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ヴアルター ・シュピース とヴアイマル文化

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127

ヴアルター ・シュピース とヴアイマル文化

副 島 美 由紀

Ⅰ, 『人 生 の 美 と豊 穣

一人 の人 間 に よ くもこれ だ け多 くの才能 が, と思 わせ る人物 が い る。1

923

年 か らその死 に至 る まで の約

2 0

年 間 をイ ン ドネ シアで過 ご した ドイ ツ人芸 術 家, ヴ ァル ター ・シュ ピース もその一人 で あ る シュ ピー スの名 は,バ リ

に長 く住 みバ リ絵 画 の歴史 に大 きな影響 を与 えた西洋人 画家 として 日本 で も 知 られ てい るが,彼 はいわ ゆ る南 方 に魅 せ られた画家 として叙情 的 な風景画

を残 しただ けで はなか った。音楽家 お よび ダ ンサ ー として も豊 か な才能 に恵 まれ ていた彼 は,最初 に渡 った ジャワで, スル タ ン,ハ メ ンク ・ブ ウォノ

8

世 の もと宮廷 オー ケス トラの楽長 を勤 め, ピアニ ス トとして も活躍 す る傍 ら

ジ ャワ音楽 を学 んで その記譜 法 を考案 す る。 また スカ ワテ ィ王家 に招 かれて バ リへ渡 ってか らは,西洋絵 画 の技法 を紹 介 して地元 の画家 た ちの活動 を支 援 し,民族舞踊 の演 出 に手 を貸 す な どしてバ リ ・ル ネサ ンス と呼 ばれ る文化 の興 隆 に貢献 した。またバ リの民族 舞踊 に関す る研 究書1)を残 し,バ リを舞台 とした映 画制作 に も関わ ってい る。 その驚 くほ ど多才 な個性 とジ ャワ及 びバ リ文化 との結 びつ き は, お そ ら く西 洋 と東 洋 の最 も幸福 な避 道 の ひ とつ と 言 って もよ く, シュ ピースの名 は一部 で はすで に伝説 的 な響 きさえ伴 ってい

しか し ドイ ツ本 国 にお ける彼 の知名度 は海 外 で の評価 と較 べ る と決 して充

1)Wai t e rSpi e sandBe r yldeZoe t e

,

" Danc eandDr amai nBal i "Londe n,1 9 37

,

( Re pr i ntOxf or di nAs i a,1 9 7 8 ) .

(2)

分 に高 い とは言 えない。が

1995

年 はシ ュピー スの生誕

100

年 に当た り,ヴ ァ ル ター ・シュ ピース回顧展 が ケル ンで開かれ,絵 画作 品や彼 の残 した写真 が 公 開 され た。2) この年 はち ょう どイ ン ドネ シアの独立

50

周 年 で もあ り, ドイ ツで もイ ン ドネ シアの歴 史 に関 す る展 覧会 が開催 され た。3) シュ ピースがバ リ舞踊 の研 究書 のた めに撮影 した写 真 の リプ リン トもや は りこの年 ロ ン ドン で出版 され てい る

。 4

)シュピー ス再評 価 の好機 が訪 れ たので あ る。

ヴ ァル ター ・シュ ピー スの活 動 について は これ までま にバ リ文化 との関わ りにおいて語 られて きた。 しか し芸術 家 としてバ リ ・ル ネサ ンスの興 隆 に寄 与 したの みな らず,植物学 や昆虫学,考古学,人類学 な どに も興 味 を示 し, 民族 学博物 館 の設立 に も貢献 した その広範 な業績 と多 くの人 に愛 された伝 説 的 な人 間像 を思 う とき, これ ほ どの才能 は どの ような文化 的土壌 か ら生 まれ たのか,人 生 に対 す るその強 い関心 と愛情 の始 点 は どこにあったのか を問わ ず に はい られ ない。 シュ ピース は帝政 末期 のモ ス クワに生 まれ, ドイ ツで教 育 を受 け,ヴ ァイマル文化 の熱気 の中で青年時代 を過 ごしてい る。28歳 で イ ン ドネ シア に渡 り,第

2

次大戦 中 にイ ン ド洋上 で死亡 す るまでつね に学 問的 貢献 と芸術 的表現 を生 み出 し続 けた彼 の人 生 は, その軌跡 その ものが人生 の 美 の有 り様 を示 すひ とつ の証 しで\あ る とも言 えるので あ る。

人 生 の美 と豊穣』5) とい う名 の書物 が あ る ヴ ァル ター ・シュピースが青 年時代 か ら

46

歳 で の死 に至 る まで家族 や友人 に宛 て て書 き続 けた書簡 と知 人 の回想録 な どを編 纂 した もので あ る 著作活動 に関心 を持 た なか った シュ ピー ス は,同 じ くバ リを訪 れ た芸術 家 で あ る ミゲル ・コパ ル ピアスや コ リン・

2)Wal t e rSpi e s‑ Mal e rundMus i ke raufBa

l

i ,1 5.9 ‑ 21 .1 0.1 99 5.

Raut e ns t r auc h‑

J

oe s t ‑ Mus e um f t i rV61 ke r kunde,KOl n.

3)Ve r s unke neK6ni gr ei cheI ndone s i e ns ,1 3.8

26.

ll

.1 99 5. Roe me r‑ und Pel i zae us ‑ Mus e um,Hi l de s hei m.

4)Mi c haelHi t c hcock and Luc y Nor r i s

,

" Ba

li

,t he I magi nar y Mus eum"

0Ⅹf or d,1 9 95.

5)HansRhodi us

,

" Sc hGnhe i tund Rei c ht um de sLe be ns , WALTER SPI ES " ,

de nHaag,1 9 64.

以下書簡集か らの引用は ( )内の貢で本文中に記す。

(3)

ヴ ァル ター ・シュピース とヴ ァイマル文化 129

マ ックフ ィー とは違 って異文化 との遭遇 を体験記 として記す ことへの軟求 を 持 た なか った。バ リの文化 に最 も深 く関与 した西洋人 と言われなが ら, ま と まった単著 とい う形 で その体験 に触 れ る ことはで きない。言 ってみれ ば書簡 集 『人生 の美 と豊穣』は, この類 い稀 な人生 を送 った魅 力 あふれ る芸術家 の, 彼 自身 に よる唯一 の生 の記録 なのであ る しか しこの本 はシュ ピースが過 ご

した転換 の時代 の様相 を印す もので もあ りなが ら, ドイツ語 圏 にお ける関心 の低 さゆえに長 く絶版 になった まま今 や稀構本 となってい る。 ドイツで シュ

ピース再評価 の機運が訪 れた こ とを機会 に,改 めて この本 を播 き,先程 の問 いか けをしてみ るの もそれ故意味 のない ことで はなか ろう 特 に ヨー ロ ッパ 時代 の シュ ピース像 に注 目したい。帝政末期 お よびヴ ァイマル期 の ヨー ロ ッ パ は, や は りシュピー ス再評価 の始点 にな るべ きであ り, また この偉材 の人 物 は 30年代 のバ リのみな らず ヴ ァイマル時代 の ドイツにおいて も,人々 の記 憶 の中 に鮮 明 な生 の軌跡 を残 してい るか らで ある で あるな ら,彼 はなぜ そ のヴ ァイマル文化 が最 も高揚 していた時期 に早々 と ドイツを去 って行 ったの か,バ リの文化 の何 が いった い彼 の魂 の求 めに呼応 したのか。『人生 の美 と豊 穣』は我 々 に多 くの こ とを語 って くれ るはずで あ る。 そ して これ らの問 い は,

この ≠人生 の芸術 家 の よ り包括 的な人 間像 の探究 に繋 が る もので もある II, ウ ラル の "楽 園 か

1 93 9

年,シュピースはオ ランダの美術批評 家ニーハ ウス に宛 て,自分 の半 生 を綴 った書簡 を出 してい る。「自分 の幼年時代 について はあ ま りお話 す る こ

