教育音楽の諸問題(1)
山 野 誠 之*
(昭和55年10月31日受理)
On the Problems of Musical Education(Part I)
Seishi YAMANO
(Received,October31,1980)
まえがき
教育の場における音楽は,当然のことながら音楽以外の教育の場と深くつながりを持つ ものであり,本来ならば教育一般を論じてのちに音楽教育に入るべきであるが,ここでは公 教育における音楽の在り方を下記の点から論じることとする。
III 皿
芸術教育としての音楽教育を探る。
授業論の前提としての音楽教材論。
生き生きとした歌声とは。
1 芸術教育としての音楽教育を探る。
我々が音楽教育に目をむけるとき,留意しなければならないことは美一般の教育と芸術 教育全般への視点を見失わないようにするということである。何故ならば,音楽とは何か という認識が確定していないし,その定義づけも時代によって,また人によっても異なる からである。周知のように,今日西洋で用いられている音楽という言葉はギリシア語の μoレσ切力から起こっている。ムシケーは広義には文芸一般をさし,狭義には今日の音楽を
さすと考えてよいが,実際にはそれよりもやや広く音楽(music)を中心として,詩
(poem),舞踊(dance),演技(drama)などを包括した総合的な表現芸術をさしてい た。芸術教育としての音楽教育を論ずる者は,自己の持つ「音楽」の概念に常に批判を加 えつつ,教育の場における実践を積み重ね,新しい音楽教育体系の創出を目指すべきであ ろう。筆者は現場にたずさわる教師との交流,および筆者自身の実践の中から音楽教育を 次のように定義し,その構成部分の検討を試みることにより,音楽教育の幅広い可能性を 追究することとしたい。
『音楽教育とは,子どもや若者の生命の燃焼(a)を,音という現象を媒介(b)とし て,成長過程における主要な表現形態(c)で豊かに表現させ,その積み重ねによって人 間関係(d)を密にし,新たな成長過程における主要な表現形態(c )へと力強く移行さ
*長崎大学教育学部音楽教室
せようとする教師の主体的,個性的な表現活動(e)である。』
(a)生命の燃焼
多くの教師は,音楽教育にとりくむ姿勢をきわめて抽象的に「子どもを信じることが大 切である」と表現している。それでは,子どもの何が教師の信頼に値するのであろうか。
教師は子どもとの日々のかかわりの中から,子どもの持つ生命力とその燃焼のすばらし さは否定することができないということを,きわめて確かな実感として持っている。「子ど もを信じる」とは,子どもの生命の燃焼の豊かな可能性を確信し,そこに教育活動の足場 を求めていると理解することができる。「子どもを信じる」とはまた,子どもの個性を確信 することでもある。子どもの個性とは,生命の燃焼の仕方が一人一人個性的であるという
ことである。教師は,おのれのかかわる個々の生命の来たるべき燃焼にそなえて,必要な あらゆる準備にとりかかる。一般化された発達段階や領域の系統性を追うための準備は,
しばしば生命の燃焼を阻害する。また,子どもが表現技術の修得を目指して主体的に自己 訓練を行う場合,結果的には次の活動の準備になるとはいえ,基本的には技術修得の活動 自体をひとつの「生命の燃焼」としてとらえることができる。子どもの生命が個性的に,
豊かに燃焼するとき,子どもの実在感情は音楽の実在感をともなって「おなかがへるほど うたえるなんてすばらしい」「演奏があまりすばらしかったので腰が抜けた(しばし立ち上 がることができなかった)」などのごとくに大いに高められ,確かなものとなるのである。
(b)媒介としての音現象
人間の聴覚機能は,子どもが立って,歩き,走ることができるようになるとまもなく 完成すると言われている。この過程における自然(人為を含む)の音は,媒介として子ど
もの実在感情を刻々と高めつつ聴覚機能を完成へと導く。この意味では,自然の音はすべ て,子どもにとって最も生き生きした教師である。したがって一般に子ども・若者は,生 き生きした音楽活動に触れると,その時期なりの実在感情をともなったうけとめ方や感じ 方をする能力を持っていると考えられる。環境としての音現象・音楽活動には,教師が与 えてはならない対象(年齢や時期)というものはないと言える。この場合に考慮ざれなけ ればならないことは,身体の年齢的条件(耳の高さなど)によって聞こえ方が違ってくる ということである。教室の構造に限って言うならば,子どもの耳の高さでまとまった音を 聴くことができ,またその音を足の裏でも充分キャッチできるような教室構造であること が望ましい。また,最近の音響機器の発達には目をみはるものがあるが,これにともなっ て,子どもが動きまわる余地のないほどに機器がひしめいた教室も見られるようになった。
このような教室においてはもはや,自分の位置を変えて音楽する,動きながら音楽する,
さまざまの大きさに集団を作って音楽する,などの可能性は狭められ,場(situation)の 変化によって生み出される音の多様な媒介作用は全く損われる。以上のことから,音の媒 介作用に場を与える教室の構造およびその活用は,音響関係諸学と生理学・心理学などの 助けを借りて,総合的見地からバランスよく考察されなければならない。
子ども自身の内に生理的に起こる音現象として重要なことは,いわゆる「変声」である。
変声とは,まさに自分の発する声音が変質するという大変なできごと(event)なのであ
る。自分の声に対する驚きであり,自分自身に対するまばゆさであり,とまどいでもある。
また開けゆくひびきの可能性に胸をはずませるチャンスでもある。変態をとげる声の姿を 追う(耳でたしかめる)こと自体が生き生きとした音楽活動となり,新しい教育の場が形
成される。(c)主要な表現形態
表現形態を考える時,まず子ども・若者の成長過程のある時期に,最も得意なやり方,
