• 検索結果がありません。

地域文化研究への視座 一宮本常一研究より一

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "地域文化研究への視座 一宮本常一研究より一"

Copied!
13
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

地域文化研究への視座

一宮本常一研究より一

谷 沢

はじめに

 本稿は、宮本常一先生の著作を中心に、地域文化研究の課題を整理するものである。ここで 取り上げる宮本常一先生(1907〜81)は、日本中を旅して歩き、民俗学研究に生きた人間の生 活と社会経済史的視座を導入した民俗学者で、その活動は農村指導と農業改善、離島振興、山 村振興等と学問の枠を超え、地域社会の振興に多大な足跡を残している。宮本常一先生の考え の中には、地域社会の活性化において地域文化の振興がその背後に在るべき、という思想が一 貫して流れている。それは、現代社会に受け継がれている重要な課題であり、その基本的な考 え方を整理することは、今日的にみても意義深いことと思われる。

 まず、「地域文化」の概念について検討したい。近年よく用いられる「地域文化」という言 葉を「広辞苑」で改めて引いてみると、なぜか掲載されていない。それは、「地域」と「文化」

の複合語であるため、特段掲載の必要性もないためであろうか。それともまた、別な理由から であろうか。地域社会の内部構造の変化により、従来の「都市社会」「農村社会」という類別 的・分離的な二分法で地域社会をみていくことは今日、困難となっており、「地域社会学」と いう研究領域が生まれている。すなわち、農村における生活様式や地縁関係が激変するととも に、都市においても農村からの労働力が吸収され、都市社会と農村社会の差異が縮小してきた ことが、「地域社会学」の分野を確立する背景となっている。「地域文化」もまた、その文脈で 理解すると、同様なことが言えるのではないか。

 もう一つ、ごく単純に「地域文化」を「地域」と「文化」の複合語として理解することとす ると、地域とは、一般的に「全体として等質性(均等性)あるいは統一性といった特性が識別 される範囲」を指している。この意味で言うと、地域文化とは、「一つの特性が識別される範 囲の文化」と解することができるが、それでは分かりにくい。これを「地域社会」の「文化」

と置き換えてみると、そのイメージが具体化する。すなわち、「一定の社会的特徴を持った地 域的範囲の上に成立している生活共同体」の「文化」と読み替えてみると、地域文化の概念が

より鮮明になる。

 地域社会の文化について、宮本常一先生は「まず自信の回復を」(1968年)1で、その考え方 について、次のように述べている。

(2)

   私は田舎にはまた田舎での生き方があり、それに徹することではないかと近頃しきりに   思うようになっている。世界それぞれの国に、それぞれの文化がある。同様に、国の中に   も地域的な文化の差のあることは当然であり、文化を一色にすることが民衆の生活を幸福   にすることではないと思っている。(中略)

   地域社会の文化はそこに住む人達の気塊と努力によって生まれて来るものである。

 田舎の生き方が都会化されていき、田舎が都会に追従し文化を一色にすることが、地域社会 で暮らす人々の幸福につながることではない、との主張である。この論文が執筆されたのは、

東京オリンピック開催の前年、日本の社会や人々の価値観が激変していく高度経済成長期にあ たっている。それは、文化の地方色がうすれるとともに、地方色を払拭することがいわゆる人 類の進歩につながると信じていた人々が少なくなかった時代であった。その風潮の中で、あえ て「田舎には田舎の生き方がある」と言い切ったのは、フィールドワーカーとして、田舎の隅々 まで歩かれた宮本常一先生の信念からであり、それはまた、そこに暮らす人々への愛情を込め た警告でもあった。そして、地方が中央に追随し、地方が自主性を失いつつある時代の流れの 中で「地域文化は地域社会の住民により生み出されるべきもの」と主張したところに、意義が 認められよう。

地方文化

 宮本常一先生の一連の著作において「地域文化」という言葉はあまり見受けず、これに代わ るものとして「地方文化」という語彙がよく用いられている。一般的に「地方」というと田舎 を連想し、素朴で粗野、都会風に洗練されていないというイメージを持たれがちである。しか し、ここで使われている「地方文化」は、「中央」に対する「地方」という意味で、その脈略 の中で「地方文化」がどのような位置に置かれているかが絶えず問題意識としてみられること を特色としている。この「地方文化」については、主として「日本の中央と地方」、「村の崩壊」、

「民衆の文化1などの著作に取り上げられている。

 今日、地方の問題として、地方在住の人々は自己の資本力にたよりつつ自己の居住地区を興 隆させる力をほとんど失っていることが指摘できよう。また、資金面において枯渇した地方は、

中央政府に頼らざるを得なくなっているという現状が上げられる。そして、地方で起こる諸問 題のほとんどは中央に陳情しなければ解決できない状況におかれている。「日本列島にみる中 央と地方」(1964年)(「日本の中央と地方」所収)2には、次の記述がある。

