長崎大学教育学部人文科学研究報告 第46号 5〜15(1993)
D.H.ロレンスの中期の短編をめぐって
―'touch'をキー・ワードにして―(Ⅰ)
鉄 村 春 生
(平成4年ユ0月30日受理)
A Study of touch in D. H. Lawrence's Short Stories at the Middle Pariod of Writing (Ⅰ)
Haruo TETSUMURA
(Received October 30,1992)
[1] はじめに
D.H.ロレンスの作品の構成を概括するに当たって,7んθ.M侃W加Dεεdを典拠に するようにした見方の一つがある。それは死と再生のパターンである。この捉え方が,ロ レンス文学の場合,古典的であるというより,徽の臭いがするのも確かであるが,それで も彼の創作の技術原環であるばかりか,思考原理であることも事実である。そこで本論で は,この死と再生のパターンのなかでキー・ワード touch がどのように機能している かを, Samson and Delilah および The Blind Man を中心とする中期の短編二,
三の人物関係およびその進展をなぞることによって検証を試みる。
個・々の作品を例証して touch の内容を具体化するまえに,種類あるいは質の面から 概略的にでも touch を考えておく必要があろう。ただし,この場合, touch は人と人
との紐帯成就にたいしてポジティヴにもネガティヴにも作用するもの,という規定のもと に論を進めることにする。
touch といったとき,まず,それは肉体の接触を指していると理解するのがlli頁当であ ろう。しかしながら,肉体の接触といっても,暴力の形をとって表現されるものと,後期 の創作を特徴づける[優しさ]の哲学から発したものと二種類に大別しなければならない。
暴力の形をとって表現される touch のなかに人間関係の樹立を看ようとするのは,そ れ自体ロレンスの思想を考えるうえで,公道である。そして,そのポジティヴな発現の好 例として,Soπsαπd五〇〇εr8のシーンがただちに想起できよう。すなわち,ポールとバ クスターとの殴り合いが,その動機であった憎しみを払拭するばかりでなく,二人に深い 親近感をもたらすエピソードだ。ところが,この例に匹敵する,人間関係にポジティヴに 働く touch の力を中期の短編のなかに発見しようとしても,発見しがたいのである。
一方,暴力の場面そのものは Tickets, Please や Samson and Delilah などにい くつか指摘できるけれども,いずれも touch が指向する方向は人間関係の破壊であった
り,捉え方が犬儒的であったりしている。 Tickets, Please はまさに喧嘩・暴力そのも のを扱っており, Samson and Delilah では,ヒロインが間接に関与した暴力という点 で直接に人間関係の破壊につながっていない。これらはすべて, The Prussian Officer の士官が従卒に加える加虐症の暴力の系譜乃至その関係から論じなければならない。
ロレンス文学の基本には,肉体の暴力は非人称的な生命力が人を突き動かし駆り立てて とらせる行為であって,その生命力は人を含めたあらゆる生き物の尊厳を形成しているの だ,という認識がある。この認識にたてば,ことに Tickets, Please の暴力では,生 命力に本来的に付随する尊厳・価値が傷つけられた痕跡があらわである。この現象は中期 の短編に共通して見ることができる。これは,批評家の言をまつまでもなく,人間疎外,
価値観の崩壊,神の喪失などの悲劇を産み落とした第一次世界大戦前後の社会状況が,ロ レンスの暗鯵で厭世的な気分となって反映した屈折以外のなにものでもない。人物も,人 間模様も,いや,生命力そのものでさへも,皮肉な内的カオスの相で眺められている。実 際,翫8Zα認,物思創侃d中の大半の作品が題材に直接あるいは間接に戦争の荒廃力を 取り扱っている。この事実は,戦争がロレンスの感受性に踏みこんできた時代の狂気や不 毛という土足を証言している。 Tickets, Please の暴力なども,時代の狂気や不毛が採
らざるをえなかった touch の一形態でしかないのではあるまいか。暴力は,狂気の一 ヴァリエーションにすぎないのではないのか。
こういつた touch のネガティヴな作用を中期の短編に見られる特色と呼ぶことがで きるが,なかでも, The Blind Man は,触れられた者はその生存様式をも破壊される
touch を描いているという点で,その最たるものであろう。
中期の短編という枠組みを外し,また,長編小説まで考慮にいれて touch を考えるな らば,跣εW競ε.PθαCOCんのシリルの身体をジョージが擦ってやる場面, Aαroπ 8 Rod において病気のアーロンをリリーが油でマッサージする場面などは,再生・治癒を狙った
touch の秘儀的な力を呈示しようとしている。筋εVγ doω6π80∫.Mrs.∬oZroッdと The Odour of Chrysanthemums における妻が坑夫である夫の死体に触れる行為は,
