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「相対的安定期」におけるソ連工業化論争について (1)

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(1)

「相対的安定期」におけるソ連工業化論争について (1)

その他のタイトル On the Debate of Soviet Industrialization, 1923‑1928

著者 鶴嶋 雪嶺

雑誌名 關西大學經済論集

巻 11

号 6

ページ 575‑593

発行年 1962‑02‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/15491

(2)

575 

﹁相対酌安定期﹂におサるソ連工業化論争について

きわめてヴィヴィッドに示すものであるとともに︑

﹁ 相 対 的 安 定 期 ﹂

この論争の時期は︑

トロッキー︑ブハー

一九二四年から二九年までの間つまり第一次大戦後の相対的安定期にロシアにおいて行われた経済建設をめぐる 論争は︑多くの面に重要な問題を投げかけるものである︒後進国の経済発展について考えるものにとつては︑

論争は︑社会主義的な︒ハターンで経済開発をおし進めるにあたって︑世界で最初に社会主義革命を成功させた国の 指禅者達が︑農業優先か工業優先かといういまなお新しい問題を含めて︑

どのようなプログラムを持つていたかを その後実際に行われた経済発展の歴史的過程と対比することに

( 1 )  

この︒ハターンで行われる経済発展の諸問題を浮彫りにして示されるものである︒スターリンの残酷な支配 がどうして可能になったのかと考えるソ連官僚制の研究者にとつては︑

カーメネフといったそうそうたる先荒を排除してスターリンが自らの支配体制を確立してゆく過程として重 要である︒また︑第二次大戦後の現実によって破産を宣告されたスターリン・テーゼの過ちの根源をたづねるもの にとつては︑まずプハーリンの協力を得てトロッキー等の見解を排除しながら︑やがてプハーリンに攻撃の焦点を

定めるこの過程こそ︑

スターリンの理論体系が形成される時期として重要である︒

臼︵鶴嶋︶

司ラ ヽ ` ' ノ

におけるソ連工業化論争について一

︵ 

(3)

576 

前から労働組合と国家との関係をめぐつて行われていたが︑

せいさんなまで

ここでは︑プハーリンの理論を中心に一九二八年までの論争をとり上げた︒そこには︑

するものが相対的安定期すなわち資本主義的循環の上向期に陥りがちな危険性が明らかにされていると考えたから である︒資本主義が繁栄を誇つている時には︑

うになったとはいつても︑ケインズの理論を基礎に骰く人達がこの繁栄状態を固定的なものと考えがちなのは︑

( 2 )  

れ程不思議ではない︒また︑カウッキー︑ヒルファーディンクの理論的な流れをくむ人達が﹁超帝国主義論﹂

織された資本主義論﹂にみられた楽観論をくり返しても驚くにはあたらない︒

にも楽観的な見通しにたつてその発展のかたわらに蓄積される矛盾を見逃しがちな危険は︑

主義論﹂に激しい批判をあびせかけたレーニンの継承者にとつても例外ではないのである︒もちろん︑第二次大戦 後︑資本主義がめざましい発展をとげる中で︑多くのマルクス主義者は︑

あった。資本主義にはもはや発展も安定もなく、労働者は絶体的に窮乏化するだけだというスタ—リンの命題が、

( 3 )  

大なり小なり︑頭にこびりついてはなれなかった︒しかし︑このように資本主義を救いのない灰色一色に塗りこめ る﹁資本主義の全般的危機論﹂が多くのマルクス主義者をとらえるにいたったのは︑第一次大戦後の相対的安定期

の末期一九二八年以降である︒

﹁相対的安定期﹂におけるソ連工業化論争について巳︵鶴嶋︶

その発展そのものを認めるのに消極的で

レーニンを継承しようと

いかに資本主義に恐慌現象が必然的であると認めることができるよ

しかし︑資本主義の発展期にあまり

カウッキーの﹁超帝国

かの相対的安定期には︑ソ連においては︑新経済政策

(N ew

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頭文字をとつてネッ︒フと呼ばれる︶を

めぐつて︑きわめて激しい論争が行われていた︒論争はネップを正式に確認した一九ニ︱年の第十回共産党大会の

レーニンが死んだ一九二四年以降︑

の形をとった︒スターリン︑プハーリン︑カーメネフ︑トロッキーなど当時のソ連の指甜者も︑プレオプラジェン

二臨

﹁ 組

(4)