   明治以来の政策が地方資本を壊滅させ、地方文化発展の芽をとめ、地方の生産エネルギー   をうばい、やがて国内植民地をつくりあげて来たのである。植民地における文化は定着性   のないのを特色とする。文化をもたらした支配者たちは定住性に乏しい。一方在住民たち   にとっては自らが生み出した文化ではなく、支配者に強いられ、また真似たものである。

  同様に、今日仮に新しい地方文化が存在するとしても、それは地方民の生み出したもので   はなく中央に真似たものであって定着性はない。たえず浮動している。

 このような、地方衰退の現象は、明治以来の政策に起因するものである、と述べられている。

(3)

とりわけその傾向が著しい戦後、その打開策として各地方で行なわれてきたもの代表例は、工 場誘致と観光開発の二つであろう。工場誘致については、地方に有利な就労の機会が生じ、固 定資産税がその町の財政を支えることになるものの、割安な労賃で労働者を雇い入れることに よって得られる高い利潤は地元にほとんど還元されない。また、観光開発についても同様なこ とが言える。すなわち、観光施設ができてもその利用の中心は都市から来た観光客であり、観 光客のおとす金の大半は外部観光資本が得るという構図がある。工場誘致や観光開発が行なわ れても、地方在住民は浮足だつだけで、逆に地方の住民は自主性を失っていく。宮本常一先生 は、その現象を「国内植民地」と名付けている。そして、そのような中で生まれた文化は地方 在住民自らが生み出したものではなく、中央に真似たものにすぎず、根なし草のように定着性 がないもの、と指摘している。この記述の背後には、地方在住人口を地方においたままで生産 エネルギーを発展させるような政策はとれないものか、という問題意識が潜んでいる。

 地方と都市との関係を農村社会の変容の視点から述べたものとして、同論文3に、次の記述 がみられる。

   農村は都市に、地方は中央に奉仕しつづけ、それに酬いる政策の主要なものが災害復旧   や失業保険であるということは皮肉もすぎたものと言えるであろう。これでは地方文化が   抹消せられていくのが当然のことといえる。(中略)

   つまり出稼ぎ送金によってはいつまでたっても真に地方文化興隆はありようがないとい   うことを耕作景観は示してくれているのである。

 この論文が執筆された1960年代半ば、産業別就業者数の中で農業従事者の占める構成比は、

約23%であった(1965年の国勢調査による)。また一方では、戦後の農地改革の結果大量に生 み出された零細な土地所有の自作農が、農業だけでは暮らしが成り立たなくなり、離農・兼業 化の道をたどった時代でもあった。もはや、農業は職業としては成り立たない段階にきており、

そこには、農家の戸主が季節労働者として都市やその他の土木工事などに出稼ぎにいき、半年 以上働いて戻って来て失業保険をもらいながら農業にしたがうという農村の現状があった。ま たそのことが出稼ぎばかりでなく農家の兼業化を促進していったのである。そして、生産基盤 を失った農村社会においては、もはや地方文化の興隆は望めない、と厳しい指摘がなされてい

る。

 さらに、同論文4には、地方振興の問題点として、人材不足が上げられている。

   今地方がもっとも必要としているのは人材であり、知識であり技能である。にもかかわ   らずその欠乏がもっとも甚しい。仮に地方に工場が分散して低廉な労力は地元から吸収す   るとしても、会社の幹部になるような人材は地元から仰ぐことはほとんどない。この人間   関係が是正せられない限り、真の地方興隆、ひいては地方文化の発展をまつことはむずか   しいのである。

 優秀な若者の大半は都会の学校に学び、郷里を出ていく。地方における教育投資はそれが地 方興隆にほとんど役立っていないことが指摘されている。この論文が執筆された1960年代半ば は、特にその傾向が著しくみられた。そしてこれをくつがえすため、地方住民も家計の不足を

(4)

出稼ぎによって補う生活から、地元の資源開発や新しい産業構造をつくって自立して働けない ものであろうか、と提言がなされている。さらに、地方の生産、文化が中央のおこぼれによっ て、それに追随して発展するのではなく、地方の自主的な力によって発展する対策の必要性が 述べられている。

 地方文化の独自性の低下については、「社会開発の諸問題」(1965年)5において、ふれられて

いる。

   地方から優秀な人びとが引きぬかなければならないような事情、それは言いかえると、

  地方文化というものの独自性を、次第に低下させるものになっているのではないか。むし   ろ国の隅々にこそ優秀な人たちがいて、それぞれの場において、それぞれ適当な形で、国   土を発展させていくということが一番大切なことではないかと思います。

 ここにおいては、地方と都市の均衡を保つことの重要性が説かれている。そしてその基礎に なるものとして、教育の重要性を主張し、とりわけ社会教育、特に職業に就いている青少年の 教育が我が国ではおろそかにされがちであることの問題点が指摘されている。さらに、同論 文6は、社会教育施設の充実を図りつつ地方文化を振興していくことが大切である、と述べて

