平成 25 年度
学校生活における子どもへの指導に対する教師の判断と思考の研究
―目指す子ども像・学級に着目して―
三重大学大学院教育学研究科 教育科学専攻 学校教育領域 212M001 荒木 里美
平成
26年
2月
13日
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目次
はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
p.3 (1)問題の所在(2)研究対象と研究方法
第一章 教師の思考の研究における意思決定とは ・・・・・・・・・・・・・
p.13第一節 授業実践における教師の思考とは
第一項 授業実践の捉え方の変化 第二項 教育実践における教師の思考 第二節 授業実践における教師の意思決定とは 第一項 教師の意思決定の捉え方の変化 第二項 意思決定における「暗黙知」
第三節 教育場面における教師の意思決定とは 第一項 学校生活における教育場面
第二項 教育場面における教師の思考と信念
第二章
A小学校における事例研究 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
p.30第一節 林教諭の実践の概要
第一項 林教諭の捉える子ども像・学級と目標 第二項 林教諭の指導の概要
第二節
1学期の指導
第一項 子ども個人への指導 第二項 学級全体への指導 第三項 まとめ
第三節
2学期の指導
第一項 子ども個人への指導
第二項 学級全体への指導
第三項 まとめ
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第四節 まとめ
第一項 林教諭の指導実践における思考と信念 第二項 指導に対する教師の判断と思考
おわりに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
p.98 (1)本研究の到達点(2)本研究における課題 (3)謝辞
添付資料
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はじめに
(1) 問題の所在
教育の目的について,教育基本法 第一条において「教育は、人格の完成を目指し、平和 で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成 を期して行わなければならない」と規定している。この「人格の完成」を目指すために,
教育基本法 第二条 第一項において「幅広い知識と教養を身に付け,真理を求める態度を 養い,豊かな情操と道徳心を養うとともに,健やかな身体を養うこと」と示されている。 「幅 広い知識」は「知育」, 「真理を求める態度を養い,豊かな情操と道徳心」は「徳育」, 「健 やかな身体を養う」は「体育・食育」と表すことができる。要するに,教育活動において,
「人格の完成」を目指すために, 「知・徳・体」を育むことが求められている。そして, 「知・
徳・体のバランスのとれた力」を「生きる力」として,新学習指導要領では,子どもたち の「生きる力」をよりいっそう育むことを目指している。そして, 「知」を「確かな学力」 ,
「徳」を「豊かな人間性」 ,「体」を「健康・体力」とし,変化の激しいこれからの社会を 生きるために必要な力であると位置づけている。このように,新学習指導要領では, 「知・
徳・体」を「生きる力」と表し,子どもたちに「生きる力」を育むことの重要性を示して いる。しかし,子どもたちの「生きる力」は,授業時間内だけではなく,学校生活すべて において育むことのできる力である。
そして,現状において,教師に求められている力量は,授業における教授的な行為だけ ではない。 「生きる力」と呼ばれる,子どもたちの将来を見据えた力となるものを育むこと が求められている。そして,学校生活全体で取り組まれている生活指導や,生徒指導とい った部分にも,このような子どもたちの力を育む教師の力量が求められている。
では,学校でおこなわれている指導とは一体どのようなものを指しているのだろうか。
生徒指導は問題行動に対する処置的なものとしての印象が強い。文部科学省(2013)は「児童 生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」において,主な結果を以下のように 示している。
調査結果の主な特徴
※ 以下、数値については、平成
23年度調査結果に基づく。
1) 小・中・高等学校における、暴力行為の発生件数は約5
万
6千件と、前年度(約
6万
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件)より約
4千件減少し、児童生徒
1千人当たりの発生件数は
4.0件(前年度
4.0件) である。
2) 小・中・高・特別支援学校における、いじめの認知件数は約7
万件と、前年度(7 万
8千件)より約
7千件減少し、児童生徒
1千人当たりの認知件数は
5.0件(前年度
5.5件) である。
3) 小・中学校における、不登校児童生徒数は約11
万
7千人と、前年度(約
12万人)より
約
2千人減少し、不登校児童生徒の割合は
1.12%(前年度1.13%)である。6) 小・中・高等学校から報告のあった自殺した児童生徒数は200
人と、前年度(156 人)
より
44人(28.2%)増加している。
【小学校・中学校に関わる部分を抜粋】
このように,指導に対する調査においても, 「問題行動等生徒指導上の諸問題」として暴 力行為,いじめ,不登校,自殺が挙げられている。そして平成
23年度の特徴として,暴力 行為,いじめの認知件数,不登校児童生徒数は減少し,自殺した児童生徒数だけが増加し ていることがわかる。しかし,これらの諸問題には,該当しない子どもたちも存在する。
そのような子どもたちには,教師の指導は必要ないのだろうか。
また,児童生徒の自殺については,教師の指導に対する問題として, 「指導死」として取 り上げられている。 「指導死」は教育用語ではなく,きちんと定義が決まっていない。児童 生徒の自殺の中で,学校における児童生徒に対する教師の指導や,児童生徒と教師の関係 に,何らかに原因があるものを, 「指導死」と指していると考えられる。しかし, 「指導死」
と呼ばれている児童生徒の正確な自殺件数を誰も把握していない。 「指導死」の背景になる 指導について,大貫隆志(2013)は「有形の暴力を伴うものであれ、伴わないものであれ、指 導は教師と生徒の圧倒的な立場の差のなかで行われています」と述べ,教師は児童生徒に とって絶対的な権力者になる可能性を指摘している。 「指導死」の背景となるような極端な 事例が指導の中に含まれているのである。そして,教師の権力だけが行使されているよう な指導は子どもたちに良い結果をもたらしていない例として挙げることができる。では,
このような絶対的な権力関係の中で行われる指導は,教育的な指導であるとは言えるのだ ろうか。本来,求められている指導とはいったいどのようなものだろうか。
『生徒指導提要』において,文部科学省は生徒指導について,以下のように定義してい る。
生徒指導とは、一人一人の児童生徒の人格を尊重し、個性の伸長を図りながら、社会的資
