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熊 野― 海 と 異 界 、 断 章

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Academic year: 2021

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熊 

海と異界、断章

        

  紀伊半島の南端を熊野と呼ぶ。沿岸には熊野灘

・ 枯木灘と名付けられた荒々しい太平洋が広がり、内陸は険しい

紀伊山地に抱かれた土地、それが熊野だ。現在の行政区分からいうと三重県南部と和歌山県南東部に位置し、本州のなかでは東京からもっとも隔てられた地域。その陸の道も海の道も孤絶したようにみえる熊野は、古代からずっと、都びとにとっては憧れの異郷、神のいます異界であった。

   柿本の朝臣人麿の歌四首み熊野の浦の浜木綿百重なす心は へど ただに逢はぬかも (『万葉集』巻四

・ 四九六番歌)

  この歌によって、熊野といえば浜木綿の咲く浜辺というイメージが定着することになる。しかし、人麿がほんとうに熊野に行ったことがあるかどうかはわからない。連作四首の第一首目に置かれている歌だが、二首目以下の三首には地名がなく、どこで読まれたものか、同時に作られたものかといったことを考える決め手がない。全体四首ったって、「百心」

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熊野の紺碧の空と海とを背景として咲くま白な浜木綿がイメージできればいいということになる。

  山に囲まれたヤマト(倭/大和)の地に暮らす人びとにとって、難波も伊勢も熊野も、海は憧れの世界であったが、そのなかで熊野は、ことに近づくことのむずかしい場所だったのではないかと思う。だからこそ熊野は、「み熊野」というかたちで詠まれる、神のいます聖地であり憧れの土地になったのだ。

  『万葉集』のなかで、

地名に接頭語「み」が付くのは吉野と熊野に限られるのも(熊野の場合は、後にふれるように「ま熊野」とも表現する)三音で発音される地名だから語呂を整えるためにというような理由ではなく、吉野と熊野は、七、八世紀の都びとにとって特別な世界だったからである。十一世紀以降、「熊野御幸」や「熊野詣」が爆発的に流行し、上皇も貴族も武士も庶民も引きも切らず押しかけるという情況を生み出した背景には、古代以来連綿と続く熊野への憧憬といったものがあったからに違いない。

  本稿では、古代の熊野がいかなる世界としてイメージされていたかということを、遺された数少ない資料をもとに考察してみたい。ただ断っておけば、三重県中部の山間部に生まれ育ったわたしには小さい頃から憧れの世界としてあった海の熊野だが、その考察は、残念ながら断章にならざるをえないのではないかと虞れる。

異界に向かう場所、熊野

  熊野という地名はどのような意味か。ぬっとクマが出てくるから熊野だというような説明は『古事記』の駄洒落で、熊野のクマには、曲や隈の文字が宛てられるような、曲がりくねった道の先にあるところ、奥まって隠れた土地というようなニュアンスが漂う。だから、開放された明るさよりは、閉じ込められた暗い場所を思い描く。それ

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は一面では熊野という土地を言い当てているように思うが、反面ではまったく見当はずれかもしれない。

花の窟  熊野が閉じ込められた暗いイメージを与えるのは、熊野の地が神の死に結ばれて登場することにもあらわれている。よく知られた『日本書紀』一書の事例である。

  一書に曰く、 なみの尊、火の神を生む時に、 かれて 退 りましぬ。 かれ、紀伊の国の熊野の有馬村に はぶ

りまつる。 くに ひと、この神の みたまを祭るには、花の時にはまた花を以ちて祭る。また鼓

・ 吹 ふえ

舞ひて祭る。(第五段一書第五) ちて、歌ひ ・ 幡

  イザナミが葬られた場所について『古事記』には、「故、その神避りし伊邪那美の神は、出雲の国と伯伎の国との き」、『古記』た異界として位置づけているので、このように語るのは納得できる。

