楊雄の詩経閤子
﹃法 号一 日を 中心 とし て
宣 加
j頼
1、ニ圭二主
男
は じ め に
漢末から新にかけての人︑楊雄は多数の多様な作品を遺しており︑その思想の中心には儒墜がある︒作品の中では
経書の語句や表現を好んで援用し︑復古的な忠想を表現している︒しかしながら楊雄の儒撃がどのように形成された
のか︑その賞態はほとんど分かっていない︒とりわけ経墜に封する深い造詣がどのようにして獲得されたのかという
問題は︑楊雄の思想や文撃を考える時︑きわめて重要な意味をもっ︒そもそも楊雄は︑いつ︑どこで︑どのような経
書を駒子んだのか︒それはどのような方法で習得され︑その目的はどこにあったのだろうか︒こうした疑問について答
えようとしても︑現在は推測を重ねることしかできない︒
をさ﹃漢者一一回﹄本俸に見られる自序に﹁雄少くして撃を好み︑章句を矯めず︑訓話通ずるのみ︒博覧にして見ぎる所無し﹂
とあり︑早くから多数の書物に親しんだことはわかるものの︑訓話を望んだ程度で︑章句を習い闘{見えることはなかっ
楊雄の詩経撃
一五
五
一五 六
たと述べている︒呉鰭的に名家の部より弟子として何らかの経蓄を教授された形跡は見つからない︒ただ︑若い時に
① 成都で巌遁に師事したと俸えられる︒巌遵はト笈をよくし︑﹃老子b
を教
授し
た隠
士風
の人
物で
ある
︒ま
た﹁
答劉
款章
一回
﹂
② に一年間石室の書の閲覧が許されたとあるので︑宮中の書物によって経事の理解を深めたことが推しられるばかり
であ
る︒
楊雄の経翠に闘しかつて筆者は﹁﹃
﹄の
表現
ii
i経
章一
回の
援用
と模
倣
││i﹂という小論を護表している︒そして﹃法
﹄に援用された経蓄の字句について援用法を比較し︑その工夫に全種的な検討を加えた︒そこで得られた理解を踏
まえ︑今回は楊雄の経翠についてより深く探りたい︒特に今回は楊雄の詩経撃について調査を進めることとする︒そ
れはまた︑拙論﹁論揚雄的﹁越充閤頒﹂﹂﹁楊雄﹁元后諒﹂の背景と文鰻﹂によって楊雄の文章に見られるよ討経﹄の③ 語句を調査し︑楊雄にとってよ討経﹄がきわめて重要なことを明らかにしているからである︒しかし楊雄は多数の様々
な作品を表しており︑全ての作品を押し並べて論ずるのは容易ではない︒そこで小論では晩年の作であり︑楊雄の撃
間の
到達
黙と
見な
すこ
とが
でき
る﹃
法一
一一
一口
﹄を
主た
る検
討釘
象に
選ぶ
こと
とす
る︒
﹃ 法
﹄に見る楊雄の詩経撃
コ 紘 一 一
C一 一 がよ討経﹄を明らかに援用する章は数十章に及ぶであろうが︑まずその中でも典型的な例を見ょう︒
も つ よ つ
に﹁摂蛤に子有り︑蝶密航之を負ふ︒爾の子に敬語し︑式て穀く之を似がしめよ(制限蛤有子︑蝶鼠負之︒
雅 の 宛 敬語爾子︑式穀似之)﹂という句がある︒
摂蛤﹂は桑議であり︑﹁蝶巌﹂はジガバチのこと︒ジガバチは桑患の子供を
育てることがあると考えられていたので︑桑轟の子を教え諭してジガバチの跡繕ぎにせよ︑と詠われているのである︒
この匂を踏まえるのが吋b
の次
の章
であ
る︒
@
