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『勝鬘経』の「菩薩」に関する倫理思想史的考察 : 「誓願」と根源煩悩をめぐって

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(1)

『勝鬘経』の「菩薩」に関する倫理思想史的考察 :

「誓願」と根源煩悩をめぐって

著者 毛利 豊史

雑誌名 明治学院大学教養教育センター紀要 : カルチュー

ル = The MGU journal of liberal arts studies : Karuchuru

巻 5

号 1

ページ 95‑106

発行年 2011‑03

その他のタイトル Study of  Bodhisattva  in

Srimara‑simha‑nada‑sutra Based on the History of Ethical Thought : Concerning on  Vow  and Root Worldly Desire

URL http://hdl.handle.net/10723/823

(2)

勝鬘経 の 「菩薩」 に関する倫理思想史的考察

「誓願」 と根源煩悩をめぐって

毛 利 豊 史

本稿は, 中期大乗経典の 勝鬘経 ( 勝鬘師子 吼一乗大方便方広経 ) に描かれた 「菩薩」 に関 する倫理思想史的考察の一部である。

勝鬘経 は, 聖徳太子による 勝鬘経義疏 の講説によって我が国に知られるものとなった経 典である。 言うまでもなく, 聖徳太子は我が国仏 教思想の源流に位置する思想家であり, またこの 講説が我が国の仏教講説の最初とされることから, 勝鬘経 は我が国の仏教思想の原点に影響を与 えた極めて重要な経典であると見做してよいもの である。

勝鬘経 の中心的主題は 「菩薩」 である。 「菩 薩」 はこの経典の主題であるのみならず, 聖徳太 子の思想を貫く根本的主題でもある。 即ち, この 経典の 「菩薩」 は我が国仏教思想の根源にかかわ る観念なのである。

さて, 勝鬘経 の 「菩薩」 は仏教思想史にお いて極めて特異な観念として知られている(1)。 そ のこともあって, この経典の 「菩薩」 に関しては, 仏教学の立場から多くの研究がなされてはいる。

しかし, 論者はその全てに眼を通したわけではな いが, それらの研究は 「菩薩」 の外延的規定にの み終始し, その本質に関わる内包的規定をめぐる 論述は見受けられないように思われる。 本稿は,

勝鬘経 の 「菩薩」 について, 倫理思想史の立 場に立脚し, その本質的意味の考察の一部を行う ものである(2)

なお考察の最終目的は, 我が国最初期における

「菩薩」 認識とその展開の検討であるが, 本稿は, 最初期に影響を与えた 「菩薩」 の原型についての 基礎的研究を試みるものである。 また本稿は原型 への考察の一部であり, 主に 勝鬘経 の前半部 を中心に, 「菩薩」 の内容となる 「誓願」 の営み と, 「菩薩」 の本質の一端を形成している根源煩 悩及び両者の関わりについて論じるものであり, 後半部で展開されている 「菩薩」 の本質の他の側 面である 「如来蔵」 の検討及び根源煩悩と 「如来 蔵」 との関わりの検討は, 他稿で行う予定である。

1. 「菩薩」 の内容 「誓願」 の営み

まずテキストの展開に即しながら 「菩薩」 観念 の内容を押さえておくことにする。

勝鬘経 は次の物語から始まる。

釈迦仏が舎衛国の祇園精舎に止住していた折, 波斯匿王と末利妃は, 娘である阿踰闍国王の妃, 勝鬘夫人に宛てて仏の絶対知を讃えた手紙を女官 に託した(3)

女官が勝鬘夫人に手紙を手渡したところ, それ を読むやいなや, 夫人はすぐさま釈迦仏に帰依し, その教示を願う偈を唱えた。

(3)

釈迦仏は夫人の願いに応じ瞬時に夫人のもとに 来臨し, 夫人は仏の絶対知を讃嘆した。

讃嘆を受けて, 釈迦仏は,

「いまよりのち, 二万無数劫ののち, そなたは 普賢という名の, 正しく完全なさとりをひらい た世の尊敬をうけるに値する如来・世尊となる であろう」(4)

と, 夫人が 「二万無数劫」(5)という途方もなく遥 かな未来に 「普賢」 という名の仏になるという予 言 (受記) を授けた。

その予言にあたり, 釈迦仏は,

「そなたが真実の徳性によって如来を讃嘆する という善行を積み重ねた結果, この善根によっ て, 夫人よ, そなたは無量・無数の劫にわたっ て, 神々や人間の王者たる地位の成就を享受す るであろう。 そして, いつの世にも, 私に会わ ないときとてもなく, 私に対面すれば, 今と同 様の讃嘆のことばで, 私を讃嘆するだろう。

(そのうえ) 無量・無数の仏・世尊たちをも供 養するであろう」

と, その絶対知において, 夫人がこの現世のみな らず, 過去世においても, また来世においても, 仏の絶対知を讃嘆するという善行を積み重ねてい る在りようを顕わにした。 現世の現今における絶 対知への讃嘆は, そのような過去世から来世に到 る善行の積み重ねの一つの姿であり, 夫人が遠い 将来において仏になるのは, そのような果てしな い時間の経過の中で積み重ねられる善行によるも のであることを示し出したのである。

さて, ここで注目すべき点は, 勝鬘夫人の眼前 への釈迦仏の来臨をもって始まるこの経典の 「菩

薩」 の物語は, 夫人の願いにより始まっていると いう点である。 絶対知を讃嘆する手紙に触発され て, 夫人は釈迦仏との出逢いを夢想し, その夢想 の中で釈迦仏が絶対知を開示しているのである。

