第 1 章 身体の比率の妙
全ての生物同様、人間の身体に於いても、各部分が一定の比率を有して構成されており、それ故 に一瞬のうちに、他の動物ではない、人間である4 4 4 4 4と、認識する事が出来るのである。例えば、親指 と小指が一直線になるように、手の平を一杯に広げると、親指の先端から、小指の先端までの長さ が、腕の手の平側の手首の皺から肘の皺までの長さになっており、更にこの長さは、顔の顎の先端 から額の髪の生え際までの長さにも相当しているのである。この様な身体の部分の比率は、体表の 部分のみならず、器機を用いる事なくしては観る事の出来ない体内の情報をも、もたらす事が出来 るのである。
声楽を志す者が、最初に抱く疑問の一つに、自分の声種は何か?
4 4 4 4 4 4 4 4 4
という事が挙げられるが、こ の疑問に対する情報も、身体の部分比率から探る事が出来る。この案件は、一番下の第 12 番肋骨 と骨盤との距離すなわち間隔から判断する事が出来る。この距離すなわち間隔が、声帯の長さに反 比例しているのである。観察方法としては、身体の側面、すなわち脇の下から肋骨を下方向に手繰 り、一番下の肋骨の下限から、垂直に下がった位置の骨盤の上限との距離すなわち間隔を測り、こ の間隔が長ければ、声帯の長さはそれに反比例して短く、この間隔が短ければ、同様に反比例して 長いという事になるのである。実際の指導では、安易に理解できるよう、肋骨と骨盤との間隔が長 い場合は、肋骨が短いから声帯も短いので
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
、高い声、肋骨と骨盤との間隔が短い場合は、肋骨が長
4 4 4 4
いから声帯も長いので4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
、低い声という表現を用いる事で誤認を避けるようにしている。この方法を 用いる事により、声楽の勉学初心者の勉学へのスムーズな導入をもたらす事が出来ている。
この方法で声帯のおおよその長さを知る事が出来るのであるが、高い音を出しづらい傾向がある 生徒は、内視鏡で声帯の厚さを確認させ、注意深く指導に当たり、声種の選定は慎重にすべきであ る。
更に留意すべき点として、身体の成長に伴う声帯の変化がある。人間の身体の成長は、男性・女 性でその速度に違いがあり、また個人差もあるので、それぞれの生徒・学生の成長過程と成長終止 期を、用心深く丁寧に観察する事が大切である。人間の身体の中で、最後に成長が止まる部分は、
鎖骨と言われており、女性では凡そ 27 歳前後、男性では凡そ 30 歳前後でその成長が終わるとの事
経験値から探る「歌う為の身体とメンテナンス」についての試案
加 茂 下 稔
である1)が、筆者の経験から申し上げると、15 年ほど前、すなわち西暦 2000 年前後に 18 歳を迎え た学生辺りから、男性・女性共に成長終止期が遅くなっているのではないか? と思われる節が 多々見受けられるのである。その原因として、日常生活の変化を挙げる事が出来るのではないかと 考えられる。すなわち、交通機関網の発達による歩行量の減少、遊技の室内化の増加等による幼児 期・児童期に於ける運動量の低下、また食事の変化・ダイエット等による栄養のバランス等の影響 も考えられるのである。食事の偏食が原因で、最近の学生、特に高校生や大学生の一部には、内臓 の発育が遅れている者が見受けられる2)との事も耳にする。
この様な状況の中で、身体自体が楽器である声楽4 4を指導するに当たって、成人すなわち成長終止 期を迎えた後の生徒に対する指導と、いまだ成長期にある学生に対する指導では、その方法に、今 まで以上の慎重さと、適切な配慮が必要とされていると考えるものである。その為にも、身体のバ4 4 4 4 ランスの妙
4 4 4 4 4
を更に有意義に用いる事により、きめの細かい指導法を模索して行きたいと考えるもの である。
第 2 章 脳が密かに察する身体のバランス
筆者は幼少時、強度の小児喘息に加え、強いアレルギー体質の為、医師から、20 歳まで生きら れないだろうと宣告されていたらしい。宣告された両親は、その事実を私に告げることなく懸命に 育てて下さった。後で聞いた話では、3 歳までに、存命を幾度か諦めた事があったらしい。年がら 年中よく風邪をひき、こじらせては喘息の発作を起こした。食も細く、アレルギー故食べられるも のも限られていたので、当然身体も小さく、特に体重が少なかった。高校卒業までは欠席が多く、
自分は病弱であると確信していた。声楽の勉強を真剣に始めた高校 3 年生の時には、発作が起きて も、頼りの病院や薬局が休みになってしまうという、喘息患者特有の深層心理から起きる、夕暮れ4 4 4 時と週末における不安4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
感43)から脱する事が出来ず、まさか自分が全日稼働型のオペラ歌手になる等 とは、全く考えられもしなかった
また、20 歳の頃から、時折、眩暈の症状
4 4 4 4 4
に苦しめられた経験がある。様々な医療機関で診察を 受けたにも拘わらず、原因がはっきりせずに対処療法でしのいでいたのであるが、35 歳のある日に、
雨に濡れたエントランスで足を滑らせ、かなり激しく転倒して後頭部を打ち、病院で頭部と足首の レントゲンを撮影したところ、幸いにも頸椎捻挫と右足首の捻挫で済んだのだが、この時右足首の 写真を診られた医師が、20 数年前に、緋骨を骨折していた痕跡を診つけて下さったのである。指 摘されて思い起こすと、確かに 10 歳の頃に、大変な捻挫をして、かなり長い間不自由をした事があっ た。その医師によると、しっかり診察・治療を施さなかった為、折れた部分が、身体の成長に伴う
1) 西武治療室。
2) かみ薬局。
3) 内村医院。
体重の増加の影響を受けて、普段の生活をする中で、0.7 ミリ程重なって癒着したとの事であった。
後日、眩暈症で他の診療所の診察を受ける際に、この事、すなわち右足が少し短い事、長い時間 立ち続けたり、歩き続けたりした後の疲労時に、右足に重心を掛けると眩暈がする事を申し上げる と、即座に眩暈の原因を明かされたのである。右足がほんの少し、すなわち 0.7 ミリ短い事を、脳 が普段から感知しており、それ故、おかしい4 4 4 4という信号を、脳が発していたとの事であった4)。そ れまで服用していた沢山の薬は全て服用を止めて良いと言われたが、それには当初かなりの抵抗が あった。気が付くまでは、普段通りに過ごしていたのに、服用し忘れた事を思い出した途端に、冷 や汗と不安感に襲われ、服用をした途端に症状が緩和するというような経験をしていたからである。
しかし、いくら即効性のある薬であっても、飲み込んだ途端に効果の出るものはあるのだろうか?
