日本における夢研究の展望補遺
(Ⅳ)籠りの夢の問題 名 島 潤 慈
A Supplement a Hot lacirosti eivtecprsPe Dream fo Research inJ apan I()V The eussI Iof nioatubnc Dream
J ijnu N AJIMA (
R e c e i v e
d N ovember 15 , 6)199 I
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tmser tfo eh sepyt dreamsfo , eht ac-os lIde noi“tabucni dream" ash been known v
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y lwe .l The dream sieht neo which si dreamed when a dreamer stuhs flesmih up in a teplem , a dream llah .cte tnI eh rapep 1 cctundo a syevur tfo eh noitabucni dream ni a
n c i e n
t and alievedm J .napa
I 本稿のねらい
本稿でいう寵りの夢とは総称名で,人々が夢を見 るためにある特定の場所に纏っている間に見る夢の ことを指している.心理学的には, noitabcuni i(-n c
u b a r
e = oteil ni uponro , otpeels ni eht -utcnas a
r y
) の過程の中で見られる夢である.
神託所・神殿・寺院などに人々が簡る風習は古来 よりあった.夢との関連で言えば,人々はそれらの 施設に鐘ることによって神仏からの神託(お告げ)
を貰ったり,夢の中で病気を癒されたりした.神託 と治癒とでは,圧倒的に神託の方が多い.西洋圏で は,これは,メッセージの夢 ageess(m eam)dr と か神託の夢ralucaro( dream) などと呼ばれてい る.占いの夢icnta(m dream) ,予言の夢citehporp(
d r e a m
) とも一部重なりあう.
中国では,祈夢または求夢と称した.例えば,士 人が科挙の試験を受ける前に事の正否を占いたい時,
ある神洞の一隅もしくは殿庭に参寵し,薦に臥して 一夜を明かし,暁閣のころに夢告をもらったという (津田, ).9091 ちなみに,このような風習は現代の 中国においても残されている.蜂谷(1 )969 によれ ば, 1994 年のことであるが,福建省の山奥にある廟 の神殿にはいろいろな神が祭ってあり,人々はいろ いろな悩みごとを夢によって占うため,神殿の中に ござや布団を敷いて寝るとのことである.
本稿では以下,日本の古代から中世における館り
-心理学科
の夢の様態について吟味したい.具体的には,簡堂 (こもりどう)の夢について述べ,ついで,天皇や皇 子が夢託をうけるための特別の場所,つまり神林に ついて述べる.そして,最後に,夢殿の問題につい て触れてみたい.なお,旧漢字は差し支えない限り 現行漢字に改めた.また,漢字カタカナまじり文は 読みにくいので,すべて漢字ひらがな文に改めた.
I
I 籍 堂 の 夢 1 鱒堂
簡りの夢とは,日本の平安時代から室町・鎌倉に かけては,もっぱら籍堂の中で見る夢を指す.龍堂 は通常,神社・仏閣に付属しており,信者が参籍す るためのお堂である.信者は簡堂に纏って何事かを 祈願したり,お経を読んだりした.そして,そうす る中で,神仏・観音から何らかの奇跡や霊夢(夢告) を授けられたりした訳である.
乙こで例を挙げれば,後白河法皇の『梁塵秘抄口 伝集』巻第十(川口・志田校注, )6591 には,参籍 中にお経を諦んだ例が載っている r我,八幡(岩清 水八幡宮)に参りて十箇日寵りて,千部経を初めて 謂みしに,九月廿日より鰭りたりしに,廿五六日の 程経果てて,今様を御前にして終夜謡ひき.J また,
平安末期の『粉河寺縁起.a (続群書類従完成会発行,
1 9 2 6
) には参簡によって夢を見た例が数多く記載さ れている.例えば, (r 阿逸院の沙門の良心が)不思 議の心を成て参筒して因縁を祈念するに.夢中に先 少僧来て云I( 諸国を遍歴していた阿闇梨の禅意が) 奥州を出て当寺に詣づ.即参寵して祈請す.夢中に
霊童来て云J r( 僧の覚橋が)御堂に参簡す.第六日 の寅時に夢を得たり.薄墨染の老僧有て内陣より出 て臼」など.
参龍といっても場合によれば,本人ではなくて,
誰か別の人を代わりに参籍させることもあった r更 級日記J (鈴木ら校注, )5791 には r母一尺の鏡を 鋳させて,えゐてまゐらぬかはりにとて,僧を出だ し立てて初瀬に詣でさすめり r三日さぶらひて,こ の人のあべからむさま,夢に見せ給へ』などいひて,
詣できするなめり」云々とあるー更級日記の記主で ある菅原孝楳女(1 008-? )が 25 ,6歳になっても良 縁がないので,彼女の将来がどうなるかを夢で知ろ うとして,彼女の母親が初瀬の長谷寺に僧を代参さ せた訳である.