いる。

   私は、公民館とか青年の家とか、あるいは博物館というような、われわれが教養を身に   つけつつ、やがてはそれが娯楽にもなるというような施設が、もっとあっていいのじゃな   いか、そういうものを中心に地方文化と生産を育てて行きたいと思います。

 社会教育施設の充実が地方文化を育てる上で重要であるとの視点は、戦後まもなく執筆され た「村共同体」(1950年)7にもあらわれている。

   ヨーロッパでは社会教育が非常に盛んです。(中略)それらのガイドブックの最初に書   かれているものは、必ずといってよいほど博物館です。次に図書館です。それぞれの地方   がそれぞれもっている文化を、胸をはって誇り、だいじにしているのです。自分の国の人   のみでなく、外国人にも胸をはって誇り得る文化を、それぞれの地方にもっていて、それ   を中心にして人びとが動いているのです。それが地方文化を高め、へき地をつくらない原   因にもなっているように思われるのです。

 地方が持っている文化を胸をはって誇る精神、これが戦後の日本に欠落したものであるとの 指摘である。この精神的な差異、価値判断の違いが解消されることが、地方文化発展の基礎に なるもので、それには、若者がその土地に愛着をもって、そこで何らかの活動ができる文化的 施設が、それぞれの地方に必要であることを提唱している。

  「地方文化の振興を」(1969年)8には、地方は中央の従属的な社会として存在するのではな く、自主性を持つべきである、との主張がみられる。

   今日の地方は、働いて金をもうけて、それを都市や中央に投資し、人材もまた同様に都   市におくりこむことに懸命であり、そういう仕組みの中におかれている。

   もし、地方文化の自主的な復活を願うものがあるとすれば、この逆のシステムが考えら   れなければならない。しかし、それは現状で可能であろうか。

(5)

 地方は中央の従属的な社会として位置づけられ、また地方の人々のほとんどがそれを望んで いる。これは、地方が持っていた土着の思想が崩壊しつつあるのが原因となっているのではな いか、との指摘がなされている。

基層文化

 土着の思想とは、その土地に生れて住みついている人々の持つ思考の体系を指す。それは、

我が国における民衆の文化の根源としての基層文化・農耕文化につながりを持つものであろう。

また、基層文化とは、物事の根底に横たわる文化を意味している。地域社会の保持してきた文 化の性格や、地方文化の自立的な発展を考えるにあたり、この土着の思想について改めて見直 す必要があろう。土着の思想、基層文化については、「村の崩壊」に収録された「土着文化」(年 代不祥)9に述べられている。

   土着の思想は農耕文化の中から生まれた。(中略)

   農耕を中心にした生命に対する考え方は、それがそのまま一つの人生感をつくりあげて   ゆく。土着生活の中にたえずあたらしい生命を再生しようとする努力である。それは大木   が太陽の光りをあびて土の中から水と養分を吸収して成長していく姿に似る。あらゆるも   のを吸収し消化しようとする。その文化の吸収のしかたに日本人の姿を見る。(中略)

   自分たちが古くから持ちつたえた基本的な姿勢は決して失ってはいないのである。古い   文化を簡単に消滅させてしまうのではなくて、新しいものに複合させつつ再生していき、

  それをあたりまえのこととしてきた。(中略)自己の持つ古いものを再生させるには、た   だ古いことを守るのでなく、新しいものに融合させる方が効果的なのである。(中略)

   最近欧米文化の影響をうけて大きくかわりつつあるように見えるけれども、それはどこ   までも自らの持っているものを捨てて異質なものへと移っていくのでなくて、自己拡大の   形で文化の吸収をつづけているのである。かくて日本文化は基層文化を母体に無数の異質   文化を複合させつつ発展をつづけてきたと見られる。

 これは、民俗学的観点がいかんなく発揮された見解と言えよう。土着の思想は農耕文化の中 から生まれ、農耕民は大地に母神を想定したことに起因し、土は無限にものを生み育て、種子 の生命を無限に再生していく、と述べている。そして、作物は無限に生き続け、このことをと おして生命は永遠であることを農民は学んだ、という。これら農民にとって土に生き土に帰す ることは死を意味せず、生命の再生を信じさせたのであり、この再生感が、土着の思想の背景 に潜んでいた、と指摘している。

 日本文化の一つの特徴として、日本人は古い文化を新しい文化に複合させつつ再生していく ことに長けている、とされている。すなわち、古い基層文化を捨て去るのではなく、これを生 かしつつ新たな異質文化を摂取することが上手である国民性があるという。これら文化の吸収 の仕方の特徴については、「暮しの周辺」(1967年)loにも述べられている。

