弘前大学教 育学部紀要 第95号:1‑ll(2006年3月)
Bull.Fac.Educ.HirosakiUniv.95:1‑ll(Mar.2006)
周作人の散文芸術
ThePr o s eSt yl eo fZho uz uo r e n
山 田 史 生*・鄭 文 茜**
FumioYAMADA',WenxiZHENG''
【論文要 旨】:銭理群 『周作人研究二十一講』 (中華書局)第六講 「周作人的散文芸術」の翻訳。
キーワー ド:随筆,小品文,中年,趣味,滑稽,尺憤,筆記
凡例 :一,原著 における ̀̀ ''は,訳文では 「」とす る。
一,原著 における 《 ≫は,訳文では
『
」]とする。一,原著 における句読点 ・改行 は,適宜 に改変す る。
一,閲読 に資する範囲での訳註 を,論文末に附する。
(‑)
五 ・四散文は, また小品文や小品散文 とも称 し, その淵源 は英国の随筆 にある。 魯迅が翻訳 した厨 川自村 の 『象牙の塔』にはつ ぎの ような定義が見 える。
冬 な らば暖炉 のそばの安楽椅子 にで も焦 れ て,夏ならば浴衣がけに苦著 を畷 りなが ら打寛 いで,親 しい友 と心お きなう語 り交はす言葉 を 其健筆 に移 した様 なのがエ ッセイである。1)8
ここで語 られているのは,いわゆる文体 として の 「体裁」とは明 らかにちが う。 実際の ところ, 随筆 (小品散文) とそれが書かれた特定の時代 に おける文化状況 ・心理状態 ・生活様式 ・生活感情 ・ 人生哲学 との内在的な関係が規定 されて,は じめ て文体の内容や形式 は決 まって くるのである。
いったい随筆 とは,ち ょうど老友 どうしの 「気 ままな閑話」の ようなものである。 その文化的お よび心理的な空気 は, きわめて 自由であ り, さら には長閑である。 それは気持 ちを通わせ合い,た がいに補い合 うものである。 そ して 「閑話」して いるふた りは,かな らず平等であ り,たがいを尊 重 し,いたって親密 な態度で もって語 りかつ聴 く。
それは誠実であ り,率直であって,なんの遠慮 も な く個性 を吐露するものである。 それは知性の遊 戯であ り, また精神の散歩であって,ただに高度 な教養が もとめ られるだけではな く,かな らず生 活の裕福 さが (す くな くとも余裕が)なければな らず, しか も心境の閑適,酒脱が ともなわねばな らない。
翻訳家の博東華 はこう概括 している。「Familiar essayの文体 は,商人の 自由主義 と文人の個人主 義 とが結婚 して生 まれた ものであるが,小品文の 文体 は,士大夫のほん ものの豊か さと文人のにせ ものの清 らか さとが結びついた ものである」と2)。 ひとつだけ付言 してお きたいのは, こういった文 体 は思想の 自由と個性の解放 という時代の産物だ
とい うことである。
したがって周作人が 「江村 の小屋で,窓辺 にも たれ,火鉢 にあた り,お茶 をのみなが ら,友人 と 語 っていたい」 3)とい う渇望 をかかげ,「それ こ そが愉快 なことである4)Jとい うとき, ひ とび と は 「士大夫のほん ものの豊か さと文人のにせ もの の清 らか さとの結びつ き」とい う伝統的な名士の
「気味」をおぼえるだけでな く, また西洋 におけ る自由主義 と個人主義 とが 「結婚 して生 まれた も の」すなわち英国紳士の 「気味」も感 じている。
周作人の随筆 を読む ものは五 ・四時代 に特有の
*弘前大学教育学部国語講座
DepartmentoH apaneseLanguageandLiterature,FacultyofEducation,HirosakiUniversity
**弘前大学教育学部教育学研究科
GraduateSchoolofEducation,HIROSAKIUNIVERSITY
2 山 田 史 生 ・鄭 文 西
自由で寛容 な雰囲気 を もあわせて味わ うことにな る。 とい うの も,かれが 「生活の芸術」 とい うこ とを生活の様式 ・情趣 ・哲理の中心 にす えている ことと,かれの小品文の 「体性」 とが, きわめて 高い レヴェルで調和 してお り,それが また五 ・四 時代の風潮 とも軌 を一 に しているか らである。 こ れこそ周作 人が中国現代 における小品文作家の代 表 とみなされる主たる理 由である。
(二)
周作人の散文 といえば,だれ もがす ぐに明末の公 安派や寛陵派の散文 との関係 を連想す るだろうき。 だが,その関係 はい ささか大袈裟 に語 られす ぎて いるようにお もう。
た しかに周作 人は明末の散文 こそが五 ・四小品 散文お よび五 ・四新文学の源流であるとみな して いるが,それはかれが 「小 品文 は文学 の発達の極 致であ り,つねに王朝の崩壊 にさい して興隆する」 5)