2 石山寺における参舗の実態
『梁塵秘抄J J(I 口・志田校注,I )5961 の中の霊験 所歌6首の中に r観音験を見する寺,清水石山長谷 の御山,粉河近江なる彦根山,間近く見ゆるは六角 堂」と歌われていることは,古来よりよく知られて いる.観世音菩薩が験(しるし) ,つまり霊験を見せ るのは,この文句にあるように,)1( 京都東山の音羽 山清水寺,)2( 近江国滋賀郡(大津)の石光山石山寺,
( 3
) 大和国磯城郡初瀬の豊山長谷寺,)4( 紀伊国那賀郡 粉河の風猛山粉河寺,)5( 近江国犬上郡の彦根山の西 寺,)6( 京都の中京の紫雲山頂法寺(六角堂)の六つ であった. (1)は西国札所の 61 番,)2( は31 番,)3( は8 番,)4( は3番,)6( は18 番.)5( の西寺は札所に該当し ない.これらのうち,信者が物詣する三大霊場は,
清水寺・石山寺・長谷寺であった.
ことで三つの寺のうち,石山寺を取り上げてみた い.この寺はo"石山寺縁起 J (小松編, 8)891 の詞 書に r夫石山寺者聖武皇帝之勅願良排僧正之草創 也」とあるように,天宝勝宝元年)947( ,聖武天皇 の勅願によって良弁僧正3)77-98(6 が造ったもの で,本尊はニ膏・半蜘坐の知意輪観音である.創建 当初の石山寺はごくささやかな草堂であったが,正 倉院文書によると,天平宝字5年67( 1)から 6年に かけて仏堂・経蔵・僧房・写経堂・法堂など合計71 棟という規模に造営され,本尊もやはり天平宝字5 年 67( 1)から 6年にかけて完成されたという(猪 1
1
1 , .2)719 r[石山寺縁起』は,全七巻の絵巻.正中 年間26)134-32(1 に作成された.ただし,七巻のう ち,巻一・ニ・三・五は正中年間,巻四は室町時代 の補写,巻六・七は江戸末期の後補本である(小松,
1 9 8 8
) .なお,平安末期には r信貴JU縁起JJ r粉河寺
縁起』など,鎌倉時代に入るとこの r石山寺縁起』
の他 r北野天神縁起J O'春日権現験記絵』など,各 種の縁起絵が作成された. ]
『石山寺縁起』の詞書を読むと,数多くの夢の告げ や夢の教え,奇跡がうかがえる.例えば, (1)創立者 の良弁はもともと吉野の金峯山の蔵王権現の夢告に 従って石山に赴いたこと,)2( 醜男であった普賢院の 内供奉の淳祐が毎夜本尊に祈っていると,ある夜の 夢に二人の老僧が出てきて夢告をし,翌朝目覚めて みると淳祐は美男子になっていたこと,)3( 式部少輔 藤原因能の妻が7日間参鰭して,日夜3333 度の礼拝 を行ったところ,夢の中で観世音菩薩から如意宝珠 の玉を授けられ,その玉のおかげで式部少輔一家が 富裕になり,その上男の子までできたこと,)4(菅原 孝標女r(更級日記』の作者)が仮睡の夢の中で内陣 から磨香(じゃこう)をもらったことなどである.
また,室町時代の『石山月見記J (続群諸類従完成会 発行, . )1a931 には,金后(大覚寺義俊僧正)の歌と
して rむは玉の夢こそたのむ心なれ願ふ仏をあきの よなよな」というのが収録されている.とのように,
石山寺と夢とは縁の深いものであった.
ところで,石山寺における参簡の夢は,具体的に はどのような形のものであったのだろうか.これに ついては r婿蛤日記J (犬養校注, )2981 が参考に なる.少し長くなるが引用すると, r( 中略)石山に 十日ばかりと思ひ立つ. (中略)申(きる)の終りば かりに,寺の中につきぬ.斎屋(ゆや)に物など敷
きたれば,行きて臥しぬ.ここちせむかた知らず苦 しきままに,臥しまろぴてぞ泣かるる.夜になりて,
湯などものして,御堂に上る.身のあるやうを仏に 申すにも,涙に咽ぶばかりにて,言ひもやられず.
