シモーヌ・ヴェイユの社会的抑圧論〔5〕
八 木
1 ヴ ェ イ ユ の 思 想 の 特 質 2 社 会 的 抑 圧 論 の 構 造 と 展 開
〔1〕初期革命論集から(以上12号)
〔2〕『抑圧と自由』
〔3〕『労働者の境遇j(『労働の条件』改め)(以上13号)
〔4〕ある転機一スペイン内乱
〔5〕『イーリアス,力の詩篇』ほか(以上14号)
〔6〕宗教的省察から
〔7〕『根をおろすこと』
( i ) 魂の希 求 するもの(以上15号)
(ii)根こぎとその克服(以上本号)
3 〈 社 会 的 な る も の > の 把 握 一 デ ュ ル ケ ム と の 対 比 に お い て
(「社会学的意義」改め)
正
(ii)根こぎとその克服
工場生活の体験のなかから凝結した,労働者の「不幸論」
工場生活の体験のなかから凝結した,労働者の「不幸論」の概要についてはすでに述べ た。死の直前に書かれた「根こぎ論」は,このかつての「不幸論」の外延的拡大であり,
かつまた内容の体系的深化であると位置づけることができるように思われる。両者におい て,基本的モチーフは明らかに同一であり,その間になんらの断絶も介在していないが,
ただ痛切な亡命体験のさなかにあって,国外から祖国の民衆へ想いを馳せるヴェイユの苦 悩にみちた眼は,必然的に労働者だけにとどまらず,農民,さらには受難の同胞全体をみ ずからの視野のなかにおさめざるをえなくなった。
視野がこうして外延的に拡大しただけではない。期せずして綜合的視角から問題を展望 することを迫られた彼女は,すでにこの時期までに確固たる信念に高めていた,宗教的基 礎づけをもつ文明批評,より正確には,根源的な現代文明批判の見地から,徹底的に問題 の本質を問いつめ,そして「不幸論」と較べると,いっそう深く,具体的,かつ体系的に 論述を進めている。
さて,ヴェイユにとってそもそも「根づく」とは,いったいどういう意味をもっていた
のであろうか。本書第2部の冒頭において,‑つぎのような意味づけと規定が与えられてい ることにまず注目しておく必要があろう。
「根づくということは,おそらく人間の魂のもっとも重要な要〔欲〕求であると同時に,
もっとも無視されている要〔欲〕求である。これはまた,定義することがもっとも困難な 要〔欲〕求の一つである。人間は,過去のある種の富〔宝〕や未来への予感を生き生きと 保持している集団〔共同体](collectivit6)の存在に,現実的に,積極的に,かつ自然なか たちで参加することを通じて根をおろすのである。自然なかたちの参加とは,場所,出生,
職業,境遇(entourage)によって,自動的におこなわれた参加をさす。人間はだれでも,い くつもの根をおろす要〔欲〕求をいだいている。つまり,道徳的,知的,霊的生活のほと んどすべてを,彼が自然なかたちで参加している環境を介して受け取ろうとする要〔欲〕
求をいだいているのである。」(63ページ,P.62)
ことさらに意識されることはないにせよ,たしかに人間はこのような意味での根づきの 欲求を基本的に,ほとんど本能的な形でもっていると考えられるし,また正常な時には,
この欲求は無理なく叶えられているはずのものでもあろう。このようにしてきわめて自然 に根づいている共同生活の状態から人びとを無理やりにひき剥がすものがあるとすれば,
それは,「力づく」という語が示すように,あの「力」以外のものでありうるはずがない。
このような想定なしには,ヴェイユがわざわざ「根づき」という比喰的ないしは象徴的な 言いまわしをしていることの意味がとらえがたくなるにちがいない。
事実,彼女は根こぎの基本的原因として,外国による軍事的征服と経済的支配を,そし て国内的には,金銭と通俗教育というふたつの病毒をあげている(63‑65ページ,PP.62
−63)。根こぎ現象を惹ぎおこすこれらの諸要因は,「軍事的な力」,「経済的な力」,および
「文化的な力」という,社会的勢力の三形態に該当する内容のものとみてよかろう。
このうち,軍事的抑圧については,当然のことながら,主にフランス国民に即して論ぜ られ,金銭による根こぎと文化の剥奪については,労働者のぱあいにとくに熱をこめて分 析と提言がなされている。農民にかんしては,全般に彼らにたいする無関心から生じてい る事態が問題にされ,また労働者のばあいと同じく,文化的な根こぎと労働の問題に焦点
