
内道屋七右衛門殿 慶応三年卯八月十六日 手形如件 賜西大學﹃舗済論集﹄第十三巻第四・五・六合併号
内 道 屋 七 右 衛 門
宮 下 源 四 郎
@ 但 馬 安 木
三四八
北前船主の一類型︵津川︶ ら金五百両を借用し︑翌六年一月には松井忠助から金六十一両︑同年八月の二番下りには︑同人から金七十円︑竹野村橋井与平治から金百五十円︑桑ノ本村丸山常五郎から金百両︑滝本勇助から金弐百両などの融通をうけ︑殆んどの場合航海終りに約束通り元利共に皆済している︒この事は︑自己資本のみならず︑他人の融通可能な所持金をも集めて︑出来るだけ充分な資金をもって︑積載可能な最大限の中荷を仕入れ︑価格の地域差を察知して︑不等価交換による利濶を最大にしようとしたものであり︑実際に︑破船・難船の無い限りにおいて︑そのことが可能であ
他人の資本を導入して営業しつつも︑
次年度の利濶で中荷の資金を獲得し︑て︑﹁第一年の利濶で造船費を償却し︑
( 1 2 )
た︒﹂といわれる点はある程度まであたっていて︑その上さらにただ蓄積されるままではなく︑その蓄積に他人か
らの資金をも導入して運転資金を増し︑買積営業を拡大しようとしたものである︒
価格の地域差を利用しての不等価交換による利濶の獲得は︑実際に売買仕切帳を分析して︑仕入値と売値を比較
すれば如実に判明するが︑明治十七年以前の仕切帳は残存しない︒そこで︑相当額の利濶を獲得したであろうこと
を推察しうる資料として︑神社・仏閣への寄進と︑土地への投資状態をみることにする︒
前者については︑判明する範囲で︑明治九年十二月に︑島根県八束郡美保関に鎮座する美保神社に金百円を寄進
し︑同時に香川県琴平の金刀比羅宮へ金五十円︑翌十年に金五十円合計百円を寄進している︒また徳島県三好郡箸蔵
の金刀比羅宮奥院へも相当額の寄進をなし︑﹁内陣宿泊許可証﹂を得ており︑明治十六年には︑地元長谷寺へ金六十
円の寄進があり︑伝えるところによると︑各地の社寺に寄進・絵馬奉納があったようである︒ちなみに当時の金百
円は︑大阪堂島の正米石当り値段に対比しその貨幣価値をみると︑ ったことを立証するものである︒また︑北前船主が︑
この年の米相場は最高五円六十銭︑最低四円四
三四九 以後は全て蓄積されるままであっ その資本蓄積におい
覚 て︑売地購入の為に借金をしている場合がある︒例へば︑ 代金一五二四円二四銭五厘で購入している︒ 十銭︑平均五円とみて︑二十石の正米を賭入しうる値である︒勿論地方の小売価をもってすれば︑それ以上の購買力をもつであろう︒
他方︑土地への投資︑田畑の集積状態の概略をみると︑すでに明治三年に生家の為に︑散田六反歩を購入してお
り︑明治十五年には田畑合計一
0
町歩余を所有している︒そのうち購入経過の判明するもののみをあげると︑明治森村の岡田孫兵衛から田地四反一畝一歩を金一六六円九四銭︵地価ニニ四円七0銭七厘︶︑同十一年五月二十五日︑
一航海の利濶を見越し 三五〇
同村坪多卯平次より田地三畝二
0
歩を金一四円六一銭六厘︵地価一八円八五銭三厘︶︑同村古路助次郎より田地三畝二〇歩を金一七円九六銭三厘︵地価ニー円一銭七厘︶を購入している︒
情からの田地売買取引ではなく︑森村の村方上告訴訟事件入用の費用を捻出するための田地売買で︑円山応挙の襖
絵で有名な応挙寺
1
1大乗寺々田をも処分するの必要にせまられ︑
信仰心と︑実弟が仏門にあった関係もあったであろうが︑ その交渉が仙五郎になされており︑
田地売渡しの相手方に選ばれる程の資力︑資本蓄積があ
(1
3)
ったとみなければならない︒ところで売買の対象となった大乗寺々田とは︑第三表の通り︑
の八一筆︑反別三町七反八畝二九歩で︑地価合計二
0
六四円四三銭七厘と評価された相当の面積の田地で︑しかしながら︑田畑膳入についても︑すでに獲得した利益金をすべて投じたのではなく︑
