西周・共同体における曽孫「土地占有」について
著者 近藤 英雄
雑誌名 紀要
巻 17
ページ 9‑19
発行年 1963‑02
URL http://id.nii.ac.jp/1118/00001021/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
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・ ︑
西 周
︒ 共 同 体 に お け る 曽孫﹁土地占有﹂ に つ い て
l︑
西周時代の﹁土地﹂とは︑﹁田﹂のことを意味して︑使用したわけである︒西
周時代の﹁田﹂という文字で表現されている土地には︑つぎにあげうるような
種類がある︒﹁狩猟田﹂︑﹁桑田﹂︑﹁常田﹂︑﹁稲田﹂︑﹁錫土田﹂︑﹁徹
土田﹂などである︒そのほかに︑形や大きさから︑﹁阪田﹂ ︵小雅・祈父・正
月篇︶︑﹁甫田﹂ ︵国風・小雅・斉・甫田︑北山・青田︶などがある︒
詩経・小雅・形弓第・車攻にⅠⅠ
か り の く る ま 上 は な は さ か ん
田革既に好く︑四牡孔だ阜なり
末に南軍あり︑鹿して言に行きて狩せん︒
この詩は周公が成王を相けて洛邑を営して東都と為し︑以て諸侯を朝せしめた が︑周圭が衰えて︑久しくその礼を廃していたのを︑宣王の時に︑内は政治を 修め︑外は英次をはらい︑文王の壌土を復し︑車馬を催し︑諸侯を東都に会
し︑田猟に因って幸徳を選んだことを莫めて︑詩人がうたったものであると云
われている︒そこで︑この詩は︑西周後期の詩と判断される︒﹁田車﹂は︑青
草がある田に猟にゆくための革である︒﹁田﹂が猟狩の壕になっている他の例と
近 藤 英 雄
して︑国風・鄭篇・叔千田︑と大叔千田︑にも﹁奴が田に干く﹂と︑﹁田﹂ が
狩・野の意味に使用されている︒すなわち︑西周時代には︑﹁田﹂は狩猟場で
もあったわけである︒
﹁桑田﹂については︑ − 西周創業期ともいうべき時代の園の地域をうたった
詩の﹁七月﹂に﹁彼の敏行に遜って麦に累乗を求む﹂とみえているから︑養蚕
は︑西周の創業期から︑おこなわれていたようである︒
国風
・魂
篇・
十畝
之間
に︑
−
十畝の間今︑桑者開閉たり︑
ま
. e L か え ら
行に子と遺んとす︑
十畝の外今︑桑者泄泄たり︑
行に孔と逝かんとす︑
詩経・国風・魂黛は今の山西省の歌である︒周王朝の創始と共に︑魂という国
がここにおかれ︑周と同姓の姫氏が大名となり︑今の丙城県を国都とし︑沿水
流域を約三〇〇年にわたり︑西周の時代に統治していたが︑春秋左氏伝にみえ
る︑周の意王の十六年︑晋の献公に滅ぼされた国である︒
九
したがって︑﹁十畝之間﹂は西周時代の詩であると患われる︒﹁注釈﹂には︑
十畝之間の十畝は﹁古は六尺を一歩と称し︑百歩を一畝と為し︑百畝を一夫と
為し︑夫の三を屋と為し︑屋の三を井と施す︑一井は九百畝にして長闇一里な
り﹂︑︵国訳漢文大成詩経︑/三〇九頁︶と解して︑﹁寸隙の地を云う﹂としてい
る︒詩句にみえる︑﹁十畝之闇﹂と﹁十畝之外﹂については︑﹁十畝とは︑古
は農夫︑家ごとに︑郊外にて十畝の地をうけて︑はたけとし︑桑などをも︑
うへたると︑見えたり﹂︑﹁十畝之外﹂とは︑隣の周を云﹂︵漢籍国字解全蕃詩
経︑一四九頁︶と︑解されている︒この解釈には︑井田法の問題︑農夫の家屋敷
の問題などに関連して︑西周土地関係問題の未知な点が暗示されているように
.考えられるが︑ここでは︑寸隙の地に﹁桑田﹂があり︑Aの桑田も︑Bの桑田
も桑をつむ人々が︑開閉として︑もの静かな情景をうたったものと解してお
く 0
さ ら に
︑ 西 周 時 代 の 桑 田 は
︑ 国 風
︑ 椰 篇
・ 定 之 方 中
︑ に み え る よ う な
︑
﹁ 鋭 干 桑 田
﹂ と あ る
︑ 民 の 集 ま る と こ ろ と し て
︑ 農 事 を 奨 め る 壕 と し て
︑ 利 用 さ れ
たり︑国風・曹黛.・鴨場にみられる﹁鴨場在桑︑其予在梅﹂のごとく︑君子の
節度不変に痺どえられるために﹁桑﹂が引用されたりしている︒なお︑魂篇
﹁十畝之間﹂.隊簾︑七月の﹁彼の微行に遜って⁝⁝・この詩句について︑男女
関係を意味していると解釈している学者もいる︒
つぎに﹁芭田﹂についてみると ー
小雅・形弓・釆芭に1
薄く言に芭を来る︑彼の新田に︑
此笛畝に︑ 方叔粒止︑
其の革三千︑師干ぐこと之れ︑試へり︑
この詩は︑宣王の時に︑南蛮背反して︑王︑方奴に命じて征伐せしむ︑軍行芭
一〇
を来って食ふ︑その事を賦して興を起す⁝とあれば︑西周末期の詩である︒﹁爾
雅﹂の説で︑田は一歳なるを薯︑二歳なるを貪︑三歳なるを新田と日う︑と
あれば薔田・余山田・新田には︑﹁芭﹂が植えられたわけで︑その田を﹁芭田﹂と
よんだわけである︒芭ほ若菜で︑﹁朱伝﹂にr育白色︑その実を摘めば︑白汁
出ることあり︑肥えたるは生食すべし︑亦薫で茄と為すべし︑即ち今の﹁にが
な﹂なり︑馬食に宜し︑軍行之を来て人馬食ふ可し.−とあれば︑新開の田は
﹁芭﹂が裁壊され︑人馬の食糧に供せられておったことを知るわけである︒
﹁稲
田﹂
に.
