• 検索結果がありません。

理性と推論(翻訳)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "理性と推論(翻訳)"

Copied!
31
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

熊本大学学術リポジトリ

理性と推論(翻訳)

著者 岡部 勉

雑誌名 文学部論叢

巻 91

ページ 111‑140

発行年 2006‑03‑05

その他の言語のタイ トル

Reason and reasoning

URL http://hdl.handle.net/2298/2693

(2)

[翻訳]

理性と推論

岡 部 勉

要旨

グライスが 理性の諸相 の第1章 「理性と推論」 でやろうとしていることは、

理性ないし合理性の能力と推論の働きとがどう関連するのかを哲学的に明らかに することである。 グライスはここで、 合理性の能力に関して、 理性的とされる存 在が等しく有する不変的理性と、 人によって実現する度合が異なる可変的理性の、

二つに分ける考え方を提案している。 また、 推論の実践的性格、 即ち、 個々の推 論には実現することが目指される具体的な目的とか目標があるというような、 実 践的な営みであるという点を強調している。 その他、 推論の誤りとは何の誤りか、

実際の推論はほとんどが省略されたものであるのに、 推論が 「不完全」 とされる 場合というのはどういう場合か、 完璧すぎる推論 (推理規則を単に機械的に適用 しただけの推論) はなぜ推論と見なされないか、 論理学は何を捉えることができ ないか、 合理的であるとか理性的であるに対して不合理であるとか非理性的であ るとはどういうことかについて論じられる。

キーワード 理性、 不変的理性、 可変的理性、 推論、 誤った推論、 不完全な推論、 推理 規則、 論理学、 合理性、 不合理、 アリストテレス、 カント、 グライス

[以下は、 !"#$% &#'()(*+,-(./0123(4 0123(5/67)+77899:の第1章 (,73//(,73//;) の翻訳である。

グライスの文章は、 私の文章以上に、 息が長い上に不親切である。 読みやす くするために、 原文にはない番号等を付け加えたり、 一行空けたりした箇所 が、 少なからずある。 訳語はできるだけ統一しようとしたが、 完璧とはいか なかった。 [ ] は訳者が付け加えた語句を示す。 なお、 以下の訳文を作成す

(3)

るに当たっては、 長友敬一、 吉田李佳、 百武伸也、 岡部由紀子各氏から、 数 多くの有益な助言を得た。 ここに感謝の意を表する。]

理性の概念、 あるいは、 恐らくはその見出しに含まれる一群の概念を哲学 的に明確にすることに、 私も他の人々も、 幾つかの理由で関心がある。 理性 の本性というものは、 それ自体が興味深くて重要な哲学的問題である。 即ち、

理性というのは、 哲学者として私たちが関与すべき種類の観念の、 重要な一 員である。 それはそのようにもともと興味深いのだが、 それに加えて、 理性 的 () 存在という観念から極めて重要な哲学的帰結を導出できると いう見解を、 何人かの哲学者が抱いたという事実がある。 例えばアリストテ レスは、 以下のような手順を踏むことによって、 人間にとっての目的を特徴 づけることができるようになると考えた。*1

[1] 人間にとっての目的は、 人間の仕事 (エルゴン) の実現である。

[2] 人間の仕事というのは、 人間を他の種類の生物から区別する、 その能 力の最大限の行使である。

[3] その能力というのは、 理性ないし合理性の能力 () である。

[4] 合理性の能力が最大限に行使されるのは、 形而上学的真理について観 想するときである。

[5] それ故、 それが人間にとっての (第一の) 目的である。

そしてまたカントは、 理性的存在の観念から派生的に導出され得る重要な 配当益の中に、 定言命法に執着すべき道徳的必然性があると考えた。*2

さて、 私は、 理性的存在という概念から、 何かそのような壮大な結論が導 出され得るかどうか知らない。 しかしながら、 私には、 そのような結論を導 出できるのではないかという密かな望みと、 それを発見しようとするしつこ い願望があることを告白しなければならない。 私の悩み (私だけのものでは ない) の一部は、 ゲームの規則を発見する困難、 つまり、 どのような手順が

(4)

派生的導出とみなされることになるのかを理解する困難にある。 また、 私の 悩みの別の部分は、 出発点の特徴に関して、 つまり、 理性的存在の概念はど う理解されるべきであるかに関して、 絶望的に不明瞭であるということにあ る。 従って、 私のここでの主要な役割は、 理性ないし合理性の観念を明確に する助けになるかもしれない一つか二つの研究に従事する、 下働きというこ とになるだろう。 しかし、 アリストテレスとカントが登ることができると考 えた、 そして実際に彼らが登った山の麓の丘の方向に、 ほんの時たま、 私が 思索上の行軍をするとしたら、 それが許されることを私は望んでいる。

理性はその本性上、 推論において発揮される能力だと考えるのは、 不合理 ではないと思われるのだが、 もしそうだとしたら、 推論とは何かを探求する というのは、 悪くない考えだろうという思いつきに、 本章では一身を委ねて みることにしたい。 本章に続く二つの章では、 実践的な理由と非実践的な理 由の関係に特に注意を向けながら、 理性と理由の並行的な結びつきを追求す るつもりである。

理性と推論

私たちが理由を認識し、 それを操作することを可能にする能力として理性 を考えるという考え方と、 推論に従事することを可能にする能力として理性 を考えるという考え方は、 同じくらい直観に訴えるものである。 実際、 もし 推論を一連の推理 () の生起ないし産出として特徴づけることが可 能だとしたら、 また、 もしそのような一連の推理は、 出発点となる前提の集 合から導出できる結論に (連鎖的に) 到達することにおいて成り立つもので あって、 しかもそれらの前提は、 それ故に、 その結論を受け入れるための理 由だとしたら、 あるいは理由だと考えられるとしたら、 上の二つの考え方の 間にある関係は、 偶然的なものではない。

そこで、 以下の説明を、 推論の説明へ向けた最初の近似値としよう。

推論とは、 思考ないし発話における出発点となる一群の考え (命題) の受 容 (と、 しばしば承認)、 及び、 その一群に含まれる前件となる考えから、

(5)