という疑問が生まれ、身体の歪みを矯正する治療を受け、ここ一番頑張る時には、左足に重心を掛 ける様に心がけたところ、心の負担になっていた眩暈の不安と恐怖から完全に解き放たれたのであ る。病気ではなかったのである!5)
これと時期を同じくして、人間の右足は方向を決める足であり、左足は重心を引き受ける軸足で
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ある4 4という事を知らされた6)。この事は、陸上競技に於けるトラック競技に於いて、全世界共通に 左回りが採用されている理由となっており、すなわちスピードを落とさずにカーヴを回るには、軸 足がカーヴの内側にある事に依って、倒れずに回り切る事が出来るのであるらしい。
偶然とは言え、左足を引く事により体調も良くなり、テノール特有のアクートの音域も使い易く なり、更に音色もより良い物を得られたと感じている。長い間抱え続けていた悩みを解消する事が 出来たのであるが、この事実を知らされた時に、もう一つ思い出された事があった。それは、筆者 がザルツブルクに留学していた時分に出会った、北欧出身の友人から聞いた話である。彼は代々医 者の家系の出であり、彼自身も医学部を出てから声楽の勉強に来ていた。彼によると、彼の周りで は、歌い手・俳優の初心者は、舞台上ではなるべく左足を後ろに引き、高音・強音・長音を奏でる 様に指導されるのだそうだ。その理由を問うと、それは心臓を守る体制であり、フェンシングに起 源があるとの事であった。現在では左利きのスタイルも珍しくないが、もともとは右手に剣を持っ て闘う競技? であったとの事である。剣を右手に持つ事により、身体の左を後ろに引いて、心臓 を剣で突かれない様にする、すなわち実戦で命の危険を少しでも避ける為の姿勢であったらしい。
この様に、左足を後ろに引いて身を守る体勢が、負荷の多い仕事に携わる姿勢の基本になっている との事であった。更に、心拍数が上がる事により、普段であれば出来る事も出来なくなる舞台とい4 4 4 4
う場所4 4 4では、身の危険を感じない体勢を取り、落ち着く事が大切であるというのが、彼の主張であっ
た7)。
4) 西武治療室。
5) 原崎 1987: 43。
6) 西武治療室。
7) 森山 1977: 137―138。
筆者が思うに、これは幾世代にも渡り、長く守り継がれてきた習慣の中で保たれ続けてきた安堵 感・安心感を得る為の方法論であり、それが遺伝子の中で受け継がれている結果の思考であり、そ れ故の実践ではないかと考えるものである。
前述のように、人間は疲労時における習慣的な姿勢の癖や、具合の悪い部分に血流を多くして回 復を早めようとする為に、無意識のうちに重心の移動をするが、その事で生じた左右の足の長さの 違いに気が付かずに、常に短い方の足に重心を掛けてしまう事で、不具合を誘発する事がある8)。 筆者が留学時に聞いた話や、自身の体験をした事等から、この様な無意識の行動に対しては、脳が、
身体に対する安心感や危機感を感知しており、内なる情報・信号を発しているのではないかと考え るに至ったものである。その情報・信号を正しく受け止め、適正な手入れを行う事が出来れば、日 ごろから健康を保ち9)、更には、舞台という非日常的な出力を必要とする場4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
においても、能力を発 揮出来るようになるのではないだろうかと考えるものである。
自らの指導経験から、無意識という観点で、もう一つ興味深い事柄を挙げると、無意識に両手を 合わせて指を組むと、親指が上になっている方の手が、胎児の時に母胎の中で、細かい作業をこな す利き手として創られた手であり、同様に、無意識に腕を組んだ時に上になっている方の腕が、力 のある腕として創られたものである10)。本来は、この二つが重なっている事により、右利き・左利 きが決まる訳であるが、筆者の指導経験から申し上げると、そうではない生徒が、相当数確認され ている。その内訳はやや複雑になっているので、簡単に整理すると、次の様になる。
1 右手親指・右腕共に上で右利き 2 右手親指・右腕共に上で左利き 3 左手親指・左腕共に上で左利き 4 左手親指・左腕共に上で右利き 5 右手親指・左腕が上で右利き 6 右手親指・左腕が上で左利き 7 左手親指・右腕が上で右利き 8 左手親指・右腕が上で左利き
以上の八通りになる。筆者は、1 を純正4 4の右利き 3 を純正4 4の左利き、2 と 4 を反転4 4、5・6・7・8 を 分離4 4、と呼んでいる。筆者の経験値から申し上げると、1・3・5・8 の場合はさほど問題点を見出 さないのであるが、2・4・6・7 の場合は、リズム感、音程感、テンポ、音色感等に多少の難解性 を持っている者が時折見出されるのである。これはおそらく本来の利き手を使わない事に対する、
脳からの密かな啓示・信号ではないのではないか、と考えるものである。この様な事例では、本来 の利き手を、日常生活で意識して使う様に指導すると、苦手意識が軽減し、更に音色と音楽表現に おいても、滑らかさを持つようになり、勉学意欲の向上にも繋がるような効果を挙げている11)。 以上の様な指導上の経験から、脳は身体を感知しており、正しい刺激を与えれば、正しく機能す るのではないか、と考えるものである。本論は、そのための方法を探り、実施する事により、人間
8) 西武治療室
9) 春山 1996: 226―227。
10) 西武治療室
11) 樺島 1991: 90―91、春山 1995: 225―228、春山 1996: 17―25。
が本来持ち合わせている自然治癒能力、つまり自己治癒能力を高め、演奏家・声楽家としての健康 体を構築・保持すると共に、そのメンテナンスの仕方を見出そうとするものである。
人間は皆、異なる身体、性格、環境・体験、経験のもとに生活しており、それ故にストレスを受 けると、人それぞれの形で身体に不都合な変化が生じ、不具合を誘発する。次章では、筆者がこれ まで体験してきた、歌う為の4 4 4 4様々な身体の調整法を、自らが試みて良かったもの、またそれをもと にして、生徒一人一人の身体の歪みやズレ・癖等の身体的特徴を丁寧に観察のもと、指導に用いて 効果のあったものを実践提案として挙げ、声楽を学ぶ全ての学生の為の自己管理の一指針・ヒント として、提示するものである。