と考 えているか らである。 明末お よび五 ・四運動 のころは. まさにそ うい う時期であった。正統的 なイデオロギー としての儒教 に対 して懐疑の 目が むけ られ,その地位へ の挑戦状がつ きつ け られた。
さまざまの文化が勃興 し, もろもろの学派がせめ ぎ合 うとい う風潮 が あ らわれ, 時代 の知 的 な レ ヴェルは ぐん と押 し上げ られた6)。
周作人が もっ とも共鳴 した公安派や克陵派の散 文理論お よび創作実践 は,その「性霊 を拝べ る」「真
字 を立てる」とい う姿勢であ り,かれはそれを 「真 実の個性 的な表現7)」とみ な した。それは また周 作人みずか らが遵守 している創作の原則で もあっ た。要す るに,周作人の散文 と明末の公安派や寛 陵派のそれ との間には,その創作精神 において共 鳴 と継承 とがあったのである。
ただ し,たんなる 「共鳴 と継承」 とい う範囲を 逸脱 して,それを芸術 の様式 とい うことにまで敷 宿 させ るな らば,おそ らく周作 人の散文 について の誤解 をまね くことになるだろ う。 廃名 はつ とに 周作 人の散文は 「公安派のひ とび との筆致 とはち が う8)」と指摘 している し,阿英 もまた 「周作 人 の小 品文 は明人 のそれ を発展 させ ただけで あ っ て,かれが 自分でいっているような明末の小品文 を復興 させ た ものではな く, ち ょっ と似ていると い う程 度の もので しか ない9)」と認識 してい る。
まさに人 を知 り文を知 る ものの言である。
廃名 は周作人 と公安派 との 「筆致」がちが うこ とを強調 してつ ぎの ように論 じている。「知堂先
生 はその手の文才 は もっていない し,そ もそ も興 趣 に酔い しれつつ筆 をはこぶなどといったことは 想像す ることもで きない。そ うい うのは公安派 を は じめ とする古今の才子たちの特徴である」 と10)。 この見解 はなかなか示唆的である。 周作人はその 芸術思想 において も言語表現 において も,お よそ
「古今の才子」 とはちが う特徴 を もってい る。 わ た しの理解す る ところでは.いわゆる 「古今の才 子」 とは浪漫主義の詩人 もしくは浪漫主義詩人 と しての気質をそなえた作家である。 なるほど周作 人の芸術思想のなかには,浪漫主義詩人の思想 に つ きものの飛躍 ・断裂 ・誇張 ・変形 といった要素 はす くな く, もっ と平明かつ実直な,む しろ散文 的なものが存す るようである。
ここに興味ぶかい対比が ある。 魯 迅の 『野草』
と周作人の 『夏の夜の夢』とは どち らも 「夢」の 記述 をふ くんだ (それ も大量 にふ くんだ)散文で あるが,そ こには象徴 的な意味合いが看て取 れる。
魯迅の 『野草』 にお ける夢想 は, きわめて大胆, 奇抜 であ り,ひ とつの神秘 的かつ幻想的な芸術世 界 を構築 している。 ところが周作 人の 『夏の夜の 夢』の措 くところは,いたって平明かつ実直であ り,たかだか現実世界の投影であるにす ぎず, は なはだ芸術 的な光彩 に とほ しい。魯迅 の 『野草』 の精神 は,た しかに詩人のそれである。 それにひ
きかえ周作 人は, まるで詩 人的なセ ンスを放いて いる。「夢」の ような題材 をあつか うとき,かれ の才能 は活躍 すべ き場所 を兄 い だせ ないのであ る。
いったい周作 人の散文には,詩人 (とりわけ浪 漫主義の詩人)だけにゆるされる 「興趣 に酔い し れつつ筆 をはこぶ」 といった激情のほとば しりは ご くわずかであ り, また浪漫主義の詩 につねに見 られる豊能 なイメージ,派手 な レ トリック,大仰 なフレーズによって形成 される 「文采」 もす くな く, さらには読む ものの心情 に詰め寄 り,震推 さ せ るような気迫 に もとほ しい。
周作人は 「わた しはまった く情熱的な人間では ない」「わた しの考 えはいつ も平凡 とい うことを 志 向 している」「お よそ度 を過 ご した ことは好 き で はない11)」「わた しが雑 文 を書 くさい にこころ がけているのは,独 断的だった り大袈裟だった り す る文句 を避 けるとい うことである12)」とつねづ ね漏 らしている。
周作 人は「わた しは李 白が さほ ど好 きでないが, それは大袈裟 な感 じがす るか ら13)」といったか と
周作人の散文芸術
お もうと,果ては感情その もの を根本か ら否定 し て「感情 なる ものは野蛮人の所有 にかかるもので, 理性 こそが文明の産物である14)Jとまで断言 して
いる。「詩 を作 るこ とは心 に風邪 をひかせ る よう な もので,散文 を書 くこ とは養生 の道であ る15)」 といっているように,かれはその気質か らして詩 とは相容れなかった16)。
