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1860 年代自由貿易下におけるブルゴーニュ小麦の市場再編

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Abstract

 This paper reveals a regional character of French cereals markets in the 19th century. The paper focuses on the regional responses to the market transformation led by the rise of cereals circulation. As for the archival source, the study depends mainly on an agricultural questionnaire launched in 1866 by the government.

 The Côte-d’Or cereals had been sold traditionally into the Southern France, especially around Lyon. However, this market faced a structural change in the middle of the 19th century: the imported wheat, especially low priced Russian wheat, threatened the grain markets of the Côte-d’Or.

 Coping with this crisis, it was the merchants of the Côte-d’Or that took initiative in opening up the new business for their wheat sales. Those merchants succeeded in reorganizing the market under the free trade regime, which as a result weakened the traditional economic ties between the Burgundy and the Southern France.

1860 年代自由貿易下におけるブルゴーニュ小麦の市場再編

―商人主導によるコート・ドール小麦の販路移転―

横山 直弘 *

はじめに

 本稿の目的は、1860 年の英仏通商条約以後、外国穀物、なかでも安価なロシア産小麦 が流入してきた 1860 年代を、19 世紀フランスの穀物流通の長期的変化の中に位置づける ことにある。とりわけ自由貿易体制下で地域間の関係がいかに変化したかに焦点を当てた い。

 本稿が採り上げる穀物取引に関して、フランスでは 1861 年に関税を引き下げることに よって国際的な穀物貿易に組み込まれて行くが、フランス北部ではイングランドに穀物を 輸出し、南フランスではロシアから小麦を輸入するなど、その在り方は一様ではなかった。

そのために関税政策の変化に伴い地域間の結びつきも変わったとみられる。外国との貿易

*

東京都立大学 大学院社会科学研究科経済政策専攻 博士課程

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は、重層的な市場統合に如何なる意味を持ったのか。19 世紀に進展する地域間価格差の縮 小は、フランス一国のみならず、より広くヨーロッパ全体で進行した。これはすなわち穀 物の取引が一国で完結していなかったことを意味する。同時に、この国境を越えた取引に は、流通拠点となる都市への集中と、従来とは異なる流通経路の形成というより下層の統 合があったのではないか。本稿ではこの点を具体的に一地方を採り上げて検討する。

 既存の 19 世紀フランスの穀物流通を社会史的に扱った研究にはいくつか問題点がある ように思われる。すなわち、研究の対象が世紀の前半までの時期にとどまっているという ことである

1

。保護主義が強かったこの時代に焦点を当ててきた結果、外国貿易がフラン スの穀物流通に与えた影響は、いささか軽視されてきたように思われる。そこで、19 世 紀フランスの穀物流通の問題を、世紀前半から世紀後半までの変化を連続的に捉え直し、

1860 年代のロシア小麦、1870 年代のアメリカ小麦の流入に、フランス農業がいかに対応 したかを検討することが必要ではないだろうか。

 社会史的研究でしばしば強調される「モラル・エコノミー」は、19 世紀後半には姿を消 すと考えられるが、その背後にある自由と規制の問題は、世紀後半も、自由貿易か保護貿 易かという形で存在する。英仏通商条約以後の自由貿易下で、外国穀物の流入が流通構造 にいかに影響を与えたのかについても考察する必要があるだろう。

 19 世紀のフランスでは、保護貿易から自由貿易へと緩やかに進み、その結実たる 1860 年の英仏通商条約、さらに世紀末のメリーヌ関税に象徴される保護主義への回帰と関税政 策は大きく変動する。そして穀物取引は常にその影響を被ってきた。しかしながら、モラル・

エコノミー論では民衆の輸出への抵抗といった議論がなされるだけであり

2

、その一方で、

輸出入の統計から農業を分析する立場では、地域的市場の議論が弱いのではなかろうか。

フランスの穀物流通において、伝統的に輸出が盛んな地域は北フランスであったが、本稿 では関税改正によって、フランスの東部地域での輸出が活発化したことを採り上げたい。

 ここで 1860 年代の農産物の貿易に関する研究を振り返ってみよう。フランス工業の停 滞の原因として農業成長の伸び悩みを指摘するベロック P. Bairoch は、1860 年代からの 自由貿易による農産物輸入の増加が国内市場におけるフランス農産物のシェアを奪い、そ れが農業成長を停滞させる原因となったと考える

3

。これに対してクーシー J. Coussy は、

貿易自由化によってフランス農業は輸出の機会も得たとする

4

。他方で、服部春彦は、統 計分析から、クーシーの主張は絹、棉花、羊毛、木材、皮革のような工業原料をも農産物 と見なしており、実際の食糧輸出はむしろ低下を見せていると反論している

5

。しかし、

服部の批判はフランス全国的な貿易統計に立脚しているという点を問題視したい。それが ために輸出入の動向の地域的差異が見過ごされてしまっているのではないか。

 以上の論点を踏まえて、焦点を当てるのはフランス中東部、ブルゴーニュ地方のコート・

ドール県とする。ブルゴーニュに関しては、レヴェク P. Lévêque の詳細な研究があり

6

(3)

日本でも市川文彦が扱っているが

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、地域内分析と地域間比較に重点が置かれ、地域間の 関係については関心が薄いようである。本稿では自由貿易体制への移行にともなって、地 域間の関係がどのように変化したかに注目する

8

。これまでの地域間関係の研究は、鉄道 や河川などによって形成されるものと考えられることが多く、市場取引を巡る「誰が」と いう主体を問題視することは少なかったように思われる。本稿で取り扱う地域間の関係と は穀物流通の生産地と消費地の結びつきであり、したがってその関係は取引を担う商人た ちによって形成されるものと考えたい

9

。そのため、穀物流通から地域間関係を考えるには、

農業生産者とその農産物を扱う商人達の双方の自由貿易への見解を見ていく必要があるの ではないだろうか。

 なお、本稿では、1866 年の政府によって行われた「農業アンケート」をまとめた Ministère de l’Agriculture, du Commerce et des Travaux Publics, Enquête Agricole, 1867-72. を中心的な資料として採り上げる

10

。同調査は、農商務公共事業省によって行 われた調査である。その目的は、英仏通商条約が農業に与えた影響について調査すること にある。したがって、フランスが自由貿易へと変化したことで、国内各地の農業がいかな る影響を受けたかを検討する本稿の目的に適した史料であると考えられる。

 調査では、いくつかの県をまとめて一つの調査地区 Circonscription としている。調査 地区は計 28 あり、コート・ドール県の場合、その北のオート・マルヌ県と南のソーヌ・エ・

ロワール県と合わせて 3 県で第 14 地区を構成する。さらに、コート・ドール県の場合では、

県内を 3 つの小委員会で調査している。各小委員会は地元の地主、農民、商人などの農業 関係者から証言を集める。またあらかじめ決められた質問の解答も作成する。これらに各 委員会からの報告が加えられてまとめられている。本稿は、主にこの証言と報告を用いて コート・ドール県の穀物流通問題を検討する。また、必要に応じて他県のアンケートも使 用する。また、このアンケートの他に、関税の改正前に行われた穀物流通の調査