第 3 章 実戦提案
1)Maschera(マスケラ:眉から上唇の上部までの領域)の共鳴の為に有効な方法
① 鼻腔のつまりや、鼻水が原因で響きづらい場合
ⅰ 風池12)の刺激
風池は、耳の後ろにある骨の出っ張り(乳様突起)と、後頭部の出っ張りの間の下にある窪み で、首の後ろ側の真ん中にあるへこみ(ぼんのくぼ)から指幅三本分耳寄りにある。左右の風 池を両手の親指で同時に頭の中心に向けて押す。風池は、風邪のツボともいわれ、感冒・鼻炎・
咽喉の痛み等にも良いらしく、経験上、花粉症の時期に重宝している。
ⅱ 神庭13)の刺激
神庭は、顔の中心線上で、額と髪の生え際から指幅一本上の部分にある。そこから更に指幅一 本分程上の部分までの間を、親指を中にして軽くこぶしを握り、親指の付け根の角で押したり、
軽めに十回程叩いたりする。鼻づまり・花粉症による鼻水の時などは、この部分が、ブヨブヨ していたり、鈍痛があったりするが、経験上こんな時には、人差し指、又は中指の指先の腹で 押しもみするのが良い様である。あまり長く刺激を続けると、気分が悪くなる事があるので、
気持ちの良い範囲内で行うのが良い。
ⅲ 印堂14)
印堂は、顔の中心線上で、両眉の間にある。人差し指の先で斜め上方向きにやや強めに押す。
経験上、鼻づまりには、かなり有効であると思われる。最初は鏡を見ながら正しい位置を確認 して行うと良い。
12) 青柳 1987: 42; 64; 158、林 1990: 133―134; 184、〔図 2〕。
13) 青柳 1987: 78、〔図 1〕。
14) 青柳 1987: 66; 77―79、林 1990: 134―135、〔図 3〕。
ⅳ 迎香15)の刺激
迎香は、両小鼻の一番張りだしているすぐ外側にある。人差し指、又は中指の先を立てるよう にして当て左右同時に、顔の中心部に向けて強めに押す。この刺激も経験上、鼻づまり・鼻水 にはかなり即効性を示すようである。
ⅴ 素髎16)の刺激
素髎は、鼻の頭の先端部分にある。人差し指又は、中指の先で少し強めに、しかし強過ぎず、
力の加減をしてゆっくり数回押す。鼻水・特に鼻づまり感に効果があると思われる。
ⅵ 水溝17)の刺激
水溝は、顔の中心線上で、鼻と上唇の間にある。人差し指又は中指の先で、強めに押す。鼻水 に効果がある。また、経験上、演奏前の緊張等の精神的な原因による、口の渇きにも効果があ ると思われる。
ⅶ 曲池18)の刺激
曲池は、肘を曲げた時に出来る皺の親指側端にある。腕を真っ直ぐに伸ばして反対の手の親指 で押しもみする。後に述べる、手の三里と合谷の刺激を兼ねる事により更なる効果を上げる。
経験では、のどの奥や鼻の中の腫れぼったい感じに有効であると思われる。
ⅷ 外関19)の刺激
外関は、手の甲側にあり、手首の関節をそらせた時に出来る皺の中央から、指三本分肘寄りに ある。親指を立て気味にして円を描くようにして押しもみをする。左右の腕にあるが、つまっ ている方の鼻側を刺激する。硬くなっていたり、ブヨブヨしていたりする時には、両方を刺激 すると良い。
ⅸ 合谷20)の刺激
合谷は、両手の甲側の親指と人差し指の骨の付け根の間の窪みで、人差し指の骨際を探った一 番奥にある。反対の手の親指の先で、円を描くようにして押しもみする。その際人差し指と中 指をもまれる方の手の平に添えて、親指と、人差し指中指とで、治療される手を挟むようにす ると、力が上手く入り、押しもみの効果が上がる。鼻づまり・鼻水だけでなく、経験上ではむ しろ、のどの痛みや、枯れ声にも有効であり、歌い手にとっては大変ありがたい効能を備えて いる。万能のツボと言われ、他にも多くの効果を示す部分である。
15) 青柳 1987: 65―67; 74; 78、林 1990: 184、〔図 3〕。
16) 青柳 1987: 66; 74、〔図 3〕。
17) 青柳 1987: 76; 158、〔図 3〕。
18) 青柳 1987: 213、府川・前田 1995: 94; 95、〔図 4〕。
19) 青柳 1987: 213、宮入医院、〔図 4〕。
20) 青柳 1987: 41―43; 64、府川・前田 1995: 158―159、林 1990: 184、〔図 6〕。
ⅹ 承山21)の刺激
承山は、両足のふくらはぎの真ん中にある筋肉の分かれ目の窪みにある。座って親指を立て気 味にして、円を描くように刺激する。この部分は、筆者の経験から、花粉症や季節の変わり目 における鼻水の症状に効果があると思われる。
肘から先、膝から先の冷え4 4が鼻のつまりや、のどの痛みを引き起こす事がある22)。特に就寝時に 起こり易いので、普段から注意しておく事が大切である。また、迎香・素髎・水溝に加えて合谷を、
普段から刺激していると、予防の効果を発揮する様である。これについては、筆者自らが欧州に留 学していた折、毎日行った事により、乾燥と低温の日々に於いて、風邪をひかず、歌い続けられた 事で経験している。
② 舌が原因で響きづらい場合23)
ⅰ 唾液腺付近の刺激
両手で下顎を下から包み込むようにして、親指で、耳の下辺りの下顎の骨の内側を、前後に指 三本分程の幅で、下から柔らかく押しもみする。舌根の脇すなわち両端のりきみ4 4 4を取ろうとす るものである。経験上、話し過ぎた時に現れる症状と考えられる。唾液腺付近の刺激を行う事 で、通常より濃度の高い唾液である精4唾424)が分泌されるが、強制的に分泌されたこの唾液を口 内で転がし、三回程に分けて飲み込む事で、口内・咽喉の消毒作用が期待出来る。インフルエ ンザの流行時に、うがい・手洗いと共に履行、乾燥の強い・埃っぽい稽古場などで行う事によ り、風邪等の予防効果を上げている。
ⅱ 下顎中心部を刺激
利き手の親指と人差し指で下顎の骨の前部の中心点を摘み、親指は下顎の骨の内側に立て、人 差し指は下唇の下側に横に這わせるように密着させ、下顎の骨の内側の中心線上を、親指で前 から柔らかく押しもみする。ⅰと同様、親指による柔らかな押しもみマッサージにより、舌根 中心部のりきみ4 4 4を取ろうとするものである。経験上、これも話し過ぎに原因があるようだが、
特に英語の(R)の様な発音をした後や、無理な大声を出しすぎた後に顕著にみられる症状で ある。
ⅲ 舌先を下に巻き込んでのハミング
舌先を下の前歯の裏側の付け根に触ったまま舌を出して、舌根が奥に引き込まれない様に軽く 咬んで、鼻空に向かって息を流すようにハミングを行う。舌根に力が入り、奥に引き込まれ、
