「アイヌ人物六曲一双屏風」(東北福祉大学コレクション)と 関連するアイヌ風俗画
佐藤 花菜 濱田 淑子
“A Pair of Six-Leaf Screens Depicting the Ainu People
(the museum collection)” and other Ainu genre pictures connected with these screens
SATO Kana HAMADA Shukuko キーワード:アイヌ風俗画 「アイヌ人物屏風」 「蝦夷人物図屏風」
要旨
当館所蔵の波嶋筆「アイヌ人物屏風」は波静筆「蝦夷人物図屏風」に構図が酷似している。さらに、なんらかの関連を持つ と考えられる類似構図のアイヌ風俗画も見つかり、それらを比較検証した。その結果、当館屏風は「関連資料」の中で重要な 位置にあり、18世紀末ごろに描かれたのではないかと考えた。画師・波嶋は円山派の影響を受けながらも、文人画風の情趣漂 う四条派の流れの中に位置づけられる。波嶋筆「アイヌ人物屏風」と波静筆「蝦夷人物図屏風」、「関連資料」は、小樽市総合 博物館所蔵の「画稿」、市立函館博物館所蔵の「アイヌ絵下絵」との深い関連も考えられるところから、これまでの範疇には入 らない、アイヌ風俗画の新しい系譜形成も予感させる。
Abstract
“A pair of six-leaf screens depicting the Ainu people (the museum collection),”painted by Hato, closely resemble, in composition,
“another pair of Ainu-themed six-leaf screens (private collection in Kisakata),”painted by Hasei. We have also found other Ainu genre pictures connected with these screens, and have compared the museum collection screens with these by examining the composition and features of the oeuvre. As a result, we find that the screens of the museum collection may have been drawn at the end of 18th century and are significant works in the Ainu genre.
While Hato was influenced by the Maruyama School, his lyrical,literati-style paintings place him in the Shijo School.
Considering the Ainu-themed screens painted by Hato ,Hasei and other pictures of the Ainu genre and their relationships to sketches owned by Otaru City general Museum and drawings owned by Hakodate City Museum, a new genelogy in the Ainu art history of the Ainu genre may be formed.
はじめに
芹沢長介前館長は、1998 年夏に首都圏の古美術店で 12 人のアイヌ人物が描かれた興味深い六曲一双屏風を見つけ た。芹沢先生によれば、「千葉県・九十九里浜の網元が秘蔵 していたらしい」とのことで、画面には水に濡れたような シミがついていた。まずは写真を手に入れての調査が始まっ た。その際の注目点は、描かれた12人の人物のうちの6名が、
アイヌ風俗画の傑作とされる蠣崎波響筆「夷酋列像」 (以下、
「列像」と表記)
1)12 人のうちの 6 人に構図が類似してい
ることだった。「列像」は寛政元(1789)年から翌年にか けて松前藩の家老・蠣崎波響(1764 ~ 1826)が 12 人の アイヌのエカシ(長老)らを絹本に濃彩で描いた連作肖像 画である。調べるほどに「列像」関連資料として重要な位 置を占めるものと考え、1989年開館後の収蔵品として当屏 風を手に入れることになった。
「アイヌ人物六曲一双屏風」 (以下、 「当館本」と表記・口絵1)
は収集直後から北海道を中心に反響を呼び、1990 年 1 月 5
日の北海道新聞の一面トップに「『夷酋列像』に新資料 下 絵の可能性も」「東北福祉大芹沢教授 構図、酷似の屏風絵 発見」との活字が踊り、屏風写真がカラーで紹介された。
さらに 2 日後の 1 月 7 日の北海道新聞は見開き 12、13 面を 使った特集を組んだ。その表題には「ナゾを秘めた『夷酋 列像』 新資料で深まる興味」とあり、当館本にある「波嶋」
の落款、印章を大きく掲載し、「列像」のツキノエ、イニン カリ、イコトイ、ポロヤと当館本の類似構図の人物を並べ て検証した。その後も3月10日の河北新報に「『夷酋列像』
そっくりの屏風絵」として芹沢先生への取材記事が掲載さ れた。「当館本」に対する周囲の反響と、研究者の関心を呼 んだこともあり、開館 2 年目の秋の特別展に「アイヌ文化 展」(Ⅰ期 1990 年 9 月 17 日~ 12 月 17 日 Ⅱ期 91 年 1 月 11日~3月20日)を開催して当屏風を初公開することとなっ た。東北大学文学部考古学研究室、静岡市立芹沢銈介美術 館の協力も得て、アイヌ民族の染織品、木工品、日本やア ムール川下流域の文化との交流を物語る資料 150 点を展示 し、比類ない工芸美を生み出したアイヌ文化とその源流を 見直し、「列像」と「当館本」の関連を検討するという充実 した展覧会であった。『アイヌ文化展図録』
[図1]も刊行し、
その中で芹沢先生は、 「1.波響筆『夷酋列像』と波嶋筆『ア イヌ人物屏風』との関連について」、「2.『アイヌ人物屏風』
関連資料」を執筆し、筆者(濱田淑子)も、「波嶋筆 アイ ヌ人物屏風」として、屏風に描かれた客観的内容を述べた。
芹沢先生は1では「当館本」と「列像」、その粉本(市立函 館図書館蔵)を比較検討して「当館本」が持つ意味を論じ、 「当 館本」は「列像」の原画であった可能性が高いことを論じた。
2では、北海道北見市の妻沼浩史が「当館本」と類似し た人物画4点を、大塚和義氏(当時国立民族学博物館教授)
も1点を所蔵していることを紹介した。そしてそれらはい ずれも「当館本」を模写したものであろうと推測した。こ の時点での関連資料は5点だったので、芹沢先生はここで「今 後さらに関連資料の出現を期待したい」と述べている。芹 沢先生のこの言葉を受けて、今回の執筆にあたっては、『ア イヌ文化展図録』では写真だけを確認していた「列像」以 外の関連資料5点を実見して再検証することと、2006年以 後に発見された関連資料を精査することで「当館本」と比 較対照し、芹沢先生の期待にわずかながらでも応えたい。