   日本人は、古い伝統的なものを大切にしないで、どんどんこわしていくという。それは   一つには、われわれの持っている文化が、こわれやすいものであるからである。(中略)

(6)

   古くなれば容易にこわして、新しくするということは、一見何でもないことのようであ   るが、あたらしい文化を吸収し、また、新しい文化をすすめてゆくために、非常に重要な   要素であることを忘れてはならない。

 ここでは、日本人が新しい文化を積極的に摂取する傾向が強いのは、日本の文化が壊れやす いという特性を持っているからである、との指摘がなされている。

 また、基層文化については、「日本の習俗」(1966年)11に、次の記述がある。

   このような基層文化の差に基く物の見方の差は、その後生産や社会に大きな変化がお   こったとしても、なお根本的には容易にあらたまるものではない。それは単なる論理の   世界のものではない。情緒の世界のものだからである。情緒は論理をこえて存在するも   のである。

 これは、日本に限らず、農耕を早くから生活の手段とした南方アジアの社会においても同様 にみられる現象である。そしてそれは、論理を超えて存在する情緒の世界であった、との指摘 である。

 さらに、我が国における基層文化は農村文化であったとし、その意味について「習俗伝承の 本質と変遷」(年代不祥)12でふれている。

   われわれの生活の中には、文字によらないで言葉や行為を中心にして定型化、慣習化さ   れた文化が、非常に厚い層をなしている。(中略)

   生活を支配しておる根底にあるものは、意外なほど古いものであるが、新しいいろいろ   な文化の影響を受け、新しいものと融和しながら今日までつづいて来ている。いわゆる民   族文化といわれるものは、実は、われわれが意識するとせざるとにかかわらず形成せられ   てきた文化ではなかろうか。(中略)

   日本における基層文化は、農村文化であり、農業文化であったといっていい。その農村   文化であり、農業文化は、今から一〇〇年前まで、ずっと約五〇〇〇年ほど、縄文時代頃   に農業が起ったと考えて、その間の文化の蓄積がつくりあげてきた習俗とその根の強さが、

  今のわれわれの生活を支配しているといっていい。(中略)

   農耕文化の特色とは、くりかえし、それから定住性をもっている。そして祭祀統一を行   なう。もう一つ農耕、特に稲作に大事な問題が含まれている。生命再生の思想がそれであ   る。稲のようなもの、あるいは麦のようなものは刈りとってすぐまいても芽が出ないが、

  ある一定期間をおくと、まくと芽が出る。だから昔の人たちは、稲や麦をとったら、魂は   一度死ぬと考えた。それを俵やむろの中に入れておくと芽が出てくる。つまり魂を再生す   ることができると考えた。(中略)

   くりかえすと、われわれは定住をして、その中からくりかえしをもつようになり、しか   もそういう生活を守るため祭祀を生み、さらに生命再生の思想を生んできた。これは生命   軽視の思想をも生んだ。経済的には自給的なものをもってきた。

   こういう中での文化がいわゆる習俗伝承の文化であったといっていいかと思う。

 基層文化は、すなわち習俗伝承の文化でもある、と述べられている。習俗伝承とは民俗であ

(7)

り、文字によらず、言葉や行為がくりかえされてそれが定型化したもの、と規定している。な お、習俗伝承と風俗との違いについては、風俗は、流行が生み出して消えていくものであるの に対し、習俗伝承は、それが容易に消えていかないものである、との区別がなされている。

 我が国において、支配階級の形成した上層文化は、その初めはほとんど大陸から渡ってきた 文化であった。つまり文字を媒介とした文化であった。これに対して、文字をもたない人たち が支えてきた文化があり、これを基層文化といってよいのではないか、と述べられている。ま た、上層文化で、今日残りえたものは、民衆が支持したものであり、支持のないものはほとん ど消えていった、という事実が上げられている。

 今一つ問題となるのは、日本文化と慣習の関係についてである。このことについては、「日 本を思う」(1969年)13において、日本文化は慣習の中に存在する、と記している。

   今日われわれが、ただ文化とよぶのではなく、日本文化を「日本」を冠してよぶ文化の   場合、日本とよばれるものの姿は、知識人たちの意識にすらのぼって来ないような慣習の   中に存在するものではなかろうか。しかもこのようなものが人と人を結びつけ、また行動   させ、決意させていることが多いのである。(中略)

   新しいものが他から入って来ても、それによって古いものが一掃せられることはなかっ   た。古いもののよどみはこうしたことによっておこった面もある。新しいものが古いもの   を否定して生まれ出て来たのではなく、他からの移入によって古いものと共存したからで   ある。

 慣習は、人々の結合をうながし、行動や判断の基準ともなり、社会規範として日本文化の中 において重要な要素をなすものである。ここでは、人々が何気なく繰り返している慣習ととも に、ごくありふれた社会の姿や、そのあり方を見ていくことの重要性が説かれている。そして、