摂嬬之子勝沼市逢螺覇︒祝之日﹁類我︑類我︒﹂久期待之失︒速哉︑七十子之常仲尼由︒(翠行)
解ハ嬬の子建れて蝶巌に逢ふ︒之を祝してく﹁我に類よ︑我に類よ﹂と︒久しくして別ち之に肖る︒速やかなる
︑品
︑品
︑︑ ム パ
M
宇山
︒
七十子の仲尼に得たること︒
ジガバチが種類の異なる桑轟の子供を育ててジガバチに似た
にす
ると
いう
部分
は﹁
小宛
﹂に
その
まま
擦り
︑﹃
法一
一一
一口
﹄
では﹁我に類よ﹂という願文を加えてはいるものの︑章の過中十が﹁小宛﹂を踏まえている︒﹁小宛﹂を知らなければ
理解できない典型的な典操技法である︒楊雄はこの﹁小宛﹂に説かれる教育のもつ意義に感じ入ると同時に︑孔子が
七十弟子に行った教育を想起して禰者を結び付けた︒孔子の教育は︑﹁小宛﹂に説くものと同じであると言うことで︑
﹁小宛﹂の経典としての意義をも示したのである︒このように本章は︑﹁小宛の句と孔子の行った教育を結び付けた
貼に意味がある︒むしろ﹁小宛
りがたい︒つまり本章は︑﹁小宛﹂の句を孔子の教育に結び付け︑新たな表現を作り出すことを目的としており︑楊
雄の 新見 や濁 自の 思想 を述 べる こと は目 的と して いな い︒ 就に
﹁﹃ 法一 一一 一口
﹄の 表現
││ 経書 の援 用と 模倣
﹂に て論 じた
︑
経書の句を取り込み︑利用して新たな表現を作り出そうとする章であり︑その中でもよ討経﹄に大きく依存する章と の匂と孔子の行った教育を結び付けた貼以外︑特筆するほどの新見や思想は讃みと
考え
られ
る︒
次にもう少し手の込んだ章を見てみよう︒
楊雄の詩鰹型
一五
七
一五 八
或 問
﹁ 局 政 有 幾
︒
﹂ 四 園 田 疋 王
︒ 召 伯 述 職
︑
﹁ 蔽 市 甘 栄 失犬︒啓一和一欲径陳︑陳不果内︑執鞍濡塗︒其教失犬︒於戯︑従政者審其思教而己失︒﹂或問﹁何回必︑何教︒﹂日﹁老
思教︒﹂或問﹁思教︒﹂臼﹁昔在周公︑征子東方︑
主(
田ο
人老︑孤人孤︑病者養︑死者葬︑男子畝︑婦人桑︒之謂患︒若汚人老︑屈人孤︑病者濁︑死者遇︑田畝荒︑行軸
空︑
之謂
教︒
﹂(
先知
)
い と
⑤
日く﹁思ふと教はるるとなり﹂と︒或ひと問ふ﹁思ふと教はるるとを﹂
四一凶是れ王(同)し︒召伯述職し︑長南たる甘栄﹂と︒其れ思はるるかな︒
膏桓の陳に径せんと欲するも︑陳果たして内れず︑鞍濡塗を執ふ︒其れ教はるるかな︒於戯︑政に従ふ者は其の 或ひと問ふ﹁政を矯すに幾有るか﹂と︒と︒日く平日在周公︑東方を征し︑
思ふと教はるるとを審らかにせんのみ﹂と︒或ひと間ふ﹁何ぞ思はれ︑何ぞ教はるるか﹂と︒臼く﹁人の老を老
とし︑人の孤を孤とし︑病者は養はれ︑死者は葬られ︑男子は畝し︑婦人は桑す︒之を思はると謂ふ︒人の老を
さら汚し︑人の孤を屈し︑病者は濁りにして︑死者は遁(踊)され︑田畝は荒れ︑行軸は空しきがごときは︑之を教は
るると謂ふ
と
この章で述べられるのは︑政治の極要(﹁幾じが︑人々に思い慕われるか︑厭われるかの遣いにあるという主張である︒
それを詮すために﹃詩経﹄一一一篇と﹃春秋公羊停﹄の記事を典擦に用いている︒
昔在閤公︑征子東方︑四園田疋王﹂は︑幽風﹁破斧﹂の﹁周公東征︑四園田疋皇︒哀我人斯︑亦孔之将(周公東