別の視点からの考究を要求するであろう。Wo融θη三五〇uθのバーキンが素肌に植物と の接触を楽しむ行為の意味もまた,まったく別の視野から探らなければならない。さらに は, The Blind Man の盲目の男・モーリスが,農場の暗闇そのものを含むあらゆる物
との接触によって生きる生活,この彼の[血液的]な接触も象徴あるいは比喩として論じ なければなるまい。最後に,五αのσ三三r勿 s五〇〇θrはロレンスの哲学全体がいきつ
くユートピアとしての男女間の性を接触という視点からアプローチすることを要求するこ とであろう。
おなじ touch でも,このように,その種類においても質においても,きわめて多様で ある。そのうえ,上述の主として皮膚感覚に拠る接触のほかに,「聴覚における touch 」(2},
The Blind Man のモーリスが生き方として拠る「暗闇」との接触,あるいは本論が行 う視線による接触,などもロレンス文学理解のために必要なヴァリエーションである。
[H] セレモニーとしての4touch 一 Samson and Delilah (3)の場合一
Samson and Delilah のストーリーも,作者が創作の技術原理とする死と再生のパ
D.H,ロレンスの中期の短編をめぐって一 touch をキー・ワードにして一(1) 7
ターンをかなり鮮明になぞっている。そういった意味から, touch の働く方向を再生の 上昇リズムに平行して追跡することに意義があると考えられる。
死と再生のパターンをかなり鮮明にストーリーがなぞっているというのは,細かくみる と,このパターンはみずからにヴァリエーションを加えていて,時期をおなじくして書か れた You Touched Me や The Fox の物語構成の基本的な図柄を踏襲している,
ということである。すなわち,故郷を捨てて国外に流浪した男が女のところへ「赤の他人」
(aperfect stranger)として受け入れがたく立ちもどるが,二律背反の葛藤の末に女は その「他人」を受け入れる,というストーリーである。
この短篇を touch の視点からアプローチすれば,二つの側面が浮きあがってくる。
一つは,先に軽く言及した五αめノC二八亡2rZεヅ8 Looεrの[優しさ]の哲学を先触れする,
女への男の優しさを表す touch であり,もう一つは,先述した,女の指示で実行され た暴力の touch である。
まず,前者について考究するために,物語の梗概を記しておこう。
妻を見捨てること16年,今浦島となって帰国した男は,パブを経営している妻にみずか ら放棄したはずの権利を主張する。しかし,これを女はにべもなく拒否するばかりか,ゲ リラと化して,そこに居合わせた兵士たちに指示して男を縛りあげさせる。さらに,男を 外の通りに放りださせる。やがて,男が縛めを解いて再び帰ってみると,ドアには鍵が掛
けてなく,台所の暖かい火の側に座っている女から無言のうちに迎え入れられる。そして 最後に,男が女の胸に tOuch の手を伸ばすところで終わる。ハピー・エンディングで
ある。
このハピー・エンディングに終わる物語の展開のなかで, touch の果たす機能は,あ くまでも夫と妻の和解が暗黙のうちに成立したあとのセレモニーにすぎず,形式的な力を 含ませるように使われている,というふうに即断できるようだ。
その理由はつぎのようになる。
当初,女は,拒否と敵意をあらわに示したにもかかわらず,縛めを解いて再び部屋に入っ てきた男を迎えるに際して,複雑で細かな心理的抑揚をみせる。すなわち,女の反応に両 面価値が指摘できる。一方では,男がはらんでいる「危険」(danger)に敏感で,その恐 怖から脱することができずにいて,他方では同時に,男の魅力に抗しかねている。反発と 牽引,恐怖と憧憬である。女は,不当な仕打ちをした男にたいする憤りをその恐怖から抑 制しているものの,「男の頭とキリッと横真一文字にのびた眉の美しさ」(the beauty of his head and his level drawn brows)を失うことに耐えられなかった,とストーリー・
テラーは説明する。「頭と眉が美しかった」という半端で,妙にアクチュアルな理由か ら〔4),女の積年の恨みが帳消しになっている。このアクチュアルな理由が女の反応を正当 化する理由として成り立つのも,女の反発と牽引とが,ロープで縛りあげられた前の場面 でロープの間から溢れでた男の逞しい肉体 肩・尻・腿 の魅力にたいして女の感じ る不安と魅惑とに呼応しているからである。
つまり,みずから命令して縛りあげさせた男が,その鋭い筋肉の力でロープをはじき飛 ばして自由になるのではないか,という不安・恐怖と,そういった恐るべき男の肉体が感 覚のうえに投げかけてくる,女にとって抗しがたい魅惑,である。魅惑は官能的であるだ けに,女を不安に陥れる。この二つの感覚が女のなかで相乗効果を生みだす。あるいは,
この相乗効果は,男の「危険」にたいする女の恐怖が男の肉体を失うことへの不安やその 活力の魅惑と同根であったのだと,換言してもよいのかもしれない。そうだとすれば,女 が暖かい部屋のなかで男を迎え入れたのも,自分を魅惑していた源が不安と軌を一にして いたことを悟ったからである,といえる。
