1. 序
2. アンホイザー・ブッシュ社の創業とエバーハード・アンホイザー 時代
(1 8 5 9−1 8 8 0年)
① エバーハード・アンホイザーによる会社設立の経緯
② ブッシュ家の家系と共同経営者アドルファス・ブッシュの経歴 3. アドルファス・ブッシュの時代
(1 8 8 0−1 9 1 3年)
① 大ヒット商品「バドワイザー」の誕生とその成功要因
② 米国ビール業界の競争激化と禁酒運動への対応
(a)
米国ビール業界の競争激化とアンホイザー・ブッシュ社の 勝利(b)
アドルファス・ブッシュによる禁酒運動への対応 4. オーガスト・A
・ブッシュSr.
の時代(1 9 1 3−1 9 3 4年)
① 第一次大戦期
(1 9 1 4−1 9 1 8年)
の多角化(a)
オーガスト・A
・ブッシュSr.
の経歴と第一次大戦期の活動(b)
全国禁酒法の成立とアメリカ社会および米国ビール業界の動向
② 禁酒法時代(1919−1933年)の多角化
(a)
禁酒法時代におけるアンホイザー・ブッシュ社の対応(b)
「高貴な実験」の終焉に対するオーガスト・A
・ブッシュSr
. の貢献5. 結語
(創業―1 9 3 0年代)
山 口 一 臣
―95―
1. 序
Anheuser-Busch Cos., Inc.
は,米国ならびに世界で最大のビール会社ア ンホイザー・ブッシュ社(Anheuser-Busch Companies, Inc.)
の親会社である。主なブランドは「バドワイザー」「ミケロブ」「ブッシュ」などで,ビール 醸造工場を全米12ヵ所で運営している。2003年の世界販売実績は1億 1,100万バレル,うち米国内分が1億260万バレルを占め,国内市場シェ
は50% 以上,80の外国・米国海外領土でも販売している。
世界第2位のビール会社は,以前はハイネケン
(蘭)
であったが,国際M&A
合戦によって,インターブリュー(ベルギー)
とSAB
ミラー(英)
が2位争いに加わっている。世界のビール業界は欧米の大手を中心に
M
&A
が盛んで,なかでも南アフリカのSAB
による米大手ミラー・ブルーイング社の買収は大規模であった。両社は2004年に事業統合して
SAB
ミラーとなり,イギリスに本拠を置く巨大ビール会社になった。2005年も
M&A
による業界再編は続き,同年2月には米クアーズとモルソン(加)
が合併してモルソン・クアーズ社が誕生した。7月には
SAB
ミラーがコ ロンビアのバヴァリアを買収し,生産量ベースで世界第2位の地位を確実 とした。米国ビール市場は,アンホイザーのほか,
SAB
ミラーとクアーズで市 場の大半を占めている。3社への集中度は次第に高まっているが,とりわ けアンホイザー・ブッシュ社は「一人勝ち」の様相を深めている。これは 成長率の高い米国ライトビール市場において,同社の「バドライト」が2 桁の伸びを続けていることが貢献している。このあおりを蒙ったのがフィ リップ・モリス(現アルトリア・グループ)
傘下だったミラー社で,2002年 には南アフリカビール(SAB)
に売却された。アンホイザー・ブッシュ社は,ビールの製造だけなく,娯楽事業子会社
Busch Entertainment Corp.
がフロリダ州Sea World
のほか,世界各地で―96―
9つのテーマパーク事業を展開している。しかし近年,野球のカーディナ ルス球団や食品事業などビール以外の事業をいくつか売却し,ビール事業 の比重を高めている。またアンホイザー・ブッシュ社の海外事業は,カナ ダ・中南米と西ヨーロッパが中心であるが,アジアでは中国市場に注力し ている。同社は中国市場で過半数の経営権を持つハルピンビール会社を有 するほか,青島ビールにも部分出資している。日本ではキリンビール(株)
と提携し,同社が1981年以降に「バドワイザー」をライセンス生産して いる。
アンホイザー・ブッシュ社の先駆的企業が設立されたのは1852年であ るため,同社は今日まで約150年余りの歴史を持つ。これを2つに時期区 分し,前半80年間に関する「アンホイザー・ブッシュ社の経営史
(創業
―1 9 3 0年代)
」と題する本稿の課題は,①創業者エバーハード・アンホイ ザーはいかなる経緯で会社を設立したか,②共同経営者アドルファス・ブ ッシュは会社をどのようにして米国ビール業界のトップ企業としたか,③ 後継経営者オーガスト・A
・ブッシュSr.
は,第一次大戦,禁酒法の時代,大恐慌の激動の時代に会社をどのようにして存続させたかを解明すること にある。これによって,大ヒット商品「バドワイザー」の誕生とその成功 要因,地域ビール会社に対する全国的巨大ビール会社の競争戦略,アメリ カの代表的同族企業の設立過程とその経営実態,本業重視か経営多角化か の時代に適応した経営戦略がどのようなものであるかなどが明らかにされ るであろう。
2 . アンホイザー・ブッシュ社の創業とエバーハード・アン ホイザー時代 (1 8 5 9−1 8 8 0年)
① エバーハード・アンホイザーによる会社設立の経緯
アメリカのビールは,当初から家庭内で自ら消費する目的で製造され,
産業として発展することはなかった。1840年以前のビールは,やはりイ
―97―
ギリスの影響で「エール」とか「ポーター」と呼ばれた上面醗酵の高アル コール度飲料が主流で,下面醗酵の「ラガー」が飲まれはじめたのは,ド イツ系移民が増えた1840年代末以降である。その後,「ラガー」が広くア メリカ人に愛飲されるようになり,南北戦争後の1867年には3,700余り の醸造業者が全国に分散していた。分散した主な理由は,当時保存技術が 未熟であったため,腐敗しやすいビールは,消費者の地域でのみ製造が可 能であったからである。図表1は,1880年当時の米国における主要なビ ール生産都市であったニューヨーク,フィラデルフィア,セントルイス,
シンシナチ,ミルウォーキー,シカゴの人口数とそのビール生産バレル高 を示したものである。
東海岸と西部ロッキー山脈との中間に位置し,北には五大湖,ミシシッ ピー川は南のニューオリンズでメキシコ湾に流れ込んでおり,ここミズリ ー州セントルイスは,アメリカの大都市のすべてと容易にコミュニケート できる合衆国の中央に位置していた。このセントルイスが,ミルウォーキ ーと同様にドイツの開拓居留地としての賑わいを見せ始め,とくに1840 年代,50年代にはドイツからの移民が急増した。1840年の20,000人,1857 年には160,000人に近い人々がドイツから続々と到着し,この都市には,
醸造業者,ビヤホール,ソーセージ店,豪勢なガーデン,日曜コンサート
図表1
主要醸造都市における人口とビール生産高
(1880年)都市 人口 ビール生産高
(バレル)
New York Philadelphia St. Louis Cincinnati Milwaukee Chicago
1, 9 1 1, 6 9 8 8 4 7, 1 7 0 3 5 0, 5 1 8 2 5 5, 1 3 9 1 1 5, 5 8 7 5 0 3, 1 8 5
2, 9 8 7, 8 1 1 7 6 5, 8 4 4 6 2 7, 2 7 5 5 8 4, 4 3 1 5 7 7, 9 9 2 4 5 8, 8 9 4
(出所)William L. Downard, The Cincinnati Brewing Industry: A So- cial and Economic History, Ohio University Press, 1973. p. 29.