5 7 

﹁相対的安定期﹂におけるソ連工業化論争について ンにたいするスターリンの批判という形をとり︑これまでの農業優先主義︑農民にたいする妥協政策はしりぞけら

れて︑農民にたいする強制集団化政策が逐行され︑かつて﹁左翼反対派﹂が提出したよりももつと大胆な工業化政策

された姿を見出す﹁資本主義の全般的危機論﹂が体系化されるのは︑

﹁資本主義の全般的危機論﹂にとつて︑.ブハーリンを先頭にしてトロッキーと斗った論争の時期は︑ま

ったく無駄な廻り道であったといえるであろうか︒そうではない︒ が﹁第一次五ケ年計画﹂として逐行されることになった︒

﹁金利生活者の経済学﹂や﹁史的唯 このプハーリン批判の過程においてである︒トロッキーとの論争の過程で︑

論﹂の対極にスターリンの一国社会主義論が作り出されたのである︒そして︑ その﹁永久革命

物論﹂などでマルクス主義者の間ですでに確乎とした地位を築き上げていたプハーリンがスターリンに協力して︑

その未熟な綾述の中で欠けていたものに博学な麿きをかけ︑一国社会主義の理論的論証をあたえる過程がなければ︑

スターリン﹁ソ同盟における経済学の諸問題﹂に最も完成 ロッキー等﹁左翼反対派﹂の敗北の後︑ の状態を持続的なものとして把え︑ロシアは資本主義の安定のかたわらに弧立させられ︑そのように弧立した一国で経済建設を行って行くには資本主義的ウクラ・ッドとくに農民との妥協が必要であると考えた︒これにたいして︑相対的安定をきわめて短期な一時的なものとして把え︑ソ連の社会主義建設を世界革命の一環として考え︑社会主義ウクラッドをあくまで煎視して工業優先をとなえてトロッキーなどは︑少数派として弧立させられた︒しかし︑ト

一九二八年から︑論争はまったく異ったものとなった︒論争は︑プハーリ いするブハーリン︑スターリンなどの論争であった︒マルクス主義者の多くは︑プハーリンとともに︑相対的安定

一九二八年までとそれ以降とである︒ スキーをはじめとする理論家も︑あげてこの論争に参加した︒この論争は︑しかしながら︑大別して二つの時期にわ

一九二八年までは︑トロッキー︑プレオブラジェンスキーなどにた

(5)

578 

資本主義的ウクラッドにたいして寛容な理論と︑ じき飛ばされた後に︑

ロシアにおける

スターリンの勝利は考えられないのである︒﹁資本主義の全般的危機論﹂は﹁永久革命論﹂の支持者が論争の圏外には

一国社会主義論を基礎にする人達の間の論争の中で作り出されたものである︒したがつて︑

資本主義が繁栄局面をたどつていた一九二八年までに支配的であった相対的安定を持続的に把え︑

よびロシアにおける資本主義的ウクラッドにたいして暴力的強制でもつて解体をせまる理論とは︑理論的基礎を同

じくするものである︒一九二八年までのプハーリンとスターリンの﹁反対派﹂にたいする斗いは︑彼等二人の理論

の共通な本質を最も明瞭な形で示すものである︒したがつて︑相対的安定を持続的に把えたブハーリンをその

﹁反対派﹂と対比して検討することは︑ 一九二九年恐慌以後支配的になった﹁資本主義の全般的危機論﹂お

この両者が対立するようになりブハーリンにたいする批判が行われる過程

で登場した相対的安定を完全に否定する﹁資本主義の全般的危機論﹂を批判する基礎をも提供するものであろう︒

(1 ) 最近インドの経済学者によって︑後進国から急速に経済成長を行ったソ連の経験をソ連の経済学者がはつきりと分析して 現在の後進国に示すぺきであるという要求がなされ︑ソ連とインドの経済学者の間で論議が交されていることについては︑

別稿において紹介する︒

(2 ) 第二次大戦後はなばなしく論談されている﹁新資本主義論﹂︑﹁人民資本主義論﹂はその典型である︒そのうちの一人

A

•H・ハンセンについては別稿で取り上げた。.

(3 ) ジョーン・ロピンソンのマルクス批判にたいする反論は︑ギルマンなどにおいてはマルクス主義の理論を豊富なものにす るきっかけになったと思われる︒しかし︑ミークやイートンにみられるように︑スターリンの命題にとりつかれているマ ルクス主義者は︑ケインジアンとの論争をも充分に科学的に展開することができず︑科学的立場に立ちかえるうとした時 には︑スターリンの命題にとりつかれていた頃の自らの主張を大巾に変更しなければならなくなった︒

一九二三年から激烈な形で展開されたソ連の経済建設をめぐる論争は︑相対的安定の評価と直接的な関係をもっ

﹁相対的安定期﹂におけるソ連工業化論争について

曰︵鶴嶋︶

(6)

579 

﹁相対的安定期﹂におけるソ連工業化論争について 飛躍的に増大していること︑

B

国際貿易が拡大していること︑

強調している︒もつとも︑

なった﹁新反対派﹂の代表ジーヴィエフの次のような言葉を引用する︒

まずトロッキーは一九二六年一月に次のようにいつていた︒

﹁新たに危機の時代が始まった︒

二七

まず︑この論争で主流派を代表したプハーリンについてみよう6﹁資本主義安定とプロレタリア革命﹂と題する

( 4 )  