盛り上がる事による息の流れの遮断を改善するものである。これは、この項のⅱを補佐するも
21) 青柳 1987: 216、小林鍼灸院、〔図 8〕。
22) かみ薬局、西武治療室。
23) 加藤 1989: 74、Caruso/Tetrazzini・川口 1995: 47―48、Mrafioti・魚住 1996: 61―62。
24) 宮入医院。
のである。
ⅳ 口の中で、舌を右向き、左向きストレッチ
複雑な味覚を感じ、咀嚼時には噛まれることなく、更に食事に際しては歯の間に挟まった物を 器用に穿り出す等、舌は本来大変器用な部分であるのに、歌う時に無駄な力が入ってしまう事 が多い。歌う為に必要な、力の抜けた椎の葉の様な形状の舌を手に入れるにはどうしたら良い か? 普段の話し方の癖や、言語発音上の特性等によって、りきみ
4 4 4
が入ると、特に歌う
4 4
という 場面に於いて、舌に余計な力が入り易くなり、本来の位置や形状を逸脱し、歌いづらくなる。
舌本来の柔軟性を回復・維持する事により、この様な弊害から解放される為のストレッチとし て、実践しているものである。口の中で、舌を右向きにひねり、舌の先を口から可能な限り前 に出す。上下の歯で軽く触る様にして挟んで固定させ、母音の(あ)で発声をする。この時、
むせたり、咽喉がかゆい等の症状を感じる事があるが、その場合には、筆者はプッシュと呼ん でいるが25)、臍から指幅五本分下辺りに、内側から外に向けて圧力をかける様に意識して実践 すると良い。同様のカリキュラムを、舌を左向きにひねりにして行う。この手入れ法は、この 項のⅰを補佐するものである。
③ 気管・気管支の不快感が原因の場合
ⅰ 天突26)の刺激
天突は、咽喉仏から下方へ手繰り、骨(胸骨)に当たったところの上側の窪みにある。人差し 指、又は中指の先の腹で奥下方に向けて押しもみする。気管や喉頭の粘膜を保護する粘液の分 泌を促し、粘膜を覆っている繊毛運動を活性化させ、炎症を抑え、痰の排出を促す。経験上、埃っ ぽい場所や、空気の汚れている場所に居たあと等に有効である。
④ 肺の不快感・咳が原因の場合
ⅰ 手の平側の親指付け根部分のマッサージ
反射区と呼ばれる部分で、反対の親指の先・指の腹を使って押しもみする。
喘息にも効果があるとの事である。経験上かなりの効果を期待出来る。
ⅱ 中府27)の刺激
中府は、鎖骨の両端の下、指幅二本分の部分にある。右の中府は左手で、左の中府は右手で、
それぞれの人差し指と中指を揃えて指先の腹の部分で、強過ぎず、円を描くように柔らかく押 しもみする。またここから指幅二本分上までの間を同様に刺激する事により、気管支炎の症状 を訴える者にも効果がある。経験上、咳の他、息苦しさを訴える者にも効果がある。
25) Sittoner・林 1968: 138―139。
26) 青柳 1987: 211、森山 1963: 42、森山 1963: 42、宮入医院、〔図 7〕。
27) 府川・前田 1995: 160―161、〔図 7〕。
⑤ 猫背の改善
前④のⅱ項を補佐するもので、病気ではなく、猫背になる事で胸郭が狭まり、横隔膜の有効な 動きを妨げ、充分な呼吸・特に吸気を得られない事を是正する。姿勢を正して立ち、気を付け の体勢から両腕を伸ばして前に上げる。両腕共に手の平を下に向け、肩の高さに保つ。肩の高 さを保ったまま両肘を外側に曲げ、左右同時に肘を後ろに勢いよく引く、その反動で手首から 先が、顔の前で上下に重なる様な位置まで戻し、またその反動で後ろに引く。これを十回程行 う。肘を後ろに引く時には、肩甲骨を寄せるようにする。顔の前では、左右の手を上下に交互 に交差させる。肘を後ろに引き切った時に息を吐き、吸いながら手を前に戻す。身体前面にあ る一番下の左右肋骨の曲がり角を上げて保ち、顎が出ない様にして十回程行う。
⑥ 声帯の違和感が原因の場合
Ⅰ 実、すなわち話し過ぎ等が原因で、声帯が充血していると思われる場合
ⅰ 手足の指の先の腹側のマッサージ
毛細血管の集まっている部分をマッサージすると、身体の他の部分の毛細血管内の血液循環を 良くする事が出来る。直接触れてマッサージ出来ない毛細血管の集まっている部分、例えば声 帯・脳・内臓等の血流をも活性化する事が出来るのである。特に、繊細な感覚や器用な動きを 司る部分には、毛細血管が集まっているらしい。故に、触る事により物の形状や状態を感知し、
ピアノを弾きパソコンを操る器用な手指と、触れる事により材質感を感じ、坂道や斜めになっ ている状態に於いてバランスを取り、微妙な重心を保つ補佐をし、訓練次第では手指の機能を なす事も出来る足指には、毛細血管が多く集まっており、その指先部分を押しもみ・マッサー ジする事で、声帯の鬱血を緩和し、歌う状態に回復させる事が期待出来ると思われる。大きな 声を出し続けた翌日には、かなりの効果がある。
ⅱ 合谷のマッサージ(脚注 20 参照)
鼻腔のつまり・鼻水の項でも取り上げたが、経験上この部分は、声帯の不調、すなわち声枯れ4 4 4 に、より一層の効果を発揮する部分である。話し過ぎ、はしゃぎ過ぎ、歌い過ぎ等、声を使い 過ぎた時には、往々にしてこの部分が腫れぼったく、固くなっている場合がある。これを強め に押しもみマッサージをする事によって、かなり劇的な効果を上げた場面に幾度か遭遇してい る。
Ⅱ 虚、すなわち、立ち通し・運動後・練習不足等が原因で、声帯の血の巡りが悪くなっていると 思われる場合28)
28) 高橋 1986: 32。
ⅰ 足首を回す29)
立っている間、足裏と足首には常に全体重がかかっている。それ故に起こる鬱血等により、固 まって動きづらくなっている状態を緩和し、正しい位置で体重を受け止められる状態に回復さ せる。床に座って、左足を前方に伸ばし、右ひざを曲げて右足首を左足の太ももに乗せる。右 手の親指で右内くるぶしの下を押さえるようにして右足首を掴み、左手で右足の指先を包み込 むように掴んで、足首がなるべく円を描くように、ゆったりと右回しを五回、左回しを五回行 う。次に足を変えて、同様に行う。留意点として、滑らかな円を描けない部分を念入りに行う 事により、この手入れの後、立ち上がった時に、重心の移動感を伴う立ち易さを得る事が出来 る。
ⅱ 下肢の内側の撫で上げ