夜うち更けて,外のかたを見出だしたれば,堂は高 くて,下は谷と見えたり. (中略)さて,後夜行なひ つれば下りぬ.身よわければ斎屋にあり.夜の明く るままに見やりたれば,東は風はいとのどかにて,
霧たちわたり,川のあなたは絵にかきたるやうに見 えたり. (中略)さては夜になりぬ.御堂にてよろづ 申し,泣き明かして,あかつきがたにまどろみたる に,見ゆるやう,この寺の別当とおぽしき法師,銚 子に水を入れて持て来て,右のかたの膝にいかくと 見る.ふとおどろかされて,仏の見せたまふにこそ はあらめと恩ふに,ましてものぞあはれに悲しくお ぽゆる.J
乙の日記の記主である藤原道綱母)5996-3(9 は藤 原倫寧の次女であるが,天暦8年)459( に藤原兼家
( 9 2 9 - 9 9 0
) から求婚され,彼の内縁の妻となった.
-38 -
兼家には正妻格の時姫の他,町の小路の女,近江な ど何人もの女があり,道綱母は死を願ったり出家を 思ったり,我が子の道綱のことを考えたりしつつ苦 悩しつづける(犬養, .)2891 天禄元年)079( の時
も侍女が, (兼家の態度が冷たくなったのは)近江(藤 原国章の娘)や村上先帝の皇女たちが怪しいなどと 言う.結局,心が落ち着かない道綱母は,この年の 7月下旬,石山寺に参簡する.夜明け頃から歩いて 出発し,申の終り(午後 5時ごろ)に寺に着き,斎 屋(湯屋)の敷物の上に臥せて泣くが,夜になって 湯をつかって御堂に入る.そして,後夜(午前 4時
ごろの勤行)が終わったので御堂を出て,斎屋で疲 れた身体を休め,その日の夜にまた,御堂に入る.
そして,御本尊に祈りながら泣き明かして,明け方 にまどろんでいる時,法師が銚子に水を入れて持っ て来て,道網母の右膝に水を注ぐという夢(記主に
とっては,仏が見せてくれた夢)を見て,目覚める 訳である. [道網母が天禄元年に見たこの「法師が右 膝に水を注ぐ夢J は,彼女が翌年に見た「腹のうち なる蛇ありきて肝を食む夢」と共に大変よく知られ ている.これら二つの夢の心理・社会的な意味につ いては,名島)a5991( を参照されたいJ.
以上から明らかなように,石山寺の場合には,何 らかの悩みや願いごとを有する信者は寺に着くと,
まず斎屋で身体を清め,それから御本尊が安置され てある御堂(本堂)に入る.そして 1日に六時,
つまり朝・昼・日没・初夜・中夜・後夜の6回,勤 行を行い,勤行を行いつつ御本尊に祈請し,そうす るうちに夢告をいただくことになる.夢告の時刻は,
明け方が多い.これは,徹夜して祈請するつもりで いても,だんだんと疲れてきて,明け方近くになる と,うたたねしたりするからであろう.実際,先に 触れた菅原孝標女の場合,詞書には r暮れかかる程
に,御堂に参り着きぬ.其折りは,やがて通夜(つ や)して,終夜(よもすがら)行なひ明かして侍け るに,少し微睡みたる夢に」云々とある.
絵巻 r石山寺縁起』には,さまざまな人々の参寵 の姿が描かれている.それを見ると,道綱母や菅原 孝標女は,本堂の外陣の一角に設けられた局(部屋) において,九帳を立てめぐらした中で余を引きかぶ って眠っている.藤原因能の妻は,本堂の外陣の板 敷の上に置畳を敷き,まわりを扉風で囲ってその中
に寝ている.また,僧侶や一般庶民は,外陣の板敷 の置畳の上で,ある者は横になり,別の者は立膝で 座ったまま眠っている.彼らはおよそこのような形 で,つまり,貴族・受領階級は局で,一般庶民は板
敷に敷かれた畳の上で眠りながら夢告を待ちうげた 訳である.
3 六角堂と夢 (
1
) 六角堂について:寺社に付設してある六角堂は いくつかあるが,しかし,六角堂といえば普通,京 都の中京区六角通にある六角形の円堂を指す.この 六角堂は正式名称を紫雲山頂法寺という.残された 諸資料によれば,天治2年)5211( から元治元年
(
1)468 まで合計18 回も火災にあっているが(甲元,
1 9 7 7
) ,当時の人々の圧倒的な支持によってそのつど 新しく建て直されている.藤原公賢(1 )0631-092 撰 によるr拾芥抄J (故実叢書編集部編, )2591 の下の 諸寺部第九に「六角堂金銅三尺知意輪,聖徳太子」
とあるように,本尊は知意輪観音である.建保 7 年 (
1)912 に成立した著者不詳の r続古事談IJ (続群書 類従完成会発行,)b1391 の第四には r六角堂の知 意輪観音は淡路国いはやの海に辛橿に入て鎖子さじ てうちょせられたりけるを聖徳太子あけて御覧じて' 本尊とし給けり」と書かれてある.