比較検討の主たる対象としたのが、にかほ市(当時は象潟 町)の木内家所蔵(にかほ市象潟郷土資料館寄託)の「蝦夷 人物図六曲一双屏風」(以下、「象潟本」と表記・口絵1)で ある。まずは比較検討することにしたいきさつを述べておく。
アイヌ文化への深い関心を持続されていた芹沢先生は、
2005 年 10 月 1 日~ 2006 年 3 月 26 日にも「アイヌ文化の 新資料」展を開き、毎日展示室に赴きギャラリートークを するほどの力のいれようだったが、そのさなかの2006年3 月 16 日に急逝なさったのである。この展覧会においても、
当館の6階第3展示室に「アイヌ人物屏風」が展示されてい た。芹沢先生の葬儀が終わって、閉幕も近い日に象潟郷土 資料館の齋藤一樹氏と石船清隆氏ほか職員が「当館本」を 見るために来館した。にかほ市に「当館本」に似た屏風が あり「象潟と北海道-菅江真澄の記録から-」(2005年6月1 日~ 2006 年 5 月 21 日)に展示中であるとして展覧会のパ ンフレットを見せてくれた。当時文化庁文化財美術工芸課 の主任文化財調査官だった佐々木利和氏が「須田家のアッ トゥシと木内家の『蝦夷人物図屏風』」と題する一文を執筆 していた。「木内家の屏風が東北福祉大学所蔵の「アイヌ人 物屏風」によく似た画題、構図であることに驚いた」とあり、
「象潟本」と「当館本」に描かれた内容を比較してその関連 性を述べていた。
筆者(佐藤花菜)は、2008年11月17日に象潟郷土資料 館を訪問し、「象潟本」を調査して「当館本」の各図と比較 検討を行い、『雄波号』にその成果を発表している
2)。今回 執筆をするにあたり、再度(2014 年 11 月 4 日)象潟郷土 資料館を訪問して、 「象潟本」の写真撮影と再調査を行った。
論文では、「当館本」と「象潟本」、さらに現存する関連 アイヌ風俗画(以下、「関連資料」と表記)との比較検討を 通じて、なぜこれほどまでによく似た構図、画題のアイヌ 風俗画が描かれたのか、描いた画家はどのような人物なの かを検討し、「当館本」をめぐる謎に幾分かでも迫りたい。
「関連資料」
① 波静筆「蝦夷人物図六曲一双屏風」 木内家蔵
にかほ市象潟郷土資料館寄託 紙本着色 各 174.5 × 357.6
② 「アイヌ盛装図」軸 讃 林子平 天明6(1786) 紙本 着色 126.0×54.5 北海道開拓記念館
(現・北海道博物館)蔵(妻沼コレクション)
[図 1]
③ 「アイヌ狩人図」軸 讃 林子平 紙本着色 126.0 × 54.5
北海道開拓記念館
(現・北海道博物館)蔵(妻沼コレクション)
④ 「アイヌ舞踏図」軸 紙本着色 123.0×48.0
北海道開拓記念館
(現・北海道博物館)蔵(妻沼コレクション)
⑤ 「アイヌ飲酒図」軸 紙本着色 123.0×48.0
北海道開拓記念館
(現・北海道博物館)蔵(妻沼コレクション)
⑥ 「アイヌ人物二曲屏風」 大塚和義氏蔵
紙 本 着 色 95.0 × 142.0( 本 紙 72.5 × 51.7 72.5 × 52.0)右隻:老人と子供 左隻:オンガミ図
⑦ (伝)英一蝶
3)筆「アイヌ人物図」軸 個人蔵 絹本着色 123.5×51.0(本紙 36.0×43.5)
犬を連れた男、母と子供(母は椎茸を持つ)
※『古裂会(Auction CATALOGUE) 2009年12月21日号』
P439に掲載された作品
⑧ 北海道人(松浦武四郎)筆「アイヌ風俗画貼交六曲一 双屏風」
紙本着色 175.0×366.0(本紙 各120.0×78.0)
4扇目 黒熊を曳く男
※『三重郷土の華百人展 北岡技芳堂創業35周年記念』
(1985 北岡技芳堂) P55に掲載された作品
⑨ 千島春里筆「アイヌ人物画12幅」軸 紙本着色 128.0
×50.6 黒熊を曳く男他 アイヌ民族博物館蔵
※『描かれた近世アイヌの風俗』図録
(1994年 アイヌ民族博物館)P19に掲載された作品
⑩ 「林家旧蔵 アイヌ風俗画画稿 オムシャ老夫婦図」
55.5×51.5 小樽市総合博物館蔵
⑪ 「アイヌ絵下絵」 市立函館博物館蔵 1 「関連資料」の持つ意味
「当館本」にかかわりを持つと考えられる資料には、6構 図が似ている蠣崎波響が描いた「列像」の他にも、先述の ように関連資料11点の存在が確認できた。大塚和義氏所蔵 の二曲一隻屏風(関連資料⑥)のうち左隻は「オンガミ図」
であったが、右隻には、裸の子供の手を引く老漁師が左向 きに描かれていた。背と裾、袖口に藍色の切伏文様のある アットゥシを着た老漁師の手には釣り糸、子供は左手に釣 り上げたばかりの魚を持っている。この図様は北海道開拓 記念館所蔵の妻沼コレクション「蝦夷風俗図六曲一双屏風」
4)
の中に右向きの構図で、アイヌ民族博物館蔵「アイヌ人 物画12幅」軸(関連資料⑨)の一図では左向きの構図で描 かれていた。さらに大塚氏は新たに興味深い資料が出現し
たことを教えてくれた。2004年に発見された北海道余市・
林家旧蔵のアイヌ風俗画画稿類(以下、 「画稿」と表記)と、
北海道開拓記念館の林昇太郎氏が調査を行った市立函館博 物館所蔵のアイヌ絵下絵(以下、「アイヌ絵下絵」と表記)
の存在である。筆者(佐藤花菜)は市立函館博物館で開催 されていた「平成26年度収蔵資料展」に出品された「アイ ヌ絵下絵」を見にいった。淡墨の生き生きとした線は、ア イヌの人々の生活を目前にしてスケッチした勢いが感じら れ、しかも北斎漫画のようなコミカルな表現もみられた。
その中に、重ね書きして手直しした左向きの「オンガミ 図」
[図2]があった。2005年7月16日~ 9月25日まで小樽 市博物館で開催された特別展「描かれた岸辺のアイヌ-旅 の絵師がのこしたスケッチ-」図録も手元に取り寄せてみ たところ、アイヌ風俗画の中では極めて珍しい表情豊かな アイヌの姿が表現されていた。「蝦夷人十二之内其八」に当 館本の「オンガミ図」にあたる「オムシャ老夫婦の図」
[図3]がある。この図は図録になかったため、小樽市総合博物館 副館長石川直章氏に図版提供をお願いした。それにはアッ トゥシの切伏文様は省略されているものの、「当館本」より は大塚氏所蔵の「オンガミ図」により近い図様であった。「蝦 夷人十二之内其壹」の「老漁師図」
[図 4]は穫れた魚を網袋 に入れて背負った姿で、衣服の模様はないものの、大塚氏 所蔵屏風の右隻に近似している。
[図 2] 市立函館博物館蔵
[図 4] 小樽市総合博物館蔵
[図 3] 小樽市総合博物館蔵
がて弟子たちへと図の模写の流れがつながっていたのだろ う。道南では、波響となんらかの繋がりを想像させる波の 字を冠した絵師たちの活躍が 18 世紀末から明治初期まで 続き、彼らが描いた画が求められて他藩へと流出していっ た動きがうかがえる。宝暦 9(1759)年頃には松前藩がア イヌ風俗画藩外持ち出し禁のお触れを出すほどアイヌ絵は ブームになっていたらしい。
日本海交易を考えれば、その拠点であった象潟にある「象 潟本」だけでなく、石川県かほく市の個人宅に残る「アイ ヌ風俗六曲一双屏風」
8)、北前船主酒谷家旧蔵で現在石川 県加賀市の北前船の里資料館所蔵の「蝦夷六曲一隻屏風」
したがって、大塚氏所蔵屏風と林家旧蔵の「画稿」のう ち「蝦夷人十二之内 其壹」と「其八」とは密接な関係を持っ ているといわざるを得ない。そしてこの「画稿」のアイヌ 人物の表情が「当館本」によく似ているのである。
たとえば「十二之内 其壹」の「老漁師図」
[図4]、 「同 其六」
「櫂を持つ男性図」