周作人は自分の 「頭脳 はまった く散文的,唯物 的17)Jであ り, けっ して詩的ではない と明言 して いる。 た しかに周作人の散文 は詩人の書 くもの と はちが うが,それはべつの道 を切 り開いた もので ある。 わた しはこれを知者の散文 とよぴたい。
ところが面 白い ことに, 自分 は根 っか ら小説に はむいていないのだ, と周作人は 自認 している。
正直 にい うと,わた しは小説があ ま り好 きで はない。わか らないか ら好 きになれないのか も しれないが,そ うなのか どうか もよ くわか らな い。小説 を読む ときも,たいてい文章その もの を味わっているので,そんなに小説 らしくない もの,た とえば随筆風の小説なんかは,たい‑
ん面 白い。筋道が きちん と構成 されている波潤 万丈の物語 は, まるでハ リウ ッ ド映画 を観せ ら れているようで, どうも楽 しめない。そんな も のを面 白が るのは,ち ょうど仕掛 け られた民 に アホな鳥が ひっかかるような もので,てんで馬 鹿げている。18)
こういった周作人の生活の趣味,人生の哲学 と, いわゆる小品散文 とは,た しかに相性が よいだろ う。 お まけに周作人の芸術上の思想 も, またその 気質 も,そ もそ も散文的なのであった。そ うであっ てみれば, じつ に小品散文 こそは,周作人がつい に手 に入れた 自分 にふ さわ しい芸術形式である と いって よいだろ う。 この ことは太鼓判 を押 して よ い。
(三)
周作人 は 『雨天の書』「自序 の二」でつ ぎの よ うに説いている。
文章 を書 くことについて考 えるに,平淡 自然 の境地で書けるとい うのは,つ くづ く羨 ましい。
そ ういった作品は,古代の外国文学 に しか見つ か らない とお もう。 自分がその境地 にいたるこ とは, まさに見果てぬ夢である。 そ ういった境
3
地 までゆけるか どうかは.たぶん気質 と年齢 と にかかっていて,無理矢理 にで きることで もな い し‑‑
「境地」「気 質」「年齢」 と文章 の風格 との関係 につ いて語 られてい る。「気質」 についてはべつ の機会にゆず るとして,さしあた り 「境地」「年齢」
について考 えてみ よう。
周作人はこの 自序 を1925年の末 に書 いた。 とき に41歳,すでに中年 にさしかかっていた。 じつは この時期,周作人はおのれ文章の流儀 を変 えよう と準備 していた (とうに着手 していたのか もしれ ないが)。翌年, 『芸術 と生活』「自序 の‑」 のな かで 「夢想家あるいは伝道者 といった気分 は,だ んだん稀薄になって きた」 と,ふたたび自分の思 想や心情の変化 について語 ったか とお もうと,す ぐに言葉 をついで, もう長編 を書 くことはないだ ろうし, これか らは 「もっぱ ら随筆 だけを書いて ゆ きたい」 と宣言 している。 ここまで論 じて きた 周作 人の 「随筆」 (小 品散文) とは,つ ま りかれ が中年以降に 「方向転換」 してか らのちの産物 な のである。
周作人に『中年』と題 された文章がある。「浪漫」
にあふれた青春 時代 に別れ をつ げて,「中年」 と い う 「理知の時代」‑ と移 りゆ くことを謡 った も のである。 そのなかで周作人は 「わた しも少年の ころにはロマ ンテ ィックな気分 に衝 き動か されて 英雄 をや た らと崇拝 した もの だ ったが, この歳 なってみる と,立派 な道学者 たちや超人的な志士 たち,つ ま り若 い時分 にあ こがれた英雄 たち も, の きなみ老年や中年 になってお り,だれ もかれ も 泥だ らけの顔で馬脚 をあ らわ していて, まった く 幻滅 させ られた19)」と述懐 している。 これは 「英 雄の崇拝」か ら 「凡人」の重視‑の転 向,つ ま り
「熟 に浮かれた」 ような感情 か ら 「経験 と理性 と に もとづいて人情 と物理 とを観察す る20)」とい う 態度へ と変わったことを示 している。 そ してその 挙 げ句 にかれは 「随筆」 (小 品散文) とい うジャ
ンルを選択す るにいたるのである。
周作人はある文章で「少年は華麗 な もの を愛 し, 壮年 は豪放 なものを求め,中年 は簡潔 な ものを欲
し,老年 は淡遠 な もの を好 む③」 とい う古 人の言 葉 を引 き, これによって 「文 と人 とを論ず ること がで きる21)」と説 いている。 してみ る と周作人の 散文の基本 は簡潔お よび淡遠である とおほ しい。
聞‑多はかつて鳩至の 『十四行詩」]を請 えて 「中
4 山 田 史 生 ・鄭 文 茜
年の詩である」 と許 した。周作人は廃名の小説を
「中年 の読み ものである22)」と判 じた。按ず るに 周作 人の散文 もまた中国現代散文史上 における
「中年の散文である」 と称 した ところで微塵 も差 じるところはないだろう。
(四)
「中年」になるとは,理性が しっか り身に染みこ むということである。周作人にとっての 「理想」の 境涯 とは,顔之推の 『顔氏家訓』における 「理性 は通達,感情は温厚,様子は平静,言葉は淵雅23)」