あるいはある一つの形でしか表現できない主要な自己表現形態というものがあるかないか ということが問題となろう。学習指導要領にはこの問いに対する基本的な考え方が示さ れていないばかりでなく,次に述べるようないくつかの問題点が含まれている。第一に,
学習領域ごとの発達段階が機械的に想定されていること。第二に,すべての領域の感覚や 技能が並行して発達すると見なし,領域ごとの系統性偏重と能力主義に陥っていること。
第三に,幼児から大人にいたる表現形態が同質的連続の単なる向上であると見なしている こと。これらの諸問題は音楽という枠を越え,生理的・心理的な観点から,また人間関 係の中から再検討されなければならないであろう。
筆者は,子ども・若者の音楽活動における自己表現の形態は,質的に異なる四つの時期に分 けられるものと考える。それは,①反射的模倣の形態(時期)②技術的訓練の形態(時期)
③内面表現の形態(時期)④感性・技術・知性のバランスを求める形態(時期)である。
これら四つの表現形態についていま少し考察を加えたい。
①「全身を耳にして聴く。聴くと同時に反射的に模倣する」という一連の運動を,全体と してひとつの自己表現形態と見るのである。ここでは「模倣すること」だけを自己表現活 動と見るのではなく,むしろ「聴くこと」そのことが自己表現の核であると見なすのであ る。子どもは,媒介としての音現象をそのまま反射的に模倣することによって,音現象そ のものに実在感を与えると共に,おのれ自身の実在感情をも高める。また子ども一人一人 は,本能的に模倣の対象を選択する。我々はそこに,まぎれもない子どもの個性を認める ことができる。
②「技術的訓練に集中する」ことの例として,ピアノやリコーダーの音階練習に集中し ている場合をあげよう。それが真の集中であるならば,それはある表現のための単なる準 備ではなく,音階練習それ自体がひとつの自己表現活動と見なされる。技術修得と自己表 現を別個のものと見なす考え方は,公教育の場において特に根強いものがある。しかも,
技術指導を中心にすえて音楽教育を進めようとする立場と,技術注入主義に反対する立場
とが,表面上は対立しているように見えながら,実は共にこの考え方に立っているのであ
る。その結果として,技術を修得した子どもだけに自己表現のチャンスが与えられること
になるか,あるいは技術修得は,専門家になる特殊な子どもに属すべきこととして極端に
軽視されるかである。このことは当然のことながら,自己表現の形態として技術修得を求
める子どもを二つの異なる意味において阻害することにつながっている。我々の表現作用
の根底にはデモーニッシュなもの,大いなるパトス(感情)がなければならぬ8ギリシア
神話において,プロメテウスがゼウスの怒りにふれ,大鷲に肝臓をついばまれる危険をお
かしても,人間のために火という技術を手に入れたように,技術を求める行為もまたデモー
ニッシュな衝動にもとづいた表現活動と見なすことができる。
③ある教師は,子どもへの深い愛情と観察を通して,この時期における子どもの内面の 変化の過程を次のように述べている。「ギターを弾く子どもに限って音楽の成積は悪いし素 行もよくないという新師がいるが,私はそうは思わない。わかってもらえずに心が沈んで いる時,ギターという楽器に出会い,友だちになり,ギターが好きになったのだ」と。心と からだのアンバランスの中で,黙りこみ,もがき,自己表現の方向を何とかして探ろうと する姿が,この文章の中によくあらわされている。我々は,この子どもの自己表現形態が 内面表現という新しい形態へと移行したことを認めるのである。
④反射的模倣・技術的訓練・内面表現という体験の積み重ねはそれぞれの形態における 豊かな開花を経て,若者を音楽の知的探求へ導くと共に,その表現形態は感性・技術・知 性のバランスを求めてたくましい結実へと向かう。人が音楽とかかわりながら生きていく 上における究極の課題は,真の意味の「音楽の生活化」すなわち,「おのれの人生の中に音 楽(音楽すること)をどのように位置づけるか」ということである。この課題に対する回 答は,人それぞれ,おのれの理性の働きに待つべきものである。
教育の場において,音楽の教師に課せられる任務の一つは,子ども・若者相互間の,あ るいは子ども・若者と教師の人間関係の中にあらわれる彼等の主要な(最も得意な)表現 形態を探り出し,その表現形態をできるだけ豊かに開花させ,新しい表現形態へとスムー ズに移行せしめることである。
(d)人間関係を密にする
人は自己をのりこえるプロセスにおいて,どうしても真剣な人間関係を結んでいかざる を得ない。子どももまた人間関係が密になることによって高められるのである。音を媒介 として子ども相互の人間関係・子どもと教師の人間関係を密にすることもまた,表現形態 の開花や移行と関連して,音楽の教師に課せられた任務の一つである。
子どもは遊びの場においては,音を媒介として様々のダイナミックな人間関係を結びっ っ生き生きと活動しているわけであるが,教室の中すなわち音楽の授業においては,その 人問関係はきわめて平板であるようだ。子どもはいつも同じような姿勢で机に向かい,音 楽の教科書を広げてか細い声で歌っている。教師はピアノにくぎづけで必死に伴奏して いる。このような授業のパターンは,日本の音楽教育においては未だに典型的な形として 存在しており,一般的に子どもと教師の結びつきはきわめて緩く,子ども相互の人間関係 もまた疎であると言える。この現状に対して,「ピアノにへばりついていてはどうにもならぬ」
「子どもに指揮させてみてはどうだろう」などの反省や試みがなされているが,「音を媒介 として,子ども相互の人間関係をどのようにして密にすることができるか」という観点か らの実践や研究は少なく,今後の課題として残されている。
しかしながら,教師がこの課題と真剣にとりくみ,この任務を遂行する上で大きな障
害となっているものは,現在の入試制度とそれに規制された受験指導体制である。受験指
導体制に組みこまれた音楽の授業における子ども・若者の状態を,多くの教師は次のよう
に述べている。「受験に必要な主要教科だけやればよいと考える子どもが多い」「技能教科