夫人は仏教に関してはごく未熟な一人の世俗世 界の女性である。 世俗世界においては高貴な身分 ではあるものの, 仏教に関してはごく未熟な, そ の点でいえば凡常な一人の人間にすぎない。 そう した凡常な人間の夢想が絶対知の開示をもたらす というところに, この経典の 「菩薩」 を巡る物語 の特有の性格が存している, とひとまず言ってお くことにする。

次に, 釈迦仏の予言を受けて, 夫人は釈迦仏に 対して, 大乗菩薩戒 (十大受) の厳守を誓い, さ らに三つの 「菩薩」 の 「誓願」 を立てた。 この三 つの 「誓願」 により, 夫人は 「菩薩」 としての歩 みを始めることになる。

大乗菩薩戒とは, 心に悪心悪事が生ずること を戒める 「摂律儀戒」, 他の人々を救いとる利 他行のために自利の心を戒める 「摂衆生戒」, 仏の絶対知の教説を身につけることを忘れること を戒める 「摂善法戒」 からなり, 各々 「摂律儀戒」

は五つ, 「摂衆生戒」 は四つ, 「摂善法戒」 は一つ の細目により形成せられている(6)

三つの 「誓願」 は, 絶対知の教説を身につけ ること, 絶対知の教説を人々に説くこと, 絶 対知の教説を説くとき, 身命を顧みず絶対知の教 説を護持すること, の三つからなるものである。

「誓願」 は, 自ら成し遂げるべく誓う願いであ る。 大乗菩薩戒が 「菩薩」 の在り方への禁止事項 を主題とした消極的かつ一般的規定であるのに対 して, 「誓願」 はこの禁止の逆を捉え返したもの であり, 「菩薩」 の在り方の積極的かつ具体的規 定であり, その根本要件となるものである。

また 「誓願」 は, 阿弥陀仏が法蔵菩薩であった

(4)

時に立てた四十八願, 薬師如来が菩薩の時に立て た十二願, 普賢菩薩の十願など, 「菩薩」 の個性 的特徴によってその数や内容が異なっており, 夫 人の三つの 「誓願」 には, 夫人の 「菩薩」 として の特徴が表わされている。

三つの 「誓願」 には, 夫人が 「菩薩」 として果 たすべき行いが示されている。 その行いとは, 身 命を顧みず, 教説を介して絶対知を辿り, 絶対知 を人々に説き明かし導くことだと言い換えること が出来る。 夫人は, 三つの 「誓願」 を釈迦仏に誓 い願うことにより, 「菩薩」 としての在りようを自 ら引き受け, 「菩薩」 として歩み始めたのである。

この 「誓願」 に対して釈迦仏は,

「夫人よ, 菩薩のガンガー河の砂の数ほどもあ る (無数の) 願もみな, この (そなたの起こし た) 三大願のなかにまとめられ, 含められ, い れられる」

と, その 「誓願」 を受け入れ, 夫人がそれによっ て 「菩薩」 の歩みを始めたことを証したのである。

次に, 夫人は 「誓願」 を貫く骨子としての 「摂 受正法」 (絶対知の教説を身につけることの意義 と功徳) について, 釈迦仏の前で開陳する。

開陳に先立ち, 今なした現今の 「誓願」 によっ て初めて夫人が 「菩薩」 としての歩みを始めたの ではないことが釈迦仏によって明らかにされる。

仏は, 夫人が過去世から来世にわたって, 諸仏た ちの絶対知を辿りながら 「菩薩」 としてその 「誓 願」 の内容を実行し続けていることを示し出す。

「夫人よ, そなたの説く教えの意味を理解する 衆生はごくまれである。 (それが理解できるの は) 昔から多くのほとけに (仕えて) 善根を植 えつけたものたち (だけ) である。 夫人よ, そ

なたが真実の教えを身につけることを説いたと 同じように, 過去, 未来, 現在の如来たちも, 真実の教えを身につけることを説いたし, これ からも説くであろうし, 現に (他の仏国土にお いて) 説いてもいる。 私もまた, 現に [略] 教 えをいろいろに説いてきた」

「誓願」 は現今の一回的な思念に留るものでは ない。 幾世にもわたって継続されるべき実行の営 みを介することで, その内容となる在りようが証 示されるのである。

夫人は自らの実行の営みの継続を了知する。 つ まり, 夫人における釈迦仏の前での 「菩薩」 とし ての 「誓願」 は, 自らである過去世から来世にわ たる 「菩薩」 の 「誓願」 の営みを釈迦仏の前で再 認・予知する形で認識されるのである。

さて, 「摂受正法」 に関する夫人の説示におい て特徴となっている点は, 「菩薩」 において, 絶 対知と絶対知の教説と絶対知を身につけることと 絶対知を身につける者とが同じなのだ, とされて いる点である。

「世尊よ, 真実の教えを身につけるということ は, ほとけの量り知れないほどの徳性を完成す ることです。 世尊よ, 真実の教えを身につける とは, 八万四千の法門をすべて包摂することで す」

「世尊よ, 真実の教えそのもの (正法) と真実 の教えをしっかりと身につけることとは, 別々 のことではありません」

「真実の教えを身につけることと, 真実の教え を身につけたものとは, 別々ではありません」

以上を換言すれば, 絶対知は教説という在り方 に即してのみ存立し, かつ教説を受け入れる行為

(5)

に即してのみ開示される, ということであり, 且 つその行為においてのみ 「菩薩」 の存立が証され る, ということである。 つまり, 絶対知は 「菩薩」

の現存において, 具体的には, 「菩薩」 としての 夫人の現存においてのみ, 教説を透して開示され それとして辿られるのであり, 夫人の 「菩薩」 と しての現存はまたその絶対知の開示と辿りにおい てのみ存立するということになるのである。

