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訓 政 期 に お け る 梁 漱 溟 の 地 方 自 治 論

― 憲 政 と 民 主 の 乖 離 ―

中   尾   友   則 

はじめに

近年の中国近現代史研究においては、中国における国民国家形成の過程を跡づけ、その特徴を明らかにしようとす る問題関心から、かつての憲政導入の試みに多くの論者の視線が注がれてきた。そして、その中にあって、南京国民 政府の実施した訓政(憲政の準備段階としての)もまた一つの焦点を形作っている。確かに、南京国民政府が辛亥革 命以後の軍閥割拠の状況を克服して成立した全国的な統一政権であったことからすれば、その国家機構・制度整備の 試みは中国における国民国家の形成、国民統合のあり方に大きな意味をもつものであったといえよう。 しかし、全国的な統一国家の形成、国民の統合という点からだけでなく、さらに民主的な国家の創出という問題を も視野に入れて考えるならば、当時の人々の次のような指摘は、国家機構・制度の整備と同時にまた、いま一つ考慮 すべき重要な一面があることを示していると言えるのではないであろうか。 「 わ が 国 の 人 口 は 四 億 と 言 わ れ て い る が、 い ま だ 教 育 を 受 け て い な い 者 が 三 億 以 上 に の ぼ る。 そ の“ 知 識 力 ” は 言 わずもがなである。生活は困窮し、窮民・餓死者が世に満ちている。その“生産力”は言わずもがなである。人びと は、 私 的 争 い に は 勇 敢 で あ る が、 公 的 な 戦 い に は 臆 病 で、 公 義 を 軽 視 し、 私 情 を 重 ん じ る。 そ の“ 団 結 力 ”、 公 共 心 は言わずもがなである。このような国民をもって二十世紀の共和国を建設しようとするのは、どのような主義を採用

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しようと、どのような政策を施行しようと、波間に樹林を植えるようなものであり、どうして安定した根を張ること ができようか!」 「 中 国 の 社 会 で は“ 公 的 な 事 柄 ” に 対 し て、 元 来 …… 主 脳・ 領 袖 が 主 人 と し て 命 令 し、 多 数 の 人 民 は 受 動 的 に 従 っ てきた。郷村では今もなおそうである。 」 つまり、当時の中国の大多数の民衆(とくに農民)は、無学で非常に貧しく、自らが社会形成の主体であるという 意識も極めて乏しかったのである。このような現実の上に近代的な政治制度が導入されるとすれば、果してその制度 は有効に機能しうるのであろうか。詳しくは後に見るように、実際に南京国民政府によって訓政(その主要施策であ る地方自治)が実施に移されたとき、地方(農村)において大きな弊害が生まれ、政府は激しい批判にさらされるこ ととなるのである。 だが、まさにちょうどその頃、農村では、そうした民衆(農民)の実態に即しながら、内部から農村を変えていこ うとする民間の運動、郷村建設運動が各地で展開されはじめていた。 そして、全国統一的な行政機構・制度を整備しようとする国民政府の志向と、一定の広がりをもちはじめたこの農 村の改革運動とが、やがて地方自治という論点をめぐって交錯することとなる。そのとき、運動の側からどのような 反応が生まれたのであろうか。 この小論は、その一つである梁漱溟の地方自治論を、当時の国民政府の施策との関わりにおいて検討しようとする ものである。なぜなら、梁漱溟には国民政府の地方自治観とは根本的に異なる視点に立った独自の地方自治論の展開 が見られるからである。 従来、梁漱溟の地方自治論に関する研究は、管見の限りわが国には見当たらないが、中国においては、李徳芳『民 国郷村自治問題研究』 、虞和平「民国時期郷村建設運動の農村改造モデル」 、武乾「梁漱溟の地方自治思想を論ず」等 を挙げることができる。ここでそれらの内容を詳細に検討することはできないが、そこに見られる問題点についての

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み言及しておくこととしたい。 まず、李徳芳の著書には次のような理解が示されている。梁漱溟は地方自治を成功させようとすれば「旧精神」に よ ら な け れ ば な ら な い と 述 べ て い る が、 「( 梁 の 言 う ) 旧 精 神 と は、 中 国 古 代 の 礼 俗 を 尊 崇 す る 固 有 の 精 神 を 指 し て 」 おり、その自治の内容は「孫中山の民権主義の地方自治精神を後方に放り投げるもの」である、と。つまり、李は梁 の地方自治構想とその理念を非民主的前近代的な性格をもつものであるとするのである。だが、虞和平論文にはそれ とは異なる理解を見ることができる。虞は、梁が創出しようとした地方自治の組織( 「団体組織」 )は農村経済の合理 化、 農 民 の 科 学 的 知 識 の 育 成 等 を 図 る と と も に、 「 農 村 政 治 の 自 治 化 と 民 主 化 を 実 行 し よ う と す る 」 も の で あ っ た と するのである。このように、二人の見解は大きく異なっている。しかし、実はそれらはどちらも、互いに他方が着目 する梁の地方自治論のもう一つの側面を論理的に捨象することによって導かれたものである。なぜなら、李は、梁の 地 方 自 治 構 想 が「 進 歩 的 な 団 体 生 活 」 を 生 み 出 し、 「 団 体 内 の 多 数 分 子 が 主 体 的 で あ り、 受 動 的 で は な い よ う に 」 し ようとするものであったと指摘しながら、その点を論理化しえていないのであり、虞は、梁の地方自治構想の理念で ある儒教の精神( 「中国固有の精神」 )について、ただ「伝統の優秀な倫理道徳の原則」と言及するのみでその内容を 検討しておらず、 それが地方自治組織といかなる関係にあるのかを明らかにしていないのである。この両者に対して、 武乾論文にはこの両面をどちらも見据えながら梁の地方自治像を捉えようとする姿勢を見ることができる。武は、梁 の地方自治の組織が農民たちを合作に導いて経済を発展させ、農村に生活上の地域的連携を生み出し、その上に立脚 する地方自治を実施しようとするものであったと指摘する。と同時にまた、梁の説く儒教の精神によるならば「中国 の郷村社会に、ただ伝統道徳を中心とする礼治秩序が再建されるだけである」とするのであり、その上で、結局「彼 (梁を指す) は、 中国近代の西洋化による政治法律制度と伝統的な儒教文化の間で発生する齟齬の事実に直面したとき、 誤って前者を廃棄し後者に適応することを選択したのである」と捉えているのである。このように、武によれば、梁 の地方自治( 「西洋化による政治法律制度」 )創出の志向と彼の説く儒教の精神は、梁の思想の中で鋭い矛盾対立を形

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成 し て お り、 結 局、 梁 は 地 方 自 治 創 出 の 志 向 を 放 棄 し て 旧 来 の 儒 教 倫 理 に よ る 社 会 観 に 回 帰 し た と い う こ と に な る。 だが、後にも見るように、実際には、梁は決して地方自治創出の志向を放棄してはいない。のみならず、彼は自らの 言う地方自治の組織を創出するためには、儒教の精神( 「中国固有の精神」 )が不可欠であると述べているのである。 果して、梁の考える地方自治とは、またその基本理念である儒教の精神( 「中国固有の精神」 )とは、どのようなも のだったのであろうか。