征し
︑四 園を 是れ 彰一 す︒ 我が 人を 哀し むこ と︑ 成町 だ之 札舶 がり こに 見え る周 公の 問︒ い慕 われ たさ まを 踏ま えて おり
︑﹁ 召
まず 伯述職︑蔽市甘栄﹂は︑召南﹁甘栄﹂に見える﹁蔽市甘栄︑勿一頭勿伐︑召伯所茨(蔽市たる甘栄︑諮る勿れ伐る勿れ︑召
伯の茨りし所)﹂というよく知られた故事を踏まえる︒﹁腎桓欲径陳︑陳不果内︑執鞍溝塗﹂というのは︑﹃春秋公羊偉﹄
⑦
⑧
倍公四年に見える事件である︒そして最後の﹁行軸空之﹂は小雅﹁大東﹂の﹁小東大東︑行柚其空(小東大東︑梓柚其
れ空し)﹂という匂に嫁る︒思い慕われた周公︑召佑と︑厭われた簿桓公の差異をよ間経﹄﹃春秋bを根擦に指し示し
てい
る︒
この先知篇と同様に荏南﹁甘栄﹂を引いて召伯の政治を讃える文が︑よ山叫苑﹄貴徳にある︒
聖人 之於 天下 百姓 也︑ 其猶 赤子 乎︒ 飢者 則食 之︑ 寡者 則衣 之︑ 将之 養之
︑育 之長 之︑ 唯恐 其不 至於 大也
︒詩 日﹁ 蔽帝 甘栄
︑ 勿頭勿伐︑召伯所茨︒﹂傍日﹁自険以東者︑周公主之︑自侠以西者︑否公主之︒﹂召公述職︑嘗桑議之時︑不欲嬰民事︑
故不
入邑
中︑
合於
甘栄
之下
町聴
断駕
︒挟
間之
人︑
皆得
其所
︒是
故後
世患
而歌
詠之
︒善
之故
一一
一一
口之
︑一
一一
一口
之不
足︑
故暖
歎
之︑嵯歎之不足︑故歌詠之︒夫詩︑思然後積︑積然後瀬︑満然後議︑務自主(道市致其位駕︒百姓歎其美而致其敬︒
⑨ 甘栄之不伐也︑政教悪乎不行︒孔子日﹁吾於甘栄見宗廟之敬也甚失︒思其人必愛其樹︑等其人必敬其位︑頗安寓物︒
古聖
之道
幾哉
︒﹂
聖人の天下の百姓に於けるや︑其れ猶ほ赤子のごときか︒飢うる者には別ち之に食はせ︑裳ゆる者には則ち之に衣
ゃ し な そ だ
せ︑之を将ひ之を養ひ︑之を育て之を長て︑唯だ其の大に至ら︑さることを恐る︒詩に臼く﹁蔽市たる甘栄︑一揺る勿
れ伐る勿れ︑召伯の変りし所﹂と︒俸に臼く﹁険より以東は︑周公之を主り︑快より以西は︑召公之を主る﹂と︒
こ と さ ら や ど
召公述織し︑桑翼の時に嘗り︑民事を嬰ずるを欲せず︑故に邑中に入らず︑甘栄の下に合りて聴断す︒挟間の人︑
皆其の所を得︒是の故に後世思ひて之を歌詠す︒之を善とするが故に之を一一一一口ひ︑之を言ひて足らず︑故に之を瑳
歎し︑之を瑳歎して足らず︑故に之を歌詠す︒夫れ詩は︑思ひて然る後に積み︑積みて然る後に満ち︑満ちて然
る後に設し︑設するには其の道に由りて其の伎を致す︒百姓其の美を歎じて其の敬を致す︒甘栄の伐られざるや︑
楊雄の詩経撃
一五
九
一六
O
政教悪くにか行はれぎらん︒孔子日く﹁苦甘栄に於いて宗廟の敬の甚しきを見る︒其の人を忠へば必ず其の樹を
愛しみ︑其の人を尊べば必ず其の位を敬ひ︑高物を願安す︒古聖の道幾いかな﹂と︒
ここでは赤子を育てるような聖人の政治を召伯が行い︑後の人が思い慕って﹁甘業﹂を詠ったことが述べられてい
として引用を導くのがこの嘗時の遁例である︒先知篇がいかに詩句を曾話の中に溶け込詩に日くる︒このように
ませ︑調和させているか︑援用方法に大きな踊たりがあることは明白であろう︒