平安時代の末期に成立したr伊呂波字類抄J (正宗 編,)5691 の巻ーの中に収められている『六角堂縁 起』によれば,六角堂は聖徳太子)226-475( が建立 したとのことである.しかし,騨谷(1 )779 が指摘 しているように r上宮聖徳法王帝説』はもちろんの こと r聖徳太子伝暦』にも六角堂のことは記載され ておらず, 31世紀前半の顕真の r聖徳太子伝私記』
に初めて出てくる.
実際のところ,六角堂がいつ頃建てられたのかよ く分からない.臆谷(1 )779 は,さまざまな文献資 料を整理して r六角堂は聖徳太子や秦氏には関係な く,平安遷都以後に建立されたという結論に達しざ るを得ないJr結論として,六角堂の創建は10 世紀の 半ばを余り下らない時期,もっと限定すれば9097-50 年ごろの問ということが導き出されてくるJ と述べ ている.一方,甲元(1 )779 は rr 六角堂縁起』や
『続古事談』の記載をそのまま全面的には容認できな いまでも,六角堂が,観音堂を安置する小堂から出 発したということはこの際すこぶる関心がもたれる.
すなわち一定の規模と構成をもっ寺院ではなく,鞘 堂のような小澗であったために,平安時代初期の為 政者等が r寺院』と認定しなかった理由であるので はないか.六角堂のような特殊なありかたを示すも のについては,堂の成立と寺院の成立を区別して考 える必要がある.六角堂を秦氏との関係でとらえる 説に対して,何ら具体的な資料で応ずることはでき
ないが,寺院として認められるようになった時期と して,一応平安時代中期を設定しても,堂の成立は 平安創設期よりも遡る可能性も否定しえない」とし ている.
堂が六角形であることについても諸説ある.臆谷 (
1)779 によれば,田中重久は『聖徳太子御聖蹟の研 究けとおいて r八角円堂の例は現存の遺構にも,記 録に見ゆるものにも頗る多いが,我々は六角堂がな ぜ八角堂でないかの解釈に苦しむ.之が創建当初か
ら六角であったことは動かないが,かういふ解釈を してみては知何であろうか一一即ち知意輪観音には 六道応化の信何があり,六道を応化する霊験を有つ 像を本尊とするところから,八角を強ひて意識的に 六角に変更したものだと」と述べているとのことで ある.一方,名畑(1 3)69 は r皇太子聖徳奉讃」の 中で親鷲が, r (聖徳太子は)未来の有情利せむとて,
六角のっち壇っきたまふ」と歌っているのを踏まえ て,六角の土壇とは r憶測するに,無動寺戒光坊静 然の『行林抄』をはじめ r覚禅抄』には知意輸の字 輪観として,知意輪の心中心呪の崎,縛,羅,陀,
波,納銘,昨(以上いづれも党字)のうち「暗』を 円の中心に置き,他の六字を六方に配した心月輪を 構成して観相することが説かれており,六角の土壇 も,或はこの字輪観に基づくものであったのかも知 れない」と述べている.
以上みてきたように,六角堂の創建の時期や堂が 六角形であることの意味については,現在のところ 諸説あってはっきりしない.
それにしても六角堂は,平安時代から人々の讃仰 の対象であった.例えば『百練抄 J (国史大系編集会 編, )7991 第八の承安2年)2711( 5月12 日の条に
「京中諸人修調諦静六角堂因幡堂,為免疾病云々」と あるように,他の御堂と並んで,六角堂は貴族・庶 民の尊崇の対象であった(名畑, ).3691
貴族の例としては,右大臣の藤原実資がよく知ら れている.彼の日記である『小右記 J (増補資料大成 刊行会編, )6591 によれば,実資は東寺・清水寺・
広隆寺・神宮寺などの他,六角堂にも時折出かけて いる.例えば,寛仁 2年(1)810 11 月22 日の「今日 節会,早旦修調講六角堂」とあるのを皮切りに r修 調講六角堂,依物忌,早朝休浴J (治安 3年4月16
日,) r今日厄日,修調謡六角堂J(治安 3年5月10 日) など.実資はまた,厄だけでなく,見た夢の内容が 良くなかった場合にも六角堂に出かけて調請してい る.具体的には r依夢想、不静,修調講六角堂J 治( 安3年5月15 日,) r夢想、不静,修調諦六角堂J (治安
3年間9月7日)など.ただし,実資は六角堂に参 詣はするものの,六角堂に簡るということはなかっ た.堂に籍らなザれば夢を見ない.したがって r小 右記』には六角堂の夢告の記事は見られない.