―98―
のほか,スイス・チーズ,オランダ・ニシン,ラガービールなどが満ち溢 れていた。これに応じてセントルイスのビール醸造業者の数も,1854年 の24社から1858年には40社に増えた。セントルイスが米国ビール産業 の中心地の1つとして発展した要因は,2つの天然資源に恵まれていたこ とによる。その第1は,ミシシッピー川とミズリー川からの良質で豊富な 水で,製品の97% である水はビールの生命であった。第2の資源は地下 の無数の洞穴で,1年中温度が一定であることはビールを熟成させ貯蔵す るのに適していた。
アメリカで作られた最初のラガービールはセントルイスで,フィラデル フィアのジョン・ワグナー
(John Wagner)
が1840年に,下面醗酵でビール を作ったのが最初であり,それが1845年までに他の地域に広がっていっ たといわれている。しかし,セントルイスには最も古いビヤホールWest- ern Brewery
があり,その所有者はアダム・レム(Adam Lemb)
と彼の息子 ウイリアム(William)
であった。ドイツ移民のレム親子は,1838年頃に僅 か12バレルのラガービールを既に販売していたようである。この親子は 同年に食品販売店を設立し,ビールの醸造も始め,1850年代までにはW.
J. Lemb
社として年5,000バレルを生産していた。セントルイスにはこのほか,ジュリアス・ウインクルメーヤー
(Julius Winkelmeyer)
によるUnion Brewery (年 間1 5, 0 0 0バ レ ル で 同 都 市 第1位 の 醸 造 会 社),同 都 市 第2位 の
Phoenix Brewery (年間1 3, 0 0 0バレル)など多数の醸造会社があり,激しい
競争を展開していた。
ファーストネームはわからないが,シュナイダー
(Schneider)
というセ ントルイス人が1852年に,ミシシッピー川とセントルイス南部の現在の アンホイザー・ブッシュ社工場にほど近いところに小さなビール会社を設 立した。そのビール会社は,年間3,000バレルの生産能力を有しているに すぎなかった。シュナイダーが彼のビール会社を設立した3年後,この会 社は競合他社のアーバン&ハーマー(Urban & Hammer)
社に買収された。―99―
新しいオ−ナーは
Bavarian Brewery
と社名を変更し,エバーハード・ア ンホイザー(Eberhard Anheuser)
から借り入れた90,000ドルを元手に,同 社の拡大戦略を打ち出した。会社の年間生産能力は8,000バレルまでに伸 びたが,1859年に倒産し,アンホイザーは少数資金者の持分を手中にし て,このビール会社の唯一のオーナーとなった。1805年9月24日生まれのエバーハード・アンホイザーは,
John Jacob Anheuser
の息子で,彼の父はドイツRhine country
のBad Kreuznach
に ある商店主であった。アンホイザーは1843年にアメリカに移住し,最初 シンシナチに住み,2年後にセントルイスに移った。アンホイザーはそこ でNicholas Schaffer
という男とパートナーを組 み,石 鹸 会 社Schaffer, Anheuser and Company
を設立した。この会社は,その所有者に6ヶ月の ヨーロッパ旅行を許すほど繁盛して成功を収め,アンホイザーはかなりの 資 産 を 蓄 積 で き た。彼 は1848年9月26日 に ア メ リ カ の 市 民 権 を 得 た が,1854年に妻のMaria Dorothea Richter
が死去し,アンホイザーには 4人の女の子と2人の男の子の家族が残された。アンホイザーは,倒産したビール会社を再建し,それが金のなる木とな り,しかるべき運営と開発により更に有益なものになることをわかってい た。彼は石鹸会社を続けながら,1859年に
Bavarian Brewery
からSchaf- fer, Anheuser and Company
,翌1860年にE. Anheuser & Company
と社 名を変更してビール会社の仕事に取り掛かったが,まもなく次の2つの結 論に至った。第1は,2つの仕事を一人で運営するにはとても大きな困難 が伴い,富と成功を勝ち得た当初の石鹸事業を軽視することは良くないと いうこと,第2の結論は,Bavarian Brewery
の真の再建には,ビールが わかり,ビールをこよなく愛し,そしてビールを製造し販売する有能な人 材が必要だったということである。アンホイザーは,以下の3つの理由から,その人物としてアドルファス
・ブッシュ
(Adolphus Busch)
を選んだ。第1に,アドルファスはビールに―100―
ついて充分な知識を保持していたこと,第2に,アンホイザーの最も親し い友人の一人であったこと,そして第3に,アドルファスはアンホイザー の娘リリー
(Elisa “Lilly” Anheuser)
の夫で義理の息子となったからである。娘リリーは,彼女の父アンホイザーがアメリカに移住した後まもなく,
1844年8月13日にドイツの
Braunschweig
で生まれた。リリーが10歳 のときに母が死去したため,他の家族とともにアメリカに渡る。アドルフ ァスは,アンホイザーの事業仲間を通じてリリーと出会い,二人は1861 年3月7日に結婚し,リリーはその後,August A. Busch Sr.
を始め13人 の子の母となった。アドルファスは1865年に
E. Anheuser & Company
の株主となり,1869 年には同社の全権を任され,彼は5年間で,販売するのに困難を極めたビ ールの8,000バレルから,市場に出せばすぐ売れてしまう18,000バレル にまで生産能力を増大させた。さらに1873年までに,ビールの生産は 25,000バレルにまで膨れ上がり,生産設備の更なる拡大の必要性が確実 なものとなった。1873年のその年,アドルファスはアンホイザーの立派 なパートナーとなり,1875年に社名をE. Anheuser Co’s Brewing Asso- ciation
に変更,その4年後の1879年に再び社名を変更し,この時にThe Anheuser-Busch Brewing Association
となった。その翌年の1880年5月 2日,アンホイザーは74歳で死去するが,ビールの販売量は,1875−1880年の間に34,794バレルから141,163バレルと約4倍の伸びを示した。
② ブッシュ家の家系と共同経営者アドルファス・ブッシュの経歴 図表2は,アンホイザー・ブッシュ社の歴代社長を輩出したブッシュ家 の家系,また図表3は,同社歴代社長の氏名,アドルファス・ブッシュと の血縁関係,生誕年と死亡年,社長在職期間を一覧にして示したものであ る。
Villa Lilly
はBad Schwalbach
に近く,ドイツKastel
のRhine River
―101―
図表2ブッシュ家の家系 (出所)PeterHernonandTerryGaney,UndertheInfluence:TheUnauthorized StoryoftheAnheuser-BuschDynasty,Simon&Shuster,1991.pp.8-9. 図表中の数字は,アンホイザー・ブッシュ社の社長歴代を示す。
⑥
③ ⑤
② ① ④
―102―
(ライン川)
市から15マイルのリゾート地である。そこはドイツ・ワイン の中心地で,共同経営者アドルファス・ブッシュ一族の物語はここから始 まる。ある夏の午後,アルリッチ・ブッシュ(Ulrich Busch)
はKastel
の市 役所に出向き,彼の41歳の妻バーバラ(Barbara Pfeiffer)
が1839年7月10 日に男の子を生んだと告げた。彼らは,その子をアドルファスと命名した。誕生の2日後,その赤ん坊は
St. George’s Roman Catholic
教会で洗礼を 受けた。アルリッチ・ブッシュは地元ドイツの有力な商人階層メンバーの一人で,
彼の森林から輩出された丸太が船舶材としてライン川を下った。旅館の主 人であった彼は,広大な不動産も所有しており,そのうち2,000年以上に わたって耕作され続けた彼の葡萄園は特に価値があった。土地と太陽の恵 みが,この地方のワインをライン・ワイン
(Rhine wine. 白葡萄酒)
として図表3
アンホイザー・ブッシュ社の歴代社長
氏 名 血縁関係 生誕年
死亡年 社長在職期間 初代 Eberhard
Anheuser ― 1805-1880 1859-1880
2代 Adolphus
Busch ― 1839-1913 1880-1913
3代 August A.