このことを 「誓願」 をふまえて言えば, 絶対知 (教説) への辿りは身命を賭した他己への説示と ともにあるのであるから, 絶対知は夫人の現存の

「菩薩」 としての 「誓願」 の営み (乃至は営みを なす現存) において開示され辿られ, 営みは絶対 知によって証されるということになる。

なお, 絶対知が現存においてのみ開示されると いう点について言えば, その現存以外のところに 絶対知は開示されえないということである。 その 限り, この経典における絶対知の存立及びその在 りようは, 夫人の 「菩薩」 としての現存の視点に 立脚して措定されているということになるのであ る。 つまり, この経典の絶対知にかかわる言説は, すべて 「菩薩」 の現存の視点から表わされている のであり, この経典の仏を巡る物語も, その本質 においては, 「菩薩」 を主題とした物語の一つの 内実を形成するものである, と言うことが出来る。

また夫人の現存が絶対知によって証される点に 関して言えば, 絶対知は現存においてその存立が 措定されるが, その措定された絶対知への捉え返 しにおいて現存の在りようが, 謂わば自己反照的 に措定され認識されているということになる。 以 上の点は暫く措く。

さて, 次に 「菩薩」 としての現存の営みは六波 羅蜜の行を巡ってより具体的に表わされる。 六波 羅蜜は, 人々に心身までも抛って施しをする

「布施」, 戒を受け守る 「持戒」, 非難や攻撃

されても怒らない 「忍耐」, 心ひるまず怠ける ことのない努力 「精進」, 心の安定に努める

「禅」, 絶対知の教説や絶対知の教説を巡る学問 などを理解する 「智慧」, の六つの実践行である。

夫人はこの六つの行に関して, はそのまま自ら 行うとするのであるが, からについては, 自 ら直接行うということを主題的に説いているので はなく, それらの実践行を行う他の人々の処に居 合わせ, 人々を見守り, 人々におけるそれらの行 の完成を導き, 人々を絶対知に到達せしめること を主題として表わしている。

「[] 施しによって成熟させるにふさわしい衆 生たちがあれば [略] 全身さえをなげうって, 彼らを成熟させます」

「[〜] [六波羅蜜の各々を実践する人々と しての] 彼らの心を守り, 成熟させます」

なお〜の言は, 実践行の具体的内容に切り 結ばれる在り方として, の 「布施」 を具体的に 示したものと見做してよい。

夫人における 「菩薩」 としての現存の営みは, 絶対知を辿り身命を賭して説示し導くことである。

その営みは, 自らが実践行をなし, 直接的に絶対 知に到達する営みなのではない。 自らではなく他 の人々を絶対知に到達 (「成熟」) させる営みなの であり, その具体的手立てが六波羅蜜を巡る 「布 施」 として示されているのである。

この点を踏まえて言えば, 過去世から来世にわ たる夫人の 「菩薩」 の 「誓願」 の営みは, 過去世 から来世にわたって繰り返し絶対知を辿り示しな がら人々に居合わせ, 身命を賭して人々を絶対知 へと到達せしめ続ける営みということになるので あり, 釈迦仏の言う絶対知への讃嘆としての善行 とは内容上この営みに他ならないのである。

(6)

「菩薩」 の営みが果てしない時間の中で繰り返 されるとは, 言い換えれば, 救済されるべき人々 の絶対数の無量さを, さしあたり示している。 営 みは, この無量の数の人々を遍く絶対知に到達さ せるまで繰り返されるのである。

なおこの点は, 仏教における諸菩薩の 「誓願」

に共通する在り方として表わされる 「衆生無辺誓 願度」 に対応するものである(7)

次に, 「菩薩」 としての現存の営みにおける身 命を賭す在りようが, 身体・生命・財産を投げ捨 てる在りようとして示され, そのことにより 「菩 薩」 自身が絶対知に到達するという予言が仏によっ て与えられることが表わされる。

「(身体, 生命, 財産の) 三種をなげう [略] [て]

ば, すべてのほとけは, (その人に対し, さと りの) 予言をお与えになるのです」

「菩薩」 は, 果てしない時間の中で自らの 「誓 願」 の営みを繰り返すのだが, その繰り返しの度 ごとに, 居合わせた人々を絶対知に到達させるた めに, 身体・生命・財産という自らの現世の生存 に関わる一切を投げ捨てる。 ただ, 投げ捨てるこ とが, 居合わせた人々の全てを直ちに絶対知に到 達させる結果をもたらすとは限らないであろう。

またその人々がたとえ絶対知に到達したとしても, 居合わせなかった人々は数限りなくいるのであり, 営みはその人々たち全てに向けて繰り返されねば ならないはずである。 「菩薩」 は一切を投げ捨て ることによって, 現世での生を終えて死する。 死 して再び現世の生存として生まれ変わり, その現 存において人々を絶対知に到達させるべく営みを 繰り返し, 再び生存に関わる一切を投げ捨てるこ とを繰り返すのである(8)

その現世の生存に関わる一切を投げ捨てる時,

「菩薩」 は仏の予言を介して, 自らが絶対知に到 達する在りようを垣間見るのである。 投げ捨てる ことを繰り返すたびに幾度も垣間見るのである。

垣間見られた絶対知への到達が直接かなうのは, もはや再び現世の生存として生まれ変わらなくと もよい時, 即ち自ら居合わすべき人々が既に過現 未の三世に一人も無く, 一切の無量の数の人々が 絶対知に到達した後の時である。 「菩薩」 は無量 の数の人々を遍く絶対知に到達せしめることによっ て, 初めて自らが絶対知に到達する。 「菩薩」 は 一切を投げ捨てる時, そのような自らの到達の実 現を, 居合わせた人々の到達した姿が描かれる夢 想の遥か彼方に透かし見るのである。