一  南京国民政府の訓政・地方自治

一九二八年に北伐を完成させ全国的な統一政権として誕生した南京国民政府は、孫文の革命構想の継承者として自 らを位置づける。そして、軍政から訓政への移行を宣言し、その主要な施策である地方自治の実施に取り組むことと なる。南京国民政府の訓政・地方自治とはどのようなものであったのか。この点については、すでに多くの研究の蓄 積があるが、ここにあらためて、その基本的な内容を確認しておくこととしたい。 まず、その理解の前提として、孫文の訓政構想の内容を必要な限りにおいて見ておこう。 孫 文 の 訓 政 構 想 は、 彼 の 晩 年 に 著 わ さ れ た「 国 民 政 府 建 国 大 綱 」( 以 下、 「 建 国 大 綱 」 と 略 記 す る )「 地 方 自 治 開 始 実行法」に見ることができる。それは辛亥革命以後の孫文の痛切な経験の中から導かれたものであった。彼は辛亥革 命後、臨時約法に基づく代議制政党政治によって民国を建設しようとしたのであるが、その後の袁世凱の専制、張勛 の復辟、段祺瑞の約法破壊・国会圧迫などの事件を経験する中で、やがて次のような認識に達することとなる。こう した数々の政治的混乱 ・ 無法を生み出した大きな原因は、革命成立後ただちに憲政を実施しようとしたところにある。 本 来「 政 治 の 主 権 は 人 民 に あ る 」、 し か し「 五 千 年 来 奴 隷 の 地 位 に 抑 圧 さ れ て き た 人 民 は、 あ る 日 突 然 皇 帝 に 持 ち 上 げ ら れ た か ら と い っ て、 そ の よ う に 行 動 す る こ と は で き 」 ず、 「 自 ら が 主 人 の 地 位 に あ る の だ と い う こ と を 理 解 す る

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こ と が で き な い 」。 し た が っ て、 「( 彼 ら を 憲 政 の 担 い 手 へ と 成 長 さ せ る た め の ) 過 渡 期 を 設 定 し そ の 補 充 を し な け れ ば な ら な い 」 と。 こ う し て、 周 知 の「 軍 政 か ら 訓 政 へ、 訓 政 か ら 憲 政 へ 」 と い う 革 命 遂 行 の 時 期 的 な 段 階( 「 三 序 」) 設定が提起されることとなるのである。つまり、憲政実施までのプロセスとして、国内に存在する障害(割拠・抗争 する軍閥)を積極的に武力を用いて一掃する時期「軍政期」と、民衆を地方自治(その内容として県を単位とする直 接民権が想定されていた)に積極的に参与させ、憲政を担いうる政治主体へと成長させる時期「訓政期」を設定した のである。そして、一省内のすべての県が主体的な民衆による自治( 「完全な自治」 )に達したとき憲政を開始し、全 国の過半数の省において地方自治が完成したとき、国民大会を開催し総選挙を挙行するとされたのである。 孫文は、そうした主体的な民衆による地方自治の存在こそが堅固な「国の礎石」となるとするのであり、そうした 民衆による自治を下から上へ(一県から省全体へ、さらに国全体へ)と積みあげることによってはじめて真に民主的 な憲政国家が実現すると考えていたのである。 このような孫文の訓政構想には、同時にまた、一党が国を統治するという「以党治国」論が包含されている。つま り、 「 三 序 」 に お け る 軍 政 と 訓 政 は 多 党 競 合 の 政 権 に よ っ て で は な く、 革 命 党 の 一 党 政 権 に よ っ て 主 導 さ れ る べ き も のとされているのである。そして、憲政期に移行し総選挙が実施された三か月後に、軍政・訓政を主導した政府は解 散し、 「政権を民選の政府に授ける」ものとされるのである。 南京国民政府は、こうした孫文の構想を継承し、軍政の終結を宣言して訓政の実施に踏み出していく。しかし、国 民政府の訓政は孫文のそれとはやや異なる特徴をもつものであった。 南京国民政府の訓政の基本姿勢は、 「中華民国訓政時期約法」 (一九三一年六月一日、公布・施行)に見ることがで きる。 そ こ に は、 「 訓 政 時 期 の 政 治 綱 領 お よ び そ の 施 策 は、 『 建 国 大 綱 』 の 規 定 に 依 る 」( 第 二 十 八 条 )、 「 地 方 自 治 は『 建 国 大 綱 』 お よ び 地 方 自 治 開 始 実 行 法 の 規 定 に 依 り こ れ を 推 進 す る 」( 第 二 十 九 条 ) と 明 記 さ れ、 大 枠 に お い て 孫 文 の

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訓政構想を継承するものであることが示されている。 しかし、 「集会・結社の自由」 「宗教信仰の自由」等国民の諸権利を規定したほとんどの条項に「法律によるのでな ければ停止あるいは制限を受けない」という文言が付記されており、さらに、第三十条には「訓政時期には中国国民 党全国代表大会が国民大会を代表し、中央統治権を行使する。中国国民党全国代表大会の閉会時には、その職権は中 国国民党中央執行委員会がこれを行使する」とされて、 事実上、 立法権をも含む全国の一切の権限が国民党中央によっ て掌握されることとなっているのである。したがって、そこに規定された国民の諸権利も国民党中央の意向によって いつでも停止あるいは制限されかねないものであるといえよう。 こうした権力優位の姿勢は、中央と地方の関係にも見られる。第五十九条には「中央と地方の権限は、 『建国大綱』 第十七条の規定によって均権制度を採る」とされているのであるが、その中央と地方の権限内容についての規定はな く、 第 七 十 八 条、 八 十 一 条 に お い て は、 省 政 府 は「 中 央 の 指 揮 を 受 け 」、 県 政 府 は「 省 政 府 の 指 揮 を 受 け 」 る べ き こ とが規定されているのである。 こ の よ う に、 南 京 国 民 政 府 の 訓 政 の 基 本 姿 勢 は、 大 枠 に お い て 孫 文 の 訓 政 構 想 を 継 承 す る と い う 形 を と り な が ら、 しかし、実質的には、孫文の訓政が民衆の政治的訓練・成長を目的とし地方から中央へ(下から上へ)という建国の 方向性をもっていたのに対して、政権の絶対性を強く押し出し中央から地方へ(上から下へ)という方向性をもって いるのである。 以上のように、南京国民政府訓政の基本姿勢は、全国的な統治権を確立し統一的な支配体制を整備しようとする国 民党の志向を色濃く反映したものとなっているのであるが、しかし、その具体的な施策となる地方自治について見れ ば、そこにはそうした姿勢とはやや異なった傾向を見て取ることができる(とくに国民政府初期のそれには) 。 地 方 自 治 実 施 の 基 本 と な る「 県 組 織 法 」( 一 九 二 八 年 九 月 公 布、 一 九 三 〇 年 七 月 修 正 ) は、 県 以 下 の 地 域 を 県 ― 区 ―村・里(修正後は郷・鎮)―閭―鄰と区分し、それぞれのあり方を定めている。まず県について見れば、県政府と

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は別に「県民選出の参議員をもって組織する」 「県参議会」の設立とその職権が明記されており(第二十五条) 、修正 後の第十二条には「自治の準備に入り建国大綱第八条に規定されたレベルに達した県は、中央の審査を受け、合格す れば県長を民選としなければならない」とあって、そこには民衆の意思を政治に反映させようとする志向を見ること ができる。こうした傾向は、さらに県以下の規定においてより一層鮮明に確認することができる。とくに、ほぼひと つの農村部 ・ 市街地を意味する郷 ・ 鎮については、 「郷長、副郷長、鎮長、副鎮長は郷民大会あるいは鎮民大会によっ て 選 挙 」( 第 四 十 二 条 ) し、 「( 彼 ら が ) 違 法 行 為 に よ っ て 失 職 し た と き は、 郷 民 大 会 あ る い は 鎮 民 大 会 が こ れ を 罷 免 し 改 選 す る こ と が で き る 」( 第 四 十 三 条 ) と さ れ て お り、 民 衆 が 直 接 政 治 的 議 論 に 参 加 す る 住 民「 大 会 」 を 定 期 的 に 開催し、郷長・鎮長などを選出・罷免・再選することができるものとされているのである。その上また、郷長・鎮長 を選挙する郷民大会・鎮民大会において、 「同時に監察委員を三人ないし五人選挙し、監察委員会を組織」して、 「そ の 郷・ 鎮 の 財 政 を 監 督 」 さ せ、 民 衆 に 対 し て「 郷 長、 副 郷 長、 鎮 長、 副 鎮 長 の 違 法 行 為 に よ る 失 職 等 を 糾 弾・ 公 開 」 させるともされているのである。 国民政府の地方自治に見られるこうした傾向は、単に法律上の規定だけにとどまらない。例えば、一九二八年十二 月、地方自治など内政の取り組みを促進するために召集された第一期民政会議において、内政部民政司は村・里(修 正 後 は 郷・ 鎮 ) 民 の 政 治 的 訓 練 に 関 す る 提 案 を し、 そ の 中 で 次 の よ う に 強 調 し て い る。 「 直 接 民 権 が 民 主 政 治 の 真 理 であると本党が主張するのは、 人民の四権が一日十分に行使できなければ、 全民政治が一日実現できないからであり、 人民が数千年にわたって受けてきた専制政体の束縛、政治からの隔離は、すでに久しく、一旦直接政権を付与し積極 的 に 訓 練 す る の で な け れ ば、 効 果 は 期 待 で き な い か ら で あ る 」、 と ―― こ こ に 言 う「 四 権 」 と は、 孫 文 が 本 来 民 衆 が 有 す る も の と し た 四 つ の 権 利( 選 挙 権・ 罷 免 権・ 創 制 権・ 復 決 権 ) を 指 し て い る ――。 こ の よ う に、 内 政 部 も ま た、 積極的に地方自治の整備に取り組み、県以下の自治のあり方として、民衆が直接議論に参加する直接民権を考えてい たのである。ここには、孫文の地方自治の視点――民衆を地方政治に参加させることを通じて彼らの権利の伸長へと