内くるぶしの上から、膝までの場所には、沢山のツボが存在する。右手で、右足内くるぶしの すぐ上から、すねの骨を、親指の先を骨の際に押しつけるようにして掴み、押しもみしながら 撫で上げ、膝の下辺りで骨がせり出すところまで行ったら止め、改めて再び内くるぶしの上の 部分から行う。硬い部分やブヨブヨしている部分は念入りに押しもみする。硬くて痛みが強い 場合は、深呼吸の呼気に合わせて、ゆったり押しもみをする。筋肉は、息を吐く時にリラック スし柔らかくなるので、回復を助けるからである。三回程行って全体が柔らかくなったら、左 足も同様に行う。立ち通しの後や、運動後、病後の運動不足時等には、脚の鬱血が考えられる が、その様な場合の、声枯れや不快感を解消する為に、この方法は大変重宝している。必ず下 から上に撫で上げる。
ⅲ 下肢の外側の撫で下げ
前項ⅱと同様、脚の鬱血が疑われる場合に、ⅱとセットにして交互に行う事により、更なる効 果を期待出来るものである。膝の皿の中心点の下辺から指幅三本程下で、そこから指幅三本分 外側にある縦の筋の上端から、筋に沿って足首の上限までを親指の先で押しもみする様に撫で 下げる。手の平の親指の付け根の柔らかい部分を押しあてて撫で下げるのも良い。動脈の走っ ている下肢外側を撫で下げ、静脈の走っている下肢内側を撫で上げる事により、脚の血流・リ ンパの流れを良くして、声帯の血流を上げ、声帯の状態を良好に保とうとするものであり、か なりの効果を上げているものである。鬱血を解消し血流を回復しようとするものであるので、
心臓への負担を考慮し、心臓から遠い部位(右足)から行うのが良いとされる30)。
ⅳ 太腿外側(風市31))の刺激 風市は、直立して気を付けの姿勢4 4 4 4 4 4 4
で両手を真っ直ぐ下に伸ばした時に、中指の先が当たるとこ ろである。場所を確認したら椅子に座って、両手の親指を中に握ってこぶしを作り、両足同時
29) 税所 1988: 160―161。
30) 小林鍼灸院、西武治療室。
31) 青柳 1987: 93―95、府川・前田 1995; 76―77、〔図 9〕。
に、親指の付け根の角で強めに十回ほど叩く。脚全体の疲労を癒す効果がある。また、両足の 膝のお皿の下端の中心点から指幅三本分下でそこから外側に指幅三本分外側にある足の三里32)
と、そこから更に外側上方にある、出っ張った骨の下側にある陽陵泉33)を刺激した後に行うと かなりの効果を示す。実戦経験から、この項のⅰ・ⅱ・ⅲ・ⅳを一通り行うと、脚全体が軽く 感じられ、中には、脚がしまって? 細くなったような印象を示す者も少なからず見受けられ る。おそらくは血液・リンパの廻りが良くなる事で、浮腫みが取れるからではないかと思われ る。
人間は、身体の 60%が水分で構成されていると言われるが、二足歩行で生活をしている為、重 力の影響を受け、立ちっぱなしや運動時の後等の疲労時には、体内の血液やリンパ液が、下の方、
つまり脚に下がって停滞し、浮腫みとなる。この様な時、声帯に戻る血液量は少なくなり、声が出 にくくなるらしい。
自らの経験から申し上げると、大病や大怪我で入院している知人を見舞いに行くと、ほとんどの 方が、枯れ気味で、弱い声になっておられた。その理由として、人間すなわち人類は、その発生に 当たっては、水や食物を気管に誤飲しない為の器官として、声帯を備えていた訳であるが、後に声4 を出す4 4 4・話す為4 4 4の器官として、生物本来としての使い方を逸脱して利用するようになったが故に、
命の危険を伴うような病気や怪我を患った場合には、患部の回復の為に優先的に血液を使い、その 結果、本来の使用方法以上の機能である、声を発するという分野をカットするらしいのである。
この事を踏まえ、ここで考えたいのは、たとえ大病や大怪我をしていなくても、疲労や身体の歪 みや手入れ不足などにより、いわゆる肩こりの様な鬱血が身体のどこかに発症していたら、声を出 す為の声帯の整備に廻されるべき血液量は少なからずカットされる事になり、声帯は本来の音色を 発する事が出来なくなるという事である。
交通機関の発達や、エレヴェーター・エスカレーター・動く歩道等の驚異的な発達と共に、歩く・
走るという行為が激減した事による足腰の弱さ、その回復力の歪弱化故に、重力による血液・リン パ液等の下垂の起こる脚の手入れ4 4 4 4 4は、大変効果を上げている。
2)メンタル面の調整
① 手
緊張時に人差し指で盛んにノックをしている人、手を押しもんでいる人、両腕をだらりとたら して細かく振っている人等を見かけるが、人間は、ストレスを感じたり、精神的疲労に陥って いる場合、手に汗をかいたり、力が入ったりする。これを逆手にとって、手で触れる事の出来
32) 青柳 1987: 58; 94; 219、〔図 9〕。
33) 青柳 1987: 58; 94; 219、〔図 9〕。
ないメンタル面の不調を、その結果の症状が表れ、しかも安易に触れる事の出来る部分である 手の刺激をすることで、手入れ・調整しようと考えるものである。
ⅰ 指先のマッサージ34)
毛細血管が集まり、様々なツボが分布している事から、手指の先の腹と、爪の生え際を刺激す る事により、全身の血行の促進を期待出来る。本番を控えた楽屋で、緊張の為具合が悪くなっ た方に、この方法とゆったりとした深呼吸を勧めたところ、お具合が良くなり、無事に演奏し 終えたという経験がある。身体がポカポカして温まり、気持ちが落ち着いてくる。
ⅱ 指そらせ刺激35)
重い荷物を持ったり、書類を書いたり、演奏会に付随する雑務も手に力が入る原因になる。電 話の受話器を握る事も長時間となるとかなりの負担になったが、昨今では携帯電話やスマート フォンになり、便利さ故、使用頻度が上がり、より一層の細かい作業を伴って器機を握る時間 が格段に増加している。手指の筋肉が常に握る形で力が入って固まり、腕・肘・肩等の疲れを 呼び、首の凝り等から不安感を誘発するが、この方法で首や声帯周りの筋肉の緊張を緩和する 事により、安心感が得られる。手の平を下に向けて開き、反対の手で、小指・薬指・中指・人 差し指・親指の順に指をそらせる。親指だけは指を上に立て、指先を肘の方向に引く様に行う と良い。
ⅲ 水かき部分のマッサージ
ⅰ・ⅱと同様、本番前の、不安定な精神状態にある者に有効である。左手の親指を、右手の甲 側の小指と薬指の間の水かきに部分に当て、左手人差し指とで挟み押しもみする。五回程行っ たら、薬指と中指の間・中指と人差し指の間・人差し指と親指の間を同様に押しもみする。こ の項ⅰと同様の効果を期待出来る。ⅰ・ⅱ・ⅲ共に、右手・左手の順で行う。