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質や行動力を高めることを目指して行われる教育活動のことです。すなわち、生徒指導は、
すべての児童生徒のそれぞれの人格のよりよき発達を目指すとともに、学校生活がすべて の児童生徒にとって有意義で興味深く、充実したものになることを目指しています。生徒 指導は学校の教育目標を達成する上で重要な機能を果たすものであり、学習指導と並んで 学校教育において重要な意義を持つものと言えます。
【下線:筆者加筆】
生徒指導とは,教育活動であり,教育目標を達成するために,重要な機能を果たすもの である。 「社会的資質や行動力を高めることを目指して行われる」と書かれているように,
問題行動等に対する処置だけを指していないことがわかる。
また, 「学習指導と並んで」とあるように,学校でおこなわれる指導には,学習指導と生 徒指導の
2つから成り立っていることがわかる。そして, 「重要な意義を持つもの」と位置 付けられている。では,生徒指導の意義とはどのようなものでろうか。
『生徒指導の手引き(改訂版)』において,生徒指導の意義は以下のように述べられている。
1 生徒指導は、個人的かつ発達的な教育を基盤とするものである。
2 生徒指導は、一人一人の生徒の人格の価値を尊重し、個性の伸長を図りながら、同時に
社会的な資質や行動を高めようとするものである。
3 生徒指導は、生徒の現在の生活に即しながら、具体的、実践的な活動として進められる
べきである。
4 生徒指導は、すべての生徒を対象とするものである。
5 生徒指導は、統合的な活動である。
【下線:筆者加筆】
生徒指導の対象は「すべての生徒」であるため,ここでも,何か問題行動を起こした生 徒を対象としていないことがわかる。また,生徒指導の基盤は教育的な姿勢であるため,
対処ではないこともわかる。問題行動に対する生徒指導は,中学校・高等学校に存在する 生徒指導室と呼ばれる,個別に指導される部屋から連想されたものではないだろうか。実 際は,「人格の価値の尊重」「個性の伸長」「社会的な資質や行動」などが目指されている。
しかし,これらはあまりにも漠然とした内容である。では, 「具体的,実践的な活動」とし てどのような場面が挙げられるのだろうか。
高橋哲夫(2009)は生徒指導を,生徒の直面する問題の視点から,次のように分類している。
①学業(修学)指導,②個人的適応指導,③社会性・公民性指導,④道徳性指導,⑤進路指導,
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⑥健康・安全指導,⑦余暇指導の
7つである。これらの領域・内容は日常的に子どもたち に起きている問題である。そして,これらは授業や特別活動として授業に組み込まれてい ることも多い。例えば,道徳の時間,総合的な学習の時間,または外部講師による安全指 導・食育などが挙げられる。しかし,このように学校単位でカリキュラムとして構成され ているものだけでないのが指導である。担任教師が日常生活の中でおこなう,より「生徒 の現在の生活に即したもの」と言える指導が存在すると考える。要するに,学校全体で共 通認識を持ち,一体となって指導するような,用意のある指導だけではないという側面を 持っているのである。
そして,担任教師がおこなう指導は,指導方法や,対応の仕方については,教師それぞ れにほぼ一任される場面もある。そして,そのような場面においては,指導するか,指導 しないかという判断も教師にゆだねられている。偶発的に起こる,いわゆる事件や問題と 呼ばれるようなことが子どもたちの間,子どもの内側から出てくることは,日常茶飯事で ある。しかし,事件や問題が,絶対に起こるものであるという断定はできない。これらの 事件や問題とは,教育問題として大きく取り上げられているようないじめや,不登校だけ を指すのではない。俗にいう,もめごとやいざこざなど,一見すると些細なことも含める。
このような些細な出来事は,大人の中においても多く起っているように,子どもたちの中 でも頻繁に起こっているだろう。また,他者とのかかわりの中だけでなく,個人の困難さ から起きる問題もあるだろう。このように,学校内での生活で偶発的に起きると思われる,
子どもたちから発生する事象に対しても,教師は指導しなければならない立場にある。
このような偶発的に起こる事象について,現場の教師は「その場で指導すること」が求 められる。 「その場で指導すること」とは,その場限りの対処方法や,場を収めるための指 導だけを指すのではない。子どもたちに対して,何らかの影響を与えているものとして考え る。事象が発生した場において,子どもたちと対峙している教師が,何らかの意図を持っ ておこなう対処や指導を指す。本来,学校での教育活動は教師一人で抱え込まず,学年団 などの他の教師に相談することや,教師同士の共通認識が必要な場面がある。しかし,そ の場を離れ,時間を空けることのできる事象ばかりではなく,また,子どもたちを待たせ ることのできる状況だけでないだろう。それだけでなく,何かが起こった瞬間でなければ,
指導の意味を持たない場合もある。
しかし,このような偶発的に起こる事象は「その場で指導すること」で終わらない場合
がある。少数の子どもたちの間で起こった事象をクラス全体に還すという指導方法をとる
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こともある。また,クラスの全員の中で起こった事象において,個人的に取り出し指導と いう指導方法をとる場合もある。そして,偶発的に見える事象に対し,教師は予知してい る場合も考えられる。したがって,対処のための指導ではなく,先手を打つような指導も あるのではないだろうか。このように取り上げた指導方法以外にも,教師はさまざまな指 導を行い,子どもたちの「生の問題」である事象に向き合っているのではないだろうか。
そのような中で,教師はどのように子どもたちと向き合い,どのような指導方法を選択し ているのだろうか。
本研究における「指導」とは,生徒指導の意義を基本とし,担任教師が子どもたちの日 常に即して,また,『生徒指導の手引き(改訂版)』において生徒指導の意義に示されている
「統合的な活動」としておこなっているという前提で,学習指導に分類される教科学習等 の教授行為以外のものを指すこととする。
では,生徒指導における「統合的」とは,どのような意味として捉えることができるの だろうか。世界大百科事典 第
2版において「統合」とは以下のように記されている。
広い意味では,複数の諸要素が一定の方式に従って相互に結合し,秩序とまとまりをもっ た全体を形成する作用を指す。こうした統合の作用がとくに重要な意味をもつのは,政治 の世界である。そこで狭い意味では,利害や見解の対立を調整して,社会の秩序を維持す る作用が統合と呼ばれる。
【下線:筆者加筆】
生徒指導と一言で言っても,その中には多種多様な指導が含まれているだろう。しかし,
その多種多様な指導は決して孤立しているものではない。学校目標を達成するという一定 の方向性が定められており,多様な指導が相互に作用され,教育目標へと向かうものであ る。そのような意味で「統合的」な活動と記されていると言える。
また,日常的におこなわれている指導において, 「秩序を維持する作用」を持つものとし