報告の中で︑ブハーリンは︑

A

国際的生産が増加し︑資本の有機的構成が高度化し︑国際資本主義機構の生産力が

および

C

為替の安定を指摘して︑資本主義の安定を

この﹁資本主義の安定﹂に引続いて﹁安定の動揺の徴候﹂と﹁資本主義崩壊の主要因﹂

がのべられてはいる︒しかし︑プハーリンにとつてこの安定がどの程度に強固なものとして把えられていたかは︑

彼の反対派が安定にたいして抱いていた評価と対比することによって明らかになる︒ブハーリン自身︑

の巨頭トロッキーと一九二五年までは﹁反対派﹂と斗いながらもそれ以降ブハーリン・スターリン路線の反対者と

そして今年はヨーロッパには何等の均衡︑何等の秩序︑何等の平穏も見出され

ないであろう︒我々は僅かばかり前に︑既に或程度の安定︑即ちョーロッパ資本主義の一時的均衡とその確立が始

( 5 )  

まったことを確認した︒だがそれは人々が想像し得たよりは造かに短かかったことが証明された︒﹂

また︑ジノヴィエフもまた同じ年の六月ョーロッパに起った事件を詳細に分析して︑次のように書いた︒

﹁私は︑結果は安定ではなくて︑資本主義の解体であると信ずる︒嵐は資本主義という船を揺がし︑或は左へ右

ヘ傾けている︒資本主義が今日は右へ︑明日は左へと揺られている時に︑どんな安定があるのか?資本主義という

船は︑単にドイツ及びボーランドに於いてのみならず︑英国に於いても破壊された︒

日︵鶴嶋︶ そして英国はドイツでもポー

(7)

580 

る︒ブハーリンは︑資本主義世界とソ連との関係について︑﹁たしかに此領域では我々はブルジョアジーから多く という予測と結びつき︑ ーリンと同様の見解をのべていた︒

エストニアでもない︒英国はヨーロッパにおける最大の資本主義国である︒それはアメリカに次ぐ世

界の最も富める国である︒事態を皮相的にのみではなく︑階級分析を以て資本主義経済の骨髄にまでも踏み込んで

( 6 )  

見る者は︑最近の事件は︑資本主義安定の存在を否定していると言ふであろう︒﹂

わざわざトロッキーとジーヴィエフの言葉を引用した後︑ブハーリンは︑

評価を対置して︑﹁大体において︑資本主義は単に戦前の水準を超えたのみならず︑ドイツ及びアメリカの如き国々

においては︑或る種の新たなる技術的基礎をつくり出しさへしたのである︒技術の立場から見て︑

組織形態の立場

︵強力なるコンツェルン︑トラスト等々の異常なる発達︶又︑世界経済の領域における資本主義勢力中心の分

て︑資本主義の安定を強調するのである︒スターリンもまた︑ 布の立場から見てー一切のこれらの立場から見て︑大なる変化が行われたのであった﹂ということを詳細に展開し

( 7 )  

﹁社会主義建設のための斗争﹂などにおいて︑プハ

このような資本主義の安定の強調は︑ブハーリンとスターリンにとつて︑長期間ソ連が弧立しなければならない

ソ連の経済建設をこの弧立した状態のもとでいかに行うかというふうに続けられるのであ

のものを学ぶことができる﹂と前置きしながら次のように説明するのである︒

﹁長い年月の間国際的自由貿易の原理を主張した国が嘗て存在したのであるが︑

た︒何の為であるのか?イギリスが他の凡ゆる国々よりも強かったから︒﹂ それは強力なるイギリスであっ

﹁世界貿易の発達の結果︑後に至つて世界市場に︑第一位を占めた二つの国︑北米合衆国とドイツとが関税壁の

これら反対派の評価にたいして自らの

ニ八

(8)

8 I 

日︵鶴嶋︶ スターリン・プハーリン著作集 含言葉を以て世界市場に現はれ︑関税政策の最良の理論家を生んだといふことは注目に値する︒名な経済学者カレーが出で︑

第十五巻

北米合衆国には有

ドイツでは保護主義に関する数多くの典型的な﹁労作﹂をものにした有名なリストが

出た︒その後更にアメリカとドイツとは益々関税率を高めたが︑漸次世界市場に於ける優越的地位を失ったイギリ

﹁相互に相争った諸国家は同一階級の国家であり︑唯異れる民族に属していたに過ぎなかったにも拘らず︑新興

のプルジョア国家はイギリスに対抗して︑関税壁を以て防禦したのである︒ところで我々の国家は︑

( 8 )  

及びプルジョアジーから受け継いだ薄弱な基礎の上に生じ成長したプロレタリア国家である﹂ ツアーの支配

まことに見事な一国社会主議論の展開ではないか︒ソ連の弧立とは︑プハーリンにあっては︑資本主義諸国によ

る封鎮ではなく︑後進国でプロレタリア革命を成功させた労働者国家がまだひよわな自らを守るための手段であっ

たのである︒では︑自ら﹁鉄のカーテン﹂を下した弧立国ソ連において︑経済建設はいかに進められなければならな

いのか︒プハーリンにとつて︑それは相対的安定期がまさに始まろうとする時にとられた新しい経済政策︑ネッ︒フ

への執着であり︑確信にみちた推進であった︒第一次大戦後の革命的危機の時期にソ連においてとられていた戦時

共産制から大きく転換し︑そのために新経済政策と呼ばれるものは︑では︑どのような政策であったのであろうか︒

(4 )  I

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D ec .