11

も補足 的に扱う。

 以下本稿では、1 章で前提となる 19 世紀前半のコート・ドール穀物の流通について整 理し、続いて 2 章で 19 世紀半ばの変化を外国小麦の流入を中心に見た上で、3 章でその 変化に対するコート・ドール農業の対応について考察する。

1 19 世紀前半のブルゴーニュにおける穀物流通 

―ソーヌ・ローヌ軸を中心とした伝統的河川流通―

 まず、本稿で扱うブルゴーニュ地方、コート・ドール県の農業の特徴について、フラン スの他地域の農業、さらに外国農産物との競争という観点から見ていこう。

 この地域の農業の中心は穀物とワインのための葡萄生産、それに羊毛である。穀物の生

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産性において、コート・ドール県がフランスの中でどの程度の水準にあったのかを 1862 年の農業統計から見る。穀物の単位面積当たりの生産性は、フランスの全 89 の県のうち、

コート・ドールは 66 位とふるわない。小麦だけで見ると 59 位とやや順位を上げるものの それでも下位半分に含まれ、ヘクタールあたり 12.54 ヘクトリットル(以下 hl)の生産は 全国平均の 14.67hl よりも下である。コート・ドールにおいて小麦の次に比重の高いオー ト麦も、全国平均ヘクタールあたり 24.40hl に対し、コート・ドールは 19.75hl で 42 位 となっている

12

 しかしながら、耕作面積は広かったために、コート・ドール県の穀物余剰は決して小 さくない。小麦の総生産量は約 180 万 hl(全国の約 1.7%)で、これに対して消費は約 120 万 hl(全国の約 1.4%)である

13

。単純計算でおよそ 60 万 hl の余剰がある計算とな る。これはこの県の生産量の三分の一で、全国の生産量から消費量をマイナスしたものの 約 2.9% に相当する。逆に言えば、この余剰を他の地域に売ることができない限り、過剰 生産となってコート・ドール農業は破綻することを意味している。実際に、19 世紀半ば、

ほどほどの収穫であった 1832-1835 年と 1842-1845 年、コート・ドールからは一年に 50 万 hl から 75 万 hl 近くが他地域へと供給されていた

14

。この余剰穀物の流通は、19 世紀 半ば、とりわけ 1860 年の英仏通商条約と翌 61 年の穀物関税の変化を挟んで、大きく変 化する。まず、19 世紀前半までの流通について検討する。

 鉄道が発達するまで穀物の輸送の中心を担ったのは水上交通である。ブルゴーニュの穀 物はソーヌ川とその下流のローヌ川を介して消費地へと運ばれた。この河川流通で重要な 役割を担っていたのはソーヌ川に面するいくつかの小都市、たとえばグレー Gray(オート・

ソーヌ県)とサン・ジャン・ド・ローン Saint-Jean-de-Losne である。こうした河川港か ら小麦は南へ移出されたのである。

 中世末期以来、ブルゴーニュ小麦の伝統的な販路は、ミディ le Midi と呼ばれる南フラ ンス一帯、とくにリヨンを中心とするソーヌ川、ローヌ川流域だった。なぜならリヨンの 場合、周辺には平地が少なく穀物の耕作に適さない土地が多かったからである。リヨンは、

わずかにブレスやドーフィネなどの穀物を利用することができたにすぎない

15

。南フラン スでは夏の暑さのために三圃制が普及せず、二圃制が一般的だったために、ミディでは土 地当たりの生産性が低かったことも指摘できる

16

。したがって、フランスでは伝統的に穀 物価格は北部で低く、南部では高い傾向にあった

17

 このように、ブルゴーニュとミディの関係は穀物取引を通じて切り離せないものだった。

しかし、このミディは時代とともに他の地方からも穀物を調達するようになる。まず、17

世紀のミディ運河開通によって、ミディはトゥールーズ地方からも小麦を入手できるよう

になった。19 世紀に入ると、ミディでは生産性の低い小麦生産からゆるやかにではある

ものの葡萄栽培への専門化やオリーブなどの商品作物の導入が進み、外部への穀物依存が

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高まったものの、この不足はおもにトゥールーズ小麦や外国からの輸入によって補われた。

とはいえ、19 世紀の前半には依然としてブルゴーニュ小麦は重要な地位を占めていたの である。ブルギナ N. Bourguinat は「ブルゴーニュ、フランシュ・コンテ、ローヌ川地方 は、以前から繋がった部分集合 sous-ensemble を形成する。そのまとまりはローヌ・ソー ヌ軸によって与えられたものである。我々の時期にとって重要なことに、それは生産地域

(オーブ、オート・マルヌ、オート・ソーヌ、コート・ドール、そしてソーヌ・エ・ロワー ル)をリヨネの市場、さらにはローヌ川のミディとその多くの小さな主要都市と結びつけ た。そこにはいずれもマルセイユの小麦が同じくらいやって来る」と整理し、河川を通じ てのブルゴーニュとミディの穀物取引における一体性を強調する

18

 19 世紀前半まで、このようにブルゴーニュとミディで穀物需給の利害が一致していた背 景には、フランスが穀物に関して保護主義を採っていたことが大きい。当時、フランスは 国内の価格に連動して関税率を変化させるスライド関税制度 l’échelle mobile を採用して いた

19

。1819 年に導入されたとき、これは極めて高い水準に設定されていた。そのため 事実上穀物の輸入は禁止されていたも同然であった。したがって、ソーヌ川上流のグレー で売られ船積みされた穀物は、その輸送費にもかかわらず、マルセイユの後背地で立派に 外国小麦と競争できた。このように外国小麦の流入が限られた状況では、たとえトゥー ルーズ地方のようなフランスの他の地方との競争があったとしても、ブルゴーニュの穀物 は大きな力を持っていた。しかしブルギナは 1817 年から 1847 年の間に、ソーヌ川・ロー ヌ川の流通はブルゴーニュとフランシュ・コンテの穀物の南下という流れから、マルセイ ユからの輸入穀物の北上へと逆転したとしている

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。保護関税は何度か修正されて切り下 げられ、40 年代、50 年代の食糧危機の際には一時的に停止された。こうした自由貿易へ の流れはヨーロッパ全体で連動したものだった。フランスのスライド関税制度と同じよう なシステムを持っていたイングランドの穀物法が 1846 年に廃止されると、穀物貿易の自 由貿易への流れは決定的となった。そして 1860 年に英仏通商条約が結ばれると、翌年、

1861 年 6 月 15 日の法律によって、フランスはスライド関税制度を廃止し、小麦の輸入関 税は、フランス船、もしくは陸路での輸入では 100 キログラムあたり 60 サンチーム、外 国船での輸入では 1 フラン 20 サンチームという低い水準に固定された