とはあ りませ んが,僕 は戦前 のロシアの富裕 で "豪壮 な 雰 囲気 の中で育 ち ました。

( 31) 」

自 ら語 る通 り,彼 は

1 895

9

1 5

日, モス クワの裕福 な ド イ ツ系 の商家 に生 まれた。 あ る知人 の話 による と 「大理石 の広間 のあ る宮殿

( 296)

」の ようだ った とい うその生家 は多 くの ドイ ツ企業 の代理店 を営 んで義 り,父 は祖父 の代 か ら受 け継 いだ ドイ ツ名誉 副領事職 を も努 めていた。母方 の祖母 はス コッ トラン ド人,祖父 はヴ ユル テ ンベ ル ク公 国の外交官 を務 めた 人物 で ある シュピース はた いへ ん豊 か な芸術 環境 の中で育 つ 一族 には沢

(4)

山の芸術家 が お り, ヴ ァル ター も含 めて

5

人 の子供 た ち はみな幼 い頃 か ら絵 や音 楽 を学 んだ。彼 らの うち 4人 は, ピアニス ト,画家,指揮者 ,バ レ リー ナ と芸術家 の道 を歩 んでい る 両親 は よ く家庭 で コ ンサー トを開 くほ ど音 楽 好 きで, モ ス ク ワの邸宅 はひっ き りな しに芸術家 た ちが訪 れ るサ ロ ンの よ う だ った とい う。 ヴ ァル ター は幼 少 の頃 か らス ク リャー ビン, ラ フマニ ノ フ, ゴー リキー とい った芸術家 に囲 まれて育 つ。知人 の誰 もが認 め,バ リ旅行 の 際 シ ュピー ス に会 ったチ ャ ップ リンに 「典型 的 な ドイ ツ貴 族 (365) と思 わ しめた彼 の雅量 は, お そ ら くこの よ うな帝 政 ロ シア の大 市 民 的 な暮 らしが 培 った資質 だ ろ う

しか し, シュ ピー スの記憶 にあ るの はむ しろモス クワ郊 外 の田舎 にあった 別荘 で あ る。 そ こで彼 は毎年夏 を過 ごした。子供 の頃 の シュピー ス は動物 が 大好 きで,動物 の絵 ばか り描 いていた とい う。「蝶 や コガネム シや トンボな ど, 這 った り飛 び回 った りす る もの は何 で も集 めてい ま した。 田舎 の大 きな別荘 の ヴ ェラ ンダ に はいつ も昆虫 の飼育器 や ら水槽 や らが所狭 し と並 んで いた も のです 。 この 自然 と自然科 学 に対 す る愛着 を僕 はいつ も抱 き続 けてい ます。

僕 はお そ ら く動物学者 か植物学者 にな るべ きだ ったので し ょう (31) 学者 に こそな らなか った シュ ピースだが,博物 学 へ の献 身 はバ リで の大事 な 日課 の一 つだ った。彼 は昆虫や海浜 の生物 を採集 して は標本 を作 り, それ をジ ャ ワにあった動植物 園 に定期 的 に提供 してい る 現在 ライデ ンの 自然史博物館 に保存 され てい るそれ らの標本 スケ ッチ は,写生 で あ りなが らも画家 の個性 を発散 して い る印象的 な ものだ。 シュ ピース はガム ランの音 色 を描写 す る際 に も 「雫 の よ うな音森 の響 き繊細 な葦笛 の旋律 (166)とい った表現 を使 ってお り,後 年音 楽 の要素 を絵 の中 に描 き込 もう とさえ して い る 絵 と 音楽 と自然 に対 す る一体 とな った愛情 と想 像力 を,彼 は こうした ロ シアで の 幼年 時代 に育 んだのだ ろ う。

1 9 1 0

,1 5

歳 になった シ ュピー ス は高等教育 を受 け るた め,ドレスデ ンに 送 られ る ドレスデ ンは地 方都市 で はあったが 当時 は ドイ ツ文化 の一 つの中

ブ リ ュ ッケ

心地 で,表現 主義 のグルー プ " が旗 揚 げ した地 ,また音楽 の改革者

,R ・

(5)

ヴ ァル ター ・シ ュピー ス とヴ ァイマル文化 131

シュ トラウスが多 くの作 品 を初演 した地 で もあった。初 めて触 れ る ドイ ツ文 化 は刺激 に満 ちていた。兄弟 の回想 に よる と,彼 は毎年夏 にロシアに帰省 す る度 に ドイ ツで得 た新 しい文 化 的体 験 を喜々 として弟 や妹 に伝 授 した とい 。6) それ は ドイ ツの先端 的 な音 楽 で\あ り,流行 りのエ キ ゾチ ックなダ ンス で あ り, また表現主義 の絵画 だ った。子供 の頃動物 の絵 ばか り描 いていた と い うシュピース も, ギムナ ジウム を出 る頃 には未来派や キュー ビズム,表現 主義 の影響 を強 く受 けた絵 を描 くようにな る。お そ ら くこの時 の シュピース は,一人 の人 間が芸術家 の道 を歩 み出す の に充分 な霊感 をすで に得 ていた こ とだ ろ う。 しか し彼 は第一次大戦 中,同時代 の ドイツの画家 たち とは異質 の 芸術観 を作 りあげ る体験 を経 る ことにな る 大戦 が勃発 した時 ち ょう どモス クワに帰省 していた彼 は,敵 国人 としてウラル地 方 にあった ドイ ツ人収容所 に抑留 されて しまうのだ。 『人生 の美 と豊穣』に収 め られた書簡 はその抑留地 か らの手紙 で始 まってい る しか し何 とい う楽 しみに満 ちた手紙 の数々だ ろ

それ らが伝 えてい るの は山歩 きやスケ ッチ旅行 の こと,他 の ドイツ人捕 虜 たち と催 す コンサー トの こと, タタール語 や キル ギス語 の学習 の こと,輿 味深 いアラ ビア文学 の話, 自分 の措 いてい る絵 の内容 な ど,抑留 の憂 さな ど 微塵 も感 じさせ ない 自由で創造 の意欲 に溢 れた暮 らしぶ りなので ある0

ウラル山地 の山裾 は,バ シュキール人 , キルギス人, タタール人, トル コ 人 な ど多 くの民族 と文化 が交 わ る地 だ った。 それ まで ロシアの貴族社会 の最 後 の繁栄 と先端 的 な ドイツ文化 を通過 して きた シュピース は, ここで ウラル 地 方土着 の質実 な文化 と生活 に触 れて,測 り知 れ ない影響 を被 るのであ る。

彼 は耕作 や放牧 といった労働 を通 じて土地 の住民 と交わ り,彼 らの言葉 を学 び,彼 らを描 き,その民謡や舞踊 とい った芸能 に親 しむ ようにな る。特 に「こ れ まで聴 いた ことが ないほ ど美 し く」, 憧れ と夢 に満 ちた

( 7

1)」バ シュキー ル の民謡 に引かれ, その旋律 を採譜 し,歌詞 を研究 し, 自 らも好 んで演奏 し

6)HansRhodi us ,i bi d.p. 52 ,5 7 f .