1,  

92 6.  邦訳

( 5 )

前掲書七頁

( 6 )

前掲書八頁

( 7 )

前掲書﹁社会主義建設の為の斗争﹂前掲著作集︑第十巻

( 8 )

前掲書八五

l

九二頁 スも亦同じく︑逐に保護関税を採用するに至った︒﹂

(9)

/18 2 

直接的な共産主義的遂行が生産力の発展を妨げたと指摘した︒ソ連経済は︑農業においては播種面積で約八

0%

われわれはここで﹁戦時共産主義﹂について詳細な検討をする余裕も必要も持たないと思われる︒そこで︑ネッ

プに先行するこの時代については︑

﹁戦時共産主義は⁝︑大工業の完全な収用︑ならびに中小の諸工業企業の大部分の収用︑労働者管理を労働者に

よるたんなる統制に切りかえること︑商業を禁止して国家による生産の直接的収用︵なぜならば国家自身が生産者であ

この制度を実施してゆくうちに︑

した︒歴史は︑

ベトレームの要領のよい規定にまかせることとする︒ベトレームは︑

ソヴィエト指禅者のあるものたちは︑全的な集産制度ーこれは共産主義が目標

としている制度であるがーを︑直接に建設できるかもしれないという印象をいだくことになった︒彼らは︑

工業とか︑市場や貨幣や︑信用の働きを決然と排除し︑こうして︑生産と消費の完全な計画化が実現できると期待

それが時期尚早の期待にすぎなかったことを証明したのである︒

そんなわけで︑

戦時共産主義からネッ︒フに移行させたものは︑直接的にはソ連経済の疲弊であった︒

収獲高七

0

私的商

ついには︑戦時共産主義は︑包囲された国における︑ただたんに消費と生産の厳重な規制の範囲

( 9 )  

から一歩もでなかったのである︒﹂

春︑共産主義への過渡期に際し︑経済戦線において惨敗したと語り︑農村における殻物徴発と都市における建設の

工業においてはせいぜい戦前の生産の五分の一といわれるまでに落ちていた︒レーニンは とによって特徴づけられる︒ 産主義とはなにか﹂といつて次のように説明している︒

生産物の直接的分配の制度にかわったこ

1 0  

(10)

583 

で納付することができるようになった︒

失敗の現実をはつきりとみつめ︑新しい経済政策が必要であり︑

調

それは資本主義にたいする一歩後退であることを

﹁外国資本家たちへの譲歩︑私的資本家たちへの諸企業の賃貸︑すべてこれらは︑新経済政策に密接に結びつく

資本主義の直接の復活を意味する︒さらに︑食糧徴発の放棄は︑農民にとつては︑商業の自由︑農産物の余剰すな

わち納税のあとにのこった部分の自由な処分を意味する︒なぜならば︑租税は生産物の小部分をとりたてるだけだ

からである︒農民は人口のきわめて大多数をしめ︑経済のもっとも重要な部分をしめている︒

( 1 0 )  

の自由の土台のうえに︑資本主義が必然的に発展するにちがいない︒﹂ それゆえ︑この商業

一九ニ︱年三月に﹁現物税に関する布告﹂が公布され︑歴史的な政策転換の第一歩が踏み出された︒農

消費にあてようと︑ 民は租税納付後に残った食糧︑原料および飼料を自由に処分して差支えなく︑これを経済的改良に使おうと︑自家

また︑工場や家内工業ならびに他の農産物との交換にあてようと自由である︒交換は︑地方的

経済取引の限界内では協同組合の媒介により︑あるいは市場やバザーによって行うことができる︒最初当局は地方

的限界内で貨幣の媒介なしに物々交換のみを認め︑また︑危機を脱出するにはそれで充分と考えていたが︑六月に

は貨幣流通の諸制限を廃し︑八月には国内的な商品流通を部分的に容認し︑十二月には自由商業に関する一切の制

限を解除するにいたった︒現物税は︑農家の最低自家消費を控除した残りについて︑累進的に課税された︒最初は

農産物の種類によって課税率がきめられたが︑後には貨幣で査定される単一税となり︑

後進国ロシアの産業構造の中で農業のしめる比重は大きく︑そこには小商品生産的な農民が多数存在した︒十月

H

一九二三年以後すべて貨幣

(11)

