浅見絅斎『靖献遺言』に見る顔真卿の節義とその書
細 谷 惠 志
緒 言 江戸時代の初期、儒学が世の中の学問として登場してくると、朱子学や古学あるいは陽明学といったいくつかの特色ある学派を生ずるに至った。山崎闇斎(一六一九―一六八二)は、その晩年には垂加神道を唱え、日本学へと発展させていった。浅見絅斎は闇斎の朱子学の面を媒介として、大義名分の闡明に力を傾注した。浅見絅斎(一六五二―一七一二)の『靖献遺言』は、漢土の忠臣義士の行実を仮りて、日本の武士たるべき義理の端的を示したものである。その史実の文章は漢土のものでありながら、その心はわが国の士たるものの道を説いたものに他ならない。
君に仕えて節義を全うした忠臣義士が最後に残した言葉が「靖献遺言」の字句としての意味である。貞享元年(一六八四)絅斎三十三歳、「貞享甲子甫めて靖献遺言を稿す」(「書靖献遺言講義後」)という語からもわかるように、絅斎はこの年『靖献遺言』の執筆に着手している。そして足かけ四年、貞享四年(一六八七)に完成している。この『靖献遺言』には八人の忠臣義士とその遺文が記されているのだが、絅斎がこれを書いたのは一体何のためであっ
たのだろうか。一つには許魯斎(一二〇九―一二八一)の出処進退に対する批判、すなわち明儒薛瑄(一三八九―一四六四)の立場に対する疑義から『靖献遺言』を著し、節義の大切さを説いたものだと言われている (1)。この『靖献遺言』には、歴代の漢土を代表する忠臣義士の遺文が採録され、その伝記が付されている。そして『靖献遺言』巻四には顔真卿(七〇九―七八五)「移蔡帖」がある。ここでは、顔真卿を取り上げその節義と書について述べてみたい。尚、漢文は書き下し文に改めた。
一、『靖献遺言』「移蔡帖」に見る顔真卿について
唐の顔真卿の「移蔡帖」を中心として、その誠忠無比の事歴を挙げて、節義の観念を強く主張したのが、「移蔡帖」の趣意である。「移蔡帖」については後述する。
「唐 太子太師顔真卿」と「唐」朝の名を掲げたのは、唐朝で受けた官を汚さないで命を終わったので特にこれを名乗ったのであり、これこそが浅見絅斎の意とするところである。以下、『靖献遺言』に従って真卿の事跡を見ることとする (2)。
真卿は、字は清臣といい、玄宗(六八五―七六二)の治世に平原郡(今の山東省平原県)の太守となった。彼は早く安禄山(七〇三―七五七)が叛乱を起こそうとしていることを知って、長続きの雨のために破損したという口実として城壁や濠を修理し、兵糧を蓄え用意をした。そこで禄山が叛を起こすや、真卿に命令を出し、兵を率いて河津の地で官軍を防げといって来たので、真卿は使者を派遣し、間道を通って都に赴き、玄宗に禄山謀叛の様子を奏上させた。
真卿、字は清臣、玄宗の朝に平原の太守たり。初め安禄山のまさに反せんとするを知り、霖雨によりて城濠を脩め、廥廩を儲く。禄山既に反し、真卿に牒し、兵を将ゐて河津を防がしむ。真卿、使を遣はし、間道これを奏す。(『靖献遺言』巻四)
玄宗は始め河北の郡県がすべて賊に従ったと聞き、嘆いて言った「河北二十四郡にまったく一人の忠義の人物がいないのか」と。真卿の奏上が到達し、大いに喜び、「朕は顔真卿がどんな様子をした人間であるかも記憶していないのに、よくもこのように忠義を尽くしてくれる」と言われた。真卿はまた親客に、ひそかに懸賞をかけて賊を求めているとの書附を持って諸郡に赴かせ、同時に勇士を募集し、兵を起こして禄山を討てと諭し、ついに涙を流したのであった。諸士みなこれに感動し奮起した。玄宗始め河北の郡県、皆、賊に従ふと聞き、嘆じていはく「二十四郡、曾て一人の義士無きか」と。奏至るに及びて、大いに喜びていはく、「朕、顔真卿の何の状なすかを識らず。乃ち能くかくの如し」と。真卿又、親客に密かに賊を購むる牒を懐き諸郡に詣らしめ、および勇士を召募し、諭すに兵を挙げ禄山を討ずるを以てし、継ぐに涕泣を以てす。士皆感憤す。(『靖献遺言』巻四)
禄山はその部下のものに、さきに東京(洛陽)、即ち洛陽を陥れた時、降参せず臣節を守って殺された李憕(?―七五五)
奕(?―七五五) ・ 盧
禄山、その党に、先き東京を陥るる時、節に死する臣、李憕 人々、賊を殺して応じ、真卿を推して盟主とした。 に収めて葬り、位牌を作って祭り、その前で哭したので、それに感動し、賊手に落ちた河北の諸郡では、多くの 平原に至った。真卿はその使いをとらえて斬って見せしめにし、三人の首を取って、草でこしらえた体につけ、棺 清(?―七五五)の三人の首をたづさえて河北の諸郡に触れ示させ、その使いが ・ 蒋
・ 盧奕
・ 蒋清三人の首を齎ち、河北の諸郡を
徇 となへ
しめ、平原に至る。真卿、使いを執へ、斬りて、以て徇 となへ、三首を取り、芻を結び体を続ぎ、棺歛してこれを葬り、位を作りて祭哭す。是によりて諸郡多く賊を殺して相応じ、共に真卿を推して盟主とす。(『靖献遺言』巻四)