古い慣習の上に新しい文化がのり、これが共存するのが日本文化の特徴である、と述べられて

いる。

 また、文化の永続性について、「抵抗の場としての地域社会」(1973年)14において、次の指 摘がみられる。

   本来、文化というものは泡のように生じたり消えたりするものではない。深く根ざし、

  しかも執拗につづいてゆくものである。しかも人の生活はそういうものによって支えられ   ている。今日までそういうものを生み出してきたのは風土である。人と環境のからみあい   が文化を生み出してきた。

 文化は風土が育み、人と環境との相互関係が生み出したもので、文化は、永続的な性格を持 つべきものである、との見解が出されている。

慣習・伝承

 ここで、基層文化と関わりの深い慣習・伝承の持つ意味について整理してみたい。慣習とは、

一般的に、ある社会の内部で歴史的に発達しその社会の成員に広く承認されている伝統的な行 動様式を指す。また、伝承とは、制度・信仰・習俗・口碑・伝説などの古くからあったしきた

(8)

りを伝え受け継ぐことをいう。

 慣習の持つ意味について、「民俗学への道』(1968年)15で、次のように述べている。

   民俗学では村落構造を見てゆくと言っても、支配者から押しつけられた制度を見ること   は従であり、村人自体が必要とした組織や慣習を見てゆくことが主である。そしてそれら   が生活の中でどのようにからみあっているか、人間関係のきめ手になっているものが何で   あるかを見てゆかねばならない。民衆が必要とした人間関係をつないでいるものの中に、

  その民衆たちの生きている真の姿があるのではなかろうか。

 慣習は、生活の中から生み出されたもので、周囲から強いられてつくったものでない。民衆 が必要としてつくった慣わしである。そして、その人間関係には、信仰集団、労働集団、地縁 集団などがあり、それらは基本的に平等性のつよいものであった。村社会において、みんなが 力をあわせる体制も、制度というよりか、むしろこの慣習に根ざしていることが上げられてい

る。

 また、伝承には文字を媒介とするものと、言葉・行為によるものとがあった。これらの違い について、「村里の教育」(1958年)]6で、次のようにふれている。

   文字による伝承は記憶から失われているものでも、文字を読めば思いおこされるもので   ある。そしてまた文章を見ることによって、考えも発展させてゆくこともできるが、言葉   による伝承は、それを正しく記憶することがまず一苦労である。同時にそれは何人にもで   きるものではない。よほど記憶のすぐれた者をして、村に伝承して来たもろもろのことを   言いつたえさせることがまずなされなければならないが、その場合、記憶はできるだけ正   しくなされなければならず、記憶をあらためることは伝承を混乱させることがすくなくな   かった。記憶を混乱せしめないためには、年々おなじことをくりかえす必要が生ずる。

 かつての民衆社会は、人々の多くが文字を持たず、知識や技術の伝承が言葉や行為によらね ばならない場合がきわめて多くを占めていた。また、そこから繰り返しが生まれていったので

ある。

 そして、伝承は村落共同体を統一していく上にも重要な役割を果たしていた。同論文17には、

次の指摘がある。

   特殊な祭祀や慣習や技術の伝承も、村を一つの有機体として統一してゆくにはきわめて   たいせつなことであって、伝承がたしかで伝承者がしっかりしておれば、古くからの行事   は忠実にまもられたものである。(中略)

   それが村の中ですこしずつこわれたり、また変化していったのは、伝承者としての故老   が死んだり、他から勢力のある者がちがった慣習を持って入りこんで来た場合が多い。つ   まり、村の公の伝承には、村人一般が伝承してゆかなければならないことがらと、少数の   人が伝承して他の者はこれにつきしたがうというものと、二つあったのである。

 村落生活において祭祀・慣習・技術が持ち伝えられたのは、この伝承が大きな役割を果たし ていたからであった。少数の人が伝承していくものは、技術に精密を必要とするもの、あるい は、それにしたがうことが生活をわずらわしいものにするような行事などである。そしてこれ

(9)

らは、次第に特定の人に代行させるようになっていった。一方、村人一人一人が伝承してゆか なければならないことについては、同論文18に次の記述がある。

   (村人一般が伝承していくものは)死者の埋葬・土木工事・共同採取・共同祭祀を必要   とする雨乞・虫送り・病神送り・風祭りのような行事がそれである。また村人一般が共同   して行うものではないが、歩調をそろえて個々に行う行事や仕事も多い。農作業や漁業・

  草刈などもそういうものに属する。それはみんなが同じ時期に同じように働くことによっ   て、はずみもついて来、働きがいも感ずるものである。

   このようなことが強い団結のもとにスムーズに行われるためには、そのまえに人々は村   共通の観念をまなびとらなければならない。つまり社会生活の仕方をまなばねばならない。