2. 「菩薩」 と根源煩悩

テキストは, 前章で見た 「菩薩」 の内容として の 「誓願」 の営みに関する夫人の説示 (乃至は仏 による証) に続いて, 「菩薩」 の本質に関する夫 人の説示が展開されており, この経典のテーマの 核心が表わされている。 その展開においては, ま ず 「菩薩」 と煩悩とのかかわりが主題的に語られ, 特に煩悩に関しては, 「無明住地」 という根源煩 悩を意味する観念が使われており, 「菩薩」 表現 に関する独特の視座が現れている(9)

まず夫人は, 釈迦仏の前で, 二種類の生死につ いて説示する。

「世尊よ, (世に言う) 死には二種あります。 二 種とは何かといえば, 分断死 (すなわち, 生存 の一つの切れ目としての死) と不思議な変化と しての死です。 世尊よ, このうち, 分断死とい うのは, これは輪廻の世界に縛られている (結 生) 衆生たち一般の (もつ現象, つまり, 一つ の生存の切れ目) です。 世尊よ, 不思議な変化

(7)

として死というのは, 阿羅漢や独覚たち, およ び自在力を得た 「菩薩」 大士たちなど, 意志の 力で生まれた身体 (意生身) をもっている (聖 者たちの) もので, (それは, 彼らが) 菩提の 座にのぼるまで (は免れえない死) です。 世尊 よ, この二つの死のうち, (阿羅漢などは) 分 段死に関して, 「わが生は尽きた」 (我生已尽) と思って, 阿羅漢や独覚としての認識が起こる」

一つは 「分段生死」 (テキストでは 「分断死」

であるが, 輪廻において生と死は交互に転ずるも のであるから 「分段生死」 とする)(10)と言われる ものであり, 生存する者たちの輪廻に縛られた在 り方での生死である。 輪廻に縛られた生存とは, 煩悩に基づく業の果報として, 過現来の三世にわ たる時空の中に生まれ変わり死に変わりする人々 たちのことであり, 凡常な者や小乗の下位の聖者 などがこれにあたる。

「一般の凡夫たちや, 神々の世界や人間界に (死後の) 果報を得たものたちのすべてや, (阿羅漢の位に達する以前の) 七つの修行段階 にある聖者たち (七種有学) がなお [煩悩を]

断ち切れないで, そのために輪廻の世界に縛ら れている (結生相続)」

「輪廻生存は, (真実ならざるものを真実として) 執着すること (取) を縁 [間接的条件] として, (世俗的な) 汚れを伴う (身・口・意による三 種の) 活動 (有漏業) を因 [直接的原因] とし て発生します」

それらの人々は身に大小があり, 寿命に長短が あるように, 「分分段段」 に即ち種々様々に生ま れ死んでゆく者たちである。

もう一つは 「不思議変易生死」 (テキストでは

「不思議な変化としての死」 つまり 「不思議変易 死」 とあるが, その死も生に転ずるから 「不思議 変易生死」 とする)(11)と呼ばれる生死である。 こ れは輪廻への繋縛を脱した 「菩薩」 (および 「阿 羅漢」 「独覚」 といった小乗の上位の聖者たち) の生死である。 「菩薩」 は自らの意志の力におい て身体を生じさせ (「意生身」), 過現未の三世と して顕現する時空とは異質な時空において生死を 繰り返しながら, 三世にわたって輪廻し続ける人々 に居合わせ, 「菩薩」 としての営みを繰り返し続 ける。 「菩薩」 は絶対知 (「菩提」) を獲得するま で, この 「不思議変易生死」 を免れない。

なお, 小乗の上位の聖者たちは, 煩悩を断ち切 ることによって絶対知に到達したと自ら説くもの だが (「我生已尽」 など)(12), それは 「分段生死」

を脱しただけであって, 「不思議変易生死」 を免 れたのではない, と夫人は説く (「菩薩」 との差 異に関する点は他稿にゆずる)。

さて 「菩薩」 のこの 「不思議変易生死」 は何に よって立ち起こってくるのか。 「分段生死」 は輪 廻の生存のそれとして, 煩悩によって引き起こさ れる。 「不思議変易生死」 もまた煩悩によって引 き起こされるとされるのであるが, その場合の煩 悩は, 輪廻の生存を引き起こす煩悩の奥底にある 根源煩悩としての 「無明住地」 によるものである, とされるのである。

そこで, 煩悩にはどのようなものがあり, また 根源煩悩とは如何なるものであるのか。

まず二種類の煩悩がある。

「煩悩には二種類あります。 一つは潜在的状態 の煩悩 (住地煩悩), 他は発現した状態の煩悩 (纏煩悩) であります」

「潜在的な煩悩にもとづいて, すべての発現し た状態の煩悩が発生します」

(8)

一つは 「住地煩悩」 という潜在的煩悩であり, もう一つは 「纏煩悩」 という顕在的煩悩である。

「纏煩悩」 は潜在的な 「住地煩悩」 が発現した状 態のものである。

「住地煩悩」 には四種類ある。 一方的偏見に かかわる 「見一処住地」, 欲望にかかわる執着 のなかにある 「欲愛住地」, 身体にかかわる執 着の中にある 「色愛住地」, 輪廻の生存にかか わる執着の中にある 「有愛住地」 である (この

