論文の内容の要旨
氏名:髙嶋有里子
専攻分野の名称:博士(芸術学)
論文題名:校歌をめぐる表象文化研究 -近代国家成立における校歌の制定過程と現代の諸状況を てがかりに-
本論文では、日本の公教育で歌われ続けている校歌の成立と発展に注目し、明治期から平成期までの校 歌の歴史研究と事例研究を行った。明治期以降、日本は近代国家形成にあたり、教育に重きを置いて政策 を行っていった。なかでも校歌は学校の象徴の一つとして、在校生や卒業生を通して根付いていった。そ の過程は日本がそれまでに経験することのなかった文化現象である。また、校歌は明治期以降の西洋音楽 の移入による日本の音楽教育と国民の音楽意識の変化を追及するものでもある。
これらのことを明らかにするために具体的に6章に分けて校歌について論じると共に、付論として作曲 家下總皖一が作曲した495曲の校歌を統計的にまとめ、彼の作曲における特徴を明らかにした。
第1章「日本における校歌の成立と歴史」では、どのような社会的背景の中で校歌が誕生したのか歴史 資料・先行研究を基に論じた。校歌は明治期から歌われるようになった①お茶の水女子大学の校歌《みが かずば》、②祝祭日に歌われるようになった儀式用唱歌、③唱歌、④軍歌の4つの歌詞・曲調が用いられて いるということがわかった。〈文部省訓令第7号〉の影響があったため学校で歌われる歌には制約があった。
そのため、多くの校歌が似たような歌詞・曲調になってしまった。しかし、それらの校歌は、①②③④の 特徴を併せ持ったものであり、校歌は当時の新しい音楽ジャンルであると結論を出した。そして学校外で いつ頃から校歌が人々に認知され始めたのか、辞書・書籍・新聞等の資料を基に特定を試みた。辞典では 1915年『大日本国語辞典』(金港堂書店)、書籍では1916年『校歌ロオマンス』(實業之日本社)、新聞記事 では1903年読売新聞朝刊「大日本膨張の歌と群馬縣農業學校校歌」が最初の初出であるということを明ら かにした。
第2章「時代ごとの教育概観」では、明治期から現代にかけての校歌の歴史を探ると共に、そこから見 えてくる校歌と学校のかかわり、歴史背景を明らかにした。1894年に施行された〈文部省訓令第7号〉の 小学校で歌われる歌は全て文部省の認可を受けなければならないという規定があった。しかし、〈文部省訓 令第 7 号〉自体はあまり効力を成していたものではなかった。それを表すかのように大正期では、校歌の 書き方や意義について記された書物が多く出版された。そして、1931年に施行された〈小学校令施行規則 第53条第2項〉は多くの学校に認知され、各学校で独自に制定していた校歌も改めて認可を求めるように なった。認可を得るために文部省からの歌詞修正を受け入れた学校も多々あった。文部省から校歌の制定 を促す通達はなかったにも関わらず、多くの学校で校歌は制定された。それほど校歌は帰属意識を幼少期 から徹底させるのに意味深いものであった。そしてその意識は時代と共に変容しているということがわか った。
第3章「女子中等教育の校歌の成立と変遷」では、女子中等学校の校歌に絞り調査・分析を行った。明 治期に於いて、キリスト教主義女学校は創立が早く、普段から讃美歌を習慣として歌っているのにもかか わらず、校歌を明治期後半ごろから制定し始めた。キリスト教主義女学校が校歌を制定するということは、
〈高等女学校令〉や〈訓令12号〉の影響により日本の教育事情に準じようとしていたのではないかと考え られる。そしてその校歌は讃美歌の旋律を用いたものや西洋音階で書かれたもの、宗教色がある歌詞内容 であり、当時の価値観・音楽感覚とは異なっていたことが明らかになった。私立や府立の女学校は建学の 精神や良妻賢母の歌詞が入っているだけでなく、女性の自立を促す歌詞もあった。旋律に関しては、ぴょ んこ節の拡大表現を用いているパターンが多かった。
大正期では自由主義教育が注目されてゆく中、女子中等教育の教育環境は、1920年に〈高等女学校令〉
が改訂され、明治期からの教育理念を引き継ぐ形でより確立されていった。私立・府立の学校は明治期か らの曲調であったが、キリスト教主義女学校に関しては忠君愛国の歌詞内容であったことから、日本の教 育に準じていこうという姿勢が校歌からも垣間見えた。
長らく続いた、〈文部省訓令27号〉が1931年に廃止されるも、同日に〈小学校令施行規則第53条第2 項〉が新たに施行された。さらに1941年に〈国民学校令〉が施行されると〈国民学校令施行規則第36条〉
に引き継がれ、学内で歌われる歌は終戦まで認可を求めなければならなかった。その影響は中等教育でも
広まり、1939年〈文部省訓令49号〉が施行されると上級学校でも学内で歌われる歌は認可を受けなけれ ばならない状況になった。日本全体が戦争へ進む中、この時代に制定されたどの学校種の校歌も皇国主義 を中心とした内容であり、西洋音階を用いた校歌が多かった。