とい う境地であった。謂 うところの「理性 は通達」
とは中庸主義 を奉ず ることである。 これ こそが周 作人における思想的な身上であ り, また美学的な 原則 であ って, と りもなお さず周作 人の散文の
「魂」である。
周作人の散文 を読 む とき, ひ とはその 「博識」
に驚か ざるをえない。遭景深 は 「かれの小品文 を 読む と,かたわ らに博学の先達がたたずみ,おだ やかに微笑 んで くれてい るような心地がす る24)」
といっている。 徐志摩 もまた周作人の博学ぶ りを 称讃 している25)。章錫環 は,周作人は 「ひどく無 造作 に引用するのだが,その引 きぶ りときた ら無 尽蔵の源泉か ら汲みあげるといった風情 をただよ わせてお り, しか も汲みあげ られた知見はあたか も自分 の見解 の ようであ る26)」と感服 している。
郁達夫 は,周作人の 「博識」が 「知 を誇 り,学 を 街 うものではない27)」ことを強調 している。
周作人 自身. よい散文 とは 「科学的な常識にも とづいていて28)」「知識 と趣味 との双方か ら続制 されている29)」べ きだ と考えている。「博識」「無 造作 な引用」 とい うと 「雑」のような印象 を与 え るか もしれないが,それは外的な表現のあ り方に す ぎず, じつは一切 を 「看破」 した うえで情理 を 兼ね備 えているとい うのが内的な実態である。
その散文は 「派閥にとらわれた偏見」 を打破 し て,あ らゆる人類の創造 を掬い とり,すべての流 派の学説 を摂 りこんでいる。 時間と空間, 自己 と 他者 といった限界 を超 えて,「大 は宇宙か ら小 は ハエ まで」朋友 としない ものはない。いざ文章を つづ るとなれば,心 をいにしえの森羅万象 に遊ば せ,老荘韓孟,虫魚神鬼,あ りとあ らゆるものが 筆先 よりあふれでる。 まさに 「神人合一,物我無 間」 とも称すべ き 「入神忘我」の境地である30)。
これこそが周作人の散文における魅力の所在 には かならない。
周作人の散文のつむ ぎだす 「神人合一,物我無 間」の世界 は,けっ して純然たる理知的なもので はな く,情 と理 とがたがいに浸透 し合い,そ して 統一 された ものである。 それは来光潜 による陶淵 明についての月旦 を籍 りていえば 「理知が情感に 浸透す ることによって生 じた智慧31)」による境涯 である。
周作人における 「通達」 とは,たんに思想的に 兼備 し,包括 しているとい うだけではな く,人情 や物理 について細敵に表現で き, しか もその観察 や理解がおのづ と独創的なものになっているとい うことである。そ うやって もた らされる人情味は, ただな らぬ含蓄 をただよわせ なが ら,そこはか と な く穏やかな風趣 をか もしだ し, さらに得 もいわ れぬ 「慈愛32)」に満ちている。
周作人はかつて魯迅の文章の特徴 を 「憎 しみが 多 く,愛がす くない」 と評 した33)。その品評の当 否 は しば らく措 くとして も,た しかに周作人の散 文 は 「愛が多 く,憎 しみはす くない」。魯迅が ひ とび との神 聖 なる 「憎 しみ」 を喚起 し,「説 き, 笑い,泣 き,罵 り,殴るなどして,悪態 をつ くべ
き部分 において呪祖すべ き時代 を撃退」 しようと したのに対 して34),周作人は 「愛」 によって一切 を消滅 させ, また一切 を疎通 させ ようとした。そ れかあ らぬか.周作人は文章の 「温和」な調子 を
きわめて重んずる。
かれは自分で も 「ときどき温和 な文章が無性 に 読みた くなる,それ も独 りきりで木陰に腰 をおろ して。 もちろん 日向ぼっこするの もすてがたいけ れ ども35)」といっている。 また毛西河の文章につ いて 「語 りぶ りに 「英気」がみな ぎっている」 と 指摘 し,それを 「はなはだ気分 を害す る。 もとも と道理にかなったことを語 っているのに,そ うい う語 り方 をす ると角が立つ」 し,そ もそ も 「ひど く筆が こわばっている36)」と批判 している。
何其芳は魯迅 と周作人 との散文 を読んでこう感 想 を漏 らしている。「まった く異 なった感触があ る。 一方は興奮 させ,他方は鎮静 させ る。 一方は 陽光 にさらされているようだ し,他方は木陰で く つろいでいるようだ。一方は憂哲 な面持 ちで暗闇
を解剖 しているものに勇気 と希望 とを与え,やる 気 を起 こさせ,他方は平穏 な気持 ちで人生談義に ふけっているものか ら人生の実感 をうばい,眼を つむって夢 を見 させ る」 と37)。 この何其芳の印象 は,魯迅の散文 と周作人のそれ との異 なった 「境 界」 について,かな り的確 にとらえている。
周作 人の散文芸術
(五)