そのそれぞれが、 容認可能な推理原則によって導出できる、 一連の考えとか ら成る。

多くの人が、 以上のような説明についての、 次の二つの意見に同意しよう とするだろう。

第一に、 推論を支配する推理原則は、 その特徴が非経験的だということ。

第二に、 推論を構成する (論証的なそれと同様に非論証的な) 推理の種々 の様式を区別すること、 その上で、 そのような各様式の原則を体系化し、 そ れによって、 前理論的な段階で直観的に容認できるとわかる、 それ故に理論 家にとって出発点となるデータを構成する、 推理の原則を説明するとともに、

恐らくは (そうするのが理論家の習性なのだが) そのような原則に対する同 意を強化する (あるいは、 幾つかの例においては、 それらに対する同意を攻 撃しさえする) こと、 これが論理に関わる理論家の仕事の一部だ (恐らくは、

主要な仕事でさえある) ということ。

私は次に、 この予備的説明が適切かどうかについて検討するつもりである。

誤った推論

明らかに一つの修正が必要である。 すべての推論の実例が正しい推論であ るということはない。 或るものは誤りであり、 或るものは全くのでたらめで ある。 ところが、 私たちの予備的説明は、 前提の一つかそれ以上が虚偽であ る場合とか、 あるいは、 非の打ちどころのない非論証的な推理の結論に従う ことを拒否するときの (恐らくは) 世界の邪悪さによる場合を除いては、 推 論が支障をきたす余地を残さないように見える。 私たちの前提から結論に至 る手順は、 決していつもきちんと踏まれるわけではないというのは明白であ る。 実際、 論理学が数学の (副次的な) 一部門になる前の最盛期には、 論理 学者 (あるいは、 論理学についての著作がある人) たちは、 誤謬推論に対し て何らかの注意を向けていた (復活してよい関心である)。 それなら、 実際

(6)

の推論において手順が正しく踏まれているという考えにではなくて、 推論す る者に正しく踏まれていると思われているという考えにだけ、 あるいは (恐 らくは) 手順は正しく踏まれているかまたは正しく踏まれていると思われて いるかどちらかであるという考えに、 与するべきである。 しかしながら、 も う少し明確にする必要がある。 そして、 一つか二つ、 教訓がくみ取られるべ きである。

「キャリアウーマンはいつもヘビースモーカーだ。」 と、 ジャックが (ま だそれほどよく知ってはいない) ジルに向かって言う。 「君はヘビースモー カーだから、 キャリアウーマンに違いない。」 ジルが次のように答える。 「あ なたは明らかに、 次のような推理原則を受け入れているわね。 AはいつもB である。 これはBである。 従って、 これはAである。 でも、 それは容認でき る原則ではないのよ。」

もし彼女がこう答えるなら、 人は皮肉を言っているのかと疑うだろう。 ジャッ クは、 きっと、 あたかもそのような原則を受け入れているかのように議論し たのだろうが、 彼が実際に、 一時的にせよあるいはほんの束の間にせよ、 そ れを受け入れたと想定することには、 私は抵抗したい。 誤った仕方で推論す る人々は、 時には誤った推理原則を受け入れるのかもしれないが、 彼らが普 通することは、 何らかの仕方で正しい原則を誤用することだと考える方がよ い。 しかし、 どんな仕方で誤用するのか。 ジルが以下のように答えたと仮定 しよう。

「あなたは明らかに、 あなたの推理が次のような正しい形式のものである と誤って思ったのよ。 いつもAはBである。 これはAである。 従って、 これ はBである。 ところが、 実際の形式は、 むしろ次のようなものだったのです もの。 AはいつもBである。 これはBである。 従って、 これはAである。」

この答えは、 その前に [彼女の答えとして] 彼女用に示されたものより改 良されているだろうか。 とんでもない、 と私は考える。 人々は、 自分の実際

(7)

の推論が特定の正しい原則を本当は例示していないときに、 例示していると、

時には本当に誤って思い込んで、 その結果、 誤った推論をすることになるの かもしれない。 しかし、 私はこれが正常なケースであるとは思わない。 特に、

目下検討中のものと同じくらい簡単な推論の場合には。 恐らく、 ジルにとっ てもっとましな答えは、 以下のようなものだろう。

「きっと、 あなたの頭の外側か内側かの、 例のきずがまだあなたを苦しめ ているので、 あなたは混乱したんだと思うわ。 私は、 あなたが自分の実際の 議論に示された特定の正しくない形式を正しい形式だと思い込んだことでも、

あなたの議論がバーバラ*3という形式をとるものだと間違って思い込んだこ とでも、 あなたを責める気はないわ。 それよりも、 こんなふうに言うわ。 あ なたの議論の形式とバーバラの違いが、 この場合はあなたに思い浮かばなかっ たのよって。 そして、 あなたの形式とバーバラの間の類似が、 あなたが作り 出した特定の議論が正しい議論だとするあなたの思い込みを、 (あたかも因 果的に) 説明するのよって。」

これまでの限りで明らかだと私に思われる主要なポイントは、 数の上では 以下の三つである。

(1) 常にではないが一般に、 誤った議論は、 それ自身 [に固有] の誤った 推理原則があるのではなくて、 むしろ正しい原則の誤用から生じる。

(2) 私たちの推論が正しい原則を提示すべきであるというのは、 単に通常 得られる何かであるというのではない。 また、 単に通常得られる何かであっ て、 しかも、 推論する者によってそう信じられている何かであるというので もなくて、 私たちが推論する者として手に入れたい何かである。 (それは、

手に入れるべき何かでさえある、 そしてまた、 私たちが実現しようとする何 かでさえあるのかもしれないが、 このような論点についてはまだ議論されて はいない。)

(3) 特定の個別の推論が、 正しい原則に従っているとか従うべきであると する信念や願望は、 特定の正しい原則に従っているとか従うべきであるとす

(8)

る信念や願望を (排除はしないが) 必然的に伴うものではない。 個々の原則 の作用は、 疑似因果的であるのかもしれない。 また、 恐らくは、 特定の種類 のケースに関しては、 疑似因果的であるべきである。 「疑似因果的」 の意味 は、 もちろん説明を要する。

私たちが先へ進むにつれて、 以上のポイントの幾つか、 あるいはそのすべ てが、 拡張され裏づけられることを私は望んでいる。 ところで、 次の論題に とりかかる前に、 幾らか一般的な性格を持つ仮説を、 考察のために提示した い。 容認できる推理原則の識別と体系化は、 私たちがそれを参照することに よって実際の推論を理解する、 そういうモデルあるいは、 恐らくは、 モデル の無限の集合 (実際の推論がそれに近似する理想的構成) を私たちに提供す る。 そのようなモデルないし理想的構成は、 三つの意味でモデルである。