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つなげようとする視点――が受け継がれていると言ってよいであろう。 一九二九年、国民党中央は、六年後に県自治を完成させ、訓政を終わらせて憲政を実行すると宣言し、この前後か ら実際に多くの省・県において地方自治の取り組みがはじまった。果して、そのとき、地方にどんな状況が生まれる こととなったのであろうか。 そのうちの一つ、広東省中山県の自治工作に直接携わった張漢儒が状況報告を書いている――ちなみに、この広東 省中山県は孫文の故郷であり、国民党中央が「全国の模範県」として特別に力を入れ党の威信をかけて取り組んだと ころである――。彼によれば、中山県での地方自治実施の経緯は次のようなものであった。 県の自治設立事務所開設後、 ただちに全県を九つの区に区分し、 各区の自治設立事務所の主任を委任するとともに、 各区内の郷・鎮に郷事委員会を百か所余り設置し、規則通り地方自治の整備・普及に着手した。しかし、間もなく深 刻な問題が発生することとなる。すなわち、いくつかの区自治設立事務所の主任が経費の不足を理由に、県政府に道 路自動車付加税、牡蠣堤防付加費、波止場特別税等々さまざまな名目の付加費や特別税を申請し、つぎつぎに徴収し はじめたのである。おまけに、この特別収入は、職員の俸給とわずかの公費に支出されただけで、その他のいかなる 事業にも使われることはなかった。こうして、半年の間に準備を終えるはずの自治法案は、どんな成果も挙げえない まま一片の空文となったのである。その後、新たに着任した県長は県の自治設立事務所を撤収し、すべての自治工作 を 県 政 府 に お い て 行 う こ と と し た。 し か し、 や は り 自 治 経 費 の 不 足 を 痛 感 し、 県 内 各 所 の 族 産( 宗 族 が 有 す る 公 産 ) を処分することでこの問題を解決しようとした。これが地域豪紳たちの猛烈な反対を引き起こし、中山県の自治工作 は事実上続行不可能の状態に陥ったのである。 国民党中央が特別に多くの経費と人員を投入し、最良の条件の下で実施された中山県の場合でさえこのような状況 で あ っ た。 そ の 他 の 地 方 に つ い て は 推 し て 知 る べ し で あ る。 「 国 民 政 府 の 郷 村 自 治 制 度 体 系 は、 ミ イ ラ の よ う に、 一 旦空気に触れるとたちまち解体してしまったのである」 。

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このような予想だにしなかった失敗に直面し、国民政府はあらためて地方自治のあり方を模索しはじめることとな る。 他方、まさにちょうどその頃、地方(農村)においては、農村の実態に即しながら内部から具体的に農村を変えて いこうとする民間の運動、郷村建設運動が展開しはじめていた。次にわれわれは、梁漱溟もその中心的な指導者の一 人として実践に関わった郷村建設運動について、また、やがてその運動と国民政府の地方自治整備の志向との間に生 まれる接点について、小論に必要な限りで見ておくことにしよう。

二  郷村建設運動と県政建設実験

郷村建設運動は一九二〇年代末から三十年代にかけて中国各地の農村で精力的に展開された。南京国民政府実業部 の調査によれば、 当時この運動に参加した団体は六〇〇余り、 設立された各種の実験区は一〇〇〇か所余りにのぼる。 そして、 それら団体の内容 ・ 性格もまた極めて多岐にわたっている。当時の梁漱溟の言によれば、 「(参加団体は)各々 それぞれの来歴・背景をもっている。あるものは社会団体であり、あるものは政府機関であり、またあるものは教育 機 関 で あ る。 そ の 思 想 に は 左 傾 あ り 右 傾 あ り、 そ の 主 張 も ま こ と に 様 々 で あ る 」。 も っ と も、 そ れ ら の 中 に は 実 質 を ともなわない、郷村建設の看板を利用したにすぎないものも決して少なくなかったのであるが、ともかく運動に事寄 せて存在を示そうとする団体があらわれるほど、当時この運動は多くの人々の関心を呼んだのである。なぜ、その時 期に、郷村の運動がそれほどの隆盛をむかえることになったのであろうか。 こ の 運 動 が 生 ま れ る 背 景 に は、 当 時 の 農 村 を め ぐ る 特 殊 な 時 代 状 況 が あ っ た。 国 際 的 に は、 極 度 の 経 済 不 況 の 下、 列 強 か ら 大 量 の 農 産 品・ 工 業 製 品 が 安 価 で 中 国 に 売 り つ け ら れ、 そ れ が 国 内 農 産 品 価 格 の 下 落、 国 内 工 業 へ の 打 撃、 輸出の減少をもたらし、労働力・農産品原料に対する需要の減少を生み出していた。また、国内的には、従来からの

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地主・高利貸の支配に加えて、軍閥混戦による苛斂誅求が激化し、さらに敗残兵・やくざ集団・失業流民などの匪賊 が猖獗を極めていた。そして、その上にまた洪水・旱害など大規模な天災が繰り返し起こっていた。これらの複合的 な要因によって、農民の窮乏化・農村の疲弊はほとんど極限に達していた――わずか数年の間に餓死者は一〇〇〇万 人を超えている――。こうした危機的状況に対して、 「郷村を救済せよ」 「郷村を復興せよ」 という声が全国的に高まり、 多くの人々の目が農村に注がれることとなったのである。 このような時代状況を背景として郷村建設運動は生まれる。その起動力・推進力となったのは主として海外留学か ら帰国した若い知識人たちであった。彼らはあるいは大学等の教育機関に入り、 あるいは民間の教育団体を組織して、 識字率の極めて低い農村に教育を普及していく運動、 「郷村教育運動」を開始する。 「中国の大多数の人民は農民であ り、農村には中国の