楊雄と四家詩
以上において﹃法一一一一口与がどのようによ討経﹄を援用しているのか︑その状況や方法は概ね理解できた︒次には司法
bが援用する﹃詩経﹄とはどのようなものであるのか︑嘗時の詩経壌との関係を探りたい︒前漢の詩経墜と言えば︑
一瓢
門誌
肘・
魯詩
@韓
詩の
今文
の三
家詩
と古
文の
毛詩
があ
った
こと
︑数
民一
一一
一閃
する
必要
はな
かろ
う︒
では
﹃法
一一
一一
口﹄
に見
られ
る詩
経説はこの四家詩のいずれかに従っているのだろうか︒楊雄が四家詩のいずれかの師承を受けたことを示す根擦は見
嘗たらない︒既に見た通り︑ただ多数の篇章に詩句が援用されているばかりである︒
これ
まで
に注
築費
は﹃
法一
一一
一口
義疏
﹄に
おい
て﹃
﹄の詩説を丹念に調査している︒その結果︑楊雄の詩説はほぽ魯
に基づくと結論付けている︒まずこの注築費の考諮結果について検討したい︒小論にて先に取り上げた翠行﹁頼蹴
之子﹂章の義疏で︑在築費は次のように述べている︒
吾子﹁夏屋之矯耕糠﹂︑先知﹁周公東征︑四園田疋王︒召伯 述職
︑蔽 ザ市 甘業
﹂︑ 孝歪
﹁罵 康之 時︑ 頒整 作乎 下︑ 関陸 作乎 上﹂ 皆是
︒疑 此文 云一 去︑ 部本
﹁小 宛﹂
﹃魯 故﹄
︒
子雲於よ討﹄多用魯義︑本篇﹁正考甫嘗蹄戸土口甫失
在氏は︑楊雄が内向子行篇の﹁正考甫嘗稀ヰア吉甫失﹂のほか︑吾子篇︑先知篇︑孝至篇の三章において魯詩を用いている
⑬
ので︑この﹁摂嬬之子﹂章も小雅﹁小宛﹂のよ智故﹄に擦るものと考えている︒そこで注氏が響︑げる四章について︑﹃法
﹄は果たして魯詩を用いているのかどうか検諮してみたい︒
内先
知篇
﹁周
公東
征︑
四園
田疋
王︒
召伯
述職
︑蔽
一市
甘栄
﹂章
︺
まず前節にて取り上げた︑先知篇﹁局公東征︑
四閣 是王
︒召 伯述 職︑ 蔽ザ 一巾 甘栄
﹂章 の義 疏を 見て みよ う︒
﹁破 斧﹂
の﹁
周公
東征
︑
四園
田疋
自主
﹂に
つい
て注
氏は
衣の
よう
に一
一一
一口
う︒
子雲説詩︑皆用魯義︒此以﹁周公東征﹂輿﹁召伯述職﹂詑翠︑日疋亦以﹁破斧
却用東征西怨︑南征北怨之説︒
局知捗時之作︑其以此矯忠義之諮︑
﹁周
公東
征﹂
はそ
もそ
も周
公の
遠征
を一
一一
一口
うも
のだ
が︑
句
﹄はそれを﹁甘栄﹂に詠われる召伯の裁断の的確なさまと
蛇べ連ねている︒それは﹁周公東征︑
四盟
国疋
王
を︑周公が諸閣を巡視して人事考課を行ったことと解穫するからで
ある︒本章は︑周公と召伯の正義に基づいた判断を諸図みな慕ったことを述べるものと︑義疏は考えている︒法氏の
説は陳華宵棋・陳喬縦吋魯詩遺説孜
hに基づくから︑次に陳氏の説を拳げる︒
楊雄の詩綬堕
一 」
ノ¥
」 一/¥
何部 公述
﹁破 斧﹂ 詩義
︑血 (﹃ 自虎 遁﹄ 合︒ 公羊 家用 替詩
︑部 公則 用魯 詩者
︑是 此篇 膏・ 魯説 同失
︒﹃ 萄子
﹄一 一一 一口
﹁周
公南征市北園怨︑東征而西圏怨即魯詩之義所本也︒(巻二)