  それに対して熊野の有馬村に葬られたという『日本書紀』一書の伝えは何を意味するのか。正伝や他の一書には、『日紀』ってであったというのは間違いなかろう。そして、それが熊野であるというのは、重要なことだ。

  葬所には花が飾られ幡を立て歌舞しながら、その魂は鎮められるのだという。たいそう賑やかで華やいだ祭礼が行われていたことがわかるのだが、この熊野の有馬村にあるイザナミの葬所というのは、今、 はなの いわや(花窟神社)

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(三馬)(写真1、参照)毎年、二月と十月の二日に「お綱掛け(お綱渡し)」という祭りが行われている。お綱掛け、「藁『幡旗』条」り、熊野灘に面して聳え立つ高さ五十メートルもの(花窟)「荒縄七本」を束ねた長い綱に、準備した「縄旗」を垂らし、その長い綱を海岸に集った氏子をはじめ近隣の人びとが引いて張る神事である 篠原は「縄旗四条」と記すが、少なくとも近年の行事で垂らされる幡旗は三本で(写真2、参照)、「この三流れの幡旗はそれぞれ、天照大神、月読命、須佐之男命の三貴神を表している」という

  、「七塊」、「鼻出ていることから『 はなの窟』とも表現される漁民の山当て(漁をする際の目印にする山)にもなっている。海からみたランドマークでもある」と三石学は

写真1 花窟 写真2 花窟「幡旗」

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指摘する 。その岩塊がなぜイザナミの葬所として伝えられることになったのかといえば、おそらく海に向き合っているからであり、その彼方にイザナミのいます黄泉の国があると観じられていたからではないか。

  抉られたような浅い穴は開いているが、花の窟は、ほぼのっぺらぼうな岩塊であり、岩塊の奥に穴があってそこにイザナミの亡骸が鎮まっているというような発想からイザナミの葬所になったわけではない。今「花の窟」と呼ぶ場所を、古代の人びともイザナミが葬られた場所とみなしていたのだとすれば、聳える岩塊は、死者の魂が向こうの世界に行くための中継地のような場所としてあり、そこを通って異界に行ける場所が熊野の有馬村だと古代の人びとは考えたのである。そう考えるにふさわしい土地が熊野だった。

常世の国  熊野と海の彼方との関係をみた時、もう一つ興味深い神話が思い出される。それは、出雲神話でありながら『日本書紀』にも伝えられた話で いわゆるスクナビコナとオホクニヌシ(オホナムヂ)による国作りの神話である。ただし、熊野が出てくるのは『日本書紀』に限られる。

  『古事記』によると、オホクニヌシが「出雲の

さき」にいた時、「波の穗より天の の船に乗りて ひむしの皮 うつ はぎに剥ぎて とし、 り来る神」がいる。名を聞いても答えずだれも素性を知らないのだが、 (ヒキガエルのこと)が、「こは 必ず知りてあらむ」と言うので連れてきて尋ねると、「こは かむ の神の御子、 すく の神そ」とクエビコは言う。そこでカムムスヒに尋ねると、「こは実に我が子なり。子の中に、我が たな また り。故、 いまし あし はらの あに おとて、 かたう。神は、力を合わせて国作りをするのだが、「しかして後は、その少名毘古那の神は、 とこ の国に わたりましき」と語ら

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れており、スクナビコナは、常世の国に行ってしまう。

  常世の国というのは、水平線の彼方にあると考えられている、神々の住まう永遠の世界だ。そこには神仙思想による不老不死の観念が混じっていそうだが、ユートピア世界への憧憬は、おそらく古層の異界観として存在した。った   『古

記』、「出(島岬)渡ってった、『日紀』話ではきちんと語り伝えている。

  かの おほ むぢの命と、 すくな ひこ の命と、力を あはせ心を一つにして、天の下を る。また うつ しき あを ひとくさおよび の為は、その病ひを をさむる みちを定む。また、 とり けだもの

