﹃源氏物語﹄弘徽殿大后論
影の体現者
河 村知加子
弘徽殿女御ー桐壼更衣の死をめぐってー
①はじめより我はと田心ひあがりたまへ・御方々︑めざましきものにおとしめそねみたまふ︒同じほど︑それより晶の 更衣たちはましてやすからず︒ ︵﹁桐壼﹂巻①一七頁︶
桐壼更衣は帝から過度の寵愛を受けるあまり︑他の女御・更衣の嫉妬や憎悪の的となる︒しかしここには弘徽殿女御の
名は無く︑この場面とは無関係であると考えられる︒他人の幸運を見て︑自分にはそれが望み得ないことを不満に思うの
が﹁そねみ﹂である︒弘徽殿女御はすでに第一皇子を出産しており︑望み得る寵愛︑待遇︑地位を得ていたことになる︒
従って︑そねむのは︑皇子皇女のいない女御・更衣ということになる︒
②参上りたまふにも︑あまりうちしきるをりをりは︑打橋︑渡殿のここかしこの道にあやしきわざをしつつ︑御送り迎
への人の衣の裾たへがたくまさなきこともあり︑また︑ある時には︑え避らぬ馬道の戸を鎖しこめ︑こなたかなた心
を合はせてはしたなめわづらはせたまふ時も多かり︒ ︵﹁桐壼﹂巻①二〇頁︶
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第二皇子︵光源氏︶出産後︑桐壼更衣への中傷が迫害へと具体化される︒ここで弘徽殿女御は第一皇子︵朱雀帝︶の立
坊を危惧するあまり︑帝に﹁御諌め﹂︵﹁桐壼﹂巻①一九頁︶をする︒その後の迫害の実行についてみると︑弘徽殿女御
の関与は否めない︒指示した可能性すらある︒しかし︑淑景舎︵桐壼︶から清涼殿への道程には多数の殿舎が存在し︑
﹁あやしきわざ﹂は﹁ここかしこの道﹂で起きている︒弘徽殿女御の迫害が事実だとしても︑他の女御・更衣の所でも同
様の行為がなされていたことは明らかであるし︑馬道の戸を鎖すにも︑﹁こなたかなた﹂と共犯していることから︑複数
の女御・更衣が徒党を組んで迫害を行なっていたと考えられる︒
③﹁亡きあとまで︑人の胸あくまじかりける人の御おぼえかな﹂とそ︑弘徽殿などには︑なほゆるしなうのたまひける︒
︵﹁桐壼﹂巻①二六頁︶
桐壼更衣の死後初めて︑弘徽殿女御が心情を吐露する場面である︒この発言︑﹁なほ﹂から︑生前の罵りが容易に想像
される︒だが﹁などには﹂とあることから︑弘徽殿女御以外にも同様に思う女御・更衣がいたと類推される︒
④母后﹁あな恐ろしや︑春宮の女御のいとさがなくて︑桐壼更衣のあらはにはかなくもてなされにし例もゆゆしう﹂⁝
︵﹁桐壼﹂巻①四二頁︶
先帝の四の宮︵藤壼︶入内要請に際しての︑藤壼母后の発言である︒春宮の女御︵弘徽殿︶の性悪さと︑桐壼更衣への
露骨な迫害が︑広く世間一般に知れ渡っていたと判る︒
以上︑四点から二人の関係性を見てきたが︑①②③から言えるのは︑桐壼更衣の死は後宮女性全体の圧迫によるものだ
と言うことである︒では④をどう受けとめるべきか︒そもそも風説は内容が増幅され広まるのが普通である︒藤壼母后の
発言は噂に基づいた憶測であって︑全面的に信用することはできないが︑さりとて否定もできない︒
重要なのは四点の関連性︑つまり後宮女性が複雑に絡み合うその中で︑何故弘徽殿女御だけに焦点があてられるのかと
いうことである︒それは弘徽殿女御が春宮立坊問題に直接関わっており︑第二皇子の生母に対して︑第一皇子の生母とし
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て必然的にその存在が浮かび上がるからなのである︒また﹁女御︑更衣あまたさぶらひたまひける﹂︵﹁桐壼﹂巻①一七
頁︶中の代表存在として取り扱われるからであり︑現実問題として桐壼更衣の死は︑弘徽殿女御天のみの星︑によるも
のではなく︑後宮女性全体の非難や中傷といった集合的圧力と考えるべきである︒