  しかも文字を持たない世界では、それをまず言葉としてまなび、さらにフォームとして身   につけてゆく。

 これらの伝承を受け継いで発展させるためには、村人の一員としてそれらをしっかりと身に つけることが大切で、また言葉として伝えていくことが必要であった。このように伝承を保持 する集団として村落共同体を捉えていく観点が重要になろう。あわせて、文化を保持・発展さ せていく力を地域社会の中に探ることも、地域文化を考える上で大切な視点となるであろう。

「民俗学への道」19には、民俗伝承と集団との関係について、次の記述がある。

   伝承を保持する集団として(村を)見てゆくのであるから、それら集団の持つ文化のあ   り方が問題になる。(中略)

   さらにまた、文化の持つ意味、あるいは文化を保持し発展させてゆく力が何であるかも   精密な調査の中からおのずからわかって来るのではないかと思われる。集団のタイプを決   定するのは、集団のもつ目的とこれを維持し発展させてゆくエネルギーの中にあると思う。

  それをまずさぐりあてられなければならない。集団としてのエネルギーの凝集が弱まって   来ると、目的もぼやけて来、集団自体の解体をおこすものである。そのとき民俗伝承は集   団を凝集させる力を失い、民俗伝承の本来の意義を失って来る。(中略)

   民衆社会を凝集し、動かして来た民衆社会自体の目的・エネルギー・価値観・手段など   を歴史的に明らかなもの、あるいは有字社会から持ちこまれてきたもの、大陸からもたら   されたものなどを捨象してゆくと、そこにそれ以前の習俗がのこって来るように思うが、

  実はそれだけで人は生きたのではない。さらに多くのほろびた習俗がそこに存在していた   にちがいない。それらは集落を類型的に見てゆく過程の中で出て来るのではないかと思う。

 人間は慣習によって生き、それが文化を形づくってきた、との見方がなされている。また、

民衆社会を動かし、エネルギーを凝集させたのは生活目的だけではく、他に、義理とか恥とか いったような価値観があり、これらが人々の結合を支えていた。そして、このことが集団形成 にいかに働いたかを見ていくことの重要性が指摘されている。また、集団社会を守るため人々 は、神に祈り、禁忌を守り、共に祝うという行為を積み重ねてきた。それらを総合的に把握し ていくことが、伝承の意味を探ることにつながる、と指摘されている。

(10)

民衆の文化

 文化を担った人々に立脚して地域文化を考えると、「民衆の文化」がキーワードとして上げ られるであろう。民衆とは、一般的に、貴族などに対し、世間一般の人々を指す言葉である。

それは、平民、大衆なども同義語として用いられるが、平民・大衆は、階級的な色彩を帯びた 用語として用いられる場合が多い。また、民俗学においては、柳田国男が「常民」なる造語を 用いたが、宮本常一先生は、民衆という言葉を多用されている。そして、民衆が民衆として目

ざめつつ結合していく社会を「民衆社会」と規定している。

 民衆の文化の研究については、民俗学研究との関連において、「民俗学と民俗芸能と」(1966 年)20の中で、次のように述べられている。

   民俗学は、民間におけるいろいろの伝承を調査し比較して、民衆の持ち伝えてきた文化   を開明しようとする学問とせられている。(中略)

   私の場合は民衆の生活の中にいまも残っている古くからの生活慣習や生活様式、人間と   人間との関係を通じ、その生活の意味と変遷を追求して行こうとすることに重点をおいて   いる。

 すなわち、民衆の持ち伝えてきた文化を解明しようとする学問が民俗学であり、民衆の生活 の中に残存する昔の生活慣習や生活様式、人間の相互関係を通じ、民衆の生活の意味と変遷を 明らかにしていくことが民俗学の重要な課題として位置づけられている。

 また、「民俗学より見たる日本文化」(1972年)21には、次の記述もみられる。

   民俗学という学問は、過去の民衆の生活なり文化が現代の生活にどのように投影してい   るか、そしてそれが今日のわれわれの生活にどのような影響を与えているか、あるいはま   た、それが将来にむかってどのような発展の要素になり、あるいは制約の要素になってい   るか、そういうことを見ていく学問だと思います。(中略)

   ところで、民衆の作りあげていった文化というのはどういう型で存在するかと申します   と、それはくりかえし重ねられてきたものであるから、そこに生まれ出た社会というもの   は慣習社会つまり習慣と申しますか、そういうもので積み重ねられた社会なのです。

 ここにおいても、民衆の文化の研究と民俗学の研究の関係が述べられており、民衆の文化は、

習慣の積み重ねにより生まれたものである、との指摘がなされている。そして、慣習社会は、

制度的なものではないため、一つ一つのコミュニティにより差異を生じ、その違いの中でそれ ぞれの文化が生まれた、と述べられている。

 民衆の文化には、有形・無形のものがあり、それが日常生活を支えていた。「日本を思う」

(1969年)22では、その伝承の形について次の記述がみられる。

   民衆の文化は目に見える有形なもののほかに、目には見えないパターンとして、また言   葉として伝承せられたものが多く、それによって日常の生活が支えられて来ていた。これ   をつかさどり、これをうけつぐものが、その地位を捨てて来たとき、それにかわるものが   なかったとしたならば、そこに大きな混乱のおこって来ることは当然であると言っていい。