・ 昆 はふ

むし わざ はひ はらはむが為は、その まじなひやむる のりを定む。ここを以て、 おほみたから、今に至るまでに、ことごとくに みたま のふゆ かがふれり。

  むかし大己貴の命、少彦名の命に かたりて曰はく、「吾らが る国、あに善く成せりと謂はむや」と。少彦名の命、 こたへて曰はく、「あるは成せる所も有り。あるは成らざるところも有り」と。この ものかたりごと けだ むねらし。その後に、少彦名の命、行きて熊野の さきに至りて、つひに常世の くに いでましぬ。また曰く、淡嶋に至りて、 あは から のぼりしかば、弾かれ渡りまして常世の郷に至りましき、と。(第八段一書第六)

  前段には、地上に暮らす人びとのために、病気平癒や災いの排除の方法などを定めたというようなことが語られ、後段では、国作りはうまくいっているかというオホナムヂの問いに、うまくいっているところもあるしまずいとこ

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ろもあると禅問答のような答えをした後に、スクナビコナ(以下、引用以外はスクナビコナで統一する)は「熊野の御碕」から常世の国(郷)へ行ってしまったという。その熊野がどこかという点については、神話の舞台が出雲であるということを踏まえれば、出雲の国にある熊野とみるのが理解しやすい。しかし、現在の熊野神社(松江市八雲町熊野)のある辺りを熊野とみなすと、海から隔たり過ぎており、岬(御碕)とある地形にそぐわない。もちろん、サキを海に突き出しているところに限定する必要はないが、常世の国に渡っていったというのだから、やはり海に面した岬のほうがふさわしい。

  (オば(記』には二神の国作りにかかわる伝承が多い、など)広々とした海に突き出した岬から異界に去っていくほうが破綻がない。そして、常世の国に渡ることのできる熊野というと、紀州の熊野しかないのではないか。

  補陀落渡海の僧たちに想いを馳せた益田勝実の論文「フダラク渡りの人々」では、逡巡することなく、スクナビコナが常世に渡った熊野の御碕を、紀州の熊野として論じている 。その御碕が熊野のどこかを特定しているわけではいないが、おそらく紀伊半島の先端、潮岬を念頭に置いているのは間違いなかろう。

  補陀落(あるいは補陀落山)は、天竺の南の海上にあるとされる観音菩薩のいます島で、そのユートピア世界に漕ぎだしてゆく修行僧たちは、熊野の那智の浦から小さな屋形船に閉じ込められるようにして船出していった。なぜ、突然そこが補陀落渡海の船出の地になったのかといえば、イザナミの葬所があったり、スクナビコナが常世の国に渡っていったという神話があったからだ。異界に向かうことのできる場所、それが熊野だから、補陀落渡海の僧たちは、船出の地を熊野に求めたのである。

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  イクメイリビコ(垂仁天皇)の世に、天皇に命じられたタヂマモリが、常世の国にトキジクノカクノコノミ(永遠の輝く木の実)を採りに行くという話は『古事記』にも『日本書紀』にもあってよく知られている。タヂマモリがその実を苦労して採ってもどると天皇は死んでいる。人間の限られた寿命を語る話になっているのだが、タヂマ、『古記』『日紀』(倭命)至った、「こは、すなはち常世の浪の しき なみ する国なり。(略)」(『日本書紀』垂仁二十五年三月条)と告げたというから、東の海の彼方に常世の国はあると考えられていたのだろうか。

神の寄りつく世界、熊野

  異界に漕ぎ出す場所が熊野だとすれば、そこは当然、神の寄りつくところでもあった。それを象徴するのが、秦の始皇帝に命じられ、不老不死の仙薬を求めて東の海の彼方三千里にあるとされる蓬莱山を目指したという徐福の上陸地の一つが熊野だったとする徐福伝説であろう。徐福が渡来したという土地は、日本列島の各地に伝えられ、日本海沿岸、太平洋沿岸の各地に有名なところだけでも二十か所以上あるようだが 熊野はそのなかでももっとも知られた渡来地であった。