つい
ては
︑
小雅
・都
人士
篇・
自筆
に
ー
泥たる池も北に流れ︑彼の額田を浸す︑
聯歌し傷懐して︑彼の碩人を念ふ︑
﹁自筆﹂の発句に﹁自筆の菅今︑白茅をもて束今︑之予之遺し﹂ とあるが︑
﹁之子﹂は︑幽王を指すと解せられているので︑西周末期の詩と思われる︒
﹁箋﹂に日く︑﹁豊鏑の間︑水皆北流す﹂と⁝解されているので︑西周末期︑
潤水流域で︑豊と縞京の附近に稲田があったことを知る︒
以上の考察で﹁田﹂には︑狩猟田・桑田・芭田・稲田などが詩経にみえている
が︑これらからは﹁田﹂の所有権の所属をきめる詩句的資料はみられなかつた
が︑つぎに挙げる﹁土田﹂の資料は︑相当注目に価するもののように考えられ
大 る ︒
雅・
蕩篇
・江
漢に
−
文人に告して︑山土田を錫ふ︑
周に干て命を受け︑召祖の命に自ふ︑
﹁江漢﹂の詩は︑西周後期︑宣王が︑召穆公に命じて︑准南の英人が中国に侵
入せんとするのを防せがしめた詩である︒詩句の意味は︑召虎 ︵穆公︶ の功
労を称えて﹁山川土田﹂を賜わったというのである︒
大雅
・蕩
篇・
捨印
に
ー
人土田あれば︑女反て之を有ち︑
入居人あれば︑女覆て之を奪ふ︑
この詩は詩句の﹁女﹂は幽王を指すと解せられ︑故なくして︑諸侯及び卿大夫
の所有を削触するを云い︑一は罪無きに拘収せられ︑一は罪有るに反って赦さ
れ︑餞王が褒姐に迷い︑順逆顛倒して民に菩するをうたったものであるが︑﹁
江漢﹂にみえている﹁錫山土田﹂は﹁土田民人﹂をも意味する場合があるわけ
である︒なお︒この点について︑郭沫芳氏は︑﹁周代鐘鼎文献に対する社会史
的二考容のなかで︑﹁克鼎﹂の銘﹁汝に田を埜に錫へ⁝⁝︑厭の臣宴を以
︵与︶ふ︒・:⁝﹂の資料をあげ︑耕地と臣僕人民とは︑執れも賜与されるところ
の品物であったと述べられている︒
大雅
︑蕩
篇・
素高
にー
ーー
蜜整たる申伯王之に事を横がしむ︑
千に静に邑して︑南国是れ式らしむ︑
王召伯に命じて︑申伯の宅を定め︑
是の南邦を登して︑世其の功を執らしむ︑
王申伯に命じて︑是の南邦を式せしむ︑
是の謝人に因って︑以て蘭の唐を作らしむ︑
王召伯に命じて︑帝伯の土田を徹せしむ︑
王将衛に命じて︑其の私人を遼さしむ︑ 申伯信に遇く︑王郡に餞せり︑申伯南に還る︑謝に千に誠に帰れり︑王召伯に命じて︑申伯の土蓮を徹せしむ︑以て其の横を峠しめ︑式て其の行を過にせり︑
この詩は︑宣王のとき︑宣王の舅に当る申伯が︑今日の河南省郡州南陽県の﹁
謝﹂に封ぜられ︑赴任するときのことを︑うたった詩である︒
大意は︑王事によくつとめる申伯を︑諸侯のことをつがしめ謝に封じ︑国都を
たて︑南国の方伯として︑諸侯の法則とせしむる︒宣王は召伯︵穆公司空職︶命じ
て︑申伯の居処を定め︑南国の城郭を築き子孫をして申伯の前功を守らしむ王
は申伯に命じて南国の方伯たらしむることを命ぜられ謝の人達によって︑﹁庸﹂
をつくらしめた︒また︑王は召伯に命じて申伯の土田を徹せしめ停御︵家臣の長︶
に命じて申伯の家人を遵さしめた︒申伯は︵﹁謝﹂に赴任せず朝にある疑あるを
以︶て信に遇き︑王は︑隣酉省鳳翔府﹁の郡﹂ で餞をし︑申伯は南にめぐり
﹁謝﹂に赴任した︒王は召伯に命じて︑申伯の土田の彊界を徹し︑根︵路次の
鍍糧︶を宿々にまうけさせて︑その行程をとどこおりなくすみやかにせられ た︑という大意である0この詩にうたわれているごとく﹁徹申伯土田﹂と﹁徹
申伯土彊﹂における﹁徹﹂の解釈は︑﹁国訳漢文大成詩経﹂の注釈では︑﹁停
﹂に徹は治なり︒﹁集﹂日く治とは其の井牧を正し其の賦税を定むるなり︒各
の田の等級を正しくし其の租の多少を制せるなり︒と解している︒西周の田制
及び租税については︑今後の研究にまつべきものがすくなくないが︑﹁孟子﹂
の夏の貢︑腰の助︑周の徹という解釈から﹁徹は﹂徹法の意味であるように恩
われ
る︒
そこで︑大雅・蕩篇・江漢︑﹁克鼎﹂の﹁錫土田﹂には賦税の対象として︑孟子︑
隙文公上の﹁其寛皆什l也﹂が関係している私田と考えられ︑この私田がさら
に賦税の対象とな月王命により︑大雅・蕩篇・掻高のような﹁徹土田﹂が現わ
れてくるのであると考えられる.︒さらに﹁徹﹂の意味から﹁徹土田﹂には︑私
田の他に公田が存在する可能性があるわけで︑大雅・大田の﹁我が公田に雨ふ