(1) それらは分析的モデルである。 なぜなら、 思考の或るつながりに推論 の資格を与えるのは、 それらに対する適切な近似の度合だからである。

(2) それらは説明的モデルである。 それらは、 実際の推論がどのように進 行するか、 また、 なぜそのように進行するかに関して、 説明を提供する (あ るいは、 説明を提供することにおいて中心的な役割を演じる) という点で。

(3) それらは規範的モデルである。 それらは、 実際の推論がどのように進 行すべき (進行して然るべき) か、 その模範を提供するという点で。

もし人が想像をたくましくする気分にあるとしたら、 推理の妥当性は、 同 時に、 推論の形相因であり、 起動因であり、 目的因であると言いたくなるか もしれない。 わたしは、 これらのモデルが以上の三局面を持つと思うだけで なく、 それらを持つということは偶然ではないと思う。 それにまた、 これら の三局面が、 それのために結合するそういう概念領域があると思うし、 更に、

この概念領域は特別な仕方で生ある被造物と結びついていると思う。 私が完 全に間違っているのでないとしたら、 この推測の詳細で体系的な展開は、 大 いに価値があるものになるだろう。

(9)

「不完全な」 推論

別のもう一群の問いが、 私が 「不完全な」 推論、 あるいは 「十全に明示的 でない」 推論と呼ぶものに関して生じる (このような表示の仕方には、 幾ら か問題があるかもしれないが)。 後でより成熟した省察に基づいて修正する ことを条件として、 私たちの手元には二種類の事例があるとしよう。

(a) 不完全な推論が、 推論者が (Ⅰ) 明示的に、 あるいは (Ⅱ) 潜在意識 的に、 心に抱く更なる前提を追加することによって、 まともな標準的規範 ( ) に従う推論に変換され得る場合。

(b) 推論者が心に抱くそのような更なる前提は存在しないが、 推論者が、

自分はそれが何であるかを知らないが、 そのような前提が存在すると思って いる場合。

以上の二分法の更なる改良が必要であると判明するかもしれない。 上で描 かれた荒い区別は、 不完全な推論によって提起される主要な問題に対する二 つの可能な答えを具体化するものである。 その問題というのは、 実際のほと んどの推論は標準的な推理形式 ( ) にあからさまには従わず、

(例えば) 省略論法的であるのだが、 この隠しようもない事実に対処するた めに、 そのような標準的形式はどのように位置づけられるべきかという問題 である。

伝統的に省略論法として分類される議論の、 非常に簡単な例からはじめよ う。 ジャックが頭部の外傷に耐えているとき、 ジルが自分の問題よりもジャッ クの問題を取り上げて、 「彼は (あなたは) イギリス人よね。 それなら、 勇 敢に振る舞うことでしょう。」 と言う (または思う)。 この事例を扱う、 三つ の方法があるように思われる。

(1) 三段論法論理学の伝統に沿って、 私たちは、 ジルの推論は 「隠された 前提」 として 「イギリス人はいつも勇敢である」 という命題を必要とすると 想定し、 かつ、 ジルはこの命題を、 (もし彼女が話しているなら) 恐らくは

(10)

明示的に念頭に置いているか、 あるいは (もし心に思っているなら) 潜在意 識的に心に抱いていると想定するだろう。 彼女の (隠された前提を含む) 議 論の全体は、 標準に照らして正しい。 しかし、 (会話や思考においては) 彼 女が行った実際の推論の短縮版だけが表現されるのである。 もちろん、 潜在 意識的思考という考え方に関連する、 複数の困難がある。 だが、 それらは極 めて一般的な困難なので、 この特定の場合に強調されるべきではないだろう。

それとは別に、 特殊な困難がある。 ジルが言ったことないし考えたことを知っ て誰かが、 「そういうことにはならないよ」 とコメントしようとするかもし れない。 そして、 その人物がそういうコメントをしようとするのは、 ジルの 議論の表現形式が標準的でないという陳腐な事実のせいではなくて、 イギリ ス人がいつも勇敢だというのは誤りであると見なすからだろう。 しかし、 現 今の論じ方からすると、 このコメントは適切なものではないだろう。 なぜな ら、 問題の命題は、 彼女の議論 (彼女の議論全体) の前提となるものではあ るが、 前提が偽だということは、 推理に基づいて下された結論がその前提か らは帰結しないということを、 簡単に、 必然的に伴うことはないからである。

(2) 私たちは 「いつもイギリス人は勇敢である」 を、 ジルの議論の前提で はなくて、 その議論の (恐らくは、 少し紛らわしい言い方だが) 特殊な推理 原則あるいは推理規則を表わすものと見なすかもしれない。 もう少し正確に 言うと、 私たちは、 「非形式的な」 議論のための、 推理図式とでも呼ばれる ようなものがあると想定することができる。 この講義に特徴的な、 使用 () と言及 () の区別に対する容赦ない軽視*4をもって言い表わ すと、 その図式の一つは次のようなものだろう。 即ち、 「もし 「F」 を満た すものはどんなものでも 「G」 を満たすとしたら、 FaからGaを推理する こと」 という図式である。 そして、 「イギリス人」 を満たすものは 「勇気あ る」 を満たすという (偶然的な事象に関する) 仮定に基づいて、 私たちは、

「aはイギリス人であるということからaは勇敢である (あるだろう) を推 理すること」 という特殊な規則を導き出すことができる。 この第二の選択肢 は、 もし採択されるなら、 偶然的な事象に関する (あるいは、 偶然性に基づ く) 推理規則を (非形式的な議論のために) 与えるだろう。 しかし、 必ずし も、 偶然性に基づく推理図式を、 というのではないのだが。

(11)