  こうした伝承が語り出され定着するのは、三石学も指摘するとおり 熊野の海岸は黒潮が打ち寄せ、漂着神を寄りつかせるところだと人びとが考えていたからだ。熊野には、黄泉の国のイザナミの葬所があり、常世の国に旅立つ神がおり、補陀落山へ渡ろうとする僧がいるのと対になって、訪れる神が存在する。こちらから向こうへ行くこ

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とができるのは、向こうからこちらへ訪れるものがいるからだ。そして、熊野へと寄りついた神の代表が、カムヤマトイハレビコ(ヤマトに入って初代神武天皇となる)であった。

  『古

記』『日紀』「神征」れている。それが事実であったか否かは措くとしても、イハレビコは、熊野の地を経てヤマトへと向かった。その上陸場面を、『古事記』では次のように伝えている。

  故、 かむ やまと の命、その地より廻り幸でまして、熊野の村に到りましし時に、大熊、 ほのかに出で入りてすなはち失せき。ここに、神倭伊波礼毘古の命、にはかに まし、また いくさも皆遠延て伏しき。この時、熊野の たか くら 一ふりの ちて、天つ神の御子の伏したまへるところに到りて献りし時、天つ神の御子、すなはち め起きて、「長く寢つるかも」と詔りたまひき。故、その横刀を受け取りたまひし時、その熊野の山の荒ぶる神、自から皆切り たふさえき。ここにその え伏せる御軍、悉に寤め起きき。

  故、天つ神の御子、その横刀を獲しゆゑを問ひたまへば、高倉下答へ曰ししく、 おの いめに、天照大神、高木神、て、 たけ かづち く、り。我が御子等たち やくさみ坐すらし。その葦原の中つ国は、もはら汝が言向けし国なり。故、汝、建御雷の神降るべし』と。ここに答へ曰ししく、 は降らずとも、もはらその国を平むけし横刀有れば、この刀を降すべし〈此の刀の名は、 の神と云ひ、亦の名は みか の神と云ひ、亦の名は つの たまと云ふ。此の刀は石上神宮に坐す〉。この刀を降さむ さまは、高倉下が倉の むね穿 うかちて、それより墮し入れむ。故、 なれ取り持ちて、天つ神の御子に献れ』と。故、夢の教への まにまに、 あしたに己が倉を見れば、まことに横刀有りき。故、この横

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刀を以ちて献りしにこそ」と。

  さと、「天 そ。荒ぶる神 いと さはなり。今、天より がらすを遣はさむ。故、その八咫烏 きてむ。その立たむ あとより ますべし」と。

  故、その教へ覚しの まにまに、その八咫烏の後より幸行でませば、吉野の河の河尻に到りましし時、 うへ せて魚を取る人有りき。ここに天つ神の御子、「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕は国つ神、名は にへ もつ と謂ふ」と答へ曰しき〈此は の鵜養の祖〉

  『古事記』によれば、

日向を出発したイハレビコと兄のイツセは、宇佐から筑紫、安芸、吉備を通って なみ はやの渡りを経て日下の たで に入り、なおも東へ向かおうとするが、トミビコ(登美毘古)に行く手を阻まれ、兄イツセは傷ついてしまう。そこで、日に向かって東に進むのはよくないというので紀伊半島を南に回りこもうとするが、紀の国の みな (和歌山市あたり)でイツセが亡くなり、イハレビコは独りで紀伊半島を回り込んで熊野へと至り、大熊に出遭って倒れてしまう。すると、引用したように、アマテラスとタカギの神の援助があって、熊野のタカクラジを通して布都御魂という横刀が下され、蘇生したイハレビコは、道案内に遣わされたヤタガラスの助けも得て内陸に進軍し、ついには やまと はらの宮で即位することができた。

