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I 内部矛盾としての段階 I I  

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(1)

中国外交の論理と本質(試論) : ソ連を主要敵と する政策への転換について

その他のタイトル Logic and Substance of Chinese Diplomacy : On conversion to policy to regard Soviet Union as main enemy

著者 足立 利雄

雑誌名 関西大学社会学部紀要

巻 5

号 1

ページ 1‑40

発行年 1974‑01‑31

URL http://hdl.handle.net/10112/00023204

(2)

ーソ連を主要敵とする政策への転換について一――

ま え が き 中ソ論争と対立の推移

I 内部矛盾としての段階 I I  

敵味方の矛盾への転化①

敵味方の矛盾への転化③ 主要な矛盾への転化①

主要な矛盾への転化③ VI  最も危険な敵としての段階 中国外交の若干の"問題点"について

ま え が き

足 立 利 雄

中国外交の政策転換が具体化した

1 9 7 1

年以降,その論理と本質について発表された多くの研究,

論評には一種の混迷状態がみられる。それは反共産主義,反毛沢東思想,反中国の立場からなさ れたもののみならず,それらと逆の立場に立つと自ら考えている側のものにもみられる。

中国にとって主要な敵であった米国との接近,国連への復帰,米国に従属し軍国主義化したと する日本との国交回復,そしてソ連を社会帝国主義として最も危険な敵とする設定,こういった 中国の新しい外交行動について,いわゆる国家利益を主とした機会主義的,便宜主義的な政策転 換ではないのか,米ソニ超大国に伍する大国主義的パワー・ボリティックスに基くものではない のか,したがって脱イデオロギーあるいは毛沢東思想からの離反を示すものではないのか,とい った疑問が提起された。それに対する答えがそれぞれの立場から出され,しかも多面多様なアプ ローチが行われていることによって,混迷の度も甚しい。

本稿は,現在の中国外交の論理と本質を研究するためには,建国以来,中国対外政策の最も重 要な部分を占めてきた対ソ連関係の推移を検討し追及することこそが必須であるという認識に立 っている。

1 9 5 6

年から顕在化した中ソ両共産党の論争が,

' 6 0

年に入って国家的対立に転化し,

自らを正統なマルクス・レーニン主義者とし,対者を修正主義者とする社会主義国間の対立から,

さらに中国のプロレタリア文化大革命中の

' 6 8

年に行われたソ連軍のチェコスロバキア侵入を機 として中国はソ連修正主義を社会帝国主義と規定した。そして中ソ国境における武力衝突および

‑ 1 ‑

(3)

国境地帯へのソ連軍の増強という状況のなかで,ソ述を主要な敵から最も危険な敵と目するに至 った。この対ソ連関係の推移につれて中国外交の世界戦略の変化と発展が現われたのである。

とくにプロ文革を経て

' 7 1

年以降に行われた外交政策の転換は,その国際情勢分析のなかでソ 修社会帝国主義との関係を主要な矛盾とする評価と判定を基因としたものと考え,それを本稿の 主題としたのである。中国のもつ観点を説明するために中国側文献を主とし,テキストとしての 配慮のために引用も多いが,もちろんそれによって中国外交政策を肯定しあるいは否定すること を意図するものではなく,私見は重点的に本稿の後半の項において述ぺた。

なお,外交は国内政治を反映するものであり,また一国の外交は安全保障,経済要求をふくめ る国家利益のための対外活動でもある。その意味で,本稿には中国の内政および経済要因につい て補足すべき部分が多い。 「試論」としたのはそのためであり,他日に期したい。

中ソ論争と対立の推移

中華人民共和国の外交が,内政におけると同じくその理論的基礎を毛沢東思想に置いているこ とは周知の事実である。その毛沢東思想の最も特徴的な点,つまり彼がマルクス: レーニン,ス クーリン主義をつらぬく史的唯物論を発展させたといわれる所以は,彼の哲学的著作の中心にお かれる「矛盾論」によって説かれている独特の 矛盾"の論理である。 「毛沢東思想は一言でい えば,矛盾の理論である」

1 )

と断定されてさえいる。

毛沢東思想に基く世界観もまさに矛盾の論理によって展開されるものであり,そのことは後出 の中国の国際情勢分析についての多くの発言,論文に明かである。毛沢東は「矛盾論」のなかで

「弁証法的世界観は主として,さまざまな事物の矛盾の運動の観察と分析に熟達すると同時に,

その分析にもとづいて矛盾の解決方法を見いだすように, 人びとに教えている」

2 )

と述べている が,中国の外交政策とは,いわば国際関係における諸矛盾解決の方法なのである。

したがって,中国外交の政策転換がうまれる局面において,なぜその転換が行われるのか,ど のようにして転換が行われ,新しくいかなる展開があるかを理解するためには,矛盾の論理を適 用することが必要なのである。とくに「矛盾論」のなかの次の文章は,中国外交の論理を解くカ ギとしてあげられる。

「どんな過程にも,もし多くの矛盾が存在しているとすれば,そのなかの一つはかならず主要 なものであって,指導的な,決定的な作用をおこし,その他は副次的,従属的地位におかれる。

したがって,どんな過程を研究するにも,それが二つ以上の矛盾の存在する複雑な過程であるな らば,全力をあげてその主要な矛盾を見いださなければならない。この主要な矛盾をつかめば,

すべての問題はたやすく解決できる」

3 )

「どんな矛盾であろうと,矛盾の諸側面は,その発展が不平衡である。ある場合には,力が伯 仲しているかのようにみえるが,それは一時的な相対的なものにすぎず,基本的な状態は不乎衡 である。矛盾する二つの側面のうち,かならずその一方が主要な側面で,他方が副次的な側面で

‑ 2 ‑

(4)

ある。その主要な側面とは,矛盾のなかで主導的な作用をおこす側面のことである。事物の性質 は,主として支配的地位をしめる矛盾の主要な側面によって規定される。

しかし,このような状況は固定したものではなく,矛盾の主要な側面と主要でない側面とはた がいに転化しあい,事物の性質もそれにつれて変化する。矛盾の発展する一定の過程あるいは一 定の段階では,主要な側面がAの側にあり,主要でない側面がBの側にあるが,別の発展段階あ るいは別の発展過程にうつると,その位置はいれかわる。これは,事物の発展のなかで矛盾する 両側面の闘争している力の増減の度合いによって決定される」

4 )