は無気力になり逃避的になる」と。そこでは,子ども・若者を選別する手段と化した教科
が主要教科と呼ばれ,教科としての音楽は技能教科として低く見られる。また,子どもの 学習活動や表現活動はすべて能力差として評定される。ここから教師と教師の離反,子ど もと子どもの離反がおこり,子どもと教師の離反(教育不能)へとつながっていく。この ような悲しむべき現実を克服していくことは,一人の教師にとってあまりに大きな課題で あるにしても,技能教科という卑屈な呼び方をやめて,芸術を教育する教師としての誇り をとりもどすことによって,道は必ず開けて行くであろう。
それならば「誇り」とは何か。また,真の誇りはどのようにして培われるのであろうか。
畢寛,教師が一人の音楽人として,常に他のすぐれた音楽人と新しい真剣な人間関係を形 成していく以外にはあり得ないであろう。そしてそれは,純粋な意味における音楽活動の 場において結ばれた人間関係でなければならない。ある時には高度の演奏技術や創作技術 を修得するための交流であり,またある時にはより深い音楽性を求めた交流であることも あり得よう。いずれにしても,この際にしっかりと踏まえておくべきことは,子どもにとっ て最も身近な「音楽的環境の一部」として,自らの「技術」を正しく位置づけておかなけ ればならないということである。ここで言う「技術」とは,子どもをとりまく音楽環境を より厚みのある多様なものへと変化せしめるに値する技術,すなわち創作技術・演奏技術・
鑑賞(解釈)技術・組織(運営)技術等の広義の音楽的技術を意味する。
ここで再び,子どもをめぐる人間関係へ戻ろう。子どもは本来,大人社会の機構や商業 主義から解放され自由である時に,すなわち遊びの中において最も生き生きとしている。
音楽教育の場においても,まず子どもを一たん遊びの状態に戻し,新たな結びつきの条件 を整えなければならない。こうしておいて,子どもどうしが先に述べた四つの表現形態の うちのどの形態によって最も緊密に結び合うかを綿密に観察する。観察の積み重ねと考察 によって,現在の子ども(個および集団)の主要な表現形態が浮かび上がってくる。ここ で,教師は二つの責任ある判断を行わなければならない。第一は,「目の前にいる子どもの 主要な表現形態は何であるのか」という判断。第二は,子どもの主要な表現形態を開花さ せるために「いかなる方法をもって働きかけるか」という判断である。この二つの判断に よって,これからの一連の教育活動はイメージとして形成される。またこの二つの判断に 誤りがなければ,人間関係における障害を最小限にくいとめることができるであろう。教 師は,子ども・若者の中に共にある一人の音楽人として,個性豊かな自己表現を行いつつ,
かれらと真剣な人間関係を結んでいくこととなる。かれらの主要な表現形態へ向けて全人 格的な働きかけが行われる。ここに至って,子ども・若者の柔かい人格の中に沈んでいた ものはあふれ出し,感動(emotion)の波が起こり,個性的な自己表現として結実してい く。しかし時として,教師の働きかけが強いにもかかわらず(あるいは強いほど)一定の 反発や離反も起こるかもしれない。その原因としては①入試制度(より広く考えれば教育 制度そのもの)に起因する外からの強制的離反②マスーメディアによる結合と離反,また は半結合(間接体験による実在感情の減退)③内からの主体的離反(生き生きした離反)
を挙げることができよう。①はくり返費ないとして②の例を挙げれば,レコード鑑賞はマ
スーメディアによる人間関係の変形としてとられるべきもの。したがって,その前後にそ
なま れに関係する直接体験(いわゆる生の体験)が補足されなければならない。③としては教
師の表現と子どもの感性(表現)が一致しない場合などが考えられる。その反発や離反が,
①②③の原因のうちのどれであるか,またどれとどれの複合現象であるのかは,さらに第 三の判断として教師に求められる。それ故に,ここで再び「いかなる方法で子どもに働き かけるべきか」という第二の判断が問い直されることとなる。第二,第三の判断の弁証法 的なサイクルは,止揚された第一の判断へと導かれるのである。
音と密着したさらに微妙な人間関係に関しては「授業論」の実践的研究に譲らなければ
ならない。(cノ) 子どもの質が変わるということの二つの意味
音楽教育の本質や授業の目標として,「子どもの心を開く」「授業の中で子どもが主人公 となる」「子どもの質を変える」という表現がしばしば用いられる。・これらはいずれも音楽 教育の核心に触れており,なるほどとうなずかれるが,いまひとつ具体性に欠けている。
そこでこれらの表現の中身を,(c)において述べた表現形態と関連づけながら具体的に検討
してみよう。まず,「子どもの心」とは,「表さずにいることができない心の変化と動揺と衝動である」
と規定される。また,「子どもが主人公になる」とは,「新しい表現形態を子ども自ら形成 していくことである」と規定される。このことは,授業の中で子どもが活発に動き,一見 主人公になっているかのごとくにみえることとは,一応区別して考える必要があろう。な ぜなら,「新しい表現形態を自ら形成していく」ことの根底には,教師を含む音楽環境の中 から子ども自身が主体的に選びとり,おのれの内へと受容していく心の作用が大きく働い ているからである。
次に,「子どもの質が変わる」という表現が用いられる時には,一般に次のような異なる 二つの意味において用いられているように思われる。①同一の表現形態において表現力が 高まること②表現形態そのものが,質の異なる新たな表現形態へと移行すること。音楽教 育の本質を問えば②によってこそ,より適切に表現され,他方授業の流れの中における実 感をとらえれば①によってこそより切実に表現されよう。教師の行為として見た場合には,
①においては主として子どもに働きかける存在であり,②においては主として観察する存 在である。②における観察が十分でない時には,正しい判断が行われず,①に対する働き かけは十分な効果をあげることができない。反対に,①における働きかけが正しい判断に もとづく場合には,その働きかけが高まれば高まるほど,新たな表現形態への移行②はま すますダイナミックなものとなる。