21

。フランスの貿 易政策の変遷とともに、外国穀物の流入は拡大してきたのである。

 さらに、こうした外国小麦の流入を支えた要因として、交通の発展がある。

 19 世紀において、しばしば鉄道によって大量輸送が実現したかのようにいわれるが、輸

送費用の観点によれば、ブルゴーニュ小麦の南への販売において、鉄道が河川中心の流通

を劇的に変えたとはいえない。鉄道では駅から駅までしか運べず、結局は馬車を用いる必

要もある。1850 年代の例を挙げよう。商人がマルセイユでロシア小麦を買い付けリヨン

へ輸送する場合、小麦の価格にもよるが hl あたり水路では 2.03 フラン、鉄道で 2.37 フ

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ランとなっている(いずれも買い付けに伴う手数料などを含む)。なおこの小麦にはオデッ サからマルセイユまでに 2.05 ~ 12.23(ばらつきが大きいが通常は 4 ~ 5.5)フランかかっ ている

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。また、ブルゴーニュ小麦をリヨンに送る場合は、ディジョンからリヨンの輸送 費はキログラム当たり水路 0.80、鉄道 0.96 フラン、ソーヌ川の河川港グレーからリヨン だとそれぞれ 0.90、1.18 フランである

23

 しかし、上に述べた費用の比較は、小麦を河川の流れにまかせて南下させる場合のもの である。マルセイユで輸入された外国小麦を北上させるには、河川の流れとは関係なく輸 送できる鉄道が有利であった。さらに、逓減運賃のシステムを採用している料金体系は、

重量が重く、距離が長いほど費用が抑えられる制度だった。外国小麦は当然国境地帯から の移動となるから、フランス産の農産物より基本的には移動距離が長くなる傾向にある。

したがって、距離が長いほど有利なこの料金体系は外国小麦の輸送に有利に働いた。たと えば、農業アンケートのある証言者は、小麦 1 キンタル、つまり 100kg を、マルセイユ からコート・ドール県の都市モンバールまで運ぶのに 3 フランかかるが、同じ 3 フランの 料金でモンバールよりも 240km 遠く離れたパリまで運ぶことができると指摘している

24

。 さらに、この料金体系は非常に複雑であったため、コート・ドール農業関係者は恣意的で 分かりにくい、と不公平感を募らせている。

 また、河川交通においても蒸気船の登場によって、小麦を北上させることが容易になっ た。これは、とりわけ増水する冬場に困難だったソーヌ川とローヌ川を、蒸気船によって 遡ることができるようになったため、外国小麦の内陸への供給を助けたのである

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。  このようにして流入してきた安価な外国小麦は、ブルゴーニュ産の小麦にとって強力な 競争相手となった。次章では、外国小麦の流入拡大に対してコート・ドール農業がいかに 対応したのかという点について検討する。

2 外国小麦流入のブルゴーニュ農業への影響 

―関税撤廃による南仏市場の喪失―

 本章ではこの自由貿易に対するフランス農業関係者の多様な反応を見ていくことにした い。地域的に見た場合、フランス北部では自由貿易が支持されていた。高い生産性を持つ 北部は穀物をイングランドやベルギーに輸出していたからである。またフランス南部でも、

不足しがちな穀物を安く入手できるようになったので自由貿易が歓迎された。しかし、ブ

ルゴーニュをはじめとする中部地域では事情が異なった。これらの地域はこれまで穀物の

余剰穀物を他地域に売っていたが、その生産性は安価な外国小麦に太刀打ちできなかった

のである。外国小麦は穀物価格を押し下げ、ブルゴーニュ農業を圧迫した。流入する外国

小麦で、もっとも怖れられたのは、安価なロシア小麦であった。1858 年の穀物輸出入相

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手国は表 1 である。輸入のほぼ半分をロシア産穀物が占めている。さらに、輸入国相手国 の多くが地中海沿岸とロシアであり、外国小麦は南仏の港から流入していたことが明らか である。またこの表からは、輸入の多くは小麦のままで行われ、製粉はフランス国内で行 われていたことが分かる。ロシア小麦は黒海沿岸のオデッサの港から送り出され、フラン スの地中海岸の港、とりわけマルセイユで荷揚げされてミディに流通した

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。その一方で、

輸出相手国はイングランドやベルギーなどフランスの北に位置する国が多く、輸出は北部 の港から行われていたことが窺える。

 外国小麦の流入に関してコート・ドールにおいて訴えられている主な論点は、次の四点 である。

1.以前はミディはブルゴーニュやフランスの南西部、中部から小麦を購入していた。

2.しかしミディの市場は外国からの輸入によって、取って代わられた。

3.輸入はフランスの南部で行われ、輸出は北部で行われており、フランス中部は損害を 受けている。

4.小麦の輸入の際、保税品輸出許可証が悪用されている。

 ここでは外国小麦がミディからブルゴーニュの市場をいかに変化させたかを農業アン ケートの証言から検討しよう。

表1

1858年の穀物輸出入相手国 単位:キンタル

輸入

小麦粉

小麦とメテイユ ライ麦 トウモロコシ 大麦 オート麦 合計

ロシア 658,390 10,799 2,732 23,173 354,274 1,049,368 10,048 トルコ 321,269 17,457 67,337 88,654 33,366 528,083 8,820 アルジェリア 228,725 119 2,212 11,580 5,900 248,536 646

サルデーニャ 45,020 92 4,738 1,546 5,888 57,284 3,365

両シチリア 29,018 2 13 29,033 40

その他 98,355 4,823 3,795 41,825 125,397 274,195 27,348 合計 1,380,777 33,290 80,816 166,791 524,825 2,186,499 50,267 輸出

小麦粉

小麦とメテイユ ライ麦 トウモロコシ 大麦 オート麦 合計

イングランド 1,767,269 24,697 88,310 401,899 17,634 2,299,799 856,103

ベルギー 508,418 262,585 64,990 4,984 840,977 82,371

スペイン 258,273 1,818 13,095 2,694 117 275,997 112,789 ドイツ 182,629 98,209 680 16,430 33,396 331,494 19,875

スイス 123,858 711 835 20,786 27,300 173,490 64,913

その他 71,393 40,148 8,016 17,138 17,679 154,334 177,072 合計 2,911,840 428,168 110,936 523,937 101,110 4,076,091 1,313,123 Conseil d'Etat, op.cit ., I, p. 425.