Busch Sr.
son of Adolphus
1865-1934 1913-1934
4代 Adolphus Busch III
son of August Sr.;
grandson of Adolphus 1891-1946 1934-1946
5代
August A.
Busch Jr.
son of August Sr.;
brother of Adolphus III;
grandson of Adolphus
1899-1989 1946-1975
6代
August A.
Busch III
son of August Jr.;
great-grandson of Adolphus
1937- 1975-present
(出所)Donna S, Baker, Vintage Anheuser-Busch: An Unauthorized Collector’s Guide, Schiffer Publising Ltd., 1999. p. 13より作成。
―103―
最も有名にしていた。
アルリッチ・ブッシュ家の繁栄は,彼の財務的資産ばかりでなく,彼の 家族が大規模であったことによっても推定できる。彼は1779年12月12 日に生まれ,アドルファスが誕生したときには既に60歳になっていた。
アルリッチの最初の妻キャサリナ
(Catharina Ankermuller)
との間に,男5 人,女2人の子があったが,キャサリナは1815年4月16日に死去した。アルリッチは1816年5月3日にバーバラと結婚し,その26日後に最初の 子が生まれ,その後毎年子供が生まれた。1844年3月12日,アドルファ スが5歳になる前に母バーバラは死去するが,彼女は8人の男の子と7人 の女の子を生んだ。母の死から3ヶ月後に,65歳のアルリッチ・ブッシ
ュは
Marie T. Fischer
と3度目の結婚をした。アドルファス・ブッシュは,父アルリッチ・ブッシュの男13人,女9人の22人の兄弟姉妹の21番目
(下から2番目)
の子供ということになる。アドルファス・ブッシュは,
Mainz
とDarmstadt
で初等教育を受けた 後,ブルッセルの高校に進み,フランス語と英語を学んだ。高校卒業後,彼は父の木材事業を手伝い,丸太をライン川やマイン川で運ぶ仕事に従事 した。その後彼は,叔父の所有する醸造所で徒弟として働いた。しかし,
彼が18歳になる前の1857年7月,父アルリッチ・ブッシュは72歳で死 去した。ドイツの伝統によれば,長男が父の財産の大部分を受け継ぐため,
下から2番目のアドルファスには父の財産はほとんど何も残っていなかっ た。アドルファスが17歳になった1856年以降,彼の本当の教育が始まっ ていた。彼は
Cologne
にあった商事会社で運送事務員(shipping clerk)
と して働き始めるが,この仕事を通じて,熱意,活力,社交性,適度の抜け 目の無さと洞察力が混在した重要なキャラクター特性が形成されていく。これらの特性と数多くの友人を作る能力が,彼の生涯を通じて大きな財産 となっていったのである。
Cologne
に1年いた後,アメリカの冒険的ニュースが彼の家族メンバー―104―
エバーハード・アンホイザー
(1 8 0 5―1 8 8 0年)
(出所)Peter Hernon and Terry Ganey, Under the Influence: The Unauthorized Story of the Anheuser-Busch Dynasty, Simon & Schuster, 1991.
リリー・ブッシュ(1 8 4 4―1 9 2 8年)
エバーハード・アンホイザーの娘で,
アドルファス・ブッシュの妻。
1 3人の子供の母親
アドルファス・ブッシュ
(1 8 3 9―1 9 1 3年)
―105―
から届けられたため,アドルファスはドイツからアメリカに移住すること になった。彼の3人の兄たち,すなわち
George
,Ulrich
,John
が既にア メリカに渡り,急速にドイツの居留地となりつつあったミズリー州セント ルイスの近隣に住んでいた。兄のJohn Baptist Busch
は1849年にアメリ カに渡り,ホップの販売業者であったGeorge
とともにビール会社を設立 していた。アメリカで“Busch”
ビールを最初に醸造したビール会社は,この
John B. Busch Brewing Company
で,それはミズリー州ワシントン に1854年に設立され,セントルイスから僅か50マイル西の地点であった。18歳になった1857年,アドルファスがニューオリンズ経由でセントル イスに入植した時,この町は大きな南西部諸州への入り口としての地位を 確立し始めた頃であった。2,3 年は猟師の増加による貿易が目立ち,
この時代は世界で最大の毛皮市場となっていた。次いで金物ビジネスがブ ームとなり,その理由は,毛皮を取引するためにやって来た開拓者たちが,
ナイフ,銃,ポット,鍋,ストーブ,釘,その他の小物などを大量に購入 したからである。川での貿易もまたブームとなり,蒸気船がミシシッピー 川の中流に止まり,波止場で船荷を降ろし,新しい荷物を積んでいた。
若き日のアドルファスは,ドイツのライン川とマイン川で丸太を流す仕 事の経験があり,彼がとりあえず一時的な仕事として,蒸気船のクラーク
(運搬事務員)
から出発したのは当然の成り行きであった。しかし彼には,商事会社で取引業者としての経験もあったため,間もなく積荷目録をチェ ックして「最善のものを取引する」努力を行い,自分の名前を独力で次第 にこの地で有名にしていった。その後アドルファスは,
William Hein- richshofen
という男の卸売供給会社(wholesale supply house)
で働いた後,Ernst Wattenberg
とパートナーシップを組んだ。彼らの会社Wattenberg, Busch & Company
は,セントルイスで最も需要の大きかったビールの原 料を供給・販売する会社で,これがエバーハード・アンホイザーとアドル ファス・ブッシュを結びつける契機となったのである。―106―
アドルファスのビール原料供給事業
(brewery supply business)
会社は,ア ンホイザーの石鹸会社の近くにあった。アンホイザーが倒産したBavarian
Brewery
を買収して以後,二人は取引関係を通じて知り合い,アンホイザーの娘リリーとアドルファスが1861年に結婚して以後,両者の関係は より強固なものとなった。アドルファスの妻リリーは,1863−65年の
Nel- lie
,Edward
,August
に加えて,1865−76年の間に8人,更に1882年と 84年にも子を生んで,13人の子の母親となった。長男Edward
は,1879年に腹膜炎により13歳で死去したため,アドルファス夫妻の長男は,1865 年のクリスマス4日後に生まれた
August A. Busch Sr.
となった。E. Anheuser & Company
の当初のパートナーは,化学製品と薬品を販 売していたWilliam D’Oench
であったが,1865年に彼の持分をアドルフ ァスが買い取って同社の株主となって以後,アドルファスとアンホイザー の結びつきは更に強化された。アドルファス・ブッシュが同年,アンホイ ザーのビール会社に参加したとき,彼はたくましい26歳であった。彼は,新しいビール工場,モルト工場,倉庫を次々に建設し,1865−70年の5 年間で生産能力を300% 増加させ,1870年代初頭には25,000バレルとし た。1875年に,70歳のアンホイザーが社長であった時,この会社は初め て株式会社組織となった。アドルファスは財務担当であったが,アンホイ ザーは彼に全幅の信頼を寄せていたため,彼が実質的に会社を運営してい た。投下資本24,000ドルに対して,株式は480株発行されたが,その内 訳は,アドルファスが238株,醸造責任者の
Erwin Spraul
が2株,アン ホイザーが140株,リリーが100株であった。当初から典型的な同族会社 であり,定款により取締役会の承認なしで株式の移転を禁止しており,こ の同族所有形態は以後50年間変わることなく維持された。図表4は,1877年におけるアメリカ上位のビール会社名とその年間生 産バレル高を示したものである。ニューヨークの
George Ehret
が138,449 バレルで第1位,ミルウォーキーのパブスト社の前身会社Phillip Best
が―107―
図表4
アメリカ上位ビール会社の生産高
(1877年)ビール会社名 年間生産高
(バレル)
George Ehret, New York, N. Y.