(3) 恐らく最も魅力的な考え方は、 私たちは、 一つの議論ないし推論 (ジ ルの実際の推論) に相対しているのではなくて、 二つの推論、 そのうちの一 つは実際の (ジルの推論) で、 もう一つは実際のではない、 理想的なそれに 相対していると考えるように想定することである。 (理想的なそれとは、 彼 女が潜在的に考えていたと私たちが受けとめている命題を前提として取り入 れる、 ジルの議論の再構成のことである。) 前者は非形式的なもので、 後者 は形式的な (そして、 しばしば、 標準的な) ものだろう。 形式的に妥当な再 構成であって、 非形式的な議論を (ジルが、 何らかの意味で、 心に抱いてい る命題であって、 しかも) 真であるような前提 [となる命題] で補う、 そう いう非形式的な議論の正当な再構成がある場合にだけ、 ジルの実際の議論は (非形式に) 妥当なものになるだろう。 この提案は、 「言外の」 命題が隠され た前提だという考え方を保持している。 また、 推理規則は偶然的なものでは ない (形式的な推理規則以外のどんな特別な規則も、 非形式的な推理のため に必要とされないので) という考え方も保持している。 この提案は、 二番目 の提案が実行可能だとしたら、 いつでも実行可能だろう (逆もまた同様であ る) と私は考える。 私は、 この三番目の選択肢を受け入れたものとして、 こ の後を続けるだろう。

別のありそうな問題の源泉が、 今は見えている。 ジルの議論における隠さ れた前提は、 「イギリス人は常に勇敢である」 だと、 私たちはこれまで仮定 してきた。 しかし、 私たちはなぜ、 そう仮定すべきであるのか。 隠された前 提は、 「イギリス人は勇敢である」 かもしれないし、 「イギリス人は、 普通、

勇敢である」、 「イギリス人は、 たいてい、 勇敢である」、 「イギリス人は勇敢 でありそうだ」 かもしれない。 そして、 多分、 可能性はもっとある。 これら の候補の幾つかあるいはそのすべては、 もし選ばれるなら、 再構成された議 論を性格上論証的でないものにするだろうが、 前提とか結論が誤っている場 合は別として、 再構成された議論は、 非論証的な議論の或る種類 (その種類 が何だろうと) の立派な一構成員であり得よう。 以上の考察は、 前節で描か れた出来事におけるジルの最終的な応答に対して、 ジャックは次のような、

決定的な答えを持っているかもしれないとする反省を促す。

(12)

「君は明らかに、 前提 (キャリアウーマンはヘビースモーカーである。 そ して、 君はヘビースモーカーである。) から結論 (君はキャリアウーマンで ある。) に至る僕の議論が演繹的な議論だと考えている。」 と彼は言うかもし れない。 「もし君の受けた論理学の教育がもう少し狭量なものでなかったな ら、 非演繹的な議論として理解された場合には、 僕の議論に不具合は何もな いということに君は思い至っただろう。」

ところで、 人はどのようにして、 今出現している、 そして再構成される議 論の選択を困難にしている、 不確定さの種類を決定できるのか。 議論の相手 に尋ねることによってか。 論理学的に最も十分な、 あるいは、 最も不十分で ない再構成を、 議論の相手に帰属させるという、 寛容の原則に訴えることに よってか。 もし私たちが後者を選ぶとしたら、 そのような原則を基礎づける ものは何か。

私たちがもっと些細でない事例についての考察に進むと、 この種の困難は なおいっそう深刻なものになる。 即ち、 明示的な前提と結論の間の隔たりが、

直観的にはるかに大きいというような事例である。 極端な見本を提供したい。

私がオックスフォードの学生だったとき、 今は名前を思い出すことができな い同級生がいた。 彼の名前はイギリスの或る州の名前だったので、 彼を 「シュ ロップシャ」*5 と呼ぶことにしよう。 オックスフォードでの彼の経歴はそう 長いものではなかった。 それは驚くべきことではない。 もし彼が、 早い段階 の哲学の個人指導において、 鶏の頭を切り落とすと、 鶏は倒れる前に15分ほ ど庭を走りまわるという事実によって、 霊魂の不滅が立証されると主張した のだとすれば。 それは推論の一事例だったのか。 あなたが答える前に、 私が 今与えた事例との比較のために、 もう一つ別の本当にあった話を私にさせて 欲しい。 およそ20年前に、 或る著名な論理学者 (彼が誰であるかを隠すため に 「ボトヴィニク」*6 という名前を用いよう) が、 定理 (と主張されるもの) について、 その証明ないし証明のスケッチを発表した。 彼の 「証明」 は6頁 の長さであった。 二人のハーバードの大学院生 (一人は現在、 当人自身が著 名な論理学者である) が、 ボトヴィニクの証明を拡張しようとした。 彼らは

(13)

その結論が本当に定理であることを発見した。 ところが、 彼らの拡張は84頁 に及ぶものであった。

さて、 私はシュロップシャの 「議論」 を 「展開」 することができる。 それ は以下の通りである。

[1] もし霊魂が身体に依存するものでないなら、 それは不滅である。

[2] もし霊魂が身体に依存するものであるなら、 それは、 それが位置する 身体のその部分に依存する。

[3] もし霊魂が身体のどこかに位置するとしたら、 それは頭に位置する。

[4] 鶏の霊魂が鶏の頭に位置するとしたら、 頭が身体から切り離されるこ とによって、 頭が働かないようにされたら、 鶏の霊魂は滅びるだろう。

[5] 鶏は頭を切り離された後に庭を動きまわる。

[6] 鶏は、 霊魂によって生命を吹き込まれ、 制御される場合にだけ、 こう することができるだろう。

[7] 従って、 鶏の霊魂は鶏の頭に位置するものではないし、 依存するもの でもない。

[8] 従って、 鶏の霊魂は鶏の身体に依存するものではない。

[9] 従って、 鶏の霊魂は不滅である。

[10] 鶏の霊魂が不滅だとしたら、 ましてや、 人間の霊魂は不滅である。

[11] 従って、 霊魂は不滅である。

私が今、 自らに問うのは、 次の問いである。 私には私の拡張のどんな部分 もシュロップシャに帰属させようとする傾向が全くないのに、 ハーバードの 学生は、 自分たちのボトヴィニクの証明あるいは少なくともその或る部分の 展開を、 ボトヴィニクに (彼が考えたこととして) 帰属させたと私が信じる ように、 なぜ私にはすっかり心構えができているのだろうか。 関連がありそ うだとすぐに私に感じさせる検討事項は、 以下の通りである。

(1) ボトヴィニクの証明は、 疑問の余地なく、 シュロップシャの主張より 多くの階梯を含むものであったということ。

(14)

(2) ボトヴィニクの証明の拡張は、 多分、 補足的な前提として、 真である ような、 本当に確実な命題だけを持ち込んだということ。 他方で、 私の拡張 は、 偽であるかないしは疑わしい前提を持ち込んでいる。