一金千五百両田地代則譲り証文表
廿九
日︑
閥西大學『紐済論集』第十一1一巻第四•五·六合併号
これ
を
一等田から六等田まで ︱つには彼の これはたんに︑彼等三人にかかる事
第
3
表 大 乗 寺 売渡 田 地
北前船主の一類型︵津川︶
品 位
I
反・畝・歩 1地 価 ( 円 )1 1
品 位I
反・畝・歩 地 価 ( 円 )1
等田1 . 4 . 1 2 I 8 8 . 0 7 9 1 . 1 1 7 . 0 2 7 1 . 0 . 0 4 6 1 . 9 8 2 3
等田2 . 2 7 1 6 . 6 2 2
2
等田1 . 0 . 0 3 6 0 . 6 1 2 5
等田1 . 0 8 6 . 5 1 3
II
8 . 2 1 5 2 . 2 1 0 4
等田1 . 1 5 7 . 9 0 6
8 . 0 3 4 9 . 5 4 1 6
等田1 . 1 2 5 . 5 0 1
3
等田1 . 3 . 0 6 7 5 . 6 6 1 1
等田8 . 2 6 5 4 . 2 3 4
4
等田1 . 1 9 8 . 6 0 9 2
等田4 . 0 1 2 4 . 2 0 5
3
等田9 . 0 1 5 1 . 7 7 8 3
等田1 . 0 . 0 6 5 8 . 4 6 5
4
等田3 . 0 0 1 5 . 8 1 2 4
等田6 . 0 5 3 2 . 5 0 3
3 . 2 9 2 0 . 9 0 7
II4 . 1 6 2 3 . 8 9 4
2 . 0 1 1 0 . 7 1 1 3 . 0 9 1 7 . 3 9 3
3
等田4 . 2 9 2 8 . 4 6 8
II2 . 0 5 3 7 . 7 7 3
4
等田. 2 9 5 . 0 9 5 1
等田2 . 2 4 1 7 . 1 2 6
II
1 . 0 6 6 . 3 2 5 2
等田7 . 1 2 4 4 . 4 0 8
1 . 1 1 7 . 2 0 3 8 . 1 6 5 1 . 2 1 0
5
等田1 . 0 3 5 . 6 5 6 3
等田3 . 0 4 1 7 . 9 6 0
1 . 0 9 6 . 6 8 4 4 . 2 1 2 6 . 9 4 0
1 . 0 8 6 . 5 1 3
II7 . 1 7 4 3 . 3 7 1
6
等田2 . 1 3 9 . 5 6 2 4
等田1 . 1 . 0 1 5 8 . 1 5 4
5
等田1 . 0 6 6 . 1 7 0
II8 . 0 3 4 2 . 6 9 3
4
等田4 . 1 5 2 3 . 7 1 8
II9 . 1 0 4 9 . 1 9 3
II
1 . 1 8 8 . 4 3 3 6
等田5 . 0 6 2 0 . 4 3 3
II
4 . 2 3 2 5 . 1 2 4 4
等田5 . 1 9 2 9 . 6 9 2
5
等田II II1 1 1 . . . 1 0 1 6 6 8 7 7 6 . . . 8 8 5 8 8 1 4 4 3 1 . 0 6 6 . . . 0 1 1 0 2 4 5 3 3 4 1 4 . . . 9 4 0 6 7 8 4 6 4
,
6
等田II II1 . 0 . . 2 1 8 5 2 4 5 . . 7 9 9 9 9 9 6 5 . . 2 0 9 5 2 3 7 6 . . 2 7 1 3 9 2
1 . 5 7 2 3 . 2 6 2 0 . 3 8 0 1 . 0 4 4 . 4 5 3 3
等田5 . 0 7 2 9 . 9 9 7
, ,
1 . 0 3 4 . 3 2 2
6 . 0 5 3 5 . 3 4 7
1 . 2 4 7 . 0 7 3 4
等田2 . 1 2 1 2 . 6 ' 5 0