[図 5]や「脚絆を履く男性図」
[図 6]の足 の描き方や自然な表情と優しいまなざし、衣服の線描には 近似したものを看取できる。
「列像」や、小玉貞良、秦檍麿、谷元旦、千島春里、平沢 屏山らが描いたのは定型化したアイヌの姿であり、日本人 とは異なる像容や風俗習慣に注目し、誇張して描いたアイ ヌ風俗画であった。絵画化されたモチーフは熊送り、鶴の 舞、酒宴、シュト打ち、昆布採り、オットセイ漁、ウイマム、
オンガミというアイヌ風俗のポピュラーな場面である。し かし「当館本」、「象潟本」、「画稿」や「アイヌ絵下絵」、そ してその他の関連資料の②~⑥はアイヌの日常生活風俗を 自然なかたちで活写した点で印象がまるで違っていた。
さて小樽市総合博物館に所蔵されている「画稿」は、
2004年の夏にかつて余市で漁場経営をしていた林家ゆかり の人から寄贈されたトランクの片隅に納められていたもの で、その中にアイヌ風俗画と分類できる図が32枚発見され た。一方市立函館博物館の「アイヌ絵下絵」は、日魯漁業 株式会社社長・平塚常次郎から寄贈された資料である。こ れらの「画稿」と市立函館博物館所蔵の「アイヌ絵下絵」
とは同じ作者であり、北後志周辺の海岸線を歩いて漁業経 営者のもとを訪れた旅の画師が 1860 年前後以降に描いた
(明治期のものであってもごく早い時期)と考えられてい る
5)。しかしながらその内容はアイヌの日常の姿を描いた スケッチだけでなく、羅漢図や七福神図、仙人鶴図、牡丹 に孔雀図など円山応挙の写生画を思わせる画稿を写したも のも含まれていた。
五十嵐聡美氏は「林家旧蔵の画稿の中には、写生ではな く粉本を写したアイヌ絵も含まれ、共通する粉本があった」
ことを指摘する
6)。そして波響の粉本を思わせる図「牡丹に 孔雀図」を取り上げて、波響の弟子が師の粉本を譲り受け て描いた可能性を述べた
7)。さらには「高砂図・翁と媼」に は「波洲(沙)」
[図7]と読めるサインと印章の位置を指示し てある。五十嵐氏は波洲も波響の弟子たちに連なる画師だ ろうと考察しているが、その説には賛同するところである。
「画稿」には定型化したアイヌ風俗画にはない、アイヌ民 族への人間としての共感がある。その点は「当館本」にも 共通するところである。「画稿」に「当館本」の人物の表情 に類似した図が存在することは先述したが、波響から、や
[図 5] 小樽市総合博物館蔵 [図 6] 小樽市総合博物館蔵
[図 7]波洲(波沙?)の銘「高砂図・翁と媼」部分 小樽市総合博物館蔵
が現存している。さらに千葉県の漁師の家に残っていたと いう「当館本」もまた交易による松前土産として移動した とも考えられる。その際にはおそらく「まくり」の形で流 通して、手に入れた人が後に組み合わせて屏風に仕立てた と考えてよいだろう。
新明英仁氏は「アイヌ風俗画の系譜は、縦軸として小玉 貞良 ‐ 千島春里 ‐ 平沢屏山の歴史的展開があり、それに 村上島之允すなわち朗郷が横軸として交差している。雪好、
早坂文嶺、谷元旦、村上貞助、松浦武四郎はその周辺に位 置する画家
9)」としている。関連資料として最後に加わっ た2004年発見の「画稿」と「アイヌ絵下絵」は、アイヌ風 俗画研究にとっても、「当館本」を検証する上でも重要な資 料となる。「画稿」は、羅漢図や花鳥図稿本、32 枚のアイ ヌ風俗画、地図を含む59枚の絵と和綴の「画帖」1冊から なる
10)。今回はこれらの資料について十分に検討できなかっ たが、今後改めてこれらを検証することで、 「当館本」と「象 潟本」、そして関連資料の②~⑥、⑩、⑪をこれまでのポピュ ラーなアイヌ風俗画のながれとは違う、新しい系譜として 位置づけることができるのではないだろうか。
2 波静筆「蝦夷人物図屏風」(象潟本)
象潟と北海道
日本海海運の拠点のひとつであった象潟と北海道、海を 隔てたこの地域の深い関わりは数多くの資料から読み取る ことができる。象潟町(現にかほ市)の蚶満寺の過去帳に は寛文9年(1669)六月廿三日の記載に象潟町出身の18名 の戒名がみられ、この時におきたシャクシャインの戦いに巻 き込まれたことが記載されている
12)。また、象潟町に遺る 古文書『関村伝来文書』には元禄 9(1696)年の関村年貢 勘定帳に「米四拾八石四斗七升壱合 松前渡」、天明3(1783)
年の年貢皆済目録に「米百五石七斗四升六勺 松前渡米」と あり、各記録より象潟から松前へ米を運んでいたことが分 かる
13)。また、象潟を訪れた旅人の記録からも当時の象潟 町と蝦夷地の関係が窺える。天明 4(1784)年に象潟を訪 れた菅江真澄(1754-1829)は紀行文『齶田濃刈寝』に「(塩越)
で行かふ人の、アツシという蝦夷の嶋人の木の膜におりて、
ぬひものしたるみじかき衣をきて、ちいさきゑぞかたな〔ま きりといふ小刀なり、蝦夷人是をエヒラといふ〕こしにか け、火うち袋そへたり」と記している
14)。この記載から象 潟の人がアットゥシを着ていたことが分かる。さらに、寛 政 2(1790)年に象潟を訪れた尊皇思想家の高山彦九郎は
『北行日誌』に「汐(塩)越町長し、五百軒余、三百人斗り
松前に居りて稼きするよし」と記している
15)。
海を渡り蝦夷地に向かうことは命懸けであったが、当時 八十八潟九十九島の景勝地「象潟」ゆえに田畑の少ない土 地柄であったため、多くの船死者を出しながらも成功を求め、
海を越えて出稼ぎに行ったのだろう。象潟の人々は蝦夷地各 地で支配人や通訳、番屋持ち、場所請負人を勤め、象潟出 身の人々の生家には今も蝦夷地との関連資料が伝わってい る。ユウフツ場所などで番屋持ちとなった須田家の生家には
「東蝦夷往来日記」を含む膨大な資料が保管され
16)、フトロ で運上屋を経営した森家の生家には「象潟方言藻塩草」が 残され貴重な資料となっている
17)。そして、厚岸でアイヌ 語の通訳(通詞)として働いていた木内嘉右衛門の生家では、
波静筆「蝦夷人物図六曲一双屏風」が伝わっている。
嘉右衛門は東蝦夷地のユウフツ・サル・アッケシの場所請 負人であった山田屋文衛門家の雇い人として厚岸で天保12
(1841)年頃から嘉永6(1853)年までおよそ16年間通詞 として働いたと考えられている
18)。厚岸にある国泰寺(蝦 夷の三官寺、徳川幕府建立)に残る「日鑑記」
19)に通詞嘉 右衛門の名が確認できる。その記録をいくつか挙げてみる と、嘉永3(1850)年4月16日には「此間中よりマビロ弐 リ程外海ノ方浜へ異国人難波船上陸之風説ニ付、早朝通詞 嘉右衛門虚実伺ニ参候処、無相同人来述之
20)」とあり、難 波した異国船の実態を確認したり、嘉永6(1853)年3月5 日、6日には「朝通事嘉右衛門来、口上二一昨三日朝サルよ り出稼之番人三人・同所夷廿三人図合船二而ポロト江出帆、
ビハセト云所二而右船磯岩波二被飜却不残溺死、回向願也。
(中略)直二法名等取認誦経、嘉右衛門焼香。 六日 早朝 嘉右衛門来、箱館山田店サル会所江右之変事為知度二付急 刻付添触願出
20)」と船事故にあった者たちへの供養と事故 のことを雇い主である山田屋に知らせる状況などが記録さ れている。この他にも嘉永 3(1850)年 4 月19日、嘉永 5
(1852)年 9 月14日、嘉永 6(1853)年 3 月17日、同 8 月 5日の記述にも通詞嘉右衛門の名を確認できる