折柄、真卿の従兄である、常山(河北省正定県)の太守の顔杲卿(六九二―七五六)もまた、兵を起して賊を討つこととなった。真卿も、平原からひそかに、杲卿に告げた。軍を連ねて禄山の帰路を遮断し、そこでその西進の勢を弱めようと杲卿はそこで謀略をもつて賊将等を擒えて斬り、ついに井陘口の隘路による適兵を追い払い、饒陽(今の直隷保定道)の圍みを解いた。ここにおいて河北の人々は杲卿に応じ、二十四郡のうち十七郡までも、同日のうちに朝廷に帰順したのである (3)。その時、禄山は潼関を攻めようとしていたが、これを聞いて、本拠范陽(今の北京)への帰路を断たれることを恐れて進むことができず、洛陽へひきかえした。しかし杲卿においても、兵を起してまだわずか八日であったので、守備の態勢まだ十分でなかったのであるが、そこに賊将史思明(七〇三―七六一)等が、兵を率いて城下に攻め入った。杲卿はこれを昼夜防戦したが、隣郡の守将、王承業、禄山を恐れて助けなかった。常山は軍糧尽き、矢竭き、ついに落城した。賊は杲卿を拘束し、洛陽の禄山のもとに送る。禄山これを見て杲卿を責めたてていう、「その方はわしが天子に申し上げて常山の太守にしてやったのであるから、わしに従うのがその方の本志であろう。しかるに何故、その方の本志にそむいてわしに叛したのであるか」と。杲卿は是に対し、罵しっていう、「汝の前身は営州にて羊飼いをしていたえびすである。その汝が抜擢されて三道の節度使に任命されたことは、無比の朝恩といわねばならぬ。どうして汝は、この厚恩に感謝する自分の心にそむいて謀叛を起こしたのか。我が顔家は父祖以来、代々唐の臣である。その禄位はみな唐のものである。この身分は汝の奏請によって任ぜられたものとはいえ、どうして汝に従つて叛する道理があろうか。我れは国のために賊を討つのである。国賊たる
汝を斬らなかったのを恨む。その我れに対し、何故に謀反というのか。畜生め、速かに我を殺せ」と。これを聞き禄山大いに怒り、杲卿を縛つて、なぶり殺しに殺した。死に至るまで賊を罵りつづけた。賊は杲卿の舌を鉤で引き切ったのである。この時、顔一族の殉難者、三十余人であった。
真卿は引き続きまた賊を破り郡を抜き、軍声大いに振るった。平盧の軍将である劉客奴等の使者を寄こし、朝廷に忠勤を勵みたいと申し入れた。そこで真卿はただ一人の子息、十歳を越えたばかりの少年を、海路にて客奴のもとに人質として行かせようとした。真卿の部下はこれに固く反対してこの地に留めておいてほしいと願ったが聞き入れなかった。
次に禄山は潼関を攻めたので、潼関の守が破れ、都長安は危険となり、玄宗は蜀に奔った。そして賊はついに長安を陥れた。そこで太子亨が、霊武において位に即く。即ち粛宗(七一一―七六二)である。真卿はこれを知り、河北より蠟丸として上表を霊武なる粛宗に届けた。粛宗はその忠誠を嘉し、真卿に工部尚書兼御史大夫の官を加へられ、かつ即位に当つての恩赦の書状を下された。真卿はすぐ赦状を各軍に下し、さらに部下を派遣して河南
・ 江
淮方面にまで頒ったので、これにより諸方面の、国難に殉ぜんとする意志、ますます堅きを加えた。広平王粛俶や郭子儀(六九七―七八一)等、長安
・ 洛陽の二京を収復し、かつ李光弼もまたしばしば史思明等を敗ったので、賊
の勢力大いに破れ、唐朝は再興した。時に真卿の従兄、常山の太守杲卿も亦たまさに兵を起し賊を討ず。真卿、平原より潜に杲卿に告げしめ、兵を連ね禄山が帰路を断って、以てその西入を緩めんと欲するに会ふ。杲卿乃ち謀を以て賊将等を擒斬し、遂に井陘の敵を散じ、饒陽の圍みを解く。ここに於いて河北響応し、およそ十七郡、同日に皆、朝廷に帰す。禄山まさに潼関を攻めんと欲し、これを聞きて進むことあたはずして還る。時に杲卿、兵を起し纔かに八日、守備未
だ完からず。賊将史思明等、つひに兵を引きて城下に至る。杲卿、昼夜拒戦す。隣郡の守将、兵を擁して救はず。糧尽き矢竭き、城遂に陷る。賊、杲卿を執へて禄山に送る。禄山これを数 せめていはく、「我れ汝を奏して官とす。何ぞ汝に負きて反する」と。杲卿罵りていはく「汝は本と営州牧羊の羯奴。天子、汝を擢でて三道の節度使とす。恩幸比なし。何ぞ汝に負きて反する。我は世ヽ唐の臣たり。禄位皆唐の有。汝の奏する所となると雖も、豈汝に従ひて反せんや。我れ国の為に賊を討ず。汝を斬らざるを恨む。何ぞ反すと謂ふ。臊 そう羯 けつ狗 く、何ぞ速かに我れを殺さざる」と。禄山大いに怒り、縛りてこれを冎 ししきる。死に比 およびて罵りて口を絶たず。賊、その舌を鉤 こう断 だんす。顔氏死するもの三十余人。継いで真卿、又賊を破り郡を抜き、軍声大いに振るふ。平盧の軍将劉客奴等、使を遣し真卿と相聞し、みづから効 いたさんと請ふ。真卿ただ一子、才 わづかに十余歳、海を踰へ客奴に詣りて質 ちたらしむ。軍中固くこれを留めんと請ふ、従はず。ついで潼関守を失ひ、玄宗蜀に出奔して、賊遂に長安を陥る。ここに於いて太子亨、位に霊武に即く。これを粛宗となす。真卿、河北より蠟丸を以て表を霊武に達す。粛宗、官を真卿に加へ、拝 あはせて赦書を致す。真卿即ち諸軍に頒下し、又人を遣し河南
・ 江淮に頒つ。是れによりて諸道の
国に徇ふの心ますます堅し。未だいくばくならず、広平王粛俶