このように,「子どもの質が変わる」ということは二つの側面を持っていることがわか る。①と②の側面は,教師の判断を仲介として,以上のような関係に立っているのである。
(e)教師の個性的,主体的な表現活動
これまで(a)から(d)(C )にわたって論じてきたことから,教師は次の二つの事を,さし 迫った実践的な課題として自覚しなければならない。第一に,四つの表現形態の中の少な
くとも連続する二つの表現形態に対応できる態勢を作っておくこと。たとえば,反射的模 倣の時期にある子どもとかかわっている場合には,教師自身,主として子どもと同質の,
すなわち反射的模倣の表現形態で子どもに対応しつつ,一方において,子どもがまさに反
射的表現形態から技術的表現形態へ移行しようとする時には,教師自身ただちに技術的表 現形態で即応することができるようにしておくということである。このことは,子どもの 持っている「よさ」,すなわちある表現形態における生命の高次の燃焼と,それによって達 成された形における洗練とを受けとめ得る鋭敏な感覚と,表現形態の変化に対応すること のできる柔軟性を合わせて持っていることが,音楽の教師に求められる資質の一つである ことを示している。我々は,この資質を出発点として「教師論」へ進むことができるし,
教師養成の視点を明確にすることができるであろう。
さし迫った第二の課題は,教師の個性的,主体的表現活動を高めることである。多くの 教師は,このことの緊急性を次のような反省の中で訴えている。「子どもとの約束ごとに よって授業を進めているが,そこには教師による音楽的自己表現がみられない」「子どもの 創造性を高めるには,教師自身が創造的でなければならない」「教師が変わるための手だて が急務である」と。人間関係についてはくりかえさないとして,音楽の教師は,身近におこる 音楽的なできごとに関心を持ち,創造的表現活動に参加することによって,おのれ自身の 主要な表現形態を見いだすことができる。ここに教師は単に教師であることを超えて,真 の音楽人となるのである。音楽人となり得た教師こそ,子どもから独立した,真の音楽環 境たり得るのである。
以上に述べた二つの課題から,教師は子どもに対する二つの異なった態度を区別するこ とができる。一つは,子どもの主要な表現形態に合わせていく態度であり,他の一つは,
それにとらわれず自らの自己表現を優先させる態度である。実際の授業は,教師の判断に もとづいて,二つの態度をくみあわせながら進められるのであるが,二つの態度のくみあ わせ方は,教師の個性として授業の中に反映されるのである。
II 授業論の前提としての音楽教材論
音楽教育活動を成立させるためには,その前提として,教師が音楽教材を選びとるとい う行為,または創り出すという行為がなければならないことは言うまでもない。教材をめ ぐる論述に入る前に,筆者はまず音楽教材の分類と学習領域に対する考え方を述べてお きたい。音楽教育において用いられる教材を分類するには,1(c)で述べた子どもの表現形 態との結合のあり方によって分類するのが最も合理的かつ実践的であると考える。すなわ ち,音現象として子どもの表現形態と直接に結び合う第一のグループと,結び合う可能性 があっても一たん音に翻訳されなければならない第二のグループに分類することができる。
第一のグループは,教師自身の提示するオリジナルな音素材や即興表現などがこれに属す る。この教材のグループは,一般にこれまであまり重視されないか,または音楽教材の概 念から除外されていたものである。第二のグループは,従来教科書などに載せられ,一般 的に教材と呼ばれていたもの,すなわち文化遺産としで残されている音楽作品またはテク ニックなどを養成するために特別に作られた教材のグループ(ソルフェージュ教材など)
である。このグループは学習指導要領に示された「領域」の概念に密着している。たとえ
ば,あれは歌唱教材,これは鑑賞教材と呼ばれるように,子どもと新師との関係の外から
与えられた領域の概念に密着している。これに対して第一のグループは,このような領域
の概念を前提とせず,子どもと教師の関係の内から与えられる「表現形態」の概念を前提
としている。このように,音楽の教材を子どもの表現形態との結合のあり方によって分類 を試みる中から,我々は「領域の概念」と「表現形態の概念」とが鮮明に対立していること を知るのである。
いったい,音楽教育の中に領域というものが存在するのであろうか。また教材の分類に さえ有効に働くことのできない領域の概念を,いつまでも引きずっていく必要があるのか。
ここで「領域の概念」について今少し批判を加えてみよう。
はじめに指摘しておきたいことは,学校教育の場では,歌唱・器楽・創作・鑑賞(場合 によっては基礎)という概念が固定してしまっているということである。新学習指導要領2)
において表現と鑑賞という二領域への統合が行われたにもかかわらず,「表現教材」と呼ば れることはない。このことは,多くの教師は一たん領域の概念が与えられると,いっまで もその枠の中で教材をとらえようとすることを示している。