20)。嘉右衛 門が通訳だけでなくアッケシ場所近郊で起こる様々な出来 事に関わっていたことが分かる。また、国泰寺の前にある厚 岸町郷土館には「弘化三年九月新造、施主悪消会所支配人 文太郎・通詞嘉右衛門・帳役弥三郎」と銘記された国泰寺 唐堂香炉が保管されているという
21)。
木内家に伝わる「象潟本」は当初はまくりの状態で、そ
の後屏風に仕立てられたそうだ
22)。そのためか、各図は不
自然に絵が切れている箇所もある。六曲一双、各 174.5 ×
357.6 の大きさで、紙本着色、紙次のない和紙に 12 人のア
イヌ人物が描かれる。各紙に「波静」の落款と「源忠 図 恭
書印」の白文方印が押されている。全体的に色鮮やかに描 かれ、人物だけでなく背景にアイヌの人が使用する生活道 具が描かれる図もある。
「当館本」と「象潟本」、「関連資料」の比較
ここでは、「当館本」と、「象潟本」の比較を中心にして、
類似する北海道開拓記念館蔵の妻沼コレクション(以下、 「記 念館本」)の4図についても触れながら、その他の「関連資 料」についても紹介したい。はじめに「当館本」と「象潟本」
の相関関係について整理しておきたい
[図 8]。両屏風で共通 する構図は 12 図中 11 図であり、順序について 4 点は同位 置だが他は右隻と左隻が入れ替わっている図もある。共通 していない図は「当館本」の「鮭と男」、「象潟本」の「男 と女」の各1図のみである。「象潟本」は当初まくりの状態 で保管されていたということで、両屏風とも後から屏風に 仕立てられたと考えると、両者とも元はまくりで流通して いたかもしれない。
「記念館本」は北海道開拓記念館が妻沼浩史から購入し た 45 点のアイヌ絵の内の 4 点である
23)。妻沼は 40 年以上 の歳月をかけて、アイヌ民族資料や考古学資料をはじめ、
蝦夷錦などを収集した。平成 5 年に購入されたこれらの資 料は同年全資料を一般公開している。筆者(佐藤花菜)は 2014年11月27日に北海道開拓記念館を訪問し、 「記念館本」
の写真撮影と調査を行った。「記念館本」は4点とも軸装で、
その内の 2 点に林子平の讃が書かれている。全体的に「当 館本」「象潟本」と比べ色彩は淡い印象だが、「象潟本」よ りも衣褶線の描き方や墨色の濃淡の表現、繊細な毛描きが
「当館本」と近似している。対象の全体を把握するため「当 館本」の右隻第1紙より各図を比較検討していきたい。
ⅰ)太刀を持つ長老
図9a 当館本右隻第1紙 129.0×47.0 図9b 象潟本右隻第1紙 127.8×45.6 図9c 記念館本「アイヌ盛装図」 126.0×54.5
図9d 記念館本「アイヌ盛装図」 林子平讃(拡大図)
この長老の類似資料は「当館本」と「象潟本」に加えて
「記念館本」も存在する。3 点とも右手に槍を持ち、左腰に 太刀を差したアイヌの長老の図である。繊細な白髪と髭の 毛描きが印象的で、アイヌの男性の誇りとされる長い顎髭 が長老の風格を一層引き立てる。よく見ると 3 点は衣服に 違いが見られ、アットゥシの上に蝦夷錦をはおっている姿 は共通しているが、「象潟本」では腹の部分が写し間違えた かのように不自然に描かれている。
敷物の男 オンガミ 犬と男 サケと男 槍持つ男 守り刀 長老 挨拶 母子 酒飲む男 踊り 白熊 敷物の男 オンガミ 犬と男 鮭と男 槍持つ男 守り刀 長老 挨拶 母子 酒飲む男 踊り 白熊
母と子 漁 犬と男 守り刀 男と女 挨拶 長老 黒熊 踊り 酒飲む男 熊檻 弓を持つ男
[図 8]上「当館本」、下「象潟本」 相関図
[図 9a]
[図 9b]
[図 9c] [図 9d]
て惣身毛の生たる事熊のごとく
29)」とあり、アイヌの特徴 を記録している。児玉作左衛門によると「眼窠の内側壁が和 人のように隆起を示さないので、眼窠腔は広くなっているの で、眼球は沈んで見える。なお眼窠間距離が短いので、左右 との眼が接近しており、上眼瞼がせまいことも特徴の一つと し、睫毛は長く、ときどき内眼角から束状に出ることがあり、
眼全体が黒ずんでみえる。また、眼は水平をとり、和人に往々 みられる斜位はない
30)」とし、この言葉を忠実に表現する かのように「当館本」はアイヌの眼の白目を薄い墨で描き、
黒目を濃い墨で描くことで「眼球が沈んで見える」ことを巧 みに表現している。この眼の描き方は「当館本」の全図に共 通している。
アイヌ文化保存対策協議会の図版では路傍で挨拶をする 場面が紹介され、本図のように手を合わせ向き合ってい る
31)。秦檍麿(村上島之允)『蝦夷島奇観』ではアイヌの 挨拶における手の特徴的な動きを「其まゝ掌をしばしば摺 合す。次に手を開き左右揃へて我額のあたり迄捧げ、其貴 容をいたゞき上る様になし扨手をかへし甲をぬかふさまに 額髪のほとりよりそろそろ撫でおろす如にして、髭の末に 至て敬畢の声を発す。如是三度して止る
32)」と描写しており、
本図はその状態を表現していると考えられる。
ⅲ)母と子供
図11a 当館本右隻第3紙 129.0×51.0 図11b 象潟本左隻第1紙 127.0×51.5
母親が子どもに目線を落とし、背中にはバッカイニ(子 負棒)とバッカイタラ(子負縄)からなるバッカイペ(子 負具)を使って裸の赤児を背負う。赤い布がついた耳飾り をつけ、着物を左衽にあわせて縄状の帯で結ぶ。「当館本」
は白地に大きな花紋が入った着物であるのに対し、 「象潟本」
は緑がかった無地の着物を着る。前掲『蝦夷日記』の「寛
「記念館本」は腹の部分に赤で蝦夷錦の文様を描き、意識 的に「当館本」に近づけているようにも見える。
「記念館本」で特筆すべき点は長老の姿とともに林子平
(1738-1793)の讃と花押があることである。その内容は
「与渡夷蝦之時土長率従者来喜語曰 足下者本國之人也近有 外賊之難若今後逢 来襲時者以弓矢欲防之無他恒為其準備 寸時不忘云々感其 憂国國之志寫其肖像永示 後人云爾 丙午秋八月林子平誌 」
[図9d]と記され、芹沢先生が
『アイヌ文化展図録』でも内容について紹介している。文中 には「この署名のように林子平によって「丙午秋八月」に画 かれたものであるとすれば、天明六年であり、子平は四九才、
波響はまだ二三才の時である。しかし、この讃の中には蝦夷 が誤って「夷蝦」と書かれているし、子平の真筆であるかど うかについても明確でない」
24)とした。子平の讃通りに解 釈すれば、この絵は「列像」より前に存在していたことになる。
しかし、林子平の真筆と考えられる「林子平書状」(仙台市 博物館蔵)
25)の字体と比較してみても、癖が強く見られる 子平の字体とは異なる印象を受ける。元仙台市博物館市史 編さん室長の鵜飼幸子氏に本図を見ていただいたところ「何 かを写したような書き方で、子平とは別人なのではないか。
子平が蝦夷地に渡ったかどうかについては諸説あり、未だ不 分明である」との見解をいただいた
26)。
ⅱ)和人と挨拶する男
図10a 当館本右隻第2紙 129.0×51.0 図10b 象潟本左隻第6紙 127.7×45.6
両屏風に登場する唯一の和人とアイヌの男性が描かれ、両 者はアイヌ特有の挨拶をして手の甲を合わせている。和人は 腰に煙草入れをさし、半纏式の短衣に股引姿で、中には花紋 和更紗を思わせるシャツを着ている。小笠原小枝氏は和更紗 について「古渡更紗のデザインは江戸後期に『佐羅紗便覧』