・ 郭子儀等、両京を収復して、李光弼又しばし ば思明等を敗り、賊勢大 たい衂 じくして唐朝再興す。(『靖献遺言』巻四)
顔真卿は朝廷に復帰して御史大夫の官に任ぜられた。この時、朝廷はやっと政務が回復したばかりで万事が整ってなかったが、真卿の態度は諸事法式を守ること戦後のようでなく、そのために百官粛然として秩序が立った。しかるに宰相は、真卿の直言して憚らぬことを厭い、都の外の役に出したのである。真卿はやがてまた中央に召し還されて刑部侍郎に任じられた。
当時、宦官の李輔国(七〇四―七六二)がはばをきかせており粛宗と上皇の玄宗との間を隔てようと計り、玄宗はついに西内に遷ったのである。真卿は先頭に立って百官を率いて上表し、粛宗みずから父玄宗の御気嫌を伺ってほしいと願った。輔国はこの挙をにくみ、また奏請して真卿を左遷した。
広徳元年十月、吐蕃が入寇したため代宗はこれを陝州に避けたが、十二月、都に還るや、時に尚書右丞の任にあたった真卿は、帝が先ず祖宗の陵廟に詣でて報告を終えてから宮殿に還幸されるようにと請うた。しかるに宰相元載(?―七七七)はこれをもって政治の実際の上に迂遠であるとして反対したので、真卿は怒って「先に李輔国が朝廷の制序を破壊したことによりこの度の不祥事が生じたのである。ようやく回復することができた朝廷の秩序を、公は再び破壊することができるのか」といったので、載はこれを心に啣 ふくみ、反撃の機をうかがった。
当時、元載は権勢を一手に握り、私党を己れのもとに集めていたので、上奏するものが、私行を責めあばくことを恐れ、そこで帝を紿 あざむいて、百官が政治の是非について論ぜんとする時には、先ず宰相にそのことを語り、その上にて申し上げることにしたいと請うた。このことを知った真卿は、意見書を奏上して「諫官や御史は陛下の耳目となって天下の事を正しくお伝えすることを任とするものであります。これは陛下御みずから耳目を掩いになられるのと等しいことであります。そもそも李林甫が大臣となりまするや、深く意見を申し出るものを疾 にくみ、そのため下情がお上に通ぜぬことになりまして、結局、玄宗の蜀に行幸されるという禍いを成したことでありまして、それよりしだいに衰えて今日の国力となってしまったことであります。すなわち唐朝の衰微の由来は昨今のことでありませぬ。そもそも主君御みずから思うことあらば遠慮なく申し出よと言路を開かれても、群臣はなお存分には意見を申し上げぬものであります。ましていま、宰相
・ 大臣が奏上するところを途中にて取捨したり抑制したり致しま
すならば、陛下の御耳には、わずかに数名のことばしか入らぬことになってしまいます。天下の識者もこれより口
をつぐんでしまうことになり、陛下に誰も申し上げるものがないことに対し、天下に問題とすべきことがないと安心してしまわれることになりましょう。これは、李林甫(?―七五二)が再びいまの世に現れるというに等しいことであります。陛下がもし早くこのことに気付かれませぬならば、しだいに孤立に陥れられ、後日、後悔遊ばされましても間に合わぬこととなりましょう」と述べた。
元載は真卿を帝に誣 ぶ告し、外に貶 へん謫した。その後、徳宗の世となって、楊炎が国政に当った。この時、真卿は還って朝廷にいたものの、またその剛直が要路に容れられなかった。真卿朝に復りて御史大夫となる。まさに朝廷草昧、給するに暇あたずして縄治平日の如く、百官粛然たり。宰相その言を厭ひこれを出す。ついで召して刑部侍郎とす。時に李輔国まさに勢により両宮を弐間して、玄宗遂に西内に遷る。真卿首に百寮を帥ゐて上表し、玄宗の起居を問へと請ふ。輔国これを悪み、又これを奏貶す。代宗陝より還るや、真卿時に尚書右丞たり。先づ陵廟に謁して宮に即けと請ふ。宰相元載以て迂とす。真卿怒りていはく「朝廷の事、豈公再び破壊するに堪へんや」と。載これ啣 ふくむ。載時に権を専らにし、多く私党を引く。事を奏するもの、その私を攻 こう訐 けつせんことを恐れ、乃ち紿 あざむき請ふ、百官事を論ずる、皆先づ宰相に白し、然る後奏聞せんと。真卿上疏していはく、「諫官
ほ敢へて言を尽くすことなし。況んやいま宰相 の禍を成し、陵夷して今日に至る。その従来する所のもの漸なり。それ人主大いに不諱の路を開くも、群臣猶 さしむ、是れみずからその耳目を掩ふなり。李林甫相たる、深く言者を疾み、下情通ぜず、つひに蜀に幸する にく 史は陛下の耳目、いま事を論ずるものをして先づ宰相に白 ・ 御
・ 大臣裁してこれを抑へば、則ち陛下の聞見する所のもの、三 数人に過ぎざるのみ。天下の士これより口を鉗 つぐみ舌を結び、陛下復た言ふものなきを見て、以て天下事の論ずべきなしとなさん。是れ林甫復た今日に起るなり。陛下もし早く寤 さとらずんば、漸く孤立をなし、後これを悔ゆ
と雖ども、亦た及ぶことなし」と。載復たこれを誣 ぶ貶 へんす。徳宗の朝に至り、楊炎、国に当る。時に真卿還りて朝に在り。亦た直を以て容れず。(『靖献遺言』巻四)