らし︑遂に我が私に及べ﹂の公田・私田は﹁徹土田﹂の範疇に入るものと考え
られるのである︒芳しか〜る考察に誤謬がないならば公田は王の所有地で土田
︵私臼︶ のl区劃が削られた形式で設置され︑その収獲物は王の所有に所属す
るように考えられ公田区域を除いた残余が﹁徹土田﹂の﹁私田﹂というように
推定されえよう︒さらに︑﹁徹土田﹂の﹁私田﹂の土地の所有の所属をつきと
めることによって︑西周の土地所有制の問題が︑僅かながら︑曙光がみい出さ
れうるように思われる次欝である︒
注目 詩経・国風下寺川幸次郎注︑一二貢︑岩波刊︑参照︒
住用 国訳漢文大成詩経の三〇九貫︒
﹁釆桑の女子は傾くは是れ海女にて︑正しき女子は桑など乗らず︑釆桑の
問に男子と関係が生ずればなり︒是の故に﹁行与子遺骨﹂の旬にて知るべ し︑子とは女子が意中の人なり︑此の意中の人と共に行き共に遣る︑其の
事を楽んで此の詩を作りしこと明白なり︒﹂
注糾 郭辣署著藤枝丈夫訳支那古代社会研究一六九貢
﹁農夫の娘たちには︑更にもう一つの﹁公事﹂が控へてゐたやうに思はれ る︒それは﹁春日遅々﹂としてうららかな時になると︑﹁公子﹂様方の春 情もまた動きはじめる︒その場合に娘達は︑環珊されることから免れるこ
とが出来なかったのである﹂と解し︑これは決して珍寄な出来事でない︒
近世学者の研究によれば︑多くの野蛮民族の曹長たちは︑すべての女子に
対して﹁初夜権﹂を持っていたことを説明している︒
注川 ﹁大雅・生民・生民寮に︑﹁維業維琶の■詩句がみえ︑粟は﹁カロキア
三 一 ハ﹂︑芭﹁シロキアハ﹂と解され︑栗芭は飯にかしきて︑衆盛となすペし とあるが︑芭を﹁アハ﹂とするのと︑菅菜と解するのでは︑相違があるが
今後の研究に侯つものとす︒﹂
注的 ﹁支那古代社会研究﹂四四一貫〜四五一貫︒
江㈹ ﹁庸﹂は︑一説に﹁声﹂と解した説もあるが︑郭捧若氏は︑魯虜・関
宮第﹁錫之山川土田附庸﹂の附膚を土についている鼻民と解している︒
︵支
那古
代社
会研
究二
四七
貢︶
注の 夏后氏五十市貢︒巌人七十両助︒周人百畝而徹︒其実皆什l也︒
二
大雅︑生民篇︑生民にーー1
之の荏寂を載う︑荏義姉席たり︑
和郎解釈たり︑麻麦傾醸たり︑
ま ぱ く も う も う
瓜鷹嘩唾たり︑誕に后稜の穂︑
相くる之道あり︑
生民薯は︑伝説的詩といわれているが︑西周の創成期にその始祖たる后榎が白
ら荏寂︵大豆︶を植え︑大豆の成長がよく︑禾︵黍稜稲梁︶みなよく育ち肩榎
はこれを業務とした︑という意味の詩句である︒これによると西周の創成期の
頃は︑王とも称えらるべき始祖の支配者は白から耕作に従っておったようであ
り︑王の﹁白餅﹂ということは︑后複葉から古公賓父︹太王︺を経て︑文王晶
にいたるまで続いたようにみられる︒
周薯︑無逸簾に1−
﹁鳴呼︑厭れ亦惟れ我が周の太王・王李は克く自ら抑畏す︒文王は服を卑し
うして︑厳功・田功に即き︑微果然恭小民㌫興し︑鵬教が乱猷㌣朝より
日の中沢に至るまで︑食に遺恨あらず︑用て寓居成和す︒﹂
書経︑周審・無逸篇は周公が︑成王を告成した章といわれている︒その内容は
成王時代の事がちと古事を引用して戒告しているものと二通りの文章からなっ
ている︒古事の引用の部として︑前記の資料を挙げたのであるが︑この記載に
ょれば西周の太王・王季・文王昌の時代は︑王自ら田に出て︑耕作に従事し︑
﹁服を卑しうし︑朝より夕べにいたるまで︑食に暇のない﹂程の勤勉さを伝え
ている︒しかして︑﹁無逸篇﹂のはじめに周公の言葉として︑つぎのごとき記
﹁鳴呼︑君子は︑其の知獣を所とす︒先ず壕穂の難難を知りて︑乃ち逸すれ
ば︑射ち小人の供を知る︒小人を相るに︑蕨の父母︑稼穂に勤労す口跡の子
乃ち稼穂の簸雉を知らず︑乃ち逸し︑乃ち諺し既に誕す︒﹂
﹁壕穂の難難を知りて︑乃ち逸すれば︑則ち小人の俵を知る﹂の大意は︑君た
るものは先づ農事の覿難を恩遣って後︑逸すること︑君は逸職にあるもので︑
農民の如く勤労には服せないが︑小人︵農夫︶の本拠としている農事のことを
よく知って︑初めてこれをよく︑治めることが出来るというのである︒また農
夫の実際状態をみると︑父母は農巣に勤労しているが︑農夫の子は︑農業の難
難を知らぬいとみだちなことになると述べている︒か〜る解釈からすれば︑成