「有愛住地」 が輪廻の生存としての人々の生存や 死を引き起こす煩悩である)。

この四つの潜在的煩悩に基づいて, 全ての顕在 的煩悩としての 「纏煩悩」 が発生する。

「纏煩悩」 は, 瞬間性のものであり, 各瞬間の 心の状態に対応する(13)

以上の二種類の煩悩に対して, より根源的な煩 悩がある。 それが 「無明住地」 である。

根源煩悩である 「無明住地」 は前の二種類の煩 悩と異なり,

「潜在的無知 (無明住地) (という, より根元的 な潜在的煩悩があります。 これ) は, いつはじ まったとも知れない昔から (無始時来) 存在す るもので, 心のはたらきと対応 (して各瞬間ご とに生滅) するものではありません」

とされるように, 「より根元的」 であり, 瞬間的 な心の状態に対応して生滅するものではなく, 無 始 (無始時来) であり, 消滅することがない点で 無終である。

また根源煩悩は, 潜在的煩悩とは比較を絶した 力を持っており, 潜在的煩悩と共同して働くとと もに, 顕在的煩悩と潜在的煩悩とをともに発生さ せる基底的存在である。

「四種の潜在的煩悩のもっている大きな力とい うのは, すべての付随的煩悩 [顕在的煩悩] の 基礎となることでありますが, この潜在的無知 の大力 (に比べると) 計算も, 分割も計量も, 比較を絶し, たとえようもありません」

「潜在的無知は [略] 四種の潜在的煩悩のすべ てを凌駕して, ガンガー河の砂の数よりも多い 付随的煩悩の基礎となり, また四種の (基本的) 煩悩 [潜在的煩悩] とも, 昔から共存しており ます」

「すべての (煩悩の) 根元, よりどころは, す なわちこの潜在的無知であります」

「たとえば, どんな種類の種子でも, 草木・薬 草・森林でも, すべて大地に依存し, 大地に根 をはって, 生長・発育します。 [略] それと同 様に [略] (煩悩) も, すべて潜在的無知に依 存し, 潜在的無知に根を下ろして, 成長・発展 します」

さて, 「不思議変易生死」 に戻れば, まさにそ れは, このような根源煩悩によって引き起こされ るのである。

「菩薩」 はすでに潜在的煩悩を根絶させており, 輪廻の生存ではないが, しかし, 根源煩悩は滅却 させることが出来ず, 「不思議変易生死」 を免れ ることは出来ない。

「阿羅漢や独覚たちは, (さきに述べた) 四種の 潜在的煩悩はすでに断ち切っておりますが, ま だ汚れを完全に絶滅する (漏尽) という点で, 自由自在な力を獲得しておらず, 実現してもい ない [略]・阿羅漢や独覚たち, および, (この 生涯が終われば来世はほとけという) [略] 菩 薩たちでさえ, 潜在的無知に蔽われ [略] 囲ま れて, 迷っている」

(9)

「潜在的無知の力によって, (超世俗的な) 汚れ を伴わない活動 (無漏業) から, (阿羅漢, 独 覚, 並びに自在力を得た菩薩という) 三種の意 志の力で生まれた身体が発生します。 つまり, 世尊よ, 潜在的無知というものは, これら (阿 羅漢などの) 三種の位において, 三種の意志で 生まれた身体を生じ, 超世俗的な汚れを伴わな い活動が発現するためのよりどころなのです」

「不思議変易生死」 から解き放たれることが出 来るのは, 根源煩悩をその絶対知によって滅却さ せた仏だけである。

「潜在的無知は [略] ただ, 完全な解脱を得た 位にあるもの, つまり, ほとけの位においては じめて捨てさりうるもの, 如来のさとりの知恵 によってのみ打ち破りうるものです」

では, 「不思議変易生死」 という在り方で 「菩 薩」 の現存を引き起こす, この根源煩悩とは如何 なる内実をもつ存在なのであろうか。

勝鬘経 の思想を含めた如来蔵思想の研究で 知られる高崎直道氏は, 「無明住地」 について,

勝鬘経 の影響のもとに成立した 宝性論 に 触れながら, 次のように論じている。

「 勝鬘経 は明確に説かないが, 宝性論 が 強調するところでは, 菩薩は大悲のために, 敢 えて無上菩提に入らない。 そして, いわば自由 意志において [略]善根相応の煩悩

を身につ けて, 三界にとどまる。 菩薩の意生身の, 阿羅 漢のそれとの大きな違いであるが, その〈善根 相応の煩悩

生起のためにも,無明住地 は存 在しなければならないもののごとくである」(14)

なお, 宝性論 における 「無明住地」 そのも のの所説については,

「 宝性論 は [略] 無明住地〉に関しても, 殆ど何ら独自の説を生み出していない」(15)

とされる。

なおまた, 「善根相応の煩悩

」 に関する 宝 性論 の所説について, 高崎氏は, 宝性論 の 次の頌を引き,

「かの (心の) 本性を如実に理解して 生起と死滅, 病や老いを離脱した智者たちは その (生等の) 原因をもたないけれども 世間への悲心が起こる故に生等の過患を身に受 ける」(16)

この頌で始まる 「第九不変異義」 章に関して,

「このテキストは 海慧菩薩所問経 の 「善根 相応の煩悩」 をもって, 故意に輪廻に身を投ず る菩薩の説や [略] 宝髻菩薩所問経 に, 菩 薩が第六現前地にあって般若による離欲の実現 を前にして, 残された衆生への悲心の故に再び 世間に引き返す姿を [略] 説かれていることを 教えている。 [略] これらは, いわゆる自未得 度先度他の菩薩のあり方で, 無住処涅槃と後に よばれるものの原型といえよう」(17)