Ph. Best, Milwaukee, Wis.
Bergner & Engel, Philadelphia, Pa.
P. Ballantine & Sons, Newark, N. J.
Conrad Seipp, Chicago, Ill.
H. Clausen & Son, New York, N. Y.
Flanagan & Wallace, New York, N. Y.
Jacob Ruppert, New York, N. Y.
Beadleston & Woerz, New York, N. Y.
J. Schlitz Brewing Co., Milwaukee, Wis.
Wm. Massey & Co., Philadelphia, Pa.
Albany Brewing Co., Albany, N. Y.
Christian Moerlein, Cincinnati, Ohio Frank Jones, Portsmouth, N. H.
Reuter & Alley, Boston, Mass.
Clausen & Price, New York, N. Y.
Boston Beer Co., Boston, Mass.
Yuengling & Co., New York, N. Y.
W. J. Lemp, St. Louis, Mo.
Windisch, Muhlhauser & Bro., Cincinnati, Ohio Louis Bergdoll, Philadelphia, Pa.
Bernheimer & Schmid, New York, N. Y.
Taylor & Son, Albany, N. Y.
George Weber, Cincinnati, Ohio Downer & Bemis, Chicago, Ill.
John Greenway, Syracuse, N. Y.
Conrad Stein, New York, N. Y.
Eckert & Winter, New York, N. Y.
V. Blatz, Milwaukee, Wis.
Tracey & Russell, New York, N. Y.
Elias & Betz, New York, N .Y.
E. Anheuser & Company’ s Brewing Assn., St. Louis, Mo.
F. & M. Schaefer, New York, N. Y.
138,449 121,634 119,807 107,592 95,167 90,642 88,677 84,432 79,658 79,538 75,193 72,723 72,588 71,471 67,121 64,896 62,881 62,740 61,229 59,475 57,735 54,471 53,453 52,894 51,140 50,913 50,000 47,922 47,663 47,391 46,969 44,961 44,895
(出所) William L. Downard, op. cit., p. 47.
―108―
121,634バレルで第2位であ っ た。セ ン ト ル イ ス で は,
W. J. Lemp
が 61,229バレルで第19位,E. Anheuser & Company’s Brewing Association
は44,961バレルで第32位で,アドルファスは着実に会社を発展させ,ビ ール帝国を建設しつつあった。会社の名前が,1879年にAnheuser-Busch Brewing Association
と変更され,その翌年の1880年にアンホイザーは死 去した。彼の株式は,子供のLilly
とAnna Busch, Cecily Schoettler
,そ してWilliam
とAdolph Anheuser
に引き継がれた。アンホイザーの息子 たちは,ビール会社で積極的な役割を与えられず,それは同社の2代目社 長となったアドルファス・ブッシュに任されたのである。3. アドルファス・ブッシュの時代 (1 8 8 0−1 9 1 3年)
① 大ヒット商品「バドワイザー」の誕生とその成功要因
アンホイザー・ブッシュ社は,「バドワイザー」を最初に発売した1876 年に,16のビール・ブランドを製造・販売していた。この多様なブラン ドは,市場状況や顧客の好みによるものだと結論づけることができる。1872 年に始まり,1877年に商標登録された
“A & Eagle”
というトレードマー クが,同社各製品のラベル上に添付されていたが,それは消費者が,自社 の製品に対して最高品質という評判を広めてくれることを期待してのこと であった。しかし,同社の経営責任者アドルファス・ブッシュは,16の ブランドが互いに競合しあい,より少数のブランドに集中したほうが広告 やマーケティングの利点を享受できると考えるようになり,彼は次第にブ ランドの数を減らして基幹ブランドの構築を目指すようになった。「バドワイザーの起源」について,アンホイザー・ブッシュ社内で長く 語り継がれてきた「逸話」があるが,それは次のようなものである。
「アドルファストとセントルイスの友人カール・コンラッド
(Carl Con- rad)
が,かつてBohemia
で知られていたチェコ・スロバキアのある地方 を旅行していた。彼らは,小さな町の修道院で一夜の宿を得た。そこでア―109―
ドルファスは,修道士たちによって醸造されているビールに強い関心を持 ったので,そのレシピとイースト,同ビールをセントルイスで醸造する権 利を与えるように頼んだ。アドルファスがその時アイスリームの冷凍ボッ クスに入れて大西洋を越えて持ち帰ったイーストは,現在も同社に大事に 保管されているという。」
これは作り話
(fiction)
であるが,その中に真実の一端が示されている。実際,アドルファスとカールは新しいビールを醸造し,それをセントルイ ス郊外のカールの高級レストランで顧客に提供したが,当初からプレミア ム価格で発売されたそのビールは評判が良かった。そこで,
Anheuser−
Busch Brewing Company
はC. Conrad and Company
から1882年に同ビ ールの製造権を買取し,Bohemian brewer
のライト・ビール“Budweis”
にちなんで
“Budweiser”
というブランド名を1891年に買取り,更にそれ を1907年,米国特許局に正式に商標登録した。上面醗酵に対して,下面醗酵のラガービールがヨーロッパを席巻するに 至ったのは19世紀に入ってからであるが,この頃から急速に技術革新の 波が押し寄せて来る。ビール醸造技術を飛躍的に発展させ,下面発酵ビー ルを大量生産方式の近代産業に押し上げた技術革新は次の3つであった。
すなわち,①リンデの製氷機の発明
(1 8 7 3年)
,②ハンゼンによる酵母の 純粋培養法の確立(1 8 8 3年)
,そして③パスツールの低温殺菌法の発 明(1 8 6 6年)
である。このうち,フランス語に堪能であったアドルファスが 特に注目したのがパスツールの発明で,彼がスイスからセントルイスに連 れてきた醸造技術者Dr. Rudolph Gull
の低温殺菌法による瓶詰「バドワ イザー」の開発が,それを世界に知らしめる原動力となった。「バドワイザー」の原料も厳選された。アメリカ産の大麦は,炭水化物 とたんぱく質に対して殻の割合が多いので不要のものを取り除き,またヨ ーロッパ産の大麦に比して炭水化物に対したんぱく質が多いため,副原料 としてトウモロコシ澱粉,ライス等が30−40% 追加された。ボヘミア地
―110―
方の麦芽と抗菌作用を持つホップ,硬度の極めて低い良質の水で醸したビ ールは真っ白なきめ細かい泡に覆われた琥珀色の爽快な切れ味となり,低 温で長期に貯蔵熟成させた「バドワイザー」は微生物耐性も相対的に強く,
次第に品質の評価が高まっていったのも当然のことであった。
「バドワイザー」に対する国民の熱意,その販売量がものすごい割合で 増大して需要が供給を上回り,間もなく世界で最も有名なビールとして大 成功を収めた要因は,優れた製法と厳選された原料により高品質を維持し,
巧みな広告と冷凍貨車による輸送戦略によって,テキサス,ルイジアナ,
南部の他の州,そして中西部地区,全米各地へと市場を拡大したことによ る。発売の2年後,「バドワイザー」は輸出を開始し,それはケープタウ ン,香港,上海,カルカッタ,シンガポール,長崎,東京,サンドウィッ チ諸島,ハワイ,イギリス,メルボルン,シドニー,バルパライソ
(南米チ リ中部の港湾都市)
,リオデジャネイロ,そしてアメリカ中部・南部のすべ ての港湾都市で人気を得ていた。これは,「バドワイザー」が1876年のフ ィラデルフィア万国博覧会においてビールに与えられる最高の賞(金賞)
を獲得し,それに続いて1878年のパリ万博,1883年のアムステルダム,
1884年のニューオリンズ,1893年のシカゴ万博,1898年のウィーン,そ して1904年のセントルイス万博でも最高の栄誉を勝ち得たことによる。
以下は,1879年5月10日付けのセントルイスの一議員によるパリ万博 での「バドワイザー」受賞を伝える手紙の一部である。
「アンホイザー・ブッシュ社はパリ万博で金賞
(Grand Prize)
を受賞した。アンホイザー・ブッシュ社は勝利したのだ。
彼らは金メダル
(Gold Medal)
を手中にし,1878年パリ万博で最高の栄 誉を獲得した。昨日,われわれは,どの会社よりも同社に与えられた金賞,ならびに万 博で最高のビールに対する受賞を連絡するオリジナルの手紙を拝見する 栄誉に浴し,ここにそのコーピーを提示する。