(11)

 農耕社会の衰退により、生産単位としての家が解体し、家によって伝承されてきた文化が消 滅したことは、戦後の日本の農村社会の大きな変化であった。それは、農耕を基盤に成立した 日本の社会そのものの変容にもつながっている。同時に、家の解体は、旋や伝承を守ることに よって生活を可能としていた共同体としての村の解体につながていることも指摘されている。

 ところで、宮本常一先生の民衆観をうかがうものとして、「民俗のふるさと」23に書かれた、

次の一文があげられる。

   日本の民衆はもと一般に非常に貧しかった。しかし貧しいにもかかわらず、それをそれ   ほど苦にしなかった。村の人たちの協同によって、いざというときには支えてくれるもの   があったからで、その協同の力を生み出していったのが、いろいろの慣習であった。慣習   は法律でつくられたものではなく、人が共同して生きていくために、自然的に考え出した   人間の知恵であり、しかもそれを持ちつたえて来たものであった。(中略)

   それが時にはわれわれの生活文化を停滞させることもあるが、誰に命令されなくても自   分の生活を守り、発展させるためのエネルギーにもなる。ほんとの生産的なエネルギーと   いうものは命令されて出て来るものでない。その命令せられないであふれ出るエネルギー   の社会的な根源をこの書物で多少ともつきとめて見たいと思った。

 人々の協同に支えられ貧しさを苦にしない民、それが民衆であった。そして、協同を生み出 す背後に慣習や行事があった。これらは、時には大切にされ、時には粗末にされる。そして、

生活の中にしみこんでいる慣習は、日常の行為や物の考え方の中に生きていることが多い、と の指摘がなされている。

 民衆の文化に関連して宮本常一先生が注目しているのは、民衆のエネルギーである。「芸北 紀行」(1958年)24には、次の記載がみられる。

   本当にわれわれの見つけたいのは民衆の中にある生きるためのエネルギーと、その生き   方である。それは山の中にあっても、また海の中の島にあっても、遠い昔であっても、共   通した法則があり流れがあったと考える。そういうものは昔だから劣っていたわけではな   い。ただそれが与えられた場と条件によって、いろいろの結果を生んで来るのである。

 それぞれの与えられた環境の中でそれをあたりまえと思い、大きな疑問も持たずに生きてき たのが民衆であった。そして、その民衆のエネルギーは、地域・時代を問わずある法則性をもっ ており、その現われ方は環境により変化することが指摘されている。

まとめ

 以上、宮本常一先生の著作をとおして、地方文化、基層文化、慣習・伝承、民衆の文化のキー ワードのもとに、地域文化研究の課題を整理したが、要点をまとめると以下のとおりである。

 まず、地域文化の研究の視点において重要なことは、主として次の3点である。

(1)民衆の生活の中に残存する生活慣習や生活様式を、人間と人間との関係を通じ、その生   活の意味と変遷を探ることが、研究において重要である。

(2)過去の民衆の生活や文化が現代の生活にどのように投影しているかを探ることが、研究

(12)

  において重要である。

 (3)民衆の中にある生きるためのエネルギーと、その生き方を探ることが重要である。

 次に、地域文化、地方文化、基層文化、慣習・伝承、民衆の文化をみていく上で要点となる ところをまとめると、以下のとおりである。

 (1)地域社会の文化はそこに住む人達の気醜と努力によって生まれてくるものである。

 (2)地方は中央の従属的な社会として存在するのではなく、自主性を持つべきであり、そこ   に地方文化の発展と地域振興の基礎がある。そのためにはそれを担う人材育成が重要であ   る。

 (3)日本における基層文化は農耕文化であり、農耕文化の中から土着の思想が生まれた。土   着の思想の背景に生命再生の思想があった。そして、基層文化に基く物の見方は、論理の   世界ではなく情緒の世界であった。

 (4)農耕文化の特色は、繰り返しと定住性をもっており、祭祀統一である。

 (5)日本文化は基層文化を母体に無数の異質文化を複合させつつ発展をつづけてきた。

 (6)風土、そして人と環境のからみあいが文化を生み出してきた。

 (7)日本文化は慣習の中に存在する。慣習は、人が共同して生きていくために自然的に考え   出した人間の知恵である。

 (8)民衆の作りあげていった文化は、繰り返しにより積み重ねられたものである。

 まとめると、以上の宮本常一先生の地域文化研究への視座は、地域社会に暮らす民衆に注ぐ 愛情を基に、フィールドワークに根ざす民俗学的視点から、民衆への信頼・共感とともに形成 されたものである、と言えるのではないか。そして、戦後の社会変容、とりわけ高度経済成長 に伴い、自主性を失っていった地域社会への在り方に警告を発し、格差が開きつつある地方で 暮らす人々を励ましつつ、民衆自らの手による地域文化の再生の在り方を絶えず考えつづけら れたことに、一連の著述は、重要な意味を有するものと思われる。