また別の問題として︑天の后を死に追いや・までに︑誰が後︷呂女性の嫉妬や憎悪を駆り立≦か︑い︑つ︑.とも考えね
ばならない︒﹁帝王の愛は︑後宮の女性たちの身分・出自に応じて分かち与えられなければならな﹂いとすれば︑皮肉な
ことにそれは︑桐壼更衣を愛情によって支えたはずの桐壼帝その人であると言わざるを得ない︒桐壼帝の偏愛︑帝として
の義務の怠りこそが・後宮女性の嫉妬・憎悪︑世間の非難を巻き起こし︑桐壼更衣を死に追いやる︑・とになったのである︒
二 政治人生1その正当性ー
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︵1︶ 右大臣家を担う娘としての使命
桐壼更衣が身分不相応な寵愛を受けていたとき︑蔑んだり︑憎んだりしたのは他の女御.更衣たちであ︒た︒その異常
さは上達部や殿上人︑ひいては世間でも噂されたが︑この時点で弘徽殿女御は姿を現わしていない︒当然非難の的となる
二人の様を快くは思っていなかったであろう︒しかし女御と更衣という身分の格差︑まして後見の欠如とあっては競争相
手にすらならない︒右大臣の娘として︑今を時めく弘徽殿女御の存在を脅かす者などいなかったのである︒
弘徽殿女御がその存在を現わすのは第二皇子︵光源氏︶誕生後である︒
一の皇子は︑右大臣の女御の御腹にて︑寄せ重く︑疑ひなきまうけの君と︑世にもてかしづききこゆれ⁝
︵﹁桐壼﹂巻①一八頁︶
﹁右大臣の女御﹂の呼称は︑出自の低い桐壼更衣の生んだ第二皇子に比べ︑第一皇子の母は右大臣の娘であり︑後見の
勢力としては申し分のないことを示している︒しかし第二皇子が個人資質として第一皇子を全てにおいて上回るゆえに︑
帝の秘蔵子となり︑その母をも特別待遇とすることになる︒
坊にも︑ようせずは︑この皇子のゐたまふべきなめりと︑一の皇子の女御は思し疑へり︒ ︵﹁桐壼﹂巻①一九頁︶
上野英子氏は﹁この時点では︑世間の人々もまた右大臣ですらも︑第一皇子の立坊は当然のこととして未だ何らの疑い
も抱いていなか・たのを︑唯天二の皇子の女御﹂だけは・心中ひそかピ﹂の恐ろしい疑惑を抱き始めて発Lとして・ ︹3︶ その根拠を︑﹁助詞﹁は﹂がきいている﹂からだとする︒対等者たりえない桐壼更衣の男皇子出産が︑右大臣の女御︵弘
徽殿︶に危機感を抱かせ始めたのである︒実際に帝は︑﹁坊定まりたまふにも︑いとひき越さまほしう﹂︵﹁桐壺﹂巻①
三七頁︶と強く願っていた︒
弘徽殿女御の入内は︑右大臣家の繁栄︑勢力拡大のためである︒皇子誕生︑即位の運びとなれば︑帝の外戚として全権
力の掌握が可能となる︒しかし万が一にでも第二皇子立坊ということになれば︑弘徽殿女御の立場は無論︑右大臣家の以
後の栄華は望めない︒弘徽殿女御はそれを十分に心得ているからこそ︑帝のわずかな心の動きにも敏感なのである︒
我が子の立坊が決まるとようやく弘徽殿女御は安堵し︑光源氏への敵対心を解く︒右大臣家の次世代の繁栄が約束され
たからである︒
しかし安堵も束の間︑先帝の后腹の姫宮が入内した︒自分以上に高位の者の出現に︑後宮一の女御の座から滑り落ち︑
後宮を支配できないばかりか︑中宮位まで奪われてしまう︒
後宮で君臨︑つまり中宮位に就いてこそ︑右大臣家の磐石な政権が築かれるのだが︑藤壼立后によりその望みは打ち砕
かれてしまう︒まして次代の春宮には藤壼中宮腹の皇子が決まっている︒桐壼帝は︑春宮即位のあかつきには皇太后の位
が約束されていると慰めるが︑それは︑帝の母としての存在だけでしかないことを示している︒后争いに敗れたことは︑
右大臣家の政権を磐石に出来ないばかりか︑﹁藤壼腹第十皇子に対し︑相対的に弘徽殿腹第一皇子︵春宮︶の威信低下に
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つながる止㏄三もあり・・春三朱雀︶政権は・その始発において・強固な敵対勢力の受け皿を用意さ舞・・にな