王の時代から︑王自ら耕すことなく小人と呼ばれる農夫が農業に従事し︑王は よく治するために︑農業を知るだけにとゞまっているわである︒思うに西周は
成王の頃より農業生産方面は小人︵農夫︶の専相的職業に移行したように考え
られ
よう
︒
以上の考察からして農業生産関係は西周創成期の后稜棄−不富Ⅰ鞠−公劉1慶
節−皇僕Ⅰ差弗−毀愉−公非−高園−亜園1公叔祖類+首公璽父︹太王︺−季
歴︵王季︶Ⅰ文王晶Ⅰの諸時代は王︵支配階級︶も﹁日新﹂の時代と考えられ
武王発1成王雨Ⅰ以後は︑王︵支配階級︶は︑白餅ということをなさず︑農業
生産関係は︑農夫︵小人︶ という被支配階級の﹁専門的職業﹂となったと考え
られるわけである︒
王﹁白餅﹂の時代的区分の考察は︑後述せる﹁曽孫﹂の内容的概念を明確にす
るために︑ほかならない︒すなわち︑﹁田﹂関係の詩経の詩句にみえる﹁曽
孫﹂は外見︑王のごとき感を与えているからである︒また︑土地占有を判定す
る根拠ともなるように考えられるからである︒
つぎに︑﹁土地占有権﹂の関係問題を考察するために︑詩経︑小雅・北山篇・
常田の資料を挙げてみると︑つぎのようである︒
曽孫来止︑其の婦子を以て︑
彼の南畝に褒す︑田唆も至りて喜ぶ︑ノ
其の左右を摂り︑其の旨否を嘗む︑
二末易りて畝を長ふ︑終に尊くして且有からん 曽孫怒らずして︑農夫克く敏なり
この詩句は︑小雅︑北山黛︑大田︑周頚︑開篇・戟更︑および島名などの詩句
と関連しており︑それらを併せ補い︑内容的大意を示すと次のようである︒﹁田 を領し︑条を主る曽孫が︑共同耕作の際︑婦女子を引卒して︑農夫達が耕作に
従事している南畝にやってきて︑皆一緒に田畝で食事︵盤︶をとる︑
そこに︑農業技師のごとき︑官吏である田攻がやってきて喜ぶ︒曽孫は左右の
﹁盤﹂をとって︑旨いか香かを試食する︒︵上下親しむ︶︑南畝の禾︵稲︶は
よく育ち︑畝の隅々までよくできている︒今年も亦豊熟であろう︒曽孫は怒ら
ず︑働く農夫もよくつとめている︒﹂というのである︒
そこで︑この詩により︑西周時代の﹁田﹂に関係する﹁人物﹂を挙げてみると
小雅・北山篇・常田の︑﹁田﹂は︑前述せる﹁錫土田﹂若しくは︑﹁徹土田﹂
に関像ある﹁田﹂であるから︑まず詩句に現われなくても諸侯が関係している
二二
わけである︒このほかに詩句に現われている人物としては曽孫・田唆・農夫・
農夫達の婦子である︒諸侯と﹁田﹂の所有関係についてみると︑王と諸侯の関
係では大雅︑蕩篇・江漢の﹁錫土田﹂の﹁錫﹂は﹁賜﹂と解されているが︑﹁
賂﹂とは土地所有権の所属替であるか︑土地占有権の保有の意味であるか判然
しない︒しかしながら︑
小雅︑北山篇・北山に ー
薄天の下︑王土に非ざるは美し
率土の濱︑王臣に非ざるは美し︑
とうたわれている︒これはいわゆる公地・公民的な考え方である︒しかして︑こ
の詩は﹁幽王の人を用ふる私あるに依て︑辛労する者︑此の詩を作り以て諷刺
するなり︒﹂ ︵国訳漢文大成詩経評論六八﹂頁︶ との一説もあり︑西周末期の幽
王の時代とも判定されるので︑幽王時代までに︑公地⁚公民的な思想も存して
いたようにも考えられよう︒
そこで諸侯の﹁錫土田﹂で土田を賜わるという概念は︑﹁公地﹂である王の所
有地を占有するという意味であると考えられよう︒つぎに﹁田唆﹂についてみ
ると﹁田唆﹂は勤農の官︑田大夫なりと解され︑
周 頒
・ 臣 工 貸
︑ 噴 噂 に 1 億噂成王︑既に昭かに商を候せり
時の農夫を率ゐて︑厭の百穀を播く︑
駿に蘭の私を発し︑三十里を終へ︑
亦蘭の餅を服とし︑十干維窮せよ︒
この詩は成王のとき農官がおかれ︑﹁爾﹂は農官をさすと解されている︒この
詩の内容から︑農官が﹁率時農夫︑播靡百穀﹂とあれば︑農官は︑農夫を使役
して﹁田﹂に穀物を播施せしむるわけで︑農官は農夫に対して︑使役権的なも
のを保有していたようである︒つぎに農夫についてみると︑
齢 篇
・ 七 月 に 1
三の日干に轟とり︑四の日址を挙ぐ︑
九月場団を築き︑十月剰掛を納る︑
し ょ し ょ く ち 上 う り く く あ ま し ゆ く ぱ く
黍稜重稗︑宋麻寂麦︑
嗟我が農夫︑我が稼既に同まれり︑ぶり禦て宮功を雛れ︑朝に配禦宗かり︑
宵は簡素絢へ︑壷かに其れ屋に乗れ︑
其れ始めて百穀を棒かん︑
小雅
・北
山篇
大田
に
ー
我が軍き箱を以て︑載を南畝に倣む︑
