• 検索結果がありません。

修士学位論文

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "修士学位論文"

Copied!
38
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

0

修士学位論文

ロストウの経済成長理論

―離陸理論と制度設計への考察―

1~37

指導教員 高見典和

2020(令和2)年1月10日提出

首都大学東京大学院

経営学研究科(博士前期課程)経営学専攻

学修番号

18837307

間中

ま な か

けん

すけ

(2)

1

修士論文

ロストウの経済成長理論

-離陸理論と制度設計への考察-

間中健介

目次

1はじめに ... 2

◇本稿の構成 ... 4

220世紀成長論・開発理論のなかでのロストウの位置づけ ... 5

◇成長理論の流れ ... 5

◇開発理論の流れ ... 6

◇成長理論と開発理論からのロストウ理論への評価 ... 8

3ロストウの前半生 ... 11

◇ロストウの前半生 ... 11

◇ケネディとロストウ ... 14

◇経済成長(Growth)と経済開発・発展(Development) ... 17

4ロストウ成長理論の内容 ―投資の性質への着目― ... 19

◇経済成長の動因 ... 19

◇6つの諸性向... 20

◇5段階と諸性向 ... 21

◇ロストウの経済成長メカニズム ... 22

◇マルクス、ケインズへの視点 ... 28

5ロストウの通商論、援助論 ... 30

6結論 ... 33

参照文献 ... 35

(3)

2

1 はじめに

国際社会をリードしてきた先進国にとって、2020 年代以降の持続的成長には一層の 困難が伴う。人口減少と高齢化という21世紀に出現した難題は、日本だけではなく、程 度の差はあれ、すべての先進国に共通で訪れている。そして、それに伴う公的社会保 障の拡大ニーズを満たすには、経済成長が十分ではない。その結果、政府の財政悪化 は進み、民間投資は十分に喚起されず、成長分野への取り組みが委縮する悪循環に 陥っている。

日本企業の収益は2018年に過去最高となり、企業の稼ぐ力は長期的傾向として高ま っている一方、賃金は伸びず、国際比較で日本国民の購買力低下傾向は明確になって いる。政府は毎年のように経済成長戦略を策定しているが、名目 3%・実質 2%の成長 率目標は達成されていない。急激な人口減少を前にして、外国人材の受け入れ拡大へ の着手や、ホワイトカラーエグゼンプション(高度プロフェッショナル制度)の一部導入な ど、伝統的価値観を超えて成長志向の制度設計に取り組む動きはみられるものの、直 面する難題に打ち勝つほどには、政府による経済成長への姿勢は十分とは言い難い。

本稿では、ウォルト・ホイットマン・ロストウの成長理論を取り上げ、持続的な経済成長 の理論化の過程を検証し、そのなかでの経済成長における政府の役割を考察する。

筆者はロストウの成長理論に対して、低開発国におけるビッグプッシュ工業化と近代 国家運営に必要な社会的・政治的諸制度の構築の意義を結びつけたこと、および、持 続的な投資率向上のために求められる国家戦略を提示したことに意義があると捉える。

ビッグプッシュ理論については後節で触れるが、低開発国の政府が総需要を増やすこ とによって短期間に製造業を発展させる過程をローゼンシュタイン・ロダンがビッグプッ シュ工業化論として理論化し、ロストウはビッグプッシュ工業化の背景にある戦略・制度 の重要性に着目した。

ロストウは離陸の先行条件として、低開発国が自ら伝統的価値観を突破し、成長の ために「国内貯蓄を生産的に動員する努力」を発揮することが不可欠であり、外国資本 輸入だけでは離陸の先行条件は作り出せないと主張した。外国資本は鉄道建設など懐 妊期間の長い間接資本建設には有効であるものの、低開発国の努力により農業部門 からの収益拡大が図られ、主導的製造業部門の基盤が構築され、制度的・社会的・政 治的な条件の確立が離陸の成否を握るとしている。そのため、伝統的社会構造に対抗 する新しい勢力の上に立った中央集権的国民国家が離陸の必要条件としているi

(4)

3

離陸理論に対しては、低開発国に米国あるいは西側体制への従属を強いるという批 判がされてきた。それは、ロストウ自身が米国の対外政策に影響力を持つ立場でベトナ ム戦争推進を主張していた経緯から、歴史のなかで一定のコンセンサスのある批判で ある。だが、ロストウは、あくまで低開発国および新興工業国の持続的成長の実現策を 語っている。たとえば、日本の離陸期は1868年または1878年~1890年とされており、

この時期には欧米列強の存在によって社会的・政治的な環境が激変したが、ロストウは この時期の日本は欧米からの資金拠出は受けておらず、日本自身の農業発展が離陸 を可能にしたと断定している。

そして、1990 年代以降は、経済開発への国際協力の舞台において、直接投資(FDI)

の誘致を成長戦略に掲げ、対外開放、規制緩和に取り組む政策行動が一般化しており、

ロストウの理論の足跡は政策形成の現場に残っているとも言える。

ロストウは、アダム・スミスの『国富論』を離陸理論のなかで頻繁に引用している。資 本蓄積と分業進展と国富増大のサイクルを回すために、どのような国家戦略のもとにど のような制度設計をするべきかについて離陸理論は論じており、実務家の立場から国 富論に生命を吹き込もうとしたとも考えられる。発展段階を論じるうえで所得や貯蓄とい った変数それ自体を無視しているのは、価格自体よりも市場メカニズムやその他の社会 的要因に着目したスミスと重なる。

計量経済学が発展した 1950 年代にあって、ロストウは精緻なモデルを生み出すこと はしていないが、経済政策の責任者という使命のもとで、経済成長率それ自体をベンチ マークと捉えず、社会構造進化にもとづく経済発展を前提として経済成長を論じた。

1950 年代の米国は国際社会の中心にあり長期停滞論は下火となっていたが、中ソ の影響力拡大のなかでの対外戦略の練り直しを迫られ、内政面では労働者の発言力 拡大、公民権運動拡大、社会福祉のニーズ拡大に直面しており、経済成長への政府の 行動が緩む危険性を常にはらんでいた。一方、現代の日本は非伝統的金融政策を長く 続け、財政支出を増やしながらも、デフレ脱却ができず低成長を抜け出せていない。社 会保障給付の増大を持続可能なレベルに保ちつつ、多分野の社会政策を成長戦略に 動員しなければいけない点は、成長戦略を取り巻く環境としての共通点がある。加えて、

1950 年代の米国は石油化学、原子力、家電製品の発展など、技術革新が応用されて いる段階にあったが、2020 年代の日本はデジタル技術革新の成果を応用して社会政 策と経済政策を発展させることが求められている時代である。