穀物

穀物

表 1 1858 年の穀物輸出入相手国

単位:キンタル

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 まず生産者の競争観・価格認識についてみる。質問 149「スライド関税制度の排除によっ て生じた結果は何か、また、1861 年 6 月 15 日法以来、今日我々の外国との穀物の輸入と 輸出の取引を管理する法律の影響は何か?」に対するディジョン郡の回答によればを見る と、とりわけこの数年、関税の変化によって一層競争は深刻になったと認識されていたよ うである。コート・ドール農業は、穀物価格は生産費よりも低くなっていると不平を述べ る

27

。この点に関して、農業アンケートにおける証言を見る(証言者の構成は表 2)。穀物 価格低下の原因としてあげられるのは、豊富な収穫と外国小麦の流入である。たとえば、

ある証言者によれば小麦の生産には 19.5 フランかかるとされているが

28

、当時の小麦価 格は、収穫の少なかった 61 年、62 年はこれを上回っていたものの、その後低落し、66 年後半から再び上昇するまでの数年間は 16 フランから 18 フラン程度となっている(図 2)。

したがって、この証言者はフランス穀物が外国小麦と公正に競争するために必要な補償と して、一定の保護関税が必要だと指摘する。ただし、以前のようなスライド関税制度は価 格の変動を大きくするものだとして、固定関税を望んでいる。他の証言でもやはりスライ ド関税制度は反対されることが多く、固定関税の水準は hl あたり 1.5 ~ 2 フラン程度となっ ている。hl あたり 2 フランという水準は年によって違いはあるものの穀物価格のおよそ 10% 前後に相当する。この税率は小麦価格と生産コストを比較するとそれほど過剰なもの ではない。県全体では 52 人の証言が記載されており、ワイン生産に重点が置かれている ボーヌ郡では関税の修正を求める声が少ないなど多少の地域的な差が見られるものの、ほ とんどの証言者が何らかの形で穀物に関して触れており、その大部分が現状に不満を持っ

表2

 コート・ドール県の証言者構成

ディジョン郡 シャティヨン郡 スミュール郡 ボーヌ郡 合計

地主 3 1 3 7 13.5 %

農民 7 1 4 12 23.1 %

農業機関役員 7 2 2 2 13 25.0 %

コミューン長 1 1 3 5 9.6 %

法律専門家 2 2 3.8 %

商業関係者 1 3 4 7.7 %

銀行家 1 1 1.9 %

不明/記載無し 2 1 4 5 12 23.1 %

%

合計 19 6 12 15 52 100.0 %

%

穀物に言及あり 15 6 10 12 43 82.7 %

穀物の現状に問題あり 12 6 9 9 36 69.2 %

関税の修正を希望 10 4 8 5 27 51.9 %

Enq. Agric. , 2e Tome14, op.cit., pp. 185-219.

もいるため、足し合わせても必ずしも合計人数とは一致しない。

コミューン長は元コミューン長や補佐を含む。地主かつ農業機関役員といった二重の属性を持つ人物

表 2 コート・ドール県の証言者構成

コミューン長は元コミューン長や補佐を含む。地主かつ農業機関役員といった二重の属性を持つ人物もい るため、足し合わせても必ずしも合計人数とは一致しない。

Enq. Agric. , 2e Tome14, op.cit., pp. 185-219.

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ていると言える

29

。証言者の多くは、農業関係者であり、消費者としての側面よりも生産 者としての立場から発言を行っていることは事実であるが、ここでは生産コストと価格の 比較といった議論が展開されており、これらの主張の中に生存権に配慮したモラル・エコ ノミー的な価格決定といった主張は見られない。しかしながら、一方的にフランス農業の 保護を訴えて関税を要求しているのではなく、あくまで外国小麦との公正な競争を訴え、

公平性を主張している点は注目すべきであろう。

 次に外国小麦の流通の実態はどうだったのだろうか。確かに、フランスの南海岸で輸入 された外国小麦の流入は、内陸のコート・ドール県にまで及んだ。同県においても地元産 の小麦と外国小麦との競争が生じている。その地方の市場での外国小麦の影響についての 質問に対し、ディジョン郡もボーヌ郡も競争が激しくなったと回答している。しかし、そ の競争はそれほど深刻ではなかったのではないかと思われる。というのは、同じ質問にシャ ティロン、スミュール郡は、「ロシアの小麦は時々この地に来る。しかしそれは相場が非

図2 1861年7月から1867年11月のフランスの小麦輸出入及び平均価格

Ministère de l’Agriculture, du Commerce et des Travaux Publics, Enquête Agricole, Rapport, 1868, pp. 186-187. より作成

1) 小麦価格は、61年後半を境に低下に向かい、63年後半から20フランを下回る。66年後半から再 び上昇するまでの数年間は16フランから18フラン程度となっている。

2) 小麦価格と輸入量には明確な連動が見られる。小麦価格が上昇すると輸入量は増加する。輸出量に はそれほどの相関性はないが、価格が低下すると輸出量が増加している。

図 2 1861 年 7 月から 1867 年 11 月のフランスの小麦輸出入及び平均価格

Ministère de l’Agriculture, du Commerce et des Travaux Publics, Enquête Agricole, Rapport, 1868, pp. 186-187. より作成

1) 小麦価格は、61 年後半を境に低下に向かい、63 年後半から 20 フランを下回る。66 年後半から再び上 昇するまでの数年間は 16 フランから 18 フラン程度となっている。

2) 小麦価格と輸入量には明確な連動が見られる。小麦価格が上昇すると輸入量は増加する。輸出量にはそ れほどの相関性はないが、価格が低下すると輸出量が増加している。

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常に高いときだけである」とその影響が限定的であることを指摘しているからである。

 むしろこの証言は、不作の際に外国小麦が不足を補っていたことを示しているのではな いだろうか。実際に統計を見ても、輸出入はフランスの収穫量や価格に連動していること が窺える(図 2)。19 世紀の前半まで、食糧不足の際に度々見られた穀物の移出、輸出に 反対する食糧暴動はもはや見られなくなるが、これは不足時には外国小麦をあてにできる という事実があったからと思われる。

 コート・ドール農業にとって問題だったのは、地元市場での競争ではなく、これまでの 販路であったミディの市場が安価な外国小麦によって奪われることであった。シャティヨ ン、スミュール郡は、 「外国の輸入穀物は普段は我々の生産物と直接は競争しない。しかし、

我々が売っていた市場における我々の地位を奪うために来る。とりわけフランスの南部に おいて。対策のための処置は難しい。しかし競合は我々の農業を損なうのに充分であった」

とミディでの厳しい競争を問題視しているのである

30

 かくしてコート・ドール小麦はミディでの競争に敗れ、対策を迫られた。1860 年代の コート・ドール農業にとって最大の課題は、この安価な外国小麦の流入にいかに対処する か、であったといえる。

3 コート・ドール農業の対応 ―アルザス・スイスへの進出―

 2 章で検討してきたように、生産性に劣っていたコート・ドールの小麦は、安価なロシ ア産の小麦との競争に敗れ、ミディの市場からの撤退を迫られた。小麦が競争に負けるの であれば他の作物はどうか。短期的に見た場合、コート・ドールでは他の作物への転作は 難しかったと言える。なぜなら多様な商品作物を生産していたフランス北部に比べ、この 地域では農業の選択肢が限られていたからである。コート・ドールの重要な作物は、穀物 のほかには葡萄つまりワインと羊毛である。ワインは穀物とは逆に自由貿易によって販路 を広げることに成功した。例えばベルギーである。コート・ドール県におけるワインの流 通を扱う会社の設立数は 1830-50 年に 9%、1850-59 年に 11.7%、1860-69 年に 17.4%、