周作 人 はみずか ら創造 した散文芸術 において, 万物 ・異邦 ・古人 をことごとく朋友 として過 して お り,そ こにかれの度量の深 さと広 さとが うかが われる。 ただ, よ り深層 を省察す るな らば,そ こ にかれの内心の寂参感 をも看 て取 ることがで きる はずである。
日本の作家,有 島武郎の 「私は第一淋 しいか ら 創作 を します」「私 は また,愛す るが故 に創作 を します38)④」 とい う言葉 を,周作 人は しば しば引 用す る。 そ して 自分 もまた文章 を書かず におれぬ のは,つ ま り散文芸術 を創造 した くなるのは, ひ とえに寂参感 に駆 られでの こ とだ と自覚 してい る。
わた しは常 日頃か ら友人 と閑談す るのが大好 きである。 今 だって頭 のなかで話 し相手 をさが していて,わた しの他愛 もない冗談につ きあっ てほ しい とお もっている。 過 ぎ去 った蓄夜色 の 夢 はすべて幻 だ と承知 しているが,それで もさ が きず におれない‑ これは生 きている ものの弱 きだろう‑ わた しが想 い描いている友人,それ は凡庸 なわた しの心 を理解 して くれる読者であ る。39)
わた しは寂 しい もんだか ら,文学のなかに慰 めをもとめた り,やた らと読書 にふけってみた
り,むやみに文章 を苦 いた りす るのだ。40)
ひ とは群れるのが好 きだ。だが, ひ とは往 々 に して人混みのなかにあって忍ぶべか らざる寂 しさをおぼえる ものだ。た とえば寺の縁 日で潮 流の ような雑踏のなかに操 まれなが ら, ひ とひ らの木の葉の ように,一切 と絶縁 して孤立 して いるかの ような想い をす ることがある。41)
お もうに文章 を書 くのは寂 しさに耐 え られな いか らである。 どんなに読みに くい ものを書い ている ときで も,だれかに読んでほ しい と願 っ ている‑ これは文芸の有す るひとつの功徳では あるまいか。 もっ とも, ほんのわずかの縁 を結 ぶ とい うだけの ことなのだが。42)
なに しろ周作人は現実の生活のなかで 「一切 と 絶縁 して孤立 している」 と強烈 に感 じている もの
5
だか ら,い きおい時間お よび空 間の限界 を打破す ることを渇望せず におれない。そ してはるか千年 も大昔の古人や万里 も彼方の異邦のなかに 「想い 描 いている友人」 をさが し, まだ逢 ったこともな い読者 と 「縁 を結ぶ」ことをもとめず におれない。
その苦労 は並大抵ではないだろう。
周作 人は,‑篇の文章 をつづ るにあたって,つ ねに読者 との 「心 の対話」 をこころが けている。
その こ とが周作 人の散文 に特有 の 「閑話 の風情」
を もた らしている。 す なわち 「わた しの文章 を魔 除けの護符や京劇の節 回 しの ように珍重 しては し い とはお もっていない。ただ紙の うえに話が書い てあるだけの もの として読んで もらいたい。 もし 話 になにか意味があるな ら, きっ と語句 によって 伝 わって くれるだろ う43)」といった趣 である。
実益 にこだわ らず,ただ 自然 に流露 して くるの にまかせ,気分のお もむ くままに筆 を うごか し, あ らゆる作為 をほ どこす ことな く,とにか く「ちっ
とも頑張 らず, さしたる工夫 もせず」 に書 くだけ であって,「書 いた ものにそ こそ こ真実味があ り, ほんの りユーモア もただ よっていて,読むひとを 面 白が らせ ることがで きれば十分で,べつ に天地 万物の営み にかかわる道理 といった大問題 を論 じ た りは しない44)」のであ る。「ささやか な文句 の なか に,おお らかな精神 をこめる45)」ことによっ て,それを読んだひ とが 「なん とな く人情の機微 を察 し,わた しとい う人間を知 って46)」くれた ら, それだけで もう読者 との 「神交」 はす っか り成就
しているのである。
語 り口はいつ も対等であ り,それに親切 なのだ が,それでいて 「か もしれない」 とか 「とはか ざ らない」 といった娩 曲で,やけに思慮ぶかい口調 であるのは,で きるだけ 「押 しつけが ましい」 と い う印象 をやわ らげ ようとす るか らである。 しか しなが ら敏感 な読者であれば,その謙虚で真筆な 態度のなかに, ほ とん ど形跡 を残 さぬほ どの優越 感が存す ることを感ず るだろ う。 こればか りは周 作 人 と読者 との間の思想 的な格差の もた らす心理 的な反応 だか ら仕方が ない。一方でそれは 「懸勲 無礼」 ともいえようが,他方では貴族風の物腰 の うちに秘め られた 「先駆者」の寂実感 なのである。
それに加 えて周作 人はつねにこう疑 っている。
わた しは人間 どうしの相互理解 とい うものは 至難だ とお もっている。 まるっ きり不可能では ない として も, 自分のほん とうの感情や思想 を