( 2
) 今昔物語におげる六角堂の夢告:六角堂におけ る寵りの夢の例としては r今昔物語集』巻第十六(山 田ら校注, 619 1)に採録されている年若き生侍(な まさぶらい)の逸話がある.この侍は日頃六角堂の 観音に仕えていた人であるが,ある夜遅く家に帰る 途中で鬼に唾を吐きかけられ,そのため隠形の身と なってしまった.そこで侍は六角堂に簡って観音に
「本(もと)の如く我が身を顕し給へ」と祈念した.
こうして27 日ばかり経って侍が夜眠っていると,暁 方の夢に「貴気(たっとげ)なる僧」が出てきて夢 告をなした.そこで侍は夢告で教えられた通りに行 動し,それによってやっと身体が他人に見えるよう になったという.
この逸話は「六角堂の観音の利益(りやく J) を述 べているものであるが,堂への簡りと暁方の夢告と いう特徴がよく出ている.もっとも,夢告の主が,
六角堂の本尊の如意輪観音ではなくて,尊げ(貴気) なる僧となっているのがよく分からないが.
( 3
) 親鷺と六角堂の夢告:六角堂の夢告として最も よく知られているのは,親鷲)622-17311( が29 歳の 時に見た夢である.親鷲の門弟であった真仏(1 092 -
1 2 5 8
) が書き写した「親鷲夢記J (親鷲聖人全集刊 行会編, )9a961 によれば,夢の中で六角堂の救世菩 薩が親鷲に「行者宿報設女犯我成玉女身被犯一 生之間能荘厳 臨終引導生極楽」云々と告げるとい
うものである.古来から「女犯(によぽん)の偏文」
として知られているこの夢告の意味については,筆 者は既に別のところで詳細に分析したので(名島,
1 9 9
3 , )6991 乙こでは触れないが,ただこの夢では 夢告の主が救世菩薩(救世観音,救世観世音,救世 観音大菩薩ともいう)になっている.知意輪観音は 東密でも台密でも六観音の中の一つであるが,救世 観音という名称は儀軌 a)(Kalp にはない.
観音の種類は数多い r丹青若木集』では33観音,
r阿婆縛抄』には28 観音 r千光眼観自在菩薩秘密経』
には25 観音ならびに40 観音の名前を挙げている(後 藤,).8591 しかし,いずれにも救世観音という名前
はない.
r六角堂縁起』によれば如意輪観音は聖徳太子七生 の守本尊 r捨芥抄』でも如意輸は聖徳太子阿婆 縛抄』では六角堂の如意輪観音は救世観音であり,
資料的には三者は同一である(名畑, 3619 を参照).
- 40-
ちなみに,保元2年)5711( 成立と推定される藤原 清輔の『袋草紙J (続群書類従完成会発行, )5219 の 巻四には「聖徳太子救世観音化身J と記されてい
る.
聖徳太子を軸に考えた場合,親鷲にとっての親近 性は如意輪よりも救世観音の方にある.磯長の聖徳 太子廟において親鴛に下された太子の夢告(親鷲 91 歳)は,太子が書いたと言われている「廟窟偏」を 下敷きにしているが,この「廟窟偏」には「我身救 世観世音」とある(古田, ).5971 また,平安初期の r上宮聖徳太子伝補閥記J (中田編, 198 1)によれば,
金色の僧が太子の母の夢に現れて r吾れ救世の願あ り,願わくば暫く后の腹に宿らん」と告げており,
延喜71年)719( 藤原兼輔撰と推定されている『聖徳 太子伝暦』には「救世観世音大菩薩」とあり,さら に親鴛自身も『大日本国粟散王聖徳太子奉讃J ,(親鷲 聖人全集刊行会編, b)6919 においてこのような太子 救世観音化身説の観点を保持している.
救世観音という呼び名そのものは,もともと中国 においてみられたものである.例えば,晋の王政に よる『冥祥記』には「救世観音経j,唐の道宣撰の『広 弘明集』巻第十五には「救世観音j,空海 680( 年帰 国)と円仁 74(8 年帰国)の両請来目録の中に記載さ れてある不空訳の『金剛頂積伽他化自在天理趣会普 賢修行念講儀軌』には「救世観自在」などとある(藤 井, .5)919 また,淡海三船の『唐大和上東征伝』流 布本(田村訳, )3981 によれば,天宝21年)357( に 日本にやってきた鑑真)94-7886( が唐から携えてき たものの中に救世観世音の像ー鋪がある.このよう にしてみると,世間を救済する観音菩薩として中国 で使用されていた救世観音という名称は,奈良・平 安時代から日本に知られていたものと思える.