584 

日︵鶴嶋︶

このことは農民経済の分散性の改善を意味するものではなく︑む しろその逆であった︒農場数は︑革命後五

0

形近くも増えたといわれる︒この分散的な農民は︑商業以外の方法で 外界との経済関係を決定することに慣れていなかったから︑市場を復活させる必要があったのである︒ネップによ つて合法化された市場を︑統制通貨の助けをかりて動き出した︒また︑納税後の余剰品を自由に処分できる﹁現物 税﹂への転換が農民に生産意欲をかきたてたことは当然である︒農業の生産はネップによって復活した︒

産主義﹂時代の農業の荒廃は一九

0

i ‑

︱︱一に七億七千万キンタルだった殻物年平均収獲高が一九一三ーニ三年に

一九二四年には四億八千七百万キンタルにまで低落したことに象徴されていたが︑ネッ プから三年すぎた一九二五年には六億九千七百万キンタル︑

( 1 1 )  

態は急速に好転した︒

一九二六年には七億三千万キンタルというふうに︑状 しかし︑現物税制度は︑余剰殻物をより大きくもつものに︑より大きな力をあたえるものであった︒十月革命後も

農民の間には︑家畜とか農具の不平等が残っていたが︑ネップは︑農民の階層的︑階級的な分化を促進するものであ

ミールのうるさい慣行をのがれるために︑農村から四︑五 マイルはなれたところに農場を設定する習慣があった︒これらの農場は︑当然のことながら︑

耕作方法よりはあらゆる点で能率的であった︒ネップの初期には︑ミールからの離脱は激しく︑多くの土地が富牒

(1

2)

 

の土地に編入された︒富農は︑あるばあいには︑自分の馬と農具をもたぬ貧農にたいして賃貸料を得てこれを貸付 け︑あるばあいには︑種子または家畜の前貸にたいする代償として農民の作物を買上げてこれを貯蔵し︑値上がり

するのを待って隣接する都市で売却した︒それでも土地所有の制限があり︑土地の賃貸や雇傭労働が禁止されてい

ストルイビンの改革このかた︑ 四億九千四百万キンタル︑ 革命は︑農民の土地所有を著しく平等化したが︑

﹁相対的安定期﹂におけるソ連工業化論争について

ミールのふるくさい

(12)

585 

﹁相対的安定期﹂におけるソ連工業化論争について 出していたが︑ ニ八年七億三千四百万キンタル︑

この農業生産の停滞と商品化率の低落

二九年七億一千七百万キンタルと︑ 産も︑少くとも︑統計上の停滞をまぬがれることはできない︒一九二七年以後には︑ 本主義要素は︑

この農民分化も一定の限度を越えて進むことはできなかった︒しかし︑経済的に力を持った富農は政治的

発言力をも増大させる︒一九二五年には︑雇傭労働と土地賃貸の制限が緩和され︑農民分化がさらに促進されるこ

しかし︑現物税をはじめとするネップは資本主義への一歩後退ではあっても︑あくまでも一歩後退にすぎず︑ソ

連経済全体を貫く基本的なものはあくまでも社会主義的な原則である︒現物税によって息を吹きかえした農村の資・

その発展の過程で必ずや社会主義的な計画経済の原則と衝突する︒ネッ︒フによって復活した農業生

ころで停滞を続けた︒さらに悪いことに︑

その商品化率が低落した︒一九二五ーニ六年には一四•五形、一九二七ーニ八年には一―彩になった。人口が一九一三年から

0

l

一三年の水準を下廻ると

一九一三年には殻物収穫の二五%が市場へ流

二六年にかけて一千万人も増加し︑毎年三百万人の増加が続いている中で︑

( 1 3 )  

は深刻な問題であった︒

工業の状態はどうであったか︒レーニンは農村における殻物徴発と都市における建設の直接的な共産主義的遂行

が生産力の発展を妨げたといつているが︑戦時共産主義の破綻の根本的な要因の︱つに中央集権的な経済統制︑管

いわゆる﹁グラフキ体制﹂の組織上の欠陥があげられる︒グラフキ体制の組織上の欠陥をなくするため

に︑ネップに入ってトラストが作られた︵一九二三年四月︶︒トラストは︑

H

l九二七年七億二千七百万キ

多数の企業の結合体である︒トラスト

は︑年生産計画については最高経済会議の認可を必要としたが︑通常の商業的原理にしたがつて企業の生産計画を

(13)

586 

た砂糖トラストのように︑ たからである︒ 決定することができた︒も︑労働国防会議または最高経済会議の認可がなければ︑契約によらないで︑トラストの財産または製品の引渡し