(6)

た。後 に シュ ピー ス は これ らの民謡 を題材 に した 曲 を書 くよ うにな る。土地 の農民 は 自分 た ちの芸術 に興味 を示 す初 めての外 国人 で あ るシュ ピース を温 か く迎 え入 れた。 じきに彼 は抑 留 キ ャンプ を出て タタール人 に混 じって暮 ら す よ うにな り, そ こで ピアノ を教 えて 自活 す る この時 シュ ピース はタター ル語 ,ア ラ ビア語 な ど全部 で

1 0

の言語 を解 し,

4

つ を話 す よ うにな った とい う。絵 を描 き,読書 を し,民謡 の歌 い手 た ち とコンサー トを闘 いた りす る生 活 は, 「これ以 上 は望 み ようが ない

/( 7 4) 」

と言 うほ ど快適 な ものだ った。

シュ ピース に何 よ りも深 い感 銘 を与 えたの は, ウラル にお ける生活 と芸 能 の あ り方 で\あ る 人 々 は昔 か ら歌 い継 がれた歌 を,誰 の もので\あるか問 うた りは しない。「多 くの民族芸 能 は作者 が知 れ ない もの こそ真 実 を隠 し持 って い

( 1 04)」

とい う一 つの確信 を, シ ュピース は この時か ら抱 くようにな る。

歌 は誰 が歌 って もそ こに存在 す るが,歌 われ な けれ ば存在 しない。「もし人 間 に もっ と空 の空 間が あった ら,神 が その空 間 に注 ぎ込 む ものが どれ ほ ど多 い こ とで し ょうか

( 1 0 4) 。」

トラ ンス を含 めたバ リの芸 能 に対 す る彼 の評価 の核 心 を こ こに見 て取 る こ とがで きよ う 作者 を持 たず, ただ神 々 と人 々 のた め に繰 り返 し捧 げ られ るバ リの芸 能 と深 く感 応 す る感性 が, ここウラルで面 責 され てい ったO以後彼 は主義 や理論 や技法 で武装 された芸術 に対 して強 u反 発 を感 じるよ うにな る

シュピースの最 も重要 な才能 は,実 は ≠現在 〟 を楽 しむ こ とので きる能 力 だ ったので はなか ろ うか。ウラル か ら母業削こ宛 てて書 いてい る.「僕 は現在 の 暮 らしを楽 しむだ けです 。 それが どんな もので あれ,現在 にはいつ もいい こ

とが あ ります。 明 日は もう生 きてい ないか もしれ ない とい うの に,何 で将来 にな ど煩 わ され ま しょう。

( 7 2) 」

彼 はウラル 山地 の ≠楽 園 で ≠今〟 と "此 処〟 を享 受 す る術 を学 び,確信 的 なエ ピキ ュ リア ン とな って ゆ く。彼 の 「 くを望 む ことな く幸 せ に してい られ る才能

( 11 4) 」

は ドイ ツで も多 くの人 に 強 い印象 を残 してい るが, やが て この才能 はバ リに渡 って ヒン ドゥーの死 生 観 と交合 し,「僕 はただ現在 だ けを生 きて い ます ノこの神 に悉 かれた 自然 の中 で は人 は簡単 に死 んで い きます。 (.‥)何故 な ら死 は繰 り返 し生 に注 ぎ込 ま

(7)

ヴ ァル ター ・シュ ピース とヴ ァイマル文化 133

れ るか らです。

( 2 29)

」とい った,独特 の宗教性 を帯 びた快楽 主義 を形成 して い くので あ る

ウラルで シュ ピー スが得 た もの は大 きか った。弟 の レオ は,「時 として険 し く極端 な ところのあ った兄 (59)」が,バ ラ ンスの とれた 円熟 した人 間 とな っ て抑留 か ら帰 って きた と伝 えて い る シュ ピースの柔軟 な精神 の土壌 は ここ で耕 され,その人 生観 と芸術 観 を支 える堅 固 な土 台 となって い った ので あ る

ロ シア革命 の起 きた

1 91 7

年 の暮 れ,シュ ピース は解放 され てモ ス ク ワへ帰 還 す る 家族 はすで に ドイ ツに亡命 してお り,翌年彼 も彼等 を追 って永 久 に ロシア を去 る。 ヴ ァル ター を得 た シュピー ス一家 は, ドレスデ ンに落 ち着 き 先 を探 す こ とにな るので あ る

, 「舞 踏 ‑ の 招 待 」

ウラルで ピア ノを教 えた ことに よ り, シュ ピー ス は 自分 の才能 が値 す る も の を知 った のだ ろ う, ドレスデ ンで彼 が選 んだ収 入 の道 はダ ンス を教 える こ とだ った。彼 は絵 や音 楽 と並 んで踊 る こ との才能 に も恵 まれ,バ リの 自宅 で 踊 ってい るシュ ピース を見 た あ る客人 が 「彼 は完成 されたバ レエ ・ダ ンサー だ った

( 3 21 )

」と言 った ほ どだ。 しか も ドイ ツで彼 を待 ち受 けて いた もの は, 言 わ ばヴ ァイマル文化 による 「舞踏 へ の招待 」 だ った ので あ る。

すで に世紀 の変 わ り目あた りか ら, ヨー ロ ッパ は新 しい舞踊,新 しい身体 を発見 しよ う としていた。例 えば世紀 の転換 期 に興 った ワ ンダー フォーゲル な どは,新 た な 自立性 と身体 性 を確 立 す るた めの運 動 で あった し

,1 90 3

年 に はイサ ドラ ・ダ ンカ ンがベ ル リンで公演 し, その 自由な感受性 の表 現 に人 々 は魅 了 され た。 その後 ダ ンカ ンの ダ ンス学校 を始 め として ドイ ツ各 地 に多 く のダ ンス教室 が生 まれ, いわ ゆ るノイエ ・タ ンツの萌芽 が あち こちで見 られ るよ うにな る 結果 として戦 後 の ドイ ツは,芸術 性 の高 いモ ダ ン ・ダ ンスか らジ ャズ音楽 に よるパ ー テ ィー用 ダ ンス,民族舞踊 や集 団舞踊,果 て はヌー ド ・ダ ンス にいた る まで あ りとあ らゆ る ものが爆 発 的 に踊 られ る ≠ダ ンス熟 現 象〟 を体験 す るので あ る。

(8)

シュピー スが移 り住 んだ ドレスデ ンの‑ レラウは芸術 家村 として知 られて お り, そ こには教育全体 の中心 に身体 を据 えた最初 の人 間 と言わ れてい るエ ミール ・ジ ャ ック‑ダル ク ローズが作 った ダル クロー ズ ・ダ ンスス クールが あった。へ レラ ウは もとも と社会福祉 的 な理念 に よって建設 され た生活 改善 型 田園都市 コロニ ーで, スイス人 のダル クローズ も彼 の リ トミックの教育 メ ソッ ドに共 鳴 した その設立者 に よって共 同体 に招 かれた のだ った。革新性 の あ る演 出や舞 台装 置 を備 えたダル クローズ ・ス クール の学 園祭 は国際的 な注 目を集 め るよ うにな り, デ ィアギ レフやバ ー ナー ド ・シ ョー, マ ックス ・ラ イ ンハ ル トらが競 って訪 れた とい う へ レラウは ドイ ツ ・モ ダ ンダ ンスの重 要 な担 い手 た ち を送 り出 した。 そ してベ ル リンか ら越 して きた シュ ピー ス一 家 に知人 を介 して提供 された住 まいが, このダル クローズ ・ス クール の寄宿 舎 とな って いた住 居 だ った ので あ る

シュ ピー ス にはや は りダ ンスの好 きな

1 0

歳 年下 の妹 が いた。後 にベル リン 国立歌劇場 のプ リマ ・バ レ リーナ にな るデイ ジー ・シ ュピー スで あ る。 ヴ ァ ル ター もデイ ジー も, ドイ ツがバ レエ ・リュス に心 を奪 われ, モ ダ ン ・ダ ン ス に熱狂 した時代 の申 し子 だ った。ベ ル リンでパ ヴロヴ ァや ニ ジ ンスキーの 公演 を見 た あ と,彼 らは しば ら く 「自分 た ち もあそ この一員 だ った ら, あん な風 に軽 々 と踊 れ た ら...