② 腕
ⅰ 手の三里36)の刺激の刺激
手の三里は、肘を曲げ切った時に出来る皺の、親指側の先端から指幅三本分手首寄りにある。
反対の手の親指で押しもみをする。残りの指で腕を掴むようにするとやり易い。重い荷物を持っ たり、携帯やスマートフォンを使い過ぎたりして腕を酷使した時、緊張状態にあって手に力が 入った時に効果がある。次に挙げる、この項ⅱでも同様の効果を期待出来る。
ⅱ タイプライターのツボ37)の刺激
肘の皺の中心点と手の平側の手首の中心点を結んだ線上の中心点の部分にある。タイプライ
34) 鹿児島 2003: 48―49。
35) 原 1999: 39―40。
36) 青柳 1987: 148―150; 152、鹿児島 2003: 47、〔図 4〕。
37) 20 世紀初頭アメリカで発見された為同じ位置の郄門で示す(青柳 1987: 212)。〔図 5〕。
ターが発明され、それを打てる者が重宝された時期に、タイプライターを打つ者に発症・蔓延 した病状、すなわち、肩凝り・眩暈・吐き気・食欲不振・不眠症・精神不安定等の症状に効果 のあるツボとして発見された。経験値から申し上げると、ピアノの練習の後、パソコン器機や 携帯を長時間利用した後に効果がある。
ⅲ 内関38)の刺激
内関は、手首を曲げた時に出来る、手の平側の皺の中心点から、指幅三本から四本分肘寄りに ある。自律神経のバランスを整える働きがある。反対の手の親指の腹で押しもみする。交感神 経と副交感神経のスムーズな切り替えを促す故に、不安感、緊張時、本番の前日などに刺激を 行う事により、睡眠・食事を普段通りに取れるようになる。筆者も若い頃は、演奏会間近にな ると、眠れず・食べられずであったが、内観の刺激を知り、その実践の効果もあってか、普段 通りの生活リズムを守れるようになった。
③ 呼吸
筆者の親戚に、禅宗の僧が居り、独特の強い声で経を読み上げるのを子供の時分から聴いてい たのであるが、長い息配分と枯れずに続く声の秘密は何かと、自分なりに勉強・追求したとこ ろ、禅の修行の座禅における呼吸の極意は、臍下丹田と両踝4 4 4 4 4 4 4
にあるという言葉に巡り合うこと になる。粗食であっても呼吸さえしっかり出来ていれば、スタミナは保たれ修行に支障をきた さない、それ故、気持ちも精神も清浄で居られる39)、と知るに及んで、呼吸の大切さと素晴ら しさに魅了され、声楽家として、また指導者として、歌うという行為に不可欠の呼吸法を色々 と試して、精神作用の面からも効果がみられ、現在推奨している方法の一部を以下に提示する ものである。
ⅰ 仰臥による腹式呼吸40)
枕は使わずに仰向けに寝て、足を腰幅に広げて伸ばし、腕は両脇から 20 センチほど離して軽 く伸ばしておく。手の平を上に向けて軽く開いておく41)。ゆったりとした気持ちで軽く両眼を 閉じ、先ずはゆっくりと息を吐いて、次に臍の下、指幅凡そ五本分のところ辺りを膨らませる 様に、ゆっくり鼻から息を吸う42)。そのまま息を止め、五秒たったら口から十秒かけてゆっく り吐く。吸い込んだ時に目標にした場所を下から絞る様にしてこれを十回、雑念を捨て、なる べく無心で行う。
38) 青柳 1987: 212、西武治療室、〔図 5〕。
39) 原崎 1986: 18、Marafioti・魚住 1996: 55、永吉 1997: 32―39。
40) 樺島 1991: 52―53、税所 1988: 170―171。
41) 野口 2002: 119。
42) 西原 2008: 160―164。
ⅱ 坐した姿勢による腹式呼吸
両膝を直角に曲げた状態で、両足の裏が床面に接触出来る椅子に座り、背もたれには寄りかか らず背筋を伸ばして、顎が出ない様に姿勢を正し、両手は手の平を上向きにして軽く開いた状 態で両膝の上に置き、ゆったりとした気持ちで軽く両眼を閉じて、上述ⅰ項の要領で呼吸を十 回行う。この方法では、肩が上がらない様に、注意深く腹式呼吸を行う。
ⅲ 半跏趺座による腹式呼吸
あぐら座りから、右足の裏を上にして左太ももの上に載せる。この状態で、上述ⅱ項同様、両 手は手の平を上向きにして、軽く開いた状態で両膝の上に置く。ゆったりとした気持ちで、軽 く両目を閉じて、上述ⅰ項の要領で呼吸を十回行う。この方法でも、顎を引き、背筋を伸ばし て、注意深く腹式呼吸を行う様にする。続けて反対の足でも、同様に十回行う。お尻の下に座 布団を二枚折りにして座るとやり易い。
ⅳ 結跏趺坐による腹式呼吸43)
あぐら座りから、右足の足裏を上にして左太ももの上に載せ、そのまま左足の足裏を上にして 右太ももの上に載せる。いわゆる“座禅”の座り方である。これも、よく顎を引き、背筋をぴ んと伸ばして、左右十回ずつ行う。上述ⅲ項同様、座布団の二枚折りがやり易い。
以上この項で提示した四種類の呼吸法であるが、ⅰからⅳに向けて、困難さを増す。毎日行う事 により、ブレスの長さを保ち、フレーズをむらなく滑らかに歌う事が出来るようになる。また、無 心に行う事により、雑念を無くし、集中力を上げる事が出来るようになる。最初はⅰから始め、三 週間程で、ⅱに移行し、無理でなければ、ⅲ・ⅳにもトライするのが良い。しかし、ⅰとⅱ、又は どれか一つだけでも十分効果は感じられる。視野が明るくなり、頭と気持ちがすっきりする。
更に、ⅲとⅳを行うと、達成感とともに、足腰が軽くなり、歩き易くなる感じが得られる。呼吸 を無心で正しく行う事により、精神的・思考的に落ち着きが得られる。臍の下指五本辺りが、フイ ゴの様に滑らかに動く事による腹式呼吸を身につける為の試論であり、自らの実践経験上では、か なりの効果を感じている44)。
また、無心で
4 4 4
という事に矛盾するかもしれないが、吸気では新鮮な酸素が体内に沢山取り込まれ、
息を止めている間に取り込んだ酸素が身体じゅうに拡がり、呼気では身体じゅうの悪いものが全て 吐き出され元気になる、この様なイメージを持って行うのが良いと思われる。呼吸を整えるという 行為と、自らのこう在りたい4 4 4 4 4 4
という意思・イメージとを重ね合わせる作業を繰り返す事で、呼吸を する事により得られるリラックス状態が、自己実現のイメージをリンクさせられるようになれる45)
のではないかと考えるものである。
43) 原崎 1986: 44―45。