るのである︒
右大臣家の盛衰を一身に負う弘徽殿女御は︑いかなる手段を行使しようともこの状況を覆さねばならない︒政敵を追い
落とす機会を狙うのは︑権門右大臣家に生まれた娘の宿命なのである︒
︵2︶ 桐壼帝の妻・一の女御としての立場
弘徽殿女御は他の誰よりも先に入内し︑第一皇子一人を始めとして三人の子をなしている︒実家の権力も強く︑自他と
もに認める︑押しも押されぬ第一夫人である︒
この御方の御諌めをのみぞなほわづらはしう心苦しう思ひきこえさせたまひける︒ ︵﹁桐壼﹂巻①一九頁︶
第二皇子の立坊を危惧す・弘徽殿女御は帝に.御諌め・をした︒上野英子氏は︒の彗口を︑.後︷呂におけ︒乏の女御
としての立場から︑桐壼更衣を寵愛するあまりに中庸を欠いたかとみられる帝に対して︑もう少しの自重を願った﹂もの
と捉えている︒帝の桐壼更衣に対する寵愛ぶりは︑﹁唐土にも︑かかる事の起こりにこそ︑世も乱れあしかりけれ﹂︵﹁桐壼﹂
巻①一七頁︶との悪評がたつほどであり︑後宮︑政治面においても不安要因であった︒そんな中︑弘徽殿女御は︑帝の
個人的理由により後宮のバランスを乱さぬようにと︑帝の第一夫人・後宮の頂点に立つ者として公的な発言をした︑つま
り後宮の安定者であろうとしたのだ︒桐壼帝も後宮の第一夫人の意見とあっては無視できないし︑的を射たものであるか
らこそ︑﹁心苦し﹂く感じるのである︒帝から見てもこの﹁御諌め﹂は正当なものであった︒
後宮の秩序の維持のために心を砕き︑果敢に発言する弘徽殿女御に︑責められるべき欠点は全く見いだせないのである︒
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︵3︶ 朱雀帝の母・大后としての政治手腕
桐壼帝譲位︑朱雀帝即位にあたり︑弘徽殿女御は﹁今后﹂と呼ばれる︒﹁今后﹂とは新帝即位で新たに后となった︑皇
太后となった方という意味である︒清水好子氏は︑﹁﹁今后﹂といったのは﹁紅葉賀﹂の藤壼立后で憤り︑つづいて﹁花宴﹂
の席次で口惜しがった弘徽殿女御が今や待望の地位を手に入れた︑いよいよ彼女の時代が始まるということを感じさせる
︵5︶言葉遣いであるLと述べている︒今後︑朱雀帝の母・皇太后として︑その政治力をいかんなく発揮していくことになる︒
今后は心やましう思すにや︑内裏にのみさぶらひたまへ⁝ ︵﹁葵﹂巻②一七頁︶
桐壼帝が譲位した今︑藤壼中宮だけが始終お仕えする一方︑弘徽殿今后は宮中に留まり続ける︒その理由を語り手は面
白くない︑気にくわないからだと推量しているが︑より積極的な今后の行動であると考えるとどうなるか︒﹁ともすれば
存在感の乏しい新帝を盛り立てねばならぬ﹂﹁皇太后たる自分が内裏に常駐することにより︑新帝に一層の重みを加え︑ ︵4︶ 睨みをきかそうとした﹂とする見方が説得力を持つ︒退位したものの︑在位中と同様︑桐壼院が政治の実権者では︑朱雀
帝の母.皇太后としては黙っていられない︒加えて光源氏の存在は今なお朱雀帝を脅かす︒新帝を護り︑かつ権威を維持
するために宮中に留まるのである︒
桐壺院崩御後︑﹁今后﹂から﹁大后﹂と呼称が変わる︒桐壼院という重圧が取り除かれた今︑弘徽殿大后の恐れるもの
は何もなく︑今や絶大な権力を手中にしたことを明確に示している︒
后は︑里がちにおはしまいて︑参りたまふ時の御局には梅壷をしたれば︑弘徽殿には尚侍の君住みたまふ︒
︵﹁賢木﹂巻②一〇一頁︶
帝の格別な寵愛を受ける朧月夜は尚侍となり︑登花殿から弘徽殿へと移り住む︒最も権勢を誇る家の女御が住む﹁弘徽
殿﹂を譲渡したのは︑右大臣の娘でありながら女御ですらない妹︵朧月夜︶への配慮であろう︒しかしそれとは別に︑こ