さて,教育の場において,我々がふだん何気なく使っている「歌唱」という概念は,「声 のある音楽活動」というほどの意味であり,「声でなければ表現することのできない音楽活 動」すなわち「声楽的スタイルの音楽活動」という厳密な内容を含むものではない。歌唱 領域に属するものとして扱われている内容や教材は,実際にはほとんどすべて,「声のある 器楽的スタイルの音楽」であり,楽器を用いて,いわゆる器楽領域として扱っても,似た ような教育効果をあげ得る内容なのである。また,鑑賞(appreciation)とは本来,物のあ る場所へ行ってその物の価値を定める(値踏みする)という意味である。音楽活動として の鑑賞も同じく,音を媒介とする価値を求めて新しい人間関係を結んでいくアクティヴな 活動と見なされる。真の鑑賞教育は,ただ名曲を聴かせることではなく,音楽する人に関 心を持ち,音楽人と新しい人間関係を結んでいくためのあらゆる活動について教育するこ とである。このことは,鑑賞が価値を求めるアクティヴな活動である限り,やはり自己表 現の一つの形態であることを示している。したがって,「表現」と「鑑賞」という二つの領 域概念は,本質的には存在根拠を失うのである。さらに見逃すことができないのは,「基 礎」という領域概念のもたらした幣害である。多くの教師が実施した子どもの意識調査を 見れば明らかなように,音楽の授業がきらいな理由の一つとして「階名や記号の勉強がい やだから」という基礎領域の指導内容と考えられていたものが必ず登場する。このことは,
「基礎」という領域概念とその系統性にとらわれ,多くの音楽嫌いの子どもを作り出して いった教師の姿を浮き彫りにしている。音楽教育においては,基礎指導を系統的に行うか
ら基礎が伸びるとは言えないのである。
最後に,一見関係がなさそうにみえる「基礎的な学習項目」と1(b)において述べた
「変声」との結びつきをみることにする。「変声期にも生き生きと歌わせるにはどうすれば
よいか」という悩みは,多くの教師が懐いている一般的な悩みであろう。この問題も,歌
唱領域という概念の枠の中でとらえようとすれば,袋小路に迷いこんでしまう。この時期
の若者にとっては,自分の声が深くなり,輝きが増し,音域も少しずつ広がっていくこと
は,大きな驚きであり,成長の実感である。特に男子の場合,音域が下方へ大きく広がる
ということは,βれだけ豊かな部分音(倍音)を獲得することであり,その音現象を自分
の耳で感じとることができた時には,それは大きな感激となるはずである。また,基音と
して下へ下へと広がっていく自分の声を,実音として一つ一つテノール譜表やバス譜表に
記譜していくことは誇らしくさえあるだろう。記譜という学習項目もまた,真に教育的な 指導を行おうとするならば,変声というチャンスと結びつく必要がある。
以上のことから,「領域概念」の非合理性およびその幣害は明らかであろう。今や,我々 は「領域」の概念と訣別し,領域概念から離れた自由な立場から教材を眺め,子どもの表 現形態へと結びつけることによって,実証的な研究へと進むべき時である。
さて,いよいよ音楽教材に関する具体的な論述を行うこととしたい。既に分類した第一 のグループは,教師が創り出す創造的・形成的な教材であるから,批判的研究の対象とし ては確定しにくい。したがって,第一のグループは,基本的には授業論(実践論)の中で とり扱うこととなる。ここでは,第二のグループに属する教材を主たる対象として,次の ような順序で検討を加えていきたい。(a)教材選択において要求される教師の判断力と責任
(b)教科書教材と自主教材(c)教材の表現形式と機能について(d)よい教材とはどんな教材か。
(a)教材選択において要求される教師の判断力と責任
前置きとしてこれまでに述べたことから明らかなように,教師は教材を選びとるための 自らの判断力に対して,常にきびしい反省を加えておく必要がある。教師がその教材の価 値を,自らの意識としては自由に,主体的に判断したと思っていても,無意識にせよ与え
られた基準によって下した判断であれば,それは主体的な判断とは言えない。領域とその 系統性という枠の中で教材の価値判断を行ってはならないのである。第二のグループとして分 類された教材は,それ自体としては普遍的な価値をもっているとしても,必ずしも目の前 の子どもの表現形態と結び合うとは限らない。その上,これらの教材はその性質上,教師 の判断によって一定の期問子どもにかかわることとなるから,この時期に与えるという判 断が正しかったかどうかの判定は,一連の教育活動が終了した時点で下されることになる。
これに比べて,第一のグループに属する教材においては,これを与えた判断の正否,すな わち成功か失敗かは一瞬のうちに判定されるのである。以上のことから,教師はおのれの 判断の規準として,①与えようとする教材が第一のグループに属するか,第二のグループ に属するか②その教材が第二のグループに属する場合には,それが目の前の子どもの表現 形態と結び合うことができるかどうか,という新しい視点を確立しなければならない。教 師は常に,この二つの視点から教材を見る訓練と,それにもとづく実践を通して,教材選 択におけるおのれの主体的判断力の形成を,不断に怠らないようにしなければならない。
教師の選びとった教材は,授業の中では絶対的な意味をもつものである。また,すべて の授業は,好むと好まざるとにかかわらず,実験的な性格を持っている。ここにその教材 を選びとったことの責任が発生する。ここで言う「責任」とは,他から与えられた系統性 やカリキュラムなどに対する責任という意味ではなく,子どもの自己形成と教師自身の自 己形成に対する責任であり,その教材を媒介として形成された人間関係に対する責任であ る。教師は教材とのかかわりと授業の中で得た判断力・知識・技術・音楽教育観などのす べてを,次の授業に生かしていくことによって,はじめてこの責任を果すことができるの
である。(b)教科書教材と自主教材
「教科書教材と自主教材を年間カリキュラムの中にどう位置づけ,教科書を自主教材とど うかかわらせるか」「教科書は系統的につくってあるので安易にとびつくが,このままでよ いか」などの教師の悩みや,「学校のうたはつまらない。教科書のうたは古いようでいや だ」というような子どもなりの批判があることは,音楽教育にたずさわったことのある者 なら誰でも知っている。ここには教科書教材の批判と自主教材の意義が,漠然と語られて はいる。しかし,教科書教材と自主教材の根本的な相違,または自主教材の明確な定義づ けが欠けている。「自主教材であろうが教科書教材であろうが,よいものはよいのだ」とい う一般論で収束してしまう状況を考えると,「自主教材とは何か」「自主教材を条件づける 真の根拠は何か」を正面から問う必要があるように思う。