「ふるい過程が変化し,ふるい過程とふるい矛盾がなくなり,新しい過程と新しい矛盾がうま れ,それによって矛盾を解決する方法もまたちがってくる」

5 )

「矛盾論」のなかからこれらの部分だけを抽出して毛沢東哲学をいうつもりはない。が,中国 外交政策の転換をたどるうえで,これらの文章をそのたびに引用することを避けるために, 盾 の論理を適用して中ソ論争と対立の推移を述べるにあたってかかげたのである。

l )  

「毛沢東の思想」新島淳良著

p . 2 2 5

毛沢東選集(北京外文出版社)第

1

p . 4 4 9

, j )  

選集第

1

p.474475

9

p . 4 9 。

内部矛盾としての段階

中ソ両共産党の理論対立のきっかけは

1956

2

月に行われたソ連共産党第20回大会であり,フ ルシチョフ第一書記の「政治報告とスク̲̲リン主義批判の秘密報告」に対する中国共産党の反論 として,同年45日付人民日報に「プロレクリアート独裁の歴史的経験について」と題する論 文が掲載されたことから公然化したものである。ついで同年1

2

3 0

日付人民日報に「再びプロレ クリアートの歴史的経験について」が発表されたが,これらの文章のなかでは反論の対象につい て,あからさまにソ連共産党の名をあげず「ある兄弟党」と呼んでおり,また「社会主義国相互 の間の,共産党と共産党の間の矛盾は……根本的な矛盾ではなく,階級的利害の根本的な衝突に よるのではなしに, 正しい意見と間違った意見の矛盾, あるいは局部的な利害の矛盾から生じ た」としており,いわゆる人民内部の矛盾を処理する方法によって「団結の願いから出発し,批 判または闘争を通じて矛盾を解決し, これによって新しい基礎のうえで新しい団結に達する」

1 )

とみており,もちろん両党間の矛盾は敵対的な矛盾ではないと考えていたのである。

1957

11

月の社会主義諸国共産党および労働者党代表会議で採択されたモスクワ宣言のなかで は,中共の意見がかなり大幅にとり入れられ「修正主義と教条主義を断固として克服する必要が ある」とか「現代の諸条件のもとにおいては主要な危険は修正主義,いいかえれば右翼日和見主 義である」

2 )

といった語句が見られる。 ソ共20回大会でのフルシチョフ報告はスクーリンの社会 主義建設の業績を全面的に否定するとともに平和共存,競争共存そして社会主義への乎和移行の 可能性を提唱したものであったが,中共中央の申入れをいれて非平和的な移行の可能性も確認し

‑ 3 ‑

(5)

ている。この段階では中ソ両党の意見のちがいは,たしかに討論によって解決しうるかに見えて いたのであろう。

' 5 7

1 0

月の「国防新技術に関する協定」

3 )

の調印,

' 5 8

8

' 5 9

2

月の

1 2 5

項目にわたるソ連技術援助の約束, そして

' 5 8

年 9月にはソ連は中国に実験用原子炉, サイクロ

トロンの供与を発表した。

しかし

' 5 7

1 0

月の「国防の新技術に関する協定」は

' 5 9

6

月,ソ連によって一方的に破棄さ れ,原爆の技術資料の提供ももちろん拒否された

4 )

。 このソ連の行動は,同年

1

月に宇宙ロケッ ト第

1

号の打上げに成功し,その力を背景とする形で米国との接近が始まり,同年

9

月アイゼン

,,ヽワー米大統領とフルシチョフ・ソ連首相のいわゆるキャ

1 / ,

プ・デービッド会談が開かれるとい う情勢のなかで,いわぱ米ソ平和共存体制成立のための前提のようなものであったことが注目さ れる。中国の軍事力の抑制が米国側の要求する条件ではなかったとしても,中共がこの措置をプ ロレクリア国際主義に違反し,兄弟国の軍事的発展を米国との共存政策のためにあえて約束を破 ってまで阻止したと受取ったのは当然であろう。米 ノ乎和共存体制に対して,後に中国が二超大 国の結託による世界分割支配ど攻撃するに至る原因がすでにここにもみられる。

同じ

' 5 9

3

, チベットにおいて農奴主の反乱を契機として

8

月には中印国境紛争にまでひ ろがった事件について,ソ連政府はいわゆる 中立"の立場をとり,タス通信は

9

9

日「中印 国境紛争は遺憾である」という政府声明を発表した。チベット反乱の背後にインドの反動派があ り,混乱に乗じるイソド軍の挑発的な国境侵犯に対して中国軍は反撃を行っているに過ぎない,

と中国が主張しているにもかかわらず「遺憾である」としたソ連指導部に中国側が不満と反感を もったことは確かである。とくにタス通信声明は事前に中国政府に通告され,これに対して中国 が公然と反対したにもかかわらず,声明はそのまま発表された

5 )

さらにこの時期に中国では「大躍進」政策のもとに「人民公社」運動が全国にひろがっていた が,これに対するフルシチョフの冷評が西側新聞報道にしばしば伝えられてもいた。しかし

' 5 9

年の中国国慶節には,米国訪問を終えたフルシチョフ首相が祝典に参加しており,中ソ両党間の 対立の深化の状態は一般的には露呈していなかった。

' 6 0

4

レーニン生誕

9 0

周年に際して中共党機関誌「紅旗」に「レーニン主義万オ」,人民 日報に「偉大なレーニンの道に沿って前進せよ」の二論文が発表された。ここでは「帝国主義が 存在するかぎり戦争の根源はやはり存在するし,戦争の可能性も存在する」というレーニンの理 論をとりあげ,アメリカ帝国主義に対する闘争を訴えたが,これは明かにソ連の平和共存政策に 対する間接的な批判である。これに対して同年 6月ルーマニアのプカレストでの社会主義国共産 党代表会議において,フルシチョフはその発言のなかで,中共を「純粋な民族主義」 「戦争を起 そうとしている」 「ユーゴよりも悪質」ときめつけ,教条主義,左翼冒険主義と非難攻撃した。

このフルシチョフ演説のあと,

7

1 6

日にソ連政府は突如として中国政府に通告を発し,中 国に派遣していたソ連専門家

1 3 9 0

人を

1

カ月内に引揚げ,それによって,約束していた多くの技 術援助,協力のすべてを事実上破棄してしまった。このことは中国経済建設に大打撃を与えると

—- 4 ‑

(6)

ともに,中国のソ連指導部に対する不信感を決定的なものにし, さらに中国の「自力更生」

6 )