て,学級におけるルールや学級目標が挙げられるのではないだろうか。岸野麻衣・無藤隆
(2009)は,学級目標の標語を道具として着目し,子どもたちに理解されるための教師の働きかけの過程を分析した。その中で,標語が教師-子ども間の権力関係に代わる,普遍的な
倫理的規範として機能していることがわかった。それは,学級で共に考え,教師の価値観
を浸透させていく中で,子どもたちが理解し,自由に使用することを受け入れていったと
考えられる。この事例から,学級の秩序を維持するために教師は学級目標を基に,授業内
外に関わらず指導をおこなっていることがわかる。しかし,ここで学級に浸透させていっ
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た「教師の価値観」について教師へのインタビュー等は扱っておらず,子どもたちに伝え た範囲での分析で留まっている。ここを明らかにすることで,指導の根底にある価値観な ど,教師の指導における信念を明らかにすることができると考える。
では,このような学校生活の中で起こるさまざまな事象に対して,教師はどのように指 導を判断しているのだろうか。そして,教師の指導には,どのような意図があるだろうか。
Schön(1983)は,専門家の専門性とは活動過程における知と省察それ自体にあるとすると
示し,このような専門家を「反省的実践家(reflective practitioner)」とした。このような「反 省的実践家」としての専門家像を,教師の専門家像とし,多くの研究が進められてきた。
教師にとっての専門的な活動と呼ばれるのは授業であり,中心に進められている専門性の 研究は授業研究である。しかし,小学校のように学校生活のほとんどを共に過ごしている 教師たちは偶発的に起こる事象に対しても,教師としての専門性を発揮していると考える。
では,指導に関する場面において,教師はどのような専門性があり,どのような信念を 持って指導をおこなっているのだろうか。また,継続的な指導においては,ある程度の見 通しを持っていると考えられる。しかし,子どもたちは教師の計画通りには生活しておら ず,予想もできないような事象をも,持ちこんでくる可能性を持っている。このような状 況で,教師はどのように指導を判断し,どのような思いを巡らせているのだろうか。
教師の思考に関する研究は,教師の専門性は授業実践にあるとした授業内における研究
が多く,授業外の教師の思考について明らかにしている研究は少ない。また,指導に関す
る研究は,問題行動等に含まれる指導への指導方法や,指導の効果についての研究が多く
進められている。学校生活という枠で教師の指導を見る研究は少なく,また教師の信念と
の関連を明らかにしている研究はない。指導場面における教師の思考の研究が少ない理由
として,場面の捉えにくさと,教師の信念を捉える方法が確立していないことが挙げられ
るのではないだろうか。日々の指導は,子どもたちから起こる出来事によって指導場面が
生起され,指導場面によっては指導の有無も左右されるため,偶然性を持っている。その
ため,指導について捉えるには,継続的な観察をおこなう中で,指導場面との出会いを待
つ必要があると考える。そして,教師の信念を明らかにするために,教師のさまざまな考
えや思いを捉える必要がある。それは,インタビューとして教師から語られるものが全て
とは限らない。インタビューをおこなうとともに,教師と子どもたちが置かれている状況
に埋め込まれることで,教師から語られない部分を捉える必要性があると考える。したが
って,指導場面の教師の思考を明らかにするには,継続的な関わりをおこなう必要性と,
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指導との出会いの偶然性を乗りこえなければならない。研究の困難さがあるため,教師の 指導場面における思考の研究が少ないと考える。
本研究では,子どもたちと学校生活を共に過ごす時間の多い,担任教師が子どもたちに おこなう指導についての,判断の内容とその過程を明らかにすると共に,思考と教師の信 念の関係を明らかにすることを目的とする。子どもたちのさまざまな力を育むことが求め られている教師は,一年間という枠の中で何を目指し,どのような思いや願いを持って,
子どもたちに対峙しているのだろうか。授業に断定しない場面における教師の思考と判断 の内容と,その過程を明らかにすることで,指導における教師の思考を教師の専門性とし て捉えることを示唆できると考える。また、思考における信念の関係を明らかにすること で、教師の思考研究の発展につながると考える。
(2) 研究対象と研究方法
<研究対象>
本研究の対象は,三重県にある公立小学校の
A小学校の担任教諭である林教諭と,林教 諭の担任する
6年
A組の学級である。
林教諭は,今年で教員歴
19年目になる,
40代後半の男性の教諭である。また,
A市の教 育委員会に
5年間勤めた経歴があり,教育現場を中から見るだけでなく,外側から教育現 場を捉えるような経験もされている。このように教師としての経歴とともに,教育に関わ る経歴のある林教諭を対象とした。教員歴と教師の熟達には関係があり,教師の反省的思 考にも関係があることが,水野正明(2006)の研究から明らかになっている。水野(2006)は,
国語の授業において教師にリフレクションを行ってもらい,そこから教師の瞬時の判断と
内省的思考を明らかにしている。その中で,教員歴
22年の教師と,3 年の教師の事例を取
り上げている。新任教師も瞬時の判断において内省的思考が読み取れているが,教員歴
22年の教師は「生徒の発言や行動、態度や表情から、生徒の思考や感情のあり方を把握しつ
つ、瞬時の判断により多くの意思決定を行って授業を展開している」と述べている。よっ
て,子どもの事象に対して指導する教師が,子どもを軸においた深い省察をしていると考
えられる,中堅期以降の教師を対象とすることが望ましいと考える。したがって,19 年の
教員歴を持つ,中堅期以降の教師にあたる林教諭に研究を依頼した。
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また,A 小学校は
2年前に統合合併をおこない,3 校の小学校が集まり,新たに
A小学 校としてスタートした。対象である
6年
A組は,男子
12名,女子
19名,計
31名の学級 である。子どもたちの中には,統合合併以前の
4年生の時に,林教諭が担任として関わっ ている子どもたちも半数近く存在する。したがって,林教諭の指導されたことのある子ど もたちと,初めて指導される子どもたちがいる。子どもたちの今までの学校教育の環境や,
林教諭と子どもたちとのかかわりには差がある。このような差を,林教諭は実践の中で活 かしている可能性がある。また,子どもたちの認識などについても差がある可能性がある。
さまざまな背景を持っている子どもたちと教師の関係を,林教諭の実践から観察すること ができると考える。
また,筆者は
A小学校にスクールアシスタント等としてかかわって
4年目になり,
6年
A組の子どもたちとは理科支援員として