どこから見つけてきた教材でも,自分の作った教材であっても,それらを他から与えら れた領域,系統性,カリキュラムの枠の中で機能させようとする限り,真の意味での自主 教材とはいえないのである。たとえ,子どもの好きなフォークソングなどが教科書に入っ ていても同じことである。教科書検定制度の中で,教材の原作,あるいはもとの姿がどの ようにゆがめられているか,大切な何が落されているかを主体的に判断する時,教科書教 材ははじめて自主教材となる可能性を持ちはじめる。
以上のことから,教科書教材が自主教材であり得るための条件,あるいは教科書教材が 自主教材として活用され得るための条件は,①領域・系統性という観念から自由であるこ と②教科書検定制度,教科書採択のあり方を,教師の主体性のもとに置くこと③子どもの 成長過程を表現形態という視点から,新しくとらえ直すこと④教材を,その曲が生まれた 時のままの状態に戻し,そこから改めて選びとること。これら四つの条件がそろった時に はじめて,教科書教材は領域・系統性という既成の枠を離れて,真の自主教材へと還る のである。教科書教材は,子どもが喜ばないからといって必ずしもそれから離れるべき ものでなく,教材によっては真の自主教材へと発展する可能性を持つものとしてとらえる べきであろう。それ故,一般に自主教材は原作(オリジナル)を探す作業も含めて,教師 自身の足で探し,教師集団の実践と討論の中で検証されねばならない。検証を経た上で再 び子どもとかかわる時,その教材は真に自主教材となるのである。
(c)教材の表現形式と機能にっいて
ここでは,音楽教材そのものに内在する教育的機能について述べる。「音楽人として生き
る」というプロセ久から分離した価値ある文化遺産(第二のグループ)を教材として選ん
だ場合,その教材ははっきりした「形」すなわち,「表現形式」を持っている。さらにその
表現形式はいくつかの構成部分から成り立っている。教材が目の前の子どもの表現形態へ
向って,教師を媒介としてある働きかけをなす時,そこに一定の機能が現れるが,教材の
持つ表現形式のどの構成部分が主として有効な機能を営むことができるかを予測すること
は,教材選択にあたって教師に求められる力量の一つである。それ故に,一般に教材が持っ
ているであろうところの可能な構成部分として,次のような六つの表現形式を区別しておこ
う。①音色的表現形式②リズム的表現形式③音程的表現形式④和音的表現形式⑤フレーズ的
表現形式⑥音量的表現形式(この他にも,音域的表現形式や空間的表現形式などが可能である
かもしれない)。これらは相互に深くからみ合っており,区分することが不可能なくらいである
が,子どもの表現形態との接点を見いだすためには,分析的観察がどうしても必要である。
その教材の特性は,これらの表現形式の組み合わせによって決まる。そして教師は,教材 を目の前の子どもの表現形態に作用させるとき,その教材の特性を限定することとなるの である。それ故,ある一つの教材が異なる表現形態の子ども・若者に適しているという 場合は当然起こり得るものである。「教材の特性」即「何学年向きの教材」という思考の直 行は厳に避けなければならない。教材の持つ特性を,制度としての学年という枠にただち にはめこもうとする姿勢がよくないのである。子どもから若者へ,若者から大人へと成長 する過程において,ある教材がどの表現形式でどの表現形態と接点を持ち得るかという経 験と知識を積み重ねることによって,一定の表現形式と子どもの成長過程との関係に関す
る原理を学びとることができるであろう。
しかしながら,ここで注意しなければならないことは,音楽教材の機能の持つ二面性で ある。それは,一面では子どもの主要な表現形態を開花させる機能を営む一方,他の一面 では蓄積された阻外感やストレスなどからのカタルシス(精神的浄化)的な機能を営むこ
ともできるということである。若者はしばしば,音楽が好きな理由として「心がはずみ,
何もかも忘れるから」と答えるが,これは現在の子ども・若者へ音楽教材が作用している 機能の二面性をはっきり示している。
(d) よい教材とはどんな教材か
「よい教材とは?」と問うならば,人々は様々な答え方をするであろう。身近な文献や討 論の中から拾えば,次のような答があげられる。「歌詞,旋律,曲想において価値高いもの」
「高められ,感動の得られるもの」「子どもの興昧に応ずる,子どもの実態に合ったもの」
「思い出にひたれる,夢や希望をはぐくむもの」「子どもが主人公になれるもの」「子ども の心を開くもの」「子どもがすなおに共感できるもの」「詩の内容が音楽的に形象化されて いるもの」「くり返し歌うことによって表現意欲が集中するような,個性と質の高さを持っ たもの」これらの答から「よさ」のニュアンスをわずかながら感じとることができるが,
「価値」としての「よさ」や「よさ」の「意味」を明確に把握することは困難である。そ こで,「よい教材とは?」という問いの周辺にある次のような諸問題を考察することによっ て,答に近づきたいと思う。
1)音楽の絶対的価値 2)音楽作品の相対的価値
3)音楽作品の持つ歴史性と教材としての絶対的価値 4)教育目標に照らした場合の教材の相対的価値
1)音楽の絶対的価値 1
人がある瞬間に,「音楽はいいなあ!」と感慨をもらす時,彼ははからずも「音楽の絶対
的価値」を認めてこういっているのではないだろうか。すべての時代や地域における音
楽の価値と未来の可能性の総和を「音楽の絶対的な価値」と規定してよいであろう。「よい
教材」は明らかに「音楽の絶対的価値」に含まれる,その価値を構成する一部である。、
2)音楽作品の相対的価値