85%以上の人民が暮らしている。中国に平民教育を普及しようとするならば、農村に行かなけれ

ば な ら な い 」。 し か し ま も な く、 親 し く 農 村 の 実 態 に 触 れ た 彼 ら の 中 か ら、 教 育 を 普 及 さ せ る た め に は 農 民 た ち の 生 活そのものを改善していかなければならないという認識が生まれ、 農村の生活全般にわたる改革運動、 「郷村建設運動」 へ と 展 開 し て い く こ と と な る の で あ る。 「 教 育 の 力 で 農 村 の 生 活 全 般 を 改 良 し、 社 会 全 体 を 改 新 す る 基 礎 を 打 ち 立 て た い 」。 そ こ で は 教 育 の 普 及 だ け で な く、 農 業 の 改 良、 合 作 社 の 組 織 化、 金 融 流 通 の 改 善、 衛 生 医 療 施 設・ 保 険 制 度 の整備、郷村の自治・自衛、風俗の改善、図書館・娯楽など、およそ農村生活のありとあらゆる問題が取り組みの対 象となっていく。 この運動に携わった主要な機関・団体としては、黄炎培の指導する中華職業教育社、晏陽初の指導する中華平民教 育促進会、陶行知の指導する暁荘学校、高践四の指導する江蘇省立教育学院、梁漱溟の指導する山東郷村建設研究院 などを挙げることができる。ここでそれらの団体について具体的な内容を論じるだけのゆとりを持たないが、当時各 地の農村では、これらの団体が中心となって、極度の貧困にあえぐ農民の生活を改善し農村を立て直していこうとす る運動が活発に展開されつつあったのである。

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そ し て、 や が て、 こ う し た 郷 村 の 運 動 と 政 府 の 地 方 自 治 整 備 の 動 き と の 間 に 一 つ の 接 点 が 生 ま れ る こ と と な る。 一九三一年の春、地方自治の打開策を模索しつつあった蒋介石が、にわかに影響力をもちはじめたこの運動に関心を 寄せ、 晏陽初と梁漱溟に個別に会談を求めてきたのである。翌一九三二年十二月、 晏 ・ 梁 ・ 高践四らは「地方自治」 「県 政改革」などの重要議案に意見を述べるべく第二次全国内政会議に招請される。そして、この会議において、各省に 県政建設研究院と県政建設実験区を設立し県を自治単位とする県政改革を実施する案が通過、一九三三年7月の国民 党中央政治会議の批准をへて執行に移される。こうして、河北省定県、山東省鄒平・荷沢県、江蘇省江寧県、浙江省 蘭渓県に相次いで県政建設実験県が誕生することとなるのである――最後の二つは政府が直接に関わったものである ――。それらは“五大県政建設実験県”あるいは“五大実験県”と総称された。 県政建設実験県成立以前には、郷村建設運動の諸団体は相互に密接な交流はなく各々独自に活動を展開してきたの であるが、実験県の成立を契機に、一九三三年から三年間にわたって活動報告・討論・交流の会、 「郷村工作討論会」 が開催される。第一回は鄒平県の山東郷村建設研究院において挙行され、

35団体、計六十三人が参加、第二回は定県

の中華平民教育促進会総会の所在地で開かれ、出席者は計一五〇人、機関・団体は

76、

11の省市にのぼった。そして

第三回は無錫の江蘇省立教育学院で挙行され、

99の機関・団体の代表、全国

19省市の参加をえた。これら三回の討論

会の記録は『郷村建設実験』第一・第二・第三集として出版されている。 このように、運動と行政の間に接点が生まれ、両者が連携して県政改革・郷村建設を推進する体制ができたことに よ っ て、 運 動 団 体 は 従 来 よ り も は る か に 大 き な 権 限・ 資 金 を 得 る こ と と な り、 活 動 の 幅 は 大 き く 拡 大 し た。 例 え ば、 山東省の実験県においては、 山東郷村建設研究院が事実上県長を決定する権限まで与えられるようになったのである。 この時期、運動は最盛期をむかえ、活動団体が「雨後の筍のように」生まれた。だが、第三回の討論会からわずか二 年後、一九三七年七月に盧溝橋事件が発生。まもなく運動は日本軍の侵攻によって停止を余儀なくされてしまうので ある。

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以上のように、郷村建設運動は行政との接点をもつことによって大きな権限と資金を得ることができた。しかしそ れは同時にまた、ある危険性を抱え込むことをも意味していた。つまり、運動がその自立性を失って行政の一部と化 してしまうことである。事実、共産党に接近していった陶行知のような例外を除けば、多くの運動団体がそういう方 向( 「郷村工作の行政化」 )をたどりつつあったように思われる。その中にあって、 そうした傾向に強い危機感を抱き、 行政から一定の距離を保ちながら独自の改革路線を貫こうとしたのが梁漱溟であった。彼は、先に触れた蒋介石との 会談、第二次全国内政会議の前後に、いくつかの地方自治論を公にしている。果して梁は、国民政府が実施した地方 自治を農村においてどのように捉えていたのか。そして彼自身はどのような地方自治のあるべき姿を思い描いていた のであろうか。では次にわれわれは、小論の核心であるその点の検討に入ることにしよう。

三  梁漱溟の地方自治論

(1)国民政府地方自治への批判

     ――「莫大な苛政」――

すでに述べたように、南京国民政府は成立後まもなく、憲政への準備段階としての地方自治に取り組むが、多くの 激しい反対に会って頓挫する。われわれは先に、 その一つ、 広東省中山県についての張漢儒の報告を見たのであるが、 当 時( 一 九 三 〇 年 )、 梁 漱 溟 は こ の 中 山 県 の 報 告 を 読 み、 ま た 他 地 域 で の 実 施 状 況 を も 視 野 に 入 れ な が ら、 国 民 政 府 の地方自治についての論文「敢えて今の地方自治を言う者に告ぐ」を執筆している。以下、その内容を見てみよう。 まず梁は、張漢儒が地方自治失敗の原因を経費調達の困難に求めたのに対して、もし経費が首尾よく調達できてい たなら地方自治は実現できたといえるのか、問題はそういう点にあるのではない、という。では彼は、国民政府の地 方自治失敗の原因はどこにあるというのだろうか。

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「 こ の よ う な 制 度 が 中 国 人 の こ れ ま で の 社 会 生 活 と い か に 合 わ な い も の で あ る か。 と く に そ れ を 郷 村 に 持 ち 込 ん だ ならどんな結果が生まれるか。立法者はそこに身を置いて考えてみようとも思わなかったようである。 」 失 敗 の 最 大 の 原 因 は、 た だ 法 律 を 制 定 し 制 度 を 整 備 し 人 員 を 配 置 す れ ば 地 方 自 治 が 機 能 す る も の と 思 い 込 み、 ( 西 洋的な考えに立つ)地方自治の実施が郷村にどのような事態をひき起こすのかを、郷村の実情に即して考えてみよう ともしなかったところにある、というのである。 では、まず地方自治の実施によって、郷村にどのような事態が生まれたというのか。その一つは張漢儒の報告でも 指摘されていた問題と関わる。 「 自 治 の 名 目 に よ れ ば、 ど ん な 横 暴 な 収 奪 も 許 さ れ る の か? 自 治 の 要 義 は 地 方 の 人 々 の 意 思 を 尊 重 し、 彼 ら が こ の 新たな権利〔自治権〕を持っていることを承認するところにあるはずである。ところが今それとは反対のことが行わ れており、地方の人々の意思は顧みられず、彼らがこれまで持っていた権利まで蹂躙されている。どうしてこのよう な 自 治 の 道 理 が あ ろ う か? あ な た た ち は 知 っ て い る の か、 農 民 た ち の 血 と 汗 は す で に 最 後 の 一 滴 ま で 絞 り と ら れ て、 自らの身を養うこともできなくなり、一度の生産さえ営むことができなくなっているのを?」 つまり、 自治経費の調達という名目でつぎつぎに郷村に重税が課せられ、 それが立場の弱い農民たちに転化されて、 ただでさえ貧窮の中にあった農民たちがより一層悲惨な状況に追い込まれるようになったことである。 そして、もう一つの事態は次のようなものである。 「 恐 る べ き こ と は、 根 本 的 に 自 治 を 語 り え な い 状 況 の 下 で、 無 理 に 自 治 を 実 施 す れ ば、 土 豪 劣 紳 の い な い 地 方 に 土 豪劣紳を造り出してしまうことである。考えてみてほしい。 第一、もともと農民は騙されやすい。 第二、彼らを区域に区切り、その上に地方官府と繋がりのある機関を据え付ける。 第三、