があてられている。
最初に,金銭についてみれば,それは人間を堕落させ,滅ぼすきわめて危険な病毒であ るといわねばならぬ(以下,64−65ページ,pp、62‑63)。「金銭は,その侵入するところ,
いっさいの原動力を駆逐して金儲けの欲望をのさばらせ,もろもろの根を破壊する。この 欲望は,いとも容易に他のすべての原動力を打ち負かしてしまう。なぜならそれは,他の 原動力にくらべて,きわめて小さな注意力しか要求しないからである。数字より明瞭かつ 単純なものは存在しない。」
労働者は,この金銭の力に毒され,根を完全にもぎとられている存在である。彼女の表
現によれば,賃金労働者というのは,「一生涯,完全に金銭にしばられている(entibrement etperp6tuellementsuspendueal'argent)」ものにほかならない。出来高払いの賃金制のた めに金銭勘定に注意力を集中させられた彼らは,たとい自国にあっても,精神的な意味で は安住の場所を得ない移民であり,「彼らは精神的に根こぎにされ,追放され,その後あら ためて,いわばお情けで,働く肉体という資格で容認されているのである。失業は根こぎ の二乗である。彼ら労働者は,工場のなかにも,住民のなかにも,彼らのためのものと称 されている党や労働組合のなかにも,娯楽の場所にも,そのところを得ていない。」
根こぎの第二の形態は,民衆からの文化の剥奪とそれを補填する授与的な通俗教育であ る。現代技術文化の性格と卑俗な大衆教育に向けるヴェイユの批判は,まことにきびしい
(以下,65−67ページ,pp.63‑65)。伝統との絆を断たれた近代文化は,「いちじるしく技 術の方向をめざし,技術によって影響を受け,きわめてプラグマチズムの色彩が濃く,専 門化によって極度に細分され,此岸の世界との接触も,彼岸の世界へ通じる道もまったく 有しないといった文化」でしかない。
しかるに,「今日,大衆教育と称されるものは,このように閉ざされ,堕落し,真理に無 関心な環境のなかでつくりあげられた,以上のごとぎ近代文化を採用することであり,ま だかろうじて,そのなかに残っている純金のいっさいを排除してゆくこと(これが大衆化
と称されている作業なのだ)であり,まるで烏たちに餌をちびちび啄ませるように,勉学 意欲に燃えている不幸な人びとの記憶のなかに,残り津をそのままのかたちでのみ込ま せることなのである。」
もっと後の方で述べていることだが,彼女の考えでは,むしろこれとは逆のことが必 要とされているのであり,たとえば文学作品についても,逆説なことではあるけれども,
「総じて二流ないしはそれ以下の作品は,選良たちによりふさわしいものであり,完全に 一流の作品は民衆によりふさわしい」(89ページ,p.95)とさえいえるのである。
ところで,これこそヴェイユ独自のすぐれた考察であると讃嘆せざるをえないのだが,か かる根こぎは増殖して,人間社会をさらに腐蝕せしめる作用をもっていると,彼女は指摘 する。
「根こぎは,人間社会のずばぬけてもっとも危険な病患である。なぜなら,根こぎは増 殖してゆくからである。完全に根こぎにされた人間には,ほとんどつぎのどちらかの態度 しか許されない。すなわち,古代ローマ時代の奴隷たちの大部分とおなじように,死にほ とんど等しい魂の無気力状態に陥るか,さもなければ,まだ根こぎにされていない者たち,
ないしは部分的にしか根こぎにされていない者たちを,しばしばこのうえなく暴力的な手
段によって,根こぎにすることをめざす活動に飛び込むかである。……根こぎにされたも
のは,他を根こぎにする。根をおろしているものは,他を根こぎにすることはない。(Quiest
d6racin6deracine・Quiestenracin6ned6racinepas.)」(67‑68ページ,pp、66‑67)
社会的抑圧の分析の際に問題とされた「革命」の意味内容についても,ここでは根こぎ との関連において,ふたつの相容れない方向性として対比されている(68ページ,p.67)。