こに二点︑弘徽殿大后の計略が隠されていると見るべきである︒一つには︑朱雀帝の後宮において︑右大臣家最大の持ち
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駒である朧月夜に実質的な地位を与え︑後宮の揺るぎなき中心人物とする︒いま一つには︑朱雀帝の自立である︒﹁自ら ︵← が一歩退くことにより︑新帝の自立性を高め︑同時に一種の世代交替を行なっておこう﹂としたと考えられる︒
政治的な思惑が絡んで︑形式的には﹁弘徽殿﹂より退いたのだが︑常に敵対勢力の排除を狙うため︑実質的には政治の
前線より一歩も退くことはない︒
そんな弘徽殿大后に待望の機会が訪れた︒尚侍と光源氏の密会発覚である︒父大臣から報告を受けた弘徽殿大后は︑激
怒しつつも︑政敵排除の絶好のチャンスだと思案を巡らすことになる︒
静と聞こゆれど・昔より皆人思ひおとしきこえて・致仕の大臣も・またなくかしつくひとつ女を︑兄の坊にておはす ⑤ るには奉らで︒弟の源氏にていときなきが元服の添臥にとりわき︑またこの君をも宮仕にと心ざしてはべりしに︑を ◎ こがましかりしありさまなりしを︑誰も誰もあやしとやは思したりし︒みなかの御方にこそ御心寄せはべるめりしを︑
◎の本意違ふさまにてこそは・かくてもさぶらひたまふめれど・いとほしさに・いかでさる方にても︑人に劣らぬさ
まにもてなしきこえん︑さばかりねたげなりし人の見るところもありなどこそは思ひはべりつれど︑忍びてわが心の ◎ ◎ 入る方になびきたまふにこそははべらめ︒斎院の御事はましてさもあらん︒何ごとにつけても︑朝廷の御方にうしろ
やすからず見ゆるは︑春宮の御世心寄せことなる人なればことわりになむあめる⁝ ︵﹁賢木﹂巻②一四八頁︶
輝く一所におはして隙もなきに・つつむところなくさて入りものせらるらむは︑・とさらに軽め弄ぜらるるに・そ−
︵﹁賢木﹂巻②一四九頁︶
⑤では︑左大臣家と右大臣家が完全別離の道を歩むことになった契機について述べている︒左大臣家が娘の入内を拒ん
だのは︑右大臣家の勢力下に組み込まれることを避けるためである︒逆に右大臣家とすれば︑娘さえ入内させれば︑左大
臣家を押さえ込むことは簡単かつ可能なことであった︒勿論︑左大臣が朱雀帝より光源氏を選んだこと自体に帝軽視があ
ることも見逃してはいない︒⑤は︑女御として入内予定の姫君︑朱雀帝後宮支配の切り札︵朧月夜︶を︑傷物にされたこ
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とを述べている︒◎は︑右大臣家一族の甘さについてである︒帝妃予定の姫に手をつけられたにもかかわらず︑不都合な
事と答めない︒まして右大臣は︑光源氏に好意すら寄せる有り様であった︒政敵であるはずの者を︑誰一人として政敵と
みなしていない︒政治家としての認識︑能力に欠けるという厳しい判断を下すにまで至る︒⑥では妹︵朧月夜︶の無自覚
を批難している︒女御として入内させられない以上︑実質的地位を与えるために﹁弘徽殿﹂を譲り︑後宮の女性に劣らぬ
よう配慮してきたのに︑いとも簡単に裏切られてしまった︒後宮での自身の立場を理解していない妹への失望感である︒
◎では︑帝寵を受ける朧月夜と密会するくらいだから︑天皇の名代として神に奉仕する斎院との仲も怪しいものだとする︒
他材料の列挙も忘れない︒①では︑春宮の御代を一刻も早くと願うから︑帝の治世に仇をなすのだと断言する︒⑧では︑
帝はおろか︑その母である自身までも蔑ろにしていると判断する︒皇太后としての威厳を傷つけられたのである︒
以上これらの発言は︑かねてからの敵対・憎悪に根差したものであろうが︑感情的にならず︑論理的かつ冷静に︑光源
氏謀反の意を述べている︒大后自身が属する右大臣家までも批判の対象とするところに︑その冷静さが顕著に現われてい
る︒