この機関は時々彼らに号令を発し、あれこれと督促する。

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第四、

この機関は彼らに強制的に税金を課することができる。

第五、

この機関は彼らを何らかの罪名(例えば、アヘン喫煙や賭博等)で検挙し、処罰することができる。

第六、この機関は武力 ― 保衛団を擁している。 だとすれば、簡単に土豪劣紳に機会を与え、彼らに正式に法律上の地位を与えることになり、農民たちは今まで以 上に何も言えなくなる。彼らに法律上の地位を与えるだけでなく、彼らが依拠できるいろいろな名目を作り出し、彼 らに実力を与えることになるのである。 」 今まで存在しなかった地方自治の機関(区公所・郷公所など)が設置され、そこに命令・徴税・犯罪者検挙など多 く の 権 限 が 付 与 さ れ た の で あ る が( そ の 機 関 は 武 力 装 置「 保 衛 団 」 さ え 持 つ こ と が で き る )、 そ れ に よ っ て そ の 機 関 を掌握する地方有力者たちは農民支配の威圧化・暴力化への絶好のお墨付きを手に入れ、従来威圧的・暴力的な地方 有力者(土豪劣紳)のいなかった地方にも、新たに土豪劣紳化の傾向が生まれているというのである。 このように、梁は、国民政府の地方自治の実施は郷村において大多数の農民の危機的なまでの困窮化と少数の地方 有力者の威圧的・暴力的支配(土豪劣紳化)とを生み出したのであり、中国社会の民主化を伸展させるどころか、逆 に反民主的な状況をより一層苛烈化させることになったというのである。 そして、同時に梁はまた、こうした彼の指摘に対して、地方自治推進論者から次のような疑義が提出されかねない ことを想定している。すなわち、国民政府の地方自治が郷村に反民主的な事態(農民のさらなる困窮化、地方有力者 の土豪劣紳化)をもたらしているというが、農民は宣伝によってある程度は地方自治の何たるかを理解し、自らの要 求を主張することもできるはずであり、法律や制度にはそのような事態の発生をチェックするための条項も盛り込ま れているのではないか、と。それに対して梁は、確かに法律や制度の内には、民衆が参加しうる会議の設置が、そし てまた有力者の横暴を阻止するための方策が規定されている。しかし、 中国の社会は、 西洋近代の社会とは異なって、 権威も力も具えた一部の有力者と大多数の散漫で無力な農民から成っている。 「権威も実力もそなえた豪紳に対して、

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文書の規定だけで数千年積み重なった農民の散漫・無力の態勢を奮い起こし、それに勝とうなどということは、全く の妄想である」というのである。 以上のように、梁は、農村の位置に身を置きながら、国民政府の地方自治が実施されたとき農村にどのような事態 が 起 こ っ た か を 極 め て 具 体 的 に 描 き 出 し、 「 今、 こ う し た 地 方 自 治 を 実 施 し よ う と す る こ と は 莫 大 な 苛 政 で あ る 」 と 怒りをこめて批判するのである。

(2)独自の地方自治構想

     ――「団体組織」と「中国固有の精神」――

では、梁は地方自治等の制度的整備は不要だと考えていたのであろうか。 彼には、一九三二年の講演「中国の地方自治問題」がある。それは、先に触れた蒋介石との会談の後、第二次全国 内政会議への出席を前にして、自らの考える地方自治とはどのようなものであるか、そのあるべき姿を語ったもので ある。以下、その内容を少し詳しく検討していくことにしよう。 「 現 在 総 括 的 に 言 え ば、 過 去 の 経 験 が わ れ わ れ に 告 げ て い る の は、 地 方 自 治 は 何 度 も 提 唱 さ れ た が す べ て 失 敗 し た ということである。その実施の実情は、ただ経費を集め、章程を定め、機関を立て、人員を派遣し、人員が経費を空 費して終わっただけである。そして、今また中央は郷長民選、区長民選、県長民選、省長民選を提唱しているが、困 難は山積しており、これまでと全く変わっていない。 」 法律を定め機関を設立し人員を配置すれば地方自治はうまくいくだろうという、これまでのやり方はすべて失敗に 帰した。しかし今また、国民党中央・国民政府は状況が全く変わっていないにもかかわらず同じことをやろうとして いる、梁はこう警告する。そして、それとは根本的に異なる地方自治の視点を提示する。 「まず最も根本的な考え方を言えば、われわれが地方自治を語るとき注意すべきであり忘れてはならないのは、 “地

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方 自 治 ” は 一 つ の“ 団 体 組 織 ” で あ り、 “ 団 体 生 活 ” を 過 ご す も の で な け れ ば な ら な い と い う こ と で あ る。 …… 地 方 自治もまた上からの政令を受け、官府の委託を実施しなければならないが、しかし、みなさんはあまりにもこの国家 行政という点を重視しすぎ、 地方それ自身が一つの団体であることを見落としている。みなさんは地方自治というと、 すぐに中国古代の郷 ・ 党 ・ 州 ・ 里といったものを思い浮かべるだろうが、実はそれらはほとんど上から下への“編制” であって、それ自身が“団体組織”をもっているのではない。いわゆる地方自治とは必ず地方自身が一つの団体組織 でなければならない。 」 梁によれば、地方自治が国家行政の一部であることは言うまでもないが、その際重視されねばならないのは次の点 である。つまり、上から統治的視点によって画定された国家制度の一部( “編制” )だという点ではなく、地方そのも のが日常の生活に根ざした“団体組織”になっていなければならないということである。 では、梁の言う“団体組織”とはいったいどのようなものなのか。それは従来の中国社会に存在した人と人の結び つき(人間関係)とは異なるものなのか。 「 中 国 の 古 来 の 聖 人 は …… 社 会 組 織 制 度 に つ い て は 中 国 人 に 身 家 観 念 以 外 ど ん な 公 共 団 体 の 連 帯 関 係 を も 見 出 す こ とができないようにさせた。郷里・宗族にはある程度の連帯関係があるけれども、しかし、対外的に(明確に)規定 された具体的な組織としてあるのではない。すべて人々の活動は個人に属するものであり、共同活動はない。団体活 動は、中国の従来の社会おいては簡単に見出すことはできない。 」 梁によれば、従来中国には地縁や血縁( 「郷里・宗族」 )に基づく一定の連帯関係が存在するが、そこに見られる活 動はすべて特定の人間相互の関係によるもの (「個人に属するもの」 ) であり、 「団体」 的な 「共同活動」 とは言えない。 つまり、彼の考える「団体組織」とは従来の中国にあった人間関係――地縁や血縁に基づく特定の人間関係――とは 異なるものである。では、彼の言う「団体組織」とはいったいどのようなものなのであろうか。 「 組 織 と は 何 か、 団 体 と は 何 か。 こ れ が 今 わ れ わ れ が 回 答 し な け れ ば な ら な い 問 題 で あ る。 理 論 的 に 言 え ば、 多 く