それにしても,救世観音がどのような経過を辿っ て聖徳太子と結び付けられたのかはよく分からない.
ただ,この点について藤井(1)959 は,)1( 中国では
「救世観音」以外に「救世弥勅j r救世諸菩薩」とい う用例もあることから r救世」という言葉は仏菩薩 一般の美称として用いられたこと,)2( r聖徳太子伝 補闘記』に「吾有救世願J とあるのは,当時の人々 が国家仏教の具現者かつ菩薩行の慈悲者として太子 を目していたことの象徴的な表現であること,)3(補'1 閥記』よりも後の『聖徳太子伝暦』に至って初めて 聖徳太子が救世観音であるという信仰が明確に打ち 出されたこと,)4( この背景には,聖徳太子を霊験と みなし仏格化していく必要のあった天台宗の思想と 動向があったことなどを推定している.
I I
I 神林における夢
神林とは,夢に神意を得ょうとして思み清めた床 のことである r古事記J (倉野・武田校注, )8591 には rこの天皇(崇神天皇のこと)の御世に,俊病 (えやみ)多に起こりて,人民死にて尽きむとしき.
ここに天皇愁ひ歎きたまひて神林に坐・(ま)しし夜,
大物主大神,御夢に顕はれて日りたまひしく」云々 とあり日本書紀』巻第五(坂本ら校注, )7961 に はさらに詳しし「時に,神の語を得て,教の随に祭 紀る.然れども猶事に診て験無し.天皇,乃ち休浴 斎戒して,殿の内を潔滞りて,祈みて日さくl'朕,
神を礼ふこと尚未だ尽ならずや.何ぞ享けたまはぬ ことの甚しき.糞はくは亦夢の裏に教へて,神恩を 畢したまへ』とまうす.是の夜の夢に,ーの貴人(大 物主神)有り」云々とある.このように,天皇は身 を清めて神林で祈い寝(うけいね)をし,その結果 神からの神託を得る.
ところで,岡田(1)379 は,上に述べた崇神天皇 の他,神武天皇・仁徳天皇などの夢告の時期や様態 を調べ,その結果,奈良時代の神林は,平安朝以降 の宮廷儀礼における新嘗祭のさいの神座と同じであ るという興味深い事柄を見出している.とれをより 具体的に言えば,律令以前の古い祭紀儀礼では,年 に数度,農耕儀礼などの場において,天皇は身を清 めて聖なる座の寝具に臥す.そして,神の懇り代と しての天皇が亙女としての皇后と会を共にする秘密 の儀礼を行い,その後祈請して神林において神から の託宣を夢見る.平安朝以降の神今食と新嘗祭の夜 の神座は,その遺物というととになる. [新嘗祭は毎 年秋に宮中の神嘉殿で,大嘗祭は新しい天皇の即位 の年の秋に臨時に造営した大嘗宮で行われるといっ た違いはあるが,どちらも宮中における稲の収穫祭 であり,祭時の場の設備や用具もまったく同じであ る.ちなみに,神座は,神嘉殿においても大嘗宮に おいても,祭神を祭るための神棚や榊の類はまった
くない.内陣の中央に設けられた寝具が神座である.
図1はIr兵範記』の中の仁安元年 6611( 年)に記載 された神座の構造図である(出雲路, .)2491 八畳敷 の畳の上に白生絹の御会と御単が置かれている.な お r兵範記』は,平信範(1)87-11121 の日記で,
記録期間は,天承2年)2311( から天暦元年)4811( までである.]
以上のような岡田の見解を参考にすれば,身体を 清めて眠るという点では観音寺の参寵と似るが,神 林の場合には御本尊の観音も何もなくてただ寝具の
王院圃堂J とある.
夢殿の本尊の救世観音は,聖徳太子を模したもの と伝えられている.聖徳太子は死後の誌で,本名を 厩戸皇子,尊号を上宮聖徳法王(かみつみやのしよ うとこのおおきみ)と言う. 8世紀に付されたとさ れている「聖徳」という煩称は,上原(1)789 が推 測しているようにIf'勝重経義疏』の中の (r 知来の 功徳は)聖徳元量なり,備に陳ぶ可からず」から取
られたものと思える.
東院伽藍の一帯には,もともと聖徳太子が推古9 年06( 1)に興した斑鳩宮があった r日本書紀..D 坂( 本ら校注, 6519 ・7)619 の巻第二十二,推古天皇13 年の条によれば r冬十月に,皇太子,斑鳩宮に居(ま) す」とあるので,結局聖徳太子は650 年10 月から226 年2月までの約17 年間,斑鳩宮で暮らしたζとにな る.白もっとも,よく知られているように,この斑鳩 宮は,皇極2年)346( 11月,聖徳太子の息子の山背 大兄王とその一族が蘇我入鹿によって滅ぽされた時 に灰塵に帰した.