陳氏は︑普詩を用いる﹃公羊停﹄と魯詩を用いる何休解詰は一致しているので︑﹁破斧﹂の膏詩説と魯詩説は同じで
ある と一 一一 一口 うの であ り︑ 更に ご旬 子﹄ に説 かれ るの が魯 詩説 の原 義で ある と考 えて いる
︒﹃ 公羊 偉﹄
﹃
r白
虎遁
﹄﹃
萄子
﹄ の文は以下の通りである︒
︿公 羊偉
・億 四﹀ 吉者 周公
︑東 征則 西閣 怨︑ 西征 則東 園怨
︒( 解詰 )此 道︑ 組捗 之時 也︒ 詩云
﹁周 公東 征︑ 四園 田疋 皇︒
﹂
︿白虎遁・巡狩﹀三歳一問︑天道小備︑五歳再間︑天道大備︒故五年一巡狩︑一二年二伯出︑述職知捗︒一年物有終
始︑歳有所成︑方伯行圏︑時有所生︑諸侯行口巴︒偉日﹁周公入局三公︑出矯二伯︑中分天下︑出賠捗︒﹂詩日﹁周
公東
征︑
四閣
是由
主︒
﹂一
一一
一口
東征
述職
︑周
公知
砂︑
市天
下皆
正也
︒
︿有子@王制﹀局公南征而北閤怨︑日﹁何濁不来也﹂︑東征市西圏怨︑日﹁何濁後我也︒﹂
確 か
に ﹃
法 一
一 一
C一 が昔在周公︑征子東方︑四間是王:::其思失夫﹂と周公の東征を思い慕われたものと述べるのは︑
﹃公羊停﹄及び解詰の説によく合う︒ならば膏詩とも判断できそうだが︑魯詩を用いる﹃白虎通bご旬子﹄の説も膏
詩と
同じ
であ
ると
陳喬
縦は
一一
一一
口う
︒そ
して
楊雄
は魯
詩に
擦る
と考
える
ので
︑﹃
法一
一一
一﹁
先知
篇を
三一
一家
詩遺
説孜
﹄の
中の
よ官 詩遺 説孜
﹄に
ので
ある
︒
注氏 は陳 氏に 賛同 して その 説を 引用 し︑ 一蹴 月詩
・魯 詩は 同じ であ るか ら︑ 先知 篇は 魯詩 に擦 ると 一一 一一 口う ので ある
︒し か
し果たして薄詩ではなく︑魯詩に操るのであろうか︒魯詩とする明確な根擦は一不されていないように思う︒
方召南﹁甘栄﹂詩について涯氏は︑
一五
九頁
に翠
げた
ブ説
苑﹄
貴徳
の惇
(﹁
自険
以東
者・
:召
公主
之﹂
)に
司法
一一
一一
口﹄
は
基づいていると言う︒そしてこの俸は︑コ説苑hの撰者の劉向が魯詩を偉えるから﹃魯故﹄の侠文であろうと考える︒
吉傍所載の上疏も﹃説苑hの﹁縮問﹂の内容と合致することを指摘し︑王吉は韓詩を傍えているから︑
⑪ 韓詩と魯詩は同じだったというのが迂氏の結論である︒ところが調べてみるとコ祝苑bに引く﹁俸﹂は﹃魯故﹄の侠⑫ 文ではなく︑吋春秋公羊偉﹄隠公五年の文である︒﹃公羊繍﹁は陳喬縦によれば膏詩であった︒劉向も魯詩のほかに韓
⑬
詩を撃んでいたと考えられている︒そうすると吋法一一一一口﹄の﹁甘栄﹂解樟は︑膏詩と韓詩に合うことになり︑魯詩とす 更
に ﹃
漢 世
一 一
﹁
る明確な根擦を失ってしまうのである︒
門事
行篇
﹁正
考甫
嘗蹄
戸士
口甫
ム矢
﹂章
︺ 次に 注氏 が﹃ 法一 一一 一口
﹄が 魯詩 に擦 る根 擦と する
︑準 行篇
﹁正 考甫 嘗蹄 戸吉 甫失
﹂章 と孝 歪篇
﹁周 康之 時︑ 頒磐 作乎 下︑
関雄作乎上章の義疏を績けて検討したい︒この二章の詩説はともに﹃詩経﹄成立の問題を論じているからである︒
ね が
⑬