贋の百穀を播し︑既に庭く且碩なり︑
曽孫是れ芳がへり︑
園篇︑七月は西周が謂水上流の附地域に居住していた創業期の詩であり︑小雅
・北山簾︑大田は︑幽王の政煩賦重を刺しった詩といわれている︒そこで︑西
周のはじめから終りの時代を通じて︑農夫は︑曽孫の欲するところに順って︑
﹁田の耕作﹂から︑播種まで一切を受持ち︑収穫が終ると︑田野から﹁邑﹂に帰
えり︑畳は茅を刈り︑夜は縄をない︑家屋の修理をし︑それが終るとまた耕作
の準備をするといったような︑農事労働に従っていたのである︒耕作労働に従
った西周共同体の農夫の構成員には﹁家長﹂たる資格者も含まれていた︒
周頒
﹁載
安﹂
に
ー
載ち更かり︑裁ち梓かり︑
其の耕すこと︑沢沢たり︑
干柄の其の惹︑照に狙き珍に狙き︑
侯れ主︑侯れ伯︑侯れ亜︑優れ旅
侯れ牽︑侯た以︑
喰たるあり︑其の盛︑息その婦に媚へり︑
この詩の︑主・伯・亜・旅・彊・以については︑主︵家長︶︑伯︵長子︶︑亜
︵次子︶︑旅︵諸弟︶︑彊︵外よりの助け人︶︑以︵やとい人︶と解釈されて
いる︒この資料により西周血族集団の耕作がうかがえるわけであるが︑ここで
は農業生産に従事する労働者︑農夫のなかには︑血族集団の﹁家長﹂が含まれ
ていることを特記しておく次舞である︒それは﹁土地占有﹂に関係ある曽孫は
﹁家長﹂でない証左となるポイントのように考えられるからである︒
つぎに婦子についてみると ー
願篇
・七
月に
ー
彼の微行に遜って︑ここ累乗を求む︑
春の日遅遅たり︑乗を来ること郡部たり
女の
心傷
み悲
しむ
︒
小雅・北山薯︑甫田に ー
曽孫来れるときに︑其の婦子を以て︑
彼の南畝に儀す︒
以上の詩により西周時代の婦子は︑桑摘み︑
き︑曽孫に引卒されて︑田野で食する ︵盤︶
つぎに︑曽孫についてみると︑曽孫は﹁田﹂ ﹁よもぎ﹂ つみに従い︑農耕のとを運ぶことに従っておった︒の占有権的なもの収穫物の収益権
的なもの士女の扶養の義務などの諸権を保有していたように考えられる︒
﹁田﹂の占有権︑収穫物の収益権︑士女の扶養の義務は︑西周共同体にあつて
は︑曽孫に所属している点については︑佃考﹁西周時代における﹁農夫﹂の社
会的性格﹂で述べたことであるが︑その要点に旨趣を補い列記してみるとつぎ
のようである︒
1 囲篇・七月
机議を禦戒を薪にし︑我が農夫を食う︒﹂
や し な
回 ﹁ああ︑我が農夫︑我が稼既に同れり︒﹂
2 小雅・北山簾︑常田︑
㈹﹁悼たる彼の甫田︑歳ごとに十干を取る︑我れ其恥閑を取りて︑我が
た く ほ
農夫を食う
回 ﹁我が田既に蔵し︑農夫之慶なり︒﹂
M ﹁以って我が校黍を介にし︑以って我が士女を穀わん﹂
目 ﹁曽孫の稼︑茨の如く︑梁の如し︑曽孫の庚︑塩のごとく︑京の如し︒﹂
小雅・北山貸︑青田の回﹁我田既蔵﹂とある﹁我﹂は語句のうえで︑曽孫であ
り︑曽孫の田すなわち曽孫が所有或は占有している田︑という意味である︒
目の﹁曽孫之壕︑如茨如梁︑曽孫之贋︑如臆如京﹂における穣・梁といった
﹁田﹂の収穫物は曽孫の収益物で︑その収穫量も相当多いようで︑保存貯蓄のた
めに︑﹁乃ち干斯倉を求め︑乃ち嵩の新の箱を求む﹂ ︹小雅・北山薯︑常田︺
とうたわれていることからも推量しえよう︒附篇︑七月の机﹁食我農夫﹂︑小
雅・北山篇︑常田の附︑Mは言うまでもなく︑農夫及びその士女を食うという
扶養の養務的のことをうたったものである︒
以上
の諸
考察
から
︑諸
侯の
﹁錫
土田
﹂︵
大雅
・蕩
・江
漢︶
︑﹁
徹土
田﹂
︵大
雅・
蕩・
山桧高︶ は︑土地の占有権的なものの保有と考えられる︒﹁田唆﹂についてみる
と︑﹁田唆﹂は廉官で︑農夫の使役権的のものを︑︵周頒・臣エ・唸嗜︶保有して
いる︒農夫︵小人︶ についてみると︑農夫は西周創成期︹囲・七月︺〜西周末
期︹小雅・北山・大田︺ の詩経の詩句の内容から︑西周時代を通じて︑農業生
産労働に従事している︒ただし︑創成期の頃は︑伝説的詩−大雅・生民篇・生
民によれば︑始祖后複は﹁自研﹂しており︑周審・無逸黛によれば︑周の太王
. 二五
王…幽
1分↓割
一 一 、
7……慧
・王季・文王の頃まで王の﹁白餅﹂が考えられる︒しかして成王の頃より王は
﹁白餅﹂せず︑農夫が農耕を主とする専門的職となった︒また農夫の構成員の