1 . 2 8 7 . 5 9 7 1 . 2 . 0 5 6 4 . 1 2 7
1 . 2 6 7 . 3 3 5 1 . 0 . 1 3 5 4 . 9 9 1
5
等田1 . 1 5 7 . 7 1 2 5
等田8 . 0 4 4 1 . 8 1 9
6
等田2 . 0 2 8 . 1 0 1 4
等田1 . 0 . 0 2 5 3 . 0 5 9
II
3 . 0 0 1 1 . 7 8 9
II9 . 1 5 5 0 . 0 7 2
5
等田. 2 6 4 . 4 5 9
II6 . 1 8 3 4 . 7 8 7
II
1 . 1 3 7 . 3 7 0
II5 . 1 5 2 8 . 9 8 9
1 . 1 6 7 . 8 8 4
. 2 3 3 . 9 4 2 3 . 7 . 8 . 2 9 2 , 0 6 0 . 4 3 7
5
等田. 2 9 4 . 9 7 0
計郎 殿
浜 安 木 村 仙 五 郎 殿
右は貴殿船初下り迄︑無利足返金︑則証文請取之候以上
内金五百両
同金五百両
残金五百両也
明治五申正月
借用申金子之事
一金五百両但シ利足月一五
右は今般︑安田与八郎殿より︑田地譲り請候処︑金子足り合不申二付︑達て御頼申上︑即前書之金子高槌二請取借
用仕候処実正明白也︑然ル上は︑右定之加利足元利金共︑来ル七月晦日限り聯無相違御返金可仕候︑万一本人不埓
之儀申出候共︑請人より弁金仕候ても︑貴殿ヘハ御心配相懸不申候︑為其請人加判金子借用証文俯て如件
明治五年申正月元
滝 本 貫
滝本より請取 既金請取
閥西大學﹃経済論集﹄第十三巻第四・五・六合併号
同 請
人 藤 右
庄 衛
浜 安 木 村 借 用 人 仙
助 門
五 郎
安 田 与 八 郎
⑲ 三五
二
北前船主の一類型︵津川︶ 業をも兼業し︑城崎郡・美含郡内の大口金融を行なっていたが︑﹁金融の業は個人の営む所にあらず﹂との考えよ に見られるような例が︑明治十三年二月にも﹁耕地買請金要用二差詰り﹂との理由で︑訓谷村永田佐七から金六百円の借入れをし︑その後明治十九年五月に︑同人より金四五
0
円︑無南垣村尼子久珍より金四百円を借用した例にいたるまで田地を購入し︑代金は他借して支払い︑借用者には一航海の利濶をこれに引当て支払っている例が履々
みうけられる︒
このようにして︑明治十八年にいたるまでに︑田畑一八町七反二畝三歩︑と外に一町四反一畝二八歩︑計二
0
町一反四畝一歩︑山林七反二畝三歩を所有する程になっていた︒このように︑田畑・山林への資本投入をなさしめる
にいたった転期は︑明治十二年から十五年頃であって︑当初仙五郎は︑商船営業が好調に進むに従い︑中央へ進出
し︑本拠もそこに移そうと考え︑明治十三年には大阪安治川口に土地購入を契約をしたが︑家人の理解を得られず
契約を取消し︑さらに同十五年には︑距離的に近ければと︑浜田港にて土地購入の契約をしたが︑この場合も家人
一方は商船活動に向けられ第の反対に逢いその実現をみるにいたらなかった︒かくして︑もだしがたい事業心は︑
二明宝丸・真徳丸の建造をすすめて︑所有船数の増加をはかり︑他方において郷土開発に着眼し︑山林所有︑植林
事業に着手し︑明治末年に三百町歩︑大正五年には券面五百町歩の山林を所有するにいたっている︒その間初代仙
五郎の家督を明治二十九年三月に相続した長男仙太郎︵二代目仙五郎︶の協力があり︑廻船業と山林業の外に︑金融
り︑二代目仙五郎が創立委員長となり︑三十年七月に美含銀行︵現但馬銀行︶を設立し︑初代頭取となって︑自己の
所有する債権すべてを銀行に肩代りしている︒
右にみられるような︑事業拡張の源泉は︑いうまでもなく廻船事業にあって︑同家の廻船業最終期である明治末
三五三
第
4
表 船 舶 土 地 収 益 一 覧年 次
1 船舶贔~,
土 地 間l