聖徳太子が生きている時に,今日夢殿と呼ばれて いる建物が既にあったと伝えられている.例えば,
永観元年)389( から寛和元年)589( にかけて執筆 された慶滋保胤撰の r日本往生極楽記J (井上・大曾 根校注, )4719 には r太子の宮の中に別殿あり.夢 殿と号(な)づく.一月に三度体浴して入りたまふ.
もし諸の経の疏を制するに,義に滞ることあれば,
即ちこの殿に入りたまへり.常に金人ありて,東方 より至りて告ぐるに妙義をもてす.太子戸を閉ぢて 出でざること七日七夜,時の人太だ異めり.恵慈法 師団く,太子三昧に入りたまへりJ とある.また,
平安時代末期の『今昔物語集』巻第十一(山田ら校 注, 961 1)には r亦,太子,鱒(いかるが)の宮の 寝殿の傍に屋を造て夢殿と名付て,一日に三度休浴
して入給ふ.明る朝に出給て,閤浮提の善悪の事を 語り給ふ.亦,其の内にして諸の経の疏を作り給ふ」
とある r寝殿の傍に屋を造てJとあるので,聖徳太 子はおそらく斑鳩宮の中に自分専用の建物を造った のであろう.ただし,その建物が当時太子から夢殿 と呼ばれていたということは疑問である.また,夢 殿という名前から連想されるのは,聖徳太子が「夢 殿」の中に能って夢告を求めたということであるが,
はたしてそうなのか.
たしかに,上述の『日本往生極楽記J と『今昔物 語集』には, (r 聖徳太子が)夢殿と号づく J r夢殿と 名付て」とある.また,それら以前では,藤原兼輔 撰 719( ?)とみなされている『聖徳太子伝暦 J 続( 九又引出
1 2
I 国
伽仰
必民本
一丈ニ尺五す八重畳
兵範記の神座の平面図(出雲路, )2491
みがあるこを,天皇や皇子が主として農耕儀礼と関 係して簡る,といった違いがある.
図1
Ⅳ 夢 殿 1 夢殿について
夢殿は言うまでもなく,現在の法隆寺の東院伽藍 の中の中心的な建物である.もともと夢殿は法隆寺 の別院ではなしまったく異なる小寺院であったが,
永久4年)6111( に上宮王院(夢殿を中心とする伽 藍)の院主職が停止されて以後,法隆寺の翼下に入
ったのである(問中・高田, .)4719
大正15 年(1)629 に島木赤彦と共に法隆寺に遊ん だ俳人中村憲吉が rゆめ殿の暗きに低くきこゆるは 秘仏をひらく経の鉦おとJ (斎藤・土屋編, )1491 と 詠んだように,夢殿の本尊である救世観音は,明治 1
7 年 の 夏 にErnest Francisco Fenollosa -5318( 1
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) が観音の全身に巻きつけられていた約500 ヤー ドの木綿の白布をはがすまでは,長い間秘仏として 人目に曝きれなかった.
ところで,この夢殿という建物は奈良時代の聖武 天皇の治世,天平11 年937( 年)において,法相宗の 僧である行信(?ー 750? )によって造営され,さら にこれは,貞観元年)958( に道詮によって大修理さ れている.天平宝字 5年67( )1 01 月1日の『東院資 財帳』に r瓦葺八角悌殿蔓基間別ー丈六尺五寸 在露盤」とあるように(大屋, )3419 ,夢殿は八角形 の仏殿である.ちなみに,平安中期の頃の成立とさ れる『法隆寺東院縁起』には「八角園堂」とある(藤 井,.)9591 また r法隆寺別当次第J (続群書類従完 成会発行, )27a19 の中の信慶律師の条には.「上宮
群書類従完成会発行, b)7921 には「太子在斑鳩宮.
入夢殿内」という言葉があり,源為憲(? -1011) が 尊子内親王のために永観2年()489 にあらわした『三 宝絵調』にも「夢殿となづく」とある.
しかしながら,最古の聖徳太子伝のーっとみなさ れている『上宮聖徳法王帝説J( 家永・築島校注,)5791 の第二部(第二紙)には夢殿という言葉はなくて,
ただ r太子の問ふ義(ことわり)に,師(のりのし) 通らぬ所有り.太子,夜,夢に,金人(くがねのひ
と)来りて,解らぬ義を教ふと見る.太子嬉めて後 に,即ち解る.乃(いま)し似て師に停ふ.師も亦,
是の如き事を領め解ること一二に非ずあらくのみ」
とある.文中の「師」というのは,推古 3年)595( に日本に帰化して太子の先生となった高句麗の慧慈 法 師 (? -623?) である.文の大意は, q聖徳太子 が法華経その他の注釈書を作っている時に)太子が 先生に尋ねて先生も分からなかった点があった場合 には,太子の夢の中に金人が現れて太子に教えた.