こういうわけで,無言で女が男を家庭団らんの中心である暖炉のそばで迎えた事実は,
それ自体夫婦の和解そのものであるので,男が女に touch の手を伸ばす行為は, touch が人間関係のなかでポジティヴに作用するという考えの面からは,重複になる。たんなる 演技になる。
また,物語の最後の最後でだされるために,男が持ち帰った[1,000ポンド以上の大金](5}
という現実的な情報は,夫婦和解のあたかも総仕上げとなるかのような持ちだされ方をし ているけれど,勿論, touch の効果同様,その大金が物語に現実的な影響をあたえるこ とはない。ここでも touch の機能とおなじく,ストーリーのうえで男と女の結合に貢 献する力はそれほど微弱でありフォーマルでしかないということである。これは, touch が演技以上でないという考え方をするうえで大切であるので,金銭と touch の面で作 品を You Touched Me と比較するうえで記しておくに値する。
大団円直前におけるこのような女の反応・姿勢や現金攻勢は,あくまでも,物語全体を 締めくくるリズムのなかで位置を決定しなければなるまい。
男が勝手に妻を故郷に捨てて出奔したことは,夫婦関係のなかで負の下降線を示す。再 び妻のもとに夫がもどってきた事実は,再生への上昇リズムを促すことになる。しかし,
権利の主張を拒否されたばかりか,妻の命令のもと縄で身体を縛りあげられて屋外に放り だされた夫の現実は,夫にとって,下降線を下りつめた死に相当する。そして最後に,ド アに鍵が掛けられていないこと,冷たい屋外から暖かい室内にはいること,妻から暖かい 側に迎え入れられることは,紛れもない男と女の合一であり,再生である。
この死と再生のリズムの流れのなかでの touch の意味を考えてみよう。男に自分の 世界の市民権を再びあたえる,最終局面における女の姿勢は,その局面以前から十分予測 できるようになっていた。女の意識にある以上の男への牽引が, touch が起こる以前の 彼女のアンビバレントな反応によってすでに示唆されていた。このことをいま一度想起し
なければならない。そうなると, touch は, The Blind Man や The Horse−Dealer s Daughter や You Touched Me の touch がみせる啓示的な力まで熟していないこ
とがわかる。そういった神秘的な力を発揮する touch 現象を見越すとき, Sarnson and Delilah の touch はあくまでも人間関係成就のセレモニーでしかないと言わざるをえ
ない。
[皿] The Blind Man (6)の touch について
(1)破壊力をもった touch
この作品は暗轡というより嗜虐的なロレンスの側面を映しだしている。そのように断言 できるのも,一つには,その書簡中に批評家たちがこぞって発見・指摘する,この作品に ついての「奇妙で,皮肉な結末」(the end queer and ironical)(7)という彼自身の評言が その根拠になっているからである。もう一つには,その評は,創作時期を考慮にいれたと
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しても,予言者のイメージをあまりにも無惨に裏切る自虐の自己評価となっているからで ある。[自虐的]という判断は,物語の結末を「奇妙で,皮肉な」と当の作者みずからが 告白するその姿勢を作品の現実と比較して客観的に眺めたとき導き出せる。また,それは ずり落ちた予言者の仮面と言いなおしてもよい。
この時期に創作された作品のいずれにも,特に後期の作品に目立ってくるロレンスのリー ダーシップ的気負いや予言者の思いこみ等は見当たらない。むしろ,その気負いや思いこ みなどの倒置形がこの時期のロレンスのプロフィールを形成している。したがって,己に ついての一もっと精確には,己のスポークスマンについての「奇妙で,皮肉な」という 修辞句は彼自身をもっとも雄弁に語っていることになる。 touch の表現に関しても無縁 ではありえないで,その力を彼は否定,暗諺,自信喪失,倒錯といったネガティヴの形で
しか表しえていない。
したがって, The Blind Man における破壊力の touch を考究の中心に据えるか ぎり,以上述べた「奇妙で,皮肉な結末」の理解を大前提にした論を進めるのが妥当になっ てくる。
この The Blind Man に限らず, The Horse−Dealer s Daughter においても You Touched Me においても人物と人物との間の touch に関わるあらゆる反応・現象を,
touch する側(the toucher)と touch される側(the touched)との二局面から観察す る必要がある。 Samson and Delilah においても, touch という行為そのものを考え るとき,〈触る人〉とく触られる人〉との区別はこのうえなく明白なのであるが, touch の力という見地からすれば,すでに観察してきたように,その区別はまったく不必要となっ てくるのである。このことは,作品が touch の効力を問おうとしているのではないこ