44) 原崎 1986: 18―53。
45) 塩谷 1998: 241―245。
3)重心の位置確認
人間は、ほとんどが左足に重心があると述べたが、そうでない例外の人も居る。気を付けの姿 勢から一歩前に踏み出した時に後ろにある足が重心のある足である。
4)骨格の位置確認
舞台で歌うに当たり、最善の声を提供出来る為にあるべき発声を支える身体であるが、懸命に 歌っている本人には、鏡を見せても、ヴィデオに取って見せてもなかなか治せない癖がある。
特に、多くみられるのは、顎の位置、胸すなわち肋骨の位置、腰の向き、である。
第 4 章 まとめ
脳が感知している密かな情報を知り、必要と感じている手入れを探り出し実践する事で、人間は 自己治癒能力を有効に発揮し易くなるものと考えられる。実際に触れる事の出来る部分を刺激する 事で、その調整をなす事が可能であれば、声楽という分野のように、普通では手が届かず、器機を 使わずしては観る事の出来ない場所にある、声帯という楽器の主体部分や、共鳴空である鼻腔を自 ら調整出来得るのではないか? という探求心に基づき、それに付随した、より良き発声を支える 為の身体的メンテナンス法をも見出そうとする中で、現段階までに得た方法論の内から、基礎的な ものを、なるべく解り易く提示したものが本論である。
ここに挙げた以外にも効果的な方法論を得ているが、文字数の制限上、論じきれなかった本論中 の 3)重心の位置確認と、4)骨格の位置確認の項は、巻末に挙げた、文献にはなっていないけれ ども、実際の治療の場で見聞きして得た、興味深い知識の紹介と共に、別の機会に改めて詳しく述 べる事とする。本論は、今後、これらの方法論がもたらす効果の原因・理由を探索・究明し、更に はそれらを理論的に組み合わせる事で、声楽家の抱える諸問題をクリアするに値するメンテナンス 法を開拓・整理し、体系化して行く作業の為の、序章的試論として、位置づけるものである。
■参考文献■
●音楽関係書
〔和文献〕
・鹿児島達也 2003 『ボイスマッサージトレーニング』東京:サーベル社。
・加藤友康 1989 『ボイス&ボディートレーニング∼声の魅力が 10 倍アップ』東京:桐書房。
・永吉大三 1977 『新しい視点による発声法の理論と技法』東京:音楽之友社。
・森山俊雄 1963 『発声と共鳴の原理』東京:音楽之友社。
〔欧文献〕
・Enrico Caruso, Luisa Tetrazzini 1909. On the art of singing.(川口豊訳 1995 『カルーゾとテトラ ツィーニの歌唱法』東京:シンフォニア)。
・Mario Marafioti 1922. Caruso’s method of voice production; the scientific culture of the voice.(魚住幸代 訳 1996 『カルーソー発声の秘密』東京:東亜音楽社)。
・Emmie Sittner 1968. Wege zum Kunstgesang.(林達次訳 1982 『芸術歌唱のための発声法』東京:
音楽之友社)。
〔身体に関する書〕
・青柳修道 1987 『かんたんツボ図鑑―川柳ですらすらわかる』東京:主婦の友社。
・樺島勝徳 『あなたの健康に役立つ 和尚さんの手の話』京都:山口青旭堂。
・税所弘 1988 『自律神経失調症は必ず良くなる』東京:リヨン社。
・高橋永寿 1986 『足のツボ健康法』東京:廣済堂。
・野口晴哉 2002 『整体入門』東京:筑摩書房。
・林茂美・林誠 1990 『らくらく気功健康法―だれにでも手軽にできて効果抜群!』東京:永岡 書店。
・春山茂雄 1995 『脳内革命』東京:サンマーク出版。
・春山茂雄 1996 『脳内革命 2』東京:サンマーク出版。
・府川憲明・前田均 1993 『ツボ健康法―見て簡単やって特効』東京:梧桐書院。
〔呼吸に関する書〕
・塩谷信夫 1998 『自在力』東京:サンマーク出版。
・西原克成 2008 『「呼吸力」で病気に強くなる―「免疫力」でみるみる高まる習慣術』東京:イー スト・プレス。
・原久子 1999 『自分の思いを実現する瞑想呼吸法』東京:日本実業出版社。
・原崎勇次 1986 『医者いらず呼吸法―いい息をするとみるみる体調がよくなる』東京:徳間書店。
※著書になってはいないが、実際の治療の場で見聞きして知った事柄を、その体験場所と共に記す。
・内村内科 アレルギーは根気良く 等
・小林鍼灸院 首の筋肉・膝の筋肉の手入れ、身体全体のバランス 等
・西部治療室 骨格全体のバランスは下から積み上がる 等
・かみ薬局 新薬に近い効能の漢方、血液・リンパ・気の廻り 等
・宮入医院 身体全体のバランス 等
謝辞
要旨の英訳で、多大なるご協力を賜りました、Peter Marsh 氏、常田景子様ご夫妻に、心より感 謝申し上げます。
付録 ツボ図解 図 1
神庭
図 2 図 3
図 4 図 5 図 6
図 7 図 8 図 9
風池
印堂
迎香
水溝 素
合谷 門
外関 内関 曲池
手の三里
天突
中府
承山 足の三里
陽陵泉 風市
A Proposal for “Conditioning the Body to Sing”, based on Empirical Knowledge
Minoru KAMOSHITA
This article is based on the concept that, as the brain senses every part of the body, if it is properly stimulated, the body will in turn function properly. It aims to explore the methods by which such stimulation can be achieved. By practising these methods, performers will be able not only to enhance their natural healing power and build up and maintain their body for peak performance, but also to find effective ways of mending bodily damage for themselves.