官位の剥奪︑流罪の噂もあり︑政界にこれ以上残ることは危険であると判断した光源氏は︑須磨へ退く︒しかし弘徽殿
大后は世間で未だ光源氏がもてはやされていると聞くと︑光源氏を﹁朝廷の勘事なる人﹂︵﹁須磨﹂巻②二〇六頁︶と断
言した上で︑光源氏に同情的な世論に杭を刺す︒ここで︑真の目的の政界からの追放︑世間からの忘却が達成されるばか
りでなく︑世の不穏分子の抑圧にも成功したのである︒
﹃源氏物語﹄正編で語られることのなかった事実が︑宇治十帖﹁橋姫﹂巻にある︒光源氏を須磨に追いやり︑左大臣家
を失墜させた弘徽殿大后に残された使命は︑春宮︵冷泉帝︶を廃することである︒
源氏の大殿の御弟におはせしを︑冷泉院の春宮におはしましし時︑朱雀院の大后の︑横さまに思しかまへて︑この宮
を世の中に立ち継ぎたまふべく︑わが御時︑もてかしつきたてまつりたまひける⁝ ︵﹁橋姫﹂巻⑤=七頁︶
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権力をより強固にするべく︑春宮︵冷泉帝︶を廃し︑八の宮を擁立しようとしたのである︒春宮の後見が謀反を企んだ
者では世間に示しがつかないという大義名分を楯に︑後見のない八の宮を傘下に組み込むことで︑朱雀帝の次世代までも
その手に収めようとしたのである︒飽くなき権力維持・存続精神である︒
光源氏が須磨に流浪中︑朝廷では神仏のお告げが相次いで起きていた︒桐壼院の夢を見た朱雀帝は︑恐ろしく︑また困
惑して弘徽殿大后に相談するが︑
雨など降り︑空乱れたる夜は︑思ひなしなることはさぞはべる︒軽々しきやうに︑思し驚くまじきこと⁝
︵﹁明石﹂巻②二五二頁︶
と一喝される︒何者にも左右されない︑冷徹な政治家としての発言だからこそ︑故院の霊夢におののく朱雀帝をも押さえ
込むことが可能であった︒
しかし朱雀帝は目を病み︑母后は病がちとなる︒ここで弘徽殿大后の呼称が一時的に﹁大宮﹂と変わる︒﹁后﹂の文字
の消去は政治家としての局面を迎えたかのようである︒祖父の太政大臣が亡くなると︑帝は気弱になり︑光源氏召還をと
度々口にする︒
世のもどき軽々しきやうなるべし︒罪に怖ぢて都を去りし人を︑三年をだに過ぐさず赦されむことは︑世の人もいか
が言ひ伝へはべらん⁝ ︵﹁明石﹂巻②二五二頁︶
と︑またしても手厳しく言われ︑光源氏召還は却下されるが︑ここで注目すべきは︑﹁三年をだに﹂である︒三年もたた
ぬうちに許すと帝の威厳が弱まる︑裏を返せば︑三年経過しさえすれば召還してもよいと言うのである︒度重なる不幸に︑
宮中でも意見を述べる臣下がいたであろうし︑世評も押さえ切れなくなっていたのであろう︒結果として︑帝も世評も押
さえ込む形となったが︑帝の威厳を保ちつつ︑世評の拡大を防ぐという︑最善の光源氏召還方法を選択しだのである︒
しかし光源氏が須磨へ退去してから︑二年数ヶ月で﹁京へ帰りたまふべき宣旨﹂︵﹁明石﹂巻②二六二頁︶が下る︒朱
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雀帝は母大后の言葉に背いて光源氏を赦免した︒弘徽殿大后は病に倒れたことで発言力を失い︑政治世界から脱落し始め
た︒いよいよ政治人生も終盤に差し掛かってきたのである︒
朱雀帝は弘徽殿大后に一言の相談もなく譲位を決意した︒朱雀帝の親離れは︑弘徽殿大后の政治人生の終焉を告げるも
のであった︒
弘徽殿大后の政治人生を三段階に分けてみてきた︒いずれも正当な行為・発言である︒右大臣家の娘として入内し︑実
家の繁栄をかけて戦い︑桐壼帝の妻として夫の行状を戒める︒そして朱雀帝の母として息子の御代を守ろうとする︒政況
を的確に捉える目を持つ弘徽殿大后は︑使命を果たすべく政権闘争に身を投じ︑政敵排除に努めたのである︒
三 担わされた役割