戦後は新たな教育体制を確立すべく、教育理念を〈学校基本法〉に定めた。集団的特色よりも個人の自 由が尊重され、児童・生徒を中心に考える教育へ変化した。校歌は児童・生徒が歌うものであるという考 えの下、戦前までの校歌のような単調なものではなく、自由な表現が曲調に現れている。また、歌詞も戦 前までの歌詞内容を一部修正して利用したりする学校もあるが、新たに制定した学校に於いては学校で学 べる大切さ、そこで出会う友人の大切さ、そして21世紀に求められる女性の自立を強く願う歌詞が込めら れていることがわかった。
第4章「教材としての校歌 -東京都私立和洋九段女子中学校・高等学校を例として-」では、東京都 千代田区にある私立和洋九段女子中学校・高等学校(以下 和洋九段校)の校歌を調査・分析した。和洋 九段校の校歌は音楽の授業で通年使用されている。このことに注目し、学習指導要領を基に調査したとこ ろ、和洋九段校の校歌は、中学校学習指導要領第2章5節音楽の第2「各学年の目標及び内容」、第1学年、
第2学年及び第3学年共に、2内容の「A表現」(1)ア~ウの共通事項の内容と合致していることがわかっ た。また、学習指導要領に記されている音楽用語や記号、64項目中54項目(中学校学習指導要領音楽第3 の2の(8)と小学校学習指導要領第2章第6節音楽第3の2の(6))が校歌に記されているということがわか った。これらのことから和洋九段校の校歌は、多くの学校で行われているであろう入学してきた生徒に教 える一過性の校歌指導ではなく、校歌教育であると考える。3年間教材として使用する試みは音楽教育と校 歌教育を兼ね備えた、他の学校ではみることができない新しい価値観の校歌が誕生したということである。
第5章「校歌の制定背景 -東京都練馬区光が丘地区小学校統合における校歌制定までの流れ-」では、
統廃合による校歌制定過程を調査した。2010年3月31日をもって光が丘地区にある8つの小学校が閉校 した。そして、その翌日の4月1日から新たに4校が開校した。新たに開校した学校は、開校に合わせ校 歌を新しく制作していた。その制作は、“統合準備会”という組織の中で行われ、約2年間17回にわたり 定期的に話し合いが持たれた。統合準備会では、①計17回の準備会の内、約6回校歌について話し合いが もたれた。②歌詞は光が丘の児童・保護者・教職員、周辺地域住民に歌詞に採用したい言葉のキーワード を求め、旋律の募集は行わなかった。③作詞者・作曲者は統合準備会で話し合われ練馬区教育委員会を通 して依頼された。④校歌制作にあたり、個々の委員の意見が反映された部分もあったが、基本的には各統 合準備会とも共通性・統一性をもって行われたということ、校歌に関わる経済的事情も得られた。
第6章「復興と再生 -東日本大震災における校歌の役割-」では、東日本大震災とその地の校歌の関 係性について論じた。2011年3月11日14時46分に東北地方を震源としたマグニチュード9.0の大地震 は、私たちの生活や価値観を根本から顧みるほど大きな出来事であった。震災後、新しく開校した学校の 校歌には震災の出来事を忘れず、前へ進むことを示唆する歌詞が多く含まれている。また、作詞者・作曲 者がメディアに露出している場合が多く、その制作過程や制定後が報道されるということが特徴であった。
校歌は学校への帰属意識を培うだけでなく、危機的状況でも校歌を歌うことによって精神的な安定をもた らすものであるということがわかった。
「結論」では、以上の諸考察から校歌の発生には①雅楽・軍歌・賛美歌などの影響がみられたこと、② 校歌が音楽教材というより学校への帰属意識を涵養すると共に、集団行動を指導する手段であったこと、
③そのため、入学式等祝典や朝礼等の機会に(一斉斉唱)という合唱形態をとったこと、④学校内ばかり でなく、地域社会の共有する財産として校歌があったこと、⑤校歌が文部省唱歌と共に普及したことで日 本人の音感が日本音階から西洋音階へと変化した大きな契機となった事などが結論付けられた。
付論「下總皖一の校歌 -統計分析による校歌研究-」では、本論において学校の校歌の分析を行った が、ここでは一人の作曲家の校歌について統計的にまとめた。具体的には下總の直筆譜492曲と清書され た楽譜3曲、合計495曲の分析を行った。調査方法は、ヤン・ラルーの分析方法を基にし、さらに論者自 身が調査項目を加え集計した。調査項目は①調、②拍子、③小節数、④曲態、⑤音域、⑥前奏の小節数、
⑦学校である。下總が作曲した校歌はハ長調が多いだけでなく、フラット(ヘ長調・変ロ長調・変ホ長調)
を用いている校歌が多かった。さらに、主旋律のみの作曲ではなく、副旋律も作曲していた。学校種別で みてみると、小学校では定型的な校歌作りを行なっているが、その定型さが中学校、高等学校と進むにつ れて自由な形式に変ってゆく。これは、上級学校に上がるにつれて、生徒らの歌唱能力、表現能力の向上 を下總は考慮して作曲していたということである。