とを意味している。これもすでに述べたように, touch は男の女への和解の象徴あるい はインデックスとしての行為であるにすぎない。したがって,〈触る人〉とく触られる人
〉の区別が不必要でよかった。その点, The Blind Man は両者の間に判然とした一線 があり,〈触る人〉はある特定の目的をもち,ある特定の効果を願って〈触られる人〉に 触れる。それだけに, touch という個人的・具体的行為は観念的に終わることはなく,
きわめて個性的な効果を生じざるをえない。そしてこの場合,〈触る人〉にとって,その touch は己の全存在を賭けた危機的な行為であるし,他方,〈触られる人〉にとって,
touch は存在意義の生命的な曲がり角になっている。
こういうわけであるから,[存在意義]は観念的な抽象価値に属しており,他方, touch の破壊力は物理的・現象的な側面からいえることである。この一見相互に噛み合わない二 つの相を touch がどのように収拾するのかが興味深い。
そこで,まず,〈触る人〉とく触られる人〉との生き方の説明から入っていくことにし
よう。
まず,書題である盲目の男・モーリスから始めよう。
彼は盲目の小型ロレンスといった印象を与える人物である。その存在原理は「血による 洞察」(blood−prescience)または「血の接触の完全な直接性」(sheer immediacy of blood−
contact)に要約できる。目と額に醜く刻まれた戦傷が暗闇の世界に生きる彼を証明して おり,触覚に頼る彼と存在の原理の「客観的等価物」になっている。盲目であるがゆえに,
彼は暗闇を背負って生きていかざるをえないが,それは彼にとって栄光の十字架である。
実際,彼の生活は濃密な[暗闇の意識]=[血(blood)の本能による知力(science)]に 導かれて営まれている。[暗闇の意識]は「血による洞察」と等価なのである。視覚で対 象を認識できないことで,「血による洞察」が視覚以上の認識の機能を果たしており,し たがって,その認識は外側や表面を対象とするのでなく生の内側や中核を対象にしている のだ,という意味を「血による洞察」という表現で探り当てようとしている。そういった 彼の本能による在り方,生活の根拠を,予言者の自負を込めてこの表現は手際よく表そう
としている。
その彼に,現実社会から隔離されたような状態で一緒に農場生活に耽溺しているイザベ ルという妻がいる。イザベルは夫と暗闇の生活を共有し享受しているものの,二人にとっ て,その世界がいつも輝きに満ち溢れているわけではなかった。その生活を閉塞状態であ ると受けとめることもあって,一種の閉所恐怖症に喘いでいた。そこで,閉塞状態を打破 し,閉所恐怖症からの脱出を企てようとして,二人は彼らの生存様式と対照的な生存様式 の導入のため外界に援助を求める。そこで,夫婦共通の友人・パーティーによって代表さ れる[知]の導入が実験されることになる。
[知]の人・パーティーはやり手の法廷弁護士として活躍しており,また,文学者とし ても名が通っている。それだけに社会的な生活は華やかで,光に包まれている。しかしな がら,その個人としての内面生活は貧弱であり,不毛でしかない。このことは,彼が独身 であり,それも女性に肉体的にアプローチすることができないのが原因であるということ に象徴的に集約されている。それが知性の正体というわけである。
この[血]と[知],本能と理}生,あるいは,blood−awarenessとintellectual−awareness などの二極化できる生の認識方法は,創作の初期から作者が主張しつづける例の二元論で あって,格別の目新しさはない。そもそも,この二元論は両者の「均衡」(equilibrium)
を指向して初めて有効に成立するのであるが,ここではむしろ,[血]と[知]の合体な いしは融合に基づいた男と男の友情を指向している。しかし,少なからずうがった観察が 許されるならば,むしろ,前者による後者への折伏ないしは優等の誇示を目論む形となっ ている。ただし,現時点ではこの点に特別の注意を喚起することもあるまい。
ここで,モーリスの閉塞状態は彼の「血による洞察」の生存様式の行き詰まり=死を表 し,[血]と[知]との合体・融合による打開策は再生への模索であって,それらはいず れもそういった図式で考えなければならないことだけを指摘しておこう。同時に,これが,
つぎに論じることになる You Touched Me において,衰弱という袋小路に追い込ま れたロックリー(Rockley)家に新鮮な活力を注入するために,ヘイドリアンを養子に迎 え入れられる経緯・処置に相似しているのであるが,この事実をも見越して考慮しておく 必要がある。
さて,その合体・融合の実験は,雨の降る夜,厩の暗闇のなかで,という条件のもとで 行われる。夜,雨,暗闇,厩といった,ロレンス得意の状況が揃い,まさに盲目の男のた めに祭壇場が準備される。こうして彼の秘儀が神聖かつ万全に行われることが約束される。
司祭者である盲目の男は素手でパーティーの頭,眉,目,鼻,鼻孔,口,顎,肩,腕,
手と順次,相手の身体の一部一部を確かめ,その意味を取り込むように慎重に触れていく。
しかしながら,触れられた者は,なぜか「ほとんど破壊される」(almost annihilated)。