―111―
1878年万国博覧会 合衆国国務省事務局
ワシントン 1879年5月6日 アンホイザー・ブッシュ社 殿
ミズリー州セントルイス
私は,パリで開催された1878年の万国博覧会に出品し,国際的審査会 によって贈呈された金メダルを,アダムスの特急便にて今日,貴社にお 送り致します。
国務長官
W. C.
マコーミックこの手紙に見られるように,セントルイスは最高の賞を獲得した。われ われは,アンホイザー・ブッシュ社,ならびに同社の経営者アドルファ ス・ブッシュを祝福する。」
アドルファスは,「バドワイザー」の容器にもこだわった。金属王冠キ
ャップ
(metal crown cap)
が導入されるのは世紀の転換期以後であるが,「バドワイザー」は高級ワインに見えるように,瓶詰めにされて販売された。
各コルクにはアンホイザー・ブッシュ社の名前が刻印され,それは針金と 薄い金属箔でラップされていた。大量のコルク栓抜き
(corkscrew)
と折り たたみ式のポケット・ナイフ(poket knife)
が,景品として配布された。ア ドルファスは,市場で瓶を充分に獲得することができなかったため,子会 社Adolphus Busch Glass Manufacturing Company
を設立して瓶の自社生 産にも取り組んだ。アドルファスは,アメリカ国民が「バドワイザー」とアンホイザー・ブ ッシュ社をより強く認識するあらゆる試みを実践したが,そのアイデアの 1つが,「カスター
(将軍)
最後の戦い」(“Custer’s Last Fight”)
というタイト ルの絵画を活用したことである。「バドワイザー」が発売された同年1876 年の6月25日,カスター将軍率いる250人のアメリカ軍隊が,敵意を持 つインディアン(Sioux and Cheyenne Indians)
と現在の南部モンタナ州で激 戦のすえに全滅した。この有名な戦いは,アメリカ国内の画家たちの格好―112―
のテーマとなり,そのうちの一人が
Cassilly Adams
であった。この絵は アドルファスによって1888年に購入され,セントルイスのバーで展示さ れていた。アドルファスは間もなく,アダムスの絵の潜在力に気付き,こ れを「バドワイザー」の販売促進に活用することを思いつく。彼は同絵画 のリトグラフ(石版画)
を別の画家F. Otto Becker
に依頼し,それは1896 年に完成する。その絵の下にAnheuser-Busch Brewing Association
と入 れ,これを大量に印刷して全国に配布したが,それは成功した広告ツール として高い評価を得ることになった。かくしてアンホイザー・ブッシュ社は,1880−1885年までにビール販 売量を141,163バレルから318,107バレルに伸ばし,この記録は,次の 5年間に702,346バレルと2倍以上の伸びを示した。1890年と1895年の 間は横ばいであったが,翌年には739,951バレルを販売し,その後上向き の刺激が加わり,1900年には939,768バレルに達した。図表5は,1895 年におけるアメリカ上位のビール会社名とその生産バレル高を示したもの であるが,アンホイザー・ブッシュ社はパブスト社に次いで全米第2位の ビール会社に躍進することになったのである。
② 米国ビール業界の競争激化と禁酒運動への対応
(a)
米国ビール業界の競争激化とアンホイザー・ブッシュ社の勝利 米国ビール業界は1880年代頃から競争が次第に激しくなっていたが,この頃,ビールの低温殺菌法,コルクや王冠を使った瓶詰保存技術,そし て冷蔵輸送技術が改善されて消費量が飛躍的に伸びたため,全国に製品を 送り出す醸造業者が現れた。ドイツ系移民が多いミルウォーキーに本拠を 置くパブスト,シュリッツ,セントルイスのアンホイザー・ブッシュ社な どの醸造業者は,冷凍貨車を利用して全国にシェアを伸ばし始めたが,こ れは地域業者と激しい販売競争を引き起こすことになった。それはまず,
価格の引き下げ競争という形で始まった。大市場を抱えたシカゴの町では,
―113―
特に激しい「値引き戦争」が行われ,1880年代の一時は利潤がほとんど 見込めない1バレル8ドルを大きく下回る,自壊的ともいえる4ドルで投 売りされたこともあった。共倒れを恐れた業者たちは醸造業者組合を結成 し,1バレル8ドルを卸売価格とする「休戦」を成立させた。しかしこの 休戦も,すぐに新たな競争によって破られるのであった。
再燃した業者間の競争は,ビールの販路である小売業者――その多くが 酒場――の獲得合戦,つまり系列化競争であった。このとき多くの酒場も,
過当競争やライセンス料の引き上げによって経営状態が悪化しており,酒 場と醸造業者を硬く結びつける「特約酒場」の制度は,双方にとって利益 をもたらすものと考えられた。ライセンス料の肩代わりの他に,醸造業者 は酒場へカウンターや食器棚などを貸し出し,グラスのような小物類や女
図表5
アメリカ上位ビール会社の生産高
(1895年)ビール会社名 年間生産高
(単位:1,000バレル)
Pabst Brewing Co., Milwaukee, Wis.
Anheuser-Busch Brewing Assn., St. Louis, Mo.
Joseph Schlitz Brewing Co., Milwaukee, Wis.
George Ehret, New York, N. Y.
Ballantine & Co., Newark, N. J.
Bernheimer & Schmid, New York, N. Y.
Val. Blatz Brewing Co., Milwaukee, Wis.
Wm. J. Lemp Brewing Co., St. Louis, Mo.
Conrad Seipp Brewing Co., Chicago, Ill.
Frank Jones Brewing Co., Portsmouth, N. H.
Peter Doelger, New York, N. Y.
Ruppert, New York, N. Y.
James Everard, New York, N. Y.
Christian Moerlein Brewing Co., Cincinnati, Ohio Bergner & Engel, Philadelphia, Pa.
Bartholomay Brewing Co., Rochester, N. Y.