なかには﹁家長﹂︵周頒・載支︶が含まれている︒婦子についてみると︑薗・七月
では︑桑摘み︑棄採り︑布地︑染色などに従うほかに︑農耕時には曽孫につれられ
て︑田野食︵盛︶を運んでいる︒︵厨・七月︑小雅・北山篇・甫田︑一〃〃大田︑
周頚・載支︶︑つぎに︑曽孫についてみると︑農産物の収益権を保有し︹囲・
七月︑小雅・常田︺︑﹁士女﹂を蕃う義務的のものをも併有しそいる︒︹圏
・七
月・
小雅
・常
田︺
︑そ
の他
に︑
祭杷
︹小
雅・
甫田
︑大
田︺
をも
司っ
てい
る︒
そこで盲孫﹂は﹁嗟我婦千︑日為改歳︑八此童虞﹂ ︵圏・七月篇︶︑﹁曽孫来
止︑以其婦子︑鏡彼南畝﹂︵小雅・甫甲クク大田︶ の資料により︑農夫の家族
達を︑世話したり︑引率したりしている点に︑共同体の構成員内のl員のよう
に考えられよう︒また︑﹁播厭百穀︑既庭且硬︑曽孫是若﹂ ︵小雅︑大田︶ の
資料により︑曽孫が子女をやしない︑国用を売る願いにしたがって耕作につと
める﹂という詩句の意味からして︑やはり︑共同体内のl構成員のように考え
られよう︒また︑農夫と称するl田の共同体の構成員は同血族の血縁集団が主
体であり︑﹁家長﹂が差配していたようであるが︑﹁家長﹂は︑周頒・載安の資
料から農耕に従事しているのである︒すなわち﹁曽孫﹂は農耕労働には直接従
事していないので︑﹁家長﹂ではないのである︒
以上の結末からして︑曽孫は︑西周農業共同体のt構成員であって︑しかも﹁家
長﹂ではなく︑共同体の農業生産物の収益権を保有している者であると考えら れよう︒そこで︑西周土地所有の問題にしぼつてみると︑古代社会において
は︑一般的に﹁土地繚有制﹂ということがいわれてるが︑﹁収益権のない土地
所有ということは恐らくありえないことであろうと考えられる︒すなわち︑収 益権の保有者は︑土地所有者と考えられるわけである︒したがって︑西周時代
●
− ハ
においては︑﹁曽孫﹂が収益権を保有しているから︑土地所有者であったと考
えられるわけである︒
つぎに︑西周の土地支配関係から﹁土地所有﹂と﹁土地占有﹂との問題について
みると︑− 圏篇・七月には︑﹁及公子回帰﹂︑﹁為公子裳﹂﹁私其縦献絆干
公﹂の詩句がみえている︒﹁桑摘む女が︑公子と帰る︑或は︑麻を織り︑それを染
めて公子の裳を仕立てる﹂との詩句である︒また狩猟の際教︵家の一才︶の小物
は﹁私﹂とし︑紳︵家の三才︶の大物は﹁公﹂に献ず﹂という詩句である︒この資
料によって︑西周創成期の頃から︑公私の観念が西周社会層に存していたように
も考えられよう︒また西周末期の詩である︑小雅・北山篇には﹁淳天の下︑王 土に非ざるは美し︑率土の濱︑王臣に非ざるは美し﹂と公地公民的な思想がみ
えて
いる
︒ 西周社会層にかくのごとき︑公地公民的思想が浸透していたと仮定すれば︑西
周の土地支配関係はつぎのように考えられよう︒
⊥ Y 亘
画 一
←
慧
大家
−
庶
民︵
共同
体︶
周書・梓材篇に︑﹁贋の庶民を以ゐて︑厭の臣に塵び︑大家に達し︑厭の臣を以
ゐて王に達するは︑惟れ邦君なり﹂とあれば︑西周の統治支配組始は︑王−邦
君︵諸侯︶Ⅰ大家−庶民の層位的扶序がたてられていたようである︒この支配
組織は︑土地支配にも適用されうると思われる︒土地制度において公地公民的思
想が主体であるとすると︑西周の全土は王の所有に所属することになる︒した
がって︑諸侯が﹁錫土田﹂のような場合は︑王の所有地を分割してもらって︑
その土地を所属巷の形式で占有するということになるのである︒諸侯以下は占
有地の分割支配ということになり︑庶民すなわち︑農業共同体の構成員が︑阻
業生産に従う土地は︑占有地となるように考えられようb
西周支配組織からみると︑組織上の末端である土地は︑共同体︵庶民︶ の占有
地となるが︑共同体構成員のそれぞれの考案の結果︑曽孫が土地所有者であっ
たことは前述せるところであるが︑それは土地所有でなく土地占有者であった と考えられるのである
注l ﹁周項・臣工・臣工策に﹁嗟嗟臣工︑敬爾在公︑王麓爾成来春釆茄︑
嗟嗟保介︑維英之春︑亦又何求︑何知新容︑於皇来卒︑将受靡明︑明昭
上帝︑迄用康年︑命我衆人︑膚乃銭縛︑奄観蛭女︑﹂
この詩は︑﹁聴噂席﹂と︑ともに︑成王の農官戎命の韓といわれている︒