2012年度はかかわりを持っていた。このように,子 どもたちとの関係もあるため,子どもたちは筆者が教室にいることに対して,特別に意識 することが少ない。したがって,子どもたちの学校生活についても,筆者の存在が大きな 影響になることは少ないと考え,普段の子どもたちの学校生活の様子が観察できると考え る。
<研究方法>
2013
年
4月から
12月までの
2学期間,主に週
1回,計
29日観察させていただいた。筆 者の都合により,4 月から
7月の
1学期は火曜日,9 月から
12月の
2学期は水曜日に観察 することをお願いした。そのため,火曜日に観察をおこなった
1学期は
6限授業,水曜日 に観察をおこなった
2学期は
5限授業であった。したがって,下校時刻に差があるが,観 察時間は
8時
30分から子どもたちが下校するまでとする。観察は,林教諭が
6年
A組の子 どもたちと共に過ごす場面を対象におこなった。したがって,授業内外は問わず,また,
他学年,他学級と合同の授業などにおいても,観察をおこなわせていただいた。
その中で,林教諭が
6年
A組の子どもたちに対して指導した内容をノートに書き,記録
した。筆者は,スクールサポーターとして子どもたちの授業の支援をおこなったり,休み
時間は共に過ごしたりしている。したがって,子どもたちへの影響を少なくするため,今
までの筆者のかかわりと同じようにかかわることとする。完全な傍観者としての立ち位置
ではなく,参与的な観察者としての立ち位置を選ぶこととした。そのため,筆者が子ども
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たちとかかわりを持っている時におこなわれた指導は,子どもたちから離れてからノート に書き留めた。そのノートによる記述記録をもとに,林教諭がおこなった指導の全てのリ ストと,エピソード記録を作成した。
リストは,林教諭が指導した言葉から,筆者が内容として見出しを付け,表にまとめた。
そのため,
1つの指導に対して,複数の内容が含まれている場合は,内容ごとに分けて記録 した。また,エピソード記録は,指導のリストから
1学期・2 学期それぞれの傾向のある指 導,共通している指導を中心に取り上げる。その中で,クラス全体で共有されている指導 の中で,林教諭の考え方が子どもたちに伝えられている場面を抽出した。子どもたちに伝 えている指導内容と,林教諭の思いを明らかにすることで,教師が指導をおこなうときの 意思決定に対する分析ができると考えたためである。
また,林教諭には
5月,7 月,12 月の計
3回のインタビューに協力していただいた。イ ンタビューは筆者が用意した項目をもとにおこない,IC レコーダーで録音した。インタビ ューを方法としたのは,指導の思いや,意図について語ってもらうことを目的とした。そ こには,指導には現われていない,根底にある林教諭の思いが語られていると考えたから である。
本研究における,教師,子ども,また,ゲストティーチャー等の名前は全て仮名である。
また,子どもたちのプライバシーを守るため,子どもの家庭環境に関わること,子どもの
障がい等の特性に関わることは,表現が変えてあるか,記録から削除した場合がある。こ
れは,本研究における教師の指導には,林教諭と子どもたちの信頼の中で成り立っている
指導があることを前提とし,繊細に扱う必要があると考えたためである。
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引用文献
・文部科学省「教育基本法」,2006,
http://www.mext.go.jp/b_menu/houan/kakutei/06121913/06121913/001.pdf
【2014/02/03 閲覧】
・文部科学省『小学校学習指導要領』2008
・文部科学省「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」2013,
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/24/09/__icsFiles/afieldfile/2012/09/11/1325751 _01.pdf 【2014/02/03
閲覧】
・大貫隆志『 「指導死」 追いつめられ、死を選んだ七人の子どもたち。 』高文研,2013,
p.187
・文部科学省『生徒指導の手引(改正版)』大蔵省印刷局,1981
・文部科学省『生徒指導提要』2010,p.1,
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/22/04/__icsFiles/afieldfile/2011/07/08/1294538 _02.pdf 【2014/02/03
閲覧】
・高橋哲夫,高橋哲夫・仙崎武・藤原正光・西光子(編)『生徒指導の研究
―生徒指導・教育相談・進路指導,学級・ホームルーム経営―』2009,教育出版,pp.16-18
・加藤周一(編)『世界大百科事典 第
2版』2006
・岸野麻衣・無藤隆「学級規範の導入と定着に向けた教師の働きかけ
―小学校3年生の教 室における学級目標の標語の使用過程の分析―」2009,教育心理学研究,第
57巻,第
4号,pp.407-418
・Donald A. Schön (原著),佐藤学・秋田喜代美(翻訳)『専門家の知恵 反省的実践家は行 為しながら考える』1983,ゆみる出版
・水野正朗「授業場面における教師の瞬時の判断と反省的思考」2006,名古屋大学大学院
教育発達科学研究科教育科学専攻『教育論叢』第
49号,pp.61-71
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第一章 教師の思考の研究における意思決定とは
第一節 授業実践における教師の思考とは
第一項 授業実践の捉え方の変化
教師の専門性を確立するため,さまざまな研究がなされてきた。そして「技術的実践」
から「反省的実践」へと実践の捉え方は転換してきた。では,この
2つの実践には,どの ような違いがあるのだろうか。
授業研究における「技術的実践」の立場では,授業に有効な科学的な原理や普遍的な技 術が存在することを前提としている。授業研究に対して,工学的・システム理論的なイメ ージを思っているのである。数量的な分析や仮説と検証という方法を用いて,授業を捉え ている。このように検証された技術は,対象化された形式知である。他者に伝えることが でき,また習得することのできるものが,技術と呼ばれたのである。佐藤学(1998)は「科学 的な原理と合理的な技術を適用して与えられた課題と効率的に達成する『技術的熟達者
(technical expert)』として教師の専門家像はイメージされ、日々の教師の仕事はこの規範によって意味づけられ正統化されてきた」と述べている。 「技術的実践」における教師は,
さまざまな原理や技術を持ち,授業に適応させることが求められている。そして,課題や 目標となっていることを効率的に達成することのできる「技術的熟達者」が教師の専門家 像としてイメージされてきた。そして,この技術を用いておこなわれている実践が,正統 な教師の仕事としてみなされてきた。理論的・普遍的な技術は,授業の目標,教科内容,
教材,教授行為,学習者などの要素から抽出されている。そして,それ自体が独自の意味 を持つものとして扱われ,研究されてきた。