決意を固めさせることになった。が,この措置に対して中共は「あなたがたの行為があますとこ

ろなく物語っているように,あなたがたは,社会主義諸国の相互援助についての原則をふみにじ り,専門家の派遣ということを,兄弟国に政治的圧力をくわえ,その内政に干渉し,その社会主 義建設を制限し破壊するための道具とみなしているのです」と

' 6 4

2

月のソ共への書簡

7 )

で批 判している。しかし当時はこの事件については全く公表されなかった。

これに関連してソ共指導部は公開書簡

8 )

のなかで中ソ経済関係について言及し「中国共産党の 指導者は,各兄弟党とのイデオロギーの相違をさらにふかめ,この相違を国家間の関係にまでお しひろげはじめた。中国の機関は,中国とソ連その他の社会主義国との経済,貿易上の関係を縮 少しはじめた」といっている。兄弟 党 から兄弟 国 へ,つまり党間のイデオロギー上の対 立から国家間対立へ,矛盾が拡大し変質しつつある状況がここにみられる。 しかしなおそれは

「社会主義国相互の間の矛盾」として中共はとらえている。すなわち当時の世界情勢のなかで

「主要な矛盾」は帝国主義と社会主義のあいだの矛盾であり,それは「敵味方の矛盾」であるが,

中ソのあいだの矛盾は「社会主義内部の矛盾」=「人民内部の矛盾」なのである。それ故に帝国 主義を利する可能性があると考えて,ソ連政府の背信的行為,一方的な技術者の引揚げ,援助打 切りについてもあえて公表することをさし控えたものであろう。

' 6 0

1 1

8 1

カ国共産党, 労働者党代表者会議がモスクワで開かれ, 中共代表も参加した。

激しい論争のあげくまとめられたモスクワ声明

( 1 2

6

9 )

米帝国主義の反動性,侵略性 を強調している点,ューゴの修正主義を糾弾した点で,中共の主張をいれているが,中共もまた

「ソ共第20回大会の歴史的決定は,ソ連共産党とソ連社会主義建設にとって大きな意義をもつだ けでなく,国際共産主義運動における新しい端緒である」ことを認めたわけである。中共にとっ てこれは大きな譲歩だが,のみならず劉少奇中共代表団長らは会議後もソ連各地を友好訪問し,

国家間の対立が激化することを回避しようとする努力さえうかがえた。

しかし

' 6 1

1 0

月のソ共第

2 2

回大会では, フルシチョフ第一書記らによるアルバニア労働党指 導部に対するはげしい非難が行われた。アルバニア労働党指導部をスクーリン主義者として攻撃 することによって,すでにアルバニア労働党が中共の立場に近いことを意識しつつ,つまりは間 接的に中共を攻撃しようとしたものである。出席していた周恩来中共代表団長は「どの兄弟党に 対してであれ,これに公然たる一方的非難をおこなうことは,団結の助けにならず,問題を解決 する助けにはならない」と反対演説を行った。

1 2

1 0

日,ついにソ連政府はアルバニアとの国交 を断絶し,これに対して

' 6 2

1

中国はアルバニアと経済会談を行い,借款供与を決定した。

このことは中共が, イデオロギー対立から国家的対立へと

' 6 0

7

月からソ連指導部が拡大した 矛盾を,回避することなく正面から受けて立ったことを示すものである。

' 6 2

1 0

月にキューバヘのソ連ミサイル兵器の持込みをめぐって起きた「カリプ海の危機」に ついて,ソ共の公開盪筒

1 0 )

は「ソ連共産党とその他のマルクス・レーニン土義政党を一方とし,

‑ 5 ‑

(7)

中国共産党の指導者をいま一方とする両者のあいだの,戦争,平和,平和共存についての見解の 大きな相違は,

1962

年のカリプ海の危機のさいに,とりわけはっきりとあらわれた」と指摘して いる。そして「中国の同志は,カリプ海の危機にさいし,われわれがロケットをキューパにもち こんだのを 冒険主義"の誤りをおかしたと断言し,その後,われわれがロケットをキューバか ら撤去したのをアメリカ帝国主義への 降伏"だと断言した。この断言はまったく事実に反して いる」 「アメリカ大統領との話しあいがまとまって,カリプ海域の危機をとりのぞく基礎がうち たてられたさい,中国の同志は,帝国主義者の言葉は絶対に信じられないということを証明しよ うとやっきになり,とくにソ連には侮犀と悪罵のかぎりをつくした」としている。この 断言,, については原注に,

1963

3

8日付「人民日報」社説, 「アメリカ共産党の声明を評す」にあ る,となっているが,この社説

1 1 )

には「われわれはキューバ革命政府が提出した5項目の正義の 要求を支持し,ケネディのニセの 保証 をかるがるしく信じることに反対し, 国際査察 を キューバにおしつけることに反対した。われわれは終始一貫,闘争のほこ先きを,キューバを侵 略するアメリカ帝国主義にむけている」 「われわれは,キューバヘのミサイルもちこみを主張し なかったし,またいわゆる攻撃的兵器のキューバからの撤去も妨げなかった。われわれは冒険主 義に反対するとともに降伏主義にも反対する。たずねるが,われわれのこうした立場がどうして 非難される点があろうか。どうして 核戦争に導く政策 といえるだろうか」とある。当時米 間の一触即発の危機とみられたこの事件を通じて,ソ連は中国を好戦的な冒険主義として世界に 印象づけようと意図したといえよう。同年

12

月のソ連最高会議でフルシチョフは,中国に同調し ていたアルバニアの指導者の名をあげて,ソ連と米国を衝突させようと望んだと非難したが,こ れより先,

11

月から

12

月までに開かれた東欧,イタリア,フランス共産党の党大会では,いっせ いに「極左主義」 「冒険主義」 「セクト主義」への糾弾が展開された。社会主義諸国,各国共産 党のあいだだけではなく,世界のなかで中国,アルバニアの孤立化をはかろうとするソ連指導部

の意図は極めて露骨になり,中ソ間の矛盾はさらに鋭く大きなものになった。

l

)  

「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」 (北京外文出版社)

p . 1 5

世界年鑑

1 9 5 8

年版

p . 5 7 9 , 580

$  ソ連は原爆のサンプルと原爆製造に関する技術資料の提供を約束した。

〇 この間の事情については「人民日報」 「紅旗」編集部「ソ連共産党指導部とわれわれの意見の相違の 由来と発展」

' 6 3

9

6

日付に詳しい。

$  前出「意見の相違の由来と発展」

〇 経済的な面のみならず,民族解放,独立,革命の運動などすべて「自力」を主とする,という毛沢東 思想。

7 )  