夜,雨,暗闇,厩といった好条件が揃っているにもかかわらず,である。しかも,触れら
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れた者は,「若いようだね」と言われても,「破壊」されたために返事をすることができな
い。
つぎに,盲目の男は接触の立場を代えて,相手からの熱烈な希求の touch を要求す る。盲目の原因となった自分の醜い傷跡に手をおくことを半ば強制するものであった。
「ぼくの傷跡に触れたまえ」( touch my scar )と命令する。すると,パーティーは激し い嫌悪の情を感じながらも,モーリスの意のままに行動する。パーティーは「催眠術をか けられたかのように,盲目の男の思うがままであった」(Yet he was under the power of the blind man, as if hypnotised.)からだ。まるで,暗闇の濃い血という麻薬を飲
まされて,知性が全存在の自由をすっかり失ったかのようである。そして,この接触は彼 を恐怖・嫌悪・絶望のなかに突き落とす。
ところがこの接触は,一方のモーリスにとって,全身を貫く「熱く,心を打つ愛」(hot poignant love)であるとも,「友情という情熱」(the passion of friendship)であると も説明されているのだ。さらにまた,その「友情という情熱」の訪れ方は,「啓示であり,
予期しないこと」(arevelation and surprise)であったとも注釈される。あたかもモー リスにとって意図を越えた大成功の感動であるかのようである。そしてまた,現世の感激 と同時に,宗教体験にも近づいた歓喜であるとも伝えている。他方,パーティーにとって,
盲目の男に触った行為は恐怖と嫌悪の体験以外のなにものでもないのだ。彼は絶望の深淵 にたたきこまれる。
盲目の男は実験に失敗した。作者は念を押すように,その証拠を目撃させることによっ て妻のイザベルを証人に仕立てる。証人は,成功の報告をする夫の「不思議iな巨人」
(astrange colossus)に似た姿を目撃し,同時に,それとのコントラストを際立たせた,
パーティーの惨めさのために輝きを失った目とに気づかざるをえない。「友情という情熱」
の成就に歓喜してそれに浸っている夫が,盲目であるがゆえに,「殻の壊れた軟体動物」
(amollusc whose shell is broken)の惨めなパーティーの姿を理解できないでいる状況 を眼の当たりにしている。この[知]と[血]の融合実験の結果は,[知]は生の中核で はありえず,生のポーズでしかない,というメッセージを伝えているが,それよりむしろ,
盲目であるがために,その光景を認識しえない盲目の男の「奇妙で,皮肉な結末」図に注 目を集めている。
本能による暗闇の生活と明るい知性の生活との冶体の試みは完壁な挫折に終わった。ロ レンスが伝えようとするメッセージの視点に立てば,すべての構図は,盲目の男の生き方 こそ是非を越えた土台であり,そうであるからには,知性との調和的絆を実現することは どうあっても可能であることを予告していた。しかし,ことここに至っては,[血の洞察]
の生存様式自体がその存在価値を根底から揺さぶられることになった。モーリスは一方的 に[友情]の成就に酔い,歓喜し,パーティーは[殻の壊れた軟体動物]となって崩壊し,
そして,両者の対照図を,イザベルが眺める。これはまさに touch の力が描いた皮肉 の図柄である。ここから, touch は血と知性との間にけっして創造的関係を実現しえな いのだという,それが内包する力の限界が導きだせよう。だがしかし,その見方よりむし ろ,舞台の中央で touch が見せたすさまじい破壊力こそ驚嘆すべきであろうか。 touch の示した驚異の爆発力こそ,作者の思想として強く指摘しておくべきであろう。
ここで,その指摘に二つの意味上の制約を加えておかねばならない。
その第一は,作品が試みている,二つの対照的な価値を表す生存様式の融合実験であり ながら,モーリスが二つの立場にまたがっていることと関係している。すなわち,モーリ スは触る側であり,かつ,触れられる立場をとっている。この「触れられる立場をとる」
という表現における受動と能動の同時性が問題の所在を示唆している。つまり,すでに見 てきたように,モーリスはパーティーから触れられる受動行為にたいして能動的にその契 機を相手に作用しているのだ。けっしてただ単に受動を守って触れられているのではない。
「触れたまえ」と言われて深い傷跡に手を伸ばすとき,パーティーはすでに「催眠術にか けられたかのよう」な状態に陥れられている。モーリスの手が相手の身体に触る行為は,
asoft, firm grasp , softly closing , a fine, close pressure , the soft travelling grasp に見られるように, touch の[手触りの柔らかさ][肌理の細やかな手触り]を 特色にしている。モーリスはけっして催眠術師ではないし,直接の因果関係を結論づける のは危険であるにしても,彼の touch のハンド・パワーは催眠効果をもっているのは 事実となっている。