しかし,理論的・普遍的な技術では捉えることのできないものが,授業実践には含まれ ている。授業実践は状況に埋め込まれ,同じ理論を使用しても,同様の結果が生まれない ものである。このように状況依存的な授業実践は,教師と子ども,または子ども同士など の関係によって変わるものである。そこで,従来の科学的な技術では説明できない専門性 について,Schön(1983)は「反省的実践家」という概念から専門家の専門性を捉えている。
クライアントが抱える複雑で複合的な問題に「状況との対話(conversation with situation)」
にもとづく「行為の中の省察(reflection in action)」として特徴づけられる実践的認識論
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(practical epistemology)によって対処し,クライアントとともにより本格的でより複合的
な問題に立ち向かう実践をおこなっている専門家を, 「反省的実践家」として提示している。
専門家の専門性とは,活動過程における知と省察それ自体にあるとする考え方である。こ の考え方を教師に当てはめることで,「反省的実践」として授業実践を捉えるようになって きた。そして,佐藤(1998)は「今日の教師は、スペシャリストとしての狭さから脱却して、
幅広い教養にもとづいて子ども一人ひとりが抱える複合的な問題に対処し、具体的な状況 に身をおいて複雑な課題と対峙しながら、質の高い学びを触発し組織する活動を要請され ている」と述べている。理論や技術を持っている「スペシャリスト」としての教師だけで なく,さまざまな教養を持っている教師を専門家として捉えている。そして,授業という 状況の中に埋め込まれながら,教育内容や子どもの課題と向き合い,質の高い学びを子ど もたちに与えることが求められていることを示唆している。このように,教師の専門家像 が変化し,科学的技術ではない部分に焦点が当てられるようになってきた。教師にとって の専門的な活動と呼ばれるのは授業であり,このような専門家像をもとに現在の教師の授 業研究は進められている。実践に対するさまざまな技術を専門性として捉えるのではなく,
授業という状況において行われている活動への知識や考え自体を専門性として捉える研究 へと転換していった。
この
2つの授業分析について,稲垣忠彦・佐藤学(1996)は目的・対象・基礎・特徴・結果・
表現における違いを示している(表
1)。技術的実践 反省的実践
目的 プログラムの開発と評価 文脈を越えた普遍的な認識
教育的経験の実証的認識の形式 文脈に繊細な個別的な認識 対象 多数の授業のサンプル 特定の一つの授業
基礎 教授学・心理学・行動科学 実証主義の哲学
人文社会科学と実践的認識論 ポスト実証主義の哲学
方法 数量的研究・一般化 標本抽出法・法則定立学
質的研究・特異的 事例研究法・個性記述学 特徴 効果の原因と結果(因果)の解明 経験の意味と関係(因縁)の解明 結果 授業の技術と教材の開発 教師の反省的思考と実践的見識 表現 命題(パラダイム)的認識 物語(ナラティヴ)的認識
表1 技術的実践と反省的実践の違い
稲垣忠彦・佐藤学(1996)をもとに筆者作成
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この表からわかるように, 「技術的実践」とは,状況とは切り離された一般化の枠組みで 捉えられる事象を指し, 「反省的実践」とは,状況に埋め込まれた特異性を持っていると捉 えられる事象を指している。そのため,多数の授業を見て,一般化する必要のある「技術 的実践」に対して,特定の
1つの授業を見て,その特異性を浮き彫りにする「反省的実践」
は対象も違う。特徴も, 「技術的実践」は効果の原因と結果として目に見えるものであるが,
「反省的実践」では,経験の意味と関係という目に見ることのできないものである。この ように,それぞれ目的に合わせた実践の捉え方があり,性質が違うものとして捉えること ができる。 「技術的実践」は一般的な尺度を持って,外側から「見える」効果の結果から,
教師の専門性を捉えてきたことがわかる。しかし, 「反省的実践」は,実践の特異性を尊重 し,外側からは「見ることのできない」経験の意味と関係から,教師の専門性を捉えてき た。一般化から離れて授業研究をおこなう上で,教師という一人ひとりの存在に意味が見 出されたと言える。したがって,状況によって,技術には違いが見られる授業実践におい て,教師の思考には一貫性があると考える。
では, 「反省的実践」として授業を捉えるように変化してきた中で,教師の反省的思考と いう「見えない」教師の専門性はどのように捉えられるようになったのだろうか。
第二項 授業実践における教師の思考
「反省的実践」として授業を捉えるとは,教師個人の思考の現れる実践として授業を捉 えると言い換えることができるのではないだろうか。さまざまな教育内容や,教育方法な どに焦点が当てられているが,その内容や方法にも,選択した教師の思考が含まれている。
要するに,教師の思考によって,実践として成り立っているのである。前項で挙げた「見 えない」専門性は,教師の実践的思考である。
このような教師の実践的思考について,佐藤学・岩川直樹・秋田喜代美(1990)は,内容の
特殊性(content specific),認知の特殊性(cognition specific),文脈の特殊性(context specific)
の実相に即して研究する方法が求められるとしている。そこで,熟練と未熟練の教師にビ
デオ記録を視聴させ,その後の発話プロトコルを発話命題の単位に分割し,思考過程の比
較を行うカテゴリー分析をおこなった。その結果,熟練教師の実践的思考様式には①実践
過程における即興的思考,②不確定な状況への敏感で主体的な関与と問題表象への熟考的
な態度,③実践的問題の表象と解決における多元的な視点の総合,④実践場面に寄生する
-16-
問題事象相互の関連をその場に即して構成する文脈化された思考,⑤授業展開の固有性に 即して不断に問題表象を再構成する思考の
5つの特徴的な性格が明らかになったと主張し ている。未熟練の教師に見られなかった
,これら
5つの実践的思考様式が専門性と言える。
また,この結果から,①熟練した教師が状況に敏感に反応し,文脈化された思考を豊かに 展開していること,②教師の熟達は,人と人との相互作用の場面,絶えず変容をとげる複 雑な構造を含んだ文脈における活動過程での反省的思考(reflection in action)を基本として いること,③教師の熟達はその根底において,授業観や学習観として概括される信念に支 えられていることの
3点が示唆されている。今までの技術の合理的な適応を求める状況に 対する思考ではなく,状況との相互作用をもとに実践や技術に対して思考されている。そ の基本が, 「反省的思考」である。教師と子ども,子ども同士の相互作用だけでなく,複雑 な要素を含んでいる授業実践という文脈の中で思考している。そして,知識や技術だけに 留まらない教師の思考様式には,その根底に信念がある。しかし,この信念について,詳 しくは述べられていない。