は早くも復活し始め︑二ニ年と二三年とでは生産は倍になり︑

これは一種の急迫売買であるが︑ 二六年にはほぽ戦前の水準に回復した︒ トラストは社債を発行することができ︑商業上の独立性を保証され︑

いかなる国家機関

工業をも復活させた︒戦時共産主義のもとに戦前の五分の一にまで低落した工業生産は一九二三年に

工業においても新しい問題が数多く現れた︒国家はトラストの特許に際し︑運転資本として一定の資金

をトラストに交附することになっていたが︑実際はそうはいかなかった︒政府自身が運転資金の不足に苦しんでい

一九ニ︱ーニニ年の生産計画をまかなうには︑工業は全体として十億金ルーブルの辿転資金と必要

一九二二年一月現在で︑僅かに五億五千万金ループルしか調達できなかった︒

上の自由を利用できる唯一の方法は︑自己の販売機関を作ることであった︒そのためバザーの制度が復活された︒

工場のすぐ近くで小さな店を構えたり︑行商人を傭つて製品を農村の食糧︑原料と交換させるのである︒また︑あ

るばあいには︑賃金として工場の製品を支払い︑労働者をして食料と交換させた︒

モスコウのような中心都市では多くのトラストが店を並べて売値を圧迫し︑

ろも出てきた︒

市対農村の交換比率は︑都市に不利な方向に動き︑ を要求することができないとされた︒ ﹁相対的安定期﹂におけるソ連工業化論争について

そこで︑トラストが商業

トラストの財務状態を悪化させた︒ま

一九ニ︱ーニニ年の三百万︒フード以上の砂糖の大部分を農民の砂糖大根と交換するとこ

この運転資金の不足は︑別な角度からみると︑都市対農村の交換の問題であった︒一九ニ︱年の凶作の結果︑都

工業製品の農産物にたいする獲得力は戦前の半分近くに落ち

(14)

587 

た︒この﹁販路恐慌﹂の中から︑資本を各トラストから出資するシンジケートが生まれた︒そして︑農業生産の回

それにたいする工業の回復の相対的な緩慢さと︑

シンジケートの作用によって︑

に有利であった交換比率は逐に工業にとつて有利なものに変り︑

このような新しい事態に直面して︑ネッ︒フの評価と経済建設の方針をめぐつて激しい論争がわきおこった︒論争

は︑農業優先か工業優先かという︑

するものであった︒

現在なお後進国開発方式の焦点をなしている問題をめぐつて対立した︒十月革

命を終えているソ連にとつては︑しかし︑それは同時に︑社会主義ウクラッドと資本主義ウクラッドとの関係に関

ソ連における社会主義ウクラッドと資本主義ウクラッドとの関係について明らかにしたのはレーニンであった︒

﹁国家資本主義論﹂として有名である︒レーニンは︑当時のロシアには五つの経済制度がからみあってい

それは︑社会主義︑国家資本主義︑私的資本主義︑殻物を販売する農民を先頭にする小商品生産︑お

よび家父長制的農民の自給自足的現物経済の五つの制度であり︑政治権力は社会主義の側にあったが経済全体は圧

倒的に小商品生産の手中にあり︑この小商品生産は日毎に資本主義を生み出していく︒このような中で︑国民経済

の重要な高地を労働者が掌握して︑他は資本主義にまかせ︑社会主義的要素と資本主義的要索とを自由に競争させ

ながら︑社会主義によって資本主義を包囲し︑統御することを考えたのであった︒しかし︑事態の進行はきわめて

複雑であった︒たしかに資本主義的要素は自由企業︑自由商事の妙味を発揮して荒廃からの回復を助けはした︒そ

して︑疲弊した経済を復活させた︒ 工業に非常に有利なものとなり︑

しかし社会主義的要素による包囲︑統御は必ずしも容易ではなかった︒ネップ

H

﹁鋏恐慌﹂と呼ばれた︒ 一九二二年に農村側に非常

し----—-—-- ‑‑ ‑‑‑

(15)

588 

のがネップであり︑

明らかであっても︑ H

レーニンははやくも﹁われわれは一年間退却した︒いまや党の名において︑も

﹁個人経営資本にたいする攻撃の準備﹂というスローガンがかかげら

れることになったが︑ネッ︒フからの転換は容易ではなかった︒戦時共産主義の時期の荒廃から経済を復活させたも

その復活のかたわらに矛盾が蓄積されて﹁販路恐慌﹂や﹁鋏恐慌﹂として爆発していることが

その矛盾を克服しながら経済成長を維持できる見通しが必ずしも明らかにならなかったからで

この社会主義的ウクラッドと資本主義的ウクラッドの問題については︑ブハーリンの見通しはきわめて楽観的で

あった︒それは︑ネップによって力を得た資本主義的要素が社会主義的原則と衝突していることを深刻に考える

﹁反対派﹂の見解と対比してみるとき︑きわめて明らかになる︒

(9 ) 

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1950 +公崎平'八部岬訳﹁ソヴィエト経済の織造﹂日本評論社

( 1 0 ) レーニン﹁現物税について﹂﹁レーニン全集﹂第三十二巻 ( 1 1 )