900-1,000 700- 800 600- 700 500- 600 500- 600 400- 500 350- 400 300- 350 250- 300 250- 300 250- 300 250- 300 250- 300 250- 300 250- 300 250- 300
(出所) William L. Downard, op. cit., p. 80.
―114―
性の裸体画などを贈って関係を強めた。世紀転換期のシカゴでは,およそ 7,000軒あった酒場のうち,4,700軒の店内設備は醸造業者によって所有 されていた。また,醸造業者が自ら投資して酒場を開店させることも,軒 数が比較的少ない西部の新興の町を中心に試みられた。たとえば世紀末,
ワシントン州内のノーザン・パシフィック鉄道沿線に生まれた町には,「直 営酒場」が数多く建設された。このように20世紀初頭までに,醸造業者 は酒場の系列化に成功を収めた企業を中心に,独占化が進行していくので あった。
アドルファス・ブッシュは1889年,ライバル会社
Pabst Brewing Com- pany
の社長Frederick Pabst
に次のような手紙を書き送った。「酒場経営 者は,特定の醸造業者との取引を餌に不当に低いビール価格を請求してく る。これに対する解決策は,貴社,Schlitz, Lemp
,そしてわが社の上位4 社の全国的ビール会社によって,1バレル当たりのビール価格を10ドル 25セントー10ドル75セントに固定することである。これによって,現 在より50万ドルないし100万ドル以上の利益を確保できる。」すなわちア ドルファスは,鉄鋼,砂糖,石油業界と同様に,ビール業界もトラストを 組んで価格競争を回避すべきであると提言したのである。アドルファスは,その一方で地方の弱小ビール会社との競争には積極的で,ニューオリンズ の12社との価格引き下げ競争は熾烈であった。またテキサス州の
Lone Star Brewing Company
やTexas Brewing Company
の株式所有,1895年 にはAlamo Brewery
やShreveport Ice & Brewing Company
などを買収 して価格競争を避けた。ビール会社が,万博や世界的な展示会での受賞を自社製品の宣伝に活用 する競争を展開していることは既に述べたが,クリストファー・コロンブ スのアメリカ大陸発見400年を記念して1893年に開催されたシカゴ万博 での受賞レースは特に激しかった。ここでは,アンホイザー・ブッシュ社 と パ ブ ス ト 社 が 激 突 し,最 終 的 に パ ブ ス ト 社 の ビ ー ル が
“selected as
―115―
America’s best in 1893”
と認定された。ビール瓶が最初に使われた頃,パブスト社は1882年に高品質ビールの瓶の首にブルー・リボンをつけ,
人々はこのブルー・リボン・ビールを求めたが,当時はまだ公式のブラン ドとはなっていなかった。1892年までに,パブスト・ビールの特別ブラ ンドはとても有名になったので,会社は絹のリボン20万ヤードを購入し,
それを作業者が各瓶に手で結んだ。1893年にシカゴ万博で同製品がトッ プ賞を獲得したので,「ブルー・リボン」
(“Blue Ribbon”)
は1895年からパ ブスト社の主力ビールの公式名となった。賞と国際的認知によってパブス ト社の成長は不動のものとなり,それが同社を全米第1位のビール会社(図表5を参照)
とした要因である。アンホイザー・ブッシュ社は1896年,パブスト社の「ブルー・リボン」
の大ヒットに対抗して,高級ビール「ミケロブ」
(“Michelob”)
を発売した。これは,当初から「玄人のための生ビール」
(“draught beer for connoisseurs”)
として上級市場を狙った新製品で,通常1ボトル15セントに対し20セン トであったが,その後スーパープレミアム・ビールとしてかなりの成功を 得ることができた。「バドワイザー」と「ミケロブ」のこの2大基幹ブラ ンドの成功により,遂に1901年,アンホイザー・ブッシュ社の売上はミ リオン・バレル高を越え,それは地球上のどのビール会社の生産高も上回 っ て い た。ア ン ホ イ ザ ー・ブ ッ シ ュ 社 は 同 年,1,200人 の 従 業 員 を 雇 い,1,100,000ブッシェルの大麦と700,000ポンド以上のホップを消費し た。さらに400,000以上の樽と箱を使用し,500,000トンの石炭を消費し,そしてビール製造,冷却機器,洗浄などに使用された水のメーターは2億 5千万ガロンを示していた。1913年までにボイラー全体の馬力は12,665
馬力となり,そして電力消費は3,740キロワットになった。これにより同 社は,世界最大の製氷機械を所有することになり,冷蔵 設 備 は1日 に 4,250トンと同量の氷を製造することができた。1913年の同社の資産価 値は,110の建物を含んで142エーカー,40,000,000ドル以上と見積もら
―116―
れた。
つい半世紀前までは,ミシシッピーの蒸気船で大志を抱いていた一移民 船員としてしか認識されていなかったが,アドルファス・ブッシュの名前 はその後偉大な人物を示すものとなった。アドルファスはセントルイスで 最も著名な企業家となったが,彼の多くの富と収入は,セントルイスの多 くの重要な企業の利益により可能となったものである。セントルイスやイ リノイを越え,全米各地に工場を持つ
Adolphus Busch Glass Manufactur-
ing Company
は,瓶詰めでは合衆国で最も大きな製造会社の1つとなった。彼は更に,
Manufacturer’s Railway Company,St.Louis Refrigerator Car Company
のほか,South Side Bank, Busch-Sulzer Brothers Diesel
Engine Company
の社長も勤めた。20世紀に入って最初の万国博覧会であり,ルイジアナ地方をフランスから買収した100年記念の1904年セン トルイス万博で,アドルファスは最も多額の寄付者となった。地元の
St.