また,佐藤学・秋田喜代美・岩川直樹・吉村敏行(1991)は,上記の研究の続篇として,よ り質的に教師の思考内容を研究している。この研究では熟練教師だけを対象とし,前篇と 同様にビデオ記録を視聴させる調査をおこなっている。そして,授業の展開に即して各熟 練教師の思考内容の特徴を記述することで,思考の具体的内容の様態を示すことを目的と している。また,前篇の調査との比較より,教科にかかわらず実践の思考様式が共通して 現れているかを検討している。この結果から,熟練教師の実践的思考には①身体や表情の 解読,②教師の作る実験実態への評価と子どもの興味や理解の質への関心,③教師主導へ の疑問,という共通する
3つの特徴を示している。しかし,実践に思考様式には,教師そ れぞれの個性的な特徴を提示することもできた。各教師の思考には,それらを深部で統括 する主題のようなものが存在し,それが教師の授業観や学習観としての信念を形作ってい ると示唆している。したがって,一見,共通しているように見える特徴も,教師の経験や 授業に対する信念の相違を反映しているため,多様な意味合いを思っている可能性を推察 している。前篇と同様に,教師の思考様式に信念が深くかかわっていることは示唆されて いる。そして,信念を研究していくことで,教師の多様な熟練を理解するために必要であ ると述べている。
では,教師の信念とはどのようなものとして捉えることができるのだろうか。藤岡信勝
(1989)は,教師の観が授業の構造に含まれていると述べている。授業をつくる際の構造を,-17-
教師の観念構造とし, 「教師はみずからの観念に導かれて」授業をつくると捉えている。要 するに,授業研究において,教師の観を分析することで,授業の構造を明らかにすること ができると示している。そして,観には,上記でも述べたような授業観や学習観,そのほ かにも教育観,子ども観などのさまざまな観が存在している。しかし,教師はさまざまな 観を個別のものとして考えていない可能性がある。したがって,藤岡(1989)は,「さまざま な信念が集まって,観を構成する」と述べ,観を信念の集合として捉えることを示唆して いる。信念を捉えるとは,観を捉えることにつながると考えられる。
藤岡(1989)は,教師の信念の対象について,3 つのレベルを持つとしている。1 つ目は,
教える内容の個々の項目についての信念である「 『教育内容』レベル」である。2 つ目は,
内容を教えるための方法についての信念である「『教材・教授方法』レベル」である。そし て,
3つ目は,子どもたちがどのように学ぶかという対象についての信念である「『学習者』
レベル」である。授業を構成する教師の思考によって,文脈に合わせた信念の対象が選ば
れている。したがって,教師の信念と思考は密接な関係であると言えることができる。そ
して,教師の信念をもとに,教師の思考は熟達へと向かっていくと捉えると,信念を捉え
ることで,教師の観を明らかにすることにつながるのではないだろうか。そして,教師の
観を明らかにすることで,教師の思考様式も個別性のある専門性として確立するのではな
いだろうか。
-18-
引用文献
一項
・佐藤学『教師像の再構築』1998,岩波書店「岩波講座 現代の教育」第
6巻,P.19
・Donald A. Schön (原著),佐藤学・秋田喜代美(翻訳)『専門家の知恵 反省的実践家は行 為しながら考える』1983,ゆみる出版
・佐藤学『教師像の再構築』1998,岩波書店「岩波講座 現代の教育」第
6巻,P.19
・稲垣忠彦・佐藤学『授業研究入門』1996,岩波書店,pp.118-123
二項
・佐藤学・岩川直樹・秋田喜代美「教師の実践的思考様式に関する研究(1)
―熟練教師と新任教師のモニタリングの比較を中心に―」1990『東京大学教育学部紀要』第
30巻,
pp.177-198
・佐藤学・秋田喜代美・岩川直樹・吉村敏之「教師の実践的思考様式に関する研究(2)
―思考過程の質的検討を中心に―」1991『東京大学教育学部紀要』第
31巻,pp.183-200
・藤岡信勝『授業づくりの発想』1989,日本書籍,pp.184-186
-19-
第二節 授業実践における教師の意思決定とは
第一項 教師の意思決定の捉え方の変化
教師は授業実践をおこなうに当たり,状況に合わせた判断をおこなっている。この判断 には,さまざまな思考をもとにした意思決定である。教師の思考が動いている意思決定の 場面から,教師の思考を明らかにすることができると考えられる。吉崎静夫(1988)は,教師 の意思決定のモデルを示している(図
1)。このモデルから,教師の授業実践における意思決定が,授業についての知識(教材内容,教授方法,生徒についての知識),教授ルーチン,モ ニタリング・スキーマというような知識やスキーマによって支えられていることがわかる。
教師が授業計画とのズレを認知し,ズレの原因によって,次の行動を選択していると示し ている。そして,ズレの原因をマネージメントに問題があると認知する場合と授業内容に 問題があると認知する場合の
2つから捉えている。マネージメントに問題がある場合,教 師は自分の持っている教授ルーチンから代替策を探索すると仮定している。また,授業内 容に問題がある場合,教師は教材内容と授業構造についての知識を探索すると仮定してい る。この教師の意思決定モデルにおいて,教師の授業計画と意思決定には相互作用的には たらき,密接な関係を示していることがわかる。
しかし,秋田喜代美(1992)は,教師の授業計画とのズレの認知ではなく,概略から授業の 状況との相互作用を通して次の行動を局所的に決定しているという視点からの検討の可能 性を述べている。秋田(1992)の指摘は,授業の捉え方に違いがある。吉崎(1988)は,事前の 授業計画をもとにした変更の過程として授業を捉えている。一方,秋田(1992)は概略にもと づきながら,生徒との相互作用によって構成される過程として授業を捉えている。第一節 でも述べたように,授業実践という営みにおける教師の思考は,理論で説明することので きない部分を含んでいる。それは,授業実践を構成するものが,それぞれの特異性を持っ ているからである。そのため,秋田(1992)は,授業に対する教師の専門性的知識が,理論的 な学問領域の知識と性質の違いがあると示唆している。そこには,自分の対峙している子 どもに合わせ,教材内容に即した文脈固有の知識を豊かに持つことが求められている。
そこで,水野正朗(2006)は,教師の思考の過程と,教師の実践的理論の具体的で豊かな内
容を,その授業の文脈の固有性のもとに捉えることを分析の視点とすることで,授業実践
内での教師の思考の過程を分析する研究の必要性を考えている。そこで,水野(2006)は,教
-20-
師に自分自身のおこなった授業に対する逐語記録をもとに授業を時系列に即して振り返り,
授業中に教師本人が思考したことをできる限り詳細に意識化し,言語化してもらい,その
図1 授業過程における教師の意思決定モデル (吉崎静夫,1988)
ズレはないか、
3
午容範( 0 0
内1.キュー(手凶り}
一生徒の注意 一生徒の反応、
『生徒の行動
『時11目 ーその他
2.授業計画と実態と のズレ
3.ズレとその際図の
4数段ルーチンから の代瞥策の呼ひ'出
し
5.満足できる代主主策 の選択
4教材内容と授業機 迭についての知識 からの代後策の呼 びだし