撃行篇では﹁昔︑顔は嘗て夫子を稀へり︑正考甫は嘗て弄吉甫を蹄へり﹂という文を魯詩の根擦とする︒顔回が孔
正考甫は芳吉甫を目標としたという部分である︒李軌はこれに注して﹁正考甫︑宋一義公之臣
子を目標としたように︑
世︒
ヰア
土口
甫︑
周宣
王之
毘也
︒吉
南作
周頒
︑
正考甫慕之而作一閉鎖﹂と述べており︑この正考甫が一間煩を作詩したという
説を一法築費は魯詩と断じるのである︒それは句史記﹄宋世家賛に正考父が一商頒を作ったとあり︑司馬還を魯詩説と考
⑬
える
から
であ
る︒
すな
わち
﹃法
一一
一日
﹄は
句史
記﹄
の説
と同
じな
ので
︑魯
詩に
擦る
と一
一一
一口
うの
であ
る︒
楊雄の詩経撃
一 」
ノ¥
一六 回
確か
に司
馬遷
は孔
安閣
に﹃
向指
一一
Cを間学んでおり︑孔安園は申培によ討﹄を向学んでいる︒そして申培は魯詩を侍えて
⑬ いるが︑司馬遼が孔安閣から魯詩を撃んだという記録は見嘗たらない︒そのよ︑この賛の袈鯛集解には﹁韓詩一間頒章
匂亦美一袈公﹂とあり︑﹃韓詩章句
b
が裏
公を
讃え
てい
ると
一一
一一
向う
︒こ
の集
解に
釘し
て注
策費
は︑
﹁是
韓義
問魯
︑﹃
法一
一一
口﹄
多魯詩説︑故亦以一閉鎖矯正考甫作﹂と︑韓詩は魯詩と向じなのだとして︑やはり魯詩と主張するのだが︑梁玉縄句史
記志
疑﹄
巻二
十は
﹁史
公此
説賞
本韓
詩︑
故﹃
法一
一一
r
一墜行篇臼﹁正考甫稀ヰア吉帯︑公子柔斯時正考甫﹂﹂として宋世家賛 も 司 法
一 一 一 一
C
も韓
詩と
考え
る︒
陳喬
縦は
﹃史
記﹄
宋世
家管
一と
ご紘
一一
一一
口﹄
閥均
十行
を魯
詩と
する
のだ
が︑
特に
根擦
は示
して
い
︑A︑
︑
J O ゃん
dlv⑫
撃行 篇に はこ の匂 に績 けて 更に
﹁公 子盛 大斯 は嘗 て正 考甫 を蹄 へり
﹂と あり
︑公 子盛 大斯 が魯 頒を 作詩 した と一 一一 一口 う︒ こ
の公子柔斯の魯頒作詩説には問題があり︑韓詩説が関わってくるので績けて検討してみよう︒公子柔斯の魯頒作詩説
は︑魯頒﹁関宮﹂詩に﹁新廟突実︑薬斯所作﹂という句があることから議論が始まる︒この句によって吋文選﹄班囲・
爾都
賦序
は﹁
故皐
陶歌
虞︑
柔斯
頒魯
﹂と
一一
一一
口い
︑李
曲一
一口
注は
﹁韓
詩魯
頒
﹁新廟突実︑柔斯所作﹂︒醇君日︑薬斯︑魯公
子也
︒一
一一
一口
其新
廟爽
突然
盛︒
同定
詩︑
公子
薬斯
所作
也﹂
と一
一一
一口
う︒
王延
寄﹁
魯霊
光殿
賦﹂
とそ
の李
善注
にも
同様
の記
述が
あ
⑬ り︑韓詩は明らかに関宮詩を公子柔斯の作と考えている︒ところが毛俸は﹁新廟︑関公廟也︒有大夫公子薬斯者作是
廟也
﹂と 一一 一一 口い
︑公 子柔 斯が 作っ たの は廟 であ ると 説き
︑正 義も 同じ であ る︒ その 結果
︑王 臆麟
﹃図 的問 子紀 間﹄ 巻三 は班
囲@
王延
需と
﹃法
一一
一一
向﹄
につ
いて
﹁正
義一
辺美
斯作
新廟
︒而
漢世
文人
班国
・王
延寄
謂魯
頒柔
斯作
︑謬
失︒
然揚
子之