経済成長への政治の決意は、常に、他の社会政策のニーズによって後退しがちであ

(5)

4

る。ロストウはそのなかで、政府が経済成長への強い意思を示して技術革新とその応 用を促進し、民間セクターの果断な行動を誘発する方策を提示した。その姿勢は、現代 の日本の経済成長を議論するうえで、有用な示唆を与えるものである。

◇本稿の構成

2節ではケインズ以降の成長理論の流れと、第二次世界大戦期以降に発展した開 発理論の流れを確認する。そのなかでは、1960 年の国際経済学会において離陸理論 を発表したロストウに寄せられた批判と評価を整理する。

3 節では歴史家のデビット・ミルン氏 の著書『AMERICA'S RASPUTIN: Walt Rostow and the Vietnam War』を取り上げて、ロストウの前半生を眺める。

4 節では離陸理論を含むロストウの主張を解説する。投資率という単純なベンチマ ークを用いて成長を定義した背景を考察し、投資の継続による持続的成長のメカニズム の把握を試みる。

5節では、近代化論を標榜していた MIT国際問題研究センターにおいて、ロストウ がマックス・ミリカンらとともに取り纏めた政策提言『A Proposal』を中心に据えて、ロス トウの対外戦略の主張を検証する。

6 章では、ロストウの成長理論に対する筆者の評価をまとめる。政府が持続的成 長への明確な目標設定をして生産性ベンチマークを緩めないこと、社会的給付と資本 蓄積のバランスに留意すること、イノベーションの成果の取り込みと旧来価値観の尊重 とのバランスに留意することなど、多元的視野に依拠する社会的・政治的諸制度の構 築を強調している点に筆者は評価を与える。そして、アダム・スミスの国富論を補足する ものとしての離陸理論への視点を提示する。

(6)

5

2節 20世紀成長論・開発理論のなかでのロストウの位置づけ

◇成長理論の流れ

国家において経済成長が達成されるべき目標として意識されるようになったのは第 二次世界大戦後の荒廃から西洋社会が復興期にあった 1950 年代からである。マーシ ャル・プランと欧州経済機構(OEEC)体制が発足し、高失業とインフレへの対策が進む と、持続的な経済成長実現への関心が強まった。米国では、欧州と日本の早い復興の 影響で生産力の優位性が低下するなかii、1960 年のドワイト・アイゼンハワー政権末期 からジョン・F・ケネディ政権にかけて雇用維持の目標に加えて、成長率目標が意識され るようになった。日本においては1954年終わりから高度経済成長期が始まり、GDP 長率が政策のベンチマークとなった。

経済成長理論の潮流は、J.M.ケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』

(Keynes、1936)を契機として形成が進み、所得、消費、投資、貯蓄の変数を用いたモ デルが次々と示されることとなった。1920年代から30年代にかけて欧米が高失業率に 悩まされているなか、ケインズは同理論を通して、総需要が限界消費性向、資本の限界 効率、流動性選好に影響を受けることで総所得よりも少なくなることで、総供給がすべ て使われなくなり、失業(非自発的失業)が発生するというメカニズムを提示した(野原, 2019, p260)。

ケンブリッジ派のロイ・ハロッドとエブセイ・ドーマーは 1930 年代後半から1940 年代 にかけて、財市場が均衡する際の成長率(保証成長率 Gw)と完全雇用が実現する際 の成長率(自然成長率 Gn)と、現実の成長率(G)が常に不一致であることから景気変 動が発生するとする動学理論を展開した。この理論では、保証成長率が自然成長率よ り低い場合、つまり低開発状態にある国では、貯蓄率の引き上げや人口抑制の取り組 みなどが必要となり、保証成長率が自然成長率より高い傾向のある先進国の場合には 資本集約型産業の育成や人口増加の取り組みが必要となる。ハロッド・ドーマーモデル は技術進歩と人口増加を所与とする硬直的なモデルであったが、この後に続く経済成 長モデルの先駆けとなったiii

1950 年代にはロバート・ソローが資本蓄積、労働力投入、技術進歩と産出量の関係 のモデル化に取り組み、トレイヴァー・スワンとともに資本蓄積と労働力投入に着目をし た経済成長モデル「ソロー・スワンモデル」を発表し、最適成長率(定常状態)が達成さ れるメカニズムを理論化した。ハロッド・ドーマーモデルとの相違は、資本蓄積と労働力

(7)

6

投入のバランスの相違は価格メカニズムを通して調整されるため、政府がその調整に 介入する必要がないという点にあるが、これは経済政策が不要ということではない。ハ ロッドは景気循環に着目していたがソローの着眼点は経済成長であり、経済成長のた めには政策によって貯蓄率と投資率の上昇を促して資本蓄積をしなければならないと 指摘している点が、ソロー・スワンモデルの意義である。さらに、両モデルとも技術進歩 による生産性向上を重視しているが、1957 年にソローが「残差」、あるいは全要素生産 性(TFP)として技術革新の概念を成長理論に持ち込んで以降、経済成長の要因に関す る研究がマクロ経済学の論争の重要な焦点となった。

なお、渡邉(2009, p11)によると、1950年代に、モーゼス・アブラモビッツとサイモン・

クズネッツ、コーリン・クラークが国民経済計算の分析手法や計量技術を発達させ、経 済成長や経済格差発生の長期的要因の体系的研究にも着手したことが、経済成長論 研究と開発理論を大きく進展させた。

1980 年代には成長の背景、特に技術進歩に関心が向けられるようになった。ソロ ー・スワンモデルでは物的資本の形成とそれを支える貯蓄が重要視されるが、これ以降、

技術進歩が生じるメカニズムの解明に関心が向けられるようになる(大住, 2006, p9)。

ポール・マイケル・ローマーとロバート・ルーカスはソローの主張を拡張した「内生的成長 理論」を打ち出し、資本蓄積よりも、R&D によって新規のアイデアが創出されることで技 術進歩や人材の習熟度向上が図られ、生産性は内生的に高まると主張した。それに対 してロバート・バローやサラ・マーティンによる実証分析が加えられ、研究領域として進 化していった。

◇開発理論の流れ

両大戦間期から第二次世界大戦前後には、植民地からの独立を実現したか、それを 目指す低開発国で経済開発の概念が広がりをみせ、経済開発理論の形成が進んだ。

西欧列強各国でも、戦争で荒廃した自国の復興過程のなか、植民地経営の負担増加 に国民的理解が得られる状況になく、植民地と自国との分離あるいは自立支援へと方 針が変わっていった。開発理論はその流れの後押しも受けたiv