(1778)、『増補花布便覧』(1781)、『更紗図譜』(1783)と なって発刊されて流布した。和更紗はこれらの渡り物の更紗 に刺激されて、その異国的な模様を生かして各地で製作し始 めたもの
27)」とする。武藤勘蔵『蝦夷日記』には「寛政十 年戊午五月廿五日、松前出立(中略)侍分合拾人、用給三人、
近習三人中中小姓四人、何も目立候半天、股引
28)」とあり、
松前での日本人のこの時期の風俗が描写されているが、画面 の和人の姿も同じである。これらのことからも「当館本」、 「象 潟本」ともに18世紀末頃の日本人の風俗を描いているとい えよう。また、並んでいる和人とアイヌの顔つきに注目する と髪型や髭、眼に違いが見られる。アイヌの眼は旅行者の注 目をひき、『北海随筆』では「形象一眉深眼、鬚髭ながふし
花押
[図 10a] [図 10b]
政十年七月七日の条」には集まった夷人達の風俗を記述し ているが
28)、白綸子小袖、黒綸子小袖、同引とき(綿入れ の綿を抜いた小袖)等を着た十五人を、アットゥシ着用の 夷人と別記して記述している。さらに続けて「帯は木綿の しごき或はアツシ其外はみな縄の帯なり。各手に烟草入を 下げ、不残跣足なり」と記す。本図はこの記述を裏付ける 風俗を示す。また、5 ~ 6 歳にみえる男児はアットゥシを 着ているが紐は結んでいない。『蝦夷談筆記』には「五、六 歳に成候得ば帶もせず
33)」とあり、本図の描写と合致する。
「当館本」では唯一登場する女性であるが、本来アイヌの 女性は顔の口辺部、前腕部、手背部に必ず文身をしていたが、
本図には口辺部の文身が見られない。また、髪型について、
児玉によれば「髪を真中から左右に分けて両側に垂れさげ、
これを切りそろえる。これは下顎縁から後頭部の下部が現 れる高さにそろえ、その部に残った髪は剃られる。この状 態では男も女もちがいはなく、女はこのままでこれをとき どき手入れする
34)」と記述しているように、母親はアイヌ の成人髪容を正しく描写している。子供は2人とも坊主で、
整髪するアイヌの男児の髪型に見られる一部のみを残すよ うな描写は見られないが、小児の髪型にはかなり地方差が あるということだろうか。本図の類似史料としてこの他に
「(伝)英一蝶筆「アイヌ人物図」軸」を確認している(「関 連資料」⑦)。絹本着色、123.5×51.0(本紙 36.0×43.5)で、
画面には後述する「犬を連れた男」と「母と子供」の図 を配する。この史料は『古裂会(Auction CATALOGUE)
2009年12月21日号』に掲載され、現在個人所蔵である。「当 館本」 「象潟本」と同様に母親はバッカイペ(子負具)を使っ て赤児を背負い、隣に男児が立っている。しかし、男児の 年齢は 5 ~ 6 歳よりも少し幼く、髪型は坊主ではなく後頭 部に髪を残す形で描写されている。そして、大きな違いは 母親が手に干した椎茸を持っている点である。椎茸はアイ
ヌの交易品として蝦夷産物のなかの主要な品物で、アイヌ に自生する椎茸を採集させて本州に送り出していた。図中 の母親は乾燥した十数個の椎茸を紐で結んで連ねた状態で 手にしているところも興味深い。
ⅳ)酒を飲む男
図12a 当館本右隻第4紙 129.0×51.0 図12b 象潟本右隻第4紙 127.5×48.6 図12c 記念館本「アイヌ飲酒図」 123.0×48.0
肩ぬぎをしたアイヌの男性が胡座をかき、トゥキパスイ
(捧酒箸)をのせて飲酒する姿から、神々に酒を捧げる飲酒 の礼の図であると分かる。林子平の『三国通覧図説』にも、
トゥキパスイの図があり、「長さ一尺二寸餘、幅六七寸、彫 ものあり、エゾ人酒を飲む時このものを用ひ髭をすくひあ げのむといへり」とある
35)。上を向いた鼻が飲酒の礼の動 きを生き生きと捉えている。3図ともその姿は同じだが、描 かれた道具に違いが見られる。「当館本」では、上部に朱漆 をかけた黒漆の天目台の上に黒漆の杯を持っているが、「象 潟本」では天目台、杯ともに朱漆に唐草文のような文様が みえ、「記念館本」では黒漆の天目台に朱漆の杯である。腰 の小刀は同じだが、足下にある煙草入れと煙管が「当館本」
は実寸に近いが、「象潟本」 ・ 「記念館本」は大きく描かれる。
天目台と杯の大きさについても同様である。また、 「当館本」
[図 11a] [図 11b]
[図 12b]
[図 12c]
[図 12a]
の男性の髪容は前頭部の剃り上げが特に目立ち「髪の生え 際から六-九㎝の高さで三日月形に剃る
34)」という男性の 特徴を捉えている。「象潟本」「記念館本」は剃りこみが浅 くてよく似ている。
「当館本」のアットウシには切伏文様がないが、「象潟本」
「記念館本」には裾と袖口にはっきりと文様が描かれている。
「当館本」のこの図は他本に比べて衣褶線のはねや打ち込み に勢いがある。
「記念館本」の本図は林子平の讃がなく、背景上部には何 かが貼り付けてあったような跡が残っている。後述する「記 念館本・アイヌ舞踊図」も林子平の讃はないが、この 2 図 には同一の白文法印(判読不能)が押されており、子平の 讃がある図と別の人物によって描かれたという可能性もあ る。他の「記念館本」(関連資料②③)に比べると、 「当館本」
よりも「象潟本」に近い構図となっている。
ⅴ)踊る男達
図13a 当館本右隻第5紙 129.0×51.0 図13b 象潟本右隻第3紙 127.3×48.7
図13c 記念館本「アイヌ舞踊図」 123.0×48.0 肩ぬぎをした前向きの男性と躍動感のある後ろ向きの男性 が、踵を少しあげ、腕を上下させながら踊る姿はアイヌの輪 舞「リムセ」とみられ、アイヌ風俗画によく描かれる構図で ある。「当館本」と「記念館本」には背景に何も描かれてい ないが、「象潟本」だけ足下に杯、天目台、煙草入、煙管、
杯を根付けにした小刀が大きくにぎやかに描かれる。後ろ向 きの男性の足裏には、足の把握力とたくましさを示す凹線が はっきりと描かれる。これは原始生活の顕著さと見るべき足 裏の線として、小玉貞良筆「釣魚之図」(現、天理大学附属 天理図書館蔵)の岩上に座して糸を垂れる男の右足裏にも表 現されている
36)。アイヌの下肢の骨は和人に比べて強大で あり、それとともに付着する筋肉もよく発達しており、漁猟 のために山野を疾走跳躍するのに適応しているという
37)。
「記念館本」はアットウシの文様が省略されるなど、かな りあっさりとした印象で、顔の表情や体の動きの描写は「当 館本」が一番優れている。リムセの図は妻沼コレクション の「蝦夷風俗図六曲一双屏風」
4)とアイヌ民族博物館蔵の 千島春里筆「アイヌ人物画 12 幅」軸(「関連資料」⑨)の 中にも類似構図が見られる。
ⅵ)白熊を曳く男
図14a 当館本右隻第6紙 129.0×47.0 図14b 象潟本右隻第2紙 127.8×48.6
[図 13a] [図 13b]
[図 13c]
[図 14a] [図 14b]
左手に槍を持ち、右手で熊を曳く男の図。両者とも耳飾
りをしているが、「象潟本」は腰に煙草入れのようなものを
差し、袖口から柄のついたシャツが見える。最大の違いは「当
館本」が白熊、 「象潟本」が黒熊を曳いている点である。「当
館本」に登場する白熊については、同じく白熊が描かれる
[図 15a] [図 15b]
「列像」のイニンカリ像の白い小熊についての研究が参考に なる。「ヒグマはホッキョクグマに比べて頭部が大きく、顎 が張り頑丈であるという特徴などから、本図(イニンカリ像)