1870-95 年に 18.5% と順調に成長した

31

。しかしながら葡萄生産は条件が限られ、葡萄 に適した土地の多くはすでに葡萄畑となっていた。コート・ドールの小麦の耕地のすべて が葡萄栽培に切り替えられたわけではない。小麦以外の穀物ではオート麦の生産が比較的 多く、主に家畜の飼料としてやはりミディに送られていたが、同時代におけるフランスの 穀物は小麦が主流であり、小麦以外の穀物の重要性は低いものだった

32

 したがって、コート・ドール農業はあくまで小麦を売る必要があった。ミディで売るこ

とができないのであれば、別の市場を探すしかない。各国と結んだ通商条約がさまざまな

農産物にどのような影響を与えたかという質問(質問 152)に対して、ボーヌ郡は、穀物

(11)

に関しては「販路の移動 déplacement des débouchés」と回答している

33

。外国農産物 の流入に対して、コート・ドール農業は短期的にはミディとは別の市場を求めることで切 り抜けようとしたのである。

 1860 年代のコート・ドールの穀物流通にとって重要な変化は、アルザスやスイスといっ た東方への進出である。既に見たように、コート・ドール県では農民や地主など、農業関 係者の多くが外国小麦の流入を危機として捉えていた。その一方で、少数の証言者は、穀 物価格の水準はそれほど深刻ではないと考えている。それはワイン生産や牧畜など穀物以 外を重視する人々や、この事態をむしろ新しい取引の機会として認識した商人たちである。

たとえば、ディジョンの穀物卸売商であるバソ Bassot

34

は、1861 年の法律を歓迎する。

彼は「フランス穀物の価格が非常に高いとき、ミディの市場はコート・ドールの生産物に 対して閉ざされていると認め」、ミディでの取引が厳しくなったことは否定しないものの、

「価格が程々で収穫が豊富なときには、ディジョンの卸売商はロシアから来る小麦と競争 することができる」とし、「以前通りマルセイユとローヌ周辺の市場に多くの小麦を送っ ている」と述べている。さらに彼は、1861 年の法律は「ミディに関してはコート・ドー ルの状況を変えず、その上スイスの市場をその生産物のために開いた」として、むしろ新 しい市場へ進出する要因となったと指摘しているのである

35

 このブルゴーニュ小麦の東方への進出は、おもに鉄道によって行われた。1842 年に、

パリ-リヨン-マルセイユを結ぶ P.L.M. 鉄道がディジョンを通る路線で決定し、49 年 6 月にまずディジョン-シャロン間が開通、さらに 51 年にパリ-ディジョン間が運行した。

そして 1850 年代に整備される P.L.M. 鉄道のアルザスやスイスに向けての支線は、コート・

ドールの農業が新たな市場へと進出する前提となった。1840 年代には既にディジョンと ミュルーズを鉄道で結ぶことの有効性が議論されており、その中では農産物輸送の問題も 検討されているが

36

、1850 年代後半にこれらの鉄道が完成したことによって、ようやく 条件が整ったといえる

37

。穀物商人バソによれば、バーゼルへの輸送費用は 100kg あたり 1.25 フランにスイスの 30 サンチームの税であり、2.7 フランかかるマルセイユまでより も費用は安いということである

38

。また鉄道に関しての質問 129 では、いずれの郡もまず 第一にパリからマルセイユまでの鉄道を挙げるが、それに続く支線や今後の敷設を希望す る路線はいずれも東方を意識したものである。たとえばディジョンからフランス東部のス イス国境の町ベルフォール Belfort まで引かれた鉄道である。これはさらにミュルーズま で延ばされる。また県内のオーソンヌから、東隣のオート・ソーヌ県のグレーへの路線が ある

39

 農業アンケートでは、鉄道は販路を広げるものであるとして肯定的に評価されている。

かつてのようにモラル・エコノミー的立場から穀物が域外へ出ることに反対する意見は見

られない。むしろ、鉄道の敷設が遅れることで地域が発展から取り残されてしまうことを

(12)

懸念する声がある

40

。コート・ドール農業 は、ミディという伝統的市場を失いながらも、

こうした交通網を利用してフランスとスイス の国境地帯へと進出し、その市場は国境を越 えて再編された

41

。19 世紀の交通網の発達 はそれまでの地理的な制約を打ち破る要因と なったのである。

 ここで、コート・ドールの周辺地域の見解 にも目を向けてみよう。コート・ドール県よ りもスイスとの国境に近いオート・ソーヌ県

は、1861 年の関税改正によってリヨンと南フランスの市場を失ったと認めつつも、それ はこの県にとって不利益とはなっていないとしている。なぜなら、この法律と鉄道の敷設 とによって、スイスへの輸出が容易になったからである

42

。ソーヌ川を軸とした伝統的な 穀物の河川流通で重要な役割を果たしてきたこの県の都市グレーは、ディジョンの発展と ともに 1840 年から 1850 年代にかけてその地位を後退させていた

43

。しかし 1860 年代 になると、この都市は今度はスイスへの輸出拠点として再び勢力を取り戻す。アンケート に対して、「この地はかなりの量の小麦をスイスに輸出している。その輸出は特にグレー のところにおける商取引で増加した」として表 3 を示している

44

。同表は、1860 年代に おけるこの地での取引量の著しい増加を表しているだけでなく、同時に、その輸送手段が この間に水路から鉄道へと移行したことを明確に示している。水運は主にソーヌ川による ミディへの移出であるのに対し、鉄道ではスイス、ドイツへの輸出が重要な地位を占める ため、水運から鉄道への移行は単なる輸送手段の変化だけではなく、販路の移動をも意味 している。グレーの穀物商ピシャ Pichat の証言によれば、「1861 年以前、我々の取引は 関税の変動のために安心を享受しませんでした。現在の法律の影響下で、我々は何をすべ きか心得ています。我々はスイスに多くの生産物を送ります。この地域は、少なくとも、我々 のところの商取引の平均 450,000 キンタルの小麦粉、ライ麦、オート麦の半分を受け取っ ています。かつてはもっぱらミディに送っていたのに対し、3 年前から、我々はこの地域 に食糧を供給しています」。そして「我々は当県よりもロレーヌとブルゴーニュで買い込 みます」と、その穀物がコート・ドールからも来ていることを示唆している

45

 次にアルザスの状況を見てみよう。山地によってロレーヌ、ブルゴーニュ、フランシュ・

コンテといった穀倉から切り離されていたため、アルザスの農民は長く高価格の恩恵を受 けてきた。しかし 19 世紀半ばには鉄道や運河によってこれらの地域の小麦との競合が生 じるようになった

46

。オー・ラン県のコルマールの農業共進会は、外国小麦によってミディ を追い出されたフランシュ・コンテとブルゴーニュの小麦が流入した結果、近隣の県との

表3

グレーにおける穀物の動き

 (商業会議所の作成した統計から抜粋)

単位:トン

水路 鉄道 合計

1859 26,678  -   -  1860 11,412 10,069 21,481 1861 11,563 17,225 28,788 1862 12,838 20,091 32,929 1863 28,736 32,822 61,558 1864 24,851 47,929 72,780 1865 18,349 42,311 60,158 Enq. Agric. , 2e Tome26, op.cit ., p. 440.