と述べている。

以上の高崎氏の所説を踏まえて言えば, 根源煩 悩とは, 輪廻し続ける他の人々を絶対知に到達さ せるために自らすすんで絶対知への到達を拒否し,

「不思議変易生死」 において輪廻の現存として生 まれ他に居合わせる, そうした 「菩薩」 としての

(10)

在りようを貫き, 「誓願」 実行の営みにおいて

「発現」 される, 他のために自らすすんでなすと いう意志決定を立ち起こさせるものである, とひ とまず言うことが出来る。

ただ高崎氏の所説によれば, 宝性論 におい ては, この意志決定は, 自由意志においてなされ るとされるが, 勝鬘経 に見るかぎり, 自由意 志とは言えないように思われる。 というのは, 自 由意志ならば, 根源煩悩に基づいて生起する意志 決定自身を完全に拒否する意志決定も, 少なくと も論理的にはありうるからであり, その場合 「菩 薩」 は根源煩悩の働きかけに対して自由に処しう る立場, つまり根源煩悩に対して超越した立場に 立っていることになるが, 勝鬘経 によるかぎ り, 「菩薩」 は根源煩悩に 「蔽われ」 「囲まれ」

「迷っている」 のであり, 超越した立場に立って いるものではない, と見做せるからである。

さてそうしてみると, 根源煩悩は 「菩薩」 の意 志決定を他の人々のためになすべきそれとして限 定してくる, 謂わば至上命令を与えて来るものだ ということになる。

そこで, ではその至上命令を与える根源煩悩と は一体何であろうか。 またその根源煩悩に突き動 かされる 「菩薩」 とは如何なる存在なのか(18)

「菩薩」 の現存の営みは, 他の一切の人々を絶 対知に到達させるまで続けられるのであり, その 営みが終結することをもって自己の絶対知への到 達が可能となる。 言い換えれば, 「菩薩」 の営み は他己の救済を介した自己の救済である。 意志決 定においては他己の救済が最優先されるが, 自己 の救済が撥無されているわけではない。 もしそう なら, 絶対知に到達するという仏の予言そのもの が否定されねばならなくなるからである。 自己の 救済は直接的ではなく他己を介して間接的に目指 されている。 その限り, 「菩薩」 の営みは, 究極

的には自他両者の救済へと収斂する。 さてその究 極の在りようにおいて, 他の一切の人々が絶対知 に到達し, 自己もまた到達するということは, 他 己と自己とが絶対知のその絶対的在りようの中で 絶対的に溶解する, ということになる。 言い換え れば, 絶対知において, 自他の差異が絶対的に解 消されるということになる。

さて 「菩薩」 の営みが究極的には以上の自他両 者の救済であるとすれば, 営みそのものは, 内容 上この自他の差異の絶対的解消を目指したものと いうことになる。 だとすれば, 「菩薩」 の営みを なさしめる意志を, それとしてかくなさしめるべ く限定的に働かしめる根源煩悩は, この自他の差 異の絶対的解消を求めてやまない, 謂わば絶対的 な願いということになると言えるであろう。 自他 における存在の孤絶の絶対的解消への願いである。

この絶対的解消を果たすために果てしない長さの 時間を要するのであるから, 逆に言えば, 自他の 間には越え難い絶対的な深淵が存していると見做 されている, と言うことが出来る。 なお, 深淵の 深さと拡がりそのものは, 救済されるべき他の人々 の無数なる量的全体としても外在化され得るだろ うが, 質的には, 個としての自他の差異そのもの, 溶解されざるものとして屹立する自己の存在と他 己の存在各々の, 他からの差異の在りようそのも のと見做されている, と考えてよいだろう。 自己 に立脚すれば, 他己の存在そのものにおける自己 との通約し難さ, 見え難い暗さである。 根源煩悩 は, その暗い絶対的深淵を飛び越え, 他との絶対 的融合を果たそうとする切なる絶対的願望の力そ のものなのである (裏返せば, 「誓願」 とはその 力の対自化された在りようと言える)。

「菩薩」 は絶対的深淵をそれとして明瞭に捉え るとともに, 深淵を前にして絶対的願望につき動 かされた者である。 そこに 「菩薩」 の本質の一端

(11)

があるのである。 絶対的願望の働きかけは至上命 令であり, 回避し得ない強さをもつ。 強さの内実 としてのその力の大きさと無始無終なる在りよう は, 絶対的深淵の底知れぬ深さと拡がりそのもの に淵源していよう。 その働きによって生起する意 志がそれとして否定され得ない圧倒的な強度を持 つのも, 絶対的深淵が事柄として否定され得ない と明瞭に捉えられていることと一般であろう。

「菩薩」 はこの絶対的願望の力に突き動かされ るからこそ, 自らの生存に関わる身体・生命・財 産をも投げ捨て得るのである。 身体・生命・財産 への執着は, 絶対的深淵への明瞭な認識を遮蔽し た処にその基盤を持つであろうからである。

その基盤は, 顕在・潜在の諸煩悩であると言え よう。 なお, それら諸煩悩自体は絶対的願望その ものに由来する。 謂わば自他の絶対的融合を究極 の意味内容として有する絶対知の在りよう (価値 的に言えば絶対的よさ) への絶対的願望が基底と なり, 身体・生命・財産などの現世の事物や事象 (相対的よさ) への執着が出来するのである (こ の点に関する認識論的検討は措く)。 さて絶対的 願望はあるべき明瞭な認識及び絶対知への志向を 遮蔽すべく諸煩悩による執着を介して働き, また 輪廻する人々の生存を生み出している。 絶対的願 望に即すれば, 絶対的願望の働きを自身が妨げる ように働くのである。 この妨げる働きは 「菩薩」