As a young child, I was physically weak. I also suffered the effects of an undiagnosed broken fibula in my right leg. From the various medical treatments I received, I learned several effective methods for improving my singing through bodily stimulation. Here I present, as a self-help guide for vocal music students, the methods I have found effective when practised upon both myself and my students.
Although the vocal cords are invisible from outside the body, it is established that one can estimate their length from the length of a rib. This allows one to estimate the vocal cord length, or voice quality, of a music beginner. I mention this fact as it exemplifies the mysterious features of the human body.
During the time that I was unaware of my broken right fibula, I experienced dizziness whenever I bore weight on the injured part. I believe this was because my unconscious brain sensed that the balance of my body was distorted, and sent me a conscious signal. In this article, I shall refer to many more examples similar to this one, and show how one can identify the optimal treatment for each subject’s condition by observing distinctive features (in, for example, posture or movement) of their body.
Below are some suggestions for practice. First, for the resonance of Maschera, effective treatments are as follows:
1) to clear a stuffy nasal cavity, stimulate ① pressure point Fuuchi ② pressure points on the face ③ pressure point Gaikan ④ pressure point Goukoku.
2) to ease undue tension of tongue, stimulate ① around the salivary gland ② centre of the lower jaw ③ whole tongue including its root by stretching.
3)to treat unpleasant feelings in the trachea, stimulate the pressure point Tentotsu.
4) to treat unpleasant feelings in the lungs (including coughing), stimulate ① the root of the thumb ② below the lower rim of the collarbones.
5)to remedy stooping, ① stretching exercise to make ribs and diaphragm work together.
6)to relieve the feeling that something is wrong with the vocal cords:
when caused by excessive talking, stimulate ① pads of fingers and toes ② pressure point Goukoku;
when caused by prolonged standing, tiredness after exercise, or too little vocal exercise, ① massage and stimulate the pressure point around ankles ② rub upward the inside of legs ③ rub downward the outside of legs.
Next, for adjusting one’s state of mind, effective methods are:
1)hands: ① stimulate fingertips ② bend fingers outward.
2)arms: ① stimulate pressure point Sanri ② stimulate pressure point Naikan.
3) breathing: ① abdominal respiration in semi-lotus position ② abdominal respiration in lotus position ③ abdominal respiration equivalent to those.
It is also important to check one’s centre of balance and bone positions.
None of the above is medical in nature, but I have consulted many texts and taken advice from authorities in various fields. Moreover, I have myself tried all of these procedures and found them to be effective. Now, I practise them routinely according to the situation in which I find myself. This article aims to explore possible reasons for their effectiveness, to document them as concretely and as scrupulously as possible, and to establish a basic study upon which more systematic and thorough-going studies may be based in the future.
経験値から探る「歌う為の身体とメンテナンス」についての試案
加茂下 稔
本論文の主旨は、「脳は身体を感知しており、正しい刺激を与えれば、正しく機能する」という 事から発し、その為の方法を探り、実施する事で自然治癒力を高め、演奏家としての健康体を構築・
保持すると共に、メンテナンスの仕方を見出そうとするものである。
筆者が、幼少期に身体が弱かった事、知らぬ間に患っていた右足の緋骨骨折の影響などから、様々 な治療を受ける中で得た、歌う為の身体の調整法を、自らが試みて良かったもの、指導に用いて効 果のあったものを挙げ、声楽を学ぶ学生の為の自己管理の一指針として提示しようとするものであ る。
目に見えない声帯の長さを、肋骨の長さから推定出来る事がわかっており、この方法で、声楽を 志す初期の生徒の声帯の長さ=声質を探る目安と出来る。この事は、身体の比率の妙として取り上 げた。また、筆者の認識外の緋骨骨折時に、患部に重心がかかると眩暈症状が発症したのは、脳が 密かに身体のバランスを察しており、不具合の信号を発していたものと考えられる。上述した事例 は、筆者の経験のほんの一部であるが、本論では、他の経験をも参考に、歌い手一人一人の身体的 特徴(身体の歪みや癖)を観察し、以下の様な項目の効果をもとに、それぞれの症状に適している であろう身体の手入れの仕方を見出そうとするものである。(以下、ツボについては本論及び巻末 付録ツボ図解を御参照下さい。)
実践提案として、まず、Maschera の共鳴の為に、1.鼻腔のつまりの改善には ①風池 ②顔の ツボ ③外関 ④合谷等の刺激 2.舌…余分な力を抜くには ①唾液腺付近 ②下顎中心部等の 刺激 ③舌根を含む舌全体の為の刺激 3.気管の不快感の改善には、天突等の刺激 4.肺の不快 感(咳等)の改善には ①親指付け根部分 ②鎖骨、両端下あたりの刺激 5.猫背の改善には ① 肋骨と横隔膜の連動のためのストレッチ 6.声帯の違和感の改善には、〈話し過ぎ等が原因の場 合〉 ①手足の指の先の腹 ②合谷の刺激 〈立ち通し、運動後、(練習不足)等が原因の場合〉 ①
足首の手入れ ②足の内側の撫で上げ ③足の外側の撫で下げ等が効果的である。次に、メンタル 面の調整としては、1.手では、①指先 ②指そらせ等の刺激、2.腕では、①三里 ②内関等の刺 激、3.呼吸では、①半跏趺坐による腹式呼吸 ②結跏趺坐による腹式呼吸 ③これに準ずる腹式 呼吸が効果的である。この他、重心の位置確認や、骨格の位置確認等も効果的である。
以上は皆、医療行為ではないが、筆者自身が経験したものであり、また、多数の文献や、様々な 分野で御活躍の方々からのアドヴァイスを、実際に筆者自らが試して効果があったもので、現在で も状況に合わせ実践しているものである。本論文は、それにより得られる効果を、この先その理由 を探求し、出来うる限り具体的かつ丁寧に論じ、今後更に、細かく丁寧に体系化して行く為の基礎 研究としての位置付けとなすものである。