( 1 1 2 )

」と嘆 いて ばか りいた とい う 母幕別ま娘 が ダ ンサー にな る こ とを許 そ う としなか ったが, その母 を説 き伏 せ, ドイ ツで妹 に最 も適 した ダ ンス教 師 を探 してや り, レ ッス ン ・ピアニス トまで引 き受 け た のが ヴ ァル ターで あ る ダル クローズ のス タジオで も彼 と弟 の レオ は ピア ノ を弾 いた。 時 に はバ シュキールや タ タール の舞踊 曲 も披露 した。 ギム ナ ジ ウム時代 か らボールル ーム ・ダ ンス に親 しんでいた シュ ピー ス は母 に内緒 で デイ ジー と組 み,多数 のダ ンス競技会 に出場 して は賞 を取 った。 そ うしてダ ル クローズ ・ス クールが教 えなか った社 交 ダ ンス を,彼 は ドレス デ ンで教 え た ので あ る。 ダ ンス教 師 としての収 入 は悪 くなか った。 ドレスデ ンが次第 に 物 足 りな く感 じ られ,ベ ル リンに移 り住 む こ とを考 え始 めた シュ ピース を, 生徒 た ち は多額 の授業料 を払 ってで も引 き止 め よ う とした。結局彼 は 「これ

(9)

ヴ ァル ター ・シュピース とヴ ァイマル文化 135

以上 ドレスデ ンにいて も意味 はない,(‥.)ダ ンスの生徒 な らベ ル リンにだ っ てい る

( 90)

」と言 ってベ ル リンへ 出て行 く。実 はそ こで は もうダ ンス を教 え る必要 はなか った ので はあ るが。

ヴ ァル ター はデイ ジーの よ きア ドヴ ァイザ ‑だ った。 ダ ンス を巡 る彼女宛 ての書簡 が い くつか残 ってい るが, そ こに は芸術 にお ける 「美的 な もの」 に 対 す る彼 の基本 的 な姿勢が窺 われ る。彼 は観 客 の趣 味 に迎合 して い る当時 の ダ ンス を批判 し, 「そ もそ もなぜ醜 く踊 って はい けないのか

( 97)

」と問 う は規 範化 された審美観 か ら解放 され るべ きだ とい うのが彼 の考 えだ ったが,

●●●

ジ ャワに渡 ってか らさ らにそれ は規範化 された西洋 的審 美観 か らの 自由 とい う欲求 に変 わ り, それ は西洋 的趣 味 に対 してバ リの芸術 を擁護 してい く際 の 理念 とな るので\ある

デ イ ジー ・シュピース は着 実 にバ レ リーナへ の道 を歩 み,

1 922

年 頃 か ら マ ックス ・ライ ンハ ル トの舞 台 で踊 った り, オ スカー ・シュレンマ‑ の 「ト リアデ ィ ック ・バ レエ」 を踊 るな ど, 当時 の重要 なダ ンス ・シー ンに登場 す るよ うにな る。1

934

年,国立歌劇 場 の プ リマ とな るが,当時バ レエ音楽 の指 揮 を務 めていたのがす ぐ上 の兄 , レオ ・シュピー スだ った。彼女 はレオ と共 同でバ レエ作 品「バ シ ュキール の歌 」を作 って い るが, これ な どは当然兄 ヴ ァ ル ター の影響 な くして はで きなか った作 品だ ろ う 戦前 の代 表 的 なバ レ リー ナ として名 を残 した彼女 は,戦後 は東ベ ル リンの ドイ ツ国立歌劇場 のバ レエ 監督 に就任 し,社会 主義理念 に よる舞踊 の復興 に尽力 す る ようにな る。一 方 イ ン ドネ シア に渡 ってか らも常 にダ ンス に関心 を寄せ ていた シュ ピー ス は, 民族舞踊 の解 説書

" Da nc ea ndDr a mai nBa

li〟 を残 し,現在 の構成 に よる ケチ ャ ・ダ ンスの考 案者 として知 られ る ようにな る

。3 0

年代 にバ リを訪 れた

ドイ ツ人 か らデイ ジー の評判 を聞 いて喜 ぶ書簡 が残 って い るが,7

)42

年 に没 した彼 に, リア リズム のバ レエ を創造 しよ う とす るデイ ジー の奮 闘ぶ りを知

7)Ha n sRho d i u s ,i bi d. p. 3 4 5 .

(10)

る こ とは もはやか なわ なか った。

Ⅳ, 音 楽 遍 歴

ウラル時 代 に最 も純 粋 な創 造 の喜 び を絵 の 中 に見 出 して いた シュ ピース だ ったが,生涯音 楽 へ の愛情 を抱 き続 けた。 少年時代 の彼 はス ク リャー ビン を "わが神

( 67)

〟と呼 んで尊敬 し, その影響 下 で作 曲 を学 んで い る。 ジ ャワ の宮廷楽長 の職 を辞 してバ リへ移 った後 も,公演旅行 のた め にイ ン ドネ シア を訪 れ る ヨー ロ ッパ人音 楽家 の伴奏者 として活躍 し,晩年描 いた絵 画 の大作

金管楽器 のた めのスケル ツ ォ」は,ス ク リャー ビンへ のオ マー ジュで もあ る もとも と現代音楽 に傾倒 していた彼 だ ったが, ウラル地 方 の民謡 を学 ぶ こ と に よ り西 洋音 楽 の革新 に対 す る要求 をさ らに強 く感 じる ようにな る 彼 はダ ダイズム に大 きな意味 を見 出 して いた者 の一人 だ った。 ダダのニ ヒ リズム と は本 質 的 には無縁 で はあったが, 「"意味〟 とか ≠論 理〟 とい った枠組 み を持 た ない

( 8 2 )

」自由な創造 に彼 は共感 を覚 えた

。1 9 1 9

年,父 に宛 て,ベ ル リン で音 楽 を学 ぶ弟 について次 の よ うに書 いてい る。「どうして リョ‑ ヴ ァはフン パ ーデ ィンクの手本 通 りに作 曲 しな きゃい けないんで し ょう ??今彼 が独 り でや って い る方法 は, これ まで学校 で学 んで きた こ と全 て の二 倍 も勉 強 に な ってい るんです よ

。( 8 2 f. )

」そんな彼 に恰好 の友人 が現 れ る。当時作 曲の 大才 と言 われ, シュピー ス をベ ル リンの音楽家 サー クル に導 くハ ンス ・ユル ゲ ン ・フォン ・デア ・ヴ ェンゼで あ る。知人 の話 に よる と,風 変 わ りな才人 揃 いのベ ル リンのサ ー クル の中で もフォ ン ・デア ・ヴ ェ ンゼ は最 も影警力 の あ った人物 の一人 で,その博識 といい,思考 の独創性 や突飛 な表現力 といい, 前代 未 聞 の鬼 才 で あった と言 う。8) シュ ピー ス は彼 とす ぐに意気 投合 し,育 春時代 にのみ可能 で あ る ような昂揚 した友情 関係 を築 きあげ る。ベ ル リンに 住 んで いた フォン ・デア ・ヴ ェンゼ はシュ ピー スのい る ドレス デ ンを頻 繁 に

8)HansRhodi us ,i bi d.p. 1 1 3.