5満足できる代告書策 の選択
-21-
内省報告を記録する方法をとり,教師の授業中の思考について成果を
2点挙げている。
1
点目は,授業場面において,教師が子どもたちとの相互作用の場面において,反省的思 考(reflection in action)をおこなっており,瞬時に意思決定を下して授業を展開しているこ とを示している。教師の内省報告から,対象であった教師は,生徒の発言や行動,態度や 表情から,生徒の思考や感情のあり方を把握しつつ,授業を展開していることがわかる。
教師は,子どもたちとのさまざまな相互作用を駆使して,子どもたちを捉えている。この ことから,水野(2006)は教師がクラスの生徒の性格や生活状況などを把握し,それらを踏ま えて教師の判断や発言がなされていると指摘している。
そして
2点目は,教師が授業の事実にもとづいて授業を振り返り,それによって得られ た省察を語ることで,教師自身が自らの授業を深く研究することができることを示してい る。しかし,教師が反省的思考をできるかぎり意識化し,言語化しようと努めている中で も,内省報告のない場面がある。水野(2006)は,教師からの内省報告のない場面においても 教師は意思決定をし,瞬時の思考や判断が何度もおこなわれていたと捉えている。このよ うな内省報告のない活動過程は,教師にとってルーチン化されたものになっており,無意 識のうちに進行しているのである。教師にとって,よくある安定した状況下の中での日常 的な活動は「暗黙知」によって素早く,最小限の意識的制御によってこなしていると考え られる。したがって,水野(2006)は,教師にとって,次の授業展開へつながるような意思決 定が重要なのではなく,より重要な意思決定に重点的に意識を動かしていると解釈し,そ こに教師の熟達がある可能性を示唆している。ここから,教師の意思決定について,教師 は自分が重点的に意識を動かしている場面において,自分で認知していることがわかる。
しかし,日常的な活動こそ,文脈固有の意思決定がなされているのではないだろうか。
そして,水野(2006)が述べているように,教師の無意識的な活動こそ,熟達してきた教師の ルーチンのもとにおこなわれているとするなら,教師の「暗黙知」の意思決定に重要な意 味を持っていると考えられる。
では,教師の「暗黙知」を明らかにすることはできるのだろうか。
第二項 意思決定における「暗黙知」
マイケル・ポランニー(1967)は,私たち,人間の知を再考する中で, 「私たちは言葉にで
きるより多くのことを知ることができる」と述べている。要するに,私たちの認知してい
-22-
ることの多くは,言葉に置き換えられないのである。ポランニー(1967)は「私たちが言葉が 意味するものを伝えたいと思うとき、相手側の知的な努力によって埋めるしかないギャッ プが生じてしまうもの」であり,言葉で伝えることのできないものを残してしまうと述べ ている。要するに,メッセージを伝えるには,受け手側が,言葉に伝えきれていない部分 をどれだけ発見できるかにかかっているのである。では,どのようなものが,言葉で伝え きれないものなのだろうか。そして,伝えきれないものを理解するには,どのように発見 すればよいのだろうか。
ポランニー(1967)は,顔の認識を例に,「暗黙知」の存在を示している。それを学校現場 の例で置き換えてみる。教師は子どもたち一人ひとりを区別するだけでなく,子どもたち の顔の表情から,子どもたちの気分などを認知することができる。しかし,日常的におこ なっている活動でありながら,教師はどのように認知しているか伝えることができない可 能性がある。そこには,顔や表情についての明示的な理解をおこなっているのではなく,
言葉で伝えることのできない理解が存在している。これを,ポランニー(1967)は「暗黙知」
として説明している。したがって, 「暗黙知」は,人間の知識獲得全般にわたって存在する と言うことができる。そして,人間が知識を発見し,また発見した知識を真実であると認 めるのは,経験を能動的に形成(shaping)あるいは統合(integrating)することによって可能 であると述べ,能動的形成・統合こそが,知識の成立にとって不可欠な暗黙の力であると している。
また,ポランニー(1967)は,この「暗黙知」には,近位項(proximal term)と遠位項(distal
term)という2
つの項からできていると述べている。そして,近位項から遠位項に注目する
必要性を示唆している。近位項ではある要素に諸要素について明確に語ることができなく
ても,その集まりである全体を遠位項で包括的存在として感知することができるとしてい
る。教師の意思決定においても,ルーチン化されたものを一つずつ言葉にすることはでき
なくても,意志決定の全体的な様相を包括的に捉えることで, 「暗黙知」を理解できる可能
性を持っているのである。要するに,教師の日常的におこなっているさまざまな教育活動
における意思決定について,教師が言葉で語ることのできないものがある。しかし,その
語ることのできないことについての意味を,教師の教育活動全体への思考から捉えること
ができる可能性があるのである。そして,第一章 第二節で述べたように,教育活動全体の
思考に影響を与えているのは,教師の信念である。教師の信念について明らかにすること
で,より深く教師の思考を研究することができると考える。
-23-
引用文献
一項
・吉崎静夫「授業における教師の意思決定モデルの開発」
1988,『日本教育工学雑誌』
12(2),pp.51-59
・秋田喜代美「教師の知識と思考に関する研究動向」1992,『東京大学教育学部紀要』第
32巻,pp.221-232
・水野正朗「授業場面における教師の瞬時の判断と反省的思考」2006,名古屋大学大学院 教育発達科学研究科教育科学専攻『教育論叢』第
49号,pp.61-71
二項
・マイケル・ポランニー(原著)『THE TACIT DIMENSION』,高橋勇夫(翻訳)『暗黙知の
次元』2003,1967,ちくま芸術文庫,pp.18-36
-24-
第三節 教育場面における教師の意思決定とは
第一項 学校生活における教育場面
ヴァン・マーネン(1991)は,その構成員の間にある,ある主の「教育的関係(pedagogical
relation)」が成立しており,大人の側に,「子どものパーソナルな生成において常に正しいこと」を目指した「教育的行為(pedagogical action)」が求められているとき, 「教育的状況
(pedagogical situation)」となりうると述べている。このような状況は,子どもと接している教師や保護者にとっては,日常的に出会っている状況であると言えるだろう。 「子どもの パーソナルな生成において常に正しいこと」とは,子どもたちの「人格の完成」に対して,
善であるということを示すことであるとも言える。そして,ヴァン・マーネン(1991)は,日 常的に出会っている「教育的状況」の中に「教育的契機」が位置していると考えている。
この「教育的契機」とは,ある状況下において,大人側が教育的に正しい何らかの「教育 的行為」が期待されている「能動的な出会い(active encounter)」である。そこでは,何ら かの行為をしないことも,意味を持った行為となる。