touch についての第二の制約は,作者の思想上の実験と関係する。モーリスの touch は,暗に相手に自分の生存様式を認めさせ,それへの順応を要求する狙いをもった,相手 のアイデンティティ発見の接触であった。モーリスにとっては,パーティーの肉体に触れ る行為自体, touch のアンチテーゼとする相手の[知]との対照法において,自分の生 存原理の表現そのものである。それは紛れもない賭である。その接触は男性同士の絆を実 現するか否かの賭である。丁度,Womθ厄η五〇〇εのバーキンとジェラルドが友情の成 就を試みた肉体の接触のように。[血]の生き方を是認し,[知]の生き方を退けることで,
ロレンスは一つの生き方というか,一つのメッセージを伝え終えた。盲目の男の接触行為 は, touch に作者の思想実験の鍵を預けた。そういった意味で touch を位置づけるこ とが,第二の制約である。
(2)暗闇の4touch
「奇妙で,皮肉な結末」に見られる自嘲のロレンスの生身像,思想の開拓を試みて挫折 をあからさまにした冒険家のロレンス像,といった呼称はいずれも言葉の芸術家としての ロレンス像の核心を突かせることから逸れている。しかしまた,それらは天才のむら気に よるのだとも考えられる。実際,ロレンスがメッセージを伝えるのに一途のあまり,芸術 的・文学的客観性を欠く操作が導いた結果,すなわち,小説作法上の勇み足,を露呈する ことはさして珍しくない。 The Bユind Man に限ったことではない。勇み足という意図 しない文学上の欠陥は,非文学性と呼んで一般化が可能なほど挙げることができる。しか し,ロレンスの非文学性などと呼ぶのも,裏返してみれば,多くの優れた言語芸術表現の 発見があるからに他ならない。 The Blind Man 論のコンテキストのなかで言えば,高 い評価を要求する秀でた表現が散見しているのだ,ということである。
モーリスを探しに外へでたときパーティーが「夜の暗闇」・「雨」・「風」に直面して思わ ず覚える萎縮や恐怖は,彼の都会風に洗練された知性派の急所を暴いている。E. M.フォ ースター(Forster)流に言えば,彼は典型的な「偏平人物」(a flat character)に属す る。したがって,そういった人物造形(characterization)から言うならば, touch に よって彼の知性という「殻」を打ち砕いて脆弱な正体を醜く晒したのが[血]のモーリス
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であることから,この現象は論理に叶っている。ことに,性格造形を言うからには,女性 との接触をおびえて,そのために軽蔑を買っているパーティーの非生産的な像をつけ加え,
さらに[血]が[知]の対極点であることを考えあわせるとき,このうえなく論理にした がっている。性格づけをそのまま生存様式に直結させているロレンスの性格造形の捉え方 からは,当然予期できることであった。
このように,予期を裏切らない[血]および[知]という人物の型が,ロレンス文学を 読むコードとしてモーリスとパーティーに填めこまれている。このことは,ロレンスの二 元論の認識方法からもさして困難もなく演繹できよう。
こうして,盲目の男モーリスに関しても同様に,類型化というロレンスの手法から考え ることができるし,そのように考えなければいけない。つまり,彼の扱い方は,ロレンス の思想の代弁者として作品に登場するタイプがそうであるように,理解のコードは秀抜な 表現そのものに組みこまれている。それは,彼の生き方は叙述表現自体によって表されて いる,と換言できる。それが大きな特徴になっている。
ロレンスの作品のなかで暗闇を舞台にした名場面は数多いが,それが名場面として評価 されるのは偏にその描写力や表現力が卓越しているからである。 The Blind Man の暗 闇の場面は,7肋Rα励。ωでウィルが娘を抱いて厩の暗闇のなかで飼料配りをする,あ の立体的,ドラマティックな神秘のシーンには及ばないにしても,われわれを魅了するだ けの言語芸術化に成功しているのは否定できない。
Pervin moved about almost unconsciously in his familiar surroundings, dark though everything was. He seemed to know the preserlce of objects before he touched them. It was a pleasure to him to rock thus through a world of things,
carried on the flood in a sort of blood−prescience. He did not think much or trou−
ble much. So long as he kept this sheer immediacy of blood−contact with the sub−
stantial world he was happy, he wanted no intervention of visual consciousness.