(3) ボトヴィニクは、 非常に頭脳明晰であって、 完成された論理学者であっ たということ。 他方、 シュロップシャは、 大して頭脳明晰でもなければ、 ま た哲学者として大して完成されてもいなかった。

確かにこれらの検討事項は関連してはいる。 しかし、 もしシュロップシャ の生産物が、 霊魂が不滅であるからには、 道徳的原理には絶対的正当性があ るというような、 幾つかの更なる衝撃的な 「演繹」 を含んでいたとしたら、

シュロップシャの生産物に 「推論」 の資格を、 人がもっと容易に与えること になるのかどうかは疑わしい。 それに、 人は、 (3) の効力が (2) のそれ を無効にしないかどうかを問題にするかもしれない。 なぜなら、 シュロップ シャは愚かだとして、 なぜ人は、 明らかに容認できない前提を含む再構成さ れた議論を、 彼に帰属させてはならないのか。 しかしながら、 私は、 主要に は、 次の点をもっと明らかにしたい。 私が上で言及したような検討事項が関 連しているとしたら、 なぜそれらは関連するのか。

私はここで本人の証言 () に関してひとこと言いたい。 次のような 主張が提出されるかもしれない。 もし、 不完全な一連の推論であるかもしれ ない何かを産出した誰かRが、 特定の完成を考えているのかどうかを知りた いのなら、 それを見出すための直接的な方法は彼に尋ねることである。 それ は問題に決着をつけるだろう。 しかしながら、 彼に尋ねることができないと すれば、 決定的な方法ではないかもしれない間接的な方法を用いなければな らないだろう。 不確定さは、 ただ単に、 間接的な方法を当てにしなければな らないことから生じるのである。 二点、 コメントしたい。

第一点目は、 証言が問題に決着をつけるというのがどの程度のことなのか、

少しもはっきりしないということである。 哲学を教えたことがある者は誰で も、 学生たち (特に初心者の学生たち) が、 自分が提示した議論を展開する ように強制されると、 自分たちの意見を偽って伝える (と言いたくなるよう

(15)

な) 言明をするという状況をよく知っている。 この現象は、 恐らくは、 もっ とはるかに重要な第二点目によって説明される。 即ち、 この種の文脈におけ る証言は、 一般的に言って、 人がよく考えない場合に持つと思うかもしれな い性格を持つことはないのである。 それは報告的というよりはむしろ建設的 である。 もし私が誰かに、 これこれはしかじかの結果であると彼が考えるか どうか尋ねるとしたら、 私が受けとることになるのは、 主として、 彼が推測 したときに何を考えたかについての報告ではなくて、 その推測の弁護だろう。

一般に私たちは、 特定の人物が、 或る推理の手順を実際に踏んだその瞬間に 何を考えたかということよりも、 その手順は適当なのかどうかということの 方に、 はるかに多くの関心がある。 人は、 こういう場合の証言と計画の具体 化との間に、 或る類比を見るかもしれない。 もし誰かが或る目的を達成する ための計画案を提出していて、 私が彼に、 しかじかの偶発事が起こった場合 にはどう対処すると提案するのかと尋ねるとしたら、 彼は自分が計画を考え たときに抱いた考えを正しく説明するというよりは、 その偶発事に対処する 仕方を私に具体的に示そうとしてできるだけのことをするだろうと私は期待 する。 推理についての証言と呼べるかもしれないもののこの特徴は、 私たち が説明しなければならないものである。

ここまでを振り返ってみよう。 私たちが吟味のために提案した主張は、 一 度は、 誤った推論の可能性に直面して、 もう一度は、 略式で不完全な推論を 許容するために、 これまでに二度、 訂正を必要とした。 後者に適合させるた めに必要な再定式化は、 入手困難であることが判明している。 SとS′を、

前提と結論の集合 (あるいは、 恐らく、 命題群ともう一つの命題の集合と言 うのがより適切だろう) から成る連鎖、 またはそのような連鎖の連鎖 (連鎖 式三段論法) としよう。 (この言い方は、 完全に厳密なものではないが、 役 には立つだろう。) XがSを (会話か思考において) 産出したとしよう。 以 下では、 「形式的に有効」 が、 「前提が真であって、 前提から結論への手順が 形式的に妥当である」 を意味するとしよう。

(1) 私たちは 「SはXによる一つの推論である」 を 「XはSを形式的に有

(16)

効だと思う」 と定義することはできない。 なぜなら、 もしSが不完全な推論 だとしたら、 Sは形式的に有効ではないし、 また、 Xによって合理的な仕方 でそう思われるはずはないからである。

(2) 私たちは 「SはXによる一つの推論である」 を 「Sの拡張であって、

形式的に有効であるようなS′がある」 と定義することはできない。 なぜな ら、 (a) XはS′を形式的に有効だと思うということが考えに入ってない し、 (b) そう定義することは、 誤った推論を排除することになるだろうか ら。

(3) 私たちは 「SはXによる一つの推論である」 を 「Xは、 Sの拡張であっ て、 形式的に有効であるようなS′があると思う」 と定義することはできな い。 というのは、 これは弱すぎて、 形式的ではない連鎖が何らかの形式的に 有効な拡張を持つと (いかなる理由ないし理由の欠如に基づくのであれ) X が思うどんな場合も、 推論として許容することになるだろうから。 (例えば、

恐らくはシュロップシャの場合。)

(4) 私たちは 「SはXによる一つの推論である」 を 「S′はSの拡張であっ て、 Xは、 S′が形式的に有効であると思う」 と定義することはできない。

なぜなら、 そのような拡張の探索は不確定さのゆえに混乱するから。 この条 件を満たす、 明確に同定できる拡張はないかもしれない。

そうすると、 暫定的な主張に代えて、 私たちは何を示すことができるのか。

出来すぎの推論

私はこれまでのところ、 推論者が推理の標準的な或る一群の規範に従って いると思っているものともっともらしく想定される、 発話とか明示的な思考 の諸連鎖の再構成というものを、 実際の推論のすべての場合に関して、 見出 す試みから生じるかもしれない諸困難について考察してきた。 私は今度は、

異なった一群の事例に向かう。 この一群の事例に関して問題なのは、 それら を標準的な規範に関係づける方法を知るのが困難であるということではなく て、 むしろ、 関連づけるのが単に簡単でありすぎるということである。 或る

(17)