に描かれているのはヒグマと「同定」して問題ない」とする。
さらに当時の文献に出てくる白い熊の記述も取り上げて考 察し、イニンカリ図に描かれた白い子グマを択捉島または 国後島産の白ヒグマであろうと推定。「アイヌ人物屏風(当 館本)」の白熊も「イニンカリ図に描かれたものと同様の理 由から、ヒグマであろうと考えられる。」と記している
38)。 関係資料として、『三重郷土の華百人展』のP55に掲載さ れた作品で北海道人(松浦武四郎)筆「アイヌ風俗画貼交 六曲屏風」の 4 扇目に黒熊を曳く男の図(「関連資料」⑧)
があり、本図は「当館本」「象潟本」と左右が反転した構図 である。また、アイヌ民族博物館蔵の「アイヌ人物画12幅」
軸の中に「黒熊を曳く男」(「関連資料」⑨)があり、本図 は老人と子供が子熊を曳いている図で、「関連資料」⑧と同 様「当館本」「象潟本」と左右が反転した構図である。
ⅶ)敷物に座る男
図15a 当館本左隻第1紙 129.0×47.5 図15b 象潟本右隻第5紙 127.8×49.2
「当館本」の男は蝦夷錦を着て敷物を2枚並べて重ねた上 に両膝を立てて座っている。対して「象潟本」は構図は似 てるが、ゴザに座り、背景には熊檻とイナウ(木幣)が描 かれる。イナウは神を祀るときの必需品で、柳、みずきな ど肌が白く柔らかい木を削って作られる。イナウ作りは男 たちの大切な仕事として、大きなまつりごとのある時には 集まってイナウ作りをしたという。「象潟本」は人物よりも この風習を描きたかったのかもしれない。
「象潟本」のこの図は他の図に比べて描き方がかなり荒く、
異質な印象である。この図だけ別人の筆の可能生も考えられる。
ⅷ)オンガミ図
図16a 当館本左隻第2紙 129.0×47.5 図16b 象潟本左隻第2紙 127.8×49.2
アイヌが公式に人を訪ねるときには小腰を屈めて手をつ ないで歩く礼儀がある。「当館本」はその「オンガミ」の姿 だろう。『蝦夷島奇観』礼部二に「拝禮図 蝦夷オンカミと いふ訓本邦に同じ 先達官の前へ進むるは腰を跼め足を引 すり手を引連て出る也其状殆蝦の如し。按るに此礼状古今 たかわさる成へし」
[図 16c]とあるのに当たる。そこに描か れた図は前向きの姿であるのに、「当館本」では後ろ姿が描 かれる。対して「象潟本」は一人が網を担ぎ、もう一人は
[図 16a]
[図 16c]東京国立博物館蔵
[図 16b]
「当館本」と同じ姿勢にも関わらず手に魚を持っていること から「漁から帰る男たち」の姿となる。「象潟本」は屏風に 仕立てるときに裁断されたとみられ、不自然に絵が切れて しまっている。この網を持つ図と同様の図が、アイヌ民族 博物館の「アイヌ人物画12幅」軸(「関連資料」⑨)の一図、
妻沼コレクション「蝦夷風俗図六曲屏風」の一図にある。
この「オンガミ図」に関しては大塚和義氏所蔵の類似資 料を実見し、「当館本」と同様の構図であることを確認した
(「関連資料」⑥)。51.5×72.5と横幅が広く、大塚氏は「本
図もまくりで流通したものを二曲屏風に仕立てたのではな
いか」と語る。
ⅸ)犬を連れた男
図17a 当館本左隻第3紙 129.0×51.0 図17b 象潟本左隻第3紙 127.8×49.1
西洋犬のような鼻の尖った犬を紐で引いている男。腰に は山刀(タシロ)を差し、犬に付けた紐を担ぐような姿勢 をとる。この独特な犬のつなぎ方はアイヌ特有のものであ る。犬の引綱が首回りと前足の後ろから胴体に回る繋ぎ方 については、串原正峯の『夷諺俗語』に「唐太嶋の犬の事、
カラフト嶋にては、舟を犬に牽するに、(中略)其綱の端を 輪にして、犬の首より前足へたすき懸け」とある
39)。
本図の類似史料としてこの他に前掲「(伝)英一蝶筆「ア イヌ人物図」軸」を確認している(「関連資料」⑦)。同じ ように犬を連れた男が描かれているが、犬を結ぶ部分が紐 ではなく鎖であり、男の腰にはタシロに加え煙草入れも描 かれる。
ⅹ)鮭と男
図18 当館本左隻第4紙 129.0×51.0
漁猟民族のアイヌの主な対象は鮭や鱒、鹿であった。ア イヌの鮭漁では、はねる鮭の頭を打って殺し、ナウケの枝 に一尾一尾エラの所から口を通して吊し、水に流しておく という。その様子を描写した場面であろう。「当館本」のみ に見られる図である。
ⅺ)槍を持つ男
図19a 当館本左隻第5紙 129.0×51.0 図19b 象潟本右隻第6紙 127.2×44.5
図19c 記念館本「アイヌ狩人図」 123.0×48.0 図19d 記念館本「アイヌ狩人図」林子平讃(拡大図)
「当館本」の恰幅の良い男性は左手に槍を持ち、穏やかな 表情で佇んでいる。対して「象潟本」「記念館本」の男性は 右手に矢を、左手に弓を持ち腰にも小刀のようなものを差 す。「当館本」「記念館本」は壮年の男性だが、「象潟本」は 白髪の老人である。
履いている靴に注目すると、「当館本」と「記念館本」は 上部に毛のついた靴をはき、「当館本」の素材は革靴のよう だが、 「記念館」本は魚皮のような鱗状の模様がみえる。「象 潟本」では上部の毛はないが、素材は「記念館本」と同じ 魚皮のようにみえる。アイヌの靴には鮭皮靴(チェプケリ)、
鹿皮靴(ユクケリ)などがあり、基本的に跣足で生活する アイヌも冬場や狩猟のときは靴を履くため、本図の男性も その時の姿だろうか。アイヌは鹿皮靴を多く履き、上等の 靴をつくるには鹿二頭分の毛皮が必要という。対して、鮭
[図 17a] [図 17b]
[図 19a]
[図 19c]
[図 18]
[図 19b]
[図 19d]
おわりに
「当館本」には波嶋
[図 22]の落款と白文方印、「象潟本」
には波静
[図23]の落款と「源忠 図書印」の白文方印がある。
ともに波字がつく絵師は何者なのであろう。波といえば蠣 崎波響周辺がまず考えられる。「当館本」、「象潟本」ともに
恭 皮靴は四本分の鮭の皮を必要とした
40)。構図は同じだが少
しずつ異なる部分がある3点。人物描写は「当館本」「記念 館本」が似ているが、持ち物、靴の描写については「象潟本」
と「記念館本」に類似点が多い。そして、 「記念館本」には、
ⅰ)太刀を持つ長老で比較した「記念館本」と同じく林子 平の讃が書かれており、その内容は「此像従者也雖然如邑 長一門 常不去其側也 林子平 」とある。こちら は年代の記載はないものの、同じく子平を名乗る人物によっ て書かれたものだろう。
ⅻ)守り刀を持つ男
図20a 当館本左隻第6紙 129.0×47.0 図20b 象潟本左隻第4紙 127.8×48.6
両者とも守り刀を右手に持ち、熊皮を敷いた上に堂々と 腰をかけている。大きな違いは着ている衣服で、「当館本」
は左衽に合わせたアットゥシの上に蝦夷錦を羽織っている が、「象潟本」はアットゥシの上に蝦夷錦を纏い、さらに陣 羽織を羽織っている。陣羽織は室町時代の中ごろから武将 が陣中で鎧の上に着用した上衣である。袖なしで、桃山時 代には南蛮服飾の影響を受けた派手な陣羽織が登場した。
アイヌはラシャや絹を使い異国風俗の影響を受けた派手な 陣羽織を珍重したため、本州からさかんに移入されて流行 するようになったという
41)。陣羽織がアイヌ風俗画に登場 するのは18世紀末に入ってからで、それまではアットゥシ と蝦夷錦のみが描かれていた
42)。「象潟本」が描かれた時 期を18世紀末以降と裏付ける一図である。