このように,すべての音楽作品は「音楽の絶対的価値」に含まれ,その一部をなしてい るのであるが,現代を含めたある時代またはある地域の様式をあらわしているという意 味においては,相対的な価値をもっている。音楽作品の相対的価値とは,異なる時代の典 型的な作品を比較して,どちらかが高度の作品であると決定することはできないという意 味である。また,個人様式における個性を比較して優劣をつけることも不可能であるとい うこと,つまり「この作品が絶対的にすぐれている」という唯一の作品はないのであ る。教師はまず,音楽作品の相対的価値について知らねばならない。時代や地域を代表す る作品には優劣はつけがたく,ともに大きな価値を持っているということを。教師は「音 楽の相対的価値」を知るために,すぐれた「音楽的人格」に出会うように心掛けねばなら ない。と同時に,「音楽的人格」として,人に出会わなければならない。子どもと出会うと きも全く同様である。
「音楽的人格」とは,各時代の代表作について深く知っており,それらの遺産を,人との 出会いにおいてオリジナルな形で活用し得る人である。遺産としての音楽は,このよう な人格を媒介として,人のオリジナリティとかかわりを持つ。しかしながらまた,「遺産の 活用」は模倣をも含んでいる。否,模倣から出発し,終始模倣に立脚しているというこ
ともできる。実に,音楽教育の根本問題は,模倣とオリジナリティの関係(誘発のメカニ ズム)を探ることであるといってもよい。
「子どもにはまだむずかしい」「子どもはまだ理解できない」といった,大人の独断こそ,
大変危険な判断である。時間の許す限り,あらゆる時代の代表作をひいてきかせ,うたっ てきかせ,レコードできかせ,合唱や合奏をさせ,模倣させるがよい。
3)音楽作品の持つ歴史性と,教材としての絶対的価値
すぐれた音楽作品とはどのようなものであろうか。一般的には,歴史上のある時期にお ける様式が明確に生かされている作品,いくつかの時代様式が巧みに組み合わされている 作品,あるいはその時代様式をふまえた個性的な表現力を持っている作品であると規定す ることができよう。しかしまたこれとは別の規定の仕方も可能である。すなわち,「人がそ の作品と出会うことによって,生涯のどの時点からか重要な意昧を持ちはじめるような作 品」「ある人のオリジナリティに,いつかどこかで作用し得る作品」というように関係的に 規定することができる。この規定を承認することから,「すぐれた音楽作品は教材として 絶対的な価値を持っている」という命題が導かれる。すなわち,子どもの状態,期待され る反応,その時点での教育的効果などを考慮に入れなければ,価値高い教材は成長過程 のどの時期に与えてもそれなりの意味を持つ。この意味では,絶対的な価値を持った教材 が存在するのである。
それ故,音楽の教師は19世紀的様式(古典,ロマン期),中世,ルネサンス,現代の音
楽に歴史的に広く渉ることがどうしても必要不可欠である。教師が音楽の歴史を軽んずる
時は,教材としてのすぐれた音楽作品が絶対的な価値を持っていることを理解できないこ
とにつながる。教師に求められる「力量」の一つは,その教材が「音楽作品」として絶対
的な価値を持つほどであるかどうかの判断力である。ある時代の様式を代表するほどの作
品であるかを自力で見極める力量である。教師は西洋音楽の様式の変遷を一通り学ぶ必要 がある。少なくとも次の諸様式の特徴と代表作について知っていることが大切である。
①ヨーロッパ中世の声楽(合唱)曲における自由なリズム
②ルネサンス様式における通模倣(ポリフォニー)と純正な協和音
③イタリアのコンチェルト様式における量的対比
④バッハにおける諸様式の総合
⑤ 古典,ロマン期の和声様式と拍節構造
⑥ 印象派以後の諸様式
⑦ごく最近の新しい音楽
いわゆる学校音楽はこれまで,教材といえば⑤,⑥でこと足れりとしてきた。従って教 師は,⑤,⑥せいぜい③,④,⑤,⑥について,作曲の個人様式のちがいとして理解して おけばよかった。③,④,⑤,⑥は前に述べたように,器楽的様式として基本的には同一 様式に属するのであり,その範囲では個人様式だけが重視されていたのも当然のことで
あった。
教材として絶対的な価値を持つもう一つの様式は,①,②及びこれらとの関係における
⑦である。反器楽は声楽という傾向をとるだろうという意味において,または反和声とい う意味において⑦は①,②と何らかの意味でつながっているのである。
教師はヨーロッパの様式を早く整理して,目を非ヨーロッパ文化圏へ向けなければなら ない。最近,文部省をはじめとして,西洋音楽と対置した日本音楽(伝統音楽)の重視が 叫ばれ実践に移されている。しかしここに見られるものは,「非伝統即西欧」から「非西欧 即日本の伝統」へ,といった思考の直行であるとはいえないだろうか。筆者は,日本の伝 統音楽を不当に低く扱おうとするのではない。西欧と日本の伝統を軸として180。回転する 思考パターンに,音楽人として問題点を感じるのである。教材をさがすなら,むしろイン
ド,アラビア,東欧,アフリカ,アメリカなどにおいて「絶対的な価値を持つ教材」を求 めるべきではないか。これらとの比較と関連において日本の伝統を見つめ直してもおそく はあるまい。現代の科学の力はそれを可能にしているのである。
4)教育目標に照らした場合の教材の相対的価値
教育目標に照らした教材の相対的価値について考察したい。いかにすぐれた音楽作品で あっても,特定の教育目標に対しては,有効に働くときと効果のないときとがあること はいうまでもない。一般に教材の価値とは,ある教育目標を達成するために有効に働く 機能そのものを言う。教材は教育目標達成の機能を営んで初めて「価値」を顕すのである。
しかしこの場合の「価値」は,既に述べたような「絶対的価値」ではなく,教育目標の いかんによって,営む機能が高くなったり低くなったりする相対的な価値である。教育 目標を設定するという行為は,基本的には教師の主体性に任せられているのであるから,
教育目標を設定した全責任は教師に帰せられる。と同時に,目標設定行為そのものが教材
の相対的価値を規定する。ある学年にある教科書を与えているとして,教育目標が変われ
ばその教科書教材はほとんど機能を営まず,相対的価値を失うこととなる。そこで自主教
材が必要となり,目標にあった教材作りと教材選びが始まる。