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︵1︶ 敵としての役割
弘徽殿大后は終始一貫して光源氏と敵対し︑完全なまでの敵役として描かれている︒それは主人公と相反する立場にい
るからであるが︑何故これほど完全な﹁敵﹂になれたのだろうか︒それは政権争いに直接関わる当事者︵光源氏︑左大臣
家︑弘徽殿大后︑右大臣家︶以外の︑語り手によるところがおおきいと考えられる︒
桐壼更衣が亡くなり悲嘆に沈む桐壼帝をよそに︑弘徽殿大后は管弦の遊びをする︒帝は不快に思い︑殿上人や女房は気
がきでない︒そこに語り手が介入してくる︒
いとおし立ちかどかどしきところものしたまふ御方にて︑事にもあらず思し消ちてもてなしたまふなるべし︒
︵﹁桐壼﹂巻①三六頁︶
弘徽殿大后の性格を︑我を張り強引で険がある御方だと言い切る︒行動に対しては﹁べし﹂を用いて推量の形をとるが︑
性格に対しては︑﹁に﹂﹁て﹂と断定するのである︒まるで読み手の敵対心を駆り立てるかのような語り口である︒
光源氏の美しさを借りて︑さりげなく﹁敵﹂を印象づける場面がある︒
いみじき武士︑仇敵なりとも︑見てはうち笑まれぬべきさまのしたまへれば︑えさし放ちたまはず︒
︵﹁桐壼﹂巻①三九頁︶
桐壼更衣の死後︑帝が光源氏を弘徽殿大后の御簾の内に入れると︑大后は︑光源氏のあまりの美しさに突き放すことがで
きない︒武士や仇敵をも微笑ませてしまう美貌だと賞賛するのだが︑その例え方に問題がある︒ここで﹁武士︑仇敵﹂の
例を引くということは︑それに相当する人物がいる︒つまり︑光源氏の類なき美しさを述べながら︑その実︑恐ろしい仇
敵は弘徽殿大后だと暗示しているのである︒
院のおはしましつる世こそ揮りたまひつれ︑后の御心いちはやくて︑かたがた思しつめたることどもの報いせむと思
すべかめり︒ ︵﹁賢木﹂巻②一〇二頁︶
院崩御で不遇の時代をむかえた光源氏は︑政権交代により政治権力を失っていった︒そんな中︑またしても語り手が口
を出すのである︒きつい性格故に光源氏への報復が始まるというのだ︒文の結びを﹁べかめり﹂として︑これは推測だと
の姿勢をとりつつも︑かなりの確信がある場合に用いられる﹁べし﹂を使用することで︑政敵・弘徽殿大后の報復の切迫
を︑読み手にはっきりと提示しているのである︒
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︵2︶ 源氏解放としての役割
光源氏を政界から追放したのは︑右大臣でも他の誰でもない︑朱雀帝の御代に皇太后として君臨した弘徽殿大后である︒
朧月夜との密会発覚を契機に︑ついに光源氏を失脚させることに成功する︒しかしそれは意に反して︑光源氏を成長させ
る結果となってしまった︒
光源氏は政界に復帰後︑朱雀帝譲位︑冷泉帝即位をうけ︑内大臣となる︒本来なら冷泉帝の後見として摂政の職に就く
べき光源氏は︑重責に耐えられないからと︑その職を元左大臣に譲る︒ここに二者の立場の逆転が起きている︒譲る光源
氏と︑譲られる左大臣である︒
追放以前は︑桐壼帝という大きな力に守られ︑左大臣をこの上ない後見とし庇護を受けてきた︒いわば左大臣の下に位
置していたのである︒それが︑弘徽殿大后の政界追放によって︑光源氏は政治家としての成長を遂げ︑庇護される立場か
ら︑庇護する立場に立つことになったのである︒この後︑左大臣はまさに﹁御光﹂︵﹁濡標﹂巻②二八四頁︶に万事引き
立てられて︑この世の栄華を極めることになる︒ ︵6︶ ﹁相対的存在である左右大臣の一方におかれた光源氏を解放し︑絶対的な地位へと向かわせた﹂のは弘徽殿大后であり︑
規定枠からの解放こそが︑政治家光源氏を誕生させることになったのである︒
作品内論理としての弘徽殿大后の役割ー適役・解放役ーは︑光源氏をより一層際立たせ︑政治家としての真の技量を発