)男と女
図21a 象潟本左隻第5紙 127.5×50.7 図21b 蝦夷島奇観 東京国立博物館本
43)「当館本」にはない図である。左側に機織の部品を持つ女 性と右側に矢を背負い、弓を持ち、頭にサパンぺ(幣冠)を かぶった男性を描くこの図は、[図 21b]のように、文化 4
(1807)年に成立した秦檍麿の『蝦夷島奇観』 〈古説部 男夷図〉
〈古説部 女夷図〉からの焼き直しであると考えられる。
『蝦夷島奇観』は江戸時代のアイヌ風俗を細緻な観察をも とに図説した優れた記録書で、多くの模本が存在する
44)。 自筆本とされる東京国立博物館所蔵本の『蝦夷島奇観』成 立は 1807 年で、「象潟本」の旧蔵者・木内嘉右衛門が蝦夷 地にいた時期が1841年頃~ 1853年頃である。したがって
「象潟本」は 1807 年以後に描かれ、完成した絵を 1841 年 頃~ 1853 年頃に象潟に持ち帰ったことを補完する一図で ある。
花押
[図 20a] [図 20b]
[図 21a]
[図 21b]『蝦夷島奇観』〈古説部 男夷図・女夷図〉部分 東京国立博物館蔵
6人の人物が「列像」のうちの6図に似た構図であることか らも双方になんらかの関連性を考えるのが妥当だろう。波 響の弟子の名には波字が多く使われ、一人息子である蠣崎 波鶩(1797-1874)、弟子の高橋波藍、波藍の息子の高橋波 香(-1890)ほか、波冽、波島があげられる。波嶋に最も 近い名を持つ波島は道南地方では波響の弟子とされ、勘定 奉行石黒左衛門の兄で、障がい者であったとも伝える
45)。 また、松前の商人・佐野専右衛門の子ともいわれる。波響 の絵を学んだ後、上洛して松村景文に師事。松前に戻って からは櫻庭姓を名乗り、松前町善光寺に墓がある
46)。松村 景文(1779-1843)は呉春に画法を学び、軽妙な筆致を駆 使して新機軸を出し四条派の中心となった画家である。いっ たい波嶋と波島は同一人なのだろうか。波島が描いた「樽 上の鮭図」
[図24-1](松前城資料館蔵)を見ると、画風も落款
の書体
[図24-2]も「当館本」の波嶋とは異なり、二人は別人
であると考えられる。
「当館本」は、円山応挙の円山派風の写実的な作風を示し ながらも、どこか文人画の味わいが漂う。人物の柔和な表情、
軽妙な衣褶線、余白を生かす描法に四条派
47)の画師特有の 描き方がうかがえ、しかもデッサン力がある、力量のある 専門画師・波嶋の姿が浮かび上がる。それに対して「当館本」
と11図も酷似する構図を持つ「象潟本」の波静は「当館本」
を写して描いたといわざるをえない。特に「敷物に座る男」、
「太刀を持つ男」「守り刀を持つ男」の写し崩れといわざる を得ない描写はそのことを物語る。
「当館本」の波嶋は画師としての技量が優っていて、①か ら⑨の関連資料は「当館本」か、あるいはその原図とされ るものの写しと判断できる。
1、2 の考察により、「象潟本」は『蝦夷島奇観』の成立 時期(1807 ~ 1853)や通詞・木内嘉右衛門が蝦夷地で働 いていた時期(1841頃~ 1853頃)から文化4(1807)年
~嘉永6(1853)年頃までの間に制作され、木内が天保12
(1841)年~嘉永 6(1853)年の間に象潟に持ち帰った とした。「象潟本」が「当館本」を写したものと考えると、
「当館本」は「象潟本」以前の制作となる。しかも、「当館 本」には「男女の図」がないことからも『蝦夷島奇観』の 成立時期より前の制作の可能性が大である。「列像」との6 人の構図の類似、波嶋という名前から見ても、「当館本」は 1790年に完成した「列像」が描かれた年代のより近い頃に はすでに存在していたと考えられないだろうか。
「当館本」と「象潟本」の密接な関連、「当館本」と「記 念館本」の4図の関連性、「当館本」と「記念館本」の「関 連資料」③⑤の近似性、大塚氏所蔵屏風2図と「画稿」、「ア
[図 24-1] 波島筆「樽上の鮭図」 松前城資料館蔵
[図 23] 「波静」落款
[図 22] 「波嶋」落款
[図 24-2] 「樽上の鮭図」部分 「波島」落款
イヌ絵下絵」の密接な関係。これらからは鎖をつなぐよう に同じ構図の絵画を写しながら流通していたことがうかが える。鎖のように写されていった関連資料の中で、 「当館本」
は絵画的に優れており、それらの原図(共通する原本)に
近いところに位置すると考える。
付記
ご所蔵作品の写真掲載についてご快諾いただいた木内氏、
作品閲覧について労をとって下さった、にかほ市象潟郷土 資料館館長斎藤一樹様、石船清隆学芸員、北海道開拓記念 館(現・北海道博物館)の池田貴夫学芸員、春木晶子学芸員、
写真掲載についてご尽力くださいました小樽市総合博物館 副館長石川直章様、市立函館博物館奥野進学芸員、松前城 資料館佐藤学芸員、林子平の讃についてご教示賜った元仙 台市博物館市史編さん室鵜飼幸子様、そしてご所蔵作品の 閲覧を許可いただき、貴重なご教示を下さった大阪学院大 学大塚和義教授、その他多くの方々のご協力をいただきま した。心より御礼申し上げます。
英文要旨については東北福祉大学の Ken Schmidt 准教授 にご協力いただきました。感謝申し上げます。
註
1)寛政元(1789)年、クナシリ・メナシ地方で場所請負人・飛 騨屋の酷使と虐待に反発したアイヌの人たちが決起した。松前 藩は藩兵を派遣して戦いとなったが、アイヌのエカシらが若い 決起者を事前に説得して決戦を回避させた。戦い後、説得の労 をとった長老をモデルに、蠣崎波響が寛政元年から翌年にかけ 連作肖像画「夷酋列像」を描いた。
2)佐藤花菜「蝦夷人物屏風とアイヌ人物屏風」『雄波号第三号』
2009 にかほ市教育委員会・にかほ市郷土史研究会 pp.1-26 3)英一蝶(1652 ~ 1724)は狩野安信に師事したのちに古典 的主題の戯画的表現に機知の冴えを誇る平明な作風を形成し た。英一蝶筆と伝えるアイヌ絵巻が英国のV&A美術館にあり、
2001年、芹沢先生と筆者(濱田)らは実見する機会を得た。
その絵巻(Museum number E1239-1926)はポーランドの Mrs Helena Auerbachが寄贈した作品だが、アイヌの熊送りが 主題の小玉貞良の画風に近いものだった。画家としての技量も 一流で、保存状態も良好だった。
4)『妻沼コレクション資料目録-北海道開拓記念館一括資料目録 第30集-』 1997 北海道開拓記念館 p29
5)林家旧蔵画稿の作画年代は同時に発見された「スッツ・シマ コマキ分界図」および「スッツ陣屋図」から類推することがで きる。描きこまれた津軽藩の陣屋が安政 3(1856)年に成立 していること、スッツ陣屋の存続時期が 1856 年から 1869 年 のため、一連の画稿は幕末を中心に描かれたものと考えられて いる10)。この年代についてはさらに絞り込んだ論考も提示さ れていて11)、今後の研究が期待される。
6)五十嵐聡美「幕末のアイヌ風俗スケッチ~その伸びやかな視 覚」『第57回 小樽市総合博物館特別展「描かれた岸辺のアイ ヌ-旅の絵師が残したスケッチ-」』図録 小樽市博物館2005 pp.19-22
7)五十嵐聡美「寄稿 幕末のアイヌ風俗スケッチ~その伸びや かな視覚」に、「紙は古色を帯び、紙継ぎもはがれていて他の 画像より早い年代に描かれ、精彩に富む作風は波響を思い起こ させる」とある。(『小樽市博物館第 57 回特別展 描かれた岸 辺のアイヌ-旅の絵師が遺したスケッチ-』図録 2005 小樽 市博物館 pp.21-22)