鹿官に典事の成法を授け︑天子の籍田には﹁保介﹂という農官の副をお き
︑ 康 夫 に 命 じ て
︑ 建 具 を 具 え て
︑ 新 醇 を つ く ら し む べ し と 戒 命 し て い
る︒以上の辞意からも︑成王﹁自耕﹂でないことは明白である︒
注2 辞経及び審経時代の社会変革と其の思想上に於ける反映﹂︵郭沐若著
藤枝丈奏訳支部古代社会研究l六三頁参照︶
注3 郭辣芳氏論文﹁支那古代社会研究﹂ ハ七貫参照
注4 太田秀道民論文︑﹁古代的土地所についての論者をめぐって﹂ ︵歴史
学研究ZO三〇四参照︶岩田拓郎氏論文﹁放散制度の解釈に対するlつの
疑問﹂ ︵歴史学研究N︒三〇四参照︶両氏の﹁反省と批判﹂の論文によ
り︑﹁土地所有﹂という言葉の法的概念については︑≡ルクスが﹁諸形 態
﹂ で 所 有 な る 語 を 用 い て い る の ほ
︑ ロ ー マ 法 的 観 念 で な く
︑ 種 の
拘宋﹂を前提としての所有である﹂と述べられている︒そこで︑舌代社
会の﹁土地所有﹂という概念は︑ローマ法的観念の﹁所有﹂と解すると 誤りがあるおそれがあるので︑拙稿では︑﹁所有﹂と使用する場合は︑
ローマ法的の所有権を規定するものとし︑西周共同体の場合は︑﹁所有﹂
という言葉は当らないので︑ローマ法的観念の﹁占有﹂を使用する︒
注5 佃考﹁西周社会・形態考﹂︵長短大紀十四号参照︶
注6 拙者﹁西周時代における虎夫の社会的性格について﹂ ︵長短大粒二二
号参
照︶
三
西周の ︵錫土田﹂ ︹大雅・蕩篇・江漢︺と﹁徹土田﹂ ︹大雅・薄紫・某高︺に
ついては︑前述せるところであるが﹁錫土田﹂は辞侯が王より賜せられた私田
である︒この﹁土田﹂が加税の対象とされ︑或は﹁王朝の勢九﹈を扶植拡大す
るような目的のために︑﹁土田﹂のなかに公田が設置されたのが﹁徹土田﹂で
あろ 貪ノ
︒
したがって﹁徹土田﹂のなかには︑﹁公田﹂区紺地を除いた﹁私田﹂もあり︑
西周の公田・私田は︑﹁徹土田﹂の範疇に入っているように考えられるのであ
る︒西周時代の﹁田﹂の面棟については︑
小雅・北山篇・常田に ー ﹁停彼常田︑歳取十干﹂とみえ︑周頒・臣工簾︑憶
姥に﹁亦服爾畔十干推納﹂とみえている︒この詩句の﹁十干Uについては︑﹁
注釈﹂︵国訳漢文大成千頁︶に﹁十干と限るは人力の用得して極まる所を謂ふ﹂
とあれば︑この﹁田﹂の面預が西周共同体農夫の労役の限界でもあったよう
に思われる︒そこで﹁十干﹂の問題であるが﹁十干﹂は説明的語句を用うれば
一単位︵仁nit︶ ﹁百畝﹂が十単位で千畝という意味と解釈されるのである︒
この千畝の両横の﹁田﹂をけだし﹁甫田﹂とよんだように思われる︒﹁青田﹂
の千畝の面積は相当の広さの﹁田﹂であったことは﹁常田﹂を大いなる田と解
二七
釈していることからも知られようし︑また︑国風︑斉篇・甫田の詩から︑西周
時代の耕作労役からも労力限界を示す﹁田﹂の面鏡とも考えられよう︒
そこで大雅・蕩篇・江漢の﹁錫土田﹂と大雅・蕩篇・撚高︑の﹁徹土田﹂の面
積は︑それぞれ相異っていたであろうが︑西周共同体の農夫の耕作労働の限界
の匿は千畝の常田と考えられるので﹁錫土田﹂ ﹁徹土田﹂の面積は︑青田の集
積と考えられので小雅北山篇常田の﹁青田﹂は﹁錫土田﹂ ﹁徹土田﹂の基盤の
田として考えられるのである︒
そこで﹁錫土田﹂の場合の干畝の﹁甫田﹂について吟味してみるとつぎのよう
であ
る︒
孟子勝文公上﹁周人百而徹︑其実皆什一也︑徹者徹也︑助者帝也﹂の観点から
すると︑干畝の田の☆すなわち百畝は︑諸侯収納の税﹁貢﹂となるのである︒
残余九百畝の﹁田﹂に︑さらに公田︵王所有田︶ が設匿されて︑王収納の税
︵助︶が課せられる貢・助二重加税の﹁田﹂がつぎのごとき﹁徹土田﹂である︒
すなわち大雅︑蕩簾︑基帯に﹁王命召伯︑徹申伯土田﹂とみえている﹁徹土田﹂ の場
合について吟味してみると︑この詩句の﹁徹﹂は孟子の﹁徹者徹也﹂により
徹の解釈を貢と助とを併用したものを徹と云う意味として︑吟味してみると︑
ま.ず﹁申伯土田﹂の王命によって︑王所有地である公田とそれに伴った﹁助﹂の
適用が考えられる︒﹁申伯土田﹂の申伯の所得と考えられる﹁貢﹂が︑課せら
れているのであるから︑そこで千畝の﹁青田﹂は﹁貢﹂として千畝の古︑す