盧杞が大臣となってからは、ますます顔真卿を悪んで、また左遷しようとしていたが、たまたま李希烈(?―七八六)叛き汝州を陥れるという事件が起り、徳宗(七四二―八〇五)がその対策を杞に問うた。杞は「もし学問もすぐれ教養も高い重臣を選んでその人物に謀叛の禍福利害を説かせたならば、軍隊の力を用いずにこれを帰服させることができるでしょう。顔真卿は、玄宗
・ 粛宗
・ 代宗(七二六
―七七九)三代の君に仕えた旧臣でありまして、その人物は忠直剛決、その名誉は天下に重く、人々が信服する人物であります」と申し上げた。真卿はその時、太子太師の任にあった。そこで徳宗はその言をよしとし、真卿を派遣して希烈を宣慰せしめることとした。そのことを知って朝廷中の人々、みな愕いて顔色を失ったが、真卿は命令を受けると直ちに伝馬に乗って東都洛陽に至った。すると洛陽の留主は真卿を止めて、「往かば必ず李希烈に殺されることは免れまい、暫くここに留って取止めの御命令が来るのを待たれたほうがよい」といったのであるが、真卿は、「殺されるとわかっていても、これが君命である以上、避くべきところはない」といい、結局出発した。さて汝州につき、詔の旨を宣べようとすると、希烈は兵士に真卿を取りかこみ勝手な放言をさせ、刄を抜いてつきつけて嚇させた。真卿は顔色を変えなかった。希烈は兵士らを退かせ、真卿を客舎に案内し、無理に、自分が悪くて叛いたのではないと徳宗に申し上げさせようとしたが、真卿は取り合わなかった。真卿は諸子に出す書状には、厳重に先祖のお霊屋を守り、一族のうちの孤子をいたわるようにと戒めるのみで、外のことは何も書かなかった。希烈は、真卿を還そうとしたことであったが、その時たまたま降将李元平が同座していたので、真卿がその不義を責めたため、元平これを慙じ、ひそかに、希烈にいった、真卿を留めて還さぬやうにと。当時、朱滔等四人、みずから王を僭称し、おのおの使者を希烈のもとに派遣して天
子の位に即くことを勧めて来た。希烈はその書状を真卿に示して、「われ四王より天子に推されたが、これは彼等が相談してしたことでなく、期せずして推されたことなのである」といった。これに対し真卿は、「彼等こそ四凶であってなぜ四王といえよう。そもそも足下、いままで唐室のために功業を立ててきたのに、それを傷つけずに唐の忠臣たることを全うしようとすることなく、かえって乱臣賊子輩とともに謀叛し、何故に彼等とともに滅びようとするのであるか。」と答えた。
後日のこと、朱滔等四人の使者が真卿と同坐したが、彼等は真卿に向い、「都統におかれては、このたび天子の大号を名乗られようとしてをられるが、その時、太師が折よくお出で下されたことであります。これは天が宰相を都統に賜はりましたことに外なりません」といった。真卿はこれを叱りつけていう、「その方どもは、安禄山を罵って死んだものに顔杲卿という人物があることを知っているか。これ我が兄に外ならぬ。わたしはいま八十になろうという老人、かつ太子の太師という官を賜った身であるから、臣節を守って死ぬという外には、何も考えておらぬ。汝等の誘惑も脅迫も、受けるつもりはない。」これを聞き、賊ども恐れて顔色を失ったことであった。
希烈は、真卿を拘えて、武装した兵士に守らせ、方丈の穴を庭に堀って「これに埋める」と嚇した。真卿は平然として答え「我が生死の格はすでにできている。何ぞそのようにあれこれする必要があろうぞ。すぐに一剣を渡されよ。それで胸をついて、その方どもの心をさっぱりとさせてやろう」と。希烈は嚇しては見たものの殺す気はなく、詫をいったことであった。
荊南節度使張伯義は、希烈の兵と戦って敗れ、その持っていた旌節を失ってしまった。希烈、その旌節と、戦死者の首級とを真卿に示した。真卿は悲しみ歎いて声を挙げて泣き、身を地に投げて気絶し、また蘇生した。これから黙っ何も言わなかった。希烈の部将周曾等相謀って、ひそかに希烈を襲ひ、真卿を奉じて節度使としようとした
のであるが、事漏れ曾は襲われて殺されるという事件が起り、希烈は再びこのようなことが生ずるを恐れて、真卿を自己の本鎮たる蔡州に拘送した。真卿は、このたびは必ず死ぬことになると悟り、遺表
・ 墓誌
・ 祭文を作り、ま
た寝室の西壁の下を指して、「これがわたしの仮埋葬の場所である」といった。
希烈は、帝を名のろうとして、使者を遺して即位の儀礼を問ふて来た。真卿はこれに対し、「老夫はかつて礼官であった。いまに覚えているは、諸侯が天子に朝覲する時の礼式だけだ」と答えた。しかし希烈は、遂に帝位を僣称し、かつその部将辛景臻を遣し、「節を屈して我れに仕えることができぬというならば、みずから焚死すべきである」と言ってよこしてきた。庭に薪を積み油を注いで見せた。真卿走ってその火に赴いたところ、景臻はあわててこれを止めたが、暫くして希烈は結局、人を遣して真卿を殺させた。かくして死んだ。時に年七十六歳であった (4)。