表 3 グレーにおける穀物の動き

(商業会議所の作成した統計から抜粋)

単位:トン

Enq. Agric. , 2e Tome26, op.cit ., p. 440.

(13)

間で価格が平準化されたと述べている

47

 関税改正前の 1850 年代の状況に関して、アルザスのオー・ラン県の銀行家であるオス ワルト Oswald は、収穫不足の場合にはバイエルンのフランケン地方やロレーヌ、ブルゴー ニュから小麦を調達していると述べており、既にコート・ドール小麦の流入が始まってい たことを示している。彼は、小麦の取引はアルザスにとってよりも、バーゼルからジュネー ヴにかけてのスイスにとってより重要だと考える。それにも関わらず、スライド関税制度 の不安定性はしばしばその輸出を妨げていた。彼は、豊作時には輸出関税が負担となった 一方で、不作時には陸路での輸出が事実上禁止されるためにスイスはマルセイユへの依存 を増し、その結果フランス全体の価格上昇を助長したと主張する。さらに地域ごとに異な る関税が用いられていたため、わざわざ鉄道や運河を使って税率の低い遠方の税関から輸 出することもあった。例えば 1847 年には地元サン・ルイ Saint-Louis では輸出関税が 8 フランと高い水準であったために、ミュルーズからブルゴーニュに運河で運び、約 40km 離れたデル delle から 2 フランの税で輸出されたのである

48

 関税の改正によってこれらの障害は取り除かれ、フランス東部とスイスの穀物市場の取 引は活発化した。ブルゴーニュ小麦はこの地域への進出を強めたのである。コート・ドー ル県で輸出に積極的だったのは県の東部である

49

。北隣のオート・マルヌ県でも同様に販 路の移動が見られる。この県の穀物は、これまでミディ向け小麦の積込港であったオート・

ソーヌ県のグレーに集められていたが、ミディを外国小麦に奪われた結果、その穀物はグ レー経由でヴォージュ、スイス、アルザス、ベルギー、時にはドイツへと進出することとなっ た

50

 以上の過程によれば、ブルゴーニュ農業は外国小麦の流入による伝統的な市場の喪失と いう危機に直面したにもかかわらず、商人たちはこれを積極的に新たな販路を開拓する機 会と捉え、新たな鉄道や運河を用いることで柔軟に対応することができたと言うことがで きるように思われる。その際、穀物商人たちはパリをはじめとするフランス国内の市場よ りも、より利益の得られるスイスへと販路を展開した。これまでの自由貿易はフランスの 穀物取引を国際取引の中に組み込んだが、その組み込まれ方はフランス北部、南部、中東 部でそれぞれに異なっていたのである。

 ただし、このように自由貿易によって恩恵をこうむった商人層の利益が、地主や農民た ちにまで還元されたかどうかという点については今後の研究課題である。英仏通商条約に 関しては工業と農業に対する影響が分析されてきたが、その流通を担う商人層への影響は 両者と同一視され明確にされて来なかったように思われる。コート・ドールの多くの農業 関係者が保護を求める中で、大規模な穀物商だけが自由貿易を支持していることを鑑みる と、この点は再検討が必要なのではなかろうか。また、新たな販路を求める商人たちが、

その前提となる鉄道路線の決定に、どれだけの影響力を持ち得たのかについても議論の余

(14)

地があるように思われる。

おわりに

 自由貿易を巡っては、論点を小麦という単一の商品に限定しても、フランス内で地域的 な利害の違いが存在した。恒常的に小麦が不足していたフランス南部は、自由貿易によっ て、穀物をブルゴーニュ産の小麦よりも安価で入手することができるようになった。また 農業生産性が高く、余剰を輸出していた北部でも自由貿易は利益になった。これに対して、

コート・ドール県を含む中部地域では、本来の市場を失い大きな打撃を受けた。フランス 北部の余剰穀物は南部には向かわず、また南部の港で輸入された小麦も南部の市場で消費 され北部の輸出とは無関係だった。このように、穀物という商品自体は全国的な流通を持っ ていなかったのである。

 本稿であつかったブルゴーニュでは、国外であってもスイスのように近接する地域と小 麦取引の利害が一致した。外国小麦の流入によってミディの市場を失ったにも関わらず、

バソのような穀物商たちはこうした地域を積極的に新しい市場として開拓することに成功 した。政府の関税政策や交通の発展はこの流通再編の前提となったが、そこにミディとス イスの市場を天秤にかける商人の活動を無視することはできない。地域間関係は単なる交 通要因によって形成されるのではなく、こうした需給に応じた人々の結びつきによって形 成されると考えるべきであろう。市場統合は重層的で、中心都市ディジョンや河川港グレー への取引の集中といったブルゴーニュ地方レベルで統合があり、そのブルゴーニュ経済は 関税政策や交通の変化に応じて、ミディやスイスとの結びつきを巧みに組み替えたのであ る。

 以上のように、保護主義から自由貿易への転換に対して、コート・ドール農業は、ソー

ヌ川・ローヌ川によって結びついた伝統的な市場から、東方の新しい販路へと変更するこ

とで柔軟に対応した。自由貿易体制下、フランスが穀物の国際的貿易網に組み込まれてい

く中で、伝統的なブルゴーニュ-ミディという経済的結びつきは弱まり、これまでとは異

なるブルゴーニュ-アルザス・スイスという経済圏が形成されたのである。

(15)

地図 1 ブルゴーニュを中心とするフランス東部の穀物流通

地図2 コート・ドール県

地図 2 コート・ドール県

(16)

1 研究者によって、最後の大規模な食糧暴動と二月革命の 1846-48 年、第二帝政の始まる 1852 年、英仏通商条約の 1860 年と重視する年に若干の相違は見られるものの、いずれも世紀半ば の時期を転機としてとらえている。たとえば Bourguinat, N., Les grains du désordre, Paris, 2003. 小田中直樹『フランス近代社会 1814 ~ 1852』(木鐸社、1995 年)。

2 例えば社会経済政策の面から穀物流通を考察する小田中は、穀物流通政策と共同地処分政策か らモラル・エコノミー的な民衆の生存権に対する配慮が 19 世紀前半に消滅する過程を分析し ている。しかし、これらの国内政策に注目したために、国外との関係に関しては穀物輸入が民 衆の不満を和らげた可能性を指摘するにとどまっている。小田中、前掲書。

3 Bairoch, P., Commerce extérieur et devéloppement économique : quelques enseignements de l’expérience libre-échangiste de la France au XIXe siècle, Revue Economique, Vol. XIX, n. 1, 1970, pp. 1-33.