なわち百畝が差引かれ︑葬余九百畝に﹁公田﹂が設置されるように考えられる︒
そこで九百畝のうち︑百畝が﹁公田﹂に当てられ︑その斉余八百畝は﹁百畝﹂
ずつ︑八単位の﹁家﹂が受持ち︑﹁百畝﹂の﹁公田﹂を共同耕作する﹁助﹂
が行われるのである︒九百畝のなかに﹁公田﹂が設置される場合﹁井田法﹂が 二八
行われる可能性もあるように思われるが︑一般に云われているごとき井字の形
式的田の区割をした井田法でなくとも︑﹁公田﹂らは﹁土田﹂が徹せれたとき
に存在するわけであろう︒つぎに曽孫の﹁徹土田﹂と﹁錫土田﹂との場合にお
ける﹁甫田﹂の土地占有についてみると︑﹁錫土田﹂の場合は︑諸侯の ﹁白
餅﹂はあり得ないし︑受田すれば即ち課税もあるとして諸侯への﹁貫﹂の税が
存在したとするならばなおさらに︑西周共同体の農作物の収益権的のものを保
有する曽孫が﹁青田﹂を占有していたと考えられるのである︒
﹁徹土田﹂の場合には﹁公田﹂は王の所有地であるが王の﹁白餅﹂は勿論あり
えないし︑孟子の﹁威者薄也﹂からして︑農耕に従う共同体の農夫が労力奉仕 することが助であり︑土地を借りて︑農緋に従い民力を提供することであり︑し たがって︑農産物の収益権的なものを保有する曽孫が﹁公田﹂を占有していた
と考えられよう︒また﹁公田﹂百畝を差引いた残余の八百畝の﹁田﹂も﹁収益
権﹂的な保有から曽孫の占有私田と考えられよう︒したがって︑甫田千畝は曽
孫の占有と考えられるのである︒
かくして︑西周時代は曽孫が田を占有し︑農耕に関係し︑農作物の収益権的なも
のを保有し︑納税の貴をも負うていたように考えられるのである︒つぎに︑小
雅・北山篇・大田の﹁雨を興すこと邪郡たり︑我が公田に雨あらしめ︑遂に我
が私に及べ﹂とある公田・私田は︑小雅・北山篇大田の詩は小雅∵北山篇・青
田の意に答えた農夫の詞を詩にした対詩という解釈があるが常田詩の対韓とす
れば︑干畝の甫田内に設置された公田・私田と考えられ︑﹁徹土田﹂の範囲に
入る公田・私田であろう︒かく吟味すれば﹁大田﹂詩の公田・私田は︑曽孫の
占有する﹁田﹂であり︑公田百畝に﹁助﹂が行われ︑﹁私田﹂のうち百畝は貢
の税が課せられており︑残余八百畝が曽孫が農作物の収益権的なものを保有す
る田であり︑この収益物にによって農夫および婦子が黄われる瞳となって
いたと解せられるのである︒
儀1 五井直弘氏︑﹁浜代の公田における仮作について﹂歴史学研究望︒・二
二〇︑参考
注2 ﹁十干﹂については︑﹁国訳漢文大成詩経﹂七〇八貢に﹁十も千も満
数なれば多きを云﹂と解釈している︒﹁漢籍国字解全書詩経﹂三四九
貢には︑﹁一万畝の税を云﹂と解釈して︑﹁馨し十畳四方の地に︑一 首井を画す︑これを一成と云︑英田九万畝なり︑井ことに九夫︑夫こ とに百畝︑一井の中間一夫を︑公田として︑めぐり八乗を農民の私田 と し
︑ 共 に 公 田 を つ く ら し め て
︑ 其 税 を と る
︑ こ れ 即 ち 九 一 の 法 な り 然 れ ば l 万 畝 の 税 は
︑ l 成 の 公 田 よ り 出 る 所 な り
﹂
⁝ と 説 明 さ れ て い
この説明には︑いろいろな矛盾があると考えるが︑殊にこの説では︑ る ︒
﹁公田﹂が首枚ということで︑小津・北山第・青田に﹁曾孫来止︑以
其舞子﹂とあり︑曾孫が農兵の滑子を伴って︑首枚の公田を田野食︵
盛
︶ を 持 参 し て 巡 る こ と は
︑ 不 可 能 で あ り
︑ 非 現 実 的 の こ と で あ ろ
為ノq
注3 孟子膝丈公上に﹁方呈市井︑井九首畝︑其中為公田︑八家皆私百畝﹂
とあり︑﹁首畝﹂は家を単位としているが︑﹁家﹂の概念が判然しな
.いのであるが︑﹁家﹂とは︑﹁単位﹂を示す意味を含んでいるように
解して︑単位という言葉を使用しておいたわけである︒
注4 ﹁無田青田︑推参屠蘇︑無思達人︑労心仰相﹂国風・脊∵常田︶
注5 郭蘇芳氏は﹁周代鐘鼎敵に対する社会的一考察﹂の論文︵支那古代社
会研究四四一貫︶ で﹁周代井田法﹂を否定されている︒
田嶋定生民﹁中国舌代社会の構造的特質に関する問題点﹂ ︵中国史の 時代区分一八二阜︶論文で呂振羽氏が﹁巌周時代的中国社会﹂で井田制をl種の塵井藤漑耕地として︑存在を是認している点を紹介されている︒
︵l
九六
二・
l〇
・l
八︶
︵
歴史
学担
当︶