ふつう使われている意味での,したがってまた多くの活動家がそれにとらわれてしまって いる「革命」の観念は,ヴェイユによれば,「労働者がすでに蒙っている根こぎの病を社会 全体に押しひろげること」にほかならない。これにたいして真の革命は,彼女の考え方か らすれば,「労働者が社会に根をおろすことができるようなかたちで社会を変革すること」
でなければならない。このふたつの行動はまったく逆方向の行動であり,互いに結合する ことはなく,まして前者が後者の前提となるというようなことは絶対にありえない。
根こぎの増殖は,国によって異なった形式をとる。ドイツでは,根こぎが「攻撃的な形 式」(laformeagressive)をとったのにたいし,フランスでは,それは「仮死状態と荘然自 失の形式」(celuidelal6thargieetdelastupeur)をとったのである(69ページ,pp.68)。
さて,ここでいま一度労働者固有の根こぎの問題にたちかえると,すでにその考えは後 期評論のなかで示されていたように(拙稿〔4〕 3ページ),彼女は基本的に「権利」の 観念を,その力を背景にした取引的発想のゆえに,しりぞけているのであるが,本書では,
労働者の権利要求は,実は彼らが陥っている根こぎの苦悩の表現にほかならないというと らえかたがされている。それはつぎの考察によっている(72‑74ページ,PP.73‑74)。「労 働者の権利要求のなかに,彼らの不幸にたいする救済手段を求めることはできない。」とい うのは,もっと具体的に言うと,基幹産業の国有化であれ,私有財産の禁止であれ,労働 組合に与えられている団体契約締結権であれ,職場代表権であれ,あるいは雇用の規制で あれ,法律的処置をもってしては,プロレタリアたる条件(laconditionprolbtarienne)を 根絶することは不可能だからである。
ひとはむしろ労働者の権利要求のなかに,彼らの境遇における根こぎの苦しさの表現を こそ看てとらなくてはならない。「彼らの権利要求(revendications)のなかに見出すこと ができるものは,彼らの苦悩のしるし(lesignedeleurssouffrances)である。そもそも,
それら権利要求のすべて,ないしはそのほとんどすべては,根こぎの苦悩を表現している のだ。彼らが雇用の規制や国有化をのぞむのは,完全なる根こぎ,すなわち失業の恐怖に 取り懸かれているからである。彼らが私有財産の廃止をのぞむのは,お情けで入らせても らう亡命者のように職場に入れてもらうことに,もううんざりしているからである。……」
かくして彼女はつぎに「労働者の苦悩の具体的リスト」をあげる作業に進むが,そうす
るのは,あくまでもそれが「改善すべきことがらのリスト」の明確化につながるとの確信
に支えられているからである。ここには,労働者の苦悩にみちた境涯をただ客観的に,もっ
と強くいえば,ただ傍観者的に記述するという態度はゑじんもふられず,それとはまった
く逆に,いかにしてその境遇の抜本的変革を図るかに腐心して,きわめて具体的かつ明確
な方策が練られていることに注目しておかなくてはならない。
労働者の苦悩の源泉であり,したがって改革を要する問題の最初に彼女があげるのは,
学卒者の労働者生活への移行の際に受ける精神的打撃である。思いやりにあふれたつぎの 文章に目をとめていただきたい。
「まず第一に,十二歳から十三歳の小さな子供が学校を卒業してから工場にゆく際,彼 らが受ける打撃をなくさなければならない。労働者のなかには,このときの打撃がいつま でもうずく傷口を残しさえしなければ,それだけで完全に幸福になりうる者もあるはずで ある。……学校に行っているあいだ,子供は,よい生徒だろうと悪い生徒だろうと,その 存在を認められた人間であり,人びとは彼の能力を伸ばそうと努め,彼における最良の感 情に呼びかけてくれたのである。ところがたちまちにして,彼は機械の付属品,もの以下 ともいうべき存在になりさがる。そして彼が服従するかぎり,もっとも低劣な動機にうご かされて服従していようと,相手はなんら意に介さない。大部分の労働者は,すぐなくと
げ ん う ん