子どもたち (それほど多くはない) のように、 それらは自分自身のためにな らないほど行儀がよすぎる。

誰かが私に 「ジョンが到着した」 と言ったのに対して、 「私はそのことか らジョンが到着したと結論する」 と私が応じたと想定せよ。 あるいは、 「ジョ ンが到着したしメアリも到着した」 と彼が言ったのに対して、 「私はメアリ が到着したと結論する」 と私が応じると。 あるいは、 「私の妻は家にいる」

と彼が言ったのに対して、 「私はそのことから誰かが家にいると推論する」

と私が応じたと。 私の応答に 「結論する」 とか 「推論する」 という動詞が現 れることには、 何か非常に奇妙なものがあるのではないか。 もし、 最初の応 答の代わりに、 「すると、 ジョンが到着したんだね」 と私が言っていたとし たら、 奇妙さは取り除かれただろうというのは、 もちろん本当である。 しか し、 その場合、 「すると」 という語は、 推理がなされていることを示すため ではなくて、 むしろ、 驚きを表現する慣用的な方法の一部として役に立って いる (「え、 まさか」 と人は言ったのかもしれない)。 ところで、 私の職業上 の生活における相当の部分を、 それを食い物にすることに費してきたあげく に、 [1] 言明が偽であることと、 [2] 言明が真ではあるが、 紛らわしいと か不適当であるとか無意味であるために、 表明するのが何らかの仕方で不適 当であることの間の区別に、 私は気づいていないというわけではない。 しか し、 ここでその区別を使用するという考えに、 自分自身誘惑を覚えるという ことはない。

今度は、 私がここで章を終えることにして、 突然次のような議論に切り替 えると想定せよ。 「私には手が2本ある (ここに1本あって、 別のがここに ある)。 もし私にもう3本手があったら、 私には5本あることになる。 もし その数の2倍あるなら、 10本あることになる。 そして、 もしそのうちの4本 を取り去ったなら、 6本残ることになる。 それ故、 私には現在あるよりも4 本多く手があることになる。」 人はこの言語実践を推論として記述すること に満足できるだろうか。 しかしながら、 私が基準に従って受け容れ可能な言 明の連結を産出したという点に、 疑問の余地はほとんどない。

あるいは、 私の習慣となっている、 自由で平易なスタイルで書く代わりに、

一階の述語論理に関する自然演繹体系の規則に厳密に従った連続した手順の、

(18)

言わば言語的現実化として、 私が自分の考え (ないし、 少なくとも、 自分の 考えの論証的部分) を組み立てたと想定せよ。 上に示したものは、 即ち、 中 世の論争の現代版類似物である。 私の発言を読み続けた物怖じしない魂は、

それを推論の産物と考えようとするだろうか。 それとも、 むかし或るとき実 施された、 推論の気が狂った形式化と考えるだろうか。

これまでの修辞的な疑問の流れによって示唆される論点は、 以下のように まとめられよう。

(1) 提示された幾つかの実例が 「推論」 の資格が得られないかどうか、 あ るいは、 かろうじてその資格が得られるかどうかということは、 恐らくは、

それほど重大な問題ではない。 なぜなら、 どちらであっても、 それらは、 私 たちの推論の概念に極めて中心的な何か (それは恐らく、 異なった場合には 異なったものである) に違反するように思われるからである。

(2) 単独でにせよ、 連結においてにせよ、 推論の基本規則の機械的な適用 は、 (せいぜい) しぶしぶ推論と呼ばれるにすぎない。 そのような機械的適 用は、 恐らくは正当に正式な推論に含まれる (正式な推論における個々の手 順を構成している) かもしれないが、 それら自身は推論でも推論の連鎖でも ない。

(3) 推論者は、 大なり小なり、 自分の推論の作者であるべきだという要求 がある。 オウム返しに繰り返された言明の連鎖は、 オウム返しに繰り返され た場合には推論ではないが、 全く同じ連鎖が、 オウム返しに繰り返されるの でなければ、 推論であるかもしれない。

(4) 幾つかの例は、 無目的ないし無意味なので、 欠陥を持つ。 推論は、 問 題に向けて提出されることをその特徴とする。 小さな問題、 大きな問題、 問 題内の問題、 はっきりした問題、 ぼんやりした問題、 実践的な問題、 知的な 問題。 とにかく、 問題に、 である。

(5) 論理学的にきちんとしているということがあっても、 単なる思考の連 なりは、 ぎりぎり推論の資格を得るだけである。 しかし、 もしそうするよう に指示されているとか、 あるいは (干渉によって、 誤謬推論とか誤りに陥る ことがないようにというだけでなくて、 不適切の類に陥ることがないように)

(19)

監視さえされているとすれば、 その場合は別の問題である。

(6) 挿入する手順についての小うるさい過剰な推敲は嫌がられるし、 極端 な場合には、 推論の資格を没収される危険を冒すことになる。 会話において は、 そのような過剰な推敲は、 会話の格率、 (恐らくは) 量に関連して適切 に定式化された何らかの格率に違反するだろう。*7 思考においては、 それは もったいぶりとか神経症的な用心深さという烙印が押されるだろう。 最初は、

恐らく人は、 明瞭さが少ないことよりも多いことの方が長所であると、 また、

明瞭でないというのは悪いというわけではないが、 他の条件が等しければよ り明瞭であることの方がよりよいとする方向に傾いたことだろう。 しかし、

今や、 適切な明瞭さというのは、 あたかもアリストテレス的な中間であるか のようである。 そして、 その中間のありかを何が決定するかを問うことは、

或る場合には適切だろう。

以上の所見の要点は、 私たちの手元にあった推論についての暫定的な説明 が、 決定的に重要な何かを置き去りにしてしまうということであるように私 には思われる。 それが無視してしまうものというのは、 活動としての、 目標 とか目的を持った何かとしての、 推論の概念である。 それは、 要するに、 推 論と意志との関係を無視してしまうのである。 その上、 この活動という概念 を持ち込むことによってもたらされる、 由緒ある一群の、 追加される考え方 を利用するなら、 私たちは、 少し前に私が提示した困難を扱うことができる ようになるだろう。 なぜなら、 私たちは (例えば)、 XがAと考えて、 次に Bと考えることにおいて、 その議論の前提がAの補完である、 そういう形式 的に有効な議論の結論であるような何かを考えることを人が意図する場合に のみ、 XはAからBへと (非形式的に) 推論すると言うことができるのだか ら。 このことは、 AからBへの移行の、 何らかの形式的に有効な補完が存在 すると、 ただ考えることとは異なるだろう。 後者を推論とはみなさない考え 方に私は傾いている。