ソ連共産党中央委員会への書筒,

' 6 4

2

2 9

日付,北京周報

' 6 4

1 9

$  ソ連共産党中央委員会がソ連各級党組織と全共産党員にあてた公開書簡

( ' 6 3

7

1 4 1 : 1 )

「国際共産 主義運動の総路線についての論戦」東方書店,

p . 4 3 2

9 )  

世界年鑑

' 6 1

年版

p . 6 0 1

1~ i l t i

出「総路線についての論戦」

p . 4 3 2

‑ 6 ‑

(8)

I I )  

「アメリカ共産党の声明について」北京外文出版社。

I I  

敵味方の矛盾への転化①

たしかに中ソ両党のイデオロギー論争は激化し,国家的対立へと発展し,中ソ両国間の矛盾は 拡大された。が,この段階ではなおそれは敵対的な矛盾ではなく,相互に相手を説得しうるとい う自信をもち,それ故に国際的共産主義内部において多数を占め,理論的イニシアティプをとる ための努力が両党によってつづけられた。

' 6 3

2

2 1

日付書簡をもってソ共から中共に対して 両党会談の開催が提案され,

3

9

日付書簡によって中共はこれを受け,

5

月には,

7

5

日か らモスクワで会談を開くことに合意した。が,会談に先立って

6

1 4

日,中共は「国際共産主義 運動の総路線についての提案」を返書としてソ共に送り,同

1 6

日に全文

1 )

を公表した。中ソ両党 の書簡,提案ともに「親愛な同志のみなさん」で始まっている。中共の「提案」は「このように 自分の観点をあきらかにすることが.われわれ両党の相互の理解に役だち,両党の会談のさい逐 条的にくわしく討論するのに役立つことを.われわれは望んでいます」といっているが

'24

項目

にわたる観点は,ソ共指導部に対してきびしい理論闘争を挑んだものである。その第 5項目では

—現代の世界の基本矛盾の問題については,つぎのような誤った観点が批判されるべきです。

社会主義陣営と帝国主義の矛盾の階級的内容を抹殺し.この種の矛盾をプロレクリアート 独裁の国家と独占プルジョアジー独裁の国家との矛盾としてみようとしない観点

2  社会主義陣営と帝国主義陣営の矛盾だけを認めて,資本主義世界におけるプロレクリアー トとプルジョアジーの矛盾.被抑圧民族と帝国主義の矛盾,帝国主義国と帝国主義国.独占資本 グループと独占資本グループのあいだの矛盾,さらにはこれらの矛盾によってひきおこされる闘 争を軽視したり過小評価したりする観点

3  資本主義世界におけるプロレクリアートとプルジョアジーの矛盾は自国のプロレクリアー ト革命をへなくても解決でき,また被抑圧民族と帝国主義の矛盾は被抑圧民族の革命をへなくて も解決できると考える観点

4  現代の資本主義世界に固有の矛盾が発展すれば,かならず帝国主義諸国間の緊迫した闘争 という新しい局面をひきおこすことを否定し,また「各大独占資本のあいだに国際協定が成立」

すれば,帝国主義諸国間の矛盾を調和させ.さらには解消することさえできると考える観点 5  社会主義と資本主義というこの二つの世界体制の矛盾は「経済競争」.のなかで自然になく なり,世界のその他の基本矛盾もすべて二つの体制の矛盾がなくなるにつれて自然になくなり.

いわゆる「戦争のない世界」とか「全面的な協力」の新しい世界とかいうものがあらわれると考 える鍋点ー一

と指摘し,平和共存,社会主義への乎和移行,各党間の平等,現代修正主義,社会主義内部にお ける階級闘争などの諸問題をとりあげ,とくに第

1 8

項で「マルクス・レーニン主義からみれば,

非階級的,超階級的国家などというものはありません。国家が存在するかぎり,それは 全人民 的 なものではありえません。……プルジョアジーの代表的人物は,ゆらい,プルジョア国家を

‑ 7 ‑

(9)

全人民の国家 とか, 全人民的権力の国家 とかよんでいます」とソ連指導部がソ連国家を 全人民の国家と規定していることに鋭い批判をあびせている。のちにソ共指導部を現代修正主義

と断定する兆がこのときすでにみえているわけである。

モスクワにおける中ソ両党会談は約 2週間ののち,結局は意見不一致のまま終った。その間に

7

1 4

日には「ソ連共産党中央委員会がソ連各級党組織と全共産党員にあてた公開書簡」

2 )

をも って中共の「提案」に対する反論を公表し「戦争はさけられないものであると,とめどもなくロ にし,こうした観点を自己の 革命性 のあらわれだとみせかけることはできるだろうが,実際 には,こうした態度は,自己の力に対する不信,帝国主義に対する恐怖を示すだけにすぎない」

「中国共産党の指導者は,わが党が人民のために幸福な生活をかちとることをみずからの任務と すると宜言したのをとりあげて,ソ連社会におけるある種の プルジョア化"と 変質 をほの めかしている。かれらのロジックによると,人民がワラジをはき,大きな鍋の薄いスープをすす ることが共産主義であり,勤労者の暮らしがよくなり,明日の生活がもっと良くなるのを望めば,

それは,資本主義の復活みたいなものだということになる!」, また全人民の国家の問題につい ても「いまソ連の社会は,労働者と農民の二つの基本的な階級および知識分子で構成されており,

また,一つの階級がその他の階級を搾取できるような地位は占めてはいない」といい,さらに中 共が指摘するプルジョア的な分子の存在について「こうした一部のものと闘争するのに,プロレ クリア独裁は必要ではない。全人民の国家で完全にやりとげることができるし,しかも,この任 務は完成されつつある」ときめつけている。

なお,この中ソ両党会談中に同じモスクワで開かれていた部分的核実験停止についての米英ソ 会談は

7

2 5

日に条約を仮調印し,米ソの核独占を保障して中国,フランスに圧力をかける目的

をもつもの,として反対した中国の意見は完全に無視されてしまった。

ここに至って中共は,

' 6 3

9

月から

' 6 4

7

月の間に「ソ共中央委の公開書簡を評す」と題し て,人民日報,紅旗両編集部が九つの論文をつぎつぎに発表した。 いわゆる「九評」

3 )