ポーランド出身で LSE、世界銀行、MIT などで活躍したローゼンシュタイン・ロダンは、

1943 年に『Problems of Industrialization of Eastern and South-eastern Europe』を発表し、東欧の経済開発策を提示した。ロダンはここに、低開発国の発展初

(8)

7

期段階には市場が小規模で民間にとっては投資リスクが大きいため、政府主導で複数 の産業に大規模投資を進めて、生産増大と国内市場規模拡大を同時に導くことが不可 欠であるというビッグプッシュ戦略理論を発表した(山本, 1997, p105)。ロダンの成果を 受けたラグナー・ヌルクセは「均斉成長論」をまとめ、低開発国では単一セクターのみが 成長すると需要不足と労働力不足に直面するため、公的計画によって複数の産業が他 産業の需要を生み出し、労働者の生産性向上を促すことが必要であると主張し、ロダン のビッグプッシュ理論を後押しした(Backhouse, 2002)。

1940 年代半ばに国際連合、国際復興開発銀行、国際通貨基金が設立された時期の 前後に、シカゴ学派のセオドア・シュルツによる人的資本論、西インド諸島出身のアーサ ー・ルイスによる二重経済論など、後の開発経済学の発展につながる理論が現れた

(黒崎, 2017, p3)。

カール・グンナー・ミュルダールvは南アジアの開発理論をまとめた『Asian Drama』

(1968)において、ビッグプッシュ戦略理論を評価しつつ、南アジアの貧困問題研究を通 して、低開発国の低成長は先進国の責任でもあり、低開発国の貧困継続化の解消には 大規模投資以外の近代化への諸制度整備が不可欠であり、先進国はその責務を負う 必要があると主張した。ミュルダールの主張の特徴は平等と成長の両立にある。貧困 の原因は不合理・不平等な制度と、それと相互連関する人々の保守的な態度や思考様 式であり、これを平等主義的な制度に改革することで、合理性と生産性を追求する社会 にしていくということである(藤田, 2008, p125)。

アレクサンダー・ガーシェンクロンは、ロシアの経済成長に着目するなかで、低開発国 が先進国との経済環境の違いをもとにどのような工業化戦略を採用するか、という点に 着目し、キャッチアップ工業化理論を展開した。低開発国は先進国の成果を利用するこ とができるため、先進国よりも短期間で工業化を実現することができる。そして、維持し なければならない既存産業がなく、新たに巨大な資本を投入しやすいため、資本集約 的で最新技術をもつ巨大設備産業が建設される、といった点が理論の中核となってい る。現代の中国・深センにおける急速な経済成長はこのケースとも考えられるvi

末廣(1998)によると、ガーシェンクロンはキャッチアップ工業化の実現には低開発国 側に主体的条件が求められるとし、その例として、銀行の組織的統轄、資本投入におけ る国家の積極的役割、さらには工業化イデオロギーの浸透という要素を挙げている。

その後、1960 年代前後になると、経済開発に取り組む国家の間で輸入代替工業化と 輸出志向工業化の選択に関する議論が進み、1970年代になると開発途上国の累積債 務問題への対応が開発経済学の重大テーマとして扱われるようになる(黒崎, 2017,

(9)

8

p6)。開発途上国での経済開発への取り組みが進むなかで、開発経済学は国際貿易 論や国際金融論を織り込んでいき、深化・拡大に向かった。

◇成長理論と開発理論からのロストウ理論への評価

ロストウの成長理論の詳細には第 4 節で触れていくが、簡潔に特徴を挙げると、国家 は伝統的社会、離陸への先行条件期、離陸、成熟への前進期、高度大衆消費社会の5 つの発展段階を歩んで経済成長を実現するという発展段階説が柱となっている。加え て、経済発展を経済指標の向上という観点ではなく、人類の調和を図ることを含む多元 的なものとして解明しているvii

発表当時からロストウの成長理論は独創的なものとして扱われ、以下のような批判が 与えられた。

藤田(2007, p123)によると、ロストウが欧州経済委員会事務局で働いていた時の上 司でもあったミュルダールは、離陸理論を評価しつつ、分析要素が恣意的に選択されて いること、ならびに、それら要素間の相互作用について恣意的な想定が置かれているこ とについて批判的であったとし、特に次の4つの批判を与えている。1点目はロストウの 発展段階論は、主著のサブタイトルに「一つの非共産主義宣言」と付記している通り、暗 黙の政治的動機を持っていたこと。2 つ目は国家やほかの集団の役割を軽視する意味 において自由放任に偏向しており政策の論理的役割が曖昧であること。3 つ目は発展 過程における空間的・歴史的相違の説明がなされていないこと。4 つ目に根拠となる実 証分析が不足していることを挙げている。

1点目と4点目に関連することとして、MIT国際問題研究センターでロストウの助手を 務めたロバート・V・ダニエルズが、ロストウが同センターで成した研究『ソ連社会の動態 性』においてソ連研究者が積み上げてきた見解を軽視してソ連が侵略戦争を仕掛ける 可能性に言及したことを批判し、共著者から自身の名前を削除するよう求めたというエ ピソードもある(藤岡, 2016, p107)。

たしかに、ロストウの主張を裏付ける経済発展の事例は明確ではない。ロストウ自身 が政権の対外政策に関与していた1960年代から70 年代にかけて米国のODA はイ ンド、ベトナム、インド、パキスタン、韓国に向けられており、1980 年代にはエジプト、イ スラエル、トルコが重視されるようになり、1990 年代にはエルサルバドルやフィリピンが

(10)

9

加わった(外務省「開発協力白書・ODA 白書」を参照)。これらの国のなかでイスラエル と韓国以外は、一人当たり GDP で見る限り、高度大衆消費社会が実現したと言えるレ ベルにまで発展したとは言えない。特にエジプトへの援助の規模は群を抜いているにも かかわらず、同国は現在も国内産業基盤が弱く、外資導入も十分でない。ロストウ自身 が援助拡大を主張していたユーゴスラビアやポーランドへの援助が、その後の両国の 離陸をもたらしたかどうかは定かではない。

また、19609 月にドイツのコンスタンツで開催された国際経済学会ではロストウの 離陸理論に対して、サイモン・クズネッツ、フィリス・ディーン、H.J.ハバクックらが英国の 投資率の検証を行い、ロストウの仮説を批判した。ディーン氏らは、英国の投資率の上 昇はロストウの指摘のように1782年からの20年間に集中したのではなく、産業革命の 期間を通して緩やかに上昇が継続したという検証結果を発表した(岡田, 1999)。ソロー もこの学会でロストウに対して、離陸における人口成長率や技術成長率などのパラメー ター、初期条件の不明確さや、離陸前後の区別の曖昧さを指摘し、パラメーターの推定 への努力をして理論の内容を明示化すべきと批判した。ロストウはソローに対して、収 穫逓増の技術を成長モデルに組み込んでいないことに批判を加えた。viii