Louis Post-Dispatch
の新聞記者がアドルファス・リリー夫妻の家を訪れ,その豪華さとセオドア・ルーズベルトやタフト大統領などの有名な来客に ついて書いているが,アドルファス・ブッシュがこの時代を代表する実業 家の一人になったことは間違いない。
(b)
アドルファス・ブッシュによる禁酒運動への対応20世紀の始まりとともに,禁酒運動は全米でしっかりとした基盤を築 きつつあったが,1893年に設立された「反酒場連盟」
(当初 American Anti- Saloon League であったが,1 9 0 5年に Anti-Saloon League of America と改称され た。以下 ASL と略記)
および禁酒運動全体にとって,1913年という年は重 要な転換点となった。それはこの年以降,ASL
の視点は州レベルに置か れながらも,同時に連邦レベルへも向けられ,合衆国憲法の修正条項とし ての全国禁酒法が模索され始めたからである。1900年時点ではメイン,カンザス,ノースダコタ,ニューハンプシャー,そしてヴァーモントなど
―117―
の各州で州禁酒法が試行されていた。それが1913年には,ジョージア,
オクラホマ,ミシシッピー,ノースカロライナ,テキサス,アラバマ,そ してウェストヴァージニアと,ドライ
(禁酒法賛成)
地域が国土および人 口の点でかなりの部分を占め,連邦の政治地図上にも大きな広がりを見せ ていた。そして更に,「ウェブ・ケニヨン州際酒類運送法」(Webb-Kenyon Interstate Liquor Act)
が,ウィリアム・タフト大統領(William H. Taft. 共和党,
第2 7代大統領在任期間は1 9 0 9−1 9 1 3年)
の拒否権を乗り越えて,同年に連邦 議会において成立したという事実は特に注目されて良い。そもそもこの法案は,1912年1月に
ASL
を中心としたさまざまな禁酒 協会の指導者たちの同意の上に作成されたが,その主旨は,各州に存在す る禁酒法の意図に反して,アルコール飲料を他州から搬入させてはならな いというものであった。この法律が成立する以前は,たとえ州禁酒法が存 在していても,州政府が取り締まれるのはあくまでも州内で製造および販 売された酒類だけで,他州もしくは外国から輸入されるものを取り締まる 権限は,州政府には与えられていなかった。しかし,「ウェブ法」の成立 によって,州政府は営利目的で州外から搬入される酒類もまた,取締りの 対象にできるようになったのである。1912年1月に法案が作成されて以来,その成立を目指す禁酒運動家お よび彼らを支援する議員と,それを阻止しようとする酒造業者や禁酒法に 反対する議員との間で,ほぼ1年にわたり意見が激しく闘わされた。公聴 会を開催するなど,議会での審議は一応行われたが反対派からの抵抗は強 く,審議はしばしば中断された。反対派の先鋒は,1862年に設立されて いた全米醸造業者組合
(U. S. Brewers Association. 以下 USBA と略記)
で,その中心人物は,業界トップ企業の社長アドルファス・ブッシュであった。
彼は,ビールに対するバレル当たり2ドルの税引き下げにコンスタントに ロビー活動を展開していたが,1900−1910年の禁酒運動の激化に伴い,
セオドア・ル−ズベルト
(共和党,第2 6代大統領在任期間は1 9 0 1−1 9 0 9年)
―118―
の後継を選ぶ1908年大統領選では共和党のタフトを支援していた。先の
「ウェブ法案」が最終的に投票に持ち込まれたのは1913年2月のことで,
上・下両院ともこの法案を可決して大統領へ送付した。このときの大統領 タフトは,前年
(1 9 1 2年)
の選挙で既に民主党のウッドロー・ウィルソン に敗れており,退任を目前にした彼が,この法案にどう対処するかが注目 された。当時
ASL
は,大統領が拒否権を発動しないであろうという感触を得て おり,法案成立については楽観的であった。それはASL
代表が,酒類の 州際運送に関して大統領と懇談したときに,タフトは議会の意思に従うと 明言したとされるからであった。しかしアドルファスは,1913年2月13 日にタフト大統領に拒否権発動要請の手紙を書き,大統領は法案が議会を 通過するや直ちに,その要請に基づいて憲法違反を理由に拒否権を行使し たのである。これは,アドルファスの最後の「大きな勝利」(great victory)
であったといえる。ASL
は即座に,大統領と酒造業界との癒着を非難し,選挙に際し受け取ったとされる多額の政治献金と拒否権発動との関係を問 題にした。かくしてこの法案は,上院ではその日のうちに,また下院でも 翌日に規定の3分の2以上の賛成票を集めて
(上院は6 3対2 1,下院は2 4 6 対9 5)
,大統領の拒否権を乗り越えて成立することとなった。「ウェブ法」は,これが直ちに全国禁酒法と結びつくことはなかったが,しかしここで 重要なのは,大統領の拒否権を乗り越えるだけの多くの議員が禁酒運動を 支持する側に立ったこと,言い換えるならば,彼らを選出した選挙区の多 くで,禁酒運動に好意的な有権者が多数を占めていたという事実である。
アドルファス・ブッシュの健康状態が徐々に悪化し,彼は1913年10月 10日に74歳で死去した。地元の新聞
St. Louis Globe-Democrat
は,翌日 に一面で彼がドイツLangenschwalbach
の別荘で死去したことを大々的に 報じ,またSt. Louis Post-Dispatch
は,彼の個人的な寄付活動が,多額 の政治献金に加えて,Harvard University (3 5 0, 0 0 0ドル),The Louisiana
―119―
Purchase Exposition (1 0 0, 0 0 0ドル),Busch Hall, Washington University
(1 2 0, 0 0 0ドル)
,Sisters of the Good Shepherd (1 0 0, 0 0 0ドル),San Fran- cisco Fire Relief (1 0 0, 0 0 0ドル)など,多方面に及んでいたことを明らか
にした。
4. オーガスト・A・ブッシュ Sr. の時代 (1 9 1 3−1 9 3 4年)
① 第一次大戦期(1914−1918年)の多角化
(a)
オーガスト・A
・ブッシュSr.
の経歴と第一次大戦期の活動 オーガスト・A
・ブッシュSr. (August Anheuser Busch Sr. 以下,A・ブッ シュ Sr. と略記)は,1865年にアドルファス・リリー夫妻の次男として誕
生したが,長男Edward
が13歳で死去したため,実質的に長男となった。
彼は
Lyon Public School
で初等教育を受けた後,シカゴのMorgan Park Military Institute
,さらにミズリー州Boonville
にあったKemper Military Academy (ケンパー陸軍士官学校)で学んだ。19歳の時にA
・ブッシュSr.
は,自分が将来ビール事業を継ぐ意思は無く,カウボーイになりたいとの 希望を述べ,父アドルファスを驚かす。1890年5月8日,
A
・ブッシュSr.
は22歳の
Alice Ziesemann
と結婚し,翌年Adolphus Busch III
,1899年 にはAugust “Gussie” Busch Jr.
が誕生し,2男3女の家庭を築いた。父アドルファスは1903年,息子の希望にそって
A
・ブッシュSr.
にグ ラント農場(Grant’s Farm)
を与えた。この農場は,ユリシーズ・グラント(共和党,第1 8代大統領在職期間は1 8 6 9−1 8 7 7年)
が1883年まで所有してい たセントルイス郊外のGravois Road
にあったもので,グラントがウォー ル街の銀行事業の失敗でそれを失った後,アドルファスが買い取って所有 していた。この農場は486エーカーの広大な土地を持ち,A
・ブッシュSr
. は,ミズリーの農夫のために教育プログラムを始めたり,農場の若者を“My Pig”
エッセイで表彰したり,またグラント農場の厩舎には動物好きの彼が集めた馬,牛,犬,家禽,野鳥のほか,自分で
Tessie
と命名した―120―
象なども飼われていた。彼はこの農場に1912年頃まで家族とともに住ん でいたが,その後,この地に多くの旅行客をひきつけるため,有名な
Sun-
set Inn
を建設した。これは最終的に,全米で最もハイクラスなメンバーズ・ゴルフ・クラブの1つである
Sunset Hills Country Club
となった。クリスマスのときはこの農場でビッグイベントなども行われ,
A
・ブッシ ュSr.
は,産業企業家であると同時に田舎の大地主でもあったのである。1913年に父アドルファスが死去し,同年
A
・ブッシュSr.
は,しぶし ぶ全米最大のビール会社アンホイザー・ブッシュ社の3代目社長に就任し た。しかし,父の死から2ヶ月もたたない1913年12月,アメリカにおけ る全国禁酒法制定のための憲法修正の通過を要求して4,000人の男女がワ シントンDC
を行進し,これを契機に禁酒運動はさらに激化していく。次いで翌1914年8月,サラエボ事件
(オーストリア皇太子フランツ・フェル ディナントがサラエボでオーストリア国籍のセルビア青年ガブリエル・プリンチプ によって暗殺される)
を契機に第一次大戦が勃発し,この二つの事件は,Grant’s Farm
の「夢の楽園」でジェントルマン農夫として静かな生活を望んでいたシャイで内気な
A
・ブッシュSr.
に,多大の苦難を与えること になった。反ドイツ感情と禁酒運動の拡大は,ビール帝国アンホイザー・ブッシュ 社とその経営責任者
A
・ブッシュSr.