一一
一一
口皆
本
韓詩︒時毛詩未行也﹂と述べ︑楊雄の詩説はすべて韓詩に基づくと論じている︒それに釘して注策費は﹁操﹃法一一一一﹁
此文
︑別 知魯 詩解 柔斯 所作 矯作 詩︑ 輿韓 詩同
﹂と
︑ご 紘一 一一 一口
﹄の 文に 操っ て魯 詩説 が韓 詩に 同じ であ ると 説く にと どま り︑
陳喬
縦も
同様
であ
る(
﹃魯
詩選
説孜
﹄巻
六)
︒
盟主ヱ篇﹁周康之時︑煩磐作乎下︑関雄作乎上
孝至篇の﹁周康之時︑頒磐作乎下︑関雄作乎上﹂章は︑周の康王の時に﹁関睡﹂が作られよFが興ったことを論
島醐d
じている︒原文は衣のとおりである︒
周康之時︑頒聾作乎下︑関雄作乎上︑習治也︒替担之時︑組問春秋美都陵︑習乱也︒故習治則傷始乱也︑習説則
好始
治也
︒
な み だ
周康の時︑頒響下に作り︑関股上に作るは︑治に習れればなり︒膏桓の時︑織れて春秋に部陵を美むるは︑
よろこれればなり︒故に治に習れれば別ち始めて乱るるを傷み︑説に習れれば別ち始めて治まるを好ぷなり︒ 乱に習
の魯
詩説
は︑
﹃漢
帯一
一回
﹄杜
欽俸
の上
疏に
﹁后
妃之
制︑
夫査
時治
乱存
亡之
端也
︒:
由一
応以
側玉
嬰鳴
︑関
雄歎
之︒
知好
色之伐性短年︑離制度之生無厭︑天下将蒙化︑陵夷而成俗也︒故詠淑女︑重一以配上︑忠孝之篤︑仁厚之作也﹂とあり︑
顔師古法に﹁李奇云﹁后夫人難鳴側玉去君所︑崩康王后不然︑故詩人歎市傷之︒﹂臣竣云﹁此魯詩也﹂﹂とあることか
ら︑康王が淑女を得られず房事のために委超したことを刺ったものと﹁関雄﹂を解している︒︑法築費義疏も﹁子宮武一説 詩︑皆用魯義︑故此以関雄借用刺康王之詩︑市一五﹁作乎上﹂︑亦部大国利嬰之説﹂と︑刺詩としている︒陳氏﹃魯詩遺説
孜﹄
(巻
二も
同様
で︑
この
﹃法
一一
一一
C孝至篇が魯詩に合うことから︑楊雄は魯詩であると断じている︒
他方︑﹃毛詩﹄は序に﹁関雌麟肱之化︑王者之風︒故繋之周公︒:::周南召南︑正始之道︑王化之基︒是以関峰山仰木
得淑
女以
配君
子︑
愛在
進腎
一︑
不淫
其色
︒哀
内幼
宛思
賢才
而無
傷善
之心
駕︒
日疋
関隆
之義
也﹂
と一
一一
一口
うよ
う︑
王者
の教
化の
始
﹁関
雄
楊雄
の詩
紹問
時十
一六
五
一六 六
めとして
関陸
﹂を 解す る︒
⑬
確かにこの章は魯詩に合う︒ただし韓詩@膏詩に異説なく︑一一一家詩のいずれとも剣断しがたい︒
門吾子篇﹁夏躍之矯耕際﹂章︺
最後に吾子篇の
夏犀
之矯
耕際
﹂章
を検
討し
よう
︒﹃
法一
一一
一口
﹄の
原文
は
震風陵雨︑然後知夏屋之局耕際也︒虐政虐
世︑然後知聖人之矯郭郭也﹂というものである︒﹁夏屋之借用耕隊﹂とは大きな建物が覆って(暴風雨から)守ってくれ
るということであり︑この中の
夏屋
﹂と いう 語が 秦風
﹁権 輿﹂ に基 づく ので ある (﹁ 於我 乎夏 屋渠 渠︑ 今也 毎食 無銭
﹂)
︒
そしてこの﹁夏﹂字と﹁屋字の字義をめぐる四家詩の所説が議論の封象になる︒
一は 築費 は﹁ 按︑ 魯︑ 韓皆 以夏 屋震 宮室 之事
︒ぷ 疋辞
1
口 北
部 王