真卿は、その大いなる臣節、国家への功業、ともに已にすぐれている上に、中興の事成って朝廷に立つや、顔色を正しくして謹しみ、剛直にして礼節あり、公言直道でなければその心に萌さすことがなかった。かつて魯郡公に封ぜられたことがあるので、天下の人々、その姓名を称することなく、ただ魯公とのみ称したということである。盧杞相となるに及びて、ますます真卿を悪み、復たこれを出さんと欲す。李希烈反し汝州を陥るるに会ひ、徳宗、計を杞に問ふ。杞いはく、「誠に儒雅の重臣を得、為めに禍福を陳べば、軍旅を労せずして服すべし。顔真卿、三朝の旧臣、忠直剛決、名海内に重く、人の信服する所、真にその人なり」と。真卿時に太子の太師たり。乃ち詔して真卿を遣し希烈に宣慰す。挙朝これを聞きて色を失ふ。真卿駅に乗りて東都に至る。留主これを止めていはく、「往かば必ず免かれじ。宜しく少しく留りて後命を須つべし」と。真卿いはく、「君命なり。まさにいづくにこれを避けんとする」と。遂に行く。既に至り、詔旨を宣べんと欲す。希烈、兵をして環繞慢罵、刄を抜きてこれを擬せしむ。真卿色変ぜず。希烈乃ち衆を麾きて退かしめ、真卿を館に就け、逼りて上疏し己
れを雪めしむ。真卿従はず。真卿、諸子に与ふる書ごとに、ただ家廟を厳奉し諸孤を恤むを戒め、訖に它語なし。希烈、真卿を遣し還さんと欲す。降将李元平座にあり、真卿これを責むるに会ふ。元平慙ぢ、密かに希烈に言ひ、真卿を留めて還さず。時に朱滔等四人、王号を僭し、おのおの使を遣し希烈に詣り、勧進す。希烈これを真卿に示していはく、「四王より推さる、謀らずして同じ」と。真卿いはく、「これ乃ち四凶、なんぞ四王と謂はん。公、みづから功業を保つて唐の忠臣とならず、乃ち乱臣賊子と相従ひ、これと同じく覆滅するを求むるか」と。他日、四使同じく坐にあり、真卿に謂ひていはく、「都統まさに大号を称せんとして太師まさに至る。是れ天、宰相を以て都統に賜ふなり」と。真卿叱していはく、「汝等、安禄山を罵りて死するもの顔杲卿あるを知るか。乃ち吾が兄なり。吾れ年かつ八十、太師に官す。節を守りて死するを知るのみ。豈汝曹の誘脅を受けんや」と。諸賊色を失ふ。希烈乃ち真卿を拘へ、守るに甲士を以てし、方丈の坎を庭に堀りて云ふ、「まさにこれを阬せんとす」と。真卿怡然としていはく、「死生已に定まる、何ぞ必ずしも多端せん。亟かに一剣を以て相与へよ。豈公の心事を快せざらんや」と。希烈乃ち謝す。荊南の節度使張伯義、希烈が兵と戦ひて敗れ、その持つ所の旌節を亡なふ。希烈、人をして旌節および首級を以て真卿に示さしむ。真卿号慟して地に投じ、絶えて復た蘇る。これより復た言はず。希烈が党周曾等、希烈を襲ひ真卿を奉じて帥とせんと謀り、事漏れ曾死するに会ふ。希烈乃ち真卿を蔡州に拘送す。真卿必死を度り、遺表
・ 墓誌
・ 祭文を作り、寝室西壁の下を指
していはく、「これ吾が殯所なり」と。希烈、帝を称せんことを謀り、使を遺し儀を問ふ。真卿いはく、「老夫嘗て礼官たり。記する所、ただ諸侯の天子に朝する礼のみ」と。希烈遂に号を僣し、その将辛景臻を遣しこれに謂ひていはく、「節を屈するあたはざれば、まさにみづから焚くべし」と。その庭に薪を積み油を潅ぐ。真卿趨りて火に赴く。景臻遽ててこれを止む。これを久しうして希烈つひに人を遣し真卿を殺し、終に死す。年七
十六。真卿、大節功業已に偉然として、朝に立ち色を正し、剛にして礼あり、公言直道にあらざれば心に萌さず。嘗て魯郡公に封ず。天下、姓名を以て称せずして、ひとり魯公といふと云ふ。(『靖献遺言』巻四)
宋祁(九九八―一〇六一)が言うには、安禄山の謀叛した時の勢いたるや、まことに猛獣のすさましさであって、誰とてこれに敵対し得るものがなかった。顔魯公だけは、寄せ集めの軍を率いて賊の鋒先にあたり、賊平定の功業は成し遂げられなかったとはいえ、その忠君の志は、賞揚するに十分である。公の晩年に至るも節義少しも屈することなく、姦臣盧杞のために押し落されて賊将李希烈の手に斃されてもなお、公の毅然たる気魄はいかにこれをくじかんとしても不可能であった。忠節の士というべきである。さて詳細にその行動を調べてゆくと、当時にあってすべて君から信ぜられたというわけではなかったのに、重大なる際に臨んで二の足を踏むことはなかったが、それは何故であろうか。思うに忠臣義士たる人物は、自分が人から信用されぬからといって人に何かを期待するだろうか、人から信じられぬ時は、その理由を自己の態度に反省して忠義の正を得ているであろうかいなかを考え、正道を得ていて後、心に満足し、そのままにこれを実行しようとするのである。まことに魯公逝いて五百年後の今日でも、公の英列言言たるためは、秋の霜、夏の日のごとくにきびしく、畏敬欽仰すべきものである。宋祁いはく。禄山反するに当たりて、哮噬前なし。魯公ひとり烏合をもつてその鋒に嬰る。功成らずと雖ども、その志、称するに足るものあり。晩節偃蹇し、姦臣の擠るる所となり、賊手に殞さるるも、毅然の気、折りて沮まず。忠と謂うべし。詳かにその行事を観るに、当時亦た尽くは君に信ぜらるることあたはず、大節に臨むに及びて、これを蹈みて弐色なし。何ぞや。かの中臣誼士、なんぞ未だ信ぜらるを以て人に望まんや。これを己れに返し、その正を得て後、中に慊りてこれを行はんことを要す。ああ、ここに五百歳と雖ども、その英列言言、厳霜烈日の如し。畏れて仰ぐべきかな。(『靖献遺言』巻四)