正式の推論が持つ目的性にこのように訴えることによって、 私がそれを [解決する] ためにその目的性ということを持ち出した、 かの困難を十分解 決できるかもしれないという相当の望みを私は抱いている。 しかしながら、

(20)

私はその通りだと完全に確信しているわけではないので、 困難を取り扱う第 二の、 可能な方法を提案しておく。 これには、 もっと後の章で、 その困難を より大きな文脈に置こうと試みる際に、 戻るつもりである。原註(1) 推理の処理 をする 「厳格な方法」 とでも呼べそうなものが、 私たちに利用可能である (と想定しよう)。 少なくとも、 私たちが困難に陥ったとき、 道筋が明確でな いとき、 扱いにくい聴衆を前にしたときなどに、 実際に私たちは、 この面倒 で段階的な手続きを踏む。 しかしながら、 推理に基づく判断というのは、 通 常は、 それの実際上のないしは期待される到着地点の故にのみ、 私たちにとっ て望ましい企てなのであって、 それ自身の故に望ましい (もしそうだとする と、 この点でそれは推理能力とは異なるのかもしれない) というのではない。

厳格な方法に従う場合は、 時間とエネルギーが費やされる。 時間とエネルギー は供給が限られているから、 厳格な方法を用いる機会は最少にすることが望 ましい。 厳格な方法の代用品である、 慣れと意志によって可能となる迅速な 方法が、 私たちには利用可能である。 そのための能力 (ときに、 賢明さと呼 ばれて、 度合において可変的であることが知られている原註(2)) は望ましい資 質である。 すぐれた推理の手順を踏む可能性 (踏まれるべきすぐれた手順が あるという可能性) は、 個々の推論者の推理能力に関する評判のような事項 と一緒になって、 私たちが、 個別の場合における個別の移行を、 推理に基づ くと (従って、 推論の一事例であると) 想定するかあるいはそうではないと 想定するかを決定するかもしれない。 この説明によると、 推論者の心に明白 な形で存在すると想定される、 形式的でない推論についての唯一つの補足が あるとするのは、 必然的ではない。 これがその通りだと思わせる特別な理由 が、 かなり多くの場合にあるのかもしれないが。 従って、 ボトヴィニクの場 合は、 当然、 推論の一事例として扱われるが、 シュロップシャの場合はそう ではない。

論理学は何を捉えられないか

これまでのところ、 私が主として (他を排してというのではないが) 考察 してきた問題というのは、 一般の人々による実際の推論を、 その [形式の]

(21)

或るものは標準的規範に準拠することによって有効となる、 そしてその体系 化が (希望的には) 形式論理学によって提供されることになる、 そういう完 全な議論の諸々の形式に関連づける課題に関するものであった。 今度は、

(もっと多くの論理学的システムを私たちが必要としているという意味で) 論理学の展開がまだ十分完全なものではないからというのではなくて、 それ が論理学的なシステムにおいて表現される種類のものでは全くないので、 論 理学が捉えることができない、 そういう推論に関する本質的な特徴というも のがあるかどうかを問うことにする。

以下の例を考察せよ。

不幸な教授が何ヶ月も前に、 或る大学で正式な講義を10回することを引き 受けていて、 講義開始日の1カ月前になって、 その大学から彼に個々の講義 の題目を求めてくる。 彼は以下のように推論する。 「ああ、 だめだ。 全部ご ちゃごちゃだ。 私には山ほど材料があるが、 そのどれも聞く価値があるよう に思えないし、 形になっていない。 それに、 私は恐ろしく混乱している。 私 が考えていた10個の講義題目を、 仮にそれらに与えるとして、 それらの題目 が (いずれにしても) 最終的にできあがるものと合致するという確信が持て ない。 いつもこんな具合だ。 ずっと前に引き受けておいて、 いざその時が来 ると、 がっくりくる。 なぜ私はこうなんだ。 なぜ学習しないんだ。 全部キャ ンセルしたい。 しかし、 私は講義をすると言ったのだから、 もしキャンセル したら、 私の評判は地に落ちるだろう。 だから、 どうにかしてそれを切り抜 けなければならない。 いずれにしても、 私は多分、 自分の材料の価値に関し て適切な判断をするのにふさわしい状態にはない。 講義題目がなければなら ないというのはわかるが、 私は、 考えていたものよりよいものは何も考えら れないので、 それらの題目を与えることにして、 必要に応じてそれらの題目 からはずれる自由を求めることにしよう。 そして、 最初の日までに四つの講 義を準備することにしよう。 講義がはじまったら、 そのことが私に何らかの 余裕を与えてくれるだろう。」

このような独白 () は私たちの日常にありふれている。 独白だ

(22)

けではない。 多くの推論が対話形式で表現されるのだから。 さて、 私は気の 毒な教授について、 彼が推論しているものとして話をした。 しかし、 そう記 述することを問題にする人がいるかもしれない (私自身はそう記述すること に少しも自信がない)。 しかしながら、 私の [原文通り] 独白は確かに、 「彼 は次のように推論した」 という句を前に置くことが適切でない文を含んでは いたのだが、 「〜と推論する」 の事例ではない事項が、 見本になるような推 論の一要素、 しかも決定的な要素であるということがあるかもしれないとい う考えが私に生じて、 自分自身はその記述が後退するのを受け入れるのは不 本意だと気づかされる。 それは、 立ち止まって靴のひもを結ぶとか、 景色を 見るというのが、 厳密にはそれ自体が歩くことの一例であるということは全 くないのだが、 それにもかかわらず、 歩くことの一例である何か、 即ち散歩 に、 密接に関連している一要素ではあるかもしれないというのと同じである。