の現存における明瞭な認識を介して否定され, そ の謂わば本来の在りようを取り戻す。 踏み込んで 言えば, 本来の在りようは自ら非本来の在りよう へと否定的に転じるのだが, その非本来の在りよ うを 「菩薩」 の明瞭な認識を介して自ら否定し, 本来の在りようたる自身へと還帰するのである。

「菩薩」 は自らの明瞭な認識において, 還帰した 本来の在りように接し, 突き動かされ, 非本来の 在りようを否定するに到るのである。

絶対的願望は, 他の諸煩悩が直接的に根絶され るべきものとされているのに対し, 直接的に根絶 されるべきものではなく, それ自身の充足がはか られるべきものである。 絶対的願望は, その絶対 的充足が完了した時点において, 初めてその存在 の消滅に到るのである。

なお, 輪廻する人々においても絶対的願望は諸 煩悩の根源として働いている点を言い換えれば, 人々は現世の事物や事象に執着しながらも, 暗々 裏に 「菩薩」 の本質を背負い, 謂わば可能的に深 淵への認識をなし絶対知を志向し, また 「不思議 変易生死」 をなすべき存在でもある。 だが, 人々 は, 直接はそうした認識と志向を起こすことはな い。 認識と志向が現世の事物や事象への執着に置 き換わっている, つまり他己の存在そのものへの あるべき認識と志向が現世の事物や事象への執着 に転じているのである。 この転換において, 人々 は自らの 「菩薩」 としての可能的在りようの現実 化を遮蔽しているわけなのである。

さて 「菩薩」 は絶対的願望に 「蔽われ」 「囲ま れ」 「迷っている」。 「蔽われ」 「囲まれ」 ていると は, 絶対的願望の働きから離脱出来ず突き動かさ れている様である。 「迷」 いは, 絶対的深淵の飛 び越え難さへの認識, つまり意志決定に基づいた 絶対知へ到達しようとする営みの限界の経験の認 識, 細かく言えば, 前世の自らの死に際するその 限界が呈された不十全な経験の思い出に由来する。

だが限界が呈されたからこそ深淵は再び現れるの であり, その現前において 「迷」 いは捨てられ, 絶対的願望に尚また突き動かされるのである。

死に際する営みの限界の経験において, 絶対的 願望の働きは回折し, 絶対的深淵の向こう側にお いて夢想へと転じる。 夢想は絶対的深淵を飛び越 えることの絶対的不可能性への認識を介して析出 された絶対的夢想である。 絶対的不可能性への認

(12)

識は死の瞬間の絶対的迫りを感受して生成され, 絶対的夢想は 「菩薩」 において辿られる絶対知に おける絶対的融合の在りように彩られる。

死に際する限界の経験を介して現出する絶対知 の絶対的夢想は, 他己において, 絶対的深淵を垣 間見させるとともに, 絶対知の在りようを垣間見 させる。 絶対的深淵と絶対知の在りようは, 「菩 薩」 の思い出を随伴し, 他己において絶対的願望 を触発し呼び覚ます。 その時, 思い出としての

「菩薩」 の限界を呈する不十全な経験が, 他己に おいて, 自己とともに絶対知に到達し, 自己との 絶対的融合へ向かおうとする切なる利他の営みと しての意味を現わして来るのである (この限り, この経典の利他の在りようとは, 自らすすんで到 達しないのではなく, 自らが他とともに到達しよ うとして到達し得ない事態が他において捉えられ, その事態を介して自らの絶対的願望が他に認識さ れるという在り方で, 他によって証されるものだ と言えよう。 またそのような他による証への対他 的認識において, 自らに認識されるものだとも言 えよう)。 他己は 「菩薩」 の思い出を介し, 絶対 知の在りようを辿ろうとし, 「菩薩」 としての営 みを始めようとする。 自ら背負った可能的在りよ うが現実化し始め, 他己は 「菩薩」 の相似形とし て 「菩薩」 へと一歩近づくのである。 そのことは, 自他の絶対的深淵が一歩埋められつつあり, 自他 が絶対知における絶対的融合へと一歩近づきつつ あるということを意味するのである。

勝鬘夫人は, 自らの夢想の中で絶対知を辿り, そこからの反照において現存の内奥にある絶対的 願望を捉え, 絶対的夢想を捉え返す。 捉え返しと 辿りとの自己反照的な往還の反芻の中で, 自らが

「菩薩」 として, 顕在的時空におけるその凡常な る在りようを脱し, 他の人々の 「菩薩」 の相似形 としての在りようとともに, 絶対知の絶対的融合

へと漸近しているのであり, 「不思議変易生死」

としての死と再生を繰り返しながらその 「誓願」

の営みの不十全な経験はより十全な経験へと転化 し続けているのである。

結 語

「菩薩」 を主題とした 勝鬘経 の, その 「菩 薩」 の内容と本質の一端とをテキストの展開に即 して考察したのだが, 注目すべき点は根源煩悩の 存在である。 本稿においては, 「菩薩」 の自他の 差異の認識との関わりで述べたのだが, 次に問う べきは, その認識と根源煩悩との相互の働きかけ の内実である。 勝鬘経 は, 前半での根源煩悩 の説示に続いて, 後半では 「菩薩」 の本質のもう 一つの側面である 「如来蔵」 に関する説示が展開 される。 「如来蔵」 とは, 絶対知が根源煩悩に蔵 され蔽われている在りようを表わすものである。