揮させることにあったといえる︒
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四 人物としての豊かさー素顔の垣間見1
政治に一生を捧げた弘徽殿大后は︑政治家としての顔が前面に押し出されるあまり︑一人の人間としての顔が隠れてし
まっている︒そこで︑政治という仮面を外した素顔を覗いてみることにする︒
桐壼更衣の死後︑帝の悲嘆を無視して管弦の遊びをするのを︑渡辺仁史氏は︑﹁死者を鞭打つまでの激しい憎悪︑嫉妬 ︵7︶ にまで彼女を駆り立てたのは彼女の狂おしいまでの桐壼帝への愛ではなかったであろうか﹂と︑行動の理由を説いている︒
これほどあからさまな当てつけをするのは︑帝の心を占領する更衣を恨めしく思うからであろう︒嫉妬も当然の心理とい
えよう︒
見てはうち笑まれぬべきさまのしたまへれば︑えさし放ちたまはず︒ ︵﹁桐壼﹂巻①三九頁︶
桐壼更衣死後︑帝が光源氏を連れて来て︑二人の対面を図る︒憎い桐壼更衣の子供ではあるが︑春宮問題も一段落つき︑
直々の頼みとあっては悪い気もしない︒帝の一言で態度を一変させるところなど︑変わり身の速さとでもいうのだろうか︒
光源氏を突き放すどころか︑御簾の内をも許せたのは︑帝︑光源氏双方から頼られていると感じたからである︒後に光源
氏が藤壼に格別な心寄せをみせるようになると︑憎しみを蘇らせることになる︒弘徽殿大后は慕われ頼られることを︑特
別に感じていたのである︒
弘徽殿女御︑中宮のかくておはするををりふしごとに安からず思せど︑物見にはえ過ぐしたまはで参りたまふ︒
︵﹁花宴﹂巻①三五三頁︶
この場面には好奇心旺盛な姿が描かれている︒后争いに敗れた弘徽殿大后は春宮の母でありながら︑藤壼中宮の下座に
着かなければならないことに立腹する︒しかし宮中をあげての盛大な桜の宴は見逃せないと︑渋々中宮の下座に着くので
ある︒怒りよりも好奇心を優先させる︑意外な一面である︒
大后も参りたまはむとするを︑中宮のかく添ひおはするに御心おかれて︑思しやすらふ⁝ ︵﹁賢木﹂巻 ②九七頁︶
いくら夫︵桐壼院︶に見切りをつけたとはいえ︑子までなした仲であり︑かつて愛した人に違いはない︒一目なりとも
会いたい気持ちはあるのに︑藤壼中宮に遠慮︑というより反発して会いにいかないのである︒﹁花宴﹂巻で下座に着いた
のだから︑多少の事は我慢すればよいのだが︑意地を張る︒弘徽殿大后は桐壼院への愛を素直に表現できなかったのであ
る︒
后待ちよろこびたまひて御対面あり︒ ︵﹁少女﹂巻③七四頁︶
朱雀帝の母.皇太后として政治世界の最前線に身を置いていた頃は︑政治家としての姿を一貫させるため︑素顔を垣間
一133一
見ることはできないが︑晩年になると再びその素顔をのぞかせる︒
太政大臣光源氏と冷泉帝が︑朱雀院への行幸の途中に弘徽殿大后の所に立ち寄ると︑待っていましたとばかりに喜ぶの
である︒老人の喜びなのか︒年をとって気弱くなったのかもしれない︒しかし︑過去にあれほど光源氏を敵視していたの
に︑今更態度を変えられるだろうか︒表向きは変えられても︑内面まで変えてしまうのは容易なことではない︒
﹁今はかくふりぬる齢に︑ようつのことを忘られはべりにけるを︑いとかたじけなく渡りおはしまいたるになん︑さ
らに昔の御代のこと思ひ出でられはべる﹂とうち泣きたまふ︒ ︵﹁少女﹂巻 ③七四頁︶
年を取り︑昔のことは全て忘れてしまいましたと︑昔の仕打ちを取り繕っている︒その上で︑身に余る恩恵を受け︑桐
壼院の御代が自然と思い出されてと泣くのだが︑実際どうであろう︒抑圧され︑意のままに振舞えなかった過去として思
い出しはしても︑満足な過去として思い出すことはないのではないか︒思い出されるのは︑天下を取り︑自由に振舞えた