もしそう記述することが許容されるべきだとしたら、 実際の推論の多くは質 問とか、 実際のあるいは想定される反論の提出とか、 仮説の提示、 更には感 情の表出というようなものすら含むことになる。 そのような事項が推論の特 性に関連している限りで、 未来の論理学がそれらの表記法を考案することが できるとか、 そう試みさえすべきであるということに、 私たちは確信が持て るのか。 あるいは、 もし論理学者が試みないとしたら、 他の誰かが体系的に 探求すべき領域など存在しないのだということに確信が持てるのか。 それと いうのも、 実際の推論が持つこれらの特色の幾つかは、 私たちが優れた推論 者に特徴的であるとみなす、 興味深い仮説を構成する能力とか、 的をはずさ ない能力、 類似点を指摘する能力、 いつ推論すべきでないかを知る能力など のような個人的属性に、 大いに関連することになるからである。 そして、 こ れらの特色についての形式的な描写が仮に入手可能だとしても、 それが [そ れらの特色に] 対応する能力資質を [推論者に] 帰属させるための基礎とし て十分であるかどうか、 明確ではない。 自然演繹体系では、 仮定が立てられ ていることを印で表わす装置があるので、 私たちは仮定の設定を表記する装 置というものを思い描くことができる。*8 しかしながら、 この印が検出でき ても、 表記された仮定の設定が適切なものかどうかに関しては、 私たちは闇 の中に置かれたままになるかもしれない。 それに、 規則性を表記することは、

(23)

適切さを表記することではないのである。 私たちは、 人の善さと行為の善さ の (どちらかの、 あるいは、 異なった局面における両方の) 相対的な優先順 位に関する申し分のない説明に到達するという、 倫理学上の名高い問題に類 似した論点に、 恐らくは遭遇しているのである。 実際、 私が注意を向けてい る類の特色は、 倫理学の領域に属するものかもしれない。 それが実のところ、

アリストテレスが ニコマコス倫理学 第6巻の一部を知性的な優秀さにつ いての議論に振り向けたときに、 それらの特色を (あるいは、 それらとそれ ほど異なってはいない何かを) 位置付けたと思われる場所である。 しかし、

それらを倫理学の一部門に付託すること自体は問題を解決しない。 そして、

恐らくは、 私が今提起している問題についての、 私が採用したいと思ってい る見方を、 簡潔に素描して締めくくるのがよいのかもしれない。

私が提示したい画像は、 私たちが合理性の本質を探るとか理性を持つとは どういうことかを問うときに、 私たちの手元に本当は、 私たちが捉えておく べき、 少なくとも二つの概念があるという考えからはじまるものである。 そ のうちの一つは、 「不変的な」、 程度を許容しない、 非可変的な概念である。

人間は理性的存在であると言われるときに適用されるのはこの概念である。

この概念に関しては、 いかなる人も、 他のいかなる人よりも、 より多くある いはより少く理性的であるということはない。 もう一方は、 可変的な、 程度 を許容する概念であって、 この場合は、 或る人々は他の人々よりも明白に理 性的である。 (しかしながら、 恐らくは、 何人かの哲学者たちはこのことに 同意しないだろう。 デカルトは、 人間を理性的にすることをアリストテレス に委ねるほど、 神はしみったれていないだけでなく、 一人の人を別の人より も理性的にするほど不正でもないと考えたかもしれない。) 二番目の概念は、

一番目のそれと深いつながりがある。 そしてまた、 二番目の概念に関する [程度の] 違いは、 価値における違いである。 即ち、 より多く理性的である 方がより少なく理性的であるよりも、 よりよいのである。 このような仕方で 概念同士が結びついている例は珍しくない。 人は、 道に沿って車を走らせる ためにどのような運転の操作をすればよいかを知っているという意味で、 車 の運転の仕方を知っているということもあるが、 車の運転の仕方を間違いな く知っている、 即ち、 よいドライバーだという、 それ以上の、 それに関連し

(24)

た意味で、 車の運転の仕方を知っているということもある。 ところで、 推論 が理性の行使として考えられるとして、 「理性」 (あるいは 「理性を持つこと」) は不変的と可変的という両方の解釈に開かれているとしたら、 直ちに私たち は、 本章において問題になった幾つかの現象に関して説明を与えることが可 能になる。 例えば、 私が作り出した無目的なあるいは些細な見本に対して

「推論」 という表現を適用することに関するためらいは、 次のような事実に よって説明されるかもしれない。 即ち、 「推論」 が 「不変的な」 理性の顕現 として考えられるなら、 そのような見本は 「推論」 と呼ばれるかもしれない が、 「推論」 が 「可変的な」 理性の顕現として考えられるなら、 そうは呼ば れないだろうという事実によってである。 そして、 推論に含まれはするが、

「〜と推論する」 の実例ではない見本というのは、 不変的理性の実例ではな いのだが、 可変的理性についての評価に関連する見本ではあるのかもしれな い。

私がここで、 哲学者が用いる類比の中でも幾らか陳腐なものの一つ、 即ち チェスを持ち出して、 合理性の能力とチェスの能力との部分的類比によって 考察するとしたら、 合理性の能力に関する以上二つの概念の特徴付けを敷衍 する助けになるかもしれない。 不変的なチェスの能力というのは、 チェスの 規則を知っていることと、 その規則 (もちろん、 動かし方を含む) を適用す ることができることとに存しよう。 それは、 不変的な合理性の能力が、 推理 の規則を適用する能力に存するのと同様である。 可変的なチェスの能力、 チェ スの (高度な) 専門知というのは、 教則本から学ばれるのではなくて、 恐ら くは、 他のプレーヤーの、 あるいは モダン・チェス・オープニング *9 ような著作の、 あるいは終盤戦についてのルーベン・ファイン*10の教えと組 み合わされた実践によって学ばれるものだろう。 その能力の本質は、 チェス の規則に従ってなされる活動 (チェスのゲーム) に関して優れていることに 存する。 それは、 可変的な合理性の能力が、 推論の規則に従ってなされる活 動、 即ち、 何らかの種類の推論に関して (より多くあるいはより少なく) 優 れていることに存するのと同様である。 何らかの種類の活動に関して、 人が それに (多かれ少なかれ) 優れているということがあり得るためには、 その 活動には目指す目的があるのでなければならない。 目的は、 時と場合に応じ

参照

関連したドキュメント

(( .  entrenchment のであって、それ自体は質的な手段( )ではない。 カナダ憲法では憲法上の人権を といい、

「カキが一番おいしいのは 2 月。 『海のミルク』と言われるくらい、ミネラルが豊富だか らおいしい。今年は気候の影響で 40~50kg

・沢山いいたい。まず情報アクセス。医者は私の言葉がわからなくても大丈夫だが、私の言

①配慮義務の内容として︑どの程度の措置をとる必要があるかについては︑粘り強い議論が行なわれた︒メンガー

神はこのように隠れておられるので、神は隠 れていると言わない宗教はどれも正しくな

土壌は、私たちが暮らしている土地(地盤)を形づくっているもので、私たちが