林之奇は言っている (5)。燕の楽毅、将として斉を伐つや、斉の七十余城、みな燕に降った。その際に、斉に忠臣義士の国のために憤然として起ったものは、初めより現れなかった。王蠋、臣節を守って自決して、燕には仕えぬという道義を示すに及んで、始めて斉の人物は一斉に起って蠋の後を追い、ために奪われた七十余城をまた取りもどしたのである。思うに天下の人々の心に忠義の心がないのだろうか。かりに艱難の際においても、もし一人、忠義の音頭をとるものがあるならば、その風を聞いた人々、みなそれに従うのである。されば安禄山の叛乱の気勢をあおぎ立て、河北の二十四郡ことごとくそれを恐れて城の守りを失わぬものがなかった際、顔真卿起って先ず忠義を唱えるや、諸郡これに応じて唐室のために奮起したのである。林之奇いはく。燕、斉を伐ち、七十余城、皆、燕の有となる。初めより未だ忠臣義士憤りを発するの気あるを聞かざるなり。王蠋節に死し、義、燕に北面せざるに及びて、然る後、斉の士、靡然としてこれに従ひ、七十余城復た斉の有となる。蓋し天下の人、豈忠義の心なからんや。苟もその艱難の際、一つも倡をするなし。真卿首に忠義を倡ふるに及びて、諸郡是れによりて多く応ず。然れば則ち唐室中興、郭子儀
・ 李光弼の功と雖ど
も、その実は則ち真卿これが倡をするなり。(『靖献遺言』巻四)されば唐室の中興したことは、郭子儀と李光弼の軍功によるものとはいえ、その実際においては、真卿が率先して義を唱えた功績によるものである。
二、「移蔡帖」について 「移蔡帖」には、
「貞元年(七八五)正月五日、真卿、汝より蔡に移された。自分は李希烈のためにやがて殺されるであろうが、これは天命であって、いかんとも致しがたい。しかし善悪是非を明らかに見ておられる天の眼は、希烈といえども誣い欺くことができない。されば希烈は一時勢力を持ち得ても天下を得られるはずはなく、唐室の徳は深く民の心に徹しているから亡びることはないのである。十九日書す。」と書されている。
この「移蔡帖」こそが顔真卿の遺言文となったものである。貞元年正月五日、真卿、汝より蔡に移る、天なり、天の昭明、それ誣ゆべけんや。有唐の徳は、則ち朽ちざるのみ。十九日書す。(『靖献遺言』巻四)
浅見絅斎は『靖献遺言講義』においてこの帖は「顔魯公集」に見えたり、そして大抵帖は小手本の様に折帖仕立てに書いたものをいう。それ故に手紙手形などをも云う。古人の能書何事にても書付けて置きたるを碑帖と云う。これは拓本である。顔真卿も能書家であるのでこれを後世より帖と呼んで伝えられて
「移蔡帖」
いる。これはきっと柱か壁に書付られていたと思われる。しかしながら文字はわずかではあるが、顔真卿の忠義の肺肝を鮮かに見ることができるのは、この帖ほど大切なものはない、としている (7)。此帖顔魯公集ニ見エタリ。大抵帖ハ小手本ノ様ニ折テ書タルモノヲ云。其故ニ手紙手形ナドヲモ云。古人ノ能書何事ニテモ書付テ置タルヲ碑帖ト云。是ハ石ズリ也。顔真卿モ能書故ニ、是ヲ後世ヨリ帖ト呼デ相伝フ。是ハ定テ柱カ壁ニ書付ラレタリト見エタリ。尤文字ハ纔ナルコトナレドモ、顔真卿ノ忠義ノ肺肝ヲ鮮カニ可見ハ、此帖程大切ナルコトハナシ。(『靖献遺言講義 下』巻之四)
「顔 真卿集」にはこれ以外に遺言として掲載しなければならないことはないから、この一条だけが思いにもかけず今日まで残っていることは不思議なことであり、当然のこととして重宝しなければならないものである、としている。其故顔真卿集ニハ余ノ事ニ遺言トテ載スベキコトハナキニ是一条ガ不図今ニ残テアル不思議ノコトニテ尤重宝スベキコトゾ。(『靖献遺言講義 下』巻之四)
ところで唐太子大師と挙たのは、唐の字は例の旨である。太師というのは顔真卿の最も晩年の官職である。希烈の方に使いに行って、あちらに留られて、希烈がいろいろだましたりして、自分の手下に自分の偽りの官名を名乗らせようとしたけれども、次第にある通りに、とうとう唐朝で受けた官を汚すことなく成し遂げて、とくにこれを名乗ったことである。その上に、およそ官を称するには、最後の官を示すのが例である。しかしながら人によっては全部挙げるものもある。それはその所々で理由があることを想い図らなければならない、と述べている。扨唐太子大師ト挙タルハ、唐ノ字ハ例ノ旨也。太師ハ真卿ノ最晩年ノ官也。希烈ガ方ヘ使ニユキテ。アナタニ留ラレテ希烈ガ様々ト賺シタリシテ、己ガ手下ニシテ己ガ偽官ヲ名乗タセフトシタレドモ、段ヽアル通に、終
ニ唐朝デ受タル官ヲ汚サズシテ果タレタル程ニ、別シテ是ヲ名乗ゾ。且又惣シテ官ヲ称スルハ、最後ノ官ヲ挙ルガ例ゾ。乍去人ニヨリテ皆挙ルモアリ。ソレハ其所々テワケガアル考知ベシ。(『靖献遺言講義 下』巻之四)
唐代に於ける詩文や書は六朝期の華麗典雅の風を継承し、殊に書に於いては唐の太宗
陽詢 ・ 欧
世南 ・ 虞
遂良 ・ 褚
・