朱雀院の御代であり︑光源氏と冷泉帝の手前︑話を合わせた観がある︒
のどやかならで還らせたまふ響きにも︑后は︑なほ胸うち騒ぎて︑いかに思し出づらむ︑世をたもちたまふべき御宿
世は消たれぬものにこそ︑といにしへを悔い思す︒ ︵﹁少女﹂巻 ③七五頁︶
これまでの弘徽殿大后の喜びや涙に代表される言動の真相はどこにあるのか︒鍵は﹁なほ胸うち騒ぎ﹂である︒
﹁なほ﹂が事態に変化がなく元通りである様を示すように︑弘徽殿大后は早々に立ち去る二人を見て︑﹁依然として心
中穏やかならず﹂なのである︒光源氏の威勢を目の当りにし︑自身の完全敗北を改めて実感させられて︑穏やかでいられ
るはずがない︒屈辱でさえあったろう︒喜んでの対面︑桐壼院の御代が思い出せれると言って流した涙の裏には︑弘徽殿
大后の如何ともしがたい悔しさが隠されているのである︒儀礼的な光源氏の態度に︑どう昔を思い出しているのだろうと
その心を推し量ろうとするのも︑敵として相手を意識しているからである︒しかし︑やはり年には勝てないのか︒我なが
ら悪足掻きをしたものだと︑今更ながらに後悔の気持ちも起こるのである︒
一134一
敵としての心を抱き続けながらも︑表面的には光源氏に迎合する︒敵対︑敗北︑屈辱︑後悔︑複雑な気持ちに絡めとら
れながら︑光源氏体制での我身の処し方を考えているのである︒
語り手による伝聞回想﹁命長くてかかる世の末を見ることと取り返さまほしう﹂︵﹁少女﹂巻 ③七五頁︶には︑弘徽殿
大后の心の叫びがある︒世の中は︑光源氏を中心に平穏な日々を送るのだが︑弘徽殿大后には﹁世の末﹂なのである︒自
身以外のところに政権があることも許せないであろうし︑何よりも︑一切の発言力を失ってしまった自分自身が許せない
のである︒
これを最後に弘徽殿大后は物語から姿を消すことになる︒
弘徽殿大后は︑政治家としての能力・行動力に優れながらも︑時勢に恵まれず︑常に光源氏の﹁影﹂でしかなかった︒
しかし影なくして﹁光﹂は語れない︒光は影があるからこそ︑その存在が明らかになる︒そして︑影が強ければ強いほど︑
光の眩しさがより際立つ︒弘徽殿大后は﹃源氏物語﹄五十四帖中︑十三帖にわたって登場し︑影を落とすことで︑物語に
より立体感を与えてきた︒弘徽殿大后は﹁光﹂源氏を一層輝かせるためだけに存在したと言えるかもしれない︒
しかし︑あまりにも華麗で秀逸で超人的な光源氏と比べると︑なんとも人間味に溢れているのである︒
自家の繁栄を賭け︑息子の御代の永久なることを願い突き進む︒そこには権門に生まれた娘の誇りと意地︑母の愛があ
る︒政治に彩られた人生に時折見せる素顔︒感情を押し殺さず︑自身の心に正直だから︑喜怒哀楽が豊かで︑生き生きと
しているのである︒毅然としていて︑でも崩れる両極性︒その落差︑人間臭さが︑弘徽殿大后をより身近に感じさせるの
である︒
弘徽殿大后は︑一個の人間として自立していたからこそ︑光源氏の敵に成り得たであろうし︑またどっしりと地に足を
着けた現実味があるからこそ︑﹃源氏物語﹄は読み継がれてきたのだろう︒
一135一
注
︵1︶ 引用は全て新編日本古典文学全集﹁源氏物語﹂小学館による︒なお引用文の下に巻名・頁数を記した︒
︵2︶ 林田孝和﹁弘徽殿女御私論−悪のイメージをめぐってー﹂
︵﹃國語と國文學﹂第61巻第H号 昭和59年H月 至文堂︶
︵3︶ 上野英子﹁右大臣家の姫君たち﹂
︵﹁源氏物語の探究﹂第15輯 平成2年10月15日 風間書房︶
︵4︶ 田坂憲二﹁弘徽殿大后試論ー源氏物語における︿政治の季節>−﹂
﹃﹁源氏物語﹂を読む﹂梅光女学院大学公開講座 論集第25集 平成元年9月5日 笠間書院︶
︵5︶ 清水好子﹁源氏物語の女性−后たちー﹂
︵﹃國語國文﹄第31巻第3号 昭和37年3月 中央圖書出版社︶
︵6︶ 日向福﹁弘徽殿女御試論﹂