  、『古記』『日本書紀』とを比べると経由地点などに差があり、『日本書紀』のほうが、途中の出来ごとや地名などが詳しく、伝承に成長の跡が窺える。おそらく、初代天皇の建国神話は、苦難の道のりを積み重ねることによって成長していった

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、『古記』『日紀』っそったせよう。

  西からの旅を続けて螺旋状に中心へと入るために、西からぐるりと南へ迂回するのは理解できるが、地形的にみれば熊野まで行く必要があったのかという疑問を生じさせる。たとえば、紀ノ川の河口に位置する男之水門に到って兄イツセを失ったイハレビコは、そこから南に回り込まなくても、紀ノ川を溯ればよかったのではないか。さきに引用したように、熊野で息を吹き返したイハレビコ一行がヤタガラスに導かれて向かったのは、吉野川の河尻でった町、西   (大国)入って(和歌山市)から阿陀(五條市阿田)へ行くなら、熊野を経由して山中を歩くより、紀ノ川を溯るのがだんぜん早く、、『古記』「吉尻」とあるのを重んじれば、紀ノ川ルートを選ぶべきだ。

  、『日紀』 、『日紀』、「奈 だの しもの あがた、『古記』、「奈部からみれば西方の吉野川下流」に出るルートを採っているとみる。そして、現在の国道一六八号線に沿って吉野川下流に抜けるのはそれほど困難な道ではないと述べ、吉野川の河尻に出るという『古事記』の記述もけっして矛盾はないと述べている

  菟田下県は現在の奈良県宇陀市大宇陀のあたりで、熊野から行くなら、大峰の奥駆け道を通って吉野へ抜け宇陀

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、『古記』西『日本書紀』の東方ルートへと建国神話が展開したという可能性は大いに考えられる。

  ただ一つ付け加えれば、森浩一の説明はわかるとして、なぜ熊野から五條の阿田へ陸路を抜けなけれぱならないのかということである。ふつうに考えれば、阿田へ抜けるなら紀ノ川をまっすぐ溯るルートが選択されるはずで、おそらく、『古事記』の東征伝承で「吉野川の河尻」が出てくるのは、『古事記』の東征伝承が成立する以前に、紀ノ川を溯って阿田から吉野

・ 宇陀を経て奈良盆地に入るという語り口をもった原「建国神話」が存在したのではな

いかとわたしは考えている。伝承の成長過程において、いくつかの段階があったはずだからである。

  知って『古記』『日紀』西トにせよ東方ルートにせよ、いずれも熊野を経由して紀伊半島に上陸しているということを無視することはできないし、東征伝承における熊野の重要さはその点でもきわめて大きいとみなければならない。そして、なぜ、ある段ったった熊野という地が、訪れる神を迎える場所であったからだ。徐福がそうであったように、カムヤマトイハレビコも熊野に引き寄せられ、熊野の地に上陸するのである。

  民俗学者の野本寛一は、熊野の信仰と環境を論じるなかで、海の彼方から漂着する漂着神や漂着仏などの伝承の「神承」、「熊で育まれてきた」と述べている (1

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船と熊野   世界遺産となった熊野古道の人気もあって、熊野というと山の印象が強い。たしかに紀伊半島は大峰や大台

・ 吉

野の山々が連なる山岳地帯である。しかし、熊野は海に向き合った土地であり、海によって世界と繋がっていたのだと思う。それは、古代からずっと変わらないのではないか。

真熊野の船

  海と繋がるには船がなければならない。それゆえに、熊野と船は切り離せない。『万葉集』でも、熊野といえば船である。

がくりわが漕ぎ来れば ともしかも やまとへ上る真熊野の船 (「 から の島を過ぎし時、山部宿禰赤人の作れる歌一首并せて短歌」巻六

・ 九四四番歌)