備 考明治
3 7
年3 , 7 7 8 3 , 4 2 5
米石当り@¥12.00
3 8
年8 , 3 5 1 4 , 0 3 7 @¥14.00
3 9
年2 , 7 9 5 4 , 0 5 7 @¥14.85
4 0
年5 , 4 3 7 4 , 7 8 5 4 1
年5 , 0 9 5 5 , 0 9 5
4 2
年2 , 5 0 5 4 , 5 0 1 @¥12.50
4 3
年2 3 8 3 , 5 1 3 @¥14.50
4 4
年8 5 2 3 , 8 6 3 @¥15.00
大 正 元 年
4 , 5 2 7
船なし 坂米2 9 0
石2
年5 , 4 4 2
3
年5 , 2 2 5 @¥20.00
4
年3 , 1 9 5 @¥12.00
5
年3 , 1 9 7 @¥12.00
6
年4 , 2 3 3 @¥12.00
7
年6 , 0 7 1 @¥23.00
8
年7 , 9 6 0 @¥39.00
9
年6 , 2 0 0 2 2 7
石1 0
年7 , 0 0 0 1 8 0
石1 1
年4 , 4 5 0 1 6 4
石@¥25.00
1 2
年3 , 8 0 0 @¥23.50
1 3
年4 , 2 5 0 @¥39.00
1 4
年2 , 8 6 3 @¥35.00
1 5
年2 , 0 6 6 5 8
石@¥32.00
昭和
2
年1 , 8 5 0 6 0
石@¥26.00
3
年1 , 7 9 0 5 0
石@¥26.00
4
年1 , 4 1 5 45
石@¥25.00
5
年1 , 5 2 5 4 5
石 .@¥27.00
0大 正
1 1
年以降年貢坂米の減少は、小作人に田畑を譲渡し所有地減少によるものである。
0この集計は宮下家の計算によった。
年においても︑第四表にみられる通りの収益をあげている︒しかも第四表の土地収益は︑
ものであって︑山林については植林を主とし︑下刈り︑柴刈りはあっても成木を伐採してこれを販売した事例はな
かったようである︒ 腸西大學﹃鯉済論集﹄第十三巻第四・五・六合併号三五四
田畑の小作料収入を示す
北前船主の一類型︵津川︶ 日については︑すでに第一表によって見られる通り︑慶応元年に一度︑明治三十八年八月十日に秋田県象萬港に
ふなおろおいて︑新造船下し後五年という︑最も操舵しやすくなった時期に︑水先不案内の港に碇泊して暴風にあい︑破船
に至った事例をみるのみで︑他に事故をみなかったことが事業を有利に導いた最大の理由となっている︒
口と因については︑船印の宮の字が諸国通用の呼称となり︑入港する船印で帆船を識別し︑
字﹂と歓迎されたらしく︑量目の正確である為の信用を得る為には︑百斤の砂糖には百拾斤と一割の込みを加増し などにその理由を求めることが出来るであろう︒ の獲得
因 国 しからば︑かかる廻船業利濶は如何にして獲得しえたかを究明しなければならないc
その理由ー少なくとも宮下家の業務経営について察知しうるものは︑
航海の安全
各地の商況の研究
船中乗組員と船主間の人間関係
勤労奨励の為の﹁切出し制﹂の採用
寄港地の神社・仏閣・学校等への寄附︑住民への施行により︑今日的な意味での
P R
︵人
間関
係︶
によ
る信
用
四
) 国 口
物 品 量 目 の 正 確 な る こ と
H
四
﹁宮
の字
﹂
三五五
﹁宮
の
‑ ‑‑‑‑ヽ‑‑‑‑ ‑‑
は︑国にあげた﹁切出し制﹂の実施である︒いうところの﹁切出し制﹂とは︑﹁帆待ち積﹂と共に︑
相応の利濶を獲得し得たいま︱つの理由
s 1
ヽ
︐ っ カ 右のような人間閲係も︑ て ︑ 待避させるに︑その地の小学校全具をあげての協力を得︑危機をのがれ得たことが伝えられている︒ て売買したと伝えられ︑また団体・個人への寄附・施行によってえた恩恵として︑某地入港時に台風に逢い︑船を