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の人が一緒になり、共同の目標をもって、秩序を保ちつつ前進し、その目標を達成しようとする。これが団体の組織 である。分析的に言えば、共同の目標を持ち、みんな一緒に、秩序を保って、前に進む、これが必要な四つの条件で ある。今われわれは、これに解釈を加え、二つの特に重要な点を付け加えておかなければならない。一点目は、団体 の中で秩序をもち目標に向かって前進するとき、必ず機関は分業になっていなければならないということである。団 体の中で各人がそれぞれの仕事を担当し、あなたはこれを担当し、彼はあれを担当するのであり、みんな一緒に共同 の目標に向かって進むとき、機関は分かれているけれども一体である。みんなで仕事を分割しているけれども、やろ うとすることは一つであること、これこそがここに言う組織である。二点目は、団体の構成分子が一人一人必ず自己 の位置をもっていなければならないということである。みなさんが注意しなければならないのは、団体は一塊りのも のではないということである。団体といえば確かに多数の分子が一緒になったものであるが、しかし、もし多数の分 子が一緒になった後に、本来のそれぞれの分子の存在性が失われるならば、それは団体になっていないのである。だ から団体は、一面では共同的な結合であり、一面では結合の中になお構成分子の位置があるものである。もし共同的 に結びついた後に、ただ団体だけが見え分子が見えないならば、団体ではない。……団体生活は団体構成分子の共同 生活であり、それは“活きた”ものであり前進するものである。前進する中で、個々の構成分子が皆参加し意見を述 べ る こ と が で き る。 だ か ら 活 き た も の で あ る。 も し 少 数 の 人 が 主 人 と な り、 多 数 の 人 が 意 見 を 発 表 で き な い な ら ば、 それは団体の意義を失ったのである。 」 われわれは、ここに、梁の考える「団体組織」のイメージをかなり明瞭に見てとることができるであろう。要約的 に言えば、それは、共通の目標をもった人々の共同的関係であるが、しかし、一塊りにベッタリとくっついた関係で はなく機能分担をもって構成されるものであり、またその組織の中で個々の構成員( 「分子」 )の存在意義が失われる ことなく生きているものである。そして、それはまた、個々人の日々の生活に根ざしたものであり、構成員全員が等 しくその運営に参加し意見を表明することのできる、 “活きた”前進する関係である。

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し か し、 こ の イ メ ー ジ は ど の よ う な 社 会 的 意 味 を も つ も の な の で あ ろ う か、 そ の 点 を よ り 明 確 に 把 握 す る た め に、 この像がいかなる認識の上に成立しているのかを見てみよう。 梁は「個人が自由であるべきだということは自明の理〔論証を要しないもの〕 」であり、 「個人の社会内における地 位の尊重は恒久の真理」であるとする。そして、 その上で、 ルソーの社会契約論に言及しつつ次のように述べている。 「 こ の 思 想( ル ソ ー の 社 会 契 約 の 思 想 を 指 す ) は 歴 史 的 事 実 に は 合 わ な い け れ ど も、 と て も 良 い 理 想 で あ る。 …… ここでわれわれが注意すべきなのは、国家が民主政治的なものに変われば変わるほど、その国家はそれだけ皆の同意 に基づく意識的で最も進歩的な団体組織になるということである。地方もまた然り。地方が自治的なものに変われば 変 わ る ほ ど、 そ の 地 方 は そ れ だ け 進 歩 的 な 団 体 組 織 に な る の で あ る。 …… こ こ で 話 を 本 題 に も ど せ ば、 “ 地 方 自 治 ” とは地方を一つの団体にすることであり、共同生活に向かわせることである。たった今述べたような意識的な団体生 活こそが自治であり、団体組織があってはじめて自治が存在するのである。 」 ここに明らかなように、梁の言う「団体組織」とは、等しい権利をもつ諸個人の同意によって意識的にとり結ばれ る共同的な社会関係なのである。梁は、社会の基礎(地方)にこのような社会関係が生まれてはじめて地方自治は本 来の機能を発揮しうるのだというのである。 しかし、 彼は、 中国においてそのような社会関係を生み出していこうとするならば、 「西洋の路」つまり「個人本位 ・ 自由競争」の理念とそれに基づく行動様式によることはできないという。なぜなら、中国社会の実態は西洋のそれと は異なるからである。 梁は、 「団体組織」の成立を困難にしている中国社会の実態を、 「心理習慣」 「物質経済」という二つの面から捉え、 さらに、前者を「紀律習慣」と「組織能力」に分けて論じている。それらは、具体的にはどのようなことなのか。 まず、 「紀律習慣」について見よう。 「第一は、 “紀律習慣”の欠如である。……西洋の社会はわれわれとちょうど反対で、彼らの公共生活には非常に紀

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律がある。例えば欧州の映画館や大劇場では、 警察が管理していなくても、 観衆は前後の順番を守って入場券を買う。 ごく自然に紀律を守り、自分勝手に順番をとび越して行動することはない。中国人はこのような場合、必ず先を争っ て混乱してしまう。……団体生活において紀律がなければ、必ず問題が発生し、事柄が前に進まない。この習慣こそ 中国人に欠けているものである。 」 まず彼は、中国人には、各々自己中心的に行動しようとする心理が強く、公共のルール( 「紀律」 )を守ろうとする 習 慣 が 欠 け て い る と い う の で あ る。 こ れ は、 先 に 見 た 地 縁・ 血 縁 に よ る 結 び つ き( 「 連 帯 関 係 」) と の 関 係 で 言 え ば、 地縁・血縁などの縁故的意識を超えた公正さの感覚の欠如と言いかえることもできよう。 次に、 「組織能力」について。 「第二は、 “組織能力”の欠如である。組織能力とは多数の人が相談して物事を進めていく能力である。一人が主人 となるのは組織とは言えず、人の支配に従うのも組織ではない。……(しかし、中国の郷村においては)公共の事柄 は、郷村の領袖あるいは地方官が自分の考えを述べ、農民がそれに従うのであれば解決しやすいが、領袖や長官がみ んなを招集し会を開いて議論すれば、各人がそれぞれ自分の意見を言い募って紛糾し、何も実施できなくなる。こう して結局は、領袖・長官が自分の考えを提示し、相談はしないということになる。これはみんなが組織能力をもって いないからである。 」 梁によれば、中国においては元来、公的な事柄については、地方の有力者( 「領袖」 )あるいは地方の長官が自分の 考えを示し、農民たちはそれに従順に従ってきた。みんなを集めて会議を開けば、各人それぞれが自分の意見を言い 募って紛糾し、何も実施できなくなる。だから、結局地方の有力者や地方官が自分の考えを提示し、それを守らせる ということになる。それは、 「組織能力」 、つまり「多数の人が相談して物事を進めていく能力」が中国人に欠けてい るからだというのである。 では、 「物質経済」とはどのようなことなのか。

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梁の言う「物質経済」の問題とは、要するに、地方の民衆(農民)が経営的に成長し、彼らの成長に基づく経済の 発 展 に よ っ て 日 常 の 地 域 的 な 連 携「 連 帯 関 係 」 が 形 成 さ れ て い る か 否 か と い う こ と で あ る。 梁 は、 西 洋 に お い て は、 経済の発達によって地域的な連携「連帯関係」が自然に形成され、地域を自分自身と深く関わるものとして感得する 意識「連帯意識」も生まれて、自ずから地方自治の要求が高まっていった。しかし、中国においては、貧困・無力な 農民たちの自給自足的な生活が基調であり、日々の生活に基づく地域的な「連帯関係」も、地域を自らのものとして 感得する「連帯意識」も極めて希薄であると言うのである。 梁は、ほぼ以上のように中国社会の実態を捉え、このような社会――大多数の民衆が貧困・無力な状態にあり、公 的 な ル ー ル を 守 ろ う と す る 公 正 さ の 感 覚 が 弱 く、 有 力 者・ 上 位 者 の 意 向 が 重 視 さ れ る 社 会 ―― に お い て「 個 人 本 位・ 自由競争」の理念が追求されたならば、共同的な関係ではなく「弱肉強食」的な状況が拡大し、民衆の広範な経済的 成長 ・ 連携ではなく一部の有力者による「経済上の壟断」が激化することにならざるをえないと考えているのである。 では、梁はどのようにして中国社会の中に「心理習慣」 「物質経済」を生み出し、 「団体組織」を創出していこうと するのであろうか。 要約的に言えば、それは、彼の言う「中国固有の精神」によって農民たちを合作へと導き、その中で彼らを育成す ることによってである。 「 私 の 考 え で は、 中 国 社 会 に 団 体 組 織 を 生 み 出 し、 中 国 の 人 民 に 団 体 生 活 を 送 ら せ よ う と す る な ら ば、 必 ず 中 国 固 有の情義の精神を発揮し、……合作へと進ませなければならない。 」 「 新 習 慣・ 新 能 力〔 紀 律 習 慣・ 組 織 能 力 〕 の 養 成 は、 必 ず 中 国 固 有 の 精 神 に 合 致 し な け れ ば な ら な い。 も し 中 国 固 有の精神に合致しなければ、それを養成することは極めて困難である。 」 ここに梁の言う「中国固有の精神」 (以下、 「精神」と略記する)とはいったいどのようなものなのであろうか。 彼はその内容を「倫理情誼・人生向上」と表現する。 「互いに相手を尊重し、励ましあい高めあう」との謂である。