4 Coussy, J., La politique commerciale du Second Empire et la continuité de l’évolution structurelle française, Cahiers de l’ISEA, Série P, n. 6, 1961, pp. 1-47.

5 服部春彦「フランス第二帝政下における貿易自由化と経済発展」(名古屋大学文学部『研究論集』、

59 号、1973 年 3 月)、20 頁。

6 Lévêque, P., Une société provinciale: La Bourgogne sous la monarchie de Juillet, Paris, 1983., idem. Une société en crise: La Bourgogne au millieu de XIXe siècle (1846-1852), Paris, 1983.

小麦の年間平均価格 コート・ドール県および全国平均

単位:フラン/ヘクトリットル

Labrousse, E. et als. ,

Le prix du froment en France 1726-1913

, Paris, 1970. pp. 17-18, 84-85.

より作成

図 1 小麦の年間平均価格 コート・ドール県および全国平均

単位:フラン/ヘクトリットル Labrousse, E. et als. , Le prix du froment en France 1726-1913, Paris, 1970. pp. 17-18, 84-85.より作成

(17)

7 市川文彦「19 世紀ブルゴーニュ地域における工業成長過程―近代フランスの地域経済 構 造 Ⅱ―」(『大阪大学経済学』、第 42 巻第 3・4 号、1993 年 3 月)。

8 この点で、これまでの国民経済論の観点からの産業革命研究を批判し、国境を越えた経済圏に ついて分析する渡辺尚らの研究は興味深い。渡辺尚は、ライン川流域の分析において「原経済圏」

という概念を用いる。原経済圏とは自立的・資本制経済圏を指し、その経済圏の空間を規定す る際に河川交通が決定的な役割を果たしたとする。産業構造の不安定性を指摘しながら、地理 的要因を挙げて経済空間の安定性を強調している。渡辺尚『ラインの産業革命―原経済圏の 形成過程』(東洋経済新報社、1987 年)。しかしながら、本稿で取り上げるブルゴーニュの穀物 流通の事例を見る限り、経済空間の結びつきは市場の状況に応じて変化しうるものであったと考 えられる。交通の発展によって、河川以外での結びつきが機能するようになってきたからである。

9 こうした商人の役割を積極的に評価した研究としては、ワインの流通に関する問屋のマーケ ティング活動を分析した柳敦「19 世紀末フランスにおける葡萄酒産地問屋のマーケティン グ活動―ラングドック葡萄酒の全国市場進出―」(『経営史学』、第 27 巻 1 号、1992 年)

1-28 頁がある。柳は、鉄道によって成立した全国市場に対する各地の対応について、先行研 究が生産面に関心を集中させ、流通面の分析が遅れていることを指摘している(1-2 頁)。

10 農業アンケート Ministère de l’Agriculture, du Commerce et des Travaux Publics, Enquête Agricole, 1867-72. Deuxième Série. Enquêtes Départementales. 14e Circonscription.

Haute-Marne. - Côte-d’Or. - Saône-et-Loire. , 1867. (以下では Enq. Agric., 2e Tome14.

と略記)

11 Conseil d’Etat, Enquête sur la révision de la législation des céréales, I,II. , Paris, 1859.

12 Ministre de l’agriculture et du commerce et des travaux publics, Statistique de la France.

Agriculture. Résultats généraux de l’enquête décennale de 1862, Berger-Levrault, 1870, pp. ix-xj.

13 Ibid., pp. 4-9.

14 Lévêque, P., Une société provinciale, op.cit., p. 179.

15 中世末期から近世にかけてのリヨン周辺の穀物不足とその調達については Usher, A. P. , The History of the Grain Trade in France, Cambridge, 1913, pp. 128-129.

16 ブルゴーニュは二圃制と三圃制の耕作方法のフランスにおける南北の境界上にある地方であ る。したがってコート・ドール県では三圃制が普及しているが、その南に隣接するソーヌ・エ・

ロワール県では二圃制が主流である。Lévêque, P., Une société provinciale, op.cit., p. 572.

17 中部地域にあるコート・ドールでは、穀物価格はほぼ全国平均と同じ水準にあり、しかも変動 のタイミングも一致している(図 1)。

18 Bourguinat, N., op.cit., p. 33.

19 関税制度に関しては Amé, M. , Étude sur les tarifs de douanes et sur traités de commerce, 2 vol. , Paris, 1876. を参照。アメは自由貿易主義者であり、 議会における穀物関税の議論にも加 わっている。 関税制度の研究は工業の原材料と製品に重点が置かれることが多いが、当時の問題 関心としては穀物関税は非常に重要な論点であった。

20 Bourguinat, N., op.cit., p. 34.

21 外国船での輸入に関しても、後にフランス船と同じ水準に改められた。

22 Conseil d’Etat, op.cit., I, pp. 412-416.

23 Conseil d’Etat, op.cit., I, pp. 412, II, p. 322. その他の諸経費を加えると、2.75 フランほどに なり、マルセイユ-リヨンの場合とほぼ同じ水準である。

(18)

24 Enq. Agric. , 2e Tome14, op.cit., pp. 201-202.

25 Bourguinat, N., op.cit., p. 37.

26 なお、ロシア側から見た穀物の輸出に関しては冨岡庄一『ロシア経済史研究 19 世紀後半~

20 世紀初頭』(有斐閣、1998 年)に詳しい。

27 Enq. Agric. , 2e Tome14, op.cit., p.235.「農業アンケート農業共進会 comices が存在する 6 の小郡のうちの 1 つ、Genlis の農業共進会は現在のその法律を歓迎する。他の 5 つは、スラ イド制の廃止以来、穀物価格は生産のための原価以下に低下したと不満を述べる。中央委員会 はこれらの後者の 5 つの小郡と意見を共有する」

28 ディジョン郡の Thénard 男爵、Fontaine-Française 共進会の副会長の証言。Enq. Agric. , 2e Tome14, op.cit., p.186.

29 Enq. Agric. , 2e Tome14, op.cit., pp.185-199.

30 Enq. Agric. , 2e Tome14, op.cit., p. 246.

31 Caron, F. , ‘Commerçants et industriels de Côte-d’Or XIXe siècle vus à travers les actes de sociétés’, in Caron, F. et als. , Études d’histoire économique au XIXe siècle en Côte-d’Or, Société des Annales de Bourgogne, Dijon, 1984, p. 98.