ベトレーム前掲書ニ︱ーニニ頁

( 1 2 ) 日下藤吾﹁ネップの研究﹂

(1

3)

ベトレーム前掲書ニ︱︱︱ーニ五頁

ネッ︒フによって力を得た個人商人

11

ネップマンの発展に力をおいて︑ネッ︒フの転換を主張したのは︒フレオブラジ

( 1 4 )  

ェンスキーであった︒プレオブラジェンスキーは一九二四年における工業と商業︵交通と租税を含まない︶の総利益

を約六百万金ループルとおさえて︑

その中ニー︳︱‑百万金ループルは個人商人によって蓄穂されたものであると推計

し︑個人商人がその地位を強化し農民を動員して社会主義への方向を阻止する経済同盟を結成するか︑ う十分だといわなければならない﹂とのべ︑ に転換して一年︑ ﹁相対的安定期﹂におけるソ連工業化論争について

 

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10

(16)

589 

る ︒

﹁相対的安定期﹂におけるソ連工業化論争について

労働者の国家がこの反革命的同盟を打倒して個人商人を国営工業のためのより従属的な補助的な配給機関に変える

かという問題がのつびきならないところにまでせまつてきたと警告した︒

義社会のトラストと同様な効果をあげなければならないとする主張には︑

にとつて興味ある問題が数多く含まれている︒

する島である︒都市には︑ トラストがばらばらで相互の競争にふけ

つていると個人商人に圧個される危険があるのでトラストを統一的な国家組織の中に連結することによって資本主

プレオブラジェンスキーは︑ネッ︒フのもとにおける国営工業の資本蓄積の源泉と方法とを分析している︒

ンが国家資本主義の名で呼んだこの過渡期において︑大規模国営工業は︑各種の小規模の個人企業の海の中に屹立

工場の賃借人︑利権資本家︑個人商人がいたし︑農村には農民の旭大な群があった︒労

働者が政権を奪収した時に国の経済が後進的であればある程︑島はより小さく︑島をとりまく海はより広いであろ

う︒社会主義は︑大規模の国営工業が成長し︑発展し︑生産性を増大し︑以前に小規模の個人経済によって営まれ

ていた機能を吸収するにつれて発展する︒もしも国営工業が成長し︑発展することに失敗するならば︑海に沈没し

たのも同然である︒

国営工業の成長は︑第一次的には︑産業の発展をまかなうための資本蓄禎にかかつている︒したがつて︑社会主

義の基本的経済問題はこの社会主義的蓄積の源泉と方法の問題である︒外国資本の禅入を別とすれば︑このような

社会主義的蓄積の二つの源泉は︑国営工業自体の﹁余剰生産﹂と︑小規模の個人経済にたいする﹁搾取﹂

一国の工業化がおくれていればいるほど工業の地位を強化するために蓄積の第一の源泉がなければそれだけ多

く︑第二の源泉に依存しなければならない︒後れた農業国においては︑国家が国営企業の外部にある源泉から主と

日︵鶴嶋︶

﹁過渡期の経済学﹂ないし後進国開発論

(17)

590 

本というあひるを当分利用し︑

ロシアの社会主義は前進する︒この政策にた して物質的手段を蓄積してゆく過程すわなち原始的な社会主義蓄積と呼ぶべき過程が非常に大きな役割を演じなければならない︒社会主義への過渡期を通じて︑

国営企業を社会主義工業の﹁本国﹂と呼ぶならば︑ この原始的社会主義蓄積は︑きわだって支配的な地位を占める︒

これをとりまく経済の外部圏を﹁植民地﹂と呼ぶこともでき

よう︒原始的社会主義蓄積には租税によって個人経済を収奪する方法もあるが︑この方法には脱税という抜け穴も

あれば︑圧迫が敏感に感受されて政治問題を粉糾させる危険も強いので︑国営工業と﹁植民地﹂との交換による搾

取がきわめて重要である︒市場における国営企業の独占的地位により︑また国家が社会主義経済を援助するという

はつきりした目的のもとに﹁社会主義的保護政策﹂をとることにより︑社会主義経済とその﹁植民地﹂との交換比

率を前者に有利なものとすることができる︒そして国営企業の独占的地位と社会主義的保護政策が都市と農村との

交換比率を都市に有利な方向に変えることに成功するにともなって︑

いする唯一の限界は︑国営工業が後進的であるために︑金の卵が社会主義的蓄積にとつて重要である限り︑個人資

これを殺してはならないという︑国営企業自体の必要があるのみである︒

この︒フレオヴラジェンスキーの原始的社会主義蓄積論にたいして︑ブハーリンは︑農民搾取の可能性には一定の

限界があり︑この限界の理解を一応は認めながらもなお不充分なところにプレオブラジェンスキーの欠陥があると

(15) 批判している︒

ブハーリンはいう︒農民を搾取できる可能性は︑都市の労働者よりも小さい︒それは︑農民が第一義的な生活必

需物資を確保しているからである︒農民が都市と取引したいという欲求は︑かなり弾力的であり︑都市との交換比

率が著しく農民にとつて不利になるばあいにはとくに弾力的になる︒したがつて︑都市は︑都市と農民との間の商 ﹁相対的安定期﹂におけるソ連工業化論争について

(18)