(11)

ヴ ァル ター ・シュ ピース とヴ ァイマル文化 137

訪 れ,二人 は詩 を読 み散策 し,一 日中 ピア ノでマー ラー を弾 いた り作 曲 した りして時 を過 ごす よ うにな る。『人 生 の美 と豊穣』に収 め られた フ ォン・デア・

ヴェ ンゼ の当時 の 日記 は,特 に初期 の ヴ ァイマル時代 に若者 た ち を支配 して いた高揚感 ,逆 り出 るよ うな希 望 と陶酔 を伝 えて大変 に興 味深 い。 い くつか 引用 して み よ う。

1 91 9

6

月20日 :戟 ,‑ レラウへ 。 ヴ ァル ター と穀 物畑 の中 をゆ く。夢想 す る。意味 を持 た ぬ詩 の言葉 で話 す。彼 は全 くの 自然児 だ。 ラ ンボーの ような未来派 の腕 白者 。(86)

同年

10

1

日 :あ ま りに も, あ ま りに も幸 せ だ。解放 され た ./ 何 も考 えな, た だ存 在 す るだ け / 一 日一 日が 我 々 の永 遠 だ /

同年

1 0

2

日 :我 々 は まるで は るか彼 方 まで空 を駆 けゆ く夏 の雲 の よ う だ‥.あ るい は星 々か。人 々 は僕 等 を愛 してい る,僕 等 は 自分 を見 つ め るすべ ての人 に憧 れ を与 える。(88)

フォン ・デア ・ヴ ェンゼ は作 曲家 として名 をなす ことはなか ったが, この 在野 の学者 に とって シュ ピース との短 い友情 は, ヴ ァイマル期 の光苦 に彩 ら れた貴重 な生 の記憶 とな った。

19 20

年,ベ ル リンに移 った シュ ピース は, フォン ・デア ・ヴェンゼ を通 し てエル ドマ ン, ブ ゾーニ, プ フ イツツナ一, シュナ‑ベル, ヒンデ ミッ トと いった音 楽 家 た ち と交 わ る よ うにな る その頃 のベ ル リンは ロ シア革 命 と オ ース トリア ‑ハ ンガ リー二重 帝 国 の瓦解 の余波 を受 け, その波 に押 し出 さ れ て きた多 くの才能 を結集 して急激 に世界都市 へ と変貌 しつつ あ り, そ こに は余所者 を受 け入 れ る寛容 さ と新 旧の理論 の対立 を発 展 の糧 としてい く活力 が あ ったo ア ンチ ・ヴ ァ‑ グナ‑ の ブ ゾーニ と,彼 と対立 す るロマ ン派 の擁 護者 プ フ イツツナ‑が 同時 に芸術 ア カデ ミーで教 えてお り, ヒンデ ミッ トや フォン ・デ ア ・ヴ ェ ンゼ らの若 い世代 は現代音楽普及 のた めに独 自の活劫 を して いた。 この頃 の シュ ピース も盛 ん に作 曲 を行 って い る。ベル リンは まさ に沸 き立 つ相場 だ った。

(12)

親 しみやす い性格 に よって多 くの人 に愛 され た とい うシュ ピース は, よ く 音楽理論 をめ ぐる議論 に巻 き込 まれた。 しか し彼 は出 口のない不毛 な論戦 を 嫌悪 した。攻撃 的 にな る こ とな く拒絶 の態度 を示 す こ とを心得 ていた とい う 彼 だが,社交界 で成 功 す る一 方, その虚 礼 を嫌 う とい う矛 盾 は彼 の 中で次第

に大 き くなってい く。 シュピースの ピア ノの師 で あ った シュナ‑ベ ル は,彼 の内面 の葛藤 に気 づ いていたかの よ うに 「ヴ ァル ター ・シュ ピー ス は亀裂 の 証 明 ? 何 か を演 るって ? 悪 い冗談。 (

313)

」とい う印象的 なエ ピグラム を 残 してい る。

あ る 日シュ ピー ス は, オ ラ ンダ人 の指揮者 で 「マ タイ受難 曲」 の定期演 奏 会 を主催 していた ヨハ ン ・ス ホー ンデルベ ー クに会 う。バ ッハ , テ レマ ン, シ ュ ツツ とい った作 曲家 につ いて既 にスホー ンデルベ ー クが驚 くほ どの知識 を持 っていた とい うシュ ピー スだが, この出会 い を きっか けに彼 はバ ッハ以 前 の音楽 へ傾倒 してい くよ うにな る。バ ロ ック音楽 へ の関心 は, ア ラ ビアの 細 密画や マイスター ・ベ ル トラム, マ イスター ・フラ ンケな どの祭壇 画 に対 す る彼 の関心 と繋が る ものが あった。 それ は 「明快 な芸術 」 に対 す る志 向の 強 ま りで あ る

。2 2

年,知人 へ の手紙 の中で キル ギスの民謡 を紹介 しなが ら, その 「信 じが たい ほ ど平穏 が持続」 す る 「ハ長調和音 の偉 大 な高 ま りの よう

( 1 0 7 )

な歌 について次 の よ うに書 いてい る。 「こうい った もの を どれだ け近 く感 じて い るか,きっ と分 か って いただ けないで し ょう。静 か で明快 な もの, それ らは真実 へ の真 っ直 ぐな道 を持 ってい ます。

( 104)

この 「静 かで明快 」 で 「真 っ直 ぐ な もの に対 す る憧憶 は, シュ ピースの場合 ウラル を体 験 して 得 られた もので はあったが,実 は作 曲法 にお ける 「明断 と透 明」とは

20

年代 の ヒンデ ミッ トの作 品 について言 われた特徴 で もあった。過度 の感情 表 出 を 抑 えて精神 的 な もの との均衡 を図 ろ う とす る音 楽 は,バ ロ ック音楽 の再評価

と共 に時代 の潮 流 の ひ とつ にな ろ う としていた。音 楽 にお け る新即物 主義 の 到来 で あ る。

しか し, シュ ピー スの中 には新古典 主義 や新即物 主義 へ の傾倒以上 の,罪 ヨー ロ ッパ文化 に対 す る根源 的 な郷愁 と憧 憶 が あった。 ドイ ツを出て ジ ャワ

(13)

ヴ ァル ター ・シュ ピー ス とヴ ァイマル文化 139

へ 向か う直前 の手紙 に は,「僕 は三年 間の抑 留時代,バ シュキール人 の もとで 本 当の生活 を目の当た りに し, それ を学 び,感 じ取 って きた ので, ヨー ロ ッ パ で居心地 よ く暮 らす ことなんか きっ と不可能 なんです。 (‥.)バ シュキー ル で は単純 で当然 だ った こ とが ここで はすべ て理論 と法律 に押 し込 め られて しまい ます。 すべ ての こ とに意見 を持 ち,党 派 に与 しな けれ ばな りませ ん。

あち らで は人 はあ る ものが美 しいか,醜 いか,良 いか悪 いか な ど聞 いた りし ませ ん。すべ てが ただ そ こにあって 自明 の事 実 なのです。 (128)とあ る

彼 は展覧会 や博 覧会 で プ リミテ イヴ ・アー トと接 し,異文化 へ の憧博 をか き立 て られた他 の画家 た ち とは違 っていた。ヨー ロ ッパ に とっての異文化 は, 彼 に とって はよ り近 しい現実 だ った ので あ り,誕生 した ばか りの ヴ ァイマル 文 化 の創造 へ の熱気 は, 「自明 の事 実」としての芸術 を求 めた シュ ピース には 過剰 な作為 で あ る ように思われた のだ。

シュ ピースの生 の軌跡 は,時代 の潮流 と呼応 しなが らもこの時大 き く南へ と転 回 してい く。 スホー ンデルベ ー ク夫妻 との出会 い によってオ ラ ンダが, そ して その植 民地 で あ るイ ン ドネ シアが彼 の視 界 に入 って くるので あ る

Ⅴ, 魔 術 的 リア リス ト

黒 々 とした郁 子 の木 ,鈍 色 に光 る水 田 な ど微 密 な風 景 画 で知 られ る シュ ピースで あ るが,彼 の抽 象画 か ら具 象画 へ のスタイル の変化 は画家 にな る こ とを決意 した ウラル時代 に起 こってい る。未 来派や キ ュー ビズムの影響 に よ り 「三角 や線 や平面 ばか り」 だ った彼 の絵 は,抑留 も終 わ る頃 にな る と 「オ ブ ジェがだ んだ ん明確 にな り,簡 素化 された リア リズム のかた ち を取 り始 め た。