注 一
五
南子﹄本経高注一五﹁夏屋︑大屋也︒﹂高@王皆用魯詩︑此訓嘗出魯故﹂と述べ︑魯詩の
夏︑
大殿
也﹂
::
:叉
招魂
一五
﹁夏
︑大
屋也
﹂:
::
﹃准
逸と高誘の一説に合うので楊 雄が 魯詩 を向 学ん だと 考え る︒ ただ し︑ 毛俸 に﹁ 夏︑ 大也
﹂と 一一 一一 口う のと も合 う︒ 韓詩 につ いて 義疏 は﹁ 句通 血亡 五十 五 引韓 詩一 疋﹁ 殻︑ 一関 屋市 夏門 也︒
﹂叉 引停 一五
﹁周
︑夏 屋市 一関 門︒
﹂則 韓詩 雄不 以夏 矯大
︑而 以屋 矯屋 宇則 同﹂ と﹁ 屋﹂ 字 の解 糖が 魯詩 と同 じで ある こと を指 摘す る︒ そう する と司 法一 一一 一口
﹄の
﹁夏 屋﹂ に関 する 解稗 は︑ 魯詩 の壬 逸と 一品 誘に 最
も合うが︑毛詩や韓詩とも異なっていないと考えられる︒
確信 は得 られ なか った
︒陳 喬縦
﹃一 一一 家詩 遺説 孜﹄ や
以上の通り︑注策費が楊雄を魯詩説であるとする章の義疏を検討してみたが︑楊雄が魯詩説に基づいているという
青﹃
揚雄
許停
﹄(
南京
大望
出版
枇︑
二
OOO
年︑ 七五 賀) も楊 雄を 魯
詩説としているが︑論擦は注栄賓とほぽ同じであるから改めて論じない︒むしろ梁玉縄や
臆麟
が一
一一
一口
うよ
うに
韓詩
説
に操っている場合もあるように忠われる︒しかし結局のところ麿嬰コ悶漢三国墜案﹄のように四家詩のいずれかに定
⑫ めず︑﹁博習群経︑不名一誠﹂(巻十了明経文撃停序)と判断するのが妥嘗なのではあるまいか︒古文系の毛詩よりは︑
今文の魯詩もしくは韓詩説に近い場合が多いと思われるが︑四家詩のうちの一家に定めるのは困難というのが本節の
検討 結果 であ る︒
﹃法
一一
一一
口﹄
の詩
経撃
の特
色
﹃法一一一一口﹄の詩説がいずれの一家とも定め難いことは︑楊雄によ百経﹄の名家との師承の関係がなかったことを想定
させる︒既に引いたように楊雄は白序に﹁章句を矯めず︑訓話通ずるのみ﹂と明記しているから︑師法俸授の盛行し
た前漢にあっても︑特定の詩説のみを支持したと考えるべきではないのかもしれない︒複数の詩説を撃んでいた可能
性さえ考えられる︒楊雄の蛍時︑各家の詩説は煩墳になっており一人で全ての詩篇を撃ぶことができず︑大小雅や三@
煩に分けて撃ぶこともあったと一一一一口うから︑部分ごとに異なる四家の詩読を撃ぶこともできたかもしれない︒首時の経
内向
子が
過度
に煩
墳で
あっ
たこ
とは
︑﹃
法一
一一
一口
﹄寡
見篇
でも
次の
よう
に批
判さ
れて
いる
︒ 日﹁五一絡不如よ也子﹄之約塩︑首年不能極其嬰︑終身不能究其業︒﹂﹂日﹁若田疋期間公惑︑孔
子賊︒古者之撃耕且養︑一一一年通一︒今之翠也︑非濁矯之華藻也︒叉従而繍其般車腕︑悪在老不老也︒﹂或日﹁撃者之説
可約
邪︒
﹂日
﹁可
約︑
解科
︒﹂
或ひと間ふ﹁可馬子長に一一一一口有り︑日く﹁五経は﹃老子﹄の約にしかざるなり︒嘗年其の獲を極むる能はず︑終身其 或
問 ﹁
司 馬
子 長
有 一
一 一
一 口
︑
楊雄 の詩 綬間 千
一六
七