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農民の努力を刺激し︑都市と農村との商品交換を著しく増加させる︒

プハーリンは︑

一 九

品交換の量を甚しく減少させるという犠牲をはらうことによってのみ︑自分の利益を農民から搾り出すことができ

工業生産物にたいする農民の需要が弾力的である限り︑交換比率が農民にとつて有利になることは︑

この農民の需要の弾力性の影響を︑さらに︑工業化論争が爆発的に進行するきつかけになった一 九二三年秋の鋏恐慌をあげながら説明する︒もしも社会主義工業が市場で独占価格政策を逐行するならば︑鋏恐慌 が示しているように︑工業の生産物にたいする市場は狭くなり︑食糧︑原料の市場に出廻つてくる量が減ることに なる︒したがつて︑工業の発展はそうでないばあいにくらべて︑より緩慢なテンポで進行することになる︒また︑

工業と農業とを含めた全体の生産量︑商品交換量が増加すれば︑たとえ︑社会の総所得にたいする労働者 への分配率と︑労働単位当りの所得率は減少しても︑労働者もまた︑より多くの消費財を得ることができる︒すな わち︑資本主義経済のもとにおいて﹁植民地﹂にたいする独占利潤の追求が一群の資本家の利益であり短期的には 労働者階級にとつても利益であるようにみえても長期的にみたばあいに労働者階級の利益と反するように︑工業生 産物にたいする農民の需要の非弾力性というとてつもない仮定にたったばあいにのみプレオプラジェンスキーの独 占政策︑農民搾取政策は成立するであろう︒

プハーリンは︑

このようなプレオプラジェンスキー批判をさらに一歩進めて︑工業による独占政策は結局沈滞 と寄生的頒廃に導くであろうと結論した︒プハーリンによると︑全盛期の資本主義は︑競争という圧力のおかげで 進歩的であることができた︒ところが︑独占資本主義の下においては︑

まう︒同様に︑労働者国家の統制下にある工業がより強力な独占力を行使して安易な超過利潤に寄食して満足すべ

い︵繭嶋︶

この進歩への刺激がほとんどなくなってし

(19)

592 

になったのは︑かつての﹁反対派﹂ではなくて︑ t

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に吸収されてしまうものであると考えたのであった︒ 日︵鶴嶋︶

一体何がしばらく休息しようとするこの自然的傾向を阻止するであろうか︒産業進歩へのどの

ような拍車が存在するであろうか︒国家が産業機関にたいして不断に価格の引下げを強要することによってのみ︑

産業経営者は生産費を引下げる手段︑方法の発見に努力するであろう︒

﹁富め/.﹂というスローガンを農民になげかけて批判されたがこれは決し

て偶然ではなくその体系的な農業優先主義にもとづくものであった︒ブハーリンは︑政府が﹁管制高地﹂たる工業

・運輸・金融をおさえているかぎり︑富農といえども社会主義に危険をもたらすものでなく︑結局は社会主義経済

プハーリンの農業優先主義は﹁反対派﹂の工業優先をおさえて現実の政策として逐行された︒

策として逐行されることによって︑その甘さが︑ソ連計画経済の逐行困難という歴史的現実によって明らかにされ

一九二九年には︑股民にたいする強制集団化政策と︑かつて﹁反対派﹂が提出したのとは比較にならない工業

化政策が︑第一次五ケ年計画として開始された︒

始まった大恐慌は︑ブハーリンの相対的安定にたいする見通しを粉砕した︒プハーリンの理論は攻撃の的とならな

ければならなかった︒そして︑ブハーリン批判の旗手であり︑その後のマルクス主義者に大きな影密力をもつよう

ターリンであった︒ しかし︑現実の政

それは︑ネッ︒フからの大きな転換であった︒さらに一九二九年に

﹁反対派﹂にたいする斗いの際にはプハーリンの僚友であったス

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( 1 4 ) プレオプラジェンスキーがネップに関連してソ連の工業化について論じた代表的なものとしては︑

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ブハーリンはひよっとしたはずみみに きであるとすれば︑

﹁相対的安定期﹂におけるソ連工業化論争について

0

(20)

593 

﹁相対的安定期﹂におけるソ連工業化論争についてい︵鶴嶋︶

i

た演説︵﹁プラウダ﹂一九二四年一月十八日号所載︶で明らかにした﹁社会主義的原始紫痰の基本法則﹂︑および︑これにた

いするプハーリンの批判に答えた論文

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15

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1926)を集大成したものである︒

( 5 1 ) プハーリンのプレオプラジェンスキー批判としては

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参照

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