8)本学・梶原洋教授情報提供による。2014 年 5 月 20 日テレビ 東京放送の「なんでも鑑定団 出張鑑定 in かほく市」に、幕
末に描かれた応春印の「アイヌ風俗六曲一双屏風」が出品され た。
9)新明英仁『「アイヌ風俗画の研究」-近世北海道におけるアイ ヌと美術』 2011 中西出版 p.237
10)石川直章「アイヌ風俗画画稿の研究-林家旧蔵のアイヌ 風俗画画稿の分析-」『小樽市博物館紀要第 19 号』 2006 pp.65-74
11)長澤政之「小樽市総合博物館蔵「林家旧蔵画稿」の成立に ついての研究ノート」『小樽市総合博物館紀要第27号』 2014 pp.29-33
12)土屋祝郎「蝦夷秘史・出羽と蝦夷地をむすぶ過去帳」『北方 ジャーナル第2巻第4号』 1973 pp.174-189
13)『象潟町史』資料編Ⅰ 1998年 象潟町 pp.662-667 14)『菅江真澄全集第一巻』 1971年 未来社 p.208 15)『象潟町史』資料編Ⅰ 1998年 象潟町 pp.802-807 16)『須田正美家文書目録』(北海道開拓記念館調査報告第49号
2010 年)によれば、須田家に代々受け継がれてきた蝦夷地・
北海道関係文書やアイヌ民具などを含む資料が保管され、近世
~近代の象潟の歴史を物語る1,000点を越えるコレクションが 所蔵されている。
17)『にかほ市象潟郷土資料館所蔵 森家旧蔵「蝦夷方言藻汐草 全」翻刻・解題- 2012 年度北海道大学アイヌ ・ 先住民研究セ ンター古文書プロジェクト報告書-』(北海道大学アイヌ・先 住民研究センター 2013 年)によれば、江戸時代後期の蝦夷 通詞・上原熊次郎によるアイヌ語辞書『藻汐草』の写本が「象 潟藻汐草」であるが、単なる写本ではなく元の『藻汐草』には ない日本海側のアイヌ語を豊富に記載してあるなど、実用辞書 として作者による編集が加えられた貴重なアイヌ語資料。
18)竹島孝治「通詞嘉エ門について」『昭和 60 年度象潟の文化 郷土史資料15』 1985 象潟町教育委員会 pp78-81 19)「日鑑記」は道東最古の寺院である国泰寺の歴代住職によっ
て文化元(1804)年から文久3(1863)年までの60年間にわたっ て書き継がれたもの。毎日の天候や寺内の仏事だけでなく、場 所の経営、詰合役人の動向、天変地異や外国船の来航など厚岸 近辺で起こった様々な出来事を記録している。昭和34(1959)
年に北海道有形文化財に指定されている。
20)『新厚岸町史 資料編2 日鑑記下』 2009年 厚岸町pp.260-261、283、288-289、322
21)ロバートG.フラーシェム、ヨシコN.フラーシェム『蝦夷 地場所請負人 山田屋文右衛門家の活躍とその歴史的背景』
1994 北海道出版企画センター p.149
22)木内氏によれば、自身が幼い頃に屏風に仕立てたと記憶し ているという。
23)『妻沼コレクション資料目録 北海道開拓記念館一括資料目 録第30集』 1997年 北海道開拓記念館 p.48
24)芹沢長介「アイヌ人物屏風関連資料」『アイヌ文化展図録』
1990 東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館 pp.58-59
25)『仙台市博物館館蔵名品図録』(仙台市博物館 2013 pp.44-45)に掲載されている「林子平書状」は寛政4(1792)
年閏2月15日に子平から旧友の小川只七に宛てた書状。
26)林子平著『三国通覧図説』について、若松正志氏も「本書 をまとめるにあたり、18 世紀前半に書かれた新井白石『蝦夷 志』、板倉源次郎『北海随筆』、工藤平助や旅宿を共にした松前 の人六兵衛 , 長崎で親交を持ったオランダ商館長フェイトから の情報などを参考にしている」「内容や地図の精密さについて いえば、樺太とサハリンを別のものと理解するなど、今日的に みれば不十分な点があることは否めないし、また蝦夷人の風俗 や道具を描いた図も新井白石の『蝦夷志』のものを転載した にすぎない。」としていて、子平の蝦夷行には否定的見解であ る。(若松正志「三 林子平」『仙台市史 通史編5 近世3』
2004 仙台市 pp423-430)
27)小笠原小枝『染と織の鑑賞基礎知識』 1998 至文堂 p229
28)武藤勘蔵「蝦夷日記」『日本庶民生活史料集成第四巻』
1969 三一書房 pp.15-21
29)板倉源次郎「北海随筆」『日本庶民生活史料集成第四巻』
1969 三一書房 pp.401-414
30)児玉作左衛門「アイヌ生体の特徴 眼」『アイヌ民族誌上』
アイヌ文化保存対策協議会編 1969 pp.125-126
31)『アイヌ民族誌下』 アイヌ文化保存対策協議会編 1969 p.539 写真307
32)佐々木利和・谷澤尚一「蝦夷島奇観釈分」『蝦夷島奇観』
雄峰社 1982 pp.207-225
33)松宮觀山「蝦夷談筆記」」『日本庶民生活史料集成第四巻』
1969 三一書房 pp.387-400
34)児玉作左衛門「アイヌの髪容」『アイヌ民族誌上』 アイヌ 文化保存対策協議会編 1969 pp.136-139
35)林子平「三国通覧図説」『新編林子平全集 2』 1979 第一 書房 p.73
36)越崎宗一『アイヌ絵』 1945 図版第五図
37)伊藤昌一「アイヌの計測的特徴」『アイヌ民族誌上』 アイ ヌ文化保存対策協議会編 1969 pp.140-146
38)太子夕佳 . 佐藤喜和「「夷酋列像」イニンカリ図の白い子グ マについて」 『北海道考古学』第46輯 2010 北海道考古学 会 pp189-196
39)串原正峯「夷諺俗語」『日本庶民生活史料集成第四巻』
1969 三一書房 pp.485-522
40)萱野茂『アイヌの民具』 1978 すずさわ書店 pp.71-73 41)『アイヌ民族誌上』 アイヌ文化保存対策協議会編 1969
p.216
42)五十嵐聡美『アイヌ絵巻探訪-歴史ドラマの謎を解く』
2003 北海道新聞社 pp.151-153
43)秦檍麿『蝦夷島奇観』 雄峰社 1982 pp.10-11
「象潟本」を、自筆本とされる東京国立博物館蔵の『蝦夷島 奇観』と比較すると、「全身像」と「半身像」など異なる点も あるが、焼き直しの図と判断した。『蝦夷島奇観』の模本は形 態も様々で、極彩色のものから墨絵まで数多く存在する。
44)佐々木利和『アイヌ絵志の研究』 2004 草風館 pp.85- 123
45)越崎宗一「波響とその弟子」『月刊北海道倶楽部第4号第1巻』
1937 pp.71-79
46)『蠣崎波響とその時代展』図録 1991 北海道立函館美術 館他 p.260
47)四条派の創始者は松村呉春(1752 ~ 1811)。画風は円山応 挙の写生画の影響を受け、蕪村画風との統一を試み、さらに洒 脱味の強い画風へと進んだ。呉春の異母弟で四条派の確立者と なったのが松村景文(1779 ~ 1843)。流派は以後も命脈を保 ち、近代日本画の確立に大きな役割を果たした。参考:『日本 美術史事典』 1987 平凡社
48)『新北海道史年表』 1989北海道出版企画センター 49)『日本美術史事典』 1987 平凡社
画像出典