国の各地商況の研究は︑いうまでもなく物品価格の地域差による不等価交換によって︑利濶を獲得する経営方法
によるものであるから︑各船主ともに︑仕入地・売却地・仕向品の種類・銘柄については絶えず研究するところが
あったであろう︒この点宮下仙五郎も他船主と同様に︑いなそれ以上に商況研究に努力し︑
囲いをすませると︑陸路郷里に急ぐ足を︑各地商業都市に止め︑
﹁大
阪商
況新
報﹂
﹁閲門商報﹂など︑主要な商業都市の業界新聞を賭読して︑市況の動きに常時
回の船中乗組員と船主間の人間関係については︑
の叡匹印︑殆んで地元あるいは近村の気心の知れた者で構成されており︑
か こ か し き
雇傭する沖船頭・親父・表衆・賄い•その他ひらの主水・炊
﹁某港で船頭があやまって﹁あゆみ板﹂から海中に落ちるのを見て︑船中一同︑
に我が身を海中に投じて︑助けあげた︒﹂との懐古談が聞かれた︒ その失敗を笑わず︑同じよう
﹁板子一枚下地獄﹂の海洋生活を通じて︑相互扶助的結びつきが培れてきたことであろ
この関係も金銭的な面で︑なんらかの配廊がなければ︑経営上にその弱点を露呈したであろう︒ところが船
中の経営上の過失ないしは不正として︑顕著にあらわれる事故もなく︑
船頭・水主 囲気であったと伝えられる︒そのことは︑船頭・親父と他の船中との間にも同様の人間関係が保たれ︑例話とし 旦那︵船主︶と船中の関係は家族的な委 注意していたようであるC し︑あるいは︑ 賜西大學『網済論集』第十三巻第四•五・六合併号
一年の航海を終え︑船
その地の商業会議所︑市場を巡歴して商況を打診
一五 六
北前
船主
の一
類型
︵津
川︶
﹁切出し﹂にしたのではなく︑ 単価の異なる諸物品を一率に︑同額の
つい
てで
ある
︒
が︑船主の勘定の外に︑あるいは支給される給金とは別に自己の取分となる金銭を稼ぐ方法で︑
々不正視されるが︑中荷︵稲荷︶の種類によって︑
うことを苦慮している物品とか︑あるいは他の中荷に比較して口銭率が高い商品とか︑
利濶率︑その他諸般の条件を考慮して︑ ある場合は船主が売行きが思わしくないであろ
それぞれの物品の先行き︑
て︑売捌き船員に所定の金額を支給する方法である︒この方法を実施していたことによって同家の廻船を﹁切出し
分﹂と明記された部分のある帳簿を調べると︑次の第五表から第八表にあげた明治三十六年度分明神丸・明宝丸︑
明治一︳一十八年度分明生丸の売買仕切帳を拾い出すことができる︒しかしその﹁切出し﹂も全売仕切についてではな
い︒しかし︑当時実施されていた﹁切出し﹂の概略は知ることが出来る︒
﹁切出し﹂の歩合が明らかにしうるものは︑いずれかといえば︑下り時の中荷iL
﹁登り荷物﹂については︑材木・鰊・同/粕.鰈干加・昆布などについて﹁船中切出し﹂の記載は
あるけれども︑何を基準にして算出されたか明らかではない︒また羽鰊などは﹁切出し﹂があったか否かさえ不明
である︒したがって︑すべての取扱物品に﹁切出し﹂があったわけではない︒
﹁下り荷物﹂の﹁船中切出し﹂について︑第五表︑明神丸の例によると︑ 右にあげた三船の例をみると︑ 船﹂とさえ呼称していた程である︒ところで︑時代は新らしくなるが︑
それぞれの物品の﹁切出し﹂は︑
その
物品
の売
買単
位量
︵空
罐ー
一罐
.釘
ー一
樽・
塩ー
一俵
・瓦
‑ 1 0 0
枚等︶によったらしく︑物品の金額︵一個当り価格・総計額︶によっていないことがしられる︒勿論金額にはよらなとはいっても︑
一挺について一二銭・一個について一銭五厘・一袋について六銭などと︑その物品の
三五七 宮下家の場合に︑売買仕切帳に﹁切出し それぞれの物品に相応の比率を定め︑その売行きによって歩合計算をし
﹁切
出し
﹂は
︑
﹁帆待ち積﹂は康