村井尚子(2001)はヴァン・マーネンの示した「教育的契機」の特質について明らかにして
いる。第一に,教育的契機の即時性を特質として挙げている。教師と子どもは絶え間ない
相互性の中に生きているために,教師は子どもとの相互性を保ちながら行為することが求
められている。そのため,子どもに対峙している状況において,教師は自分が何をすべき
が熟考したり,傍観したり,オルタナティブな行為の可能性を反省している時間を持つこ
とができない。要するに,教育的契機においては,熟考することなく,即座の行為が要求
されており,教師は熟考する前にすでに行為をおこなっているのである。次に,教育的契
機における問題性の特質を挙げている。ここでの問題は,解決,正しい知識,効果的な手
続き,解決のための戦略,結果を得るための生産技術あるいは方法を求めるものとしてい
る。教師の授業実践はこれに類似している。しかし,教育的契機は,子どもが置かれてい
る何らかの状況に対する,何らかの対処を求められているため,技術的側面ではない実践
部分を指している。そして,これには解決し得る問題であるかもわからないし,教師側の
行為が最善であるかも実証できない。そのため,問題の結果を捉えるのではなく,問題の
意味を問うこと,教育的な意義に問いを持つことで,教育的契機の問題は構成されていく
としている。したがって,問題に対する,解釈と働きかけ,そして継続的な関わりが必要
-25-
であると考えられる。最後に,教育的契機は計画できない偶然性をも特質として捉えてい る。教師は計画を立てた授業においても,相互関係的な状況で,子どもたちにとってどの ような意味を持つかは偶然的で,状況特異的であると言える。
したがって,学校という場に置いて子どもたちと接する教師は,常に「人格の完成」を 目指した教育的なかかわりが求められている。そのため,教師と子どもたちには,教育的 関係が成り立っており,教師は子どもたちにとって教育的行為の求められる存在であるこ とがわかる。要するに,教師は学校生活において,常に子どもたちに対して教育的行為が 求められている,教育的状況の中で生きていると言うことができるのである。このような 教育的状況の中で,教師は,より教育的契機を敏感に捉えることが求められていると考え る。では,教師はどのように,教育的契機という教育場面を捉えているのだろうか。
第二項 教育場面における教師の思考と信念
学校生活における教育場面は,子どもたちが登校するために家を出てから,下校して家 に帰り着くまでの間に,現れていると考える。しかし,家庭での出来事までも教師がかか わっていることも多くあるのが現状である。したがって,子どもたちとのかかわりの中,
すべてにおいて教育場面は存在するだろう。授業実践として,限定できない場面の中で,
教師は子どもたちに教育的行為をおこなっていることになる。
稲垣忠彦・佐藤学(1996)は,教室にはいくつもの「出来事」が水面下では生起しているに もかかわらず,それらの「出来事」のほとんどは語られないまま見失われ, 「出来事」とし て表舞台に出現することはまれであると述べている。その要因についてはいろいろ考えら れるが,1 つには教師の「意図」や「計画」や「予想」として語られる「中心」に呪縛され ていて, 「周縁」で規制する事柄に無頓着であることを指摘している。しかし,「出来事」
は, 「中心」ではなく「周縁」において生起しているのである。 「周縁」で起こる「出来事」
は偶発的に起こるものであるが,起こるべくして起こるものである特徴を持っている。そ
のため, 「出来事」には,授業を改革する出発点と可能性が埋め込まれていると示唆してい
る。稲垣・佐藤(1996)の述べている「出来事」こそが,偶発的に起こる教育的契機であると
考える。授業の中心となっている教師の意図や計画,予想などの,教師の設定しているも
のではない部分にも教育的状況であり,そこにこそ,子どもたちへの教育的なかかわりは
求められているのではないだろうか。
-26-
また、津守真(1998)は「子どもとかかわる実践は、保育者が覚悟をきめ、心を通わせて子 どもたちと出会い、子どもの表現を読みそれに応答してゆくので、公式にあてはめるわけ にゆかず、指導書に頼るわけにもゆかない、すぐわきに経験のあるベテランの人がいても、
その場で判断するのは保育者である私よりほかにいない。実に主体的な行為である。逆に 言えば絶対的基準がなく、よりどころがない。実に頼りない、不確実なことである」と述 べている。教師が事前に立てた計画や意図という枠ではなく,実際にかかわっている子ど もたちとの相互作用が重要であり,そこには子どもたちと共に相互作用している教師自身 しか,教育者としての行為ができないと指摘している。したがって,子どもたちとの「出 来事」に対して出会いながら,それに応答する形で実践がおこなわれている。そのため,
出会っている当事者だけが,実践をおこなえるのである。また,この行為は主体的であり,
絶対的な基準がないことも指摘している。
では,このように不確実な性質を持つ教育実践の中で,どのように教師が教育的契機を 認識するのか,第二章 第一節でも取り上げた,吉崎の意思決定モデルをもとに,教育的状 況における教師の意思決定モデルを仮定してみる。すると,図
2のように示すことができ るのではないだろうか。本来,指導をおこなうには,授業計画ではなく,教育目標のよう な, 「人格の完成」を目指すための子どもたちの目標が,教師の指導行為の基準になるだろ う。この目標は,子どもたちについての知識をもとに定められているものである。そして,
この目標を達成するために,子どもたちに対して
1年間の計画が練られるだろう。しかし,
子どもたちは教師の計画通りに目標は達成していかないし,新たな出来事も起こる。そこ で,教師は出来事が起こったときに,指導行為が求められる。要するに,教育的状況に常 に身を置いている教師が,子どもたちとの相互作用の中で,教育的契機という指導状況を 認知する。
そして,指導についての様々な判断は,その状況に置かれている教師本人にゆだねられ
ていると考える。そのため,子ども・学級についての知識や指導についての諸知識をとも
に,指導の基準を自分自身に持っている。藤岡(1989)が授業構造を教師の観念構造としてい
るように,指導における構造も教師の観念構造が当てはまるとすると,教師の子ども観や
指導観等が,指導場面に影響を与えているのである。また,藤岡(1989)が述べる,教師の信
念の対象についての
3つのレベルを指導場面に当てはめて考える。
1つ目は指導する内容の
詳細についての信念である「指導内容」レベルと置き換える。
2つ目は,指導するための方
法についての信念である「指導方法」レベルと置き換える。
3つ目は,子どもが指導に対し
-27-
てどのように反応するかについての信念である「指導対象者」レベルと置き換える。
このように教師の信念によって,指導の内容,方法,対象が選ばれていると言うことが できる。しがたって,指導を構成する教師の思考には,教師の信念が根底にあると言うこ とができる。これらによって,指導を認知し,指導行動を決定している。その際の基準は,
教師の信念にあるのではないだろうか。
このように,教育的契機を認知する際にも,指導を実際におこなう際にも,教師の信念
図2 教師の指導における意思決定モデル (筆者仮説)