である。

これらはソ共とのイデオロギーの全面対立を洗いざらいぶちまけて,単に共産主義内部のみなら ず国際的世論に問うといった意図をも持つものであり,ソ連指導部を現代修正主義として鋭く糾 弾するところまで論理は発展していった。とくに「フルシチョフのニセ共産主義とその世界史的 教訓」は,ソ連には敵対階級と階級闘争が存在しているとして「工業の国有化と農業の集団化が なしとげられたあとも,すでにくつがえされたとはいえ,まだ完全には消滅されていないふるい プルジョアジーやその他の搾取階級がやはり存在している。ブルジョアジーの政治的影響と思想 的影響がやはり存在している。都市と農村における自然発生的な資本主義勢力がやはり存在して いる。新しいブルジョア分子と富農分子がまだたえず生まれている」と多くの具体的引例をし,

また「こんにちのソ連における問題の重大性は,フルシチョフ修正主義集団がソ連の党と国家の 指導部をのっとり,ソ連の社会にブルジョア的特権階層が生まれたということにある」と主張し て,その特権階層は党と政府機関および企業,コルホーズの指禅的幹部のなかの堕落変質分子や

(10)

プルジョア知識人によって構成されていると指弾している。

この「フルシチョフ修正主義集団」という呼び方は, これまでの論文では「ソ連共産党指導 部」となっていたものである。そして「フルシチョフ修正主義集団が代表しているソ連の特権階 層は……ソ連人口の90バーセント以上をしめるソ連人民や広はんな幹部,共産党員とは根本的に 対立している。ソ連人民とかれらとのあいだの矛盾は,現在ソ連国内における主要な矛盾であり,

和解できない敵対的な階級矛盾である」といっているのをみても,これまでの論争が主としてい わば国際共産主義運動の路線をめぐって行われていたのを, ソ連内部に批判を集中し,修正主義 によるソ連社会主義の変質を暴露し資本主義復活の重大な危険にさらされていると警告している。

とくにこの論文のなかで「矛盾する対立面は統一しながらも闘争し,これによって事物の運動と 変化をうながす。社会主義社会も例外ではない。社会主義社会には,人民内部の矛盾と敵味方の 矛盾という

2

種類の社会的矛盾が存在する。この

2

種類の社会的矛盾は性質がまったくちがって いるため,処理する方法もちがっていなければならない」と毛沢東の「人民内部の矛盾を正しく 処理する問題について」

4 )

の思想をあらためて提起しているのは, ソ連人民がフルシチョフ修正 主義集団を敵として階級闘争を行う必要を説いたものである。しかし,この段階でもなお中共は

ソ連自体が社会主義体制の国家であることを否定しているわけではない。

が,このような一連の痛烈な論戦のなかでソ連の全体制にわたる分析と研究が重ねられる間に,

その目が中国自身の内部にも向けられなかったはずはない。ソ連に起ったことが,その影響を受 けてきた中国に起っていないとはいえない。中国のなかの修正主義の存在についての点検が行わ れたことは当然であろう。

1 9 6 5

年末からはじまった無産階級(プロレタリア)文化大革命ー一 プロ文革と略す—iま,つまりは中国の全体制のなかにはびこる修正主義に対する闘争,批判,

改造を行ったものである。劉少奇をトップとする 当権派 を資本主義復活の道を歩く修正主義 者として,敵味方の矛盾を解決する方法すなわち彼らからの 権力奪取 によってこれを排除し

ようとしたのである。

' 6 5

2

月に米空軍による北ベトナム連続爆撃が開始されてから, これに対処する必要,米国 を共同の敵とする空気のなかで,中ソ間に歩み寄りの接触があったが,ソ共は同年3月に中共が 反対する「共産党,労働者党代表者会議」をモスクワで強行した。ソ共によって招請された26 党のうち,中国,アルバニア,ベトナム,インドネシア,朝鮮,日本,ルーマニアの各党は,主 として時期が不適当という理由で参加しなかった。 この会議は,

' 6 4

1 0

月にフルシチョフ首相 が辞任しプレジネフ書記長,コスイギン首相の新指導部になってから最初の中共に対する公式な 反応であった。同じ時期にモスクワでは中国留学生をふくめて各国のモスクワ留学生による米大 使館へのペトナム侵略反対デモが行われ,警官,騎馬警官隊によって中国留学生

1

人が逮捕され,

30

数人が負傷し,中国ではこれに抗議して北京のソ連大使館をデモが包囲するという事件があっ た。このころから中共はソ連新指導部に対して「フルシチョフなきフルシチョフ路線」であると の見解を表明した。

‑ 9 ‑

(11)

プ戸文革の方針が党中央委員会として正式に決定され,公報として出されたのは

6 6

8

月の第

8

期中央委第

1 1

回総会だったが,その公報

5 )

は「帝国主義に反対するには,どうしても現代修正 主義に反対しなければならない,と考える。マルクス・レーニン主義と現代修正主義との闘争に けっして中間の道がない」と断定している。 帝国主義と現代修正主義を敵とする, いわば 二つの敵"を指定したものであり,もちろん敵として対決するほかに道はない,としたもので ある。が, 同じ公報のなかで「アメリカ帝国主義は全世界人民のもっとも兇悪な共同の敵であ る」といっていることをみても,なお,主要な矛盾は米帝国主義とのあいだにある,と考えてい たことは疑いない。

前出「総路線についての論戦」

p.57

「総路線についての論戦」

p . 4 2 2

$  「ソ連共産党指導部とわれわれとの意見の相違の由来と発展」 「スクーリン問題について」 「ユーゴ スラビアは社会主義国か」 「新植民地主義の弁護人」 「戦争と平和の問題での二つの路線」 「根本的に 対立している二つの平和共存政策」 「ソ連共産党指導部は現代最大の分裂主義者である」 「プロレクリ

ア革命とフルシチョフ修正主義」 「フルシチョフのエセ共産主義とその世界史的教訓」

り 前出「人民内部の矛盾……」

$ 

北京周報 6 6

年34

I I I  

敵味方の矛盾への転化R

' 6 8

8

2 0

日,ソ連軍を主力として東ドイツ, ボーランド, ハンガリー, ブルガリア派遣軍 は,チェコスロバキア全土に侵入し,主要都市と交通路を制圧した。そしてソ連指導部はチェコ 共産党中枢を支配下におき,政策全般から党,政府の人事にいたるまでほとんどすべての内政に 干渉し,チェコの主権は完全に奪われてしまった。もちろんチェコ内部に自由化を求める動きと ともに資本主義復活をめざす反革命が起っていたことは認められる。しかし,だからといってソ 連が,とくにチェコ共産党とこの問題について話合いがつづけられていたにもかかわらず,一方 的に突如として武力をもって介入したことを,プロレクリア国際主義の名のもとに正当化できる はずはない。明かに軍事侵略行動であった。世界からの対ソ非難のなかで,人民日報