ガーシェンクロンもこの学会で、低開発国の経済発展が先進国と同様に 5 つの発展 段階をたどるとは限らないとし、テイクオフへの批判を行なった。ガーシェンクロンが提 唱した「キャッチアップ型工業化」は低開発国が先進国との経済環境の違いをもとにど のような工業化戦略を採用するか、という点に着目していたが、ロストウの主張は「離陸 のための先行条件期」には外部からの環境整備が必要である、というものであり、低開 発国側の意思や能力を軽視しているものと見做したix

ただし、ガーシェンクロンとは別の見方もある。ロストウは低開発国の構造変化は一 様であるとは主張しておらず、「成長しつつある社会が、たとえば英国・アメリカ合衆国・

ないしはロシアにおける構造の継起や型を繰り返す必要はない」xと主著でも述べてい る。第二次大戦中に OSS でロストウと同僚だったチャールズ・H・キンドルバーガーは、

ロストウが『The Process of Economic Growth』において諸性向の概念を提示して 各国の社会的・文化的要因が経済発展過程に大きな影響を生じさせることを理論化し たことに評価を与えている。キンドルバーガーは、低開発国の経済発展過程には出生 率と死亡率の減少、都市住民の増加といった共通項があるとしつつ、構造的変化は一 様ではなく各国の独自性があり、ロストウが『経済成長の過程』で示した 6 つの諸性向 は構造的変化に大きな影響を生じさせる要因であるとしている。基礎科学を発展させる 性向と、科学を市場向け生産に応用する性向が共存することもあれば、どちらかが遅行 する場合もあり、制度設計を通して諸性向を相互作用させる必要性を説いた。

(11)

10

都留重人はこの学会で、ロストウが提示した同質的発展には異論を挙げつつも、日 本の離陸期すなわち明治時代に綿工業と鉄道部門への継続投資による資本蓄積がな されたことが経済発展に重要であったことを検証し、余剰を投資に向かわせる社会的仕 組みの形成を理論化した点でロストウへの評価を与えている(都留, 1963)。

ロックフェラー財団の支援で MIT に滞在しロストウと交流のあった社会科学者の板垣 與一は近代化論を研究したうえで離陸理論への異論を唱えた。板垣は、近代化論を背 景とした米国のアジア援助には賛同しつつ、あらゆる社会が西欧諸国をモデルケースと した5つの発展段階を歩むという主張には異を唱えた。植民地化されてきた低開発国に おいては旧宗主国との関係のなかで構築されてきた様々な不平等化要因の除去に取 り組まなければならず、海外援助資金の受け入れによるインフラ整備で離陸に向かうも のではないと主張した。ロストウにはアジアのナショナリズムへの関心が薄かったが、板 垣は日本とアジア各国の違いに着目していた。板垣とともに社会思想研究会で活動し ていた木村健康はロストウの著書を『経済成長の諸段階』として邦訳するとともに、ロス トウを日本に招待している(辛島, 2012, p172)。

本節では、成長理論家と開発理論家がロストウの理論にどのような視線を送っていた のかを検証した。藤田(2007)が紹介しているミュルダールのコメントと同様に、離陸理 論には各方面から総じて厳しい評価がされているが、ではなぜロストウはこの野心的な 理論を発表したのか。次節ではロストウの前半生を眺め、離陸理論が形成され発表さ れた背景を考察する。

(12)

11

3 ロストウの前半生

◇ロストウの前半生

本節では、主に、歴史家のデビット・ミルン氏が著した『AMERICA'S RASPUTIN: Walt Rostow and the Vietnam War』を取り上げ、ロストウの前半生を眺める。

1916 11月にニューヨーク市のウクライナ系ユダヤ人の家庭に 3人兄弟の次男と してロストウは生まれた。15 歳でイェール大学に進学し,23 歳で大学院を修了した。当 時のニューディール政策を非効率であると批判していたが、のちに、失業率が高い状態 での政府支出による需要創造政策を理解する。マルクス理論へも評価を与え、経済史 とマルクス理論の研究に取り組んだ。その後,ローズ奨学金を獲得し,オックスフォード 大学ベリオル・カレッジに進学。英国の産業革命と、主に1790年~1914年の期間の経 済分析を行った。

ロストウは20代、30代の時期の多くを、学者としてのキャリア形成の機会獲得よりも 政策形成コミュニティでの実務経験の蓄積に費やした。1938 年にはイェール大学大学 院で経済史のTAの職を得て、その後、英国の経済変動を扱った博士論文を高く評価し たコロンビア大学に招かれるが短期間で退職。1940 年代初頭にはウィリアム・ドノバン をヘッドとする戦略情報機関OSS(Office of Strategic Services)に就職し、連合国軍 の対ナチス戦の戦略策定に関わる。ここではチャールズ・H・キンドルバーガーの同僚と なる。

OSSでの勤務のなかでロストウはドイツの産業構造を分析し、戦争遂行能力を削ぐた めに石油生産施設を破壊することが最も有用であるとの確信を持った。これが後のベト ナム戦争時における政策判断につながった(Milne, 2008, p33)。OSSでの勤務後は、

ルーズベルト大統領の指令をもとに設置された米国戦略爆撃調査団(USSBS)への参加 を求められたがこれを辞退。USSBSに参加したジョージ・W・ボール(弁護士、ケネディ政 権で国務次官就任)やジョン・ケネス・ガルブレイス(ハーバード大学教授)らはドイツの 工業生産を検証し、戦略爆撃は戦争終結早期化には寄与しなかったと結論付けた。

第二次大戦後はハーバード大学からの誘いを断り、オックスフォード大学での短期間 の教職をへて、ミュルダール欧州経済委員会事務局長の誘いを受けてジュネーブの欧 州経済委員会事務局に身を置き、敗戦で荒廃したドイツの復興政策に取り組んだ。ロス トウは欧州各国が技術協力を含む経済協力体制を敷くことが欧州の復興と成長に欠か

(13)

12

せないと考え、当時の国際社会で賛否の分かれていた欧州統合構想を理論的に支え xi

OSS から国務省に移り、ドイツ・オーストリアの復興援助計画の策定にかかわってい たキンドルバーガーはロストウの主張を支持した。キンドルバーガーが所属していた国 務省政策企画本部が1947523日に公表し、マーシャル・プラン始動を導いたジョ ージ・ケナンによる報告書『Policy with Respect to American Aid to Western Europe: Views of the Policy Planning Staff』には、米国はモネ・プラン等とリンクし て、欧州各国が共同で欧州復興に責任を持つ体制に対して復興援助をする必要がある、