6 山 田 史 生 ・鄭 文 茜
表現す ることだって, また同 じくらい困難だ と お もう。 ひとに語 りかけ, ものを書 き, ひとの 話 を聴 き, ひとの文章 を読んで,おたがい理解 した ような気になってみて も,それは気安めの ために勝手 にこしらえた都合の よい夢 であるに す ぎない。その くせ夢か ら覚めて も,それ を夢 だ とみ とめたが らない。夢 だ とわかっていて も, す こしで も長 く夢のなかに とどま りつづ けたい のだ。47)
普段 の会話で も, 自分の しゃべ っていること が空虚だ と, しょっち ゅう感ず る。 つ ま り気持 ちと言葉 とが ピッタリ合 っていないのだ。そ う い うときはす ぐにわかる。 なんだか吐 き気が し て,それか ら寂 しくなる。 まるで口のなかに石 鹸 をつ っこまれたみたいに。48)
こんなふ うに周作 人は,おのれの心のなかの孤 独感 と寂実感 とを,いつ までたって も払拭で きな いのである。
(六)
周作人はいかにも感に堪 えぬ とい う風情で こう 述懐 している。「わた しの書 くものは, よほ どノ ンシャランな閑話 と見 えるらしく,つねづねその ように誤解 されて きた。 たったひとにぎりの旧友 だけが,そ こに秘め られた苦味 をわかって くれて いる。 ちか ごろ 日本の友人が拙文について読 むほ どに苦 悶の感 をおぼえると評 していた とい うこと を廃名が書 いていて,わた しはその言葉にいた く 感 じ入 った ものだ」 と49)。
あ まね く知 られる とお り,周作人は絶 えず 「苦」
の文字 をもって世 間にあ らわれている。 す なわち
「苦雨斎」 と署名 し,また 『苦竹雑記
』
『苦 口甘 口』を書名 とし,その住 まいにちなんで 「苦雨斎」 と 呼ばれている。 ひたす ら 「控 え 目」 をモ ッ トー と す る周作 人 に とってそれ は異常 に属 す る こ とだ が,それだけに心 中の 「苦」 をお もうべ きだろう。
ただ し, こういった周作 人の表 白は,あんま り 過度に真剣 に受 け止めないほ うが よい。 もし周作 人の感情 に もっぱ ら 「苦」ばか りが見受 け られる とした ら,それはたぶん貧乏 しす ぎたせいだろう。
周作 人は 『詩経』 のなかの 『風雨』 三草言を引 いて 「この情緒が とて も好 きだ知)」といっている。
この ことは注 目に値す る。「風 雨 は凄凄 た り」か ら 「風雨 に して晦 し」までについて,周作人は 「自
然 とい うものは寂 しい くらいに退屈だった り,あ るいは病気 にな りそ うなほど憂彰 だった りする51)」
といい,つづ く 「既 に君子 に見‑ り 云胡ぞ喜 ば ざ らん」の両句 につ いて,「わた しの知 り合 いに 故人はす くないのだが, なにぶん忙 しいひとばか りで, なかなか逢 うことがで きない。 しか し書物 のなかのおびただ しい故人たち とは,いつで も好 きな ときに話 し合 える」「ひ ととき書画 をひ もと いて一夕の歓 を尽 くせれば,それで よしとすべ き であるが, なにか書 き残す ことがで きた ら, さら に愉快 である‑ こうい うのが暇つぶ しに恰好だろ う52)」とのべ てい る。「風雨 に して晦 し」 で はあ るけれ ども 「云胡ぞ喜 ばざらん」 とお もうことが で きる境地, これこそが 「苦 にあって楽 しむ」 こ とである。 まさに現世の苦難のなかにあって 自我 の解脱 をもとめるのである。 周作人の散文 におけ る 「閑話」の趣のほん とうの 「味」は, こうい う ところに存す るのである53)。
(七)
ほん とうの 「味」 とは,単純 に処方 された もの ではな く複雑 に調合 された ものである。 そ うい う 一筋縄 で ゆかぬ もの としてあつ か うとい うこ と は,周作人の ような大作家の内面世界 をうかが う 場合, どうして も放かせ ない。 ここまで論 じて き た周作 人の気質はまさにそ うであった。周作人は どこか ら見て も平和 的であって,お よそ情熱的で はない。 しか し周作人はつ ぎの ようにも吐露 して いる。
わた しの漸東人 としての気性 はついに拭 い去 られることはなか った‑ わた しの ように偏屈 な 人間が こうい う時代 に生 きていると,どうしたっ て静かで穏やかな文章なんて書 けっこない。54)
わた しの神経衰弱 ときた ら,す ぐ頭 に血がの ぼるのだが,ちか ごろます ます昂 じて きていて, ち ょっ とで も重大 な問題 にぶつかる と, ろ くに 考 え もしない うちにイライラして きて, まるで 熱 に浮か された ようになって しまう。 だか らそ うい うふ うにな らない ようにいつ も気 をつけて いる。55)
わた しは興奮す ることのす くない人 間だが.