「如来蔵」 としての絶対知と根源煩悩とは相互に 働きかけあっている。 そこで, この相互の働きか けの内実を踏まえて, 差異の認識と 「如来蔵」 と しての絶対知の認識との関わりをその認識という 点に即して明らかにした上で, 差異の認識と根源 煩悩との相互の働きかけの内実に立ち戻る必要が ある。 以上の問題については〈序〉で触れた他稿 で論ずる予定である。 それとともに, 我が国最初 期の 「菩薩」 の思想についても, 他稿の考察を踏 まえた上で論ずる予定である。

(1) 仏教思想史におけるこの特異性については, 高 崎直道 「唯心と如来蔵」 如来蔵思想Ⅰ 法蔵館 (1988.12.20) p.117144, 同 「如来蔵思想におけ る悟りと救い」 同書, p.207218, 同 「客塵煩悩―

如来蔵思想の煩悩論」 同書, p.212256などで指 摘されている。

(2) 倫理思想史とは, 自己の現存の意味への問いや

(13)

拠り所の何たるかへの希求を根本に有する人々の 行いや表現を, 対自的に捉え返す学問であり, 人 間存在の何たるかを考察する倫理学の枢要に位置 する学問である。 この点については, 佐藤正英 日本倫理思想史 東大出版会 (2003.3.11) の

「序論」 に詳しく論じられている。

(3) 仏の絶対知とは, 世界や自己の真相への絶対的 認識である。 この認識においては, 認識主体と認 識対象とが無限に交換される。 仏教においては, 釈迦仏は菩提樹下の禅定よりこの絶対知を獲得し たとされる。 なお, 仏の絶対知の在りようについ ては, 拙書 西行の思想―自意識と絶対知 専大 出版局 (2007.11.30) で論じたので, 参照された い。

(4) 高崎直道訳 勝鬘経 大乗仏典第十二巻 「如来 蔵系経典」, 中央公論社 (1980.10.20), p.67。 以下本稿における 勝鬘経 の引用はすべて同書 による。 註による頁数の記載は省略した。 なお, 本稿における引用文中の( )内は, 訳者・著者に よるものである。 論者による場合は, 引用文中に [ ]の記号を用いた。

(5) 「劫」 とは印哲や仏教で使用する極めて長い時 間の単位である。 「一劫」 は, 一つの宇宙が誕生 し消滅するまでの期間とされ, 太陽年に換算すれ ば, 43億2,000万年と言われる。

(6) 「摂律儀戒」 は, この戒を逸脱する心, 指 導者への不敬, 他己への怒り, 他己への羨望, 吝嗇, 以上の心を起こさない戒めの誓いである。

「摂衆生戒」 は, 財産を自己の享楽のために蓄 えず, 他己のために使う, 自己の利益のために 他己を引き付けず, 他己を暖かく包容する, 苦 悩する他己を見捨てることをしない, 悪事悪人 に無関心を示さず, 折伏し救うべき他己を摂受す る, 以上の利他行に関する戒めの誓いである。

「摂善法戒」 は, 絶対知の教説を身につけ, 絶対 知への到達を目的とすることを忘れてしまうよう な心を起こさないという戒めの誓いである。

(7) 菩薩の誓いを集約したものとして四弘誓願が広 く知られており, 「衆生無辺誓願度」 「煩悩無尽誓 願断」 「法門無量誓願学」 「仏道無上誓願成」 の四 句からなる。

(8) 生存に関わる一切を抛つ在りようは, 釈迦仏自 身がその過去世で菩薩であった時に, 生まれ変わ りの繰り返しにおいてなして来た営みであり,

ジャータカ 316話 「ウサギ本生物語」 や ナ ハラー塔縁起 金光明経 「捨身品」 などの 「捨 身飼虎」 など多く説かれている。 その点でこの経 典の菩薩の営みは, 釈迦仏のなした菩薩の営み (布施の相手が何かについては異同があるが, 営 みそのものは同じである) を踏まえ, それを辿っ ているのである。

(9) 高崎直道 如来蔵思想の形成―インド大乗仏教 思想研究 春秋社 (1978.2.10), p.359によれば,

「無明住地」 という観念は, 勝鬘経 において初 めて登場したものであり, この経典の独創である, とされている。

(10) 「分段死」 を, テキストの文脈を勘案し 「分段 生死」 としたが, この置き換えは, 雲井昭善 勝 鬘経 仏典講座10, 大蔵出版 (1985.10.25) や, 柏木弘雄 勝鬘夫人のさとり― 勝鬘経 を読む 春秋社 (1997.3.20) などでもなされている。

(11) この点も, 前註と同様である。

(12) テキストにおいて, 小乗の上位の聖者たちは,

「分段生死」 を脱した時に, 「わが生は尽きた」 と いう 「我生已尽」, 「清浄な行は完成した」 という

「梵行已立」, 「なすべきことはなし終えた」 とい う 「所作已弁」, 「いまよりのちの輪廻生存は認め ない」 という 「不受後有」 の認識に到り, 絶対知 を獲得したという想念を抱くとされる。

(13) テキストには, 顕在的煩悩に関して 「(発現し た状態の煩悩) はすべて, 瞬間性のもので, 各瞬 間の心に対応して発生 [する]」 とある。

(14) 高崎直道 「客塵煩悩―如来蔵思想の煩悩論」

如来蔵思想Ⅰ 法蔵館 (1988.12.20), p.242。

(15) 前註同書, p.247。

(16) 高崎直道 「如来蔵思想の菩薩論― 宝性論 に よる概観」 前註同書, p.103。

(17) 前註同頁。

(18) 以下の論述の一部は, 佐藤正英 聖徳太子の仏 法 講談社現代新書 (2004.6.20) のp.194205 における 勝鬘経 に関する論考を参考にした。

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