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この梁独自の「精神」は、辛亥革命に参加した若き梁が、革命後の軍閥混戦、とくにその中における民衆の悲惨さに 苦悩し、人と人との共同の可能性・根拠を模索する中で、その手がかりを儒教の「万物一体の仁」に見出したもので あ っ た。 そ れ は、 中 国 の 伝 統 思 想、 儒 教 の「 仁 愛 」 に 想 を 得、 そ れ を 敷 衍 す る こ と に よ っ て 生 ま れ た も の で あ る が、 しかし、次の点は留意されねばならない。つまり、その際、梁が従来の儒教において前提されていた上下的な人間関 係を明確に否定しており、それは儒教の本来の姿ではないとしていること、さらにまた、彼が、旧来の儒教は特定の 個人間(父子・君臣というような)の倫理――「個人倫理・道徳」――を説くものであって、個人と社会、社会公共 の倫理――「団体生活の中における個人と団体全体との関係」の倫理――を説くものではないと捉えていることであ る。そして、その上で彼が次のように述べていることも見落とされてはならない。 「私は、 まず自分なりの考えがあって孔子の諸経典を読み直し、 それらの経典を読んだ後、 また自分なりの意見をもっ て宋明の儒書を読んだ。終始、自分の考えを主としてきた……」 つまり、梁の説く「精神」は儒教の倫理に想を得たものではあるが、彼独自の視点から読み直された(読み替えら れた)ものであり、 かつての儒教とは内容的に異なるものなのである。先にも触れたように、 梁には個人の自由は「自 明の理」であり、 社会内における個人の尊重は「恒久の真理」であるとする認識が見られるのであるが、 彼の言う「精 神」は、等しい権利をもつものとしての諸個人を前提とした、相互の社会的共同の倫理・理念として提示されている の で あ る。 言 い か え れ ば、 そ れ は、 ( 中 国 人 の 心 の 内 に あ る 文 化 的 伝 統 に 依 拠 し つ つ ) 人 々 に 次 の よ う に 呼 び か け る ものだと言えよう。われわれは誰でも皆等しい権利をもっている。しかし、その権利は「個人本位・自由競争」の理 念を追求することによってではなく、互いに相手を尊重し、励ましあい高めあう共同的な関係の中ではじめて充足さ れうるのだ、と。 梁 は こ う し た 理 念 に よ っ て、 散 漫 な 農 民 た ち を 共 同 的 組 織 化( 「 合 作 」) へ と 導 く。 そ し て、 そ こ に お い て、 識 字・ 計算から新たな農業知識・技術、金融さらに保険衛生にまで及ぶ極めて広範な知識・技術を教育し、日々の実践と討

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論、互いの切磋琢磨によって彼らを育成していこうとするのである。そうした日々の積み重ねの中で、農民たちが経 営的に成長し、 彼らの社会形成の主体としての意識 ・ 能力が高まり(つまり「経済物質」と「心理習慣」が培養され) 、 やがて充実した「団体組織」の生成することが期待されているのである。 以上のように、梁は、彼の説く「精神」によって人々を合作へと導き、中国の基礎(農村)に民主的で共同的な社 会関係( 「団体組織」 )を創り出していこうとするのであるが、そうした運動を展開するにあたって、 「社会文化運動」 の視点が重要であると述べている。それはどのようなことなのか。 彼はほぼ次のように言う。 「(本来)地方自治は国権に由来するものであり、まず国家の最高権力が存在し、そこか ら地方自治の“権”が分与されるものである」 。しかし、中国の地方自治はそれとは異なるものとならざるをえない。 な ぜ な ら、 「 国 家 の 基 本 的 な 責 任 は、 秩 序 を 維 持 し、 人 民 の 生 命・ 財 産 の 安 全 を 保 障 す る こ と に あ る 」 の で あ る が、 現在、中国においては、事実上、今なお国内に多くの政権が存在し、外国の圧力を排除できないばかりか、それぞれ が競って人民から苛烈な搾取を繰り返しているからである、と。では、彼の考える中国の地方自治と国家との関係は どのようなものとなるのか。 「 中 国 の 地 方 自 治 は 地 方 自 治 で は な く、 地 方 自 救 で あ る。 …… 世 界 万 国 ど こ に も な い こ の 地 方 自 治 は、 政 府 が で き るものではなく、社会文化運動によらざるをえない。 」 つまり、地方社会が自らの力によって民主的で共同的な社会関係――「団体組織」――を生み出し、同時にそれを 守っていく以外にないのであり、社会自らが「新たな文化を建設 ・ 創造」する「社会文化運動」とならざるをえない、 というのである。そして、梁はそうした自立的な地方に立脚するものとしての国家を構想する。 「 現 在、 中 国 の 最 高 唯 一 の 国 家 権 力 は な お い ま だ 樹 立 さ れ て お ら ず、 し た が っ て、 地 方 自 治 は 上 か ら〔 上 と は 政 府 を指す〕推進しようがない。下から上へと生長し、小から大へと展開し、ゆっくりと新たな国家を建設していかなけ ればならない。 」

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運動によって生まれた自立的な地方を結びつけ、やがてその上に立つ新たな国家を生み出していこうとするのであ る。そのための社会運動こそが彼の郷村建設運動であった。 ほぼ以上が、梁の地方自治論の基本的な内容である。 この講演「中国の地方自治問題」から間もなく、第二次全国内政会議において山東の郷村建設運動は県政建設実験 区の一つに採択される。梁は、以上のような地方自治観をもって、行政との連携による地方建設の取り組み(県政建 設実験)に関わっていくこととなるのである。しかし、ここでその取り組みの具体的な状況に立ち入ることは、小論 の範囲をあまりにも超えることになる。その点は他書にゆずり、論を先に進めることとしたい。

四  運動のディレンマ

     ――「二大困難」――

さて、 行政との連携、 県政建設実験に取り組んでほぼ三年が過ぎようとする頃、 梁は運動が深刻なディレンマに陥っ ていることを吐露することになる。一九三五年十月の山東郷村建設研究院での講演「われわれの二大困難」がそれで ある。 「“われわれの二大困難”とはどのようなものか?まず一つは、社会改造を高唱しながら政権に依拠していることで あり、二つ目は、郷村運動を号称しながら郷村が動いていないことである。 」 具体的にはどのようなことなのか。まず前者について見てみよう。 三年にわたる経験の中で、梁は次のような認識を持つようになっていた。 「 最 近 の 国 民 党 に つ い て 言 え ば、 北 伐 以 前 と 北 伐 以 後 で は ほ と ん ど 別 の 党 で あ る。 …… 現 在 政 権 を 掌 握 し て い る 国 民党は、 まるですでに中国革命史上の使命を終えてしまったかのようである」 。「現政権は社会改造はしない」だろう、