つ国志摩の海人ならし真熊野の小船に乗りて沖辺漕ぐ見ゆ (「 かり みやにして大伴宿禰家持の作れる歌二首」巻六

・ 一〇三三番歌)

うら 漕ぐ くま ふな附きめづらしく懸けて思はぬ月も日もなし(作者未詳、巻十二

・ 三一七二番歌)

  いずれも、熊野の船が歌われ、うち二首は「真熊野の船」という定型的な歌い方をする。

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  一首目は、長歌と反歌三首のうちの二首目に置かれた短歌で、一連の長反歌は、瀬戸内を西に向けて下ってゆく折の、室津(兵庫県たつの市御津町室津)の沖合に浮かぶ辛荷の島(現、唐荷島)のあたりでの歌。赤人の乗る船とすれ違った真熊野の船は、東へと向かって漕ぎ上ってゆく。

  二首目は家持の覊旅歌。狭残(あるいは か)の行宮がどこにあったかは明らかではないが、おそらく伊勢湾に面した土地だろう。その沖合を、真熊野の船に乗った志摩の海人が過ぎてゆく。

  三首目は、場所も作者もわからない。「熊野船附き」は、熊野の船の面付きとでもいった意味か。とすれば、それは、見た目が他の船とは違っていて一目で区別できるような船だ。だから心にかかり家の妻を思い出させる。

  その、だれが見ても一目で区別できる独特の船、そこに熊野の船の特徴があった。そうでなければ、船の専門家でもない赤人や家持が、離れて漕いでいる船を見て「真熊野の船」と言い当てたりはできないはずだ。そして、スサノヲが「浮く宝」つまり船の材にするようにと言って日本列島に植えたクスノキ(樟)とスギ(杉)の巨木が、、『日紀』一書第四、第五を参照してほしい。そして、そのイタケルは紀伊の国(木の国)に祀られる神である ((

  志摩の海人が乗る船だというからそれほど大きな船ではないだろう。しかし、足が速く誰が見てもわかる特徴のある形をした船、しかも「真」という接頭語が付くところからみて、神々しささえ湛えて浮かぶ船、それが真熊野の船だろうか。

  、『日記』 よう ごう

折、後、入った二年後に山に入った村人が読経の声を聞いたが姿はなかった。半年後にふたたび山に入った人がふたたび読経の声

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を聞き、探してみると足を縄で縛って捨身して岩からぶら下がる僧の しか ばねがあり、それを知った永興は哀しんだ。三年目にも声が聴こえるというので永興が骨を収めようとして出かけると、その舌は腐ることなく生き生きとしていたという(下巻第一「法花経を憶持するひとの舌、 りたる ひと がしらの中に着きて朽ちぬ縁」)。

  「熊人」、「熊る」たちであった。彼らは山中で木を伐って船を造り(おそらく刳り船)、「後に半年を経て、船を引かむ」ためにふたたび山に入ったと語られている。山中で乾燥させた船を引き下ろすのである。熊野の海辺に暮らし造船技術をもつ人びとは、熊野川を溯って山中に入り、クスノキやスギの大木を伐り倒して船を造っていた。その船の名称は出て「真船」った、「クて堅く重いが、はるかに長持ちする」そうで (1

真熊野の船もクスノキで造られていたに違いない。熊野には今もクスノキの巨木が多い。

熊野の諸手船

  熊野の船はもう一つ、次の神話に登場する。『日本書紀』第九段正伝に描かれた、いわゆる国譲り神話において、コトシロヌシ(事代主神)を連れに行く場面である。

  時に、 己貴の神、 こたへて まをさく、「我が子に問ひ、 しかして後に かへりことまをさむ」と。この時に、その子 こと しろ ぬし神、 さき たのしび とりの あそび わざ故、 もろ ぶねて〈 あめの鴿 はと ふね 〉、使 いな はぎて、 たか むす

参照

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