( 32)

」モ ス ク ワに帰還 す る際持 ち帰 った彼 の絵 に,友人 のマ キ シム ・ゴー リキーが いた く感動 した とい う この頃 のモ ス ク ワには, シ ュピー スの回想 に よる と極端 な物質 的貧窮 に もかかわ らず芸術 の分 野 で画期 的 な傑 作 を生 み 出 してい く磁場 が あ り,彼 自身 もゴー リキー の仲介 に よ り舞 台美術 の仕事 を 手 掛 けて い る。9) しか し何 よ りもこの時, シュ ピー ス は生 涯 に亘 って影響 を 受 け る こ とにな る絵 画 と出会 うの で あ る モ ス ク ワの シチ ュー キ ン画廊 に

(14)

あった ア ン リ・ル ソーの絵 で あ る 「それ は まるで啓 示 で もあ り確証 で もあ る ような もので した ノ 僕 は初 めて開かれ ていて正直 で率直 だ と思 える もの に 出会 った のです 。

( 33)」

彼 はす ぐにその画風 の虜 にな る こうして彼 はウラ ル時代 の感化 を岨噂 しつつ,未来派 や表現 主義 と訣別 す るた めの真 の模 索 を 始 め るので あ る

。1 9 1 8

年 , モ ス ク ワで の窮状 を逃 れ て家族 の い る ドイ ツ に 戻 った シュ ピー ス は, そ こに兄 い出 した美術 の状況 に失望 す る.戦 前 と代 わ り映 えの しない表現 主義 的 な画風 が い まだ に支配 的だ ったか らだ. シュ ピー ス 自身 の変 化 が ドイ ツの美術 に顕 れ た それ を凌 駕 した の だ ろ う。 ク レー と シャガールだ けが 当時 シュ ピー スが認 めた ≠絶対 的〟な個性 だ った。 「意 味 の ない フ ァンタジー と極端 な散文 の シャガール,深 い哲学 と繊細 で優 しい詩 を 持 つ ク レー この両者 は単 な る ≠技量〝 を超 克 したのです。何 とい う感 性 の 素朴 さ純粋 さ .′ この二 つが今芸術 が取 りうる唯一 の道 で あ り,第三 の それ は 自分 で探 さね ばな りませ ん

。( 83)

」ドイ ツで 自分 の個性 の模 索 を始 めた シュ ピースだ ったが, 自分 の感性 が別 の文化 に滴養 された ことを思 い知 る ことに な る. ノル デやペ ヒシュタイ ン, ジ ョー ジ ・グ ロス とい った面 々 と交遊 を交 わ しなが ら も,帰属感 を抱 くことはなか った。実 りの ない党派 的 な議論 は嫌 っ たが,真理 に対 す る不屈 の愛情 を持 っていた とい う彼 が敬意 と友情 を持 って 接 した二人 の画家 は, オ ッ トー ・デ ィクス とオ スカー ・ココ シュカであ る.

彼 はデ ィクスの才能 とココシュカの人 間性 を高 く評価 した。 デ ィクス とシュ ピー ス は画家 として互 い に刺激 を与 え合 う仲 で, その率直 さにおいて際立 っ ていた シュ ピース について後 年 デ ィス ク は 「これ まで逢 った人 々 の なかで最

も共感 で きる人 の一人 だ った。

( 9 1 ) 」

と語 ってい る

1 9 1 9

年 の夏, シュ ピース は ドレスデ ンで初 めて展覧会 に参加 し,画家 とし て のデ ビュー を果 たす. この時 すで に買 い手 は現 れたが,ル ソーや ロシアの イ コン,細 密画や祭壇画等 の影響 が熟成 して シュ ピー ス独 自の個性 が開花 す

9

)ドニゼッティのオペ ラ 「ドン ・パスカーレ」の新演出。

(15)

ヴァルター ・シュピース とヴァイマル文化

1 41

るの は

2 0

年 の 「つ ぐみ」以 降 で あ る しか し この頃彼 は音 楽 や映 画産 業 との 関 わ りな どで多忙 な 日々 を送 ってお り, 画家 として は寡 作 で あ った。 が, あ る 日彼 の絵 は ミュ ン ヒェ ンの美術 史家, フ ラ ンツ ・ロー の 目に留 まる ロー は,

G

・ハ ル トラ ウプが 「新即 物 主 義」 と名付 けた

20

年代 の美術 の写実 主義 的傾 向 に 「魔術 的 リア リズ ム」とい う別 の名称 を与 えた こ とで知 られ て お り,

25

年 の著 書 『表 現 主義 以 降』10) の中で も,デ ィクスやペ ックマ ン等 と並 ぶ" 術 的 リア リス ト〟 として シ ュ ピー スの名 を挙 げて い る 彼 は雑誌 にシ ュ ピー ス を紹 介 し,展 覧会 へ の参加 を勧 め る そ して

1 923

年 ,大 きな転 機 がや って 来 るので あ る ロー の助 言 とスホー ンデルベ ー ク夫 妻 の助 力 に よ り,彼 はオ ラ ンダで の二 つ の展 覧会 を成 功 させ る。 オ ラ ンダで絵 が売 れ た こ とに よって イ ンフ レ時代 に貴 重 だ った外貨 を獲 得 し,有名 な美術 雑 誌 に も取 り上 げ られ るよ うにな るので あ る。当時 の彼 の代 表 的作 品 は,「別 れ「回転 木馬「タター ル の祭 り バ シ ュキール の牧 人 」 な どで あ る

表 現 主義 か ら写 実 へ の回帰 は,政 治 に安 定性 が求 め られた

2 0

年 頃 か ら顕著 にな りつつ あ った。 「新 即物 主義 」 も 「魔術 的 リア リズ ム」 も,希望 と陶酔 の 時代 が客 観性 と現 実性 の時代 へ と移行 してい く徴 を言 った もので あ る ハ ル トラ ウプ は 「新 即物 主義 」 とい う概 念 に よって,失望 か ら来 る諦観 とシニ シ ズ ム及 び現 実直視 の傾 向 を示 唆 して い るが, 「魔術 的 リア リズ ム」とい う呼称 が合意 す る もの は よ り形 而上 的 な局 面 で あ る。ペ ックマ ンが いみ じ くも 「 は可視 的 な もの と不 可視 的 な もの をつ な ぐ架 け橋 を して い る」11) と言 った よ うに,彼 らの絵 は現 実 その もの よ りも現 実 とその周 囲 との関係性 に関 わ って い るので あ る 世界 大戦 とその後 の失望 を経験 した新種 の リア リス トた ちが 描 く事物 は, それ以 前 の事物 と同 じで はない。 それ らは まるで 「記憶 と文 化

1 0 )Fr anzRo

b,

" Nac h‑ Expr e s s i oni s mus "Le i pz i g,1 9 2 5

,内容 については種村季 弘 『魔術的 リア リズム

』 ( PARCO

出版局

,1 9 8 8 )

巻末資料 を参照の こと。

l l )

ピー ター ・ゲ イ 『ワイマ ール文化 』亀 嶋庸 一訳 , みすず書房

,1 9 7 0

,

1 3 2

頁.