8

2 3

日付 の評論員の論文は「ソ連修正主義裏切り者集団は,すでに社会帝国主義になりさがっている」と 弾劾した。ここで中国ははじめて 社会帝国主義 の言葉を用いたが,人民日報の用語解説では,

かつてレーニンが第ニインクーの「裏切り者」を批判するとき「口先での社会主義,実際の帝国 主義であり,日和見主義が成長して,帝国主義になったものである」と述べたのが根拠だとなっ ている。その後の中国の文献のなかで, たとえば「 九大"文件名詞解釈」では次のような定義 が行われている。 「社会帝国主義とはすなわち 社会主義,,の旗を掲げている帝国主義である。

ソ修裏切り者集団は,党と国家の指導権を奪って以後,国内で広範な労働人民を残酷にも搾取

L , ,

血なまぐさい弾圧を行い,全面的に資本主義を復活しているだけでなも同時に対外的には帝国 主義的侵略政策を熱狂的におし進め,アメリカ帝国主義との結託を強め,新しい世界分割をた<

らんでいる。ソ連はいくつかの国家を自己の植民地とし,残酷な掠奪と奴役を行っている。さら

(12)

にいわゆる経済援助, 軍事援助を通して, それらの国家にたいして滲透と統制を進めている」

1 )

これまでアメリカ帝国主義とソ連現代修正主義,であったものを,ここから二つの帝国主義と規 定することになったのである。

これに対して

' 6 8

1 1

ポーランド労働党大会でのブレジネフ書記長の演説は, 一つの社会 主義国が受けた脅威が社会主義共同体の脅威となるときには軍事力援助によってその脅威を排除 するのは必要なことであって,社会主義共同体こそが最高の主権をもち,したがって共同体内の 国の主権は有限である,といういわゆる「有限主権論」 (中国の反論については後述)をうち出

した。

チェコ侵略に先立つ89日から侵略後の29日までにソ連機29機が黒竜江省上空に侵入したこ.

とに対して中国外交部は

9

1 6

日に抗議し,

1 0

4

日には北京でのアルバニア労慟党代表団歓迎 会で黄永勝総参謀長が,中ソ,中国モンゴル国境にソ連は大軍を増駐させて,中国に対する武力 挑発に拍車をかけている, と非難したことを新華社電は伝えていた。

そして

' 6 9

3

2

日ウスリー江上の珍宝島(ソ連名ダマンスキー島)で中ソ武力衝突事件が 起った。双方に多数の死傷者をだしたと報じられたが,中国側は,ソ連国境守備軍が装甲車で侵 入して銃砲撃を加えて殺傷したとして,即日,ソ連大使館に覚書をもって抗議し, 3月 4日付の 人民日報,解放軍報共同社説は「新しいツアーを打倒せよ」と呼びかけ,同月

1 2

日までにソ連の 侵略に抗議する全国的な集会,デモに参加した軍民は 4億人に達したといわれた。ソ連国内でも モスクワの中国大使館に対してデモが行われ,群衆が中国大使館の自動車を襲って書類を奪った り,公用外出中の大使館員が暴行を受けた。 「プロレタリア文化大革命は,劉少奇など米帝,ソ 修のひとにぎりの代理人を徹底的に打倒し,平和的手段で中国をソ修社会帝国主義の植民地にか えようとするソ修の夢想を徹底的に破たんさせた。だからこそ,彼らは軍事的冒険をもてあそび,

絶望のあがきを試みようとしている」

2 ¥

これが中国側の評価であった。

珍宝島の衝突はその後もつづき,

3

1 5

日にはふたたび中ソ間に砲火がまじえられた。このよ うな背景のなかでプロ文革の一応の総括として中共第

9

回全国代表大会

(9

全大会)が

4

1

から開かれ,林彪の政治報告が採択された。このなかで,現代の世界には四つの大きな矛盾が存 在しているとして「被抑圧民族と帝国主義,社会帝国主義とのあいだの矛盾,資本主義国,修正 主義国内部のプロレタリア階級とブルジョア階級とのあいだの矛盾,帝国主義国と社会帝国主義 国とのあいだ,各帝国主義国のあいだの矛盾,社会主義国と帝国主義,社会帝国主義とのあいだ の矛盾」

3 ¥

をあげている。

「被抑圧民族と帝国主義,社会帝国主義とのあいだの矛盾」を主要な矛盾の第一にあげ,二つ の帝国主義を並列しているのが,ソ連を社会帝国主義と呼ぶに至った過程の帰結であることはい うまでもない。しかも二つの帝国主義を被抑圧民族と対置している。この報告が「わが党と政府 の対外政策は一貫している。それは,プロレタリア国際主義の原則のもとに,社会主義諸国との 友好相互援助協力関係を発展させること,すべての被抑圧人民と被抑圧民族の革命闘争を支援す

ー 1 1‑

(13)

ること,領土保全と主権の相互尊重,相互不可侵,相互内政不干渉,平等互恵,乎和共存という 五原則の基礎のうえに,社会制度の異なる国ぐにとの平和共存をかちとり,帝国主義の侵略政策

と戦争政策に反対することである」といっていることでもわかるように,中国の外交政策の大き な目標の設定には必ず 被抑圧民族と帝国主義"の闘争に重点が置かれている。民族解放運動の 重視は,中国のもっていた条件,環境からしても,中国共産党創立以来の観点であり,当時の中 国を半植民地半封建と規定し,抗日民族統一戦線の結成と抗日戦争を通じて「新民主主義」革命 を構想し,その遂行に成功した毛沢東の外交戦略の基本的な要素でもある。

' 6 5

9

月に発表さ れた林彪の「人民戦争の勝利万オ」

4 )