自主教材作りと教材選びは,教育目標を「与えられた目標」ではなく,「主体的にうちた てた教育目標」を持ったときに真に始まる。目の前の子どもたちに,どのような教育目 標を設定するかが,教師にとって最大の課題であると同時に,教材づぐりの出発点でもあ る。では音楽の教育目標は,教師の全くの恣意によって設定されてよいのであろうか。音 楽教育の目標は,教師の主体性のうちにあるが,任意性のうちにあるということはできな
いo
ここで音楽の教育目標を設定する場合の3つの条件について述べてみよう。具体的な教 育目標は,第一に,やはり与えられた観念としての領域・系統性・発達段階にとらわれず,
今の子どもたちを真正面にすえて設定する。第二に,子どもの置かれた音楽的現実の中 から設定する。教師は「子どもの好きな歌」を調査し,分析し,正しく認識していなければな らない。そして子どもの興味の中身が,子どもの創造性を刺激したことによる真の興味なの か,制度(学校,社会)の中で感じる不満のはけ口(低次のカタルシス)としての興味で あるのかを見きわめておくこと。第三に音を媒介として人間関係を緊密にすることを前提 に設定する。これは音楽教育の目標を設定する大前提であるとともに究極目標でもある。
また特に現在の学校制度のもとでは,子どもをとりまく現実が要求する緊急の目標でもあ る。筆者はすでに,「教育目標の設定は教材の相対的価値を規定する」と述べた。したがっ て我々は,音楽教育目標設定の条件に対応する教材の性格が,具体的に規定され得る段階 に到達したようである。第一の条件に対応する自主教材の性格は,当然批判的な見地から 述べられなければならない。すなわち,端的に言えば,学習指導要領の定めた共通教材を 正しく,鋭く批判することによって,自主教材そのものをきびしく批判するという姿勢を 保つべきだということである。第二の条件に関して言えば,子どもの好きな教材と教師 がよいと思う教材をたせば望ましい自主教材の集合ができ上がるといった考え方は,予定 調和的な安易な見方である。教師がよいと思う教材にしても,なぜよいと思うのか,何の ためによいと思うのかがまことにあいまいだ。入試を前提とした学校制度を守るものとし て「よい」のか,それから離れて「よい」と判断されるのかは,最低限しっかりと区別 して考えられねばならないだろう。現在の入試制度のもとでは,「思い出にひたれる曲」「夢 や希望をはぐくむ曲」も,自主教材選択の共通の美学とはなり得ない。なぜならば,入試 制度があるかぎり,低次のカタルシスとしての歌詞が幅をきかすことはあ浜り,にも朋白だ から。「ぱかない夢や実現性のうすい希望」を音の厚化粧でかざりたてねばならないだろう から。 , 、
第一の条件に対応する教材論と、して,新・旧学習指導要領の共通教材に対する批判を試み ることにしよう。(共通教材を設定することの是非はごこでは論じない)
まず共逗教材を見わたして気がつくことはゲ(ひのまる),(春の小川),(子もり歌)の ように「リズムの画一化」に陥っていることである。4分音符が行儀よくならんでいるだ けの,おもしろくない,変化のない,拍節だけの教材である。ここには,共通教材の配列 によるリズムの系統性という、ものは礒とんど見られない。
次に問胆と、なるのは,rフレーズの画一化」すなわちr小節構造の画一化」に陥ってい
ることである。(ひのまる),(春の小川),(もみじ),(わかれ)〔旧〕一後述一(シ立一ベル
トの子守歌)〔旧〕,(故郷の人々)〔旧〕これらはみ鶴 2+2=4という同一のフレーズ
構造の曲である。しかも「わかれ」にいたっては,ドイツ民謡の生き生きした原型(号拍 子,3+2=5)の小節構造が,奇拍子,2+3二5の小節構造へと変更させられている
という念の入りようである。このような原型のわい曲がどうして起こるかといえば,学習 指導要領が外国の民謡などを共通教材と定める際に,作詞者を特定の人に限定している」
からである。「さらばさらばわがとも……」の歌詞によって,拍子とフレーズ構造が会拍 子,2十3=5という形に限定され,わい曲されているのである。
外国の民謡や歌曲を共通教材と定める際に作詞者を一人に限定するという画一化こそ問 題となるべきことである。変化に富んだフレーズ構造をもつものとして,ドイツ民謡の原 型としての(わかれ)そ拍子,3+2=5と2+2二4,日本人の作品としては,(やしの 実)〔新〕会拍子,1+3;4と2+2二4と2+3=5などを対置して考えると一層よく 理解できるであろう。共通教材におけるフレーズ構造の画一化は,小学校1年から中学校
3年までの9年間の系統化には耐えられない内容なのである。
さらに,共通教材(特に小学校)を歌詞を含めて歌全体として見た場合,子どもと自然
(人も含む)との関係が平板で画一的であると言える。子どもが,自然を没個性的にただな がめているだけであり,子どものからだの動きや心の動きが音として形象化されていない。
子どもと自然の個性的な関係が音として形象化されている教材「めだかの学校」における
「そっとのぞいてみてごらん」(卿,IV→VI)と反復時における(ρヵ,II§→1茸→)の関 係,また2番の歌詞「だれがせいとかせんせいか」における同様な関係,「やしの実」にお
ける心の動きなどを対置してみるとよく理解できるであろう。(未完)
主
一言口
1)三木 清:哲学入門,1976(岩波新書)p.177
2)昭和43年小学校学習指導要領(音楽)および昭和44年中学校学習指導要領(音楽)においては,各学
年の内容として,A基礎,B鑑賞,C歌唱,D器楽,E創作となっていたが,新学習指導要領において
は,A表現,B鑑賞となっている。
参考 文 献
竹内敏雄:美学総論,1979
三木 清二哲学入門,1976(岩波新書)
教育出版=小学校新学習指導要領の解説と展開,音楽編,1977 教育出版:中学校新学習指導要領の解説と展開,音楽編,1977 平凡社二音業辞典,1959
日教組編:音楽教育一私たちの教育課程研究,1969
パウル・ベッカー:西洋音楽史,大田黒元雄訳,1955(新潮文庫)
諸井三郎:若き音楽人のために,1950