を当然に標的とした。1914年に,アリゾナ,コロラド,オレゴン,ヴァージニア,そしてワシントンの5州 で州禁酒法が制定され,ドライ
(禁酒法賛成)
地域がその後も拡大してい った。それは米国内ばかりでなく,同時にカナダやオーストラリアの人々 の間にも「バドワイザー」不買運動が拡大し,これは同商品名がドイツ語 の語源を持っていたことによる。このため,アンホイザー・ブッシュ社の 1914年売り上げは,前年の1,740万ドル(1 5 3万バレル)
から1,480万ド ル(1 3 0万バレル)
に下がり,その後もこの低下傾向は続いた。アンホイザ ー・ブッシュ社は,オーストリア や カ ナ ダ 向 け の「バ ド ワ イ ザ ー」に―121―
English-language
ラベルを急遽添付したり,またA
・ブッシュSr.
自身も,彼の背広の袖口にアメリカ国旗のカフスボタンをつけたりしてイメージ改 善に努力した。
A
・ブッシュSr.
はその後も,アンホイザー・ブッシュ社が「愛国心の 強い会社」(“Patriotic Company”)
であることをイメージさせるさまざまな活 動を展開していく。彼はまず,ディーゼル・エンジンの特許を取り,それ を生産効率のためにビール工場に最初に設置した。次いで1915年3月28 日,子会社Busch-Sulzer Brothers Diesel Engine Company
が海軍の潜水 艦用ディーゼル・エンジンの生産を受注した。また“Miss Budweiser”
と 命名した2機の爆撃機を資金援助するため,アンホイザー・ブッシュ社とA
・ブッシュSr.
は大量の戦時公債を引き受けた。戦争がもたらす禁欲的風潮が強まって軍隊も兵士用のビール貯蔵量を削 減し,ビールの需要がますます減少していったため,アンホイザー・ブッ シュ社は,第一次大戦中に4,000万ドルかけて建設したビール製造工場へ,
さらに1,800万ドルをつぎ込んで設備を改造し,「ベボ」
(“Bevo”)
という 商品名のニア・ビールを生産した。“Bevo”
という名称は,ボヘミア語で ビールを意味する“Pivo”
に由来する。“Bevo”
は大麦,麦芽イースト,ホップ,水,塩,米から造られており,原材料は普通のビールとほとんど 変わらなかった。
“Bevo”
が製造され始めた1916年からしばらくの間,アルコール度は低かったものの,味が比較的良かったため,売上は順調で あった。しかし,1919年に全国禁酒法が施行された頃から麦芽イースト が不足し始め,味が悪くなったため売上も落ちた。1920年から5年間で,
“Bevo”
を含めて約10億ガロンのニア・ビールが生産されたが,この量は,1914年に製造された通常のビールの10分の1以下だった。それでも,
その多くは市場で売れ残った。普通のビールが,闇のルートを通って比較 的容易に入手できる状況であったため,人々が水くさいビールを敬遠した のは当然であったといえよう。
―122―
第一次大戦中の1915年2月,ドイツはイギリスの海上封鎖に対抗して
U-boat
による潜水艦戦を開始したが,潜水艦による戦闘は在来の戦時国際法のルールになじまなかった。海中から魚雷攻撃をおこなう潜水艦は,
商船攻撃にさいして非戦闘員の安全をはかれず,中立国船か否かの確認も 困難であった。それゆえ米ウッドロー・ウィルソン大統領
(民主党,第2 8 代大統領在任期間は1 9 1 3−1 9 2 1年)
は,潜水艦戦による合衆国の市民・船舶 の被害が生じれば,「中立権侵犯」として厳重に責任を追及すると警告し ていた。はたして1915年5月,イギリスの豪華客船ルシタニア号がアイ ルランド沖で独潜水艦によって撃沈され,アメリカ人128人を含む乗員・乗客1,198名が死亡した。アメリカ人の衝撃は大きく,ドイツは「国際法 と神の法をともに踏みにじった」とする非難の声が高まった。かくして 1917年4月,アメリカはドイツに宣戦布告し,これは醸造業者の多くが ドイツからの移民の子孫であったため,その後の全国禁酒法運動へ決定的 な影響を与えることとなった。
(b)
全国禁酒法の成立とアメリカ社会および米国ビール業界の動向 1914年以降,禁酒運動が州禁酒法から連邦レベルで進展し始め,憲法 修正第18条が成立する過程で考慮すべきは第一次大戦であった。アメリ カがドイツと戦闘状態に入る1917年頃には,国民の愛国心が高揚すると 同時に,禁欲的な生活を強いる社会的風潮が一段と広まった。醸造酒業者 のほとんどがドイツ系市民であったことも,禁酒法運動をさらに活発なも のにした。また,戦争という非常事態は連邦権力の拡大に貢献し,平時な らば州権との関係で強く主張されたであろう憲法修正に慎重な意見が,予 想外に弱かった。対ドイツ宣戦布告直後の1917年5月に,政府は「選抜 徴兵法」を成立させると同時に,すべての軍人に対する酒類販売を禁止す る命令を出した。さらに議会は,1917年8月に戦時食糧難を回避する目 的で,「リーバ食料統制法」を戦時態勢解除までという期限付きで通過さ―123―
せ,これによって穀物からウィスキーやジンなどへの蒸留酒製造が禁止さ れた。こうして1917年頃までには,それまでに成立していた州禁酒法な どに加えて,新たな行政命令や立法措置によって,反酒場連盟
ASL
が究 極的な目標としてきた全国禁酒法が成立しているのに近い状況が生じてい たのである。1917年4月2日に召集された第65回臨時議会は,そもそも宣戦布告の 決議を承認するものであったが,
ASL
はこの機会を利用した。まず合衆 国憲法修正第18条(職業選択の自由の修正法案)
が1917年4月上院では65 対20,同年12月下院では282対128の賛成票を得て議会を通過し,批准 に必要な4分の3以上の州の承認を求めて,同法案は各州議会へ送付され た。そして13ヶ月後の1919年1月16日に,ネブラスカ州がこの憲法修 正案を認める36番目の州となり,ここに第18条は確定したのである。こ の法案の第1条によって,この法律の1年後から,アメリカ合衆国および その管轄下に置かれた全ての地域において,酒類(intoxicating liquors. 0. 5%
以上のアルコール分を含むビールにまで拡大)
を飲用目的で製造,販売,運搬 すること,また国内はもとより外国へ搬出ならびに外国から搬入すること は,ここにすべて禁止された。さらに1919年5月,ミネソタ州選出の連 邦下院議員アンドリュー・J
・ヴォルステッド(Andrew J. Volstead)
による 提案にちなんで,通称「ヴォルステッド法」と呼ばれる禁酒法を強化する 新法案が提出され,議会は1919年10月28日に同法案を通過させた。アメリカでは,1920年1月17日の午前零時を過ぎて,酒類の製造,販 売,運搬等を禁止する合衆国憲法修正第18条が効力を発した。当初禁酒 法は,社会に秩序をもたらしてくれるものと期待されていたが,実際には 思わぬ混乱を招いた。禁酒法が施行されると,密造酒や密輸入酒が大量に 出回り,それを扱って暴利をむさぼるギャングの組織化が進み,彼らと手 を組む法の番人が増え,惨たらしい殺人事件が多発した。第31代米大統 領ハーバート・フーヴァーは,この禁酒法の試みを,「高貴
(noble)
な動機―124―