32 Châtillon-sur-Seine の農業共進会会長である Maître は、「北部は砂糖のための甜菜、菜種、亜 麻、煙草などなどを生産します。北部にとって、穀物は二次的なものに過ぎないのです。ブル ターニュとノルマンディーは多湿な気候を持っておりイギリスのように牧草に適しています。

それらの地方の農民にとって家畜の飼育や肥育に委ねることによって穀物を捨てることは容易 です。「もし損をするなら、麦を作る代わりに他のものを作りなさい」と言えるでしょう」と、

フランス北部をうらやむ発言をしている。Enq. Agric. , 2e Tome14, op.cit., p. 201.

33 Enq. Agric. , 2e Tome14, op.cit., p. 261.

34 バソ家はブルゴーニュでも有数の穀物とワインの卸売商である。例えば、1857 年、バソ・ペール・

エ・フィス Bassot Père et Fils 社は穀物取引に 70,000 フランの資本がある。他にも同じく穀 物を扱うヴーヴ・バソ・エ・フィス Veuve Bassot et Fils 社がある。1887 年に資本 150,000 のトマ・バソ Thomas Bassot 社はワイン取引を扱う。1891 年にはガストン・バソ Gaston Bassot とピエール・バソ Pierre Bassot が大規模な製粉所に共同出資する。穀物商人の一族 が製粉会社を営むのは穀物の流通業と製粉業の結びつきを示すものでもある。Caron, F., op.

cit., pp. 108-109.

35 Enq. Agric. , 2e Tome14, op.cit., pp. 187-188.

36 刊行資料 Opinion de la chambre de commerce de Gray sur les trois lignes de chemin de fer proposées entre Dijon et Mulhouse, Gray, 1844.

37 主要な路線はディジョン―オーソンヌ―ドール(1855)―ブザンソン(1856)―ベ ルフォール(1858)―ミュルーズ(1858)、オーソンヌ―グレー(1856)、ストラスブー ル―ミュルーズ―バーゼル(1841)。19 世紀の市場統合において、伝統的に鉄道の役割は 強調されてきた。一方で、シュヴェらは統計分析からこれを否定し、地域的価格差の減少に関 して鉄道網よりも電信や新聞などによる価格情報の伝達を重視する。Chevet, J. M. et Saint- Amour, P., op.cit., 1991, pp. 116-117. 農業アンケートにおいてもしばしば触れられるように、

運賃の問題から輸送コストの削減には決定的な影響は持たなかった。しかし筆者は、農業アン ケートでの同時代人の積極的な評価から、鉄道が民衆の地域的意識を変えたことと、それまで とは異なる販路という選択肢を与えたという点で鉄道を評価したい。なお、鉄道網の整備はフ ランスとスイスでは同時期に展開しており、国内市場の成立とは必ずしもつながらないという

(19)

ことも指摘しておく。

38 Enq. Agric. , 2e Tome14, op.cit., p. 187.

39 Laurent, R., L’octroi de Dijon au XIXe siècle, Paris, 1960, p. 84.

40 例えばボーヌ郡の一部地域では昔からのソーヌ川沿岸の市場しかなく、他の地域での鉄道の発 展によって相対的に不利な状況に置かれたと述べている。Enq. Agric. , 2e Tome14, op.cit., p.

260.

41 コート・ドールとアルザスと結びつきが強まったことは穀物以外の商品においても見られる。

ビール産業では逆にアルザス方面からの輸入が増加しディジョンのビール産業は衰退した。

1840 年に 5 社だったこの分野は鉄道によってフランスの市場を獲得して 1859 年には 12 社に 増加している。しかし 1880 年にはアルザスとの競争に圧倒されて 8 社に減少、1890 年には 6 社となっている。Laurent, R., op. cit., pp. 67-87.

42 Enq. Agric., 2e Tome26e Circonscription. Doubs. - Vosges. - Haut-Saône. , pp. 70-71.

43 Bourguinat, N., op.cit., pp. 36-37 ; Gonnet, P. , ‘Dijon, pôle d’organisation régionale au XIXe siècle’, Annales de Bourgogne, 49, 1977, pp.142-143.

44 Enq. Agric. , 2e Tome26, op.cit., pp. 439-440.

45 Enq. Agric. , 2e Tome26, op.cit., pp. 325. またこの時、同時にディジョンの穀物商と同姓の バソという穀物商も証言しており、この一族が広くこの地域で穀物取引を扱っていたことを窺 わせる。その一方で彼はミディへの移出を扱っていると述べており、保税品輸出許可証には反 対の立場である。ディジョンの親族とは利害が異なっていたようである。

46 Enq. Agric., 2e Tome13e Circonscription. Bas-Rhin. - Haut-Rhin. , pp. 134-135.

47 Ibid, p. 208.

48 Conseil d’Etat, op.cit., pp. 785-786. アルザスとバーゼルの穀物市場の結びつきに関しては、

内田日出海「アルザスにおけるスイス人の土地権益―フランス・スイス関係史の一側面―」

(『東京国際大学論叢(経済学部編)』、第 5 号、1991 年)15-43 頁や、黒澤隆文『近代スイス 経済の形成―地域主権と高ライン地域の産業革命』(京都大学学術出版会、2002 年)123 頁 を参照。一方でアルザスの食糧危機に関する斎藤佳史「産業革命期フランス・アルザス地方に おけるパテルナリスム」(『土地制度史学』、第 164 号、1999 年)22-37 頁には、スイスに対す る言及は見られない。これは既出のオー・ラン県の銀行家オスワルトの「小麦の取引はアルザ スよりスイスにとって重要だった」とする指摘と無関係ではないかも知れない。スイス側にとっ てアルザスを経て流入するフランス穀物は重要であったのに対し、アルザスにとってみれば食 糧危機の際にはスイスへの輸出は二の次となっただろう。

49 農業アンケートでは、輸出について問う質問(質問 148)の回答において、輸出目的地として ディジョン郡はスイスを、ボーヌ郡はフランス東部、ドイツ、そしてスイスを挙げている。こ れに対し県西部のシャティヨン、スミュール郡では輸出はないとし、いくつかの地域では県外 への輸送も否定する。農産物の販路を問う質問 126 に対しては国内の都市が挙げられているが、

ディジョン郡の回答はディジョン、パリ、リヨンに加えて、ミュルーズである。ここでもシャティ ヨン、スミュール郡は穀物に関してはディジョンを挙げるのみで、移出、輸出を行っていたの が県の東部地域に集中していたことがうかがえる。北部から西部にかけては穀物の余剰はさほ ど多くなく、またその視線もどちらかといえばパリの方を向いていたからである。Enq. Agric. , 2e Tome14, op.cit., pp. 233, 235, 245, 247, 259, 261.

50 品質の低さからパリに売ることは出来なかったとしている。Enq. Agric. , 2e Tome14, op.cit., pp. 164-165.

(20)

参考文献

農業アンケート

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表 1 1858 年の穀物輸出入相手国
表 3 グレーにおける穀物の動き
図 1 小麦の年間平均価格 コート・ドール県および全国平均

参照

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