という基本姿勢が明示されている。

ジュネーブでの2 年間の経験の後、ロストウはアカデミックの世界に戻る。1949年に は妻のエルスペスとともにケンブリッジ大学に身を置き、1950 年にはキンドルバーガー とマックス・ミリカンの推薦もありMIT に招かれて経済学部教授に就任した。国際問題を 扱うシンクタンクMIT国際問題研究センター(MIT Center for International Studies)

にも加わり、ミリカンとともにアイゼンハワー大統領の経済・外交政策ブレーンを務め、

対外援助の拡大などを提言した。

1950年代の10年間でロストウは8冊の本を刊行し、学者としてだけでなく、オピニオ ンリーダーとしての地位も築いた。主著『The Process of Economic Growth(経済成 長 の 過 程 ) 』 ( 1952 年 ) お よ び 『The Stages of Economic Growth: A Non-Communist Manifesto(経済成長の諸段階)』、さらにはMIT国際問題研究セン ターにおいてマックス・ミリカン、ローゼンシュタイン・ロダンらとともに発表した提言『A Proposal: Key to an Effective Foreign Policy』は、アイゼンハワー政権後半期から ケネディ政権の誕生前後の時期の政策論争において大きな存在感を発揮した。

もっとも、アイゼンハワー政権期には彼の提案が採用される環境にはなかった。1954 年、ベトナム戦争介入の継続をめぐって政権内で議論が分かれていた時期にxii、ロスト ウはミリカンとともに、開発途上国の経済開発に米国が関わることの重要性を説いた。

ロストウは米国の対外戦略が軍事に偏っているとして、経済援助と開発計画策定支援、

通商の拡大を進めるべきと提言をしたが、その方針が政策に反映されることはなかった。

当時の米国は第一次インドシナ戦争の間にフランスの戦費の3分の1にあたる27億ド ルを拠出しており、フランスの窮状を救うためのさらなる支出に国民の支持を得ることは 困難な状況であった。岩田(2000)によると、1953 年に朝鮮戦争の停戦を実現したアイ ゼンハワー政権は均衡予算の方針を掲げて軍事同盟と核抑止力活用による兵力削減 に取り組んでおり、開発途上国への支援に財政支出をするよりも欧州との協調による共 産主義拡大対応が重視された。

(14)

13

ロストウ自身も冷戦当初は外交努力によってソ連とは協調することが可能と考えてい たが、20 万人の人民解放軍(義勇兵)がマッカーサー元帥の軍を撤退に追い込んだ朝 鮮戦争勃発をターニングポイントとして、冷戦への消極的対応を続けていては取り返し のつかない戦争をもたらすため、低開発地域への東側陣営の影響力拡大を阻止する 必要があるとの思いに変わっていったxiii

1957年に発表した提言『A Proposal』では、アイゼンハワー政権の対外政策に批判 を与え、米国がリーダーシップを発揮して低開発国・新興独立国の成長を支援する国際 的枠組みを構築するべきであると主張した。170 ページにわたる提言で示したその枠組 みは、軍事援助でもなく、開発資金の提供だけでもなく、民主的社会を構築して経済成 長を達成し得るような政策形成能力を身につけるための支援を大前提とするもので、資 金援助プログラムに留まるものではなく、かつ、米国単独ではなく西欧主要国も関わる 支援の枠組みである。そして、プログラムに要する予算は「追加の山火事(additional brushfires)を消す費用よりも少ない」とし、年間25~35億ドルの予算措置を要請した。

アイゼンハワー政権後期には開発借款基金の設立など開発援助の拡大方針が示さ れ、ロストウらの主張が取り入れられたと判断できる事象がある。一方でこの時期には 方針の具体化が進まず、ロストウは政権への不満を持つようになった。アイゼンハワー 政権期の米韓関係に着目した高賢来によると、1950 年代後半に米国は開発援助方針 への転換を打ち出したものの、韓国においては経済開発プログラムの進捗は見られな かったとしている。当時は米韓両国の思惑のもと韓国軍の兵力削減が進まず、またそ れ以上に李承晩政権 が民主化を 進める状況に なかっ たこ と を 指摘し てい る ( 高, 2017)。

政策の実現を期待するロストウは、次第に、アイゼンハワー政権での仕事に距離を 置くようになり、民主党の新進気鋭の政治家=ジョン・F・ケネディとの親交を深めるよう になった。

(15)

14

◇ケネディとロストウ

《1958 8 月のある日、ケネディは車にロストウを同乗させて国務省に向かった。二 人は 1960 年の大統領選候補者予備選挙について論じ、ケネディは立候補の計画をさ りげなく語った。(中略)

ケネディはロストウに、「私は自由に挑戦することができる」と述べた。ケネディはロス トウを国務省の駐車場に連れ出した際、“民主党の大統領候補者と一緒にいる場面を 共和党の友人たちに見られないように”頭を下げて歩くべきだと冗談を言った。ロストウ はそれに対し、「彼らは私が民主党員であることを知っている」と返した》

(America’s Rasputin , p59, 筆者訳)

アイゼンハワー政権で政策ブレーンを務めていたロストウは 1958 年頃になるとケネ ディ支持に転じ、ケネディの大統領選挙キャンペーンを懸命に支えるようになった。大統 領 選 挙 期間 中 の 1960 年 に 出 版し た 『The Stages of Economic Growth: A Non-Communist Manifesto』では、タイトルの通り、共産主義の拡大を防ぐ必要性を 強調し、ケネディの演説に理論的根拠を与えた。ミサイル・ギャップ論争をめぐってアイ ゼンハワー政権の対ソ連政策に批判が集まるなかで、ケネディ陣営のコミュニケーショ ン戦略に一役を買うこととなった。

大統領選に勝利後、ケネディはハーバード大学のマクジョージ・バンディ氏を国家安 全保障担当補佐官に任命し、ロストウを国家安全保障担当次席補佐官に任命した。ロ ストウが主張してきた開発途上国への経済成長へのコミットメントに関しては、1961 に海外援助法(Foreign Assistance Act: FAA)が制定され、開発融資や技術協力を 行なう国際開発庁(USAID)が発足したほか、欧州経済協力機構(OEEC)のもとに設置 された開発援助グループ(DAG、現在の DAC)の機能強化に取り組んだ。そしてケネ ディ政権の対外政策には、ロストウが主張していた米ソ共通規範の確立、つまり「第三 世界における冷戦の休戦ライン」を明確化する主張が盛り込まれていたとの見方もある