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と。そして、 「現在われわれは社会の大改造を求めている。にもかかわらず実際には現政権に依拠して活動している。 これは大矛盾である」 。この矛盾は今後ますます深刻なものとなるだろう、と。 実は国民政府は訓政理念に基づく地方自治の実施とほぼ時を同じくして、伝統的な農村の自衛組織である保甲制度 の復活に着手していた。ここに言う保甲制度とは、家族十戸を甲とし十甲を保として編成される農村の地縁的な組織 であり、戸口調査、自衛、域内出入者の検査取締、相互監視、人員の徴発、経費の徴収等をその任務とし、上級行政 機関に対して共同連帯の責任を負うものである。蒋介石はすでに一九二九年九月各省政府に保甲の一律実施を訓令し ている。これ以後、 中国には「保甲と自治が並行する局面」が生まれるが、 やがて、 一九三九年の「県各級組織綱要」 の公布、いわゆる新県制の実施によって、地方自治の組織である郷・鎮の中に保甲が組み込まれることとなる。この 保甲制度の本格導入は、地方の最下部である村落にまで行政が浸透・徹底したことを表すものであり、それだけ国家 統合が進展したことを示すものであるとも言いうるが、しかし、同時にそれはまた、農村の視点に立てば、国家によ る統制・監視がさらに強化されることを意味するものに他ならない。梁は県政建設実験に取り組む中で、そうした方 向へ――中国社会の改革よりも現政権の権力維持を目的とする方向へ――と傾斜していく政府の姿勢に強い危機感を 抱き、そのような政府に依拠しながら社会改革の運動を推進しようとしていることに大きな矛盾を感じているのであ る。 次に、後者について見てみよう。 「 本 来 最 も 理 想 的 な 郷 村 運 動 は 郷 村 の 人 が 動 き、 わ れ わ れ は 彼 ら を 応 援 す る こ と で あ る。 一 歩 譲 っ て も、 彼 ら が 動 こうと思い、われわれが彼らを指導することでなければならない。今は全くそのようになっていない。今はわれわれ が動き、彼らは動いていない。 」 梁によれば、運動の中では農民たちが主体とならなければならない。なぜなら、彼らは現状のままでは新たな社会 の担い手となることはできず、それにふさわしい主体として成長していかなければならないからである。そのために

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は当面郷村運動が農民たちを指導し育成しなければならないのであるが、その農民たちが運動に積極的に関わろうと しないのである。なぜか。農民の要求は別のところにあった。 「例えば、農民は過酷な税金に苦しめられている。しかしわれわれはすぐに彼らの負担を軽減することはできない。 農民には土地がない。われわれは彼らに土地を与えることはできない。彼らの要求は大変多いけれども、政治による 解決が必要である。……形勢が少しずつ変わっていくのを待つしかない。 」 農民たちの最大の関心事は、税の軽減と土地分配にある。梁もそれを知らなかったわけではない。しかし、その解 決は政治的な力によらなければならず、われわれにその力量はない、状況の変化を待たなければならない、とするの である。 そ し て、 こ う し た 二 大 困 難 に 加 え て、 さ ら に も う 一 つ 重 大 な 問 題 が 生 ま れ つ つ あ っ た。 そ れ は、 「 郷 村 運 動 そ れ 自 身が一つの力にまとまれない」ことであった。その根本的な原因は各地の運動団体の来歴・背景・主張等が異なると ころにあったが、しかしそれだけではなかった。 「 郷 村 工 作 を 行 政 化 さ せ よ う と す る 趨 勢 ―― 郷 村 工 作 を 地 方 下 級 行 政 に 変 え て し ま う 動 き が 生 ま れ て い る。 郷 村 工 作がそのように変わってしまえば、どうして社会改造などと言えよう?」 つまり、郷村建設運動の多くの団体がその独自性を失って地方の行政機関と化しつつあった――先にも触れた「郷 村工作の行政化」の趨勢が現れつつあった――のである。これに対しても梁は、極めて強い危惧を抱いていた。現政 権の下で行政と一体化すれば、税の徴収・人員の徴発等を請け負う機関となるだけで、とても社会改革などとはいえ ないものに変質してしまう、と。 では、このような困難・矛盾が拡大しつつある状況に対して、彼はどのように対処しようとしたのであろうか。 まず政権との関係について。 政権は社会を改革しようとしていない。だとすれば、現政権との関わりを断ち切って運動を進めていくべきではな

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いか。しかし、事はそれほど簡単ではない。現政権と手を切れば、財政上も権限の上でも運動は極めて限定されたも のとならざるをえないからである。 「 い ま 問 題 は 分 か れ る べ き か 一 緒 に や る べ き か に あ る の で は な く …… ど ち ら が 客 と な り ど ち ら が 主 と な る か と い う 問題である。さらに言えば、われわれが彼(現政権を指す)を利用するか、彼がわれわれを利用するかである。もし われわれが主となって彼を利用することができなければ、逆に彼に利用される立場になり、結果は完全な失敗に終わ るだろう。 」 政 権 と の 関 係 を で き る 限 り 良 好 に 保 ち 連 携 を 維 持 す る。 し か し、 決 し て 統 治 的 な 視 点 に 立 つ 政 府 に 主 導 権( 「 主 」) をとられてはならず、 民主的な共同的社会関係を創出しようとするわれわれの主張に沿った施策を要求し続けて

( 「わ

れ わ れ が 主 と な っ て 」

いう関係でなければならない。農民の現状を考えれば始めのうちは運動の側が主動せざるをえないが、やがて農民が 農 民 と の 関 係 は、 政 府 と の 関 係 と は 逆 に、 農 民 が 主 体( 「 主 」) と な り、 運 動 が そ れ を 補 助 す る( 「 客 」 と な る ) と いつまでもわれわれが主動となるのであれば、郷村運動に前途はない。 」 動 と な ら な け れ ば な ら な い け れ ど も。 こ の 問 題 は 極 め て 重 要 で あ る。 も し 農 民 た ち の 力 量 が い つ ま で も 開 発 さ れ ず、 つまり、農民を啓発して徐々に農民の力量を高め、彼らを主にしていかなければならない。はじめこそわれわれが主 形勢は、 われわれが主となり彼らが客となるのではなく、 逆に彼らが主となりわれわれが客とならなければならない。 「 こ の 話( 運 動 と 農 民 の 関 係 ) も ま た 主 客 問 題 で あ る。 し か し 政 府 に 対 す る も の と は 異 な っ て、 わ れ わ れ が 求 め る 次に、農民との関係について。 のである。 は一定のまとまりをもった社会的勢力として存在でき、政権に対する独自性・主体性を保持しうるのだと考えている の立場を固く守らなければならず、絶対に自ら政権を握ろうとしてはならない」とする。それであってはじめて運動

) い

か な け れ ば な ら な い、 と い う の で あ る。 そ し て 梁 は、 そ の た め に は「 わ れ わ れ は 社 会 運 動

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主体となる状況を創り出していかなければならない、というのである。 だが、 当時、 政権を利用しながら運動側が主導権を保持していくことのできる現実的な保障は何もなかった。また、 農民たちを彼らの運動に主体的に参加させることのできる有効な手立ても存在しなかった。梁たちの運動は、やがて 直接的には日本軍の侵攻によって活動停止を余儀なくされることとなるのであるが、それ以前にすでに事実上大きな ディレンマに陥っていたのである。 すでに多くの論者によって指摘されているように、梁たちの運動は当時の状況下においては、大きな現実的有効性 を持ちえないものであったと言わざるをえないであろう。しかし、彼の議論には、中国において民主的な憲政が実現 されるために考慮さるべき重要な問題が指摘されていたように思われる。つまり、それは、当時の中国においては現 状のまま憲政が実施されたとしても民主化は進展しえず、かえって反民主的な状況が拡大しかねないこと――いわば 憲政と民主との乖離――、そして、憲政が民主的なものとして機能するためには、国民の多数を占める農民が自立的 な社会形成の主体へと成長し、実際に民主的な社会関係が生み出されなければならないこと、である。 当時、梁は、そうした課題の克服を政権から一定の距離をおく「社会文化運動」として追求しようとしていた。だ が、まもなく中国全体の統一、政治権力のあり方という問題に正面から向きあわねばならない事態が発生する。すな わち、日本軍の侵攻である。それによって彼らの運動は崩壊し、中国全体が結束してそれに対抗する必要に迫られる のである。そのとき、梁はどのように行動し、どのような議論を展開することとなるのであろうか。最後に、紙幅の 許す限りにおいてその点を瞥見し、もって小論のむすびにかえることとしたい。

むすびにかえて

一九三七年七月の盧溝橋事件以後、国民政府は日本軍の強大な武力の前に、南京から武漢、武漢から重慶へとズル

参照

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