In this state there was a certain rich positivity, bordering sometimes on rapture.
Life seemed to move in him like a tide lapping, lapping and advancing, enveloping all things darkly. It was a pleasure to stretch forth the hand and meet the unseen object, clasp it, and possess it in pure contact. He did not try to remember, to viualise. He did not want to. The new way of consciousness sub6tituted itself in
him.(E1τgZαπ(1,.ル乏y EηgZαπdl, P.64)
描写を言葉による説明に頼っている箇所も散見するが,表現自体がモーリスの感覚となっ て存在している箇所がある。
物を視覚化できない人にとってそうであろうと想像される感覚の状況を,きわめてリア ルに現出している。 blood−prescience は抽象概念を越えていないが, rock や carried on the flood などの感覚を伝える語句が体験にまで接近させることでその抽象の冷たさ
を救っている。その意図は,暗闇のなかで生きているモーリスにとってけっして観念や抽 象の形で存在するのではないことが,掛け替えのない生そのものであり,かつ,生の現実・
歓喜の泉であるといったふうに具体化することにあるのであって,ある程度成功している
と言えよう。直に物と触れる生き生きとした感覚,触れることがすべて生の唯一の窓口で あるほどに切迫した感覚,それが実に巧みに捉えてあるからである。しかも,それが感 動であり,歓喜であることに,モーリスの生き方が表れている。 like a tide lapping,
lapping, and advancing, enveloping は,内部から湧きあがってきて,ひたひたと打ち 寄せる「生命」の波が歓喜のリズムと重なっている。こういつた表現が,モーリスの存在 様式やその価値を認定するのである。
blood−prescience や blood−contact あるいは pure contact など,ともすれば虚 辞に堕しがちな用語,あるいはそれらの志向を集約する責任を引き受けた the new way of consciousness の表現にみられる観念性は,いずれも描写によって救われている。
「新しい意識の在り方」とは,言うまでもなく,触れる前に対象が分かって,考えたり,
悩んだりしなくても touch に安住できる盲目のモーリスの「暗闇」を母胎にしている が,この「暗闇」の世界を厩の「暗闇」に置き換えて考察してみよう。こう試みるのも,
一つには,ロレンスは盲目の「暗闇」を厩の「暗闇」と等価値にみているのではないかと 推測するからであり,もう一つには,盲目の「暗闇」がそれを歓喜とするモーリスの専有 であるばかりでなく,それを越えて,人間関係の絆として他者に働きかける力をもってい るからである。
つぎの引用文を考察しよう。妻のイザベルが降る雨をついて厩のなかまで夫を探しに来 た場面である。
She could hear and feel her husband entering and invisibly passing among the horses near to her, in darkness as they were, actively intermingled. The rather low sound of his voice as he spoke to the horses came velvety to her nerves. How near he was, and how invisible!The darkness seemed to be in a strange swirl of violent life, just upon her. She turned giddy. (1〜)ε(1., P.62)
このような抜群の伝達力に満ちた文章に出会える歓びはロレンスを読んでいる者のみの 特権といえよう。
ここでも,妻の感覚を通して,モーリスと馬のつながりが,馬に話しかける男の意味体 系化してない声だけの言葉,イザベルに目眩を起こさせるほどに,むせるような馬の体温 で充満した厩の暖かさ,など描写そのものによって達成されて,現実のものになっている。
人と動物とのこの関係の成就に欠かせないものとして,背景に life giver の雨がある ことを忘れてはなるまい。