孫過庭等に見る王羲之風の洗練された書が尊ばれた。しかしそのため一方ではひ弱な書となり、媚態なものになってしまい、ついには行き詰まりを呈するようになってしまった。中唐に現れた顔真卿の書は、その行き詰まりを脱却し、生命観あふれた力強いものであった。いまに遺る顔真卿の書の大部分は、安禄山が叛した天宝十四載(七五五)以降のものである。顔真卿三稿と称されている「祭姪文稿」「祭伯文稿」「争坐位稿」を始め「顔氏家廟碑」「麻姑仙壇記」「大唐中興頌」等みな然りである。
顔真卿は安禄山の謀叛により忠義の士としてその名を天下に不朽としたのみならず、能書家としての名を縦にした。顔真卿は書を人と不離一体のものにした最初の人物と言える。「移蔡帖」は数多くある真卿の書のうち最後に書かれたものである。思想にしても書にしても最後こそが、その人間の行き着いた到達点である。浅見絅斎が「移蔡帖」の書は文字はわずかではあるが、顔真卿の忠義の肺肝を鮮かに見ることができる、と述べているように、たった 三十六文字の中に真卿の精神を看得することができ、さらに書によってその精神を具現化、具体化したといえる。この「移蔡帖」の真蹟は宋代まで伝わっていたであろうことは、「忠義堂帖」の中に刻されていることからも分る。この筆蹟をよく見ると分るように、整然とした書の中に静謐で無欲なしっとりとした枯朴な書風を感じ取ることが出来る。これは既に己の人生を達観し得た心境を如実に現したものと言えるのである。
三、『靖献遺言講義』に見る真卿の節義について 顔真卿が蔡州に移されるに際して、旧宅の壁か柱に書きつけられたものが「移蔡帖」である。浅見絅斎はこの帖を評して「尤文字ハ纔なることなれども、顔真卿の忠義の肺肝カを鮮に可見は、此帖程大切なることはなし、其れ故顔真卿集には余の事に遺言とて載すべきことはなきに、是の一條が図らずも今に残つてある、不思議のことにて尤も重宝すべきことぞ。(『靖献遺言講義 下』巻之四)と述べている通り、このわずか三十六文字なる一片の「移蔡帖」にその価値を見出している。「天なり、天の昭明、それ誣ゆべけんや。」と深い東洋的諦観に徹するとともに、道義の不動、順逆の成敗を深く確信している。そこに古聖賢の趣の存するところを見ることができる。顔真卿ノ本末如此或曰、真卿忠義ハ有余可惜コトハ死スルコト今少遅シ。汝ヨリ蔡ニ移ル時ガ最早死スルト云コトハ知レテアル程ニ、彼方此方ト移サレマハラズトモ、此時ニ如何様トモ死様ノ可有コト也ト云。此論勿論也。乍去加様ノコトハ今カラモドカシフ思フ様ニ、其時ノ事体アラザル者也。真卿死ヲ惜ンデ其程ノコトヲヌカル人ニテモ無シ。何トゾ様子コソ有ツラメ、只何ト云コトナク、大節義敵ニ不屈。命ヲ不辱、始終表裏、一毫ノ可疑コト無ニ至リテハ、今ニ至迄青天白日ヲ見如クアノ通リナレバ其時カウセラレタレバ好イモノ、サウスレバヨカツタニト、コセクサト吟味ヲカケルハ、皆人ヲ論ズルノスベヲ知ラヌ者ノ云コトゾ、何デモアレ、根本ノ忠義土台サヘ立テバ、細工ハ流々シアゲヲ見ヨジヤニヨツテ、仕形ハ替ルトモ、体ハ違フトモ大根ニ疑サヘナクンバ、細ナル所ニ毛ヲ吹テ疵ヲ求ル様成コトヲ云ハヌガ好シ。左云テ真卿ノ為様ガ一々云ハフ様モナイ、能ク準ニ当リタルト云ニテモナク、ソレジヤ程ニ後世ノ者モ大根サヘヨケレバ、少々ノコロハ為ソコナイヲシテモ不苦ト云コトデハナイ。聖人ノ体ヲモテキテ定規ニスレバ、疵ノ付ヌ者無シ。ソレデ古人ノ已ニ為テ
取タ跡ヲ、何角ト云テ疵ヲ付ルハ非也。古人ガサフジヤガ知レヌ程ニト云テ、手前ノ戦ヲスル義ヲチツトモ見合スルコトハイラヌゾ。(『靖献遺言講義 下』巻之四)
ここでわが国に目を向ければ、古今を通じて見ると、大将といわれるのはみなこの様な節義に生きた人間である。楠正成(一二九四―一三三六)が赤坂の合戦の時は、後醍醐天皇(一二八八―一三三九)(?―七五五)は己に笠置の軍に利あらずして、隠岐国へ遷幸で、実に存亡の沙汰はたしがに聞えず。それでも楠はわきひら見ずに戦う (8)六波羅も亡て、天皇が再び旧都に還幸なりたることができた。これは畢竟正成が大義を踏ことによる、としている。能古今ヲナラシテ見ヨ能大将ハ皆是ぞ、我国ニテ楠正成ガ赤坂の合戦ノ時ハ、後醍醐天皇ハ己ニ笠置ノ軍ニ利アラズシテ、隠岐国ヘ遷幸デ、実ニ存亡ノ沙汰ハタシガニ聞エズ。ソレデモ楠ハワキヒラ見ズニ戦フ、此時ニ楠ガ心ニモ天王ノ危キコトハ知テ居レドモ、ゾレグルミニカマハヌゾ。其内ニ遂ニ天皇ハ船ノ上へ潜幸成テ、千破屋ノ城モ遂ニ拒キ勝テ、六波羅モ亡テ、天皇再ビ旧都ヘ還幸ナリタルコトヲ得タリ。是畢竟正成大義ヲ蹈マヘタル功也。正成ガ心ニハ仮令天皇此時若自然ノ事アリトモカマフ合点デハ無シ。其カマハヌト云モ後醍醐天皇ニハ心ガ無ト云コトデハナイ、惟其存亡故ニ思ヒチガヘルコトハセヌ。天下ノ為ニスル軍ニテ思ヒ立カラハ、ドコ迄モ我命ノ有ン限ハ、独ボウシニナリテモ、赤坂デ一僕使ハズシテ朽果ルトテモ、敵ヲ亡ス迄ハ中々気散ジニ見合スコロハセヌ。ソレガ大義ゾ。張巡ガソレヲ知テ居ルゾ。総ジテ義理ヲ知デ学カラ出ヌ智慧ハ手廻シハカシコイ様ナレドモ、サアト云大キナル場ニ成テ、何トシタ者デ有ラフゾト狼狽ハ大義ヲ知ヌ故ゾ。本法ノ智慧ハコセクサトシタルコロハ才覚サフニ見エネドモ、グハイトシタル所ニテハ、常ノ者ノ及バヌハ此ワケゾ、総テ武勇モ知謀モ頼ミニ成ヌ者也。彼金剛山ノ寄手ノ宇都宮以下ノ者共ノ体ヲ見ヨ。元来皆腰脱ナレドモ、責テ大義ヲ分ヘテ居ルナラバ、腰脱グルミニアレ程見苦鋪狼狽ハセマジ。能々可考コト也。(『靖献遺言講