(16)

を通 じて編 まれ た 因果 律 の結 び つ きが バ ラバ ラ に破 砕 して し まった か の よ 」12) に,謎 めいた秩 序 を伴 って立 ち現 れ る そ して人物 た ち は身 を強 張 ら せ,不 可解 な物 質 に対 す る防御 の姿勢 で登場 す る この両 者 の間 に生 じるの が,何 か ≠不気 味 な もの〟, ≠魔術 的 な もの〟 なので あ る. フラ ンツ ・ロー の 言 う魔術 的 リア リス トの絵 は 「暗 く冷 た く, ほ とん ど息詰 まる よ うな あ る秘 密 を放射 して い る」13) その画面 の典 型 は,夜 の世 界 ,劇 場 ,カーニ ヴ ァル と い った暖 味 な領 域 を映 し出 し,「窓 か らの眺 め」や独特 の遠 近 法 を伴 ってお り, 描 かれ る人物 た ち は無力 で さ さやか な存在 で あ る シュ ピー ス の作 品 に は,

「回転 木馬 」や 「スケー トをす る人 々」な ど, ロ シアの風俗 を題 材 に して はい て も

,2 0

年代 ドイ ツの魔術 的 リア リス トとして の特 徴 が あ りあ りと現 れ て い る。 ドレス デ ンで の体験 を も とに描 いた と言 わ れ る 「別 れ

」 ( 1 921)

は, 同時 代人 エー リヒ・ケス トナー が ヴ ァイマル時代 の頑 廃 を戯 画化 して書 いた小説 ,

『フ ァー ビア ン』の 中 の情 景 とそ っ くりな,惨 くて危 うい幸福 感 を放 射 して は い ないだ ろ うか。 主人 公 フ ァー ビア ンがバ ッテ ンベ ル ク嬢 を伴 って夜 の街 を 行 く場 面 で あ る 二人 はベ ル リン郊 外 の静 か な住宅 街 を歩 いて い る。静寂 が 夜 の街 を包 む。 家 々 の庭 に は花 の香 りが立 ち, あ る家 の玄 関 で恋人 た ちが別 れ の抱擁 を して い る。 「見 て, お月 さ ま もこ こで は輝 いて い るわ。」 と彼女 が 言 う。フ ァー ビア ン,「まるで 自分 ちみた いな気 が しないか い ?で も錯 覚 な ん だ よ。 月 の光 と花 の香 り,静寂 と軒 先 で の接 吻 , み ん な幻 想 な んだ。 あ そ こ に見 え る広場 にカ フェーが あ って, 中国人 がベ ル リンの淫 売 ども と座 って い る。 そ う, 中国人 だ けが。 その向か い に はバ ーが あ って,香 水 をつ けた ホモ の少 年達 が エ レガ ン トな俳 優 や スマ ー トな英 国人 と踊 り, 自分 を高 く売 ろ う

として い る。最後 に はブ ロ ン ドに染 めた婆 さん にバ ー の代 金 を払 って も らう。

それ を条件 に彼 女 は同行 を許 された の さ。」そ して続 くのが 次 の有名 な台詞 で

1 2 )

種村季弘 『魔術的 リア リズム

』PARCO

出版局

,1 9 8 8 ,4 8

貢.

13)同上,72頁.

(17)

ヴァルター ・シュピース とヴァイマル文化

つ ぐみ

」( 19 20 )

「スケ ー トをす る人 々

」( 1 9 22 )

別 れ

」( 1 9 2

1)

「回転木 馬

」( 1 9 22)

「タ タール の祭 り

」( 1 92 3)

143

(18)

あ る 東 に犯罪 ,中心 にはいか さ ま,北 には貧 困,西 に は売春 が巣 くい,至 る所 で没落 が始 まってい る.」14) シュ ピー スの 「別 れ」に描 かれた静 か な現 実 の中 に も,二人 の人物 の独特 な寄 る辺 な さが漂 ってい る。彼 の感 性 はや は り

この ヴ ァイマル期 の時代精 神 に強 く感 応 していたのだ。

しか し この時確立 され た魔 術 的 リア リズ ム の ス タイル を彼 は終 生保 ち続 けた。ジャワやバ リの風景 を描 uた その叙情 的 な画面 は,独特 の遠近法 に よっ て どこか緊張感 を孝 み, その静詮 さには秘 密 を打 ち明 けるかの ような雰 囲気 が漂 う この謎 めいた緊張感 が シュ ピー ス とそのエ ピゴー ネ ンた ち を峻別 す る指標 で あ り,見 る者 はその明か されぬ謎 に喜 んで囚われ ようとす るのである。

Ⅵ, パ ー トナ ー , ム ル ナ ウ

ベ ル リンでの シュ ピース は音楽仲 間 のみ な らず, ビーネル ト, ア‑ キペ ン コな どの美術 関係者 や, グ ロー ピウス, モ ホイ ・ナ ジ とい ったバ ウハ ウスの 面 々が集 う一角 に身 を置 いていた。1920年,彼 はその ような連環 の どこか で 新進 気鋭 の映画監督 ,

F・ W

・ムル ナ ウ と出会 う。 ホモ セ ク シュアルで あった 二人 は, 同性愛 を まだ恥 ずべ き堕落 と考 えていた当時 の社 会 にあって, お互 いの中 に掛 けが えのないパ ー トナー を兄 い出す ことにな る

。3 0

代 を迎 えた ば か りのムル ナ ウ はその前年 に監督 としてデ ビュー し, 急成長 を遂 げ る映画産 業 の中で も意欲 的 な多作時代 を迎 え よう として いた。 シュ ピース はムル ナ ウ の ≠芸術 ア ドヴ ァイサー〝 として多 くの撮 影旅行 に同行 し,映画業界 に参入 す る ようにな るので あ る 彼 はグルー ネ ヴ ァル トにあ った ムルナ ウの清酒 な 邸宅 に移 り住 んだ。 ムル ナ ウは彼 のた めに ピア ノを借 り, ア トリエ を しっ ら え, 「ヴ ァル ター の生活 を容 易 に してや るた めな ら何 で もした (

121)

」とい う この頃 のムルナ ウの仕事 はた いへ ん充実 してお り,1920年 の 『大魔 王』か ら

22

年 の 『ノス フェラー トウ』まで,実 に

7

本 もの映画 を世 に送 ってい る 術 ア ドヴ ァイザ ‑〟, シュ ピースの活動 の実際 について は明 らか で はないが,

1 4)Er i c hKas t ne r

,

" Fa bi an:Di eGe s c hi c ht ee i ne sMor al i s t e n"dt v,1 9 8 9,S.9 8

f.

(19)

ヴァルター ・シュピースとヴァイマル文化

145

彼 は ドレスデ ン時代 に も舞 台美術 を手掛 けてお り,15)弟 の レオ ・シ ュピー ス が ムルナ ウの映画 のい くつか に音楽 を提供 して い る ことか らも,二人 の共 同 作業 の緊密 さが窺 われ るだ ろ う。 シュピー ス 自身 もこの時映画撮影 や写真 の 技術 を学 んだ と言わ れてい る。 しか し映画業界 との関わ りが シュピー ス に生 活 の安定 を もた らした に して も, それ は精神 的 な充足 を与 える もので は決 し てなか った。

ムル ナ ウは大 学 で美術 史 を専攻 した イ ンテ リで,映画界 で は例 外 的 な存在 だ った。 「彼 は流 れ に逆 らって泳 ぐ。 (‥.)た いて いの ドイ ツの プ ロデ ュー サー,特 にウー フ ァのプ ロデ ューサーた ち は,映画 とは時代劇 , エ キス トラ の群 ,パ レー ド,戦 闘, そ して ‑ で きれ ば ‑ ふ んだん に盲 目的愛 国精神 をふ りま くこ とだ と思 ってい る だが映画 は違 ったふ うに も作 れ る こ とを, ムル ナ ウが証 明」 16) した, とい うのが クル ト ・リースのムル ナ ウ評 で あ る。