アメリカ帝国主義とソ連,中国など社会主義国の中間 にあって帝国主義の支配,侵略をうけ,それに抵抗し闘っている人民,民族の解放闘争,独立闘 争こそが帝国主義に打撃をあたえるもっとも重要な力であり,•それが世界の革命情勢を変えてゆ く,という考え方をはっきりと示している。 (ただしこの人民戦争論の問題点については後述す る)そして9全大会の報告には,新たにソ連が社会帝国主義に転化して登場した情勢をふまえて の新たな「中間地帯」の構想の提起がうかがえる。従来アジア,アフリカ,ラテン・アメリカを 第一中間地帯,西ヨーロッパ,オセアニア,カナダなどを第二中間地帯とみなしてきたが,さら に,新しいツアーのいわゆる「社会主義大家庭」のなかで「およそ少しでも異なった意見をもつ 国ぐにに対しては,兇悪な形相をみせて,弾圧,破壊,転覆活動をすすめ,さらには軍隊をくり だしてかれらのいわゆる 兄弟国"を侵略,占領し」とか「ソ修社会帝国主義に反対するチェコ スロバキアとその他の国ぐにの人民の正義の闘争をだんこ支持し」といった言葉のなかに,東欧 諸国をもふくむ新しい中間地帯論が形成されることが予告されていたわけである。 (中間地帯論 については後に詳述する)

なお,中共が世界革命戦略のなかで民族解放運動を重視する点について,ソ連指導部は,たと えば

' 6 3

年7月のソ共中央の全党あて公開書簡

5 )

で「中国の同志は……われわれの時代の基本矛 盾は,社会主義と帝国主義との間の矛盾ではなく,民族解放運動と帝国主義との間の矛盾である という。とんでもないことである。中国の同志からみれば,帝国主義反対闘争の決定的な力は,

社会主義世界体制でもなければ,国際労働者階級の闘争でもなく,やはり民族解放運動なのであ るということである……このような理論の実際の意味は,中国の理論家が願おうと願うまいとに かかわらず,民族解放運動を,国際労働者階級とその産物である社会主義体制から孤立させてい るということである。これは民族解放運動自身にとって大きな危険である」と反論しているが,

9全大会報告は,そのソ連自身を被抑圧民族の敵,帝国主義として闘争することを宣言している のである。報告は「アメリカ帝国主義とソ連修正主義の侵略,支配,干渉,侮隊をうけているす べての国ぐにと人民は団結して,もっとも広範な統一戦線を結成し,われわれの共同の敵を打倒

しよう」と呼びかけた。

中ソ国境問題については, 6月に入ってハバロフスクで中ソ国境河川航行合同委員会が開催さ れたが,中国側が河川航行問題の討議の基本としてこれまでの不平等条約について討議すること

(14)

を主張したために行詰まったと伝えられ,さらに

7

1 1

日には, ソ述が同月

8

日黒竜江の八含島

(ソ連名ゴルジンスキー島)で中国側に武力挑発を行ったとして中国代表が抗議するなど難航を つづけていた。が,

8

1 3

日にいたって,新彊ウイグル自治区で中ソの武力衝突が起り中国国境 守備兵が多数殺傷されるという事件が起った。中国のミサイル実験場に接近した地帯で戦車,ヘ リコプクーなどをふくむ大規模なソ連軍の出撃が行われたことは.中ソ間の緊張を一挙に高め,

中国は「祖国防衛戦争」のための臨戦体制に入ったと伝えられた。

しかし

' 6 9

9

3

日のホー・チ・ミン北ベトナム大統領の死去とその遺書

( 6 9

5

1 0

6 )

の発表

(9

9

日)によって,中

' I

間の緊張は一時的に緩和された。 遺書には「私は兄弟 諸党を分裂させている意見の相違を一層深く悲しんでいる。私は良心と理性の要求に合致した方 法において,マルクス・レーニン主義とプロレクリア国際主義の基礎の上で,わが党が兄弟諸党 間の団結の回復に効果的に寄与するため最善をつくすよう」という要望があった。これを契機と して.葬儀からの帰途.北京に立寄ったコスイギン,ソ連首相と周恩来総理とのあいだに 4時間 にわたる会談が行われ.

1 0

月7日中国政府は「両国の境界問題.貿易問題および両国関係その他 の問題について意見を交換した」と声明

7 )

を発表し,中ソ会談の開催が公表された。しかし同じ 声明のなかで「中国政府は中・ソの間には和解できない原則上の相違があること,中ソの間の原 則上の闘争は長期にわたって続くことをいまだかつてかくしたことがない。だがこのことによっ て,中ソ両国が平和共存の 5原則にもとづく国家関係の正常化を妨げられるべきではない」とい っている。中国は既述のように,体制の異なる国とは平和 5原則にもとづいた外交関係をもつ.

というのが対外政策の一つの基本なのである。この場合.ソ連とは平和 5原則にもとづく国家関 係をもつこと,すなわちもはやそこにはブロレクリア国際主義による連帯はあり得ない,ソ連は 社会主義とは異なる体制の国であるという断定を,あらためて中国が宣告したのである。

この中ソ会談が北京で開かれて以後,大規模な国境紛争は伝えられていない。が,会談そのも のは中国側が旧領土の返還を必ずしも要求しない.としたのに対して.ソ連側は両国の間にはい かなる領土問題も存在しないという態度に終始し.交渉はほとんど進展していないようである。

ソ連の領土問題(日本の北方領土もふくめて)に対する基本姿勢は中国に対しても貫かれている わけである。

' 6 9

1 0

ソ連は戦略兵器制限についての予備交渉を行う用意があると米国に返答し,

1 1

にはヘルシンキで交渉が始まり,

1 2

月には武力不行使宜言のためのソ連,西独交渉がはじめられ た。米.欧州との緊張緩和をはかろうとするソ連の政策が,中国への圧力の増強とアジアヘの進 出をはかるためのものであることは明かであった。

' 6 8

年秋にジョンソン米大統領による北ベト ナム爆撃の全面停止と和平会談の開催の提唱があり,

' 6 9

1

月から米, サイゴン政権, 北ベト ナム,解放戦線の四者代表によるパリ会談が開始され, 7月にはニクソン大統領のいわゆるグァ ム・ドクトリン

8 )

が発表された。このことはベトナム戦争の終結と,アジアからの米軍事力の縮 小,撤退を予想させた。 さらに英国は

' 6 8

2

月の国防白書によって, 香港を除くスエズ以東か

‑13‑

(15)

ら英軍事力が

' 7 1

年末までに撤退することを明らかにし. さらに同年

7

白書の追補によって.