義 下』巻之四)
総じて義理を知て学から出ぬ智慧は手廻しはかしこい様だが、さあと云う大きなる場に成りて、何とした者であらふぞと、狼狽は大義を知らないからである。彼の金剛山の寄手の宇都宮以下の者共の体を見なさい。元来みな腰脱であるが、責て大義を分えて居るならば、腰脱ぐるみに、あれ程見苦しい狼狽はしない。よくよく考えなければならないことである、と絅斎は述べている。そして、絅斎は「語録」に「日本には君に忠をしたものはないぞ。楠正成一人ばかり、まだ忠と云字がつけられうかと思ふぞ。其外はみな忠の字が付られぬぞ (9)」と記していることは注目に値する。
結 語
浅見絅斎は師である山崎闇斎の朱子学を基に、わが国における大義名分の闡明に意を注ぎ、近世日本の思想史上に大きな足跡を遺した。闇斎の学を祖述した浅見絅斎の学問は林家の伝えた朱子学とは異なり、孔子『春秋』の微意と朱子の『通鑑綱目』の精神によって大義を追及したところにその意義がある。大義とは何か。絅斎は顔杲卿と安禄山との関係を述べて、仮初ニモ身ヲ立テ、君ニ事ヘル者ハ、大義ノ筋ニ違ハヌ様ニ平生ノ奉公ブリ人ノ交モセザルコト也、其合点ナレバ常々ハ私ノ交ヲシテ大義ノ大義ノ場ニ成テ俄ニ都合ノ揃ハヌコトヲ言出セバ、始終トモニ根本ヨリ出タル忠義ノ志トハ見エヌゾ、去レバ平生ノ守ル所ガ一大事也、俄ニ忠義を拵ヘフトハ成ラヌ者ゾ、十ニ八九ハ人ノ志ノ大節ニ臨ンデ違フ違ハヌハ平生ノ気節操守ノ所ニテ決スル者也。(『靖献遺言講義 下』巻之四)
と論じて、大節に臨んで大義を全くし得るためには平生の出処進退が肝要であることを指摘している。また、谷秦山(一六六三―一七一八)は顔真卿と題して一詩を賦している )(1
(。北風 満野 煙塵を簇らす 唐室の存亡 只だ一身 臣子 千年 誰か拝せざらん 蔡州の手帖 天倫を示す(北風満野簇煙塵 唐室存亡只一身 臣子千年誰不拝 蔡州手帖示天倫)唐室の存亡を一身に背負い、今日誰がこの顔真卿の節義というものを拝するものがいるだろうか、この「移蔡帖」に天倫、即ち君臣父子の道を見ることが出来る、と賦している。即ち、この「移蔡帖」こそが顔真卿の節義を如実に示した至極の書というべきものである。
平成二十七年十一月二十三日 稿 注
(1) 天和三年、絅斎三十二歳の時、 「許魯斎論」 (一名「読書録筆記」 )を書き(十一月朔日の識語あり) 、許魯斎を高く評 価した薛瑄の立場を批判している。 (2) 『 靖 献 遺 言 』 は 慶 応 三 年 丁 卯 正 月 新 刻、 明 治 二 年 己 巳 五 月 再 刻 の 和 刻 本 を 参 照。 ま た、 同 書 を 補 う た め に 明 治 四 年 刊 『靖献遺言訓蒙疏義』を参照。併せて、近藤啓吾著『靖献遺言講義』国書刊行会。昭和六十二年九月二十日。を参照。 (3) 河 北 二 十 四 郡 の う ち の 十 七 郡。 『通 鑑 綱 目』 天 宝 十 四 載 「常 山 の 太 守 顔 杲 卿、 兵 を 起 こ し て 賊 を 討 ず 。 河 北 の 諸 郡 皆 こ れに応ず」の目に「およそ十七郡、 皆、 朝廷に帰す。兵合わせて二十余万。その禄山に附するものは、 ただ范陽
・ 盧龍
・
蜜雲
・ 漁陽
・ 汲
・ 鄴の六郡のみ」とある。
(4) 顔真卿の享年については門客因亮撰『行状』では七十七、令狐岨撰『神道碑銘』は七十六、 『旧唐書』は七十七、 『新 唐書』は七十六、 『歴史綱鑑補』にある曾南豊の評語は七十七としている。ここでは留元剛撰の『年譜』に従って、 「貞 元元年七十七歳」に従っておく。
(5) 清人荘仲方編『南宋文範』作者考に「林子奇、字は少頴、拙斎と号す。侯官の人。官、宗正丞に至る。禄を辞して家 居、 業を呂李中に受け、 以て呂祖謙に授く。著述甚だ富み、 『尚書全解』 『拙斎全集』あり」 。その伝は『宋史』列伝第一 百九十二
・ 儒林伝三に収めている。
(6) 『顔真卿書蹟集成』第二巻 東京美術 昭和六十年三月二十日。参照。 (7) 浅見絅斎『靖献遺言講義』寛延紀元秋九月発行。京師書房 風月堂荘左衛門梓を参照。 (8) 元徳三年(一三三一)二月、後醍醐天皇が道祐に与えた和泉国に若松荘を正成は所領として得た。しかし同年八月、 倒幕計画が幕府側に知られると、後醍醐天皇と正成らは挙兵する。正成は「悪党楠兵衛尉」として鎌倉幕府の追及を受 けた。同年九月、六波羅探題は正成の所領和泉国若松荘を「悪党楠木兵衛尉跡」として没収した。九月の笠置山で敗北 した後醍醐天皇らは捕えられ、残る正成は下赤坂城にて幕府軍と戦うが、敗退する。 (9) 近藤啓吾
・ 金木正孝編『浅見絅斎集』国書刊行会。平成元年七月三十日。参照。