シュ ピー ス は, ドイ ツの映画人 に関す る悪評 を伝 えて寄 こす知人 に宛 てて, 次 の ように書 いてい る。

私 と私 の友人 は この映 画産業 とその関係 者 た ちの最大 の敵 で あ り,で きる だ けそ こか ら距 離 を置 こう としてい ます。映画 の関係 者 た ちが,最 も低俗 で 浅薄 で軽率 な人 間た ちで あ り, 同時 に映画 とい うもの その ものが真面 目に受 け止 め るに値 しない ものだ とい うの は恐 ら く当た ってい るで し ょう。 しか し それ で もこの, それ ほ ど高貴 とは言 えない方法 に よって幾 ば くか のお金が得

られ る こ とを思 えば,満足 して いな けれ ばな りませ ん。 その こ とが お そ ら く 人 を映 画 に駆 り立 て るので あ り,金銭欲 とい うの は所 詮人 間 の最 も高貴 な本 能 とは言 えない訳 です。 ああ,私 が この ことすべ て に どん な に嫌 気 が さ して い るか, ドイ ツにいて この無味乾 燥 で感情 のない人 間 た ちの間で暮 らす のが どん なに不幸 な こ とか, わか ってⅠ削ナれ ば ./ 彼 らには何一 つ 自然 な ものが

1 5)

ドレスデンのシャウシュピール・ハ ウスにおけるクヌー ト・ハムズンの戯曲 「 生の遊戯

,1 91 9 .

16)クル ト・リース 『ドイツ映画の偉大な時代』平井正・柴田陽弘訳, フイルムアー ト社

,1 9 81 ,1 20

頁。

(20)

あ りませ ん。 すべ てが嘘 の作 りご とです 。

( 1 3 1 ) 」

虚飾 を嫌 った シュ ピースが,映画制 作 の中 にヴ ァイマル文化 の最 も際立 っ た作為 を見 た として も無理 か らぬ こ とで あ る。間違 い な く 「私 の友人 」 で あ る と思 われ るムル ナ ウは,実際 いつ も超 然 としてお り,他 の監督 とは非常 に 違 って見 えた とい う ≠サ イ レ ン ト ムー ビー最大 の巨匠 と称 せ られ るムル ナ ウだが, その映画人 生 には幾 ば くか の皮 肉がつ き ま とっていた。 ムル ナ ウ とシュ ピー ス は芸術 を志 向す る者 として,ベル リン映画界 の "低俗 〟 に対 す る防御壁 の役割 を互 い に果 していたのか もしれ ない。

もとよ り非 ヨー ロ ッパ文化 へ の郷愁 に苛 まれ ていた シュ ピース は

,2 3

年, 展 覧会 のた めに滞在 したアムス テル ダムで 当時 の王立植民地研究所,今 の熱 帯博術 館 を訪 れ,連 日何時 間 もそ こで時 を過 ごす よ うにな る そ してす っか り南洋行 きの夢 に と り懲 かれて しま うので ある. その時彼 の夢 の実現 を阻 ん だ もの はムル ナ ウ との葛藤 で あった。 スホー ンデルベ ー ク夫人 の回想 に よる ムル ナ ウ は, フ イルム を回 して い る ときだ け電流 が通 った ようにな るが普段 は打 ち解 けない男 で, ヴ ァル ターの太 陽 の ような明 るさ と人 生 に対 す る喜 び を必要 としていた この時 の事情 に関 す る彼女 の回想 を引用 して み よ う。

「ヴ ァル ターの大 きな問題 は,彼 の友人 で俊 見入 で もあ るムル ナ ウが彼 を行 かせ よう としなか った こ とで した. で もヴ ァル ターの出て行 こう とす る欲 求 は 日増 しに増 す ばか りで,彼 らの麗 しい友情 関係 にひびが入 ろ う としてい ま した。 そん な時,私 は彼 か ら助 けを求 め る電報 を受 け取 った のです 。私 はベ ル リンへ行 き, ムルナ ウ と二人 だ けで夜遅 くまで話 し合 い,彼 を説得 しよ う

としました。 その時私 が彼 に理解 させ よ う とした こ とは, 自 ら諦 め手放 した 物 は永遠 に保 たれ,捕 らえて放 す まい とす る物 は自ず と失 われ る, とい う こ とで した。 (.‥) す る とあ る瞬 間, ムル ナ ウは突然 この真理 が飲 み込 めた ら し く,はっ き り確信 を持 って次 の ように言 った のです

"

行 くか どうか はヴ ァ ル ター の 自由 に させ な くち ゃい けない んだ。僕 は彼 を引 き止 め よう として は い けないんだ

〟 そ して次 の 日,彼 は 自 らヴ ァル ター にそ う伝 えたので した。

( 1 2 2 ) 」

(21)

ヴ ァル ター ・シュ ピー ス とヴ ァイマル文化 147

それか らす ぐの

23

8

月, シュ ピース は ドイ ツ ・オ ース トラ リア ・ライ ン 汽船 の 「ハ ンブル グ号」 で ヨー ロ ッパ を永久 に去 る こ とにな るO あれ ほ どの 芸術 的刺 激 と多 くの人 の愛情 に恵 まれて いて何故, とい う疑 問 を周 囲 に残 し た 出奔 だ った。 それ に して も同性愛 を未 だ 白眼視 していた当時 の社会 にあっ て貴 重 なパ ー トナー を失 ったムル ナ ウの心情 は, はた して想像 に華臣くない と 言 うべ きか,凡人 の想像 を越 える と言 うべ きか。

シュ ピース との友情 と突然 の別離 につ いてオ スカー ・ココシュカが印象 的 な文章 を残 してい る。何十年 も後 の回想 で あ りなが ら,作家 で もあ った ココ シュカが措 く一夜 の記憶 は驚 くほ ど鮮 明で,最 も際やか な シュ ピー ス像 を伝 えてい る

「あ る晩,彼 は僕 のベ ッ ドの傍 らに座 って時 を過 ご した。他 の者 はす で に 帰 って しまった後 だ った。 よ く覚 えて はいないが, その時僕 は何 日間か外 出 で きなか ったか,あ るい は した くなか った のだ と思 う あれ は

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年,じめ じめ して寒 いベル リンの秋 の こ とだ った。彼 はウ ラルやバ イ カル湖 で土地 の 人 か ら聞 いて きた民謡 や神 話 の翻 訳 を見 せ て くれた。 また プー シキ ンの詩 を そ らで朗 読 して くれ た。 それか ら彼 は,抑留時代 に よ く眺 めていた凍 る よう な北 の空 に上 る星座 の形 を, まるで 目に見 えるよ うにあ りあ りと説 明 して く れ た。彼 は どこでで も人 と交 わ る こ とので きる人 間 だった。特 に,時代 を超

えて駆 けて ゆ くよ うな草 原 の民 タタール人 の ダ ンスの リズム に,僕 た ち は時 が経 つの を忘 れた。否, それ は始 まって間 もないの にすで に惨 めな様 相 を呈 してい る この世紀 の憂 さを も忘 れ させ て くれ る ものだ った。 その時彼 は自分 の描 いた童話 の挿絵 の ような もの をい くつか を持 って きて見せ て くれた。 そ れ は僧侶 を措 いた ロシアのイ コンの ように板 の上 に漆 の絵 の具 で描 いた もの だo そ こで使 われ ていた緋色 が とて も頑 固 な印象 を与 えた. まるで芥子 の花 が強 い風 に飛 ばされ て司祭 の頭 にぶ つか り髪 ともつれ,司祭 はそれ を頭 か ら 振 り払 お う として激 し く首 を振 ってい るの になか なか取 れず にい る, そんな 感 じだ った。僕 はヴ ァ‑ リャの こ とを笑 った 一 方, ヴ ァ‑ リャが声 をた て て笑 うの なんか僕 は聞 いた こ とが ないの に。 で も繊細 な形 を した彼 の唇 が柔

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