同時にまた冷静でいることもす くない。たぶん 神経衰弱のせいだろう。 ひ とたび刺激 にで くわ
周作 人の散文芸術
す と,たちまち心が千 々に乱れ, なんに も考 え られな くなる。 ものを書 くなんて, もちろん無 理である。56)
もともと周作人の人格お よび文章 はかな らず L も平和 的でない一面 をは らんでいる。 わかい ころ の 「軽薄で乱暴 な感 じ」の文章 はその証拠である。
晩年の文章になるともっぱ ら閑適の風情 を標梼す るようになるが,そ うす ることの潜在 的な要因は じつは内心の深い ところで平静でない とい うこと にある。
かれの心 は 「無例ではあって も余裕 はない」が ゆえに,ときとして 「辛錬 きわまりな く,斬れば血 のでるような痛み57)」をともなった 「神来の筆58)」
をふるうことがある。周作 人 も自分でみ とめてい るように,それは 「やや もすれば過激 な思想 をも てあそび,あたか も叢のなかに蛇 をさがす ように, わ ざ と道学者流 に くってかか るのが好 きだった」
か らである。 ただ し 「ほん とうに火傷す るまえに やめる59)」とい う 「遊 びの精神60)」だけは失 うこ
とがなかった。 ときお り筆がすべ って しまうだけ である。
この周作 人の 「か な らず Lも穏やかではない」
とい う一面 を見損 なった り,あるいは大袈裟 にと らえす ぎた りす る と, けっ して周作 人の真実の姿 をつか まえることはで きない。
(八)
周作人の散文 にあって特殊 な意味合 いをもつの が 「趣味」とい う情緒である。 周作人 にとっては, 人生であれ,文章であれ,どこか しら 「暇つぶ し」
でない ものはない。俗 にい うな ら 「お遊 び」であ る。 お遊 びなんだか ら,そ こはか とな く 「趣 味」
的である とい う雰囲気 は放かせ ない。
「わた しは趣 味 を重 んず る。 よい趣 味 とい うの は美であ り,かつ善である」「だれ しも暮 らす う えでの 自分の流儀 をもっている。 あるいは淡泊で 無造作 だった り,あるいはうん と神経質だった り, その性 向はひとそれぞれだろ うが,いづれにせ よ 当人な りの趣味があるだろ う61)」と周作人はいっ ている。
周作人のい う 「趣味」 とは, どうや ら人生 に対 す る態度ない しは審美的な興味,あるいは生 きる 価値 についての探究のあ り方, ひいてはその人物 の風格,その書 くものの格調である。
小 品文の書 き方 について,周作 人は 「小 品文 を
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書 くさいには知識 と趣味 とい う双方か らの規制 を こうむる62)」とい うことを強調す る。 まさに 「趣 味」 こそは,いわゆる小 品文 (随筆) をものす る さいの 「必須」かつ 「基本63)」の要件 なのである。
周作人は 「趣味」の豊か さを追求す る。 かれは
「趣味 には,優雅 ・古拙 ・素朴 ・渋味 ・重厚 ・晴朗 ・ 通達 ・中庸 ・選択 とい った豊 か な含 意が あ る64)」
とい う。 こういった さまざまの趣味 を追求 しなが らも,そ こにはひ とつの核がある。 それは優雅 と 譜諺 との調和 とい うことである。
周作人は 日本の俳語の三つの境地 について,そ れは 「第一 に高遠清雅の境地,第二 に語諦視刺の 境地,第三 にその中間にある含蓄 と滑稽 の境地で ある65)」 と論 じている。 かれ 自身は明 らかに 「優 雅」 と 「滑稽」 とが揮然一体 となった第三の境地
に惹かれている。
「優雅」について,かれは独 自の解釈 をしている。
優雅 とは 「ひたす ら自然で,す こぶ る鷹揚 な物腰 であ り,こせ こせ気 をまわ さず に自由に しゃべ り, いか に も大物然 としていること66)」である。 ここ にい う 「自然」 とか 「鷹揚」 とかは, じつ は 「適 度」 をわ きまえている とい うことである。
周作人に とっての 「優雅」とは,具体的には 「明 朗 な感情 と清潔 な理知 との調和67)」であ り,それ は 「中和 の美」や 「楽 しみて淫せず,哀 しみて傷 らず」r互とい った中国文化 の伝統 を体現 した もの である。 つ ま り周作 人のい う 「優雅」 とは,あ く まで も士大夫や文人の趣味 とい うニュア ンスが濃 厚 に刻印 された ものなのである。
周作 人の ひ ととな りにお ける貴族風 の趣 味 に は,かな りのひとが勘づいていた。だが,かれの べつの一面 については, ほ とん ど看過 ごされて き た。 とりあえず周作人 自身の言い分 をのぞいてみ よう。
王院亭 は 『夢梁録』 をこう論評 している。 そ の文章 は雅致 にとほ しい, と。 じつ は珍重すべ きところがむ しろその雅致 な らざる ところに存 す る とい うことを,かれは知 らない ようである。
だいたい庶民の暮 らしぶ りは, もとよ り士大夫 や文人のあ りがたが るような風雅 な ものである はず もないか ら,かれ らのお気 に召 さない こと は怪 しむに足 りない。 ところが,あ りの ままを 如実 に描 くことによって,かえってそ こにべつ の情緒が生ず ることもあるわけで,それは今度 はかれ らには無縁 の ものなのである。68)