そして,太子は目覚めてからも教えてもらったこと を理解でき,それを先生に教えてあげると先生も理 解できた.乙のようなことは一度や二度ではなかっ たJ である.この r上宮聖徳法皇帝説』の第二部が 書かれたのは,家永)5791( によれば8世紀のこと である.
しかもまた,天平勝宝5年)357( に鑑真と共に中 国から日本にやってきた思託(台州開元寺の僧,律 宗) (ー? 058 頃)が奈良時代末から平安時代初頭の頃 に執筆したものと思えるr上宮皇太子菩麗伝J (続群 書類従完成会発行, )7c291 には r干時世人不識禅 定.但言太子入夢堂(その時世人禅定を識らず,た だ太子夢堂に入ると言ふJ) とある.つまり,世間の 人が(聖徳太子が)夢堂に入ると言った訳である.
以上まとめると, (1)もともと斑鳩宮の中に聖徳太 子専用の建物があった,)2( その建物は346 年に他の建 物と一緒に消失した,)3( 奈良時代になって行信が「八 角仏殿J を造営したが,それは当初「夢堂」と呼ば れていた,)4( 乙の八角仏殿は平安中期以降はもっぱ ら「夢殿」と呼ばれていたということになろう(表 1 を参照).
2 夢殿における夢告の問題
夢との関連性で言えば,もともと斑鳩宮に建てら れた建物の中で聖徳太子がしばしば禅定(三昧定)
という宗教的膜想にふけったり,また,法華経や勝 重経の字句の意味を考えあぐねて眠りに落ちた時,
夢によって解答が得られたといったことは十分に考
えられる.しかし,聖徳太子が夢告そのものを得る ための場所を作り,その中に繕って定期的に霊夢を 得ていたかどうかははっきりしない.これはむしろ,
西郷)2791( が言うように,民衆の方が太子伝説に 則って夢殿(夢堂)という名前を付与したと考える 方が真実に近いように思える.
言うまでもなく,聖徳太子自身の日記や書簡がま ったく残されていないので明言できないのであるが,
現時点における筆者なりの推測としては,以下のよ うなものである.
( 1
) 聖徳太子は斑鳩宮の中にある太子専用の建物の 中で思索や膜想にふけったり執筆したりした.ただ し,この建物が八角であったか四角であったかはは っきりしない.
( 2
) 聖徳太子の夜の夢の中に「金人」が現れて聖徳 太子に種々教示してくれた.
( 3
) こういったエピソードを聖徳太子は他人に語り,
そのため人々は,聖徳太子がたびたび簡る建物をい つしか夢堂とか夢殿と呼ぶようになった.
( 4
) 夢だ砂に焦点を合わせれば,聖徳太子が見た夢 は太子が特定の建物の中に簡っている聞に見た夢,
それも大変貴重な価値のある夢なので,太子自身も 夢に期待をかけるようになった.つまり,筆者(名 島,)b5991 なりの言い方をすれば,受動夢は能動夢 へと転換していった.したがって,これは龍りの夢
といってもさしっかえない.
なお, 937 年に行信が八角仏殿(夢殿)を造営した のは,聖徳太子の徳を偲ぶためであるというのがこ れまでの通説であった.例えば,西郷(1 )279 は,
「このように辿ってくると,夢殿のこともすでに伝説 として太子在世中からおこなわれていたのであり,
つまり天平の僧行信らはこの伝説を法隆寺東院の夢 殿として実現するととによって太子を記念しようと したのであろう,という結論に到達せざるをえない」
と述べている.また,間中・高田(1 )479 は r八角 円堂(夢殿)の地こそ太子莞去の場所」であり,八 角円堂は「太子の供養堂J r太子景仰の聖地Jである
としている.
一方,梅原(1)279 は近年,これらとは異なる説 を提出している.すなわち,梅原によれば,夢殿は 聖徳太子の墓場,つまり藤原氏の謀略によって一族 を皆殺しにされた聖徳太子の怨霊が二度と再び出ら れないよう,太子の怨霊を封じこめるためのお堂で あり,本尊の救世観音には (r光背を支えるための) 大きな釘が頭の真後ろから深く突き刺さっている」
が,このことよりすれば救世観音は呪い人形である