(註記)

1 宮本常一「まず自信の回復を」「山村の友」第8号、1968年(宮本常一著作集12「村の崩壊」、未 来社、1972年、p.73所収)

2 宮本常一「日本列島にみる中央と地方」「日本」1964年(宮本常一著作集2「日本の中央と地方i、

34FO未来社、1967年、p.46所収)

「日本列島にみる中央と地方」(前掲)p.39〜40

「日本列島にみる中央と地方」(前掲)p.52

宮本常一「社会開発の諸問題」「国土」1965年(宮本常一著作集2「日本の中央と地方」、未来社、

1967年、p.167所収)

6 「社会開発の諸問題」(前掲)p.187

7 宮本常一「村共同体」「村の生活とコンミュニティスクール」1950年(宮本常一著作集13「民衆 の文化」、未来社、1973年、p.221〜222所収)

8 宮本常一「地方文化の振興を」「農業共済新聞」1969年(宮本常一著作集12「村の崩壊」、未来社、

1972年、p.66所収)

(13)

9 宮本常一「土着文化」(原題「日本土着文化論」)「中国新聞」(年代不祥)(宮本常一著作集12「村 の崩壊」、未来社、1972年、p.62〜64所収)

Io 宮本常一「暮しの周辺」「朝日新聞」1967年(宮本常一著作集12「村の崩壊1、未来社、1972年、

p.309〜311所収)

ll 宮本常一「日本の習俗」「テアトロ」1966年(宮本常一著作集3「風土と文化」、未来社、1967年、

P.9所収)

12 宮本常一「習俗伝承の本質と変遷」(早稲田大学講議ノート」(年代不祥)(宮本常一i著作集15「日 本を思う」、未来社、1973年、p.196〜210所収)1967年〜1971年まで早稲田大学理工学部で教鞭をと  られていた。

13 宮本常一「日本を思う」「月刊ペン」1969年(宮本常一著作集15「日本を思う」、未来社、1973年、

P.27〜29所収)

14 宮本常一「抵抗の場としての地域社会」「朝日ジャーナル」1973年(宮本常一著作集15「日本を 思う」、未来社、1973年、p.312所収)

15@宮本常一「民俗学への道」(宮本常一著作集1)、未来社、1968年、p.77

16 宮本常一「村里の教育」「郷土研究講座j5、1958年(宮本常一著作集21「庶民の発見」、未来社、

1976年、p.163所収)

17 18 19 20

「村里の教育」(前掲)p.166

「村里の教育」(前掲)p.169

宮本常一「民俗学への道」(宮本常一著作集1)、未来社、1968年、p.78〜79

宮本常一「民俗学と民俗芸能と」「芸能史研究12」1966年(宮本常一著作集3「風土と文化」、未 来社、1967年、p.126所収)

21@宮本常一「民俗学より見たる日本文化」「愛媛県高等学校教育研究集録」第9巻1972年(宮本常一 著作集13「民衆の文化」、未来社、1973年、p.9〜10所収)

22 宮本常一「日本を思う」「月刊ペン」1969年(宮本常一著作集15「日本を思う」、未来社、1973年、

P.75所収)

23 宮本常一「民俗のふるさと」1975年(宮本常一著作集30「民俗のふるさと」、未来社、1984年、

p.207〜208所収)

24 宮本常一「芸北紀行」1958年(宮本常一著作集21「庶民の発見」、未来社、1976年、p.155所収)

参照

関連したドキュメント

月 15 万 ₩ 、日本円とすると約 15 万円。これは基本 給で、ここに手当がつく程度。訪問介護の時給は平均 8500 ₩

例が魚類である。 柳田は, 日本各地に残る「片自の魚jのさまざまな雷い怯えを取り上げ「神の祭 にこの生牧を供えた遺跡で、あるとjする24)。 捧げられる魚は鮭, 鯛,

(市民社会)

総則編 1.総則 4 っている。 また,農産物直売所は 6 店舗あり,農産物の販売拠点となっているほか,観光情報の発信源

にて、海軍中佐 John Byron の人名から採った地名である

又、リバプールは 2008 年の「ヨーロッパ文化首都」に 決定している。同地域の GDP は英国全体の 9.9% を占 めている。 2003

 佐久間学科長の趣旨説明では、シンポジウムの

大田原市(栃木県)の魅力を首都圏に伝える情報発信の強