8 山 田 史 生 ・鄭 文 西
こういった平民趣味ない し民間趣味はいわゆる
「雅致」 とは似而非 なる 「俗趣」 だが, これ もま た周作 人の一側面 なのである。 周作 人はこう語 っ ている。 自分はかつて 「場末の盛 り場」 に住 んで いた, と。「わた しは筋金入 りの 「随巷 の子」 と はい えないが, それで も市井 の人間ではあ る69)」
と。 もっとも 「盛 り場の連中 とつ るんで狼籍 をは た らきた くは ないか ら70)」そ の盛 り場 の なか に ちゃっか り自分の 「居場所」 をこしらえておいた が。
周作人は紳士貴族 と平民流鴫 との間を往 った り 来た りしている。 周作人は文人文化 と民 間文化 と い うふたつの伝統 の影響 のなか を筋子皇している。
かれが必然的に 「雅趣」 と 「俗趣」 とを一身に背 負 わねばな らない所以である。
「俗趣」のなかで も,かれは 「語趣」す なわち 「滑 稽趣味」 を重 んず る。 これは周作人に きわめて特 徴的なことである。 周作 人の看 るところ,中国の 民間伝統 における 「滑稽趣味」は 「す こぶ る辛殊 ではあるが,その くせ蜜の ような甘 さもそなえて いる71)」。それは 「作者の性情お よび気性 をして と ことん自由奔放かつ天真欄漫た らしめている72)」。
こういった俗趣 には一顧 をもくれぬむ きもある が,審美的に もそれな りの効用 はあるだろう。 周 作人は 「滑稽趣味」の横溢 した 「打抽詩」につい てこう論 じている。
理屈か らい うと,それは文壇か ら歯牙 にもか け られぬ ものだろうが‑ わた しは最重要の もの だ とお もっている。す くな くともそれを読めば, なにか しら心 に残 る ものがある。 べつ に涙 を流 した り,叫びだ した くなる ものではないが,な ん とな く物思いにふけった りす るだろう。 机の うえに跳 び乗 ってみた り,喉の噴れるまで叫ん だ りす るのは,た しかに痛快 だろうが,そんな のは自己満足 にす ぎない。す ご く暑 くてグッタ リ してい る ときに背 中 を操 み ほ ぐしてみ た っ て,せいぜい愚 に もつかない ものが操 みだ され るだけの ことだが,いづれにせ よ気分が よ くな れば御 の字である。 いったい気分がふ さいでい る ときには,い よい よ落 ち込みがちである。 そ んな ときに悲惨 なことを滑稽 に描いた ものを読 もうものな ら,どん どん気分が滅入 って くる し, ます ます落ち込んで しまう。 もし文章の力 とい うのが,そ うい うふ うに煽動す ることにあるな らば,そ ういった落ち込 ませ るのだって力では
あるだろう。73)
一般庶民 とい うものは,お どけて笑わせ る 「滑 稽趣味」のなかに も, どことな く重苦 しかった り 意味あ りげだった りとい う内在 的なエ ネルギーを 匂 わせ るすべ を知 っている。 周作 人 (お よびその 同時代人たち)は, こういった民間芸術 の機微 に じつ に深い理解 をもっている。 そ してそ ういった 滑稽趣味の美学 を追求す ることにおいて,一種独 特 の味わいをか もしだそ うとす るのである。
(九)
周作人は小品散文の文体 について細心の注意 を は らっている。 おのれの書 きものに特有の 「閑話 風」 にふ さわ しい文体 として,かれは小品散文 に お ける 「尺憤体 」3につ いて専 門的 に研 究 し,そ れを積極 的に導入 している。
周作人は 「だいたい書翰 は, これ までひとつの 文体 として顧み られることはな く,もっぱ ら 「書」
のほ うでのみ重 んぜ られて きた。だか ら書翰 を し たためるのは 「書」をものす るよ り,たいてい首 尾 よ くゆ く。なぜ な ら書翰 を したためる ときには, 書 きたい ように書 ける し,好 きなように自分 をあ
らわせ るか ら」 といい, また 「欧陽修お よび蘇輯 このかた尺憤専用のテキス トがつ くられ, ようや く文集 にも収め られるようにな り, ひ とつの文体 として認知 されるようになった。書翰 を したため るの と 「書」の筆 をとるの とはちが うが,それな りに書翰の書 き方 も変わって きた。その結果 とし て新式の古文がで きあが ったのである74)」といっ ている。
周作 人はおのれに課せ られたふたつの任務 を自 覚 している。ひとつ は書翰 とい うものを「文章」(す なわち散文)のなかに位置づけること。 もうひ と つ は書翰の 「書 きたい ように書 けて, 自分 をあ ら わせ る」 とい う特徴 をまもること。
周作人はこう論 じている。 書翰が 「文学のなか で固有の面 白味 をもつ もの」になったのは,それ が 「特別の相手 にあげるもの」であって 「不特定 多数の第三者 に読 ませ るために書かれた」詩や小 説や戯 曲の ような 「わざとらしさ75)」をまぬがれ てお り,それゆえ 「書 くものの個性 を素直にあ ら わす ことがで きる76)」か らである, と。
周作 人は 『尺債 について』 のなかで李卓悟 と鄭 板橋の書翰 を高 く評価 している。 李卓悟の書翰 は 尋常の とはちが って 「大長編の ように議論 を繰 り