この情景描写はロレンス文学のテーマにとって必須のセレモニーである。馬,暗闇,雨,
鳥,月,樹などは,テーマの完成には欠かせない記号の役目を務めている。その記号の一 つである「暗闇」は,今の場合,上記引用文のなかで特別に取り扱う必要がある。
イザベルの視覚がモーリスとパーティーとの関係の失敗図の証人となったが,ここでは 彼女の触覚が,モーリスと動物のつながりが「暗闇」のなかで成功した,見えない図の証 人になっている。これは,なによりもまず,「暗闇」はまさに一つの存在価値を具象化し て存在しているのであって,たんなる価値や存在様式の表象ではない,というインデック スになっている。「渦」として感覚が受けとめうることは,「暗闇」は触れることが可能な
D.H.ロレンスの中期の短編をめぐって一 touch をキー・ワードにして一(1) 15
存在感を獲得していることだ。触れることができるということは,「暗闇」がいわば[も の]として在ることである。
この「暗闇」を別の角度から証明するのが, velvety である。モーリスが馬に語りか ける声の低い音が妻の神経に響く「ビロードのように滑らかで,柔らかい」反応が注意を 喚起する。ここでは,あたかも聴覚が触覚と同一機能をもってきて,質転換を行っている ようである。聴覚の反応が触覚のそれに転換されている。(8馬に話しかけるモーリスの言 葉は人間社会の約束としての言語体系から逸れ,そういった意味からは普通の意味をなし ていないと想像されるが,モーリスの語る言葉を馬が[優しさ]や[愛撫]として本能で 受けとめているのは確実であろう。それは丁度,モーリスの馬に話しかける言葉が人間社 会での意味体系から外れているだけに,力やその効果という点で,盲目の「暗闇」のなか での接触,すなわち皮膚感覚を通さない直感的把握(blood−prescience)に似ている。そ の[優しさ]や[愛撫]が妻の聴覚に「ビロードのように滑らかで,柔らかい」触感で伝 わるのである。
このように解釈してくると,「暗闇」は一つの特殊な磁場を帯びてきて,モーリスにとっ てばかりでなく妻にとってもまた touch の対象となる性質を備えてきている,という ことになりそうである。
[註]
(1)本稿の一部は,1992年5月22日福岡女学院大学において開催された「日本ロレンス協会第23回 大会」のシンポジウムで発表した論文を加筆・修正したものである。したがって,本題も同シン ポジウムの題目「中期の短編をめぐって一 touch をキー・ワードとして一」に準拠してい る。また,「中期の短編小説」とはEπ8日頃ηd,皿y Eη8 Zαπd(1922)中の10編( England,
My England , Tickets, Please , The Blind Man , Monkey Nuts , Wintry Peacock , You Touched Me , Samson and Delilah , The Primrose Path , The Horse−Dealer s Daughter , :Fanny and Annie )である。
(2)上記シンポジウムの席上,司会の西村岩雄氏が次回に向けての提案の形で発言された,啓発的 な示唆である。
(3)この作品は,1917年3月,TんεEη8・Z 8んRεひ εω誌上で公刊され,のちに,1922年のEηgZαπd,
ル毎Eη8Zαη(1に収められた。
(4)ロレンスの作品中,男女が絆を完成する際に見られる身体上の美の基準が伝統的な価値判断に 拠らない例がほとんどである。
(5)男は大金をもって帰国するが,その金が妻との和解に直接貢献することにはならない。 You Touched Me において,ヘイドリアンのマティルダとの結婚は金銭上のトラブルを巻き起こ すが,この財産相続の問題が結婚の可能性を複雑にしている。また,大金を男が持ち帰るのは,
アメリカからであるが,ヘイドリアンがマティルダを魅惑する[生命力]を軍服に包んで帰国す るのはカナダからである。アメリカやカナダは,ロレンスの想像力にとって,そういう働きをす る土地であったと思われる。
(6) The Blind Man は1920年7月,丁舵Eη8ZεsんRθひ eω誌上に初めて公刊され,のちに Eη8Zαηd,1匠yEη8Zαηdに収められた。1918年の夏,ロレンスがフリーダとカーズウエル (Carswe11)夫妻をLydbrookに訪れたとき,着想を得たといわれる。
(7)1918年!2月5日づけのK.マンスフィールド(Mansfield)宛書簡より。
(8)聴覚の対象となるものを触覚の対象に変換する考え方を認めると,どうしてもロレンスの想像 力のなかにアニミズムを持ち込んだうえで解釈をすすめていくことになろう。