極東およびペルシャ湾からの撤退計画を示し, マレーシャ, シンガボールの兵力を半減し,

' 7 0

年代初期には同地域には主として海軍と空軍だけを駐留させるという方針を公表した。

この間,ソ連海軍の地中海からインド洋への進出(後述)あるいは

' 6 9

5

月29日付のイズベ スチャ紙(マトベーエフ論説委員)がアジア諸国は米英,中国の影響を排して独自の安全保障体 制をつくるべきであると主張し,ブレジネフ党書記長が同

6

7

日モスクワの世界共産党会議で

「アジア集団安全保障体制」の構想を提唱するなど.米英勢力のアジアからの退潮に乗じてアジ アヘ進出しようとするソ連の姿勢が公然化した。このソ連の目的の主たるものが.アジアにおい て中国と覇権を争い,米国に代って中国を包囲し孤立させようとするものであることも十分に推 察されるのである。

' 7 0

3

カンボジアのクーデクーによるシアヌーク元首の追放と米軍およびサイゴソ政権 軍のカンボジア侵入は,ベトナム戦争での民族解放戦線に対するいわゆるホー・チミン・ルート の切断と補給基地の撃滅をねらうとともに,カソポジアでの反共政権の確立を企図したものであ り.ニクソソの戦争拡大政策として.中国は米帝国主義に対する激しい非難をあびせた。モスク ワで冷遇されたシアヌーク殿下は北京に滞在し.中国政府の全面支持を得て.カンポジア王国民 族連合政府の樹立とカンプチア民族統一戦線の結成によって.ロン・ノル政権打倒の内戦を展開 した。これに対してソ連は一切の支援を行わないのみならず.その存在を無視してロン・ノル政 権との外交関係を維持しつづけた。インドシナにおいて確然と中ソの対立が露呈したものといえ

が一方,中国がソ連を体制の異なる国として確認して国交再開を決めたことによって,

' 6 6

1 0

月以来

4

年ぶりに北京にソ連大使が駐在し,

1 1

月には中国の駐ソ大使もモスクワに着任した。

しかし中ソ論戦は,

' 7 0

4

月22日のレーニン生誕1

0 0

周年に, モスクワにおいては記念集会で のプレジネフ書記長の演説,中国においては「人民日報」 「紅旗」 「解放軍報」の 3紙誌共同社 説「レーニン主義なのか,それとも社会帝国主義なのか」

9 )

において, 妥協のない対立をつづけ ている。共同社説は「プレジネフ・ドクトリン」を社会主義のレッテルをはった帝国主義,覇権 主義新植民地主義ときめつけ,次のように批判している。

有限主権論"。きみたちのいう 社会主義の利益 とは, ほかでもなく, ソ修社会帝国主 義の利益であり,植民地主義の利益である。他国の主権は 有限"であるが,他国を支配するき みたちの権力は 無限"であるというのである……プレジネフの 有限主権論"は,狂気じみた 帝国主義のやきなおしにすぎない」

「 国際独裁論"。 プレジネフのやからは, かれらには 社会主義制度に対する脅威をとりの ぞくために兄弟国へ軍事援助をあたえる 権利があるといっている…… 兄弟国を援助する いう看板をかかげれば,きみたちの軍事力で他国をしいたげてもよいというのか?きみたちの軍 隊を勝手に他国へ進入させて横暴にふるまわせてもよいというのか?きみたちは 連合軍"とい

‑14‑

(16)

う旗じるしをかかげてチェコスロバキアに侵入したが, これは往年の 8カ国連合軍による中国へ の進攻,

1 4

カ国によるソ連への武力干渉, アメリカ帝国主義が

"16

カ国"を組織して朝鮮を侵略 したのとどんな違いがあるのか」

社会主義大家庭論 。 プレジネフのやからは 社会主義大家庭は, 不可分の統一体であっ 社会主義大家庭"の"統一行動"を強化しなければならない,

真の社会主義国間の関係は,大国小国をとわず,すべて,

完全な平等,領土保全の尊重,.国家主権と独立の尊重,相互内政不干渉という 原則の基礎のうえにうち立てられ,プロレクリア国際主義の相互支持と相互援助の原則……きみ たちのいう 統一 とは他国の政治,経済,軍事をみなきみたちのところに 統一"するという ことである。…… 不可分"とは,他国がきみたちの支配と隷属のもとからぬけだすのを許さな

 

などと鼓吹している……

マルクス・レーニン主義の基礎のうえ にうち立てられ.

いということである」

「 国際分業論,,。 プレジネフのやからは……東ヨーロッパの一部の国ぐにとモンゴルで,

1 ,  

わゆる 国際分業,,をおしすすめているばかりでなく, それをアジア, アフリカ, ラテン・アメ

リカ諸国にまでひろげている……つまり, ソ連は工業,

は農業"あるいは ソ連は工業

のである……これらの国ぐににソ修植民地主義の新しい首かせをかけるためのものである」

アフリカ,

ラテン・アメリカは付属加工業"というも アジア,

アジア, アフリカ,

ラテン・アメリカ

「 利益関係論 。 ソ連は, 世界の一大国としての広範な国際的連係をもっており,

地理的に遠く離れていても,われわれの安全およびわれわれの友人の安全にかかわりのある事件 たとえ

にたいしては,消極的に対処することはできない"と提言している。かれらは, ソ連の艦隊 わが国の安全の利益にとって,行く必要のあるすべてのところを航行する などと公然と さけび立て……大国であるからといって,世界各地をみな自分の利益のあるところとみなして全 世界に手を伸ばし拡張してもよいというのか。広範な国際的連係をもっているからといって,い たるところに自分の砲艦をくりだして威かくと侵略をおこなってもよいというのか?こうしたい わゆる 利益関係論"は帝国主義の世界侵略政策の典型的な論調である。……ソ修の言い草は,

旧ツアーやアメリカ帝国主義の言い草となんと似ていることか」

あえてかなり長い引用を行ったのは,ここに中ソ論戦における中国側のいう争点と論旨が要約 されており, これは

' 7 3

8

月現在においても少しも変化していないからである。 と同時にその 文章,用語からも,全く妥協も譲歩も許さない姿勢がうかがえるからである。ソ修社会帝国主義 との関係が,単なる敵味方の矛盾からやがて主要な矛盾へと転化するにいたる論理を,すでにこ の時期にみることができる。

D 3 3

中国総覧 ' 7 1 年 版 p . 1 6 7 。

紅 旗 ' 6 9 年第 3.4 合併号社説。

北京周報 ' 6 9 年 1 8 号 。 北京周報 ' 6 5 年 3 6 号 。

‑15 ‑

参照

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