(松岡, 2001, p35)。

ケネディ大統領は一般教書演説で成長へのコミットメントを示し、それまでの経済政 策の考え方を転換した。1958 年のマイナス成長など、アイゼンハワー政権の 8 年間の 年平均成長率(2.5%)は主要国で最下位にあり、工業品輸出は後退し、550 万人の失 業者数の改善が見いだせず、在庫の増加に苦しんでいることを就任直後のスピーチで 述べ、未利用の能力を適切に動員・活用することでGDP3.5%成長させることができ るという政策目標を示した。

(16)

15

ケネディ政権にはロストウの他、大統領経済諮問委員会に任用されたウォルター・ヘ ラーや、ジェームズ・トービン、ソローなどのケインズ派経済学者が多数ブレーンに連な った。1961 年以降、大幅減税と財政拡張政策のもと経済成長志向の政策運営がおこ なわれ、実質成長率 6.0%、失業率 3%台という、高い成長と、事実上の完全雇用が実 現した。続くジョンソン政権でも堅調な成長は続き、米国は「黄金の60年代」を迎え入れ xiv

経済企画庁の見解によると、当時の日本政府は、ケネディ政権発足以降、米国の成 長政策に質的変化が起こったと捉えている。「従来は生産資源が不完全雇用の状態に あったために、需要の刺激という比較的単純な政策によって経済成長率を高めることが できたが、完全雇用が達成された現状の下では、単なる需要刺激だけではうまくいかな い。むしろ、需要の行き過ぎを抑制する政策がしばしば必要となってくる。(中略)完全雇 用を維持しながら過大需要を抑制することは、これまでの西欧諸国の経験からいえば 容易なことではない。その意味で、今後は労働力の移動や職業訓練などの構造対策が いっそう必要になってくるであろう」(経済企画庁、「年次世界経済報告」、1966)。

つまり、インフラ開発や耐久消費財需要を高める政策の偏重ではなく、ロストウが重 視していたように、供給面への制約突破を含め、経済の新たな主導部門の創造と新陳 代謝、労働生産性向上への政策資源の投入をすることで持続的成長を図ることが、経 済政策の目標に織り込まれることとなった。

ロストウは『The Stages of Economic Growth』において、米国の急速な人口増加 に伴って一人当たり消費水準の低下が起こりえることへの懸念を表明し、単純な消費社 会の拡大には否定的見解を表明していた。労働運動が増加していたなかで、1959年時 点の米国は「見た目ほど豊かでない」として、労働者への給付を増やすよりも、政府が 厳しい生産性ベンチマークを設け、生産資源の効率的活用によって持続的成長に取り 組む必要があるとの見解を強く打ち出した。

米国の経済政策の歴史のなかで、ロストウは継続的な経済成長の概念化における 先駆者的存在の一人として位置づけられる。しかしながら、ジョンソン政権期にベトナム で負った深い傷は、ロバート・マクナマラ国防長官やロストウの退場を要求した。ロスト ウが政権に関与していた間に国防支出は急拡大し、ロバート・マクナマラ国防長官と推 し進めたベトナム戦争では米国人 30 万人が死傷者となった。ケネディ、ジョンソン両大 統 領 の 下 で 国 務 次 官 を 務 め た ウ イ リ ア ム ・ ア ヴ ェ レ ル ・ ハ リ マ ン 氏 は ロ ス ト ウ に

「America’s Rasputin」という形容を与えた。ケネディ政権誕生間近の1960年に名声 を集めていたロストウは、1969 年の時点では、誰からも一緒に仕事をすることを望まれ なくなったxv 。MITも、政府を去ったロストウに対して復帰ポストを提示しなかった。

(17)

16

ロストウの理論は、独自性の強い、超経済学的(酒井, 1960)なものとして取り扱われ るようになった。晩年のロストウはテキサス州オースティンを拠点に研究活動を続けた。

(18)

17

◇経済成長(Growth)と経済開発・発展(Development)

離陸理論は経済発展段階を分析し理論化したものであるが、ロストウの主著のタイト ルを見ると『The Process of Economic Growth』(1952 年)、『The Stages of Economic Growth』(1960年)、『Politics and the Stages of Growth』(1971年)

な ど 、 「 Economic Growth 」 の 語 が 使 わ れ て い る 一 方 で 、 「Economic

Development」の語はない。離陸理論に賛否両論が沸き起こった19609月の国際

経済学会での発表も『THE ECONOMICS OF TAKE-OFF INTO SUSTAINED GROWTH』

(1960年)である。

ロストウ自身はDevelopmentでなくGrowthをタイトルに用いる理由を明示的に解 説していないが、2つの推察を述べる。

1 つ目は、冷戦構造下での中ソの影響力拡大を懸念するなかで、自身の理論が途上 国開発のためだけの提言ではなく、米国の経済成長戦略および対外戦略の提言でもあ ることを明確に伝えたかったためと考える。

第二次世界大戦後の米国では開発戦略の議論が活発に行われていた。ロストウも 開発途上国の経済計画に深い関心を寄せていたが、貧困解消や国民国家形成といっ た開発経済学者の関心事項には眼目を置いていなかった。

1950年代から 60年代にかけて3代の政権に仕える立場として、ロストウの眼目は、

ワシントン D.C.に集う政治家に対して、中ソの影響力拡大が開発途上国の経済発展を 阻害し、それによって米国および西側諸国の経済成長に影響をもたらすことへの認識を 促し、米国の経済成長に資する開発政策の遂行を図ったと考えられる。そのために5 の成長段階というモデルケースを示し、このモデルケースを世界に広げていくことが米 国の成長に資するという、単純化した主張にこだわったとも考えられる。そして、納税者 の理解を得るため、米国の資源を途上国のために費やすのではなく、軍事同盟を広げ るのでもなく、米国の成長戦略のために米国の政策資源を途上国に投じるというロジッ クを構築した可能性もある。

2 つ目は、ロストウ自身が大統領に近い位置で成長政策の立案に携わっていたなか で、ケインズ以降の経済成長理論に自らの理論を位置づける意図があったという見方 である。第二次世界大戦をへて覇権国家の地位を確立した米国に対して、ロストウは必 ずしも楽観的な捉え方をしていなかった。出生率の上昇、労働者の発言力拡大、社会 福祉への政策ニーズの高まりのなかで、社会的・政治的価値観と経済成長とを結びつ

(19)

18

けた、新しい成長理論を示す必要に駆られていた。離陸理論において投資率を成長指 標とし、所得上昇を成長指標に置いていないのは、発展を伴う成長とそうではない成長 とを区別し、後者は成長とは定義しないという姿勢を示している。

本節ではロストウの前半生を眺め、独創的な理論を生んだ価値観がどのように形成さ れたのか、あるいは自身の理論をどのように政治リーダーに届けようとしたのかを考察 した。経済史研究者として経験を積んだのちに、実務家として第二次世界大戦期の新た な国際秩序の形成に関わり、30 代半ばにして政権のブレーンとしての職責を背負う 日々を過ごすなかで、経済成長の概念に外政・内政全体のデザインを織り込んだことは ロストウの強い使命感の表れでもあると言える。そして、理論家からの厳しい批判にさら されることを恐れるよりは、自身の理論を政府の意思に反映することに膨大なエネルギ ーをかける選択をしたと捉えることができる。次節では、ロストウの成長理論が提示した 独創的な要素を解明していく。

(20)

19

4 ロストウ成長理論の内容 ―投資の性質への着目―

◇経済成長の動因

離陸理論は、国家の経済成長を、5つの成長段階というモデルケースを示して解明す るものであるxvi

離陸理論では、まず、伝統的社会において、資源制約がありつつも成長への挑戦が 始まる。その後、新技術や手法の導入によって農業部門や原材料部門での供給量が 増え、初期工業化の取り組みが進む。伝統的社会の生産方式、社会階層、価値観が残 りつつも新しい価値観が徐々に醸成・導入されていく。

この段階が一定期間続き、緩やかな経済成長が実現すると、得られた資源が経済成 長への国民ニーズの拡大のもと政府の決断によって鉄道その他の公共インフラ投資と いった社会的間接資本投資に向けられ、工業化を導く主導部門が誕生する。伝統的構 造は新しい構造に移り変わり、成育した主導部門は細分化・専門化されていく。この過 程では国民純生産の 5%から 10%が純投資に向けられるようになる。この前後に外部 からの刺激が加わり、変革の速度が増す。そして、新たな主導部門が出現する。

こうして離陸の段階になると、より生産性の高い新たな主導部門の拡大につれて、労 働者のなかから知識労働者層が形成される。それらの存在によって、工場法や雇用保 障、賃金法制など、労働者の就労環境改善に配慮した制度が出現する。

成長し、衣食住の基本的ニーズが満たされる所得水準を多くの人々が享受するよう になると、社会政策ニーズの増加と細分化が見られる。公衆衛生、福祉、教育などの分 野への政府の関与が求められるようになり、ロストウが言う「職業的経営者」すなわち官 僚機構が政府を支える国家運営形態となる。そして、この政府の計画によって、資本が 軍事的目的や、過大な福祉に向けられるのではなく、バランスを取りながら、耐久消費 財やサービスの消費拡大を進めるための行動が継続されることで、高度大衆消費社会 へと移行が可能となる。1950 年代の米国社会では、成長率が伸び悩むなかで労働運 動、公民権運動の拡大と、出生率の増加が進んでおり、ロストウは成長投資と社会政 策とのバランス確保への強い懸念を表明していた。それが、離陸期から成熟期、高度 大衆消費社会への移行において、政府による強いリーダーシップを強調した背景となっ た。

(21)

20

◇6 つの諸性向

経済成長の過程は、経済とそれを含む全体としての社会が、経済成長がそれ以後に おいては多少とも自動的であるような仕方で自己転換する20、30年の相対的に短い期 間に集中するものと有益に見なされ得る。この決定的な転換が離陸と呼ばれるxvii

ロストウの成長分析の基本原則は、産出高は労働力と資本規模で決まるというもの で、この資本規模には土地その他の利用可能な自然資源だけではなく、科学技術や組 織管理能力も含まれるxviii。発展段階を分析するうえでは当該国が資本規模拡充のた めに一定規模以上の投資を行なってきたかどうかを検証し、投資率(国民純生産に対 する純投資の割合)を基準として国の発展段階を判定した。そして、投資の性格すなわ ち資本規模の水準や変化を決定する要素として、次の6つの諸性向を提示した。

基礎科学(物理化学と社会科学)を発展させる性向

経済的諸目的に科学を適用する性向

革新を受け入れる性向

物質的向上を求める性向

消費性向

子どもを持とうとする性向

ロストウの目的は短期分析の新手法を開発することではなく、ケインズ理論に敬意を 払いつつ持続的成長戦略を達成するための政策研究の成果として、諸性向の仮説を 示したと筆者は捉える。『The Process of Economic Growth』でロストウはページを 割いてハロッドのモデルへの批判を述べているがxix、労働需給、技術革新、資本増減を 生産関数に落とし込んで捉える視点は無く、労働力、技術革新、資本蓄積を分けずに、

社会構造全体での結びつきをしているものと捉えたうえで、どういう成長戦略、制度を整 えると労働力と投資率が高まり、経済発展を導くことができるか、ということに興味を向 けていた。

『The Process of Economic Growth』の緒論では、諸性向を以下のように解説して いる。

「直面せられるべき技術的問題は、今まで蓄積せられてきた非経済学的社会科学者

(22)

21

たちの知識方法を、いかにしてこの問題(経済成長)の上に当てはめるかということであ る。(中略)経済学だけの形式的過程からはその強さや変動の道が演繹せられえないよ うな一連の変数を、経済分析のなかに残しておいてやっていく方が、より賢明である」

諸性向は、長期的な経済成長政策を形成するにあたって刺激するべき価値体系であ る。ロストウは、経済成長のためには人々の主体的態度が変化する必要があるという 基本的視野を理論に盛り込むために諸性向という概念を打ち出した。国によって発展度 合いが異なる理由を人々の主体的態度の違いに求め、それが社会的・文化的要因の 違いとなって現れ、経済発展に大きな影響をもたらすことから、どのような取り組みをす れば人々の主体的態度の変容を起こせるかに着目した。その帰結として、政策形成に おいては人々の主体的態度に目を向け、6 つの諸性向への作用を促すような国家戦略 と制度設計が必要であるとの主張が形成されたと捉える。

◇5 段階と諸性向

離陸の先行条件期から離陸に至る過程においては、都市人口を支えるための農業生 産性の向上と、商品作物や天然資源の生産拡大が図られる。そして、これらの部門か ら得られる外貨が増大し、社会的間接資本に投じられることが離陸の必須条件となって いる。社会的間接資本は収益創出までの懐妊期間が長く、また、私企業ではなく社会 全体に裨益するものであり、かつ、社会的間接資本への投資決定は成長への政府の 強い意思の表れであるためである。

ロストウは各国の成長分析をし、国民所得の一定割合(5%から 10%)が純投資に向 けられていることをもって、離陸の最重要要素であるところの社会的間接資本への投資 スタンスを測った。社会的間接資本の形成はそれ自体が発揮する意義以上に、派生的 な新規産業を生み出すきっかけとなることが、離陸理論では重視される。英国において は石炭、鉄、蒸気機関の進歩が、綿織物工業の国際競争力を高め、国際市場への展 開を導いたと評価し、米国、フランス、ドイツ、カナダ、ロシアにおいては鉄道敷設が最も 強力に離陸を始動させたと評価している。鉄道によって市場拡大と新市場開拓がなされ、

より多くの労働者を動員することが可能となり、鉄道産業誕生によって派生産業が生ま れ、その過程で蓄積される資本が新たな主導産業部門を生み出す源泉となる。

主導部門が派生産業を生み出し、それが礎となって新主導部門が生まれ、さらに新た な派生産業が生まれ、さらに高度な新主導部門が生み出されていくという成長の流れ

(23)

22

の速度、規模、運動量に影響を与えるのが諸性向である。

基礎科学(物理化学と社会科学)を発展させる性向と、経済的諸目的に科学を適用 する性向は、直接的には資本ストックの規模と生産性に影響を与えるほか、公衆衛生 水準、熟練労働者を育成するための教育水準、食生活の改善などへの作用を通して、

労働力の質量に影響を与える。

革新を受け入れる性向は、現在の主導部門からの余剰収益を一時的な快楽や贅沢 ではなく、工業化のための投資に向ける意思決定に作用するもので、新主導部門と派 生産業を生み出すうえで極めて重要だ。

最初の3つは物質的向上を求める性向の一部とみなすことができる。そして、それぞ れの性向の相互作用を政策によって促すことが求められる。例えば、基礎科学の発展 に多くの資源を利用する一方で、それを経済的目的に適用するために資源を利用しな い社会は、投資額に見合う成長を実現することが困難となる。また、物質的向上を求め る性向は、労働者の賃金欲求にも影響する。

諸性向が成長に及ぼす影響力の分析は、労働力と資本ストックの変化に影響を及ぼ す以下の助変数と関連付けて行なう必要があるとしている。

◇ロストウの経済成長メカニズム

ロストウは、国家の経済成長には伝統的社会、離陸への先行条件期、離陸、成熟へ の前進期、高度大衆消費社会の 5 つの発展段階があり、各段階において技術の利用 可能性向上、新たな価値観の導入、投資の拡大が図られて次の発展段階に進むとして いる。5つの段階は固定的なものではなく、例えばカナダでは高度大衆消費社会が技術 的成熟期よりも先に到来していたと判定している。

伝統的社会は「ニュートン以前の科学と技術とに基礎をおくとともに、外的世界に対 するニュートン以前的な態度に基礎をおいた、限られた生産関数の枠内に留まっていた 社会」である。歴史的には、ニュートン以前の中国諸王朝、中東及び地中海の文明、中 世ヨーロッパ世界をロストウは例示しているが、日本の中世期もこれに該当するとして いる。

(24)

23

先行条件期には、伝統的社会の生産方式、社会構造、価値観が残りつつも経済進 歩への考えの普及が徐々に見られ、近代科学の発見・発展によって農林水産業と工業 の新しい生産関数が出現する。これを世界で初めて実現した国は 18 世紀の英国であ る。日本の江戸時代後期から明治期はこれに該当する。この段階から離陸に進むため には中央集権的国民国家の建設が必要とされ、国家の方針のもと社会的間接資本の 整備が進むことが離陸につながる。この段階の投資率のベンチマークは 5%レベルとし ている。

離陸期には、技術革新と社会的・政治的価値観の転換によって成長に対する「古い 妨害や抵抗」が克服される。投資率は 10%かそれ以上への上昇に向かう。輸送インフ ラなどの間接部門整備などがきっかけとなって新たな工業部門が急速に発展し、その 利潤が派生部門に再投資されるサイクルが発生する。工業労働者への需要増と、労働 者の生活財需要の拡大が都市の発展を導く。企業・個人の貯蓄増加が民間セクターの 成長原資となり、新たな資源や生産方法が利用されるようになる。

成熟への前進期は、離陸が始まってからおおむね 60 年後に到達する段階である。

離陸を支えた主導部門が置き換わり、より高度な主導部門が形成される。近代技術と 組織的知識によって経済構造は持続的に進化し、世界経済に組み込まれていく。産出 高の伸びが人口増加を常に上回る段階になる。

高度大衆消費社会は、多くの資源が耐久消費財の生産に振り向けられる。1 人当た り所得が増えて消費が拡大し、それとともに耐久消費財産業やサービス産業が拡大す る。都市人口の増加と、工業労働者から熟練工業労働者や事務労働者への転換(移動)

が進む。さらなる経済発展への価値観が生まれるとともに、社会保障のニーズの拡大、

所得再配分への要求、労働者の待遇改善の要求が起きる。国家は成長と福祉のバラ ンスを保ちながら成熟していく。

参照

関連したドキュメント

(4) T.Nagasaka, K.Yubai, J.Hirai: “Design of Fixed Structural Controller Satisfying Robust Performance Condition on Nyquist Diagram” SICE Annual Conference 2011, FrC13–06 (2011.9).

[17]Jiuping Xu , Huan Zheng, Ziqiang Zeng , Shiyong Wu, Manbin Shen :Discrete time–cost–environment trade-off problem for large-scale construction systems with multiple modes

Effects of temporally heterogeneous flooding on survival and growth of current-year seedlings of a pioneer tree Pterostyrax hispida, in a mountain

Effects of the addition of Fe(III) particles on growth of JNT 01 and Synechococcus PCC 7002 During the growth of cells, Fe(II) changed to iron oxide particles in several hours and

発表題名: Improvement of flux pinning properties for hafnium doped Gd123 thin films fabricated by fluorine-free MOD method. 学会名: Applied Superconductivity

Yota Furuse, Yuji Kase and Shigeyoshi Goka, “Frequency Drift Detection Method Using Dual Alkali Gas for Coherent Population Trapping Atomic Clocks”, 2017 Joint Conference of the

Title:Removal of Ammonia Nitrogen in Raw Water by Magnetic Zeolite and High Gradient Magnetic Separation. Conference:Magnet Technology Conference (Oct. 2015, Seoul)

Takumi Ide, Shigeyoshi Goka, Yuichiro Yano, “CPT pulse excitation method based on VCSEL current modulation for miniature atomic